自転車嬢の危難
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著者名:ドイルアーサー・コナン 

 一八九四年から一九〇一年までの八年間は、シャーロック・ホームズは、とても多忙な身であった。
 この八年間に、公の事件で重大なものは、一つとしてホームズのところに、持って来られなかったものはなかったし、またその外(ほか)に私的の事件で扱ったものは、無数で、その中(うち)でも、実に錯綜した難問題で、颯爽たる役目をやったものもたくさんあった。この雑多の仕事の中では、もちろんその大部分は、赫々(かくかく)たる成功を収めているのであったが、しかしまたその二三のものでは、全く避けがたい、不可能な失敗に終ったものもあった。こうして無数の興味ある事件の記録を、私は山積するほどたくわえてあるし、またその中の大部分には、私自身も関与しているので、まずどれから読者諸君の前に提供しようかと云うことは、私にとってはとても心迷いがされて、容易に決断のつかないことは想像してもらいたい。しかし私はやはり、以前からの習慣を踏襲して、事件の選択方針としては、事件が残忍で興味があったと云うことよりも、むしろその解決方法が実に巧妙で劇的であったと云う見地からしてみたいと思う。
 こう云う理由から私はまず読者諸君の前にチャーリントンの、一人歩きの自転車乗り嬢であった、ヴァイオレット・スミス嬢の事件を、持ち出そうと思う。この事件は我々の探査が、意外から意外へと外(そ)れて、更に全く思いももうけなかった、悲劇のクライマックスを示した、全く意想外の興味ある事件だったものである。私の友人の有名を成さしめた事柄については、毎度お断りする通り、詳細に発表することは許されない事情にあるが、しかし私の浩翰(こうかん)な犯罪秘記の中(うち)でも、こうした小さな物語を書く上から云って、この事件は一段と際立った出色の点があると思われるのである。
 一八九五年の私の記録を開いてみると、私たちが初めて、ヴァイオレット・スミス嬢を知ったのは、四月二十三日土曜日と記されてある。私はこれを見て思い出すが、彼の女の来訪をシャーロック・ホームズは、ひどく歓迎しなかった。と云うのは当時はホームズは、煙草成金として有名な、ジョン・ヴィセント・ハーデンに関する、とても錯綜した難かしい、脅迫事件に没頭していたのであった。私の友人は、何よりもまず事物の正確と、思考の集中を愛するだけに、また、自分のやりかけている事に、横道から闖入されることも、ひどく嫌うのであった。ヴァイオレット・スミス嬢は、その夜おそく、ベーカー街にやって来たのであったが、この美しい背の高い、物腰の上品な、若い婦人に突然に来訪されて、その話を持ち出されて、懇ろに依頼されても、ホームズはその持前の柄にもなく、意外に不愛想であった。しかし彼はもう今は手一ぱいで、何も引き受ける余裕は無いと云うようなことを云っても、結局その美しい訪客にとっては、何の効果もなかった。もうどんなことがあっても、一通りの事情を話して、いやでも応でも、ホームズの助力を得ようと、その婦人は死に物狂いの決心をきめて来たので、引きずり出しでもすればともかく、さもなければ、もうとても追い返すことなどは出来そうも無い容子であった。それでとうとうホームズも根負けがしてしまって、はなはだ気の進まないような微笑を漏らしながら、とにかく一応その話をきこうと云うことで、その美しい訪客を椅子に招じたのであった。
「とにかくお嬢さん、あなたはそんなに自転車に熱中しては、身体のためによくありませんよ」
 ホームズは、例の鋭い視線を、その美しい訪客に一渡り投げかけた後に云った。
 彼の女はハッと驚いて、自分の脚の方を見下した。私もその方を見ると、靴の底の横の方が、ベタルのために軽くささくれ立っていた。
「そうです、私は御覧の通り自転車に乗りますが、実は私が今夜お訪ねしましたのも、これに関連があるのでございますが、――」
 私の友人はその若い婦人の、手袋を取っていた手をとって、あたかも科学者が標本でも観察する時のように、冷静に注意深く眺めた。
「いや、失礼はお許し下さい。どうもこれは私の商売柄なんで仕方がないのです」
 彼はその手を放しながら云った。
「私は今もう少しであなたをタイプライターを打ってる人と間違えるところでしたが、もちろんあなたは、音楽家ですな。で、ワトソン君指先が箆(へら)のように平べったくなっているだろう、――これがこの二つの職業には、共通の特徴なんだが、しかしこちらは表情に、霊感的なところがある」
 私の友人はこう云いながら、その婦人の顔を静かに、燈火(あかり)の方に向けた。
「これはタイピストには見られないものだ。この御嬢さんは音楽家さ」
「その通りでございます、ホームズ先生、私は音楽を教えておりますの」
「それも田舎ででしょう、――あなたの御血色では、――」
「そうです。サーレーの外れの、ファーナムの近くでございます。」
「それはとても美しい近郊ですな。私どももあの地方にはたくさんの面白い聯想(れんそう)を持っていますよ。そらワトソン君、俺たちがあの文書偽造犯人の、アーチェ・スタンフォードを捕えたのは、あの近所だったよ。さてヴァイオレットさん、そのサーレーの外れのファーナムの近くに、どんなことがあったのですかお話し下さい」
 その若い美しい娘さんは、とてもよく落ついて明瞭に次のような奇妙な物語りを話し出した。
「ホームズ先生、――父は亡くなりましたが、ジェームズ・スミスと申しまして、古い帝室劇場の、オーケストラのコンダクターをしておりました。そして私は母と二人生きのこったのでございますが、私たちには、身寄りの者と云うものも無く、ただラルフ・スミスと云う叔父が一人あるだけでございましたが、それも二十五年も前に、アフリカに渡って行ったっきり、その後は何の消息もございませんでした。父が亡くなった時は、私どもは大変貧乏でしたが、ある日私どもは、タイムス紙上に私たちの住所を求めている広告が出ていたときかされたのでございました。まあ私たちの喜(よろこび)は御想像にお委せしますが、実は私たちは誰か私たちに遺産でものこしてくれたのかと、本当に喜びました。私たちは早速、新聞に出ていた弁護士のところにゆきました。そこで私たちは、カラザースとウードレーと云う二人の方にお目にかかりました。この人達はどちらも、南アフリカから帰国していた人たちでした。その人たちの云うには、その人たちは私達の叔父の友だちで、叔父は二三ヶ月前に、ヨハネスブルグで貧困のうちに亡くなったが、その最後の際に、その親戚の者で、大変困っている者があるかどうかを、調べてみてくれと云ったとのことでした。生前はちっとも交渉の無かった叔父のラルフが、その死後に気にかけてくれるなどと云うことは、全く不思議なことでございましたが、なおカラザースさんの云うには、叔父のラルフが私の父の死をきいたので、私たちの上に責任を感じてそう言ったのだと云うことでした」
「ちょっと――」
 ホームズは言葉をさしはさんだ。
「その会見はいつでした?」
「去年の十二月――つまり四ヶ月前でございます」
「さあ、その先を、――」
「ウードレーと云う人は、私にはとてもいやな男に思われました。始終私に失礼な目つきをして、――下品な膨れっ面の、赤い髭をした、テカテカ光らせた髪を、額の両側に垂れ下げた、いやらしい奴ったらありませんでしたわ。私はこんな男と知り合いになることは、とてもシイリールに対してすまないと思いましたわ」
「おやおや、シイリールと云うのは、そうすると、あの人の名前なのですか!」
 ホームズはニヤニヤ笑いながら云った。
 この美しい娘さんも、顔を真赤にして笑った。
「ホームズ先生、そうでございます。シイリール・モートンと申しますの。電気技師ですわ。私たちは、この夏の末には、結婚しようと思っておりますの。まあいやだ私は、どうしてこんなことまで、お話してしまったのでしょう! 私はただ、ウードレーと云う人はとてもいやな奴で、カラザースさんの方は、もっと年はとっていましたが、ずっと性に合った人だったと云うことだけを、お話するつもりでしたのに、――カラザースさんは、やや暗い沈んだ感じの、きれいに顔を剃った、口数の少ない人でした。そして物腰はとても上品で、笑う時はとても気持のいい人でした。そして父の死後のことについて、親切に訊ねて下さって、私たちが貧しいと云うことを知りましたら、その十になるお嬢さんに、音楽を教えに来てくれと云うのでした。それで私は、母の側(そば)を離れるのはいやだと申しましたら、毎土曜日には、母のところに帰るように、そして給料は、年に百磅(ポンド)出してくれると云うことでした。これは申すまでもなく私にとっては、とても素晴らしい給料でございますからね。それで私はそれをお受けして、ファーナムから六哩(まいる)ばかり離れた、チルターン・グランジに行きました。カラザースさんは独身男でしたが、しかし、家政婦のディクソンと云う、もう年配の、なかなかしっかりした婦人と婚約が出来ていました。小供は大層可愛(かあい)い子で、もう何もかも面白くゆきそうでした。カラザースさんは、大へん親切で、音楽もよく解り、夕(ゆうべ)の集いはとても愉快でした。そして土曜日土曜日には、私は町の方の母のところに帰るのでございました。
 こうした私の幸福な生活に、最初の禍(わざわい)を持って来たのは、すなわちウードレーの赤髭顔でございました。彼は一週間と云うことで訪ねて来たのでしたが、しかし私には全くその間が三月以上もの長さに思われましたわ。彼はもともと誰からも嫌われる人間のようでしたが、しかし私にとっては取り分けて悪人でした。彼は失礼にも私を愛してるなどと云って、その富を鼻にかけて、もし私が彼と結婚するなら、ロンドンで一番大きなダイヤモンドを買ってくれるなどと云うのでした。そして遂には、私がどうしても取り合わないと見て取って、ある日の夕食後に、私をしっかりと押えつけて、――それはとても怖ろしい力でしたが、私がキスをしない中(うち)は、どうしても放さないと云うのでした。そこにちょうどカラザースさんが入って来て、彼から私を引き放してくれましたけれど、今度はこの暴漢は、主人の方に方向転換して、散々なぐりかかって、遂にその顔に怪我までもさせてしまったのでした。これが申すまでもなくその男の訪問の最後でございましたが、次の日カラザースさんは、私に陳謝して下さって、もう二度とこう云う侮辱には遭わせないからと、固く誓って下さるのでございました。その後は私は、ウードレーをもう見ませんの。
 そしてホームズ先生、これからがいよいよ、私が今夜伺った、特別の事情のお話になるのでございますが、まず私は毎土曜日の午前に、十二時二十二分の列車に乗るために、ファーナムの停車場まで、自転車に乗ってゆくことを御承知おき下さいまし。そのチルタアーングランジからの道は、それはそれは寂しいのでございますよ。殊にあの一方は、チャーリントンの荒地で、その一方はチャーリントンの廃院を包む森の間の、一哩(まいる)ばかりの間と云うものは、とても寂しいのでございますの。あんな寂しいところは全く、どこにもないと云ってもいいほどだと思いますわ。あのクロックスベリーの丘の、広い道に来るまでは、荷馬車一台、百姓一人に逢うことさえも稀なのでございます。それがちょうど二週間前でございますが、私がちょうどそこを通っている時に、ふと肩越しに後を振り返ってみましたら、やはり自転車に乗った一人の男が、私の後方二百碼(ヤード)くらいのところをついて来るのに目が止まりました。その男は中年の、身体の小さな、黒い髭の者のようでございましたが、それからファーナムに着く前に、また振り返ってみましたら、もうその男は見えませんでしたので、私も別に意にも止めませんでした。ところが月曜日に私が帰って来る時に、またこの同じ場所で、同じ姿を見た時は、私は全く吃驚してしまいました。それから更にその次の土曜日と月曜日にも、同様でしたので、今度は私は本当に怖ろしくなってしまったのでございます。その男は常に一定の間隔を取っていて、決して私に何の妨害もしませんでしたが、それでも変に気味悪く奇妙なのでございます。それで私はこの事をカラザースさんに話しましたら、カラザースさんは、私の云うことに、多少の興味を持ったようでしたが、馬と馬車を用意したから、今後はそう云う寂しい処を、一人で通らせるようなことはしないと仰って下さるのでございました。
 その馬と馬車は、今週は来るはずでしたのを、何かの理由(わけ)で来ませんでしたので、また私は自転車で停車場に行くことになったのでございました。つまり今朝でございますが、やはり私がチァーリントンの森にさしかかりますと、以前二週間の間に見た男の姿が、またしてもたしかについて来るのでございました。その男はいつも私から、その顔がよく見えない程度に離れておりますので、よくは見ることが出来ませんでしたが、いずれ私の知らない者だろうと思われますの。彼は黒い着物を着て、地衣(きれ)の帽子をかぶっていました。私の目にはっきりと残っているものは、ただその灰黒色(かいこくしょく)の髭だけでございます。今日は私は、決して怖ろしくはありませんでしたが、むしろ好奇心にかられて、一たいどんな者か、そして何のためにこんなことをするのかを確めようと心をきめて、自転車の速力をゆるめましたら、やはり向うでも、速力を落すのでございます。それで私は遂に車を止めましたら、やはり向うでも止めました。それで今度はうまく瞞しこんでやろうと思って、ちょうど道はそこで鋭く曲りますので、私は全速力を出して、その角を曲って、急に車を止めて、その角のところに待ち伏せしましたの。その者はやはり全速力で追っかけて来て、その角の前を、うまく通りすぎるだろうと思いましたら、やはりその男は追っかけて来ません。それで私はすぐに引き返して、その角から後の方を見ましたら、そこからは一哩(まいる)くらいの間は、見通しが出来るのでしたが、もうその男の姿は見えませんでした。その上に更に不思議なことには、その間には彼が遁(に)げこむような、横道は決して無いのでございます」
 ホームズは喜色を漏らして、彼の手をさすった。
「この事件はなかなか特色がある」
 彼は云った。
「あなたが道の曲り角をまがってから、道路の上に誰も居なくなったのを見たのは、どのくらいの時間がたってからでした?」
「まあ、せいぜい二分か三分だと思いましたが、――」
「それではその者は、道を真直ぐに遁げ帰ったはずはないが、――またそこには全く、横道もないと云うのですな?」
「ございません」
「それではその者は、どっちかの側に、遁げこんだのでしょう、――」
「もしそうだとすれば、それは荒地の方なはずはありません。もしそうでしたら、私から見えたはずでしたから、――」
「それでは我々は結局、その者はチァーリントン廃院の中に遁げこんだに相違ないと、考えることが出来ますな。いや私も知っていますが、あのチァーリントンの廃院は、すぐ道路の側(そば)になっていますからね。その外に何かありましたか?」
「ホームズ先生、もうそれだけでございますが、どうも私は先生にお目にかかって、いろいろと伺わない中(うち)は安心が出来ませんので、――」
 ホームズはしばらくの間はただじっと黙していた。
「あなたの御婚約の方は、どちらに居らっしゃるのですか?」
 彼はようやく口を開いた。
「コヴェントリーの、ミドランド電気会社に居りますの」
「不意にあなたを訪問して来るようなことは、ありませんでしたか?」
「あら、ホームズ先生、それでは私がまるであの人を知らないようではございませんの?」
「その他にまだあなたを好きな人がありましたか?」
「シイリールを知る前に、少しございましたわ」
「その後には?」
「その後でしたら、あの怖ろしいウードレーでございます。まあもしあの男もそうだとお思いになるならでございますが、――」
「その他にはありませんか、――その他には?」
 この美しい若い依頼者は、ちょっと困った形であった。
「いや、それではあの人はどんな人ですかね?」
 ホームズは訊ねた。
「ああ、――でもこれはただ私だけの想像なんでございますけれど、私にはあの主人のカラザースさんは、とても興味を持っていると思われることが時々ございましたわ。私たちは、全く開けっ放しで、夜は私はあの方の伴奏を弾きました。もちろんしかし彼はいつも、何にも云いませんでした。彼はたしかに立派な紳士ですがしかし、女の心と云うものは、いつもよく解っているものでございます」
「ははあ!」
 ホームズは真面目な表情をした。
「生計の方はどうして立てているのですか?」
「あの人はお金持ちですもの」
「馬車や馬は持っていませんか?」
「ええ、しかし何しろとてもいい生活でございますよ。あの方は毎週二三度はロンドンに出ますが、何でも南アフリカの採金地の株に、非常に興味を持っているようでございますわ」
「それではスミスさん、いずれこの上にも変ったことがありましたら、また入らして下さい。私は実は今は非常に忙(せ)わしいのですが、しかしいずれその中(うち)にあなたの御依頼のことにも、研究を進めてみましょう。しかしこの間に、私に断りなしに、事を進めてはいけませんぞ。ではさようなら、――あなたから吉報が来るようにいのっていますよ」
「あんな美しい娘さんを追いまわすと云うことは、あまりに自然の命ずるままのいたずらだ」
 ホームズは彼の静思の時の、パイプを取り上げながら云った。
「寂しい田舎道までを、自転車などに乗って歩かなければいいものをね。まあいずれ誰か、人知れず懸想している者も、あるには相違ないが、しかしこの事件には、ちょっと奇妙な、暗示的な変な性質が潜んでいるように思われるよ、ワトソン君、――」
「と云うのは、その者は同一の場所にだけ現われると云うためにかね?」
「そうだ。我々はまず、チァーリントンの廃院に、どんな者が住み込んでいるか、それを探り出さなければならない。それからカラザースとウードレーの関係を調べてみなければならない。この二人はどうもとても性質が相背馳(あいはいち)しているようだからね。それからこの二人がどうして、ラルフ・スミスの親類に、熱心に注目するようになったか? それから更にもう一つは、女家庭教師に普通の二倍もの給料を払いながら、停車場まで六哩(まいる)もあると云うのに、馬一頭飼ってないと云うのは、一たいどう云う家政なのだろうね? ワトソン君、これはおかしいよ。これはどうしたっておかしいよ」
「君はしかし出かけるだろう?」
「いや相棒君、君が出かけてみてくれたまえ。これは案外つまらないものかもしれないし、僕はこのために、他の重大なものを、中絶させることは出来ないのだ。月曜日に早く、ファーナムに行って、チァーリントンの森の中に、隠れていてごらん。そうしたらいずれ君は事実を目撃するだろうが、その時君の独断専行で、善処してみるさ。それから廃院の住人たちを調べて来てくれること、――これだけをやって来てもらえば、大(おおい)に助かるんだがね。そしてワトソン君、――あとはもうこの問題の解決の、牢固(ろうこ)たる足がかりを得るまでは、何にも云わないことにするよ」
 私たちは、あの娘さんから、月曜日の午前九時五十分の汽車で、ウォーターローの停車場を発って行くときかされていたので、私は早く出かけて、午前九時十三分の汽車に乗った。
 ファーナムの停車場に着いてからは、私は別に迷いもしないで、すぐにチァーリントンの森に行くことが出来た。それから例の娘さんの、受難の地も決して見紛うようなところではなかった。道は広い荒原を通っていて、一方には荒野原、他方には巨木の林立した、公園を取り囲んだ、水松(いちい)の生籬(いけがき)のあるところ、――そこには苔むした石でたたまれ、両側には紋章のついた柱の立っている正門があった。しかしこの車道の外(ほか)に、生籬に破れたところがあって、そこからも小径が通っているのだと云うことは、種々の点から私は気がついた。建物は道路から見えたが、その周囲の様子から考えると、だいぶ荒廃している感じであった。
 荒蕪地(こうぶち)の方は、ハリエニシダの花が満開中で、四月の太陽を受けて、黄金色に燦爛(さんらん)としていた。私はその一つの茂みのかげの、道路の両端と、廃院の門とがよく見える位置に身をひそめた。私が道路から横に入った時は、道路には何も見えなかったが、今は私が来た方向とは反対の方から、一人の自転車に乗った者の姿が現われた。その者は灰黒色の着物を着て、黒い髭を蓄えているように思われたが、チァーリントンの区域内に入って来ると、その者は自転車から降りて、生籬の間隙から忍び込んで、その影は見えなくなってしまった。
 それから十五分ばかり経ったら、また別の自転車乗りの姿が現われた。今度のは例の娘さんが、停車場から来たのであった。チァーリントンの生籬のところまで来ると、彼の女は周囲を振返って見ているのが見えた。それからちょっとおくれて、生籬の間から、先の者が忍び出て、自転車に乗って彼の女を追っかけ始めたのであった。一望開豁(いちぼうかいかつ)な荒野の中に、一方は自転車の上に、すっとその美しいフォームを立ててゆく若い美しい女性、一方はハンドルの上に低く身体をこごめて、これを追っかけてゆく、――何かしら意味のありそうな、好奇心をそそらせる一場の活劇場の光景であった。彼の女は途中で振り返って、その男を見ながら、速力をゆるめた。そうするとその男もやはり速力をゆるめた。彼の女はピタリと止まった。その男もすぐに止まって、二百碼(ヤード)ばかりの間隔を保った。その次の彼の女の行動は、全く思いも設けぬ敏(すば)しっこさであった。彼の女はクルリっと自転車をまわすと、一目散にその男の方に突進して行った。しかしこれを見たその男もまた、彼の女以上に駿敏であった。やはり自転車を返して、死に物狂いの全速力で遁げ出した。今は彼の女もまた引き返した。そして意気揚々と、自転車の上に反り返って、もう唖の従者には、一瞥も与えぬと云うように、昂然としてまた道を行くのであった。そうするとまたその男も引き返して、やはり二百碼(ヤード)ばかりの間隔で、二人の姿はその先の曲り角から、私には見えなくなってしまった。
 それからなお私は、その隠れ場にひそんでいたが、それはとてもいいことであった。その中(うち)に例の男は、ゆるやかに踏みながら、また自転車で引き返して来たのであった。それからその者は廃院の門から入って、自転車から降りた。ちょっとの間その者は立っていたが、それはネクタイを結び直しているのらしかった。それからまた自転車に乗って、廃院の方に進んで行った。私は荒蕪地を走り抜けて、木の間を通してそれを覗いた。はるか遠くに私は、チュードル[#「チュードル」は底本では「チスードル」]風の煙突の屹立している、古い灰色の建物をチラチラと見たが、しかしその自転車乗りの姿は、濃い灌木の蔭になってしまって、もう見ることは出来なかった。
 けれども私は、とてもいい朝の仕事を、一つ仕終ったと思って、意気揚々として、ファーナムの停車場に引き返した。この地方の建物の差配人は、チューリントン廃院のことについては、何も語ってはくれず、私にポール遊園地の、よく知られている、組合管理所を教えてくれた。それで私は帰り道に、序(ついで)に立ち寄ったのであったが、そこの管理人は、非常に鄭重に応対してくれた。そのチューリントン廃院と云うのは、この夏はもう契約ずみであった。私はもうおそかった。一ヶ月ばかり前に、貸付の契約は出来てしまっていた。ウィリアムソンと云うのが、その借り主だと云うことであったが、それはなかなか尊敬するに足る、もう年長の老紳士だと云うのであった。鄭重な管理人にもう、何も云うことはないので、ひどく困った様子をしていたが、たしかにこのお客様の要件と云うのは、その管理者にとって、口にしがたいことには相違ないことであった。
 その夜私は、これだけの長い報告を、シャーロック・ホームズ君のところに齎(もたら)した。私は大変価値ある、そして多少の賞讃さえも、期待したことであったが、しかしそうした言葉は彼の口からは出て来なかった。それどころか、彼が私のやって来たこと、気がつかずに来たことに対する批評の時は、彼の峻厳な顔は、いよいよ嶮(けわ)しく変ってしまった。
「いや、ワトソン君、――君はまずその、隠れ場所が第一に間違ってるよ」
 彼は云った。
「そりゃ君は、生籬の蔭にかくれるべきだった。そうすればその目的の人物を間近くで見ることが出来たわけじゃないかね。君も何百碼(ヤード)と云うものを離れて見たので、あの娘さんのスミス嬢以下の報告っきり出来ないじゃないか、あの女は自分が知らない者だろうと云っていたが、しかし僕の見るところでは、あの女が知っている者に相違ないと思うのだ。だってもしそうでないとしたら、何もあの女が接近するのを、そんなに一生懸命で遁げる必要はないと思うからね。[#「。」は底本では欠落]君はその者がハンドルの上に身をこごめたと云うが、それもすなわち、顔をかくしたのだろう。君は全く徹頭徹尾間違ったよ。その者は家に帰り、君はその者の正体をつき止めようとして、ロンドンの、貸家の差配人のところに来る、――」
「じゃ僕は、どうすればよかったのだね?」
 私はちょっと逆上(のぼ)せ気味になって叫んだ。
「そりゃ近所の居酒屋にとびこむのさ。そこはその地方の噂(ゴシップ)の中心だ。そこに集(あつま)ってる者共は君に主人から食器洗いの者までの名前を教えてくれるだろう。そうウィリアムソンと云ったね! しかしこの名前は、僕にも何の心当りもないな。しかしそれがもう相当の年配とすれば、あの活溌な若い自転車嬢さんに追跡されて、霞をくらって遁げた、素ばしっこい男なはずはないね。さてこうなってみると、君の御苦労な遠征で得たものは何んだろうね? なるほどあの娘さんの云ったことは逐一事実であると云うことはわかった。それから自転車乗りと、廃院とには何等かの関係のあること、廃院はウィリアムソンと云うものが借りたこと、――この二つはまあ僕も決して疑わないが、――まあ大変なお手柄だが、――ちょっとこれだけのことには誰も及びのつかないことだね。まあ、まあ、わが敬愛する貴君――そう力を落としたもうな。次の土曜日までは、じっと日和を見て、その中(うち)には、僕自身でも一つ二つ手をかけてみるから、――」
 次の朝私たちは、スミス嬢から一通の手紙を受け取った。その中には、私が昨日目撃した事件を、正確に短文の中に要領よく書いてあった。しかし手紙の要旨は、追伸として末尾にかかれてあった。
ホームズ先生、あなたは私の秘密を、お護り下さる御方(おんかた)と存じますが、私は、最近私の主人から求婚されて、ここでの私の立場は、非常に難しいものになって来たと云うことをお知らせいたします。私はあの人の感情は、最も深く最も尊敬すべきものだと信じています、もちろんそれと同時に、私の約束も与えられることです。あの人は私の拒絶を、非常に重大にとりまた非常に素直にも考えております。いずれ局面が少し緊張して来たことを御想像下さいまし。
「あの娘さんは、段々に深みにはまってゆくらしいな、――」
 ホームズは手紙を読み終ってから、考え深そうに云った。
「この事件は、最初に僕が考えたよりも、もっと興味があって、また面白く発展してゆくらしいぞ。僕も田舎の静かな、平和な日のために、一臂(いちぴ)の力を添えてやっても、毒にもなるまいから、――今日は一つ午後から出かけて行って、考えた理論を二つ三つやってみるとするかな」
 しかしホームズの田舎における静穏な日と云うのは全く変な結末を見せたのであった。と云うのは彼は、夜おそくベーカー街に帰って来たのであったが、彼は唇には怪我をし、額には色の変った瘤を出かして云わば警視庁のお探ねものにもふさわしい、あのいつもの捕り手となる、放埓者(ほうらつもの)のような恰好をしていた。そして彼は自分の今日一日の冒険に、ひどく可笑しさを感じていたのか、底の底から笑いながら、一切の顛末(てんまつ)を語り出した。
「僕は少しばかり活溌な運動をやって来たんだが、いやはや全く、御馳走さまなことさ!」
 彼は云った。
「君、僕は御承知の通り、英国のあの結構な古来の拳闘については、少しばかり心得があるんだが、君、あれは時々、とても役に立つ時があるよ。例えば今日なども、もし僕があの心得がなかったら、全くいいざまを見るところだったよ」
 一たい何が起ったのか私は更に追求した。
「僕は先に君にも云った、居酒屋を見つけて、そこへ入って、細密な調査を始めたわけさ。僕は酒売台(さけうりだい)に陣地を取ったわけだが、ところがそこの主人は大変な饒舌(おしゃべり)で、僕のききたいことは、何もかもよく喋べってくれた。ウィリアムソンと云うのは、真白な髭を蓄えた人間で、ごくわずかな使用人共と、あの廃院に住んでいるんだそうだ。彼が坊さんであったとか、またあるとかと云う噂もあるんだ。ところがその短い間の廃院生活に起った、一二の事件を見ると、どうも坊さんらしくないと思われる点があるんだがね。それで僕は宗務管理所について調べて来たんだが、これと同じ名前で、その以前の経歴がはなはだ曖昧なのが、たしかにあったと云うのだ。それからなおそこの主人の云ってくれたのには、あの廃院には、毎週の終りに、会合があるんだそうだ。「とても景気のいい人達ですよ、壇那、――」と主人は云うんだがね。そのメンバーの中で、赤髭をした、ウードレーと云うのが、最も重要な御常連だそうだ。ところがどうだろう、――こんな話をしている中(うち)に、人もあろうに件(くだん)の紳士が入って来て、酒場でビールを引っかけていたのだ。もちろんこの一切の会話をきいてしまったのだから敵わない、――「貴様は一たい何者だ?」「何を調べているんだ?」「何のためにそんなことを訊ねているんだ?」と、全く雷でも落っこって来たように、まくし立てられてしまったわけさ。いや全く実に威勢のいい文句ばかり並べられたがね、遂に彼からは手の甲で一撃見舞って来てしまったんだが、僕は不覚にもそれはしっかり受けそこなってしまった。次の二三分はとても味があったよ。滅茶打ちに打ってかかる暴漢に、左の手で見事に一突がきまったわけさ。そして僕は抜け出して、再び君に拝顔の機を得たわけ、それからウードレー紳士は、馬車で御帰宅と云うことになったのさ。こうして僕の田舎旅も終ったが、なかなか面白いには面白かったが、しかし何しろいやはや全く、このサーレーの外れの遠征だけは、君の時よりももっと、だらしのない恰好でおめおめと帰って来たわけさ、ははははははは」
 木曜日にまた、我々の依頼者から、手紙が来た。
ホームズ先生、私がカラザースさまのところから、お暇をいただいて、帰ってしまうとおききになりましても、決してお驚きなさいませぬように、――(と彼の女は申します)あんなに高い月給でも、やはり私の現在の位置の不愉快さは、埋め合せてはくれませぬ。土曜日に私はロンドンに帰り、もうこっちには来ないつもりでございます。カラザースさまは、馬車をお買いになりましたので、あの淋しい道の危険は、たとえば御座いましたものにしろ、今はもうそれも何でもないことになってしまいました。
 私がこちらを去ることになりました理由としては、ただカラザースさまとの間が、緊迫して来たためばかりではなく、その他にもう一つ、あのいやなウードレーが、また出て来たからでございます。あの方は素々(もともと)から、凄い容子をしていますが、今度はまたもっと怖ろしい形相をしているように思われます。それに何か出来ごとでもあったのか、大変傷がついております。私は窓の外にあの人を見かけたのですが、しかし逢わずにすまされたのは、何よりの幸福でございました。何かカラザースさまと、大変長いこと、話していたようでしたが、後でカラザースさまは、ひどく昂奮していらっしゃいました。ウードレーはきっと、この近所に居るに相違ございませぬ。と申すのは、昨夜はこちらには宿(とま)りませんでしたし、それに今朝は私は、あの人が灌木の中を忍び歩いているのを見止めたのでございます。やがてはあの野蛮な怖ろしい野獣が、檻を出てのそのそとやって来るのでございましょう、――もう私は考えただけでも、身振いをするように怖ろしゅうございますわ。あのカラザースさまでも、どうしてあんな気味の悪い動物にちょっとでも御我慢のお出来になるはずがございましょう。しかししかし、もう私の煩累(わずらい)は、この土曜日で終りでございますわ。
「ははあ、ワトソン君、――」
 ホームズは慎重な調子で云った。
「これはあの娘さんの周囲には、何か深いたくらみがめぐらされているよ。あの娘さんの最後の帰り路を、無事に護ってやらなければならない。ワトソン君、今度の土曜日の朝は、一つ一緒に出かけて行って、この奇妙な、不得要領(ふとくようりょう)な事件を、見事に結末をつけてしまおうじゃないかね?」
 私は正直のところ、この事件については、どちらかと云えば、危険性と云うよりも、変な得体の知れなさはあったが、しかし結局大したものではないと、この時までは考えていたのであった。あんな綺麗な娘さんに、男が待ち伏せをするとか、あるいは追っかけるとか云ったようなことも、もう世間一般から、云ってそう珍らしいとすべき話でもないし、またその待ち伏せの追っかけの男も、強いて娘さんに話しかけようとするでもなく、かえって娘さんの方から近づくと、遁げ出してしまうほどの小心者とすれば、まあ大した悪者でもあるまいと思った。なるほど暴漢のウードレーは、なかなかの注意人物に相違ないが、しかしこれも我々の美しい若い依頼者を困らせたのは、ただ一度だけで、その後はカラザースの家を訪問しても、彼の女の面前にも現われないとのこと、――それから例の自転車乗りの男も、居酒屋の主人のいわゆる、週末組の一員には相違ないが、しかしこの者も、一たいどう云う者で、何の目的であんなことをするかも、全く不得要領である。しかし私は、ホームズの態度がいかにも厳粛で、しかも出かける時にピストルまでもポケットにねじこんだので、これはとにかく、この変な事件の後にも、なかなかの惨劇も予想されているのだなと思った、のであった。
 夜通しの雨が霽(は)れて、ここにも太陽の輝かしい朝であった。荒野に蔽われた田園は、今ちょうど満開のハリエニシダの花が、方々に叢(むらが)り咲いていて、ロンドンの暗褐色(あんかっしょく)黄褐色(こうかっしょく)、――石板灰色(せきばんかいしょく)に、あきあきしている目には、とても素晴らしいものに見えた。ホームズと私とは、朝の新鮮な空気を吸いこみ、小鳥の音楽、四月の春の生々(いきいき)とした黄韻(こういん)を享楽しながら、砂の多い広い道を進んだ。路は上りになって、クルックスベリーの丘の肩のところに行ったら、我々は老樫樹の中から屹立している、厳めしい廃院を見た。もっともこの老樫樹は、もう老いたと云っても、その取り囲んでいる廃院よりは若いのであるが、――ホームズは、褐色の荒野と、芽のふき出ている緑の森の間をうねっている、赤味を帯びた黄色の帯のような、一条の道路を指した。はるか遠方にポツリっと見えた黒い一点、――それは我々の方に進んで来る乗物であった。ホームズは思わずも叫んだ。
「おや、三十分おそかった! もしあれが、あの娘さんの馬車だとすれば、あの娘さんは一列車早く発つつもりだったんだね。ワトソン君、俺たちが娘さんに出逢う前に、あのチァーリントンの森にさしかかってしまったら大変なことになるよ」
 私たちが上り坂を越してからは、もうその乗り物の姿は見えなかった。しかし私たちはどんどん道を急いだが、私の元来の運動不足の職業が、今はしみじみと身体に答えて、いや応なしに私は、ホームズからは遅れてしまった。しかしホームズは少しも弱る様子がなかった。日頃練成していた精力が、全く驚くばかりであった。彼の跳ね返るような歩調は、決して衰えなかったが、私から百碼(ヤード)ばかりも先んじて行った彼は、ふと立ち止まった。そして彼が手を上げてまわすのを見たが、それは悲しみと絶望の相図であった。と、――見る中(うち)に、空(から)な二輪馬車が、手綱を引きずりながら、カーブを曲ってガタガタと音させながら、私たちの方に駈けて来るのであった。
「遅かった、ワトソン君、遅かった!」
 ホームズは叫んだ。私は喘ぎながら彼の側(そば)にかけ寄った。
「もう一つ早い汽車を考えなかったなんて、僕は何と云ううっかりしたことをしたものであろう! 誘拐されたんだ。ワトソン君、誘拐だ! 惨殺されたんだ! ああしかしまだ解らない! さあ道を塞いで馬を止めて。――さあそれでよい、すぐに乗りたまえ。一つこの失敗の取り返しが出来るかどうか、やれるだけやってみよう」
 私たちは二輪馬車に乗った。
 ホームズは馬首をまわして、ピシャリと一打ち鞭を当てて道を進んだ。カーブを廻ってからは例の廃院と荒野の間の、真直ぐな道が、我々の目の前に展開した。私はホームズの腕をぎゅっとつかんだ。
「ああ、あの男さ!」
 私はせきこんで云った。
 その時ちょうど一人の自転車乗りが、私たちの方に走って来たのであった。その者の頭は低く前にかけられ、肩は丸く下(さが)っていて、ペダルを一踏するごとに、一オンスずつのエネルギーが消耗するのだと云うような恰好であった、彼は競争者のように疾走して来たのであったが、突然髭のある顔を起して、私たちを近々と見つめた。そしてピタリっと車を引き止めて、自転車から飛び降りた。その漆黒の髭は、蒼白な顔色に、まことに変な対照でありまたその目は、熱病にでもつかれている者のように、キョロキョロとしていた。彼は私たちと馬車を、激しく見つめていたが、その顔にはみるみる、驚きの色が浮かんだ。
「おい止まれ!」
 彼は自転車で、我々の行く先を遮りながら叫んだ。
「君達はこの馬車をどこから取って来たんだ? おい馬を止めないか!」
 彼は無暗に喚きながら、ポケットからピストルを取り出した。
「おい、馬を止めてくれないか! さもなかったら、馬に一発ズドンとやってしまうぞ」
 ホームズは私の膝の上に手綱を置いて、馬車から飛び降りた。
「君こそ僕たちが逢いたいと思っていた人間なんだ。ヴァイオレット・スミスさんはどこに居るんだね?」
 彼一流の早口で、はっきりと云った。
「それこそこっちが聞きたいことなんだ。君たちこそ彼の女の馬車に乗っているから、君たちこそ知っているはずだ」
「いや、我々は道でこの馬車に逢ったんだが、中は空っぽだったんだ。それであの娘さんを助けようと思って、引き返してゆくところなのだ」
「ああ神様、神様、――私はどうすればいいのですか?」
 この変な男は、全く失望のどん底に落っこったように悲叫した。
「いえそれではあの、地獄の犬めのウードレーと、あの悪漢坊主共が、彼の女を掠奪したのです。さあではこっちに来て下さい。もしあなた方は本当に、私の味方でしたら、こっちに来て僕を助けて下さい。もし僕がチァーリントンの森で必死の覚悟を決めたら、彼の女を救うことが出来ましょう」
 彼は全く乱心したような様子で走り出した。そしてピストルを片手に持って生籬の切れ目に突進して行った。ホームズはすぐその後から続いた。それで私も、道の傍らに馬を放して草を食ませたまま、ホームズの後に従ってかけた。
「彼等はここから出て来たんです」
 彼はそう云いながら、泥の上にベタベタとついた足跡を指さした。
「おい、――ちょっと待て、――その籔かげに居るのは誰だ?」
 そこに居たのは十七才くらいの、革のズボンをはいて、ゲートルをかけた、馬丁風の若者であった。そしてその者は、膝を縛り上げられて、仰向けに寝かされて、その上に額をひどく割られて、気絶して倒れていた。しかし生きてはいたが、私はちょっと見たところ、その裂傷は、骨までは徹(とお)ってはいないものだと思った。
「ああこれは馬丁のペーターだ」
 この見知らぬ男は叫んだ。
「この男が彼の女の馬車を御して来たのですが、あの獣物(けだもの)連中は、この若者を引きずり降ろして、棍棒でやっつけたのだな。これはこのまま寝かしておきましょう。どうにも出来ませんから、――しかしまだ私たちは、彼の女の婦人として受ける、最大の悲しい運命から、救い出すことが出来るかもしれませんからね」
 私たちは全く夢中で、樹の間をうねり曲って、小径をかけ下りた。そして私たちは、建物を取りまいている、灌木の所に出た時、ホームズは一同を引き止めた。
「奴等は家には入らない、そら左の方に足跡がある。これからずっと月桂樹の横の方に、――ああ、云わないこっちゃなかった、――」
 彼がこう云う途端に、女の帛(きぬ)を裂くような悲叫(さけび)! 恐怖のために狂乱してしまった咽喉から絞り出た、血も吐くような女の悲叫(さけび)が、私たちの前方の籔のかげから聞こえて来た。それと共にその悲叫(さけび)は、最も高く絞り上げられたと思う中(うち)に、急に咽喉でも締められたのか、窒息するように止まってしまった。
「こっちです、こっちです! 奴等は玉ころがしの囲の中に居るんです」
 籔を突進して突きぬけながら、この見知らぬ[#「見知らぬ」は底本では「見知らね」]男は叫んだ。
「おい卑怯な犬共め! さあ皆さん来て下さい、来て下さい。ああ遅れました。ああ遅かった、畜生め!」
 私たちはヒョッコリと、大木に囲まれた中の、小さな芝生に出た。その芝生の向う側に、老樫樹のかげに、変な恰好の三人の者の姿を見止めた。その中の一人は、我々の依頼者の若い美しい女性で、口にはハンカチーフを巻きつけられ、全く気絶したように、正体もなく崩れ跼(うずく)まっていた。その向うには、残忍な、いかつい顔をした、赤髭の若い男が、ゲートルを巻いた脚を開いて突っ立ち、片方の肱は腰に曲げ、片方の手には、猟用の鞭を振り上げて、あたかも勝ちほこった馬鹿大将みたいに、意気軒昂としていた。それからその二人の間には、もう年配の、灰色の髭のある男が、スコッチ織の簡単な着物の上に、白い法衣を重ねて、今しも二人の結婚式がすんだばかりと云う様子をしていた。と云うのはその法衣の男は、私たちが現われた時ちょうど、祈祷書をポケットに入れて、その縁喜(えんぎ)でもない花婿の背中を、お芽出度(めでと)うとでも云ったように、ぽんとたたいたところであった。
「彼等は結婚したんだね」
 私は喘ぎながら云った。
「来て下さい!」
 我々の案内者は叫んだ。
「来て下さい!」
 彼は芝生の上を横切って進んだ。ホームズと私はその後に続いた。そして私たちがようやくその地点に接近すると、その若い女性は、太い幹に身体を支えて、よろよろと立ち上った。前牧師ウィリアムソンは、私たちに変に人を馬鹿にしたような鄭重さで、叩頭(おじぎ)をした。暴漢のウードレーはまた、気狂いのような叫びと、突拍子もない笑い声を上げた。
「おいボッブ、髭なんか取っちまえよ。そんな誤魔化しなんかするまでもないじゃないか。いや君や御一同は、全くちょうどいい処に来たものだ。ウードレー夫人を御紹介しよう」
 我々の先達の答は全く変なものであった。彼は扮装していた。黒いつけ髭を、かなぐり取って、地べたに投げつけたら、きれいに剃られた、長い蒼白い顔になった。そして猟用の鞭を振りながら肉薄して来るウードレーに、発矢(はっし)とピストルを突きつけた。
「そうだ」
 わが味方の男は云った。
「いかにも俺は、ボッブ・カラザースだ。俺は命に賭けても、この女に間違いのないように護るつもりだ。俺は君に云ったろう、――もし君がこの女を苦しめたら、俺はどう云う仕返しをするかと云うことは、――俺は神明に誓って、俺の言葉を実行するよ!」
「いや何しろ君は遅すぎた! この女はもう僕の妻なのだ!」
「いやこの女の方は、君の寡婦だよ」
 ピストルは鳴った。ウードレーの胴衣(ちょっき)の前からは、血が迸り出た。彼は悲鳴を上げながら、腕をもがいてのたうちまわったが、遂に仰向けに倒れて、その兇悪な真赤な顔は、急に気味悪い斑のある蒼白に変ってしまった。その年取った男はと見れば、まだ法衣を羽織っていたが、私がまだかつて耳にしたことなどはないような、呪詛の言葉を放ちながら、ピストルを取り出して向けようとした。しかしこれはまだピストルを取り上げる前に、ホームズの武器に狙われてしまった。
「これでいいだろう、――」
 私の友人は冷やかに云った。
「ピストルを棄てろ!」
「ワトソン君、拾ってくれたまえ! そしてそれを頭につきつけて! いや有難う。君、カラザース君、そのピストルをこっちにくれたまえ。もう乱暴者は無いだろう。さあ、こっちに渡して、――」
「しかし、あなたはどなたですか?」
「僕はシャーロック・ホームズです」
「ああ、そうでございましたか!」
「いずれ私のことは知っているでしょう。警官が来るまで、私はその代理をつとめる。ああ君が来ていたのか!」
 彼は馬丁が芝生の端に来たのを見て、その驚いて茫然としているのに呼びかけた。
「こっちに来たまえ。君ね、馬に乗って出来るだけ大急ぎで、これをファーナムまで持って行ってくれたまえ」
 彼はノートの紙をとって、ちょっと何か書きつけた。
「これを警察署の監督官に渡してくれ。それから彼が来るまでは、私が諸君を監視するから、――」
 ホームズの強い、よく訓練された性格は、こうした悲劇の場面をしっかり支配してしまって、いずれも彼の把握の中に収められてしまった。ウィリアムソンとカラザースは、負傷したウードレーを家の中に運び入れ、私はまた、ただ恐怖におののいている娘さんを、支えてやった。その負傷した男は、ベットの上に横にされたが、私はホームズに頼まれたので、彼を診察した。そして私はその報告書を綴織の掛っている食堂に居る、ホームズのところに持って行った。彼の前には彼があずかっている、二人の罪人も居た。
「あの者は助かるだろう」
 私は云った。
「何ですって?」
 カラザースは、椅子から飛び上りながら叫んだ。
「私は二階に行って、あいつに止めを刺して来ましょう。あなたはあの女が、あの天使が、あの吼えつくようなジャック・ウードレーのために生涯しばりつけられるのだと仰るのですか?」
「いやそれはもう君のかかわったことではない」
 ホームズは云った。
「ここにあの女の方が、彼の妻になることのない立派な理由が二つあるんだ。まず第一に、ウィリアムソン君の、結婚式の執行権について追求すると、これにまず我々は、安心が出来るのだ」
「私は僧職は授けられていますよ」
 この老悪漢は叫んだ。
「そしてまた、その僧職は、剥脱されているだろう」
「一度牧師になった者は、いつまでも牧師ですよ」
「そんな馬鹿なことはない。では免許証はどうした?」
「私たちは結婚の免許証は貰い受けました。それはポケットにあります」
「それじゃ君は、詐欺をしてそれを手に入れたんだ。しかしとにかくこれは、強制結婚じゃないか、――強制結婚は結婚ではないよ。それどころか大変な重罪だよ。そのことはいずれ君にもじきにわかるよ。まあ僕にして誤(あやま)ちなしとすれば、君がこのことをよく考えてみるために、この後十年以上もの年月が、君のために与えられるだろう。それからカラザース君だが、君はピストルは出さん方がよかったね」
「いやホームズさん、今僕はそれを後悔しております。しかし私が彼の女を保護するために取った手段を考えた時に、――いえ私は実は、彼の女を愛していたのですが、ホームズさん実は私は恋と云うものを、この時こそ初めて知ったのでしたが、――私は彼の女が、あの南アフリカ第一の残忍な悪漢で、キムバーレーから、ヨハネスブルグまでの間で、人々から震怖(しんぷ)されているウードレーの手中にあるのかと考えた時は、私は全く前後不覚に逆上してしまったのでした。いえホームズさん、御信用下さらないかもしれませんが、私はこの娘さんを雇入れてからは、私はこの家には悪漢共の住んでいるのは知っていますから、いつも自転車で彼の女の後に遠くついて、彼の女の無事なのを見届けるようにしたほどでした。私は彼の女からは、相当の距離をとり、また髭もつけていたので、彼の女には私がわからなかったのですが、強いてこんなことをさしたのも、あの善良で潔白な彼の女が、もし私が田舎道で彼の女をつけるなどと云うことがわかったら、もう私のところには居なくなるだろうと思ってのことでした。」
「じゃどうして君は、彼の女にその危険を教えてくれなかったのだね?」
「つまりそれも、やはり彼の女に、私のところを去られてしまうと思ったからです。このことだけは私は、とても堪え切れませんでした。例えば彼の女は、私を愛してはくれなくっても、せめて彼の女の美しい姿を、私の家のあたりに見、彼の女の声をきくことが、私にとっては、絶大のことでした。」[#「」」は底本では欠落]
「なるほど」
 私は云った。
「君はそれを愛と呼んでいるが、しかしカラザース君、それは利己主義と云うものだよ」
「いやそれは結局、一致するものかもしれませんがしかし、とにかく私は、彼の女を去らせることは出来ませんでした。その上に周囲はああした連中ですからね。彼の女には誰か、側(そば)に居てよく見てやるとよいのだがなと思いましたが、その時私は海底電信を受け取りましたので、彼等は策動を始めようとしていることを知ったのでした」
「どんな電信だね?」
 カラザースはポケットから、海底電信を取り出した。
「これです」
 彼は云った。それは短い簡明なものであった。
『あの老人は死んだ』
「ふうむ!」
 ホームズは云った。
「もう大体の見当はついたが、――またこの電信でどうしようと云うことも、まあ想像は出来るが、しかしこうして待っている間に、君の知ってるだけのことを話してもらってもいいね」
 その年取った法衣姿の無頼漢は、無茶苦茶な悪口罵詈を浴びせかけて来た。
「覚悟しろよ!」
 彼は叫んだ。
「もしお前が俺たちを裏切るなら、ボッブ[#「ボッブ」は底本では「ポップ」]・カラザース、お前がジャック・ウードレーに逢わしたと、同じ報をしてやるから、――お前があの娘に、心のたけの泣きごと云うのは、お前のことだからかまわないが、しかしこの私服刑事に俺たち仲間のことにまで口をすべらしたら、それこそお前が臍の緒を切ってから今までにやったことの中で、一番ひどい悪業だぞ」
「いや尊師よ、そう昂奮しては困りますな」
 煙草に火をつけながらホームズは云った。
「この事件と君との関係は、もう十分明瞭になっている。私のききたいのは、ただ自分の好奇心の満足のため、少しばかり細々しいことを耳に入れたいだけなのだ。いやしかし、それは君の口からは話しにくいと云うことなら、僕の方から話してやろう。こんなことを秘密にしようたって、それはいかに、難しいかを、よく考えてみるがいい。まず第一にだ、君達は三人で、この獲物のために、南アフリカから来たのだろう、ね? ウィリアムソン君、ね、カラザース君、ウードレー君、――」
「いや、その第一番目のは嘘だ。」
 老年の男は云った。
「私は二ヶ月前までは、この二人を全く知らなかったし、また私は生れてからまだ、南アフリカなんて云うところには、行ったこともありませんよ。おせっかい屋のホームズさん、篤(とく)とお考えなさって、冗談も休み休み仰有って下さい」
「彼の云うことは本当です」
 カラザースは云った。
「よろしい、よろしい。君たち二人が海を越えて来たんだね。それなる御尊師は、内地製だったんだ。それで君等は南アフリカで、ラルフ・スミスを知った。そして彼はもう長くは生きないと云う見極めもついていた。そして彼の姪がその財産を相続することになると云うことも気がついた。どうだね? それでいいかね?」
 カラザースは点頭(うな)ずき、ウィリアムソンも肯定した。
「彼の女はもちろん最も近い血縁の者であるが、君たちは、その老人は遺言状を作るまいと考えたろう」
「彼は読むも書くも出来なかったのです」
 カラザースは云った。
「そこで君たちは二人で帰国して、その女を狩り出したのだ。しかもその方針をなおつきつめてみると、君たちの中の一人は、彼の女と結婚し、それから他の方は、そうして得た獲物の、分け前を取ると云うことであったろう。そして更に、何かの理由からウードレーがその夫に選ばれたんだね。その理由は何だったんだね?」
「私たちは航海中に、カルタで賭けて、彼が勝ったのです」
「ふうむ、そんなことか、――そこで君はあの娘さんを雇い入れて、ウードレーはそれに、持ちかけると云うことだったんだね。しかしあの娘さんはウードレーを、飲んだくれの悪漢ときめてしまって、てんで相手にはならない、――その中(うち)に君があの娘さんに恋をしてしまって、君たちのお膳立ては、すっかりと覆ってしまうこととなった。君はもうあの娘さんを、あの悪漢に渡すことが出来なくなってしまった」
「えい、私は金輪際、渡すことが出来ませんでした」
「そこで君たちの中には喧嘩がおっぱじまってしまった。そして喧嘩分れとなって、彼は今度は君にはかかわりなく、勝手に計画を立てた」
「ウィリアムソン、この方は何もかもちゃんと知っているには驚いてしまったね。」
 カラザースは、苦笑しながら叫んだ。
「そうです、確に私たちは喧嘩をしました。そして彼は私を打ちのめしました。とにかくここまでは私は、彼と全く同等です。それからは私は、彼とは逢いませんでしたが、しかしこの時に彼はここに居る、相棒を拾ったのでしょう。それから私は、この連中が、彼の女が停車場に行くに、通らなければならないところに、すなわちここですが、家を持ったと云うことは、わかっていましたが、それからどうも、不吉な予感がしてならないので、私は彼の女から、目を放さないようにしました。それからまた、あいつめ共は、どう云うことを企らんでいるかと云うことも、気がかりでしたので、時々あの連中にも目をつけました。二日前にウードレーは、あのラルフ・スミスが死んだという電信を持って、私のところに来て、例の契約を履行するか否かを訊ねました。私は出来ないと云いますと今度は、もし私自身が彼の女と結婚することになったら、分け前を出すかと云いますので、私は、出したいことは山々だが、しかし彼の女は結婚してはくれないだろうと云いました。そうしたら彼は、『とにかく彼の女を結婚させようではないか。そうしたら一週間か二週間もたったら、また少しは違った目で、物を見るようにもなろう』と云うのでした。しかし私は、暴力沙汰はいやだと云いましたら、彼の本性の悪漢振りをまる出しにして、私を口ぎたなく罵りながら、どうしても彼の女を手に入れるんだと、タンカを切って出ていったのでした。それから彼の女は今週の末は、私のところを去りますので、私は馬車を用意しました。彼の女はその馬車に乗って、停車場に向ったのでしたが、やはり私は不安だったので、自転車で後から追っかけることにしたのですが、しかし彼の女は早く発ってしまって、私が追いつかない中(うち)に、この不幸が襲いかかってしまったのでした。それで私が最初に知ったことは、全くお二方が彼の女の馬車で、進んで来られたことだったのでした」
 ホームズは起ち上って、煙草の吸い殻を、灰皿の中に捨てた。
「僕は実にのろまだったよ。ワトソン君」
 彼は云った。
「君が帰って来た時に、君の考えでは自転車乗りが、灌木の中で、多少ネクタイを直したろう、と云うことを云ったが、あのことはもう、僕に全部を語っていることだったのだ。しかしとにかく我々は、種々(いろいろ)の意味で全く比類の無い事件にぶっつかったと云うことは、大いに祝福するに足ることであったと思う。ああ田舎の警官諸君が三人、駈けつけて来る。あの馬丁君も、一緒に足並を揃えて来るのは、嬉しいじゃないかね。そこで彼でもない、いやあの面白い花婿君でもない――まあいずれこの諸君は、今朝の一冒険で、一生を棒に振ったと云うわけかな。それからワトソン君、君は医者の資格で、一つあのスミス嬢を見舞ってみてはどうかね。そしてもしもう御気分がすっかりいいのなら、お母さんのところに、送ってあげようと云ってみたまえ。またもしまだ気分が癒(なお)らないと云うようなら、ミドランドの若い電気技師に、電報を打とうと謎をかけてやれば、もう即坐に全快だろうよ。それから君、カラザース君だが、君は最初の悪い計画に対して参与した罪を償うためには、最善のことをしたと、僕は考える。さあ、名刺をあげておこう。もし僕の立証が、法廷で君に役だつようであったら、それは君の御自由にやってくれてよろしいよ」

 たぶん読者諸君も、よく解ってくれるだろうと思うが、この全く休み無い立て続けの大活動の中で、事件の詳報をもたらすと云うことは、それはたしかに世の好奇心に大いに期待することには相違ないが、しかし私にとってはしばしば困難なことであった。それぞれの事件は、他の事件の前奏曲であり、そしてその最高の峠を越してしまうと、その登場役者たちは、忙わしい我々の生活から、永久に消え去ってしまった。
 しかしこの事件のことを記した稿本の末尾には、ちょっとした追記があって、ヴァイオレット・スミス嬢は、たしかに大きな財産を相続し、そして現在は、あの有名なウェスミンスター電業者の集りである、モートン・エンド・ケネデー協会の、高級会員である、シリル・モートンの妻になっていると記されてある。それからウィリアムソンとウードレーは、誘拐罪と殴打罪で、前者は七年の懲役、後者は同じく十年に処された。カラザースのことについては、私は別に記録してはいないが、しかし、ウードレーがもっぱら兇悪漢と云う定評で通っていたから、彼のやったことは法廷では、そう重大視はされなかったろうと確信する。たぶん数ヶ月の懲役と云うところが、適当な求刑であったろう。




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