暗号舞踏人の謎
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著者名:ドイルアーサー・コナン 

君のお手柄の一切はこれだけだが、さてアベー・スラネー君、この上はただ法の適用を受けるだけさ」
「もしエルシーが死ぬなら、そりゃもうこの身体などは、どうなったっておかまいなしだ」
 その亜米利加(アメリカ)人は云った。そして彼は片方の掌(てのひら)に、皺くしゃになっていた書ものに見入った。
「これを御覧下さい」
 彼は目を疑い深く閃かせながら叫ぶのであった。
「あなた方は私をおどかしているのではないでしょうね? もし彼の女があなた方の仰せのように非常に重態であるとしたら、一たい誰がこの手紙をかいたのでしょう?」
 彼はその紙片をテーブルの上に投げてよこした。
「君をここに来させるために、僕が書いたのだ」
「あなたが書きましたって? この世界中でわれわれの仲間の外(ほか)は、誰もこの舞踏人の秘密を解るものが無いのですよ。どうしてあなたなどが書けるものですか?」
「君、誰かが案出したものとすれば、また誰かがそれを解くことが出来るさ」
 ホームズは云った。
「さてスラネー君、君をノーアウッドに、連れてゆく馬車が来た。しかしまだ、君の悪業に対して、多少の罪滅しをする時間はある。君は気がついているかどうか、――実はヒルトン・キューピット夫人は、夫君(ふくん)の殺害に対して、非常に重大な嫌疑を受けていたのだが、幸いに僕が現われて、たまたま持ち合せていた智識で、夫人は告発されることを免れることとなったのだ。それで君の夫人に対する、最後の償(つぐない)として、夫人はこの大悲惨事に対しては、直接にも間接にも、全然責任はないものであると云うことを、全世界に明瞭にしたまえ」
「もうどうにでもなるがよい」
 亜米利加(アメリカ)人は云った。
「えい一そのこと、何もかも有りのままにさらけ出してしまいましょう」
「そうだ。それが一番君のためなのだ。本職もそれを君にすすめる」
 検察官はあたかも英国刑法の、厳粛な公明を示すものの如く云った。
 スラネーは肩をすくめた。
「早速申し上げましょう」
 彼は語り出した。
「まず第一に皆さんの御了解を得たいことは、私はあの夫人とは、ごく小供の時からの知り合いであると云うことです。私共も七人の仲間で市俄古(シカゴ)で徒党を組んでいたのですが、あのエルシーの父はその首領でした。悧※[#「りっしんべん+巧」、126-1]な人で、パトリック老人と云ったものです。この暗号を案出したのも彼ですが、これはもうあなたがこれを解く鍵を持っていなかったら、ただ小供のいたずら書としか思われないものですからね。さて、あのエルシーは私共のすることを多少気がついたのですが、しかし彼の女は、こうした仕事を見ることはもう堪えられなかったのですな。そして彼の女は自分の、これは公明正大な金を多少持っていたので、私達の中から抜け出して、ロンドンに遁げて来てしまったのです。私は彼の女とは婚約の仲でしたが、これは私は今でもそう思っているのですが、もし私が商売替えをしたら、彼の女はきっと私と結婚してくれたに相違ありませんでした。彼の女はかりそめにも不正なことに対しては、掛り合いを持ちたくなかったのでしょう。そして私がやっと彼の女の居所をつきとめた時は、彼の女はもうこの英国人と結婚していました。それで私は手紙を出しましたが、しかし返事はくれませんでした。私はそれでこっちに海を越えて来たのですが、手紙はもう何の役にも立たないので私は、あの通牒を彼の女の目の止まるところに置いたのでした。
 そしてとにかく私がここに来てから一ヶ月になります。あの農場に住んで、地下の一室を持って、夜間は毎夜のように、自由に出入が出来ました。しかし誰もそのことは知りませんでした。私はあらゆる手段をつくして、エルシーを誘い出そうとしました。彼の女はたしかに、通牒は読んだに相違なく、遂に一度だけは返事をくれました。それに私は少し気をよくして、彼の女の脅迫を始めたのです。それから彼の女は一本の手紙をよこして、私に立ち去ってくれるようにと、懇願して来ました。そしてもし夫の身辺に、その名誉を汚すようなことでも起ったら、もう彼の女は立っても寝てもいられないからと云うのでした。そして、もし私が素直にここを立ち去って、彼の女を安穏にのこして行ってくれるなら、夫の眠っているのを見計らって、暁(あ)け方の三時に起きて来て、私に立ち退くように説得するために、金を持って来ました。私はこれを見て、嚇(かっ)としてしまって、彼の女の腕を取って、窓から引ずり落そうとしたのです。と、――その瞬間に、彼の女の夫は、ピストルを手にして、飛び出して来ました。エルシーは床の上に跼まってしまったので、私たちは顔と顔とを向き合せていました。私も身体をこごめました。そして鉄砲を取り出して、彼を脅かして自分も遁げようとしました。しかし彼は発射し、しかも弾丸は外れました。それで私もほとんどおくれずに引き金を引きました。彼は斃れたのです。私はそれから庭を横切って遁げましたが、私の後から窓を閉める音がきこえたのでした。皆さんこれは、すべて有りのままで、神明に誓って偽りはありません。そして私は、その後は、あの若者がこの手紙を持って来て、私が、まるでむくどりのように、あなた方の網にかかってしまうまでは、何にも知りませんでした」
 亜米利加(アメリカ)人が話している中に、馬車は着いていた。その中には制服の巡査が二人いた。検察官マーテンは起ち上って、犯人の肩に手をかけた。
「さあ行こう、――」
「ちょっと彼の女に逢わせて下さいませんでしょうか?」
「いや、夫人はまだ意識が回復しないのだ。シャーロック・ホームズ先生、――何卒この後も重大事件が突発した時は、よろしく御助力下さいますよう、幾重にもお願い申します」
 私たちは窓際に立って、馬車の遠ざかってゆくのを眺めた。それから私は振り返った途端に犯人がテーブルの上に投げて行った、紙片を丸めたものを見つけた。それはホームズが彼をおびき寄せた手紙であった。
「さあ、君、これを読めるかね? ワトソン君、――」
 ホームズは笑いながら云った。
 それは一語もなく、ただ次のような舞踏人の短い一行であった。

「いや、僕が使った、暗号表を用いれば、これはもうごく簡単なものだとわかるよ」
 ホームズは云った。
「これは、"COME HERE AT ONCE"(すぐに来い)と云うだけのことだよ、いくら何でもこの招待状では、彼は万障を繰合せても来ると思ったのさ。何しろこうしたものを書ける者は、夫人以外には無いのだと彼は信じているのだからね。さてこうして、親愛なワトソン君、我々もこの悪業の手先に使われていた舞踏人を、今度は善い意味のものに転化してしまったし、また僕も君の覚書の中に、一つはなはだ特異な件をお土産にしようと云う約束も、これでともかく果したわけだ。三時四十分の汽車があるが、我々はベーカー街に行って、夕食でも食べるとしようか、――」
 簡単に結末だけを。
 この亜米利加(アメリカ)人のアベー・スラネーは、ノーアウィッチの冬期巡回裁判で、死刑を宣告されたのであったが、しかしヒルトン・キューピット氏が、最初に発射したと云うことが明瞭になったので情状酌量して、死刑を改めて懲役刑とされた。
 それからヒルトン・キューピット夫人については、その後負傷はすっかり癒り、寡婦として一貫し、その生涯を救貧事業と、亡夫の遺産管理に専念していると云うことをきいただけである。




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