醜い家鴨の子
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著者名:アンデルセンハンス・クリスチャン 

 それは田舎(いなか)の夏(なつ)のいいお天気(てんき)の日(ひ)の事(こと)でした。もう黄金色(こがねいろ)になった小麦(こむぎ)や、まだ青(あお)い燕麦(からすむぎ)や、牧場(ぼくじょう)に積(つ)み上(あ)げられた乾草堆(ほしくさづみ)など、みんなきれいな眺(なが)めに見(み)える日(ひ)でした。こうのとりは長(なが)い赤(あか)い脚(あし)で歩(ある)きまわりながら、母親(ははおや)から教(おそ)わった妙(みょう)な言葉(ことば)でお喋(しゃべ)りをしていました。
 麦畑(むぎばたけ)と牧場(ぼくじょう)とは大(おお)きな森(もり)に囲(かこ)まれ、その真(ま)ん中(なか)が深(ふか)い水溜(みずだま)りになっています。全(まった)く、こういう田舎(いなか)を散歩(さんぽ)するのは愉快(ゆかい)な事(こと)でした。
 その中(なか)でも殊(こと)に日当(ひあた)りのいい場所(ばしょ)に、川(かわ)近(ちか)く、気持(きもち)のいい古(ふる)い百姓家(ひゃくしょうや)が[#「百姓家が」は底本では「百性家が」]立(た)っていました。そしてその家(いえ)からずっと水際(みずぎわ)の辺(あた)りまで、大(おお)きな牛蒡(ごぼう)の葉(は)が茂(しげ)っているのです。それは実際(じっさい)ずいぶん丈(たけ)が高(たか)くて、その一番(いちばん)高(たか)いのなどは、下(した)に子供(こども)がそっくり隠(かく)れる事(こと)が出来(でき)るくらいでした。人気(ひとけ)がまるで無(な)くて、全(まった)く深(ふか)い林(はやし)の中(なか)みたいです。この工合(ぐあい)のいい隠(かく)れ場(ば)に一羽(わ)の家鴨(あひる)がその時(とき)巣(す)について卵(たまご)がかえるのを守(まも)っていました。けれども、もうだいぶ時間(じかん)が経(た)っているのに卵(たまご)はいっこう殻(から)の破(やぶ)れる気配(けはい)もありませんし、訪(たず)ねてくれる仲間(なかま)もあまりないので、この家鴨(あひる)は、そろそろ退屈(たいくつ)しかけて来(き)ました。他(ほか)の家鴨達(あひるたち)は、こんな、足(あし)の滑(すべ)りそうな土堤(どて)を上(のぼ)って、牛蒡(ごぼう)の葉(は)の下(した)に坐(すわ)って、この親家鴨(おやあひる)とお喋(しゃべ)りするより、川(かわ)で泳(およ)ぎ廻(まわ)る方(ほう)がよっぽど面白(おもしろ)いのです。
 しかし、とうとうやっと一(ひと)つ、殻(から)が裂(さ)け、それから続(つづ)いて、他(ほか)のも割(わ)れてきて、めいめいの卵(たまご)から、一羽(わ)ずつ生(い)き物(もの)が出(で)て来(き)ました。そして小(ちい)さな頭(あたま)をあげて、
「ピーピー。」
と、鳴(な)くのでした。
「グワッ、グワッってお言(い)い。」
と、母親(ははおや)が教(おし)えました。するとみんな一生懸命(いっしょうけんめい)、グワッ、グワッと真似(まね)をして、それから、あたりの青(あお)い大(おお)きな葉(は)を見廻(まわ)すのでした。
「まあ、世界(せかい)ってずいぶん広いもんだねえ。」
と、子家鴨達(あひるたち)は、今(いま)まで卵(たまご)の殻(から)に住(す)んでいた時(とき)よりも、あたりがぐっとひろびろしているのを見(み)て驚(おどろ)いて言(い)いました。すると母親(ははおや)は、
「何(なん)だね、お前達(まえたち)これだけが全世界(ぜんせかい)だと思(おも)ってるのかい。まあそんな事(こと)はあっちのお庭(にわ)を見(み)てからお言(い)いよ。何(なに)しろ牧師(ぼくし)さんの畑(はたけ)の方(ほう)まで続(つづ)いてるって事(こと)だからね。だが、私(わたし)だってまだそんな先(さ)きの方(ほう)までは行(い)った事(こと)がないがね。では、もうみんな揃(そろ)ったろうね。」
と、言(い)いかけて、
「おや! 一番(いちばん)大(おお)きいのがまだ割(わ)れないでるよ。まあ一体(いったい)いつまで待(ま)たせるんだろうねえ、飽(あ)き飽(あ)きしちまった。」
 そう言(い)って、それでもまた母親(ははおや)は巣(す)に坐(すわ)りなおしたのでした。
「今日(こんにち)は。御子様(おこさま)はどうかね。」
 そう言(い)いながら年(とし)とった家鴨(あひる)がやって来(き)ました。
「今(いま)ねえ、あと一(ひと)つの卵(たまご)がまだかえらないんですよ。」
と、親家鴨(おやあひる)は答(こた)えました。
「でもまあ他(ほか)の子達(こたち)を見(み)てやって下さい。ずいぶんきりょう好(よ)しばかりでしょう? みんあ父親(ちちおや)そっくりじゃありませんか。不親切(ふしんせつ)で、ちっとも私達(あたしたち)を見(み)に帰(かえ)って来(こ)ない父親(ちちおや)ですがね。」
 するとおばあさん家鴨(あひる)が、
「どれ私(わたし)にその割(わ)れない卵(たまご)を見(み)せて御覧(ごらん)。きっとそりゃ七面鳥(めんちょう)の卵(たまご)だよ。私(わたし)もいつか頼(たの)まれてそんなのをかえした事(こと)があるけど、出(で)て来(き)た子達(こたち)はみんな、どんなに気(き)を揉(も)んで直(なお)そうとしても、どうしても水(みず)を恐(こわ)がって仕方(しかた)がなかった。私(あたし)あ、うんとガアガア言(い)ってやったけど、からっきし駄目(だめ)! 何(なん)としても水(みず)に入(い)れさせる事(こと)が出来(でき)ないのさ。まあもっとよく見(み)せてさ、うん、うん、こりゃあ間違(まちが)いなし、七面鳥(めんちょう)の卵(たまご)だよ。悪(わる)いことは言(い)わないから、そこに放(ほ)ったらかしときなさい。そいで早(はや)く他(ほか)の子達(こたち)に泳(およ)ぎでも教(おし)えた方(ほう)がいいよ。」
「でもまあも少(すこ)しの間(あいだ)ここで温(あたた)めていようと思(おも)いますよ。」
と、母親(ははおや)は言(い)いました。
「こんなにもう今(いま)まで長(なが)く温(あたた)めたんですから、も少(すこ)し我慢(がまん)するのは何(なん)でもありません。」
「そんなら御勝手(ごかって)に。」
 そう言(い)い棄(す)てて年寄(としより)の家鴨(あひる)は行(い)ってしまいました。
 とうとう、そのうち大(おお)きい卵(たまご)が割(わ)れてきました。そして、
「ピーピー。」
と鳴(な)きながら、雛鳥(ひな)が匐(は)い出(だ)してきました。それはばかに大(おお)きくて、ぶきりょうでした。母鳥(ははどり)はじっとその子(こ)を見(み)つめていましたが、突然(とつぜん)、
「まあこの子(こ)の大(おお)きい事(こと)! そしてほかの子(こ)とちっとも似(に)てないじゃないか! こりゃあ、ひょっとすると七面鳥(しちめんちょう)かも知(し)れないよ。でも、水(みず)に入(い)れる段(だん)になりゃ、すぐ見分(みわ)けがつくから構(かま)やしない。」
と、独言(ひとりごと)を言(い)いました。
 翌(あく)る日(ひ)もいいお天気(てんき)で、お日様(ひさま)が青(あお)い牛蒡(ごぼう)の葉(は)にきらきら射(さ)してきました。そこで母鳥(ははどり)は子供達(こどもたち)をぞろぞろ水際(みずぎわ)に連(つ)れて来(き)て、ポシャンと跳(と)び込(こ)みました。そして[#「そして」は底本では「そしそ」]、グワッ、グワッと鳴(な)いてみせました。すると小(ちい)さい者達(ものたち)も真似(まね)して次々(つぎつぎ)に跳(と)び込(こ)むのでした。みんないったん水(みず)の中(なか)に頭(あたま)がかくれましたが、見(み)る間(ま)にまた出(で)て来(き)ます。そしていかにも易々(やすやす)と脚(あし)の下(した)に水(みず)を掻(か)き分(わ)けて、見事(みごと)に泳(およ)ぎ廻(まわ)るのでした。そしてあのぶきりょうな子家鴨(こあひる)もみんなと一緒(いっしょ)に水(みず)に入り、一緒(いっしょ)に泳(およ)いでいました。
「ああ、やっぱり七面鳥(しちめんちょう)じゃなかったんだ。」
と、母親(ははおや)は言(い)いました。
「まあ何(なん)て上手(じょうず)に脚(あし)を使(つか)う事(こと)ったら! それにからだもちゃんと真(ま)っ直(す)ぐに立(た)ててるしさ。ありゃ間違(まちが)いなしに私(あたし)の子(こ)さ。よく見(み)りゃ、あれだってまんざら、そう見(み)っともなくないんだ。グワッ、グワッ、さあみんな私(わたし)に従(つ)いてお出(い)で。これから偉(えら)い方々(かたがた)のお仲間(なかま)入(い)りをさせなくちゃ。だからお百姓(ひゃくしょう)さんの裏庭(にわ)の方々(かたがた)に紹介(しょうかい)するからね。でもよく気(き)をつけて私(わたし)の傍(そば)を離(はな)れちゃいけないよ。踏(ふ)まれるから。それに何(なに)より第一(だいいち)に猫(ねこ)を用心(ようじん)するんだよ。」
 さて一同(いちどう)で裏庭(にわ)に着(つ)いてみますと、そこでは今(いま)、大騒(おおさわ)ぎの真(ま)っ最中(さいちゅう)です。二(ふた)つの家族(かぞく)で、一(ひと)つの鰻(うなぎ)の頭(あたま)を奪(うば)いあっているのです。そして結局(けっきょく)、それは猫(ねこ)にさらわれてしまいました。
「みんな御覧(ごらん)、世間(せけん)はみんなこんな風(ふう)なんだよ。」
と、母親(ははおや)は言(い)って聞(き)かせました。自分(じぶん)でもその鰻(うなぎ)の頭(あたま)が欲(ほ)しかったと見(み)えて、嘴(くちばし)を磨(す)りつけながら、そして、
「さあみんな、脚(あし)に気(き)をつけて。それで、行儀(ぎょうぎ)正(ただ)しくやるんだよ。ほら、あっちに見(み)える年(とし)とった家鴨(あひる)さんに上手(じょうず)にお辞儀(じぎ)おし。あの方(かた)は誰(たれ)よりも生(うま)れがよくてスペイン種(しゅ)なのさ。だからいい暮(くら)しをしておいでなのだ。ほらね、あの方(かた)は脚(あし)に赤(あか)いきれを結(ゆわ)えつけておいでだろう。ありゃあ家鴨(あひる)にとっちゃあ大(たい)した名誉(めいよ)なんだよ。つまりあの方(かた)を見失(みうし)わない様(よう)にしてみんなが気(き)を配(くば)ってる証拠(しょうこ)なの。さあさ、そんなに趾(あしゆび)を内側(うちがわ)に曲(ま)げないで。育(そだ)ちのいい家鴨(あひる)の子(こ)はそのお父(とう)さんやお母(かあ)さんみたいに、ほら、こう足(あし)を広(ひろ)くはなしてひろげるもんなのだ。さ、頸(くび)を曲(ま)げて、グワッって言(い)って御覧(ごらん)。」
 家鴨(あひる)の子達(こたち)は言(い)われた通(とお)りにしました。けれどもほかの家鴨達(あひるたち)は、じろっとそっちを見(み)て、こう言(い)うのでした。
「ふん、また一孵(ひとかえ)り、他(ほか)の組(くみ)がやって来(き)たよ、まるで私達(わたしたち)じゃまだ足(た)りないか何(なん)ぞの様(よう)にさ! それにまあ、あの中(なか)の一羽(わ)は何(なん)て妙(みょう)ちきりんな顔(かお)をしてるんだろう。あんなのここに入れてやるもんか。」
 そう言(い)ったと思(おも)うと、突然(とつぜん)一羽(わ)跳(と)び出(だ)して来(き)て、それの頸(くび)のところを噛(か)んだのでした。
「何(なに)をなさるんです。」
と、母親(ははおや)はどなりました。
「これは何(なん)にも悪(わる)い事(こと)をした覚(おぼ)えなんか無(な)いじゃありませんか。」
「そうさ。だけどあんまり図体(ずたい)が大(おお)き過(す)ぎて、見(み)っともない面(つら)してるからよ。」
と、意地悪(いじわる)の家鴨(あひる)が言(い)い返(かえ)すのでした。
「だから追(お)い出(だ)しちまわなきゃ。」
 すると傍(そば)から、例(れい)の赤(あか)いきれを脚(あし)につけている年寄家鴨(としよりあひる)が、
「他(ほか)の子供(こども)さんはずいみんみんなきりょう好(よ)しだねえ、あの一羽(わ)の他(ほか)は、みんなね。お母(かあ)さんがあれだけ、もう少(すこ)しどうにか善(よ)くしたらよさそうなもんだのに。」
と、口(くち)を出(だ)しました。
「それはとても及(およ)びませぬ事(こと)で、奥方様(おくがたさま)。」
と、母親(ははおや)は答(こた)えました。
「あれは全(まった)くのところ、きりょう好(よ)しではございませぬ。しかし誠(まこと)に善(よ)い性質(せいしつ)をもっておりますし、泳(およ)ぎをさせますと、他(ほか)の子達(こたち)くらい、――いやそれよりずっと上手(じょうず)に致(いた)します。私(わたし)の考(かんが)えますところではあれも日(ひ)が経(た)ちますにつれて、美(うつく)しくなりたぶんからだも[#「からだも」は底本では「かちだも」]小(ちい)さくなる事(こと)でございましょう。あれは卵(たまご)の中(なか)にあまり長(なが)く入(はい)っておりましたせいで、からだつきが普通(なみ)に出来上(できあが)らなかったのでございます。」
 そう言(い)って母親(ははおや)は子家鴨(こあひる)の頸(くび)を撫(な)で、羽(はね)を滑(なめら)かに平(たい)らにしてやりました。そして、
「何(なに)しろこりゃ男(おとこ)だもの、きりょうなんか大(たい)した事(こと)じゃないさ。今(いま)に強(つよ)くなって、しっかり自分(じぶん)の身(み)をまもる様(よう)になる。」
こんな風(ふう)に呟(つぶや)いてもみるのでした。
「実際(じっさい)、他(ほか)の子供衆(こどもしゅう)は立派(りっぱ)だよ。」
と、例(れい)の身分(みぶん)のいい家鴨(あひる)はもう一度(ど)繰返(くりかえ)して、
「まずまず、お前(まえ)さん方(がた)もっとからだをらくになさい。そしてね、鰻(うなぎ)の頭(あたま)を見(み)つけたら、私(わたし)のところに持(も)って来(き)ておくれ。」
と、附(つ)け足(た)したものです。
 そこでみんなはくつろいで、気(き)の向(む)いた様(よう)にふるまいました。けれども、あの一番(ばん)おしまいに殻(から)から出(で)た、そしてぶきりょうな顔付(かおつ)きの子家鴨(こあひる)は、他(ほか)の家鴨(あひる)やら、その他(た)そこに飼(か)われている鳥達(とりたち)みんなからまで、噛(か)みつかれたり、突(つ)きのめされたり、いろいろからかわれたのでした。そしてこんな有様(ありさま)はそれから毎日(まいにち)続(つづ)いたばかりでなく、日(ひ)に増(ま)しそれがひどくなるのでした。兄弟(きょうだい)までこの哀(あわ)れな子家鴨(こあひる)に無慈悲(むじひ)に辛(つら)く当(あた)って、
「ほんとに見(み)っともない奴(やつ)、猫(ねこ)にでもとっ捕(つかま)った方(ほう)がいいや。」
などと、いつも悪体(あくたい)をつくのです。母親(ははおや)さえ、しまいには、ああこんな子(こ)なら生(うま)れない方(ほう)がよっぽど幸(しあわせ)だったと思(おも)う様(よう)になりました。仲間(なかま)の家鴨(あひる)からは突(つ)かれ、鶏(ひよ)っ子(こ)からは羽(はね)でぶたれ、裏庭(うらにわ)の鳥達(とりたち)に食物(たべもの)を持(も)って来(く)る娘(むすめ)からは足(あし)で蹴(け)られるのです。
 堪(たま)りかねてその子家鴨(こあひる)は自分(じぶん)の棲家(すみか)をとび出(だ)してしまいました。その途中(とちゅう)、柵(さく)を越(こ)える時(とき)、垣(かき)の内(うち)にいた小鳥(ことり)がびっくりして飛(と)び立(た)ったものですから、
「ああみんなは僕(ぼく)の顔(かお)があんまり変(へん)なもんだから、それで僕(ぼく)を怖(こわ)がったんだな。」
と、思(おも)いました。それで彼(かれ)は目(め)を瞑(つぶ)って、なおも遠(とお)く飛(と)んで行(い)きますと、そのうち広(ひろ)い広(ひろ)い沢地(たくち)の上(うえ)に来(き)ました。見(み)るとたくさんの野鴨(のがも)が住(す)んでいます。子家鴨(こあひる)は疲(つか)れと悲(かな)しみになやまされながらここで一晩(ひとばん)を明(あか)しました。
 朝(あさ)になって野鴨達(のがもたち)は起(お)きてみますと、見知(みし)らない者(もの)が来(き)ているので目(め)をみはりました。
「一体(いったい)君(きみ)はどういう種類(しゅるい)の鴨(かも)なのかね。」
 そう言(い)って子家鴨(こあひる)の周(まわ)りに集(あつ)まって来(き)ました。子家鴨(こあひる)はみんなに頭(あたま)を下(さ)げ、出来(でき)るだけ恭(うやうや)しい様子(ようす)をしてみせましたが、そう訊(たず)ねられた事(こと)に対(たい)しては返答(へんとう)が出来(でき)ませんでした。野鴨達(のがもたち)は[#「野鴨達は」は底本では「野鴨達に」]彼(かれ)に向(むか)って、
「君(きみ)はずいぶんみっともない顔(かお)をしてるんだねえ。」
と、云(い)い、
「だがね、君(きみ)が僕達(ぼくたち)の仲間(なかま)をお嫁(よめ)にくれって言(い)いさえしなけりゃ、まあ君(きみ)の顔(かお)つきくらいどんなだって、こっちは構(かま)わないよ。」
と、つけ足(た)しました。
 可哀(かわい)そうに! この子家鴨(こあひる)がどうしてお嫁(よめ)さんを貰(もら)う事(こと)など考(かんが)えていたでしょう。彼(かれ)はただ、蒲(がま)の中(なか)に寝(ね)て、沢地(たくち)の水(みず)を飲(の)むのを許(ゆる)されればたくさんだったのです。こうして二日(ふつか)ばかりこの沢地(たくち)で暮(くら)していますと、そこに二羽(わ)の雁(がん)がやって来(き)ました。それはまだ卵(たまご)から出(で)て幾(いく)らも日(ひ)の経(た)たない子雁(こがん)で、大(たい)そうこましゃくれ者(もの)でしたが、その一方(いっぽう)が子家鴨(こあひる)に向(むか)って言(い)うのに、
「君(きみ)、ちょっと聴(き)き給(たま)え。君(きみ)はずいぶん見(み)っともないね。だから僕達(ぼくたち)は君(きみ)が気(き)に入(い)っちまったよ。君(きみ)も僕達(ぼくたち)と一緒(いっしょ)に渡(わた)り鳥(どり)にならないかい。ここからそう遠(とお)くない処(ところ)にまだほかの沢地(たくち)があるがね、そこにやまだ嫁(かたず)かない雁(がん)の娘(むすめ)がいるから、君(きみ)もお嫁(よめ)さんを貰(もら)うといいや。君(きみ)は見(み)っともないけど、運(うん)はいいかもしれないよ。」
 そんなお喋(しゃべ)りをしていますと、突然(とつぜん)空中(くうちゅう)でポンポンと音(おと)がして、二羽(わ)の雁(がん)は傷(きず)ついて水草(みずくさ)の間(あいだ)に落(お)ちて死(し)に、あたりの水(みず)は血(ち)で赤(あか)く染(そま)りました。
 ポンポン、その音(おと)は[#「その音は」は底本では「その者は」]遠(とお)くで涯(はて)しなくこだまして、たくさんの雁(がん)の群(むれ)は一(いっ)せいに蒲(がま)の中(なか)から飛(と)び立(た)ちました。音(おと)はなおも四方八方(しほうはっぽう)から絶(た)え間(ま)なしに響(ひび)いて来(き)ます。狩人(かりうど)がこの沢地(たくち)をとり囲(かこ)んだのです。中(なか)には木(き)の枝(えだ)に腰(こし)かけて、上(うえ)から水草(みずくさ)を覗(のぞ)くのもありました。猟銃(りょうじゅう)から出(で)る青(あお)い煙(けむり)は、暗(くらい)い木(き)の上(うえ)を雲(くも)の様(よう)に立(た)ちのぼりました。そしてそれが水上(すいじょう)を渡(わた)って向(むこ)うへ消(き)えたと思(おも)うと、幾匹(いくひき)かの猟犬(りょうけん)が水草(みずくさ)の中に跳(と)び込(こ)んで来(き)て、草(くさ)を踏(ふ)み折(お)り踏(ふ)み折(お)り進(すす)んで行(い)きました。可哀(かわい)そうな子家鴨(こあひる)がどれだけびっくりしたか! 彼(かれ)が羽(はね)の下(した)に頭(あたま)を隠(かく)そうとした時(とき)、一匹(ぴき)の大(おお)きな、怖(おそ)ろしい犬(いぬ)がすぐ傍(そば)を通(とお)りました。その顎(あご)を大(おお)きく開(ひら)き、舌(した)をだらりと出(だ)し、目(め)はきらきら光(ひか)らせているのです。そして鋭(するど)い歯(は)をむき出(だ)しながら子家鴨(こあひる)のそばに鼻(はな)を突(つ)っ込(こ)んでみた揚句(あげく)、それでも彼(かれ)には触(さわ)らずにどぶんと水(みず)の中(なか)に跳(と)び込(こ)んでしまいました。
「やれやれ。」
と、子家鴨(こあひる)は吐息(といき)をついて、
「僕(ぼく)は見(み)っともなくて全(まった)く有難(ありがた)い事(こと)だった。犬(いぬ)さえ噛(か)みつかないんだからねえ。」
と、思(おも)いました。そしてまだじっとしていますと、猟(りょう)はなおもその頭(あたま)の上(うえ)ではげしく続(つづ)いて、銃(じゅう)の音(おと)が水草(みずくさ)を通(とお)して響(ひび)きわたるのでした。あたりがすっかり静(しず)まりきったのは、もうその日(ひ)もだいぶん晩(おそ)くなってからでしたが、そうなってもまだ哀(あわ)れな子家鴨(こあひる)は動(うご)こうとしませんでした。何時間(なんじかん)かじっと坐(すわ)って様子(ようす)を見(み)ていましたが、それからあたりを丁寧(ていねい)にもう一遍(ぺん)見廻(みまわ)した後(のち)やっと立(た)ち上(あが)って、今度(こんど)は非常(ひじょう)な速(はや)さで逃(に)げ出(だ)しました。畑(はたけ)を越(こ)え、牧場(ぼくじょう)を越(こ)えて走(はし)って行(い)くうち、あたりは暴風雨(あらし)になって来(き)て、子家鴨(こあひる)の力(ちから)では、凌(しの)いで行(い)けそうもない様子(ようす)になりました。やがて日暮(ひぐ)れ方(がた)彼(かれ)は見(み)すぼらしい小屋(こや)の前(まえ)に来(き)ましたが、それは今(いま)にも倒(たお)れそうで、ただ、どっち側(がわ)に倒(たお)れようかと迷(まよ)っているためにばかりまだ倒(たお)れずに立(た)っている様(よう)な家(いえ)でした。あらしはますますつのる一方(いっぽう)で、子家鴨(こあひる)にはもう一足(ひとあし)も行(い)けそうもなくなりました。そこで彼(かれ)は小屋(こや)の前(まえ)に坐(すわ)りましたが、見(み)ると、戸(と)の蝶番(ちょうつがい)が一(ひと)つなくなっていて、そのために戸(と)がきっちり閉(しま)っていません。下(した)の方(ほう)でちょうど子家鴨(こあひる)がやっと身(み)を滑(すべ)り込(こ)ませられるくらい透(す)いでいるので、子家鴨(こあひる)は静(しず)かにそこからしのび入り、その晩(ばん)はそこで暴風雨(あらし)を避(さ)ける事(こと)にしました。
 この小屋(こや)には、一人(ひとり)の女(おんな)と、一匹(ぴき)の牡猫(おねこ)と、一羽(わ)の牝鶏(めんどり)とが住(す)んでいるのでした。猫(ねこ)はこの女御主人(おんなごしゅじん)から、
「忰(せがれ)や。」
と、呼(よ)ばれ、大(だい)の御(ご)ひいき者(もの)でした。それは背中(せなか)をぐいと高(たか)くしたり、喉(のど)をごろごろ鳴(な)らしたり逆(ぎゃく)に撫(な)でられると毛(け)から火(ひ)の子(こ)を出(だ)す事(こと)まで出来(でき)ました。牝鶏(めんどり)はというと、足(あし)がばかに短(みじか)いので
「ちんちくりん。」
と、いう綽名(あだな)を貰(もら)っていましたが、いい卵(たまご)を生(う)むので、これも女御主人(おんなごしゅじん)から娘(むすめ)の様(よう)に可愛(かわい)がられているのでした。
 さて朝(あさ)になって、ゆうべ入(はい)って来(き)た妙(みょう)な訪問者(ほうもんしゃ)はすぐ猫達(ねこたち)に見(み)つけられてしまいました。猫(ねこ)はごろごろ喉(のど)を鳴(な)らし、牝鶏(めんどり)はクックッ鳴(な)きたてはじめました。
「何(なん)だねえ、その騒(さわ)ぎは。」
と、お婆(ばあ)さんは部屋中(へやじゅう)見廻(みまわ)して言(い)いましたが、目(め)がぼんやりしているものですから、子家鴨(こあひる)に気(き)がついた時(とき)、それを、どこかの家(うち)から迷(まよ)って来(き)た、よくふとった家鴨(あひる)だと思(おも)ってしまいました。
「いいものが来(き)たぞ。」
と、お婆(ばあ)さんは云(い)いました。
「牡家鴨(おあひる)でさえなけりゃいいんだがねえ、そうすりゃ家鴨(あひる)の卵(たまご)が手(て)に入(はい)るというもんだ。まあ様子(ようす)を見(み)ててやろう。」
 そこで子家鴨(こあひる)は試(ため)しに三週間(しゅうかん)ばかりそこに住(す)む事(こと)を許(ゆる)されましたが、卵(たまご)なんか一(ひと)つだって、生(うま)れる訳(わけ)はありませんでした。
 この家(うち)では猫(ねこ)が主人(しゅじん)の様(よう)にふるまい、牝鶏(めんどり)が主人(しゅじん)の様(よう)に威張(いば)っています。そして何(なに)かというと
「我々(われわれ)この世界(せかい)。」
と、言(い)うのでした。それは自分達(じぶんたち)が世界(せかい)の半分(はんぶん)ずつだと思(おも)っているからなのです。ある日(ひ)牝鶏(めんどり)は子家鴨(こあひる)に向(むか)って、
「お前(まえ)さん、卵(たまご)が生(う)めるかね。」
と、尋(たず)ねました。
「いいえ。」
「それじゃ何(なん)にも口出(くちだ)しなんかする資格(しかく)はないねえ。」
 牝鶏(めんどり)はそう云(い)うのでした。今度(こんど)は猫(ねこ)の方(ほう)が、
「お前(まえ)さん、背中(せなか)を高(たか)くしたり、喉(のど)をごろつかせたり、火(ひ)の子(こ)を出(だ)したり出来(でき)るかい。」
と、訊(き)きます。
「いいえ。」
「それじゃ我々(われわれ)偉(えら)い方々(かたがた)が何(なに)かものを言(い)う時(とき)でも意見(いけん)を出(だ)しちゃいけないぜ。」
 こんな風(ふう)に言(い)われて子家鴨(こあひる)はひとりで滅入(めい)りながら部屋(へや)の隅(すみ)っこに小(ちい)さくなっていました。そのうち、温(あたたか)い日(ひ)の光(ひかり)や、そよ風(かぜ)が戸(と)の隙間(すきま)から毎日(まいにち)入(はい)る様(よう)になり、そうなると、子家鴨(こあひる)はもう水(みず)の上(うえ)を泳(およ)ぎたくて泳(およ)ぎたくて堪(たま)らない気持(きもち)が湧(わ)き出(だ)して来(き)て、とうとう牝鶏(めんどり)にうちあけてしまいました。すると、
「ばかな事(こと)をお言(い)いでないよ。」
 と、牝鶏(めんどり)は一口(ひとくち)にけなしつけるのでした。
「お前(まえ)さん、ほかにする事(こと)がないもんだから、ばかげた空想(くうそう)ばっかしする様(よう)になるのさ。もし、喉(のど)を鳴(なら)したり、卵(たまご)を生(う)んだり出来(でき)れば、そんな考(かんが)えはすぐ通(とお)り過(す)ぎちまうんだがね。」
「でも水(みず)の上(うえ)を泳(およ)ぎ廻(まわ)るの、実際(じっさい)愉快(ゆかい)なんですよ。」
と、子家鴨(こあひる)は言(い)いかえしました。
「まあ水(みず)の中(なか)にくぐってごらんなさい、頭(あたま)の上(うえ)に水(みず)が当(あた)る気持(きもち)のよさったら!」
「気持(きもち)がいいだって! まあお前(まえ)さん気(き)でも違(ちが)ったのかい、誰(たれ)よりも賢(かしこ)いここの猫(ねこ)さんにでも、女御主人(おんなごしゅじん)にでも訊(き)いてごらんよ、水(みず)の中(なか)を泳(およ)いだり、頭(あたま)の上(うえ)を水(みず)が通(とお)るのがいい気持(きもち)だなんておっしゃるかどうか。」
 牝鶏(めんどり)は躍気(やっき)になってそう言(い)うのでした。子家鴨(こあひる)は、
「あなたにゃ僕(ぼく)の気持(きもち)が分(わか)らないんだ。」
と、答えました。
「分(わか)らないだって? まあ、そんなばかげた事(こと)は考(かんが)えない方(ほう)がいいよ。お前(まえ)さんここに居(い)れば、温(あたた)かい部屋(へや)はあるし、私達(わたしたち)からはいろんな事(こと)がならえるというもの。私(わたし)はお前(まえ)さんのためを思(おも)ってそう言(い)って上(あ)げるんだがね。とにかく、まあ出来(でき)るだけ速(はや)く卵(たまご)を生(う)む事(こと)や、喉(のど)を鳴(なら)す事(こと)を覚(おぼ)える様(よう)におし。」
「いや、僕(ぼく)はもうどうしてもまた外(そと)の世界(せかい)に出(で)なくちゃいられない。」
「そんなら勝手(かって)にするがいいよ。」
 そこで子家鴨(こあひる)は小屋(こや)を出(で)て行(い)きました。そしてまもなく、泳(およ)いだり、潜(くぐ)ったり出来(でき)る様(よう)な水(みず)の辺(あた)りに来(き)ましたが、その醜(みにく)い顔容(かおかたち)のために相変(あいか)らず、他(ほか)の者達(ものたち)から邪魔(じゃま)にされ、はねつけられてしまいました。そのうち秋(あき)が来(き)て、森(もり)の木(き)の葉(は)はオレンジ色(いろ)や黄金色(おうごんいろ)に変(かわ)って来(き)ました。そして、だんだん冬(ふゆ)が近(ちか)づいて、それが散(ち)ると、寒(さむ)い風(かぜ)がその落葉(おちば)をつかまえて冷(つめた)い空中(くうちゅう)に捲(ま)き上(あ)げるのでした。霰(あられ)や雪(ゆき)をもよおす雲(くも)は空(そら)に低(ひく)くかかり、大烏(おおがらす)は羊歯(しだ)の上(うえ)に立(た)って、
「カオカオ。」
と、鳴(な)いています。それは、一目(ひとめ)見(み)るだけで寒(さむ)さに震(ふる)え上(あが)ってしまいそうな様子(ようす)でした。目(め)に入(はい)るものみんな、何(なに)もかも、子家鴨(こあひる)にとっては悲(かな)しい思(おも)いを増(ま)すばかりです。
 ある夕方(ゆうがた)の事(こと)でした。ちょうどお日様(ひさま)が今(いま)、きらきらする雲(くも)の間(あいだ)に隠(かく)れた後(のち)、水草(みずくさ)の中(なか)から、それはそれはきれいな鳥(とり)のたくさんの群(むれ)が飛(と)び立(た)って来(き)ました。子家鴨(こあひる)は今(いま)までにそんな鳥(とり)を全(まった)く見(み)た事(こと)がありませんでした。それは白鳥(はくちょう)という鳥(とり)で、みんな眩(まばゆ)いほど白(しろ)く羽(はね)を輝(かがや)かせながら、その恰好(かっこう)のいい首(くび)を曲(ま)げたりしています。そして彼等(かれら)は、その立派(りっぱ)な翼(つばさ)を張(は)り拡(ひろ)げて、この寒(さむ)い国(くに)からもっと暖(あたたか)い国(くに)へと海(うみ)を渡(わた)って飛(と)んで行(い)く時(とき)は、みんな不思議(ふしぎ)な声(こえ)で鳴(な)くのでした。子家鴨(こあひる)はみんなが連(つ)れだって、空(そら)高(たか)くだんだんと昇(のぼ)って行(い)くのを一心(いっしん)に見(み)ているうち、奇妙(きみょう)な心持(こころもち)で胸(むね)がいっぱいになってきました。それは思(おも)わず自分(じぶん)の身(み)を車(くるま)か何(なん)ぞの様(よう)に水(みず)の中(なか)に投(な)げかけ、飛(と)んで行(い)くみんなの方(ほう)に向(むか)って首(くび)をさし伸(の)べ、大(おお)きな声(こえ)で叫(さけ)びますと、それは我(われ)ながらびっくりしたほど奇妙(きみょう)な声(こえ)が出(で)たのでした。ああ子家鴨(こあひる)にとって、どうしてこんなに美(うつく)しく、仕合(しあわ)せらしい鳥(とり)の事(こと)が忘(わす)れる事(こと)が出来(でき)たでしょう! こうしてとうとうみんなの姿(すがた)が全(まった)く見(み)えなくなると、子家鴨(こあひる)は水(みず)の中(なか)にぽっくり潜(くぐ)り込(こ)みました。そしてまた再(ふたた)び浮(う)き上(あが)って来(き)ましたが、今(いま)はもう、さっきの鳥(とり)の不思議(ふしぎ)な気持(きもち)にすっかりとらわれて、我(われ)を忘(わす)れるくらいです。それは、さっきの鳥(とり)の名(な)も知(し)らなければ、どこへ飛(と)んで行(い)ったのかも知(し)りませんでしたけれど、生(うま)れてから今(いま)までに会(あ)ったどの鳥(とり)に対(たい)しても感(かん)じた事(こと)のない気持(きもち)を感(かん)じさせられたのでした。子家鴨(こあひる)はあのきれいな鳥達(とりたち)を嫉(ねた)ましく思(おも)ったのではありませんでしたけれども、自分(じぶん)もあんなに可愛(かわい)らしかったらなあとは、しきりに考(かんが)えました。可哀(かわい)そうにこの子家鴨(こあひる)だって、もとの家鴨達(あひるたち)が少(すこ)し元気(げんき)をつける様(よう)にしてさえくれれば、どんなに喜(よろこ)んでみんなと一緒(いっしょ)に暮(くら)したでしょうに!
 さて、寒(さむ)さは日々(ひび)にひどくなって来(き)ました。子家鴨(こあひる)は水(みず)が凍(こお)ってしまわない様(よう)にと、しょっちゅう、その上(うえ)を泳(およ)ぎ廻(まわ)っていなければなりませんでした。けれども夜毎々々(よごとよごと)に、それが泳(およ)げる場所(ばしょ)は狭(せま)くなる一方(いっぽう)でした。そして、とうとうそれは固(かた)く固(かた)く凍(こお)ってきて、子家鴨(こあひる)が動(うご)くと水(みず)の中(なか)の氷(こおり)がめりめり割(わ)れる様(よう)になったので、子家鴨(こあひる)は、すっかりその場所(ばしょ)が氷(こおり)で、閉(と)ざされてしまわない様(よう)力(ちから)限(かぎ)り脚(あし)で水(みず)をばちゃばちゃ掻(か)いていなければなりませんでした。そのうちしかしもう全(まった)く疲(つか)れきってしまい、どうする事(こと)も出来(でき)ずにぐったりと水(みず)の中(なか)で凍(こご)えてきました。
 が、翌朝(よくあさ)早(はや)く、一人(ひとり)の百姓(ひゃくしょう)が[#「百姓が」は底本では「百性が」]そこを通(とお)りかかって、この事(こと)を見(み)つけたのでした。彼(かれ)は穿(は)いていた木靴(きぐつ)で氷(こおり)を割(わ)り、子家鴨(こあひる)を連(つ)れて、妻(つま)のところに帰(かえ)って来(き)ました。温(あたた)まってくるとこの可哀(かわい)そうな生(い)き物(もの)は息(いき)を吹(ふ)きかえして来(き)ました。けれども子供達(こどもたち)がそれと一緒(いっしょ)に遊(あそ)ぼうとしかけると、子家鴨(こあひる)は、みんながまた何(なに)か自分(じぶん)にいたずらをするのだと思(おも)い込(こ)んで、びっくりして跳(と)び立(た)って、ミルクの入(はい)っていたお鍋(なべ)にとび込(こ)んでしまいました。それであたりはミルクだらけという始末(しまつ)。おかみさんが思(おも)わず手(て)を叩(たた)くと、それはなおびっくりして、今度(こんど)はバタの桶(おけ)やら粉桶(こなおけ)やらに脚(あし)を突(つ)っ込(こ)んで、また匐(は)い出(だ)しました。さあ大変(たいへん)な騒(さわ)ぎです。おかみさんはきいきい言(い)って、火箸(ひばし)でぶとうとするし、子供達(こどもたち)もわいわい燥(はしゃ)いで、捕(つかま)えようとするはずみにお互(たが)いにぶつかって転(ころ)んだりしてしまいました。けれども幸(さいわ)いに子家鴨(こあひる)はうまく逃(に)げおおせました。開(ひら)いていた戸(と)の間(あいだ)から出(で)て、やっと叢(くさむら)の中(なか)まで辿(たど)り着(つ)いたのです。そして新(あら)たに降(ふ)り積(つも)った雪(ゆき)の上(うえ)に全(まった)く疲(つか)れた身(み)を横(よこ)たえたのでした。
 この子家鴨(こあひる)が苦(くる)しい冬(ふゆ)の間(あいだ)に出遭(であ)った様々(さまざま)な難儀(なんぎ)をすっかりお話(はな)しした日(ひ)には、それはずいぶん悲(かな)しい物語(ものがたり)になるでしょう。が、その冬(ふゆ)が過(す)ぎ去(さ)ってしまったとき、ある朝(あさ)、子家鴨(こあひる)は自分(じぶん)が沢地(たくち)の蒲(がま)の中(なか)に倒(たお)れているのに気(き)がついたのでした。それは、お日様(ひさま)が温(あたたか)く照(て)っているのを見(み)たり、雲雀(ひばり)の歌(うた)を聞(き)いたりして、もうあたりがすっかりきれいな春(はる)になっているのを知(し)りました。するとこの若(わか)い鳥(とり)は翼(つばさ)で横腹(よこばら)を摶(う)ってみましたが、それは全(まった)くしっかりしていて、彼(かれ)は空(そら)高(たか)く昇(のぼ)りはじめました。そしてこの翼(つばさ)はどんどん彼(かれ)を前(まえ)へ前(まえ)へと進(すす)めてくれます。で、とうとう、まだ彼(かれ)が無我夢中(むがむちゅう)でいる間(あいだ)に大(おお)きな庭(にわ)の中(なか)に来(き)てしまいました。林檎(りんご)の木(き)は今(いま)いっぱいの花(はな)ざかり、香(かぐ)わしい接骨木(にわどこ)はビロードの様(よう)な芝生(しばふ)の周(まわ)りを流(なが)れる小川(おがわ)の上(うえ)にその長(なが)い緑(みどり)の枝(えだ)を垂(た)れています。何(なに)もかも、春(はる)の初(はじ)めのみずみずしい色(いろ)できれいな眺(なが)めです。このとき、近(ちか)くの水草(みずくさ)の茂(しげ)みから三羽(わ)の美(うつく)しい白鳥(はくちょう)が、羽(はね)をそよがせながら、滑(なめ)らかな水(みず)の上(うえ)を軽(かる)く泳(およ)いであらわれて来(き)たのでした。子家鴨(こあひる)はいつかのあの可愛(かわ)らしい鳥(とり)を思(おも)い出(だ)しました。そしていつかの日(ひ)よりももっと悲(かな)しい気持(きもち)になってしまいました。
「いっそ僕(ぼく)、あの立派(りっぱ)な鳥(とり)んとこに飛(と)んでってやろうや。」
と、彼(かれ)は叫(さけ)びました。
「そうすりゃあいつ等(ら)は、僕(ぼく)がこんなにみっともない癖(くせ)して自分達(じぶんたち)の傍(そば)に来(く)るなんて失敬(しっけい)だって僕(ぼく)を殺(ころ)すにちがいない。だけど、その方(ほう)がいいんだ。家鴨(あひる)の嘴(くちばし)で突(つつ)かれたり、牝鶏(めんどり)の羽(はね)でぶたれたり、鳥番(とりばん)の女(おんな)の子(こ)に追(お)いかけられるなんかより、どんなにいいかしれやしない。」
こう思(おも)ったのです。そこで、子家鴨(こあひる)は急(きゅう)に水面(すいめん)に飛(と)び下(お)り、美(うつく)しい白鳥(はくちょう)の方(ほう)に、泳(およ)いで行(い)きました。すると、向(むこ)うでは、この新(あたら)しくやって来(き)た者(もの)をちらっと見(み)ると、すぐ翼(つばさ)を拡(ひろ)げて急(いそ)いで近(ちか)づいて来(き)ました。
「さあ殺(ころ)してくれ。」
と、可哀(かわい)そうな鳥(とり)は言(い)って頭(あたま)を水(みず)の上(うえ)に垂(た)れ、じっと殺(ころ)されるのを待(ま)ち構(かま)えました。
 が、その時(とき)、鳥(とり)が自分(じぶん)のすぐ下(した)に澄(す)んでいる水(みず)の中(なか)に見(み)つけたものは何(なん)でしたろう。それこそ自分(じぶん)の姿(すがた)ではありませんか[#「ありませんか」は底本では「ありませんが」]。けれどもそれがどうでしょう、もう決(けっ)して[#「決して」は底本では「決しで」]今(いま)はあのくすぶった灰色(はいいろ)の、見(み)るのも厭(いや)になる様(よう)な前(まえ)の姿(すがた)ではないのです。いかにも上品(じょうひん)で美(うつく)しい白鳥(はくちょう)なのです。百姓家(ひゃくしょうや)の[#「百姓家の」は底本では「百性家の」]裏庭(にわ)で、家鴨(あひる)の巣(す)の中(なか)に生(うま)れようとも、それが白鳥(はくちょう)の卵(たまご)から孵(かえ)る以上(いじょう)、鳥(とり)の生(うま)れつきには何(なん)のかかわりもないのでした。で、その白鳥(はくちょう)は、今(いま)となってみると、今(いま)まで悲(かな)しみや苦(くる)しみにさんざん出遭(であ)った事(こと)が喜(よろこ)ばしい事(こと)だったという気持(きもち)にもなるのでした。そのためにかえって今(いま)自分(じぶん)とり囲(かこ)んでいる幸福(こうふく)を人(ひと)一倍(ばい)楽(たの)しむ事(こと)が出来(でき)るからです。御覧(ごらん)なさい。今(いま)、この新(あたら)しく入(はい)って来(き)た仲間(なかま)を歓迎(かんげい)するしるしに、立派(りっぱ)な白鳥達(はくちょうたち)がみんな寄(よ)って、めいめいの嘴(くちばし)でその頸(くび)を撫(な)でているではありませんか。
 幾人(いくにん)かの子供(こども)がお庭(にわ)に入(はい)って来(き)ました。そして水(みず)にパンやお菓子(かし)を投(な)げ入(い)れました。
「やっ!」
と、一番(いちばん)小(ちい)さい子(こ)が突然(とつぜん)大声(おおごえ)を出(だ)しました。そして、
「新(あたら)しく、ちがったのが来(き)てるぜ。」
 そう教(おし)えたものでしたら、みんなは大喜(おおよろこ)びで、お父(とう)さんやお母(かあ)さんのところへ、雀躍(こおどり)しながら馳(か)けて行(い)きました。
「ちがった白鳥(はくちょう)が[#「白鳥が」は底本では「白鳥か」]いまーす、新(あたら)しいのが来(き)たんでーす。」
口々(くちぐち)にそんな事(こと)を叫(さけ)んで。それからみんなもっとたくさんのパンやお菓子(かし)を貰(もら)って来(き)て、水(みず)に投(な)げ入(い)れました。そして、
「新(あたら)しいのが一等(いっとう)きれいだね、若(わか)くてほんとにいいね。」
と、賞(ほ)めそやすのでした。それで年(とし)の大(おお)きい白鳥達(はくちょうたち)まで、この新(あたら)しい仲間(なかま)の前(まえ)でお辞儀(じぎ)をしました。若(わか)い白鳥(はくちょう)はもうまったく気(き)まりが悪(わる)くなって、翼(つばさ)の下(した)に頭(あたま)を隠(かく)してしまいました。彼(かれ)には一体(いったい)どうしていいのか分(わか)らなかったのです。ただ、こう幸福(こうふく)な気持(きもち)でいっぱいで、けれども、高慢(こうまん)な心(こころ)などは塵(ちり)ほども起(おこ)しませんでした。
 見(み)っともないという理由(りゆう)で馬鹿(ばか)にされた彼(かれ)、それが今(いま)はどの鳥(とり)よりも美(うつく)しいと云(い)われているのではありませんか。接骨木(にわどこ)までが、その枝(えだ)をこの新(あたら)しい白鳥(はくちょう)の方(ほう)に垂(た)らし、頭(あたま)の上(うえ)ではお日様(ひさま)が輝(かがや)かしく照(て)りわたっています。新(あたら)しい白鳥(はくちょう)は羽(はね)をさらさら鳴(な)らし、細(ほ)っそりした頸(くび)を曲(ま)げて、心(こころ)の底(そこ)から、
「ああ僕(ぼく)はあの見(み)っともない家鴨(あひる)だった時(とき)、実際(じっさい)こんな仕合(しあわ)せなんか夢(ゆめ)にも思(おも)わなかったなあ。」
と、叫(さけ)ぶのでした。




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