可哀相な姉
著者名:渡辺温
姉は扉をあけて首をさしのべた。それから玄関へ上る階段のところまで行ってみたが、彼女のお客の姿は何処にも見当らなかったので、落瞻(がっかり)したらしい様子で肩をすぼめて部屋の中へ引き込んで行った。私はそこで再び取って返すともう一度丸穴から覗き込みながらコツコツと扉を敲いた。
姉はやはりいそいそと身を起した。
私は前の時のように廊下の隅っこで、姉の出て来るのを待った。姉は扉から首を出して見て、それからまた階段の方へ歩いて行った。私はその隙に素早く部屋の中へ飛び込んで、寝台の下へもぐった。
二度も誑かされた姉は、溜息を吐きながら戻って来た。私の眼の前に姉の痩せ細った脚がぶら下った。私はあらん限りの勇気を奮い起して、泣きたい心を抑えつけた。
――コツコツ、コツコツ」と扉が鳴った。
姉は懲りもしないで、直ぐに立って行って扉をあけた。
だが、今度は本当にお客様であった。その花を買うお客は頭も顔もつるつる光った肥っちょの紳士であった。紳士は物をも云わずに姉を抱き寄せた。……紳士がどんな見るに堪えない侮辱を姉に加えたか、私は語りたくない。
私はとにかく、突然寝台の下から躍り出してその紳士を襲った。私は紳士の背部深く短刀を突き刺した。……哀れな姉は、紳士の胸の中で気を失って、一緒に床の上に倒れた。
私は短刀を姉の手に握らせた。
それから、私は血に塗みれた手を洗面台ですっかり洗い落として、さて落ちつき払ってその部屋を立ち出(い)でた。
8
私はたえてない楽しい気持で家路を辿った。
何んと云う思いがけない幸福が向いて来たものであろう!
私の勇気は、あらゆる人生の不幸をうち亡ぼしてしまったではないか。
おそらく姉は、今頃は警察の手に抑えられて、そして
――この十万長者を殺したのはお前であろう。ウムよろしい金が欲しさに殺したと云うのだな。」
と云う署長の厳しい問に対して、彼女は何度でも首を縦に振って、狂気のようにうなずいていることであろう。
もう、今夜からは夜更けて姉が帰って来る憂いはない。
可哀相な姉よ!
だが、私は髭もすでに立派に生えたし、これからは誰に憚るところもなく、一人前の大人として世を渡って行くことが出来るのだ。
私は途中で、汽車のシグナルのような赤いランプを一つお土産に買った。
その赤いランプを、今は唯一の主人である我家の窓へとりつけて、私の美しい恋人を呼びとめてやるためであることは云う迄もない。
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