新世帯
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著者名:徳田秋声 

新世帯徳田秋声     一 新吉(しんきち)がお作(さく)を迎えたのは、新吉が二十五、お作が二十の時、今からちょうど四年前の冬であった。 十四の時豪商の立志伝や何かで、少年の過敏な頭脳(あたま)を刺戟(しげき)され、東京へ飛び出してから十一年間、新川(しんかわ)の酒問屋で、傍目(わきめ)もふらず滅茶苦茶(めっちゃくちゃ)に働いた。表町(おもてちょう)で小さい家(いえ)を借りて、酒に醤油(しょうゆ)、薪(まき)に炭、塩などの新店を出した時も、飯喰(く)う隙(ひま)が惜しいくらい、クルクルと働き詰めでいた。始終襷(たすき)がけの足袋跣(たびはだし)のままで、店頭(みせさき)に腰かけて、モクモクと気忙(きぜわ)しそうに飯を掻(か)ッ込んでいた。 新吉はちょっといい縹致(きりょう)である。面長(おもなが)の色白で、鼻筋の通った、口元の優しい男である。ビジネスカットとかいうのに刈り込んで、襟(えり)の深い毛糸のシャツを着て、前垂(まえだれ)がけで立ち働いている姿にすら、どことなく品があった。雪の深い水の清い山国育ちということが、皮膚の色沢(いろつや)の優(すぐ)れて美しいのでも解る。 お作を周旋したのは、同じ酒屋仲間の和泉屋(いずみや)という男であった。「内儀(かみ)さんを一人世話しましょう。いいのがありますぜ。」と和泉屋は、新吉の店がどうか成り立ちそうだという目論見(もくろみ)のついた時分に口を切った。 新吉はすぐには話に乗らなかった。「まだ海のものとも山のものとも知れねいんだからね。これなら大丈夫屋台骨が張って行けるという見越しがつかんことにゃ、私(あっし)ア不安心で、とても嚊(かかあ)など持つ気になれやしない。嚊アを持ちゃ、子供が生れるものと覚悟せんけアなんねえしね。」とその淋(さび)しい顔に、不安らしい笑(え)みを浮べた。 けれども新吉は、その必要は感じていた。注文取りに歩いている時でも、洗湯(せんとう)へ行っている間でも、小僧ばかりでは片時も安心が出来なかった。帳合いや、三度三度の飯も、自分の手と頭とを使わなければならなかった。新吉は、内儀(かみ)さんを貰(もら)うと貰わないとの経済上の得失などを、深く綿密に考えていた。一々算盤珠(そろばんだま)を弾(はじ)いて、口が一つ殖(ふ)えればどう、二年経(た)って子供が一人産(うま)れればどうなるということまで、出来るだけ詳しく積って見た。一年の店の利益、貯金の額、利子なども最少額に見積って、間違いのないところを、ほぼ見極(みきわ)めをつけて、幾年目にどれだけの資本(もと)が出来るという勘定をすることぐらい、新吉にとって興味のある仕事はなかった。 三月ばかり、内儀さんの問題で、頭脳(あたま)を悩ましていたが、やっぱり貰わずにはいられなかった。 お作はそのころ本郷西片町(ほんごうにしかたまち)の、ある官吏の屋敷に奉公していた。 産れは八王子のずっと手前の、ある小さい町で、叔父(おじ)が伝通院(でんずういん)前にかなりな鰹節屋(かつぶしや)を出していた。新吉は、ある日わざわざ汽車で乗り出して女の産(うま)れ在所(ざいしょ)へ身元調べに行った。     二 お作の宅(うち)は、その町のかなり大きな荒物屋であった。鍋(なべ)、桶(おけ)、瀬戸物、シャボン、塵紙(ちりがみ)、草履(ぞうり)といった物をコテコテとならべて、老舗(しにせ)と見えて、黝(くろず)んだ太い柱がツルツルと光っていた。 新吉はすぐ近所の、怪しげな暗い飲食店へ飛び込んで、チビチビと酒を呑(の)みながら、女を捉(とら)えて、荒物屋の身上(しんしょう)、家族の人柄、土地の風評などを、抜け目なく訊(き)き糺(ただ)した。女は油くさい島田の首を突き出しては、酌(しゃく)をしていたが、知っているだけのことは話してくれた。田地が少しばかりに、小さい物置同様の、倉のあることも話した。兄が百姓をしていて、弟(おとと)が土地で養子に行っていることも話した。養蚕時(ようさんどき)には養蚕もするし、そっちこっちへ金の時貸しなどをしていることも弁(しゃべ)った。 新吉自身の家柄との権衡(けんこう)から言えば、あまりドッとした縁辺(えんぺん)でもなかった。新吉の家(うち)は、今はすっかり零落しているけれど、村では筋目正しい家(いえ)の一ツであった。新吉は七、八歳までは、お坊(ぼッ)ちゃんで育った。親戚(しんせき)にも家柄の家(うち)がたくさんある。物は亡(な)くしても、家の格はさまで低くなかった。 けれど、新吉はそんなことにはあまり頓着(とんちゃく)もしなかった。自分の今の分際では、それで十分だと考えた。 そのことを、同じ村から出ている友達に相談してから、新吉はようやく談(はなし)を進めた。見合いは近間の寄席(よせ)ですることにした。新吉はその友達と一緒に、和泉屋に連れられて、不断着のままでヒョコヒョコと出かけた。お作は薄ッぺらな小紋縮緬(こもんちりめん)のような白ッぽい羽織のうえに、ショールを着て、叔父と田舎(いなか)から出ている兄との真中に、少し顔を斜(はす)にして坐っていた。叔父は毛むくじゃらのような顔をして、古い二重廻しを着ていた。兄は菱(ひし)なりのような顔の口の大きい男で、これも綿ネルのシャツなど着て、土くさい様子をしていた。横向きであったので、新吉は女の顔をよく見得なかった。色の白い、丸ぽちゃだということだけは解った。お作は人の肩越しに、ちょいちょい新吉の方へ目を忍ばせていたが、新吉は胸がワクワクして、頭脳(あたま)が酔ったようになっていた。 寄席を出るとき、新吉は出てゆくお作の姿をチラリと見た。お作も振り顧(かえ)って、正面から男の立ち姿を二、三度熟視した。お作は小柄の女で、歩く様子などは、坐っているよりもいくらかいいように思われた。 そこを出ると、和泉屋は不恰好(ぶかっこう)な長い二重廻しの袖(そで)をヒラヒラさせて、一足(ひとあし)先にお作の仲間と一緒に帰った。「どうだい、どんな女だい。」と新吉はそっと友達に訊いた。 何だか頭脳(あたま)がボッとしていた。叔父や兄貴の百姓百姓した風体(ふうてい)が、何となく気にかかった。でも厭(いや)でたまらぬというほどでもなかった。     三 明日(あす)は朝早く、小僧を注文取りに出して、自分は店頭(みせさき)でせっせと樽(たる)を滌(すす)いでいると、まだ日影の薄ら寒い街を、せかせかとこっちへやって来る男がある。柳原ものの、薄ッぺらな、例の二重廻しを着込んだ和泉屋である。 和泉屋は、羅紗(ラシャ)の硬(こわ)そうな中折帽を脱ぐと、軽く挨拶(あいさつ)して、そのまま店頭(みせさき)へ腰かけ、気忙しそうに帯から莨入(たばこい)れを抜いて莨を吸い出した。 「君の評判は大したもんですぜ。」と和泉屋は突如(だしぬけ)に高声(たかごえ)で弁(しゃべ)り出した。「先方(さき)じゃもうすっかり気に入っちゃって、何が何でも一緒にしたいと言うんです。」「冷評(ひやか)しちゃいけませんよ。」と新吉はやっぱりザクザクやっている。気が気でないような心持もした。「いやまったくですよ。」と和泉屋は反(そ)り身になって、「それで話は早い方がいいからッってんで、今日にでも日取りを決めてくれろと言うんですがね、どうです、女も決して悪いて方じゃないでしょう。」と和泉屋は、それから女の身上持ちのいいこと、気立ての優しいことなどをベラベラと説き立てた。星廻りや相性のことなども弁じて、独(ひと)りで呑み込んでいた。支度(したく)はもとよりあろうはずはないけれど、それでもよかれ悪(あ)しかれ、箪笥(たんす)の一棹(さお)ぐらいは持って来るだろう。夜具も一組は持ち込むだろう。とにかく貰って見給え、同じ働くにも、どんなに張合いがあって面白いか。あの女なら請け合って桝新(ますしん)のお釜(かま)を興しますと、小汚(こぎたな)い歯齦(はぐき)に泡(あわ)を溜(た)めて説き勧めた。 新吉は帳場格子の前のところに腰かけて、何やらもの足りなそうな顔をして聴(き)いていたが、「じゃ貰おうかね。」と首を傾(かし)げながら低声(こごえ)に言った。「だが、来て見て、びっくりするだろうな。何ぼ何でも、まさかこんな乱暴な宅(うち)だとは思うまい。けど、まあいいや、君に任しておくとしましょう。逃げ出されたら逃げ出された時のことだ。」「そんなもんじゃありませんよ。物は試(ため)し、まあ貰って御覧なさい。」 和泉屋はほくほくもので帰って行った。 それから七日ばかり経ったある晩、新吉の宅(うち)には、いろいろの人が多勢集まった。前(ぜん)の朋輩が二人、小野という例の友達が一人――これはことに朝から詰めかけて、部屋の装飾(かざり)や、今夜の料理の指揮(さしず)などしてくれた。障子を張り替えたり、どこからか安い懸け物を買って来てくれなどした。新吉の着るような斜子(ななこ)の羽織と、何やらクタクタの袴(はかま)を借りて来てくれたのも小野である。小さい口銭(コンミッション)取(と)りなどして、小才の利(き)く、世話好きの男である。 料理の見積りをこの男がしてくれた時、新吉は優しい顔を顰(しか)めた。「どうも困るな、こんな取着(とりつ)き身上(しんしょう)で、そんな贅沢(ぜいたく)な真似(まね)なんかされちゃ……。何だか知んねえが、その引物(ひきもの)とかいう物を廃(よ)そうじゃねえか。」     四 小野は怒りもしない。愛嬌(あいきょう)のある丸顔に笑(え)みを漂(うか)べて、「そう吝(けち)なことを言いなさんな。一生に一度じゃないか。こんな物を倹約したからって、何ほども違うものじゃありゃしない。第一見すぼらしくていけないよ。」「でも君、私(あっし)アまったくのところ酷工面(ひどくめん)して婚礼するんだからね。何も苦しい思いをして、虚栄(みえ)を張る必要もなかろうじゃねいか。ね、小野君私(あっし)アそういう主義なんだぜ。君らのように懐手(ふところで)していい銭儲(ぜにもう)けの出来る人たア少し違うんだからね。」「理窟(りくつ)は理窟さ。」と小野は笑顔(えがお)を放さず、「他(ほか)の場合と異(ちが)うんだから、少しは世間体ていうことを考えなくちゃ……。いいじゃないか、後でミッチリ二人で稼(かせ)げば。」 新吉は黒い指頭(ゆびさき)に、臭い莨を摘(つま)んで、真鍮(しんちゅう)の煙管(きせる)に詰めて、炭の粉を埋(い)けた鉄瓶(てつびん)の下で火を点(つ)けると、思案深い目容(めつき)をして、濃い煙を噴(ふ)いていた。 六畳の部屋には、もう総桐(そうぎり)の箪笥が一棹据(す)えられてある。新しい鏡台もその上に載せてあった。借りて来た火鉢(ひばち)、黄縞(きじま)の座蒲団(ざぶとん)などが、赭(あか)い畳の上に積んであった。ちょうど昼飯を済ましたばかりのところで、耳の遠い傭(やと)い婆さんが台所でその後始末をしていた。 新吉はまだ何やらクドクド言っていた。小野の見積り書きを手に取っては、独りで胸算用をしていた。ここへ店を出してから食う物も食わずに、少しずつ溜めた金がもう三、四十もある。それをこの際あらかた噴(は)き出してしまわねばならぬというのは、新吉にとってちょっと苦痛であった。新吉はこうした大業な式を挙げるつもりはなかった。そっと輿入(こしい)れをして、そっと儀式を済ますはずであった。あながち金が惜しいばかりではない。一体が、目に立つように晴れ晴れしいことや、華(はな)やかなことが、質素(じみ)な新吉の性に適(あ)わなかった。人の知らないところで働いて、人に見つからないところで金を溜めたいという風であった。どれだけ金を儲けて、どれだけ貯金がしてあるということを、人に気取られるのが、すでにいい心持ではなかった。独立心というような、個人主義というような、妙な偏(かたよ)った一種の考えが、丁稚(でっち)奉公をしてからこのかた彼の頭脳(あたま)に強く染(し)み込んでいた。小野の干渉は、彼にとっては、あまり心持よくなかった。と言って、この男がなくては、この場合、彼はほとんど手が出なかった。グズグズ言いながら、きっぱり反抗することも出来なかった。 三時過ぎになると、彼は床屋に行って、それから湯に入った。帰って来ると、家はもう明りが点(つ)いていた。 新吉は、「アア。」と言って、長火鉢の前に坐った。小野は自分の花嫁でも来るような晴れ晴れしい顔をして、「どうだ新さん待ち遠しいだろう。茶でも淹(い)れようか。」「莫迦(ばか)言いたまえ。」新吉は淋しい笑い方をした。     五 するうち綺麗(きれい)に磨(みが)き立てられた台ランプが二台、狭苦しい座敷に点(とも)され、火鉢や座蒲団もきちんとならべられた。小さい島台や、銚子(ちょうし)、盃(さかずき)なども、いつの間にか、浅い床に据えられた。台所から、料理が持ち込まれると、耳の遠い婆さんが、やがて一々叮寧(ていねい)に拭いた膳(ぜん)の上に並べて、それから見事な蝦(えび)や蛤(はまぐり)を盛った、竹の色の青々した引物の籠(かご)をも、ズラリと茶の室(ま)へならべた。小野は新聞紙を引き裂いては、埃(ほこり)の被(かぶ)らぬように、御馳走(ごちそう)の上に被せて行(ある)いていた。新吉は気がそわそわして来た。切立ての銘撰(めいせん)の小袖を着込んで、目眩(まぶ)しいような目容(めつき)で、あっちへ行って立ったり、こっちへ来て坐ったりしていた。「サア、これでこっちの用意はすっかり出来揚(あが)った。何時(なんどき)おいでなすってもさしつかえないんだ。マア一服しよう。」と蜻蛉(とんぼ)の眼顆(めだま)のように頭を光らせながら、小野は座敷の真中に坐った。「イヤ御苦労御苦労。」と新吉もほかの二人と一緒に傍(そば)に坐って、頭を掻きながら、「私(あっし)アどうも、こんなことにゃ一向慣れねえもんだからね……。」といいわけしていた。「なあに、僕だって、何を知ってるもんか、でたらめさ。」と笑った。「今夜はマア疲れ直しに大いに飲んでくれ給え。君が第一のお客様なんだからね。」 新吉はこの晴れ晴れしい席に、親戚(みより)の者と言っては、ただの一人もないのを、何だか頼りなくも思った。どうかこうかここまで漕(こ)ぎつけて来た、長い年月(としつき)の苦労を思うと、迂廻(うねり)くねった小径(こみち)をいろいろに歩いて、広い大道へ出て来たようで、昨日(きのう)までのことが、夢のように思われた。これからが責任が重いんだという感激もあった。明るい、神々しいような燈火(ともしび)が、風もないのに眼先に揺(ゆら)いで、新吉の眼には涙が浮んで来た。花のような自分の新妻(にいづま)が、不思議の縁の糸に引かれて、天上からでも降りて来るような感じもあった。「しかしもう来そうなものだね。」と小野は膝(ひざ)のうえで見ていた新聞紙から目を離して、「ひどく思わせぶりだな。」と生あくびをした。「そうですね。」「けど、まだ暮れたばかりですもの。」と他(ほか)の二人も目を見合わせて、伸び上って、店口を覗(のぞ)いた。店は入口だけ残して、後は閉めきってある。小僧は火の気のない帳場格子の傍(わき)に坐って、懐手をしながら、コクリコクリ居睡(いねむ)りをしていた。時計がちょうど七時を打った。 小野と新吉とが、間もなく羽織袴を着けて坐り直した時分に、静かな宵(よい)の町をゴロゴロと腕車(くるま)の響きが、遠くから聞え出した。「ソラ来た!」 小野は新吉と顔を見合って起(た)ち上った。他の両人(ふたり)も新吉も何ということなし起ち上った。 新開の暗い街を、鈍(のろ)く曳(ひ)いて来る腕車(くるま)の音は、何となく物々しかった。 四人は店口に肩をならべ合って、暗い外を見透(みすか)していた。向うの塩煎餅屋(しおせんべいや)の軒明りが、暗い広い街の片側に淋しい光を投げていた。     六 新吉が胸をワクワクさせている間に、五台の腕車が、店先で梶棒(かじぼう)を卸(おろ)した。真先に飛び降りたのは、足の先ばかり白い和泉屋であった。続いて降りたのが、丸髷頭(まるまげあたま)の短い首を据えて、何やら淡色(うすいろ)の紋附を着た和泉屋の内儀(かみ)さんであった。三番目に見栄(みば)えのしない小躯(こがら)のお作が、ひょッこりと降りると、その後から、叔父の連合いだという四十ばかりの女が、黒い吾妻(あずま)コートを着て、「ハイ、御苦労さま。」と軽い東京弁で、若い衆(しゅ)に声かけながら降りた。兄貴は黒い鍔広(つばびろ)の中折帽を冠(かぶ)って、殿(しんがり)をしていた。 和泉屋は小野と二人で、一同を席へ就かせた。 気爽(きさく)らしい叔母はちょッと垢脱(あかぬ)けのした女であった。眉(まゆ)の薄い目尻(めじり)の下った、ボチャボチャした色白の顔で、愛嬌のある口元から金歯の光が洩(も)れていた。「ハイ、これは初めまして……私(わたくし)はこれの叔父の家内でございまして、実はこれのお袋があいにく二、三日加減が悪いとか申しまして、それで今日は私が出ましたようなわけで、どうかまあ何分よろしく……。このたびはまた不束(ふつつか)な者を差し上げまして……。」とだらだらと叔母が口誼(こうぎ)を述べると、続いて兄もキュウクツ張った調子で挨拶を済ました。 後はしばらく森(しん)として、蒼(あお)い莨(たばこ)の煙が、人々の目の前を漂うた。正面の右に坐った新吉は、テラテラした頭に血の気の美しい顔、目のうちにも優しい潤(うる)みをもって、腕組みしたまま、堅くなっていた。お作は薄化粧した顔をボッと紅(あか)くして、うつむいていた。坐った膝も詰り、肩や胸のあたりもスッとした方ではなかった。結立ての島田や櫛笄(くしこうがい)も、ひしゃげたような頭には何だか、持って来て載せたようにも見えた。でも、取り澄ました気振りは少しも見えず、折々表情のない目を挙(あ)げて、どこを見るともなく瞶(みつ)めると、目眩(まぶ)しそうにまた伏せていた。 和泉屋と小野は、袴をシュッシュッ言わせながら、狭い座敷を出たり入ったりしていたが、するうち銚子や盃が運ばれて、手軽な三々九度の儀式が済むと、赤い盃が二側(ふたかわ)に居並んだ人々の手へ順々に廻された。「おめでとう。」という声と一緒に、多勢が一斉にお辞儀をし合った。 新吉とお作の顔は、一様に熱(ほて)って、目が美しく輝いていた。     七 盃が一順廻った時分に、小野がどこからか引っ張って来た若い謡謳(うたうた)いが、末座に坐って、いきなり突拍子な大声を張り揚げて、高砂(たかさご)を謳い出した。同時にお作が次の間へ着換えに起って、人々の前には膳が運ばれ、陽気な笑い声や、話し声が一時に入り乱れて、猪口(ちょく)が盛んにそちこちへ飛んだ。「サア、お役は済んだ。これから飲むんだ。」和泉屋が言い出した。 新吉も席を離れて、「私(あっし)のとこもまだ真(ほん)の取着(とっつ)き身上(しんしょう)で、御馳走と言っちゃ何もありませんが、酒だけアたくさんありますから、どうかマア御ゆっくり。」「イヤなかなか御丁重な御馳走で……。」と兄貴は大きい掌(てのひら)に猪口を載せて、莫迦叮寧なお辞儀をして、新吉に差した。「私(わたし)は田舎者で、何にも知らねえもんでござえますが、何分どうぞよろしく。」「イヤ私(あっし)こそ。」と新吉は押し戴(いただ)いて、「何(なん)しろまだ世帯を持ったばかりでして……それに私アこっちには親戚(みより)と言っては一人もねえもんですから、これでなかなか心細いです。マア一つ皆さんのお心添えで、一人前の商人になるまでは、真黒になって稼ぐつもりです。」「とんでもないこって……。」と兄貴は返盃(へんぱい)を両手に受け取って、「こちとらと違えまして、伎倆(はたらき)がおありなさるから……。」「オイ新さん、そう銭儲(ぜにもう)けの話ばかりしていねえで、ちょっとお飲(や)りよ。」と小野は向う側から高調子で声かけた。 新吉は罰(ばつ)が悪そうに振り顧(む)いて、淋しい顔に笑(え)みを浮べた。「笑談(じょうだん)じゃねえ。明日から頭数が一人殖えるんだ。うっかりしちゃいらんねえ。」と低声(こごえ)で言った。「イヤ、世帯持ちはその心がけが肝腎です。」と和泉屋は、叔母とシミジミ何やら、談(はな)していたが、この時口を容(い)れた。「ここの家へ来た嫁さんは何しろ幸(しあわ)せですよ。男ッぷりはよし、伎倆(はたらき)はあるしね。」「そうでございますとも。」と叔母は楊枝(ようじ)で金歯を弄(せせ)りながら、愛想笑いをした。「これでお内儀さんを可愛がれア申し分なしだ。」と誰やらが混(ま)ぜッ交(かえ)した。 銚子が後から後からと運ばれた。話し声がいよいよ高調子になって、狭い座敷には、酒の香と莨(たばこ)の煙とが、一杯に漂うた。「花嫁さんはどうしたどうした。」と誰やらが不平そうに喚(わめ)いた。 和泉屋が次の間へ行って見た。お作は何やら糸織りの小袖に着換えて、派手な花簪(はなかんざし)を挿(さ)し、長火鉢の前に、灯影(ひかげ)に背(そむ)いて、うつむいたままぽつねんと坐っていた。「サアお作さん、あすこへ出てお酌しなけアいけない。」 お作は顔を赧(あか)らめ、締りのない口元に皺(しわ)を寄せて笑った。     八 小野が少し食べ酔って管を捲(ま)いたくらいで、九時過ぎに一同無事に引き揚げた。叔母と兄貴とは、紛擾(ごたごた)のなかで、長たらしく挨拶していたが、出る時兄貴の足はふらついていた。新吉側の友人は、ひとしきり飲み直してから暇(いとま)を告げた。「アア、人の婚礼でああ騒ぐ奴(やつ)の気が知れねえ。」というように、新吉は酔(え)いの退(ひ)いた蒼い顔をしてグッタリと床に就いた。 明朝(あした)目を覚ますと、お作はもう起きていた。枕頭(まくらもと)には綺麗に火入れの灰を均(なら)した莨盆と、折り目の崩(くず)れぬ新聞が置いてあった。暁からやや雨が降ったと見えて、軽い雨滴(あまだれ)の音が、眠りを貪(むさぼ)った頭に心持よく聞えた。豆屋の鈴の音も湿り気を含んでいた。 何だか今朝から不時な荷物を背負わされたような心持もするが、店を持った時も同じ不安のあったことを思うと、ただ先が少し暗いばかりで、暗い中にも光明はあった。床を離れて茶の間へ出ようとすると、ひょっこりお作と出会った。お作は瓦斯糸織(ガスいとお)りの不断着に赤い襷(たすき)をかけて、顔は下手につけた白粉(おしろい)が斑(まだら)づくっていた。「オヤ。」と言って赤い顔をうつむいてしまったが、新吉はにっこりともしないで、そのまま店へ出た。店には近所の貧乏町から女の子供が一人、赤子を負(おぶ)った四十ばかりの萎(しな)びた爺(おやじ)が一人、炭や味噌(みそ)を買いに来ていた。 新吉は小僧と一緒に、打って変った愛想のよい顔をして元気よく商(あきな)いをした。 朝飯の時、初めてお作の顔を熟視することが出来た。狭い食卓に、昨夜(ゆうべ)の残りの御馳走などをならべて、差し向いで箸(はし)を取ったが、お作は折々目をあげて新吉の顔を見た。新吉も飯を盛る横顔をじっと瞶(みつ)めた。寸法の詰った丸味のある、鼻の小さい顔で額も迫っていた。指節(ゆびふし)の短い手に何やら石入りの指環(ゆびわ)を嵌(は)めていた。飯が済むと、新吉は急に気忙しそうな様子で、二、三服莨を吸っていたが、やがて台所口で飯を食っている傭い婆さんに大声で口を利き出した。「婆さん、この間から話しておいたようなわけなんだから、私(あっし)のところはもういいよ。婆さんの都合で、暇を取るのはいつでもかまわねえから……。」 婆さんは味噌汁の椀(わん)を下に置くと、「ハイハイ。」と二度ばかり頷(うなず)いた。「でも今日はまあ、何や彼や後片づけもございますし、あなたもおいでになった早々から水弄(みずいじ)りも何でしょうからね……。」とお作に笑顔を向けた。「己(おれ)ンとこアそんなこと言ってる身分じゃねえ。今日からでも働いてもらわなけれアなんねえ。」と新吉は愛想もなく言った。「ハアどうぞ!」とお作は低声(こごえ)で言った。「オイ増蔵(ますぞう)、何をぼんやり見ているんだ。サッサと飯を食っちまいねえ。」と新吉はプイと起った。     九 午前のうち、新吉は二、三度外へ出てはせかせかと帰って来た。小僧と同じように塩や、木端(こっぱ)を得意先へ配って歩いた。岡持(おかもち)を肩へかけて、少しばかりの醤油(しょうゆ)や酒をも持ち廻った。店が空(あ)きそうになると、「ちょッしようがないな。」と舌打ちして奥を見込み、「オイ、店が空くから出ていてくんな。」とお作に声をかけた。お作は顔や頭髪(あたま)を気にしながら、きまり悪そうに帳場のところへ来て坐った。 新吉は昨夜(ゆうべ)来たばかりの花嫁を捉(とら)えて、醤油や酒のよし悪(あ)し、値段などを教え始めた。「この辺は貧乏人が多いんだから、皆(みんな)細かい商いばかりだ。お客は七、八分労働者なんだから、酒の小売りが一番多いのさ。店頭(みせさき)へ来て、桝飲(ますの)みをきめ込む輩(てあい)も、日に二人や三人はあるんだから、そういう奴が飛び込んだら、ここの呑口(のみぐち)をこう捻(ひね)って、桝ごと突き出してやるんさ。彼奴(やつ)ら撮(つま)み塩か何かで、グイグイ引っかけて去(い)かア。宅(うち)は新店だから、帳面のほか貸しは一切しねえという極(き)めなんだ。」とそれから売揚げのつけ方なども、一ト通り口早に教えた。お作はただニヤニヤと笑っていた。解ったのか、解らぬのか、新吉はもどかしく思った。で、ろくすっぽう、莨も吸わず、岡持を担(かつ)ぎ出して、また出て行ってしまう。 晩方少し手隙(てすき)になってから、新吉は質素(じみ)な晴れ着を着て、古い鳥打帽を被り、店をお作と小僧とに托(あず)けて、和泉屋へ行くと言って宅(うち)を出た。 お作は後でほっとしていた。優しい顔に似合わず、気象はなかなか烈(はげ)しいように思われた。無口なようで、何でも彼でもさらけ出すところが、男らしいようにも思われた。昨夜(ゆうべ)の羽織や袴を畳んで箪笥にしまい込もうとした時、「其奴(そいつ)は小野が、余所(よそ)から借りて来てくれたんだから……。」と低声(こごえ)に言って風呂敷を出して、自分で叮寧に包んだ、虚栄(みえ)も人前もない様子が、何となく頼もしいような気もした。初めての自分には、胸がドキリとするほど荒い言(ことば)をかけることもあるが、心持は空竹(からたけ)を割ったような男だとも思った。この店も二、三年の中には、グッと手広くするつもりだから……と、昨夜寝てから話したことなども憶(おも)い出された。自分の宅(うち)の一ツも建てたり、千や二千の金の出来るまでは、目を瞑(つぶ)って辛抱してくれろと言った言(ことば)を考え出すと、お作はただ思いがけないような切ないような気がした。この五、六日の不安と動揺とが、懈(だる)い体と一緒に熔(とろ)け合って、嬉しいような、はかないような思いが、胸一杯に漂うていた。 お作は机に肱(ひじ)を突いて、うっとりと広い新開の町を眺(なが)めた。淡(うす)い冬の日は折々曇って、寂しい影が一体に行(ゆ)き遍(わた)っていた。凍(かじか)んだような人の姿が夢のように、往来(ゆきき)している。お作の目は潤(うる)んでいた。まだはっきりした印象もない新吉の顔が、何(なん)かしらぼんやりした輪のような物の中から見えるようであった。     十 幸福な月日は、滑るように過ぎ去った。新吉は結婚後一層家業に精が出た。その働きぶりには以前に比して、いくらか用意とか思慮とかいう余裕(ゆとり)が出来て来た。小僧を使うこと、仕入や得意を作ることも巧みになった。体を動かすことが、比較的少くなった代りに、多く頭脳(あたま)を使うような傾きもあった。 けれど、お作は何の役にも立たなかった。気立てが優しいのと、起居(たちい)がしとやかなのと、物質上の欲望が少いのと、ただそれだけがこの女の長所(とりえ)だということが、いよいよ明らかになって来た。新吉が出てしまうと、お作は良人(おっと)にいいつかったことのほか、何の気働きも機転も利かすことが出来なかった。酒の割法(わりかた)が間違ったり、高い醤油(したじ)を安く売ることなどはめずらしくなかった。帳面の調べや、得意先の様子なども、一向に呑み込めなかった。呑み込もうとする気合いも見えなかった。 そんなことがいくたびも重なると、新吉はぷりぷりして怒った。「此奴(こいつ)はよっぽど間抜けだな。商人の内儀(かみ)さんが、そんなこッてどうするんだ。三度三度の飯をどこへ食ってやがんだ。」 優しい新吉の口からこういう言葉が出るようになった。 お作は赤い顔をして、ただニヤニヤと笑っている。「ちょッ、しようがねえな。」と新吉は憤(じ)れったそうに、顔中を曇らせる。「己(おら)ア飛んだ者を背負い込んじゃったい。全体和泉屋も和泉屋じゃねえか。友達がいに、少しは何とか目口の明いた女房を世話しるがいいや。媒人口(なこうどぐち)ばかり利きあがって……これじゃ人の足元を見て、押附(おっつ)けものをしたようなもんだ。」とブツブツ零(こぼ)している。 お作は、泣面(べそ)かきそうな顔をして、術なげにうつむいてしまう。「明日(あした)から引っ込んでるがいい。店へなんぞ出られると、かえって家業の邪魔になる。奥でおん襤褸(ぼろ)でも綴(つづ)くッてる方がまだしも優(まし)だ。このくらいのことが勤まらねえようじゃ、どこへ行ったって勤まりそうなわけがない。それでよくお屋敷の奉公が勤まったもんだ。」 罵(ののし)る新吉の舌には、毒と熱とがあった。 お作の目からはポロポロと熱い涙が零れた。「私は莫迦ですから……。」とおどおどする。 新吉は急に黙ってしまう。そうしてフカフカと莨を喫(ふか)す。筋張ったような顔が蒼くなって、目が酔漢(よっぱらい)のように据わっている。口を利く張合いも抜けてしまうのだが、胸の中はやっぱり煮えている。 こう黙られると、お作の心はますますおどおどする。「これから精々気をつけますから……。」と顫(ふる)え声で詫(わ)びるのであるが、その言(ことば)には自信も決心もなかった。ただ恐怖があるばかりであった。     十一 こんなことのあった後では、お作はきっと奥の六畳の箪笥の前に坐り込んで、針仕事を始める。半日でも一日でも、新吉が口を利けば、例の目尻や口元に小皺(こじわ)を寄せた。人のよさそうな笑顔を向けながら、素直に受答えをするほか、自分からは熟(う)んだ柿が潰(つぶ)れたとも言い出せなかった。 これまで親の膝下(ひざもと)にいた時も、三年の間西片町のある官吏の屋敷に奉公していた時も、ただ自分の出来るだけのことを正直に、真面目にと勤めていればそれでよかった。親からは女らしい娘だと讃(ほ)められ、主人からは気立てのよい、素直な女だと言って可愛がられた。この家へ片づくことになって、暇を貰う時も、お前ならばきっと亭主を粗末にしないだろう。世帯持ちもよかろう。亭主に思われるに決まっていると、旦那様(だんなさま)から分に過ぎた御祝儀を頂いた。夫人(おくさま)からも半襟(はんえり)や簪(かんざし)などを頂いて、門の外まで見送られたくらいであった。新吉に頭から誹謗(けな)されると、お作の心はドマドマして、何が何だかさっぱり解らなくなって来る。ただ威張って見せるのであろうとも思われる。わざと喧(やかま)しく言って脅(おどか)して見るのだろうという気もする。あれくらいなことは、今日は失敗(しくじ)っても、二度三度と慣れて来れば造作なく出来そうにも思える。どちらにしても、あの人の気の短いのと、怒りっぽいのは婆やが出てゆく時、そっと注意しておいてくれたのでも解っている――と、お作はこういう心持で、深く気にも留めなかった。怒られる時は、どうなるのかとはらはらして、胸が一杯になって来るが、それもその時きりで、不安の雲はあっても、自分を悲観するほどではなかった。 それでも針の手を休めながら、折々溜息(ためいき)を吐(つ)くことなぞある。独り長火鉢の横に坐って、する仕事のない静かな昼間なぞは、自然(ひとりで)に涙の零れることもあった。いっそ宅(うち)へ帰って、旧(もと)の屋敷へ奉公した方が気楽だなぞと考えることもあった。その時分から、お作はよく鏡に向った。四下(あたり)に人の影が見えぬと、そっと鏡の被(おお)いを取って、自分の姿を映して見た。髪を直して、顔へ水白粉なぞ塗って、しばらくそこにうっとりしていた。そうして昨日のように思う婚礼当時のことや、それから半年余りの楽しかった夢を繰り返していた。自分の姿や、陽気な華やかなその晩の光景も、ありあり目に浮んで来る。――今ではそうした影も漂うていない。憶い出すと泣き出したいほど情なくなって来る。 店で帳合いをしていた新吉が、不意に「アア。」と溜息を吐いて、これもつまらなさそうな顔をして奥を窺(のぞ)きに来る。お作は赤い顔をして、急いで鏡に被いをしてしまう。「オイ、茶でも淹(い)れないか。」と新吉はむずかしい顔をして、後へ引き返す。 長火鉢の傍で一緒になると、二人は妙に黙り込んでしまう。長火鉢には火が消えて、鉄瓶が冷たくなっている。     十二 お作は妙におどついて、にわかに台所から消し炭を持って来て、星のような炭団(たどん)の火を拾いあげては、折々新吉の顔色を候(うかが)っていた。「憤(じ)れったいな。」新吉は優しい舌鼓(したうち)をして、火箸を引っ奪(たく)るように取ると、自分でフウフウ言いながら、火を起し始めた。「一日何をしているんだな。お前なぞ飼っておくより、猫の子飼っておく方が、どのくらい気が利いてるか知れやしねえ。」と戯談(じょうだん)のように言う。 お作は相変らずニヤニヤと笑って、じっと火の起るのを瞶(みつ)めている。 新吉は熱(ほて)った顔を両手で撫(な)でて、「お前なんざ、真実(ほんとう)に苦労というものをして見ねえんだから駄目だ。己(おれ)なんざ、何(なん)しろ十四の時から新川へ奉公して、十一年間苦役(こきつか)われて来たんだ。食い物もろくに食わずに、土間に立詰めだ。指頭(ゆびさき)の千断(ちぎ)れるような寒中、炭を挽(ひ)かされる時なんざ、真実(ほんと)に泣いっちまうぜ。」 お作は皮膚の弛(ゆる)んだ口元に皺(しわ)を寄せて、ニヤリと笑う。「これから楽すれやいいじゃありませんか。」「戯談(じょうだん)じゃねえ。」新吉は吐き出すように言う。「これからが苦労なんだ。今まではただ体を動(いご)かせるばかりで辛抱さえしていれア、それでよかったんだが、自分で一軒の店を張って行くことになって見るてえと、そうは行かねえ。気苦労が大したもんだ。」「その代り楽しみもあるでしょう。」「どういう楽しみがあるね。」と新吉は目を丸くした。「楽しみてえところへは、まだまだ行かねえ。そこまで漕ぎつけるのが大抵のことじゃありゃしねえ。それには内儀さんもしっかりしていてくれなけアならねえ。……それア己はやる。きっとやって見せる。転(ころ)んでもただは起きねえ。けど、お前はどうだ。お前は三度三度無駄飯を食って、毎日毎日モゾクサしてるばかしじゃねえか。だから俺(おれ)は働くにも張合いがねえ。厭になっちまう。」と新吉はウンザリした顔をする。「でもお金が残るわ。」「当然(あたりまえ)じゃねえか。」新吉は嬉しそうな笑(え)みを目元に見せたが、じきにこわいような顔をする。お作が始末屋というよりは、金を使う気働きすらないということは、新吉には一つの気休めであった。お作には、ここを切り詰めて、ここをどうしようという所思(おもわく)もないが、その代り鐚(びた)一文自分の意志で使おうという気も起らぬ。ここへ来てから新吉の勝手元は少しずつ豊かになって来た。手廻りの道具も増(ふ)えた。新吉がどこからか格安に買って来た手箪笥や鼠入(ねずみい)らずがツヤツヤ光って、着物もまず一と通り揃(そろ)った。保険もつければ、別に毎月の貯金もして来た。お作はただの一度も、自分の料簡(りょうけん)で買物をしたことがない。新吉は三度三度のお菜(かず)までほとんど自分で見繕(みつくろ)った。お作はただ鈍(のろ)い機械のように引き廻されていた。     十三 得意場廻りをして来た小僧の一人が、ぶらりと帰って来たかと思うと、岡持をそこへ投(ほう)り出して、「旦那。」と奥へ声をかけた。「××さんじゃ酒の小言が出ましたよ。あんな水ッぽいんじゃいけないから、今度少し吟味しろッって……。今持って行くんです。」「吟味しろッて。」新吉は顔を顰(しか)めて、「水ッぽいわけはねえんだがな。誰がそう言った。」「旦那がそう言ったですよ。」「そういうわけは決してございませんッって。もっとも少し辛くしろッてッたから、そのつもりで辛口にしたんだが……。」と新吉は店へ飛び出して、下駄を突っかけて土間へ降りると、何やらブツクサ言っていた。 店ではゴボゴボという音が聞える。しばらくすると、小僧はまた出て行った。「ろくな酒も飲まねえ癖に文句ばっかり言ってやがる。」と独言(ひとりごと)を言って、新吉は旧(もと)の座へ帰って来た。得意先の所思(おもわく)を気にする様子が不安そうな目の色に見えた。 お作は番茶を淹(い)れて、それから湿(しと)った塩煎餅(しおせんべい)を猫板の上へ出した。新吉は何やら考え込みながら、無意識にボリボリ食い始めた。お作も弱そうな歯で、ポツポツ噛(かじ)っていた。三月の末で、外は大分春めいて来た。裏の納屋(なや)の蔭にある桜が、チラホラ白い葩(はなびら)を綻(ほころ)ばせて、暖かい日に柔かい光があった。外は人の往来(ゆきき)も、どこか騒(ざわ)ついて聞える。新吉は何だか長閑(のどか)なような心持もした。こうして坐っていると、妙に心に空虚が出来たようにも思われた。長い間の疲労が一時に出て来たせいもあろう。いくらか物を考える心の余裕(ゆとり)がついて来たのも、一つの原因であろう。 お作は何(なん)かの話のついでに、「……花の咲く時分に、一度二人で田舎へ行きましょうか。」と言い出した。 新吉は黙ってお作の顔を見た。「別に見るところといっちゃありゃしませんけれど、それでも田舎はよござんすよ。蓮華(れんげ)や蒲公英(たんぽぽ)が咲いて……野良(のら)のポカポカする時分の摘み草なんか、真実(ほんと)に面白うござんすよ。」「気楽言ってらア。」と新吉は淋しく笑った。「お前の田舎へ行くもいいが、それよか自分の田舎へだって、義理としても一度は行かなけアなんねえ。」「どうしてまた、七年も八年もお帰んなさらないんでしょう。随分だわ。」お作は塩煎餅の、くいついた歯齦(はぐき)を見せながら笑った。「そんな金がどこにあるんだ。」新吉は苦い顔をする。「一度行けア一月や二月の儲(もう)けはフイになっちまう。久しぶりじゃ、まさか手ぶらで帰られもしねえ。産(うま)れ故郷となれア、トンビの一枚も引っ張って行かなけアなんねえし。……第一店をどうする気だ。」 お作は急に萎(しょ)げてしまう。「こっちやそれどころじゃねえんだ。真実(ほんとう)だ。」 新吉はガブリと茶を飲み干すと、急に立ち上った。     十四 桜の繁(しげ)みに毛虫がつく時分に、お作はバッタリ月経(つきのもの)を見なくなった。お作は冷え性の女であった。唇(くちびる)の色も悪く、肌(はだ)も綺麗(きれい)ではなかった。歯性も弱かった。菊が移(すが)れるころになると、新吉に嗤(わら)われながら、裾(すそ)へ安火(あんか)を入れて寝た。これという病気もしないが時々食べたものが消化(こな)れずに、上げて来ることなぞもあった。空風(からかぜ)の寒い日などは、血色の悪い総毛立ったような顔をして、火鉢に縮かまっていた。少し劇(はげ)しい水仕事をすると、小さい手がじきに荒れて、揉(も)み手をすると、カサカサ音がするくらいであった。新吉は、晩に寝るとき、滋養に濃い酒を猪口(ちょく)に一杯ずつ飲ませなどした。伝通院前に、灸点(きゅうてん)の上手があると聞いたので、それをも試みさした。「今からそんなこってどうするんだ。まるで婆さんのようだ。」と新吉は笑いつけた。 お作はもうしわけのないような顔をして、そのたびごとに元気らしく働いて見せた。 こうした弱い体で、妊娠したというのは、ちょっと不思議のようであった。「嘘(うそ)つけ。体がどうかしているんだ。」と新吉は信じなかった。「いいえ。」とお作は赤い顔をして、「大分前(さき)からどうも変だと思ったんです。占って見たらそうなんです。」 新吉は不安らしい目色(めつき)で、妻の顔を見込んだ。「どうしたんでしょう、こんな弱い体で……。」といった目色(めつき)で、お作もきまり悪そうに、新吉の顔を見上げた。 それから二人の間に、コナコナした湿(しめ)やかな話が始まった。新吉は長い間、絶えず悪口(あっこう)を浴びせかけて来たことが、今さら気の毒なように思われた。てんで自分の妻という考えを持つことの出来なかったのを悔いるような心も出て来た。ついこの四、五日前に、長湯をしたと言って怒ったのが因(もと)で、アクザモクザ罵(ののし)った果てに、何か厄介者(やっかいもの)でも養っていたようにくやしがって、出て行け、今出て行けと呶鳴(どな)ったことなども、我ながら浅ましく思われた。 それに、妊娠でもしたとなると、何だか気が更(あらた)まるような気もする。多少の不安や、厭な感じは伴いながら、自分の生活を一層確実にする時期へ入って来たような心持もあった。 お作はもう、お産の時の心配など始めた。初着(うぶぎ)や襁褓(むつき)のことまで言い出した。「私は体が弱いから、きっとお産が重いだろうと思って……。」お作は嬉しいような、心元ないような目をショボショボさせて、男の顔を眺めた。新吉はいじらしいような気がした。 お作は十二時を聞いて、急に針を針さしに刺した。めずらしく顔に光沢(つや)が出て、目のうちにも美しい湿(うるお)いをもっていた。新吉はうっとりした目容(めいろ)で、その顔を眺(なが)めていた。     十五 お作は婚礼当時と変らぬ初々(ういうい)しさと、男に甘えるような様子を見せて、そこらに散った布屑(きれくず)や糸屑を拾う。新吉も側(そば)で読んでいた講談物を閉じて、「サアこうしちアいられねえ。」と急(せ)き立てられるような調子で、懈怠(けだる)そうな身節(みぶし)がミリミリ言うほど伸びをする。「もう親父(おやじ)になるのかな。」とその腕を擦(こす)っている。「早いものですね、まるで夢のようね。」とお作もうっとりした目をして、媚(こ)びるように言う。「私のような者でも、子が出来ると思うと不思議ね。」 二人はそれから婚礼前後の心持などを憶い出して、つまらぬことをも意味ありそうに話し出した。こうした仲の睦(むつ)まじい時、よく双方の親兄弟の噂(うわさ)などが出る。親戚(みうち)の話や、自分らの幼(ちいさ)い折の話なども出た。「お産の時、阿母(おっか)さんは田舎へ来ていろと言うんですけれど、家にいたっていいでしょう。」 時計が一時を打つと、お作は想い出したように、急いで床を延べる。新吉に寝衣(ねまき)を着せて床の中へ入れてから、自分はまたひとしきり、脱棄(ぬぎす)てを畳んだり、火鉢の火を消したりしていた。 二、三日はこういう風の交情(なか)が続く。新吉はフイと側へ寄って、お作の頬(ほお)に熱いキスをすることなどもある。ふと思いついて、近所の寄席(よせ)へ連れ出すこともあった。 が、そうした後では、じきに暴風(あらし)が来る。思いがけないことから、不意と新吉の心の平衡が破れて来る。「……少し甘やかしておけア、もうこれだ。」と新吉は昼間火鉢の前で、お作がフラフラと居眠りをしかけているのを見つけると、その鼻の先で癪(しゃく)らしく舌打ちをして、ついと後へ引き返してゆく。 お作はハッと思って、胸を騒がすのであるが、こうなるともう手の着けようがない。お作の知恵ではどうすることも出来なくなる。よくよく気が合わぬのだと思って、心の中(うち)で泣くよりほかなかった。新吉の仕向けは、まるで掌(て)の裏(うら)を翻(かえ)したようになって、顔を見るのも胸糞(むねくそ)が悪そうであった。 秋の末になると、お作は田舎の実家(さと)へ引き取られることになった。そのころは人並みはずれて小さい腹も大分目に立つようになった。伝通院前の叔母が来て、例の気爽(きさく)な調子で新吉に話をつけた。 夫婦間の感情は、糸が縺(もつ)れたように紛糾(こぐらか)っていた。お作はもう飽かれて棄てられるような気もした。新吉はお作がこのまま帰って来ないような気がした。お作はとにかくに衆(みんな)の意嚮(いこう)がそうであるらしく思われた。 新吉は小使いを少し持たして、滋養の葡萄酒(ぶどうしゅ)などを鞄(かばん)の隅(すみ)へ入れてやった。「そのうちには己も行くさ。」「真実(ほんとう)に来て下さいよ。」お作は出遅れをしながら、いくたびも念を推した。     十六 お作が行ってから、新吉は物を取り落したような心持であった。家が急に寂しくなって、三度三度の膳に向う時、妙にそこに坐っているお作の姿が思い出される。お作を毒づいたことや、誹謗(へこな)したことなどを考えて、いたましいようにも思った。何かの癖に、「手前(てめえ)のような能なしを飼っておくより、猫の子を飼っておく方が、はるかに優(まし)だ。」とか、「さっさと出て行ってくれ、そうすれば己も晴々(せいせい)する。」とか言って呶鳴った時の、自分の荒れた感情が浅ましくも思われた。けれど、わざわざお作を見舞ってやる気にもなれなかった。お作から筆の廻らぬ手紙で、東京が恋しいとか、田舎は寂しいとか、体の工合が悪いから来てくれとか言って来るたんびに、舌鼓(したうち)をして、手紙を丸めて、投(ほう)り出した。お袋に兄貴、従妹(いとこ)、と多勢一緒に撮(と)った写真を送って来た時、新吉は、「何奴(どいつ)も此奴(こいつ)も百姓面(ひゃくしょうづら)してやがらア。厭になっちまう。」と吐き出すように言って、二タ目とは見なかった。 そのころ小野が結婚して、京橋の岡崎町に間借りをして、小綺麗な生活(くらし)をしていた。女は伊勢(いせ)の産(うま)れとばかりで、素性(すじょう)が解らなかった。お作よりか、三つも四つも年を喰っていたが様子は若々しかった。「君の内儀(かみ)さんは一体何だね。」と新吉は初めてこの女を見てから、小野が訪(たず)ねて来た時不思議そうに訊いた。「君の目にゃ何と見える。」小野はニヤニヤ笑いながら、悪こすそうな目容(めつき)をした。「解んねえな。どうせ素人(しろうと)じゃあるめえ。莫迦(ばか)に意気な風だぜ、と言って、芸者にしちゃどこか渋皮の剥(む)けねえところもあるし……。」「そんな代物(しろもの)じゃねえ。」と小野は目を逸(そら)して笑った。 小野は相変らず綺麗な姿(なり)をしていた。何やらボトボトした新織りの小袖に、コックリした茶博多(ちゃはかた)の帯を締めて、純金の指環など光らせていた。持物も取り替え引き替え、気取った物を持っていた。このごろどこそこに、こういう金時計の出物があるから買わないかとか、格安な莨入れの渋い奴があるから取っておけとか、よくそういう話を新吉に持ち込んでくる。「私(あっし)なんぞは、そんなものを持って来たって駄目さ。気楽な隠居の身分にでもなったら願いましょうよ。」と言って新吉は相手にならなかった。「だが君はいいね。そうやって年中常綺羅(じょうきら)でもって、それに内儀さんは綺麗だし……。」と新吉は脂(やに)ッぽい煙管(きせる)をむやみに火鉢の縁で敲(たた)いて、「私(あっし)なんざ惨めなもんだ。まったく失敗しちゃった。」とそれからお作のことを零(こぼ)し始める。「その後どうしてるんだい。」と小野はジロリと新吉の顔を見た。「どうしたか、己(おら)さっぱり行って見もしねえ。これっきり来ねえけれア、なおいいと思っている。「子供が出来れアそうも行くまい。」     十七「どんな餓鬼(がき)が出来るか。」と新吉は忌々(いまいま)しそうに呟(つぶや)いた。 小野は黙って新吉の顔を見ていたが、「だが、見合いなんてものは、まったく当てにはならないよ。新さんの前だが、彼(あれ)は少し買い被ったね。婚礼の晩に、初めてお作さんの顔を見て、僕はオヤオヤと思ったくらいだ。」「まったくだ。」新吉は淋しく笑った。「どうせ縹致(きりょう)なんぞに望みのあるわけアねえんだがね。……その点は我慢するとしても、彼奴(やつ)には気働きというものがちっともありゃしねえ。客が来ても、ろくすっぽう挨拶することも知んねえけれア、近所隣の交際(つきあい)一つ出来やしねえんだからね。俺アとんだ貧乏籤(びんぼうくじ)を引いちゃったのさ。」と新吉は溜息を吐(つ)いた。「ともかく、もっと考えるんだったね。」と小野も気の毒そうに言う。「だがしかたがねえ、もう一年も二年も一緒にいたんだし、今さら別れると言ったって、君はいいとしても、お作さんが可哀そうだ。」「だが、彼奴(やつ)もつまんねえだろうと思う。三日に挙げず喧嘩(けんか)して、毒づかれて、打撲(はりとば)されてさ。……己(おら)頭から人間並みの待遇(あつかい)はしねえんだからね。」と新吉は空笑(そらわら)いをした。「其奴(そいつ)ア悪いや。」と小野も気のない笑い方をする。「今度マアどうなるか。」と新吉は考え込むように、「彼奴(やつ)も己(おれ)の気の荒いにはブルブルしてるんだから、お袋や兄貴に話をして、子供でも産んでしまったら、離縁話でも持ちあがるか、どうせこのままで収まりッこはありゃしない。どうでも勝手にするがいいや。」と自分で笑いつけた。モヤモヤする胸の中(うち)が、抑えきれぬという風も見えた。「そうでもねえんさ。」と小野は自分で頷(うなず)いて、「女は案外我慢強いもんさ。こっちから逐(お)ん出そうたって、出て行くものじゃありゃしねえ。」「どうして、そうでねえ。」新吉は目眩(まぶ)しそうな目をパチつかせた。「君にゃよくしてるし、客にも愛想はいいし、己ンとこの山の神に比べると雲泥(うんでい)の相違だ。」 二人顔を合わすと、いつでもこうした噂が始まる。小野はいかにも暢気(のんき)らしく、得意そうであった。小野が帰ってしまうと、新吉はいつでも気の脱けた顔をして、つまらなそうに考え込んでいる。何や彼や思い詰めると、あくせく働く甲斐(かい)がないようにも思われた。 忙(せわ)しい十二月が来た。新吉の体と頭脳(あたま)はもうそんな問題を考えている隙(ひま)もなくなった。働けばまた働くのが面白くなって、一日の終りには言うべからざる満足があって、枕に就くと、去年から見て今年の景気のいいことや、得意場の殖えたことを考えて楽しい夢を結んだ。この上不足を言うところがないようにも思われた。「少し手隙(てすき)になったら、一度お作を訪ねて、奴にも悦(よろこ)ばしてやろう。」などと考えた。     十八 ある朝新吉が、帳場で帳面を調べていると、店先へ淡色(うすいろ)の吾妻(あずま)コートを着た銀杏返(いちょうがえ)しの女が一人、腕車(くるま)でやって来た。それが小野の内儀さんのお国であった。 お国は下町風の扮装(つくり)をしていた。物のよくないお召の小袖に、桔梗(ききょう)がかった色気の羽織を着て、意気な下駄をはいていた。女は小作りで、清(すず)しいながら目容(めつき)は少し変だが、色の白い、ふッくらとした愛嬌(あいきょう)のある顔である。「御免下さい。」と蓮葉(はすは)のような、無邪気なような声で言って、スッと入って来た。そこに腰かけて、得意先の帳面を繰っていた小僧は、周章(あわ)てて片隅へ避(よ)けた。新吉は筆を耳に挟(はさ)んだまま、軽く挨拶した。「新さん、マア大変なことが出来ちゃったんです。」女は菓子折の包みをそこに置くと、ショールを脱(と)って、コートの前を外(はず)した。頬が寒い風に逢(あ)って来たので紅味(あかみ)を差して、湿(うる)みを持った目が美しく輝いた。が、どことなく恐怖を帯びている。唇の色も淡(うす)く、紊(ほつ)れ毛もそそけていた。「どうしたんです。」新吉は不安らしくその顔を瞶(みつ)めたが、じきに視線を外(そら)して、「マアお上んなさい。こんな汚いところで、坐るところもありゃしません。それに嚊(かか)はいませんし、ずっと、男世帯で、気味が悪いですけれど、マア奥へお通んなさい。」「いいえ、どう致しまして……。」女はにっこり笑って、そっちこっち店を見廻した。「真実(ほんとう)に景気のよさそうな店ですこと。心持のいいほど品物が入っているわ。」「いいえ、場所が場所だから、てんでお話になりゃしません。」 新吉は奥へ行って、蒲団を長火鉢の前へ敷きなどして、「サアどうぞ……。」と声かけた。「お忙(せわ)しいところ、どうも済みませんね。」とお国はコートを脱いで、奥へ通ると、「どうもしばらく……。」と更(あらた)まって、お辞儀をして、ジロジロ四下(あたり)を見廻した。「随分きちんとしていますわね。それに何から何まで揃(そろ)って、小野なんざとても敵(かな)やしません。」と包みの中から菓子を出して、片隅へ推しやると、低声(こごえ)で何やら言っていた。 新吉は困ったような顔をして、「そうですかい。」と頭を掻きながら、お辞儀をした。「商人も店の一つも持つようでなくちゃ駄目ね。堅い商売してるほど確かなことはありゃしないんですからね。」 新吉は微温(ぬる)い茶を汲(く)んで出しながら、「私(あたし)なんざ駄目です。小野君のように、体に楽をしていて金を儲(も)ける伎倆(はたらき)はねえんだから。」「でもメキメキ仕揚げるじゃありませんか。前に伺った時と店の様子がすっかり変ったわ。小野なんざアヤフヤで駄目です。」と言って、女は落胆(がっかり)したように口を噤(つぐ)んだ。顔の紅味がいつか褪(ひ)いて蒼(あお)くなっていた。     十九 お国はしばらくすると、きまり悪そうに、昨日の朝、小野が拘引されたという、不意の出来事を話し出した。その前の晩に、夫婦で不動の縁日に行って、あちこち歩いて、買物をしたり、蕎麦(そば)を食べたりして、疲れて遅く帰って来たことから、翌日(あした)朝夙(はや)く、寝込みに踏み込まれて、ろくろく顔を洗う間もなく引っ張られて行った始末を詳しく話した。小野はむっくり起き上ると、「拘引されるような覚えはない。行けば解るだろう。」と着物を着替えて、紙入れや時計など持って、刑事に従(つ)いて出た。「なあに何かの間違いだろう。すぐ帰って来るから心配するなよ。」とオロオロするお国をたしなめるように言ったが、出る時は何だか厭な顔色をしていた。それきり何の音沙汰(おとさた)もない。昨夜(ゆうべ)は一ト晩中寝ないで待ったが、今朝になっても帰されて来ぬところを見ると、今日もどうやら異(あや)しい。何か悪いことでもして未決へでも投(ぶ)ち込まれているのではなかろうか。刑事の口吻(くちぶり)では、オイそれと言って出て来られそうな様子も見えなかったが……。「一体どうしたんでしょう。」とお国は、新吉の顔に不安らしい目を据(す)えた。「サア……。」と言って新吉は口も利かず考え込んだ。 お国の目は一層深い不安の色を帯びて来た。「小野という男は、どういう人間なんでしょうか。」「どんなって、つまりあれッきりの人間だがね……。」とまた考え込む。「すると何かの間違いでしょうか。間違いなら嫌疑(けんぎ)とか何とかそう言って連れて行きそうなもんじゃありませんかね。」とお国は馴(な)れ馴れしげに火鉢に頬杖(ほおづえ)をついた。「解んねえな。」と新吉も溜息を吐(つ)いた。「だが、今日は帰って来ますよ。心配することはねえ。」「でも、あの人の田舎の裁判所から、こっちへ言って来たんだそうですよ。刑事がそう言っていましたもの。」とお国は一層深く傷口に触(さわ)るような調子で、附け加えた。「だから、私何だか変だと思うの。田舎で何か悪いことをしてるんじゃないかと思って。」と猜疑深(うたぐりぶか)い目を見据えた。「田舎のことア私(あっし)にゃ解んねえが、マアどっちにしても、今日は何とか様子が解るだろう。」 新吉の頭脳(あたま)には、小野がこのごろの生活(くらし)の贅沢(ぜいたく)なことがじきに浮んで来た。きっと危(あぶな)いことをしていたに違いないということも頷かれた。「だから言わねえこッちゃない。」と独りでそう思った。 お国は十二時ごろまで話し込んでいた。話のうちに新吉は二度も三度も店へ起(た)った。お国は新吉の知らない、小野の生活向(くらしむ)きのコマコマした秘密話などして、しきりに小野の挙動や、金儲けの手段が疑わしいというような口吻(こうふん)を洩(も)らしていた。     二十 小野の拘引事件は思ったより面倒であった。拘引された日に警視庁からただちに田舎の裁判所へ送られた。詳しい事情は解らなかったが、田舎のある商人との取引き上、何か約束手形から生じた間違いだということだけが知れた。期限の切れた手形の日附を書き直して利用したとかいうのであった。訴えた方も狡猾(こうかつ)だったが、小野のやり方もずるかった。小野からは内儀さんのところへ二、三度手紙が来た。新吉へもよこした。お国には東京に力となる親戚(しんせき)もないから、万事お世話を願う。青天白日の身になった暁(あかつき)、きっと恩返しをするからという意味の依頼もあった。弁護士を頼むについて、金が欲しいというようなことも言って来た。暮の二十日過ぎに、お国は新吉と相談して、方々借り集めたり、着物を質に入れなどして、少し纏(まと)まった金を送ってやった。 お国と新吉とはほとんど毎日のように顔を合わすようになった。新吉の方から出向かない日は、大抵お国が表町へやって来る。話はいつでも未決にいる小野のことや、裁判の噂で持ちきっている。もし二年も三年も入れられるようだったら、どうしたものだろうという、相談なども持ちかける。「いろいろ人に訊(き)いて見ますと、ちょっと重いそうですよ。二年くらいはどうしても入るだろうというんですがね。二年も入っていられたんじゃ、入っている者よりか、残された私がたまらないわ。向うは官費だけれど、こっちはそうは行かない。それにもう指環や櫛(くし)のような、少し目ぼしいものは大概金にして送ってやってしまったし……。」とお国は零(こぼ)しはじめる。 新吉は、「何、私(あっし)だって小野君の人物は知ってるから、まさかあなた一人くらい日干しにするようなことはしやしない。どうかなるさ。」と言っていたが、これという目論見(もくろみ)も立たなかった。 押し迫(つま)るにつれて店はだんだん忙(せわ)しくなって来た。門(かど)にはもう軒並み竹が立てられて、ざわざわと風に鳴っていた。殺風景な新開の町にも、年の瀬の波は押し寄せて、逆上(のぼ)せたような新吉の目の色が渝(かわ)っていた。お国はいつの間にか、この二、三日入浸りになっていた。奥のことは一切取り仕切って、永い間の手練(てなれ)の世帯向きのように気が利いた。新吉の目から見ると、することが少し蓮葉(はすは)で、派手のように思われた。けれど働きぶりが活(い)き活きしている。箒(ほうき)一ツ持っても、心持いいほど綺麗に掃いてくれる。
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