無口な女の子とやっち ..
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338:ふみお
08/02/14 19:53:55 zAXvEo8u
「(なにか、企んでるのか?)」
「そうそう。この工藤君。実はこう見えて水泳の強化選手だったこともあるんだよ」
「(それは凄い)」
優男風の外見からは想像もできないが、そんな事実が。
だから、私の頭の中からは、疑惑の念はかき消され、かわりに工藤さんに対する意外なイメージアップが上書きされた。
当の工藤さんは少し困惑気味だ。
「先輩。別にそんなこと言わなくても……」
いや、困惑、というよりは、少し迷惑そうだ。
何か、嫌な思い出でもあるのだろうか?
彼はそんなことを全く気にする様子は無く、こう続けた。

「まぁ、全く泳げない僕からすれば、天上人のような存在だよね」

衝撃のカミングアウト。
否、“衝撃”というより“笑撃”か?
思わず、噴出しそうになった。
自分から海に行こうと言い出したのに?
いつも飄々と、『何でも出来ますよ〜』みたいな態度の癖に?
泳げない?
とんだ、お笑い種だ。
「(忘れないように、後で手帳にでもメモっておこう)」
そして、心の中だけで笑う。
「あれ? 千埜君。今、君、笑わなかった?」
目ざとい男が訊いてきた。
正直、笑ってしまったが、誤魔化すように首を振る。
「あぁ、そう。ならいいんだけれど……」

そして、詳細は後日、ということで食事が終わる。

仕事が忙しいらしい工藤さんは、先に職場に戻った。
そして、私と彼は、二人して食堂から出る。
その時、彼は私に言った。

「千埜君も二人くらい、連れてきなよ、友達」
「……………!」
コイツ。
私が半年前まで苛められていたことを知っているくせに。
彼は言葉を続ける。
「会社の人じゃなくても、学生時代の友人とかでもいい。社会人になって一緒に遊べる機会も少なくなったでしょ?」
………………………。
学生時代の友達なんて、いない。
一人も。
そんな私の状況を察したのか、彼は言う。
「じゃあ、“彼女”を呼べばいい」
“彼女”。
それは間違いなく、あの人のことで。
「こういうのは歩み寄りが大切だからね。未だに、ギクシャクしているんでしょ?」
「………………」
でも、海に誘ったからと言って。
来てくれるとは限らないし……。それに。
「立場上、彼女からはアプローチを掛けにくいんだと思うよ」
そういうものだろうか。……いや、そうだろう。
「君、根に持ちそうな顔してるもの」
う、五月蝿いな。
でも、そんな顔をしてる、って思われているのか……。彼にも、“彼女”にも。
「まぁ、これは君と“彼女”の問題だからね。僕がこれ以上、とやかく言うのも何だね。でも、考えといてよ」
そして、彼は私の前から足早に去っていった。
どうせ、残り僅かな時間を喫煙スペースで過ごそうとでも考えているのだろう。
私はその背中を見送りながら、知らず、ため息をついた。
「(“彼女”かぁ……)」

339:ふみお
08/02/14 19:54:49 zAXvEo8u
気は重いが、彼の言うとおりかもしれない。
理性面では、もう決着のついている問題。
でも、感情面では……。
「………………」

私はまだ、言葉を取り戻してはいないのだから。

……。
………………。
………………………。

そして、いつものように終業時間。
男性社員は各々の帰路に、女子社員は更衣室へと足早に向かっている。
その足音は、やはり連休が近いためか、踊っているように聞こえる。
そんな雑多な音を聞きながら、私は“彼女”のデスクに歩いていった。
椅子の背もたれに大きく寄りかかりながら、背伸びをしていた“彼女”は、私を見て、凍りついたように動かなくなる。
代わりに動いたのは口。
「あ、ああ。あの、お疲れ、様。千埜、さん」
私は頷く。
“彼女”に―小林早苗さんに向かって。
そして、ノートを見せる。
そこにあらかじめ書かれていたことは。
『お疲れ様です。小林さん。
 実はお話したいことがありまして。
 これから少し、時間、大丈夫ですか?』

周りの女子社員の視線を感じる。
小林さんは慌てたように頷いた。
「え、ええ。じゃ、じゃあ、ここじゃなんだから移動しましょうか?」
頷く私。
彼ではないが、予想通りの展開だ。
ページをめくる。
『じゃあ、飲み屋にでも行きましょうか』
「え……?」
小林さんはその字を、さも意外そうに見つめる。
そして、言い出しにくそうに言う。
「あの、き、喫茶店とかのほうが、静かでいいんじゃない?」
「(あぁ! 喫茶店!)」
そんなお洒落な場所、想像することもできなかった。
私は何度も頷く。
「じゃ、じゃあ、いいところ、知ってるから。そこに行きましょう、か?」
当然、断る理由なんて無かった。

これから私と小林さんの話が始まる。
どういう、展開になるのか。
彼のように、予知は出来なかった。

     ◇  ◇  ◇

「いやぁ、天気予報。外れてよかったねぇ」
僕はハンドルを握りながら言う。
すると―

「私は晴れ女なのよ。ここぞというときはいつも晴れだわ」
―助手席の人が、訊いてもいないことを胸を張りながら、誇った。
「ああ、そう。ちなみに僕も晴れ男なんだよねぇ。ここぞという時は外さないよ」
いつもこんな感じなので、調子を合わせた。
隣の人は言う。
「アンタの晴れなんて、どうせみみっちい曇り空でしょ? この青い空を見れば、私の晴れ女力が勝ったと、直ぐにわかるわ」
「さいで」

340:ふみお
08/02/14 19:55:36 zAXvEo8u
『晴れ女力ってなんだ』とか訊かないのが、彼女との会話のコツだ。

8月11日。
予定通り、僕らは海に向かっている。
メンバーは。
『工藤さんは昔、水泳の強化選手だったんですって』
カリカリとノートに書き込む千埜君。
それを座席の前から覗き込む女子社員。
「へぇ! そうなんですか? 凄いんですね!」
やたらテンションの高い彼女は、千埜君が連れてきた、佐藤さん、という人らしい。
どうやら、彼女はミーハーらしく、隣に座っている工藤君をしきりに褒めたりしている。
当然、工藤君は、
「いや、そんなことはないんですよ。たまたま、その当時、選手の質が悪かったってだけの話なんですよ」
少し困惑しながら、それでもそつなく話している。
「へ、へぇ、そうなん、ですか。そ、それでも、凄いですよね……」
なんとか会話の輪に加わろうとする、最後部座席の小林早苗君。
でも、隣に座っている千埜君の無言のプレッシャー(彼女はそんなつもりは無いのだろうけれど)に押しつぶされそうだ。
そして、運転席の僕。
車は当然、いつものBMWじゃなくて、大型のワゴン車。
持ち主は、僕の隣、助手席に座っている晴れ女。
「悟。あんた、なにブツブツ言ってんの? 気味悪いわ」
訂正。“口の悪い”晴れ女。
「いやぁ、とりあえず、メンバー紹介は基本でしょ? 早いうちにやっておかないと混乱するからねぇ」
「誰に紹介してんのよ……」

僕。
「とりあえず、安全第一だよ。みんな、浮かれすぎないようにね」
工藤君。
「とかいって、浮き輪をもう膨らませて、一番浮かれているのは誰ですか」
千埜君。
「………………」
佐藤さん。
「ハァ……。こんなチャンス、滅多にない……。うまく、活用…ブツブツ」
小林君。
「ち、千埜さん。ジュース、飲む? ……。あ、いらない? そ、そう。ゴメンナサイ」
そして―
「私がBMWのオーナー! この車の持ち主! 今をときめく企業系弁護士よ!」
森下順子。

この六人が、今回の日帰り海水浴ツアーのメンバーだ。

そうこうしている内に、車は目的の海水浴場へ。
とりあえず、所定の駐車場に車を止める。
当然、運転手兼今回のツアーの発案者である僕がお金を払う。

全員、更衣室へと消える。

そして、出てきたときには当然、全員が水着で―

「どう? 私のナイスバディ。まだ衰えてはいない、まだ衰えてはいないわ!」

そんな煩い人の水着なんかに興味はない。そして、僕は見た。

「……スクール水着みたいだねぇ……」

黒いワンピースの水着を着た、小柄で童顔な彼女。
当然僕は、その一言で、彼女から腹に一発“イイの”を貰ったわけで。

浜辺に到着した時刻は11時過ぎ。
各々、好きなことを始めようか、と提案したのだが。

341:ふみお
08/02/14 19:56:39 zAXvEo8u
「私、朝抜いてきたのよねぇ。腹減ったわ」
女王様の託宣。っていうか。
「順子が一人で食べてくればいいじゃない」
なんていう僕の言葉なんて、女王様はお聞きになるはずもなく。
「つーか、どうせ、昼には込むんだから、店が空いているうちに腹ごしらえしときましょ」
そして、周囲の人間をねめつける女王様。
「いいわよね。みんな」
元々、自己主張の少ない面子だ。女王様に逆らうものなど誰一人としていなかった。
反乱分子である僕は、聞こえないように一言。
「……(ボソッ)横暴女王……」
「聞こえてるわよ。さ・と・る!」
女王様は千里眼のほかに、地獄耳をお持ちのようだ。

海の家に入った、僕たち。
広々とした開放的な空間。白い色で統一されている。
が、清潔という言葉からは程遠く。
建物の老朽化であちこちに穴が開いているわ、その穴から砂が入り込んでくるわ、で大変だった。
それでも、思い思いの物を注文し、それを食べる。
「あ、悟。ほっぺたにソースがついてる」
「え、本当?」
「ああ、そっちじゃないわ。いいわ、拭いてあげるから、ジッとして。……はい、とれた」
「いつも、すまないねぇ」
「爺みたいなこと言うな」
そんなやり取りをする僕と順子。
向かいの席に座った千埜君の視線が痛い。
「ち、千埜さん。あ、あのラーメンにそんなに七味を入れたら……」
「……………!」
しょんぼりする千埜君。
すかさず、僕の隣の工藤君が言う。
「僕、辛いの平気ですから。僕のと取り替えましょう」
「………………」
ためらうように首を横に振る千埜君。
「大丈夫です。まだ、口つけてないですから」
そう言う問題ではないのだろう。
でも、千埜君は心持、顔を赤くしながらラーメンを取り替えた。
「(……ふう。なんとか、なりそう。かな?)」
望んだ状況。
予知とは違う世界。
でも、これでいいんだ。
「……寂しいけれど、でも……」
「あ? 何か言った?」
地獄耳の女王様が五月蝿い。
僕は、無言で首を振ると、残った焼きそばを啜った。

会計後、パラソルを立て、各々自由行動に。

     ◇  ◇  ◇

……数時間後。

工藤さんはたまに休憩を入れながら、延々と、凄いスピードで泳ぎ続けている。
最初はついていこうとしていた、佐藤さんだが、結局、ついていけず。
浜辺でうずくまり、“の”の字を書いている。

しばらく泳いでいた私は、パラソルの立っているビニールシートに向かった。

あの二人の姿が見えない。

「(荷物番がどこかにいってどうする)」
いい加減な対応に腹が立つ。

342:ふみお
08/02/14 19:58:16 zAXvEo8u
……っていうか、あの二人何なんだ。
「(じゅんこ〜、さとる〜、だってさ)」
なんだか、余計に腹が立ってきた。
「(恋人か、っつうの!)」

恋人。

そう考えると、なんだか胸が痛い。
とても、痛い。
っていうか。

『あ、悟。ほっぺたにソースがついてる』
『え、本当?』
『ああ、そっちじゃないわ。いいわ、拭いてあげるから、ジッとして。……はい、とれた』

恋人、そのもの、じゃないか……。
再び胸が苦しくなってくる。
立っていられずに、しゃがみこむ。
すると。

「あぁ、ゴメンゴメン。千埜さん、だっけ? 荷物番してくれてたのね」

あの人が、森下さんが歩いてきた。
彼女はバツが悪そうに頭をかいている。
「いやぁ、ビール買いにいってたら、いつのまにか、あの野朗が消えやがってねぇ。どこいったんだか」
「………………」
頷くことで返事の代わりにする。
私の隣に、堂々と座り、缶ビールのプルトップを勢いよくあけると、彼女は豪快にそれを飲みだした。

343:ふみお
08/02/14 19:59:24 zAXvEo8u
ぶはぁ。

およそ、そのモデルのような外見からは想像もつかない程に、オヤジ臭い動作。
「………………」
モデルのような外見。豪放磊落な性格。
全て、私とは正反対だ。
彼とも、付き合いが長いようだし。

……勝ち目なんて、無いじゃないか……。

と、ここまで考えて、私は思い切り首を振る。
いいじゃないか。別に。
あの男が誰と付き合っていようと。関係ないじゃないか、私には。
そうだ。
あの男が、この美人な人と何をしたって……。

……キス、とかもするんだろうか……。

それ以上のことだって、当然。
「(いや、関係ない。関係ないんだ……!)」
必死で否定する。
でも、頭の中から、キスをする二人の映像が、どうしても離れない。

……胸が、痛い……! 苦しい……!

「―あのさぁ。私と悟。アナタの想像するような仲じゃないから」

………………。
今、なんて?

「だからぁ、私と悟は恋人同士とかじゃないから。ただの腐れ縁。勘違いしないでね」

私は隣に座る、美人の顔色を伺う。
彼女は、遠くを見ながら、ビールをあおる。
「アイツはさぁ、線を引いてんじゃないかって思う」
線?
「だから、アイツの引いた線以上には、アイツには踏み込めない」
「………………」
「信用すれば応えてくれる。助けを求めれば応じてくれる。たぶん、縋れば救ってもくれるんだろうけれどね」
彼女はこう続けた。
―したこと無いから、わかんねぇけど―。
「………………」
身に覚えは、ある。
応えてくれた、応じてくれた、―救ってくれた。
でも、それ以上には、ならない。
「アイツはもしかしたら、ずっと独りなんじゃないか、って思う。たぶん、最後の一瞬まで」
誰かを応えるために、応じるために、救うために。
隣に親密な誰かがいたら、その人を傷つけてしまうから。
親密な誰かのために、信用してくれる誰かを、助けを求める誰かを、縋ってくる誰かを。
応えることが、応じることが、救うことが出来ないから。
だから、いつまで経っても。何処まで行っても。
独り。

「なぁんてね! そんなカッコイイ奴じゃ、ないかぁ!!」

今までの雰囲気をぶち壊すように彼女は大声を出した。
「っていうか。見た? あの貧相な体! メタボよりよほど酷いよ」
「………………」
それは私も思った。
……っていうか。あんなに細かったっけ?

344:ふみお
08/02/14 20:00:17 zAXvEo8u
半年前のあの屋上。
私を抱きとめた彼の腕は、もっと太かったような気がする。
私の回想などまるで無視するかのように、彼女は続ける。
「私にも選ぶ権利あるわ。あんな冴えない中年と恋人だなんて、ゾッとしないわ」
さもありなん。
頷く私を見ながら、彼女は笑った。
「でしょ〜? っていうか、ヘビースモーカーだし、車も持ってないし」
「………………」
そのとおりだ。
「それなりに偉いっつっても、所詮、室長どまりだしねぇ」
「………………」
「そして、なによりも情けない、冴えない、どうしようもないの無い無いづくしだものねぇ」
………………。
そこまで言うことないんじゃないか。
タバコを吸うのは個人の自由だし、車だってそうだ。
それに、あの年齢で室長だなんて、やっぱり凄いに決まってる。
だいたい、アナタはあの人の何が解っているって言うんだ。

私を支えてくれた、あの人が。情けないことなんてない。

命を救ってくれたあの人が。どうしようもないことなんてない。

まぁ、冴えないのは、……否定できないけれど。
それでも、私の悩みを解決してくれた彼は、誰よりも―。

「あれ? 怒った?」
「………………」
知らず、私は彼女を睨んでいた。
すぐさまそれに気づき、私は視線を海にやる。
「あれあれ? ……ひょっとして、マジ?」
「………………」
私は首を振り、『怒っていません』と紙に書き、見せた。
「だよねぇ〜。アイツのことを私がどう言おうと、あなたには何にも関係ないもんね〜」
この人。
ケンカ売ってるのか?
だったら―。

「ち、千埜さん。あの、す、少し、浜辺のほうに行ってみない?」

いよいよ、ペンを握る手に力が入った私を止めたのは、不安そうに話しかけてきた小林さんの声だった。

……。
………………。
………………………。

波打ち際。
波が足元の砂を攫っていく感覚。
それが少しこそばゆい。
「………………」
「………………」
五分ほど前から、二人して無言。
私は一応ノートとペンを持ってきてはいるが、別に書くことがない。
楽しそうな子供達の声が聞こえてくる。
若い男女の騒ぐ声が遠くに聞こえる。
二人の沈黙の空間を破ったのは、やはり、彼女からだった。
「ち、千埜さん。今日は誘ってくれて有難う」
私はどういたしまして、というふうに首を振る。
彼女は少し微笑む。
「正直、行くかどうか、朝ギリギリまで悩んでたんだ」
彼女の心情の吐露。

345:ふみお
08/02/14 20:01:12 zAXvEo8u
頷くことで先を促す。
「食事を食べながら、顔を洗いながら、荷物を確認しながら。ずっと、断る言い訳、探してた」
「………………」
「だって、やっぱり、会ったら気を使うしかないじゃない。気まずい思いをするに決まってる。だから―」
その気持ちは分かる。
私だってそうだった。
今日、行くべきか、辞退するべきか。
正直、最後の最後。
全員が集まって、『さあ、行こう』という時でさえ、仮病を使って止めようか、とも考えた。
でも。
彼女は、来てくれたから。
会ったら気を使う。気まずい思いをするに決まっている。
そんなのは容易に想像がつく。
それでも、彼女は、この人は来てくれたから。
だから、裏切れなかった。
それにいい加減―
「(恨む気持ちも、あるんだけれどな)」
―気持ちに決着をつけたかった。

たぶん、理性では許していて。感情でも、許したくて。

だから今日。
逃げなかった。逃げられなかった。逃げることなんて出来なかった。

「楽しいよ、今日。来てよかった、って、本当に思うんだ」

『私は何もしてませんよ?』
彼女は頷く。
「でも、許そうとしてくれていることが、わかるから」
「………………」
「でも、許せないっていうのも、わかるから」
私も頷く。
「だから、今日、千埜さんの顔をいっぱい見れてよかった。千埜さんがまだ私のことを許せないのを見て、決心できた」
「………………」
「私、頑張るから。千埜さんがもっと笑ってくれるように、もっと元気になるように。忘れることは多分、二人とも出来ないと思うけど。それでも、私、頑張るから」
私は大きく頷き、書く。
『私も頑張ります。あなたを早く許せるように』
その文字を見て、彼女は苦笑した。
「千埜さんはもう、半年前にいっぱい頑張ったじゃない。我慢したじゃない」
今度は、私が苦笑する番だ。
頑張ってなんかいない。今だって。
あの時はただ潰れかけた。それを彼が助けてくれただけ。
今は―。

『未だに行ってないんです。病院に』

その文字に、彼女は目を見開く。
「なんで!? だって、もう半年以上、口が利けてないんだよ!? どうして!?」
彼女の大声に、私は口の前に人差し指を一本、立てた。
『静かに』というジェスチャー。
彼女は自分が周囲の注目を集めてしまったことに、恐縮し、しかし、それでも追求をやめない。
「なんでなの? 千埜さん。それじゃ、いつまで経っても……」

『恐いんです。病院が』

正直な感想。
小林さんは困惑するばかりだ。
「そ、そんな子供みたいなことで……?」
私は首を振り、苦笑した。

346:ふみお
08/02/14 20:02:21 zAXvEo8u
『私の両親は、交通事故にあい、病院で死にました。母は顔がありませんでした。父は、全身を粉砕骨折してました』

彼女が息を呑む。
こんな気持ち悪い話を聞いたら、当然の反応だろう。

―最初は偏見だった。
心療内科や、精神科への不信感もあった。
だから、どうしても、そのドアを開けるにはいたらなかった。
それでも、何とかなると信じていたから。
でも。

―両親の姿を見た後、私は、病院がダメになってしまっていた。

ストーカーがいなくなり、イジメがなくなった私は、覚悟を決めて、病院へ行った。

……入り口で吐いた。

病院にいる間中、脂汗と、震えが止まらなかった。
私は逃げるように、病院を後にした。
それ以来、一度も。

コレは彼にも話していないこと。
でも、彼が病院を薦めることはなかった。
彼は私のコレをも、予知しているのだろうか。
私の『失語』を話題にもしないのだから。

『だから、私は頑張っていないんです』

目の前の彼女は、泣いていた。
まるで、私の分を取り返すように。
震えながら、泣いていた。
「そんなに辛いことがあったのに。私、私は……」
私は彼女の肩を抱き、背中を撫でた。
まるで子供をあやすように。
『それでも私は、アナタを、許したい』
「ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ……」
彼女が泣き止んだのは、それからしばらくしてからだった。

     ◇  ◇  ◇

「(やれやれ、今度は君が苛めているのかい?)」
浮き輪でプカプカ浮きながら、僕は浜辺の二人を見ていた。
勿論、会話の内容なんて知るはずもなく。
「っていうか……。工藤君、泳ぎだしたら、人が変わっちゃったねぇ……」
本当だったら、千埜君をエスコートして欲しかったんだけれど。
「(まぁ、他の人も居たからねぇ。あからさま過ぎるのは無理か)」
とはいえ、今回は上出来だろう。
「千埜君と小林君もうまくいったみたいだし」
それに。
予知した世界ではそろそろ。
………………………。
「(工藤君は何処かな? あ、佐藤さんのところか。位置は丁度いいね)」
太陽の位置から考えると、あと三十分くらいだろうか?
「(僕はそろそろ、海から出ておこうか……)」
そう考えたときだった。

「(あれ、浮き輪が物凄くしぼんでるような)」

気づいたときには遅かった。
浮き輪は僕の体重を支えることが出来なくなっており。

347:ふみお
08/02/14 20:03:09 zAXvEo8u
ということは。
泳ぎ方を知らない僕は。

「当然。溺れるよねぇ……」

冷静な言動はコレで最後だった。

     ◇  ◇  ◇

異変に最初に気づいたのは、泣き止んだ小林さんだった。
「? あれ、竹内さん、ですよね……」
彼女の視線の先を追ってみる。
たしかに遠いところ、小さく彼がいる。
でも、様子がおかしい。

―っていうか。

「! あれ、溺れてるよ!!」

「……………!」
小林さんの言葉を最後まで聞くことなく、私は、海に入っていた。
懸命に泳ぐ。
でも、なかなか、前に進まない。

「(早く、速く!!)」

焦れば焦るだけ、体は進まない。

―それでもようやっと、彼のところまで辿り付く。

彼はぐったりとして動かない。

懸命に、でも慎重に、彼を運ぶ。

……。
………………。
………………………。

浜辺に横たわらせた彼。
見知らぬ人が、彼の口に手を当てている。

「この人、息してないぞ!!」

     ◇  ◇  ◇

最初に見えたのは、逆さまの千埜君の顔。
後頭部が柔らかいものに乗っている感触。
どうやら、膝枕されているらしい。
彼女は僕の頭を両手で抱いているようだ。

「え〜と、どうなったんだっけ……」

たしかシナリオでは、千埜君が―。

僕の顔に雫が落ちてくる。
どうやら、彼女の涙らしい。
ん? どうして泣いているんだろう?

とりあえず、安心させるために、僕は微笑んだ。

348:ふみお
08/02/14 20:03:59 zAXvEo8u
「……………!」

逆効果だったらしい。
顔がどんどん濡れていく。
「あ、先輩。気がついたみたいですね」
工藤君の声がする。
とりあえず、訊いてみようか。
「あの、工藤君。一体全体、何がどうしちゃったのかな?」
工藤君は苦笑したような声で言う。
「千埜さんに感謝してくださいよ。彼女がいなければ、今頃、先輩は海の藻屑になっていたところなんですから」
言われて思い出す。

しぼんだ浮き輪。沈む身体。苦しくなる息。
その最後に、懸命に泳いでくる彼女を見た気がする。

「あぁ。僕、溺れたんだね」
『策士、策に溺れる』を地でいったらしい。
ちょっとおもしろい。
「ハハハ。まさかこんなことになろうとは」
予知と全然違うじゃないか。
「“ハハハ”じゃないわよ。アンタ、心臓止まってたんだから」

ふぅん。あぁ、そう。

「……へぇ、そうなんだ?」
「ホントよ、ホント。マジで昇天する5秒前ってやつ?」

『心配したんですから!!』
彼女がノートを見せる。
揶揄するように僕は言った。
「君が、エクストラクエスチョンマーク使うなんて、珍しいねぇ」
彼女がノートに書き込む。
『真面目に聞いてください! 心臓が止まってたんですよ!?』
「それはさっき聞いたよ。いやぁ、青天の霹靂とはこのことだねぇ」
『大丈夫なんですか? 痛むところとかは?』
「平気、平気。これでも、僕、見た目より若いんだよ」
彼女は疑うように僕を見ている。
「本当に、平気だよ」

僕はゆっくりと体を起こした。
まだ、千埜君は泣いている。
っていうか。
僕らの周りに人だかりが出来ている。

僕はなんとなく恥ずかしくなり、周りの人たちに言った。

「いやぁ、皆さん。この可愛い人のおかげで助かったらしいです。ハッハッハッ」

数人だけ、僕のジョークでウケてくれた。

     ◇  ◇  ◇

夕暮れ時、私たちは後片付けをすませ、帰路に着いた。
運転しているのは工藤さん。隣に彼が座っているらしい。
「(今日は疲れた……)」
どうやら、私以外の女性陣は全員眠っているらしい。
そこかしこから、静かな寝息が聞こえる。
っていうか。
「(私も眠い……)」
知らず、舟をこぐ頭。

349:ふみお
08/02/14 20:04:52 zAXvEo8u
遠くのほうで、彼と工藤さんが話しているのが聞こえる。
どうやら、私も眠っていると思っているようだ。
「いやぁ、今日は参ったねぇ」
「死にかけといて、よくも、平然としていられますね……」
断片的な会話。
時間軸がずれているような感覚。
意識が暗く落ちていく。

「っていうか。本当は今日は、千埜君が溺れるはずだったんだ―」
「また、いつものヤツですか? でも、本気だったら、僕は先輩を軽蔑しますよ―」
「だろうねぇ―」
「ええ。千埜さんが危ない目にあうのを判っていて、参加させたなんて―」
「正直に吐露すると、彼女を助けるのは君の役目だった―」
「はぁ―」
「そして、それをキッカケに、二人は親密になる。予定だった―」
「なんで、僕と彼女を―」
「君が適役―」
「答えになって―」

「千埜君は僕といると不幸になる。間違いなく―」

そんな会話が交わされているなんて知りもしないまま。
私は眠っていて、起こされたときには、もうアパートの前だった。

     ◇  ◇  ◇

「ま、当然だよねぇ……」
手には辞令書。
正確に言うと、辞令打診書といったところか。

そろそろ冬の気配を体に感じ始めた、この頃。
それでもなお、しつこいくらいの夏の名残の温風が肌に当たる。
今日は、曇り。
灰色の空。やっぱりダークグレーにしか見えないコンクリートの床。赤茶けた柵。
つまりは、いつかの屋上。
僕は、いつものようにタバコを片手に、そこに佇んでいた。
やはり、ここで吸うタバコはうまい。
それこそ、思い出したいろいろなことを、忘れさせてくれる程度には。
でも。
「(頃合、といえば、頃合だよね)」
いつか来ると思っていた、否、むしろ来るのが遅かったくらいの辞令。
もしかしたら、有能な後輩が何らかの手を回していたのかもしれない。
今となってはどうでもいいが。

考えるのは彼女のこと。
早春、ここから飛び降りようとした彼女のこと。

「いろんなことがあったねぇ……」

彼女はどう思うのだろうか?
できることなら、知ってほしくはないのだけれど。
「ま、そこは工藤君の空気読む力を信じるとしましょうか」
ポケットに入れている携帯が、某レインボーマンの敵軍団のテーマソングを鳴らす。
この音は、かの晴れ女に設定していたはずだ。
そんなことを考えながら、僕は通話ボタンを押した。
「いやぁ、珍しいね。君から掛けてくるなんて」
『……どうせ、またサボってんでしょ?』
「君の予想通り、僕は今屋上だよ。人命救助はしていないけれどね」
そんな僕の軽口には取り合わず、これまた珍しいことに真面目な口調で言った。
『昼休み、空けときなさい』

350:ふみお
08/02/14 20:05:43 zAXvEo8u
「命令かい?」
『命令よ。いいわね。迎えに行くから、会社の前で待ってなさい』
唐突に切れる電話。
「まだ肯定も否定もしてないんだけれどね……」
それに昼休みまで、あと30分といったところだ。
これから車でくるのだろうか?
「考えても仕方ないか」
割り切って、残りの時間を使い、タバコを吸うことにする。

     ◇  ◇  ◇

昼休みになり、私はデスクから立ち上がった。
あの夏の日以来、私と小林さんは一緒にお昼を食べることが多くなった。
でも、今日は小林さんは外出している。昼も外で食べることだろうと言っていた。
だから、私は今日は最近では珍しく、一人で食べることになる。
そう思っていた。

「今日は、先輩の代わりです」

出入り口で待ち構えていた工藤さんを見るまでは。


「一週間ぶりぐらいですか。こうして一緒に食事をするのは」
私は頷く。
いつものように、社員食堂。隅の席。
工藤さんと私はA定食をもって、席に着いた。
「先輩が熱心になるのって、A定食について語るときくらいですよね。だから、つい釣られちゃうっていうか」
「………………」
そのとおりだと思った。
トンカツなんてものをメインに置いた脂っこい食事なのに、なぜかA。なぜか、美味しい。悔しいことに。
そして、A定食を食べるたびに思い出す。
あの日のことを。
小皿に乗せられたトンカツのことを。

……っていうか。

今にして不思議なのだが。
彼はどうして、私が欠食気味だとわかったんだろう?
ストーカーのことは予知できたのだろうけれど。イジメのことは、事件の後で知ったみたいだったし。
「(どうしてなんだろう?)」
そんなことをぼんやりと考え、中空を見つめる。
「あれ? 食欲ないんですか?」
工藤さんが心配そうに聞いてくる。
私は苦笑しつつ、首を振る。
「だったら、いいんですけれど」
頷く私。
「さ、食べましょう」
手を合わせる私たち。
「いただきます」
「………………」
無言になった私たち二人は、黙々と箸を進める。

そして、約三十分後。

「ごちそうさまでした」
「………………」
私たちはA定食を完食した。
「さすが、先輩が一押しするだけのことはありますね」
ふん。
まぁ、確かに。

351:ふみお
08/02/14 20:06:25 zAXvEo8u
でも、それは彼の成果ではなく、食堂で働く人たちの功績だ。
美味しいものを教えてくれたのはありがたいが、そう思う。
そんなことを考えていると、工藤さんは真面目な顔でいった。
「実は、先輩に関して重要なお話があるんです」
「……………?」
なんだろう。
思い当たる節が全くないが。
「実は、先輩は―」

     ◇  ◇  ◇

「―○○○県に移動らしいわね」
僕は驚く。
「……なんで知っているんだい? まだ、辞令が出たばかりなんだけれど」
今をときめく企業系弁護士は―順子は真面目な表情で言う。
「本当なのね……」
「いや、僕の質問に答えてよ」
「あなた、本当にそれでいいわけ?」
「………………」

会社から歩いて約10分の公園。
その前にあるフレンチレストランで僕たちは食事をし終わった後だ。
空の食器をウェイトレスが運んでいく。
禁煙席なので、食後の一服を楽しむことが出来ない。

「これって、人生の重大な欠損だよねぇ……」
「私の質問にちゃんと答えて」
「僕の質問には答えなかったじゃない」
「いいから」
「ま、いつものことだけどね」

僕を睨みつけてくる順子。
どうやら、本気で怒っているらしい。
……怒る?
何で彼女が怒っているんだろう?
訊いてみるか?

「……順子、何で怒ってんのさ」
「こんな大事な話を今まで一度でも言わなかったでしょ……!」
そういえば、こんな会話。
「5年前くらいにも同じ会話をしたよね」
「10年前くらいにもよ」
―5年くらい前は、帰ってくるという連絡をしなかったから。
でも、最終的には飲み会になった。
―10年くらい前は、今と同じ。
僕が移動することになったから。
ここよりももっと都会。この国で一番栄えている場所に。
彼女は怒りながら、泣いていた。
それでも、最後には祝ってくれた。
でも、今回は。
「左遷なんでしょ?」
「………………。本当に千里眼でも持っているのかい? だったら、貸してよ。試したいことがあるんだ」
「ふざけないで!!」
彼女の大声に周りの注目が集まる。
でも興奮した彼女はそれに気づいていない。
しょうがない。

「ちょっと、散歩でもしようか」

     ◇  ◇  ◇

352:ふみお
08/02/14 20:07:18 zAXvEo8u
『左遷?』
私は震える手で書いた字を、工藤さんに見せた。
「ええ。その左遷です」
なんで。
彼は有能な社員ではなかったのか?
「先輩は本当に有能な人間なんですけれどね。でも、完璧な人間ではない」
「……………?」
何がいいたんだろう。
「あの人が有能であれば有能であるほど。やっかみは付いて回るわけで……」
ああ。そういうことか。
私も、痛いほど身に覚えがある。
「それに、少し、大きな問題もありまして」
「……………?」
大きな問題?
何のことだろう?
「先輩は、実は―」

―!

そうか。
そういうことだったのか。
じゃあ、もしかして。


あの時彼が、あの場所に来たのは?


まさかとは思うが、その傾向はあるような気がする。
……直感だけれど。

「思い当たる節があるみたいですね。多分、正解だと思いますよ。僕もそう思いますから」
やっぱりか。
工藤さんはあくまでも真摯に言った。
「ここで選択肢が二つあります。先輩の用意した未来に乗るか。反るか」
「………………」
「今なら、まだギリギリ、僕の力でどうにかなる。でも―」
「………………」
「―先輩のことを、本当の意味で引き止められるのは、あなただけだと思います」
「………………」
「先輩は、一番にあなたのことを考えた。無意識的に選んでるんです、あなたのことを」
「………………」
「あなたの気持ちを見透かすようなことを言っているのは、重々承知しています。それでも、ここがターニングポイントです」
私は、席から立ち上がった。
つまらない意地も、見栄も捨てる。
そして、ノートに書く。
『彼は、今、どこですか?』

     ◇  ◇  ◇

「いやぁ、落ち葉がキレイだねぇ。もう冬ってことかな」
「………………」

公園のベンチに腰掛けた僕と順子。
当然、僕の手には火が付いたタバコがあるわけで。
「あんた、本当にそれでいいの?」
「さっきも似たような台詞を聞いたねぇ」
「はぐらかさないで」
どうやらお気に召さなかったらしい。
僕は無言でタバコをふかす。
「………………」

353:ふみお
08/02/14 20:08:03 zAXvEo8u
「アンタに無口は似合わないわ。ねぇ、答えて。あの娘のことはいいの?」
順子は今、混乱しているのだろう。
それは昔と同じ情景だから。
だから、本来なら『敵』であるところの彼女のことを持ち出したのだ。
……僕が考えるのも、おこがましい話だが。
だから、あえて触れない。それに。
「僕にどうしろって言うのさ」
打診とはいえ。辞令は辞令だ。
「一会社員の悲しいサガだよね。紙切れ一枚で飛ばされる」
「嘘ばっかり」
順子は断定するように言った。
「アンタ、全部知ってる上で、何も手を打たなかったんでしょ?」
そしてそれは。
「大当たり」
「なんで……!?」
信じられないものを見る目。
あの時と、10年くらい前と同じ目。
「彼女は僕といると不幸になるからさ」

バシンッ!!

順子が僕の頬を張る。
「またそれ!? 未来予知!? ふざけんな!!」
「……それも10年くらい前に聞いたよ」

―『君には僕より相応しい人間が現れる』
―『何、言ってんの……!?』
―『単なる未来予知だよ』
―『はぁ!? だから!? まだ、目の前にも現れてない、その人間のために私を置いていくの!?』
―『………………』
―『未来予知!? ふざけんな!!』
―『僕は本当のことしか言わない。信じなくてもいいけどね』
―『ええ。だったら、私は信じないわ。完膚なきまでにね』
―『……そう』
―『あなたは出世のために私を置いていくんだわ。そう考えたほうが清々する』
―『……うん』
―『………………。何を言っても、もう、無駄、なのね……』
―『………………。そういうことになるね』
―『だったら―』
―『?』
―『―せめて、祝わせて。あなたの門出を』

「ねぇ。ウチに来ない?」
10年くらい前にさかのぼった僕の意識を呼び戻す、順子の声。
ウチ。つまり。
「君のいる所の弁護士事務所かい?」
「ええ。秘書だったら、アンタを使ってやってもいいわ」
「………………」
「それだったら彼女と別れることもない。でしょ?」
縋っている。
僅かな希望に、もっともらしい理由をつけて。
そこまで執着してくれるのは有難いが。
でも、順子らしくない。
「魅力的な提案だねぇ。それは」
そうすれば確かに僕と彼女は。

でも、違うんだ。

そんなことで解決できる問題なんかではない。
問題の抜本的解決には至らない。

354:ふみお
08/02/14 20:09:21 zAXvEo8u
むしろ、今。この状況でさえ望ましくない状況なのだ。
人と関われば関わるほど。

“喪失”。

それ自体が問題なのだから。
それに。
「君の秘書の座は空けておいたほうがいいようだから。お断りするよ」
「また、下らない未来予知……? 傲慢だよ。アンタ」
僕はほとんど吸殻になったタバコの最後の一服を大きく吸う。

ぶはぁ。

そして、携帯灰皿にタバコを押し付ける。
「確かに、僕は傲慢だったよ」
「“だった”? ハッ。現在進行形で傲慢よ」
確かにそうだ。
でも、見えてしまった。
そして、僕は忘れていた。

彼女にも選択権があるのだと。

だから。
「いや、過去形で正解だ、と思いたい」
なぜなら、正解を見つけたから。

「重要なのは、不幸な未来に怯えることじゃなかった。問題はそこにいたる道程。何を得るか、何が出来るか、ということ」

「……………?」
訳がわからない風の順子に、僕はきっぱりと言った。
「僕は会社に残るよ。この場所の、この会社にね」
たとえ短い間であったとしても。
僕は、彼女を―。

     ◇  ◇  ◇

見つけた。
工藤さんに言われたとおりの公園。
そのベンチに彼は座っていた。
いつものように、タバコを吸いながら。
「千埜君、奇遇だねぇ。紅葉の映えるいい天気、だ」
私は彼に近づくと、

パシンッ!

その若干赤い頬を、叩いた。
そして―

「………………わ、たしの未来を、かって、に決め付けるな………………!!」

―万感の思いを込めて、言った。

彼が目を見開く。
「君。言葉が……」
息苦しい。
たんが喉に詰まる感覚。全身が総毛立つような寒気。
……鬱陶しい。……気持ち悪い。……イライラする。
そう言われてきた、声。
他人を呪う以上に、自分を呪った、忌まわしい声。
でも。

355:ふみお
08/02/14 20:10:24 zAXvEo8u
それを使わないと、彼には届かない。っていうか―

―届け!

「……助けてくれたのは、いつも、あなた……!」

ストーカーも、イジメも。
彼はまるでなんでもないことのように、綺麗サッパリ片付けてくれた。
お節介にも、鬱陶しいと思われても、命を張ってでも。
そして。

「……あの時、必要だって、私のことが必要だって言ってくれたのは、あなただけ……!」

冷たい風の吹き荒ぶ、あの季節、あの屋上で。
全てから見放され、全てから見下ろされ、全てから見下され。
そして、それ以上に。
全てを見放し、全てを見下ろし、全てを見下し。
達観し、絶望視していた。
あの、どうしようもない私を。
文字通り、繋ぎとめてくれたのは、引き寄せてくれたのは。

『あんたが今、ここで死んだら、僕が悲しむ!! 世界中の誰よりも悲しむ!! その自信がある!!
あんたは、あんたはこの世でまだ必要とされている!! 間違いない!!』

そう言ってくれたのは。
必要としてくれたのは。

「……あなただけ、あなただけなの……」

だからというわけではない。
でも。
ヘビースモーカーで、車も借り物で、飄々としていて、掴みどころのない笑顔で、貧相な体で、冴えない中年。

でも。それでも。

「……私は、あなたが、好き……!!」

それだけは、変わらない事実。
誰がなんと言おうとも。
どんな不幸が待っていようとも。

     ◇  ◇  ◇

僕は、半分以上あるタバコをもみ消した。
そして、大きく息をつく。

「君ってつくづく不器用な娘だよねぇ……」

目の前のこの娘は。
小柄で童顔で、生真面目で無口な、この娘は。
どうしてそう、真っ直ぐにしか進めないのか。

どうしてそう、僕の心を捉えて離さないのか。

「僕といると、不幸になるよ」

彼女は大きく首を振る。
『そんなことはない』と言いたいのだろうか。
でも。
見えているから。多分、ほとんど間違いのない未来が。

356:ふみお
08/02/14 20:11:34 zAXvEo8u
「僕は来年の春頃に、大きな交通事故に巻き込まれる」

彼女の瞳には大粒の涙。
綺麗だな、と場違いにも、そう思った。

「それが電車なのか、車なのか、それとも飛行機なのか。あるいは歩いているだけなのかもしれない。特定は出来てない」

淡々と喋る。
そんなことはどうでもいいことだから。
でも、目の前の彼女には、言っておかなければ。

「僕は、そのときに死ぬ」

数年前から見えていた未来。
回避不能だと確信している未来。
だから、出来る限りのことはしてきた。
人と関わらないように。
それが一番重要で、一番難しかった。
でも。

「………………」

彼女と出会ってしまったから。

……最初は責任感からだった。
命をむりやりこの世に引き止めてしまった咎。
僕には、彼女の重荷が、少しだけ、解っていたから。解っていた筈だから。
でも。
彼女は強かった。
へこたれなかった、曲げなかった、折れなかった。
いつもギリギリで、耐え忍んでいた。
一人きりで、弱音も吐かずに。涙をこらえて。
そんな姿は、間違いなく美しかった。
そんな姿に、僕は魅せられていた。
そして、それらが全て解決した後。

『さ、行こうか。千埜君。安全迅速がモットーの竹内タクシー。ご利用の際は安全のためシートベルトを必ず着用してください、ってね』
『………………』
『ん? どうかしたのかい?』
彼女は首を振った。
たぶん、あふれ出てくる涙を誤魔化すために。
そして、彼女の顔をうかがう僕を誤魔化すために浮かべた、笑顔。
切なげで、儚げで、それでも、弱みを見せようとしない彼女の、笑顔。

年甲斐もなく、ときめいてしまった。
三十路を超えた男が、その女性の笑顔に。

「君は、それでも、僕を、僕といる未来を選択してくれるのかい?」

本当は、こんな質問、するはずじゃなかった。
こんな未来。
本来なら唾棄すべき感情のはずなんだ。
彼女を確実に不幸に陥れる、最悪の質問。
できることなら、彼女には断って欲しい。
断るべきなんだ。
でも。

それでも、彼女が選んでくれるのなら。
僕を、僕といる未来を。

357:ふみお
08/02/14 20:12:19 zAXvEo8u
「…………当たり前…………」

泣きながら彼女が抱きついてくる。
僕は―

―いいのか?
今だって見える未来は、確実に灰色。
揺らぐことは多分ない。
彼女に、喪失を味わわせることになるんだぞ。
深く入り込めば入り込む分。
傷は広がり、深くなる。
ああ、それでも。

傲慢で強欲な僕は、彼女のことを欲しいと思った。

それ以上に―

「…………ありがとう」

―愛しい人が、僕の事を想ってくれる。選んでくれる。

こんなにうれしいことはない。

知らずこみ上げてくる雫を誤魔化すこともなく、僕は、目の前の美しい人に言った。

「キスの一つでも、しようか?」

目の前の人は、真っ赤になりつつ、しかし、ためらうことなく、僕の顔に唇を近づけ、そして―。

     ◇  ◇  ◇

コンコン。

高級感溢れる外観に似合わず、軽い音があたりに木霊する。
男はためらいもせず、その車の助手席に乗り込んだ。
「いやぁ、先輩をうまく誘導してくれて、有難うございました」
運転席でハンドルに突っ伏す、その女に声を掛ける。
「………………」
女は何の返事もしない。
そして、男もそんなことは気にしない。
「もしかして、泣いてるんですか?」
その言葉に反応して、その女は、涙でぐしゃぐしゃの顔を男に向ける。
しかし、男は頓着しない。
「未練たらたらですねぇ」

ギリッ。

女は、歯を噛み締める。
そして、大きく息を吸い込んだ。
「そうよ! 未練よ! 悪い!?」
「先輩のこと、やっぱり好きだったんですね」
「高校の頃からずっとよ!! 大学別になって、アイツが他の女に手を出しても、それでも諦め切れなかった!!
私も他の男で忘れようとした!! でも、全然ダメ!! あんな変な男の事、忘れられるわけないじゃない!!」
「だから、せめて友人でいようとした?」
「そのとおりよ! だって、アイツは誰とも距離を置いていた!! ここ最近は特に!!」
「それでも、諦められなかった?」
「いつか、いつか、私のことを見てくれる。そばに置いてくれるって、信じてた」
「それでも、先輩が選んだのは彼女だった」
「私は、あの子より、アイツの格好いい所、駄目なところ。全部知ってるっていうのに」
「正直、今日という日、今の今に至るまで。先輩があなたを選ばなかった理由がわからない。どうしてなんでしょうね?」

358:ふみお
08/02/14 20:13:15 zAXvEo8u
「…………。私には、アイツよりも“相応しい人間”が現れるそうよ……」
「へぇ、そうなんですか? だったら―

―立候補しようかな?」

「へ?」
「ここからちょっと行った所に、イイ飲み屋があるんですよ。当て馬同士、傷を舐めあいませんか?」
「………………」
「………………」
「………………………それもいいかもね……」
「じゃ、終業時間に迎えに、はダメか。タクシーで行きましょう」
「わかったわ」
「……それにしても」
「?」
「先輩には、今、どんな未来が見えているんでしょうね……」
「アナタもアイツの戯言を信じてるクチ?」
「まさか。だからこそ、こんなことを仕組んだわけです」
「なんだか、やり口がアイツに似てるわ」
「ま、色々仕込まれましたから。先輩には」
「そう。それはお気の毒に」
「ハハハ」
「………………」
「………………」
「そうね。でも、気にはなるわ」
「ですねぇ。本当のところ、あの二人を待っている未来は何色なんだろ―

     ◇  ◇  ◇

「……出張……?」
彼女の部屋。
小さなコタツを囲んでの鍋料理。
雑炊まで食べつくした僕らは、たらふく食べた満足感から、少し、ぼんやりとしていた。
でも、彼女には伝えておかなければならないことがある。
「うん。一週間後、○○○県に2〜3週間くらいかな」
「……なにしに?」
心配げな彼女の声。
ま、心配するなというほうが無理だろうけれど。
「まぁ、研修みたいなものかな。それに向うで立ち上げた、新しい仕事の打ち合わせもあるし」
「………………」
彼女は視線を落とす。
ダウナー系の思考を持つ彼女のことだ。
今、どんなことを考えているのか容易に想像が付く。
僕は立ち上がると、彼女の隣に座り、その細い肩を抱いた。
「大丈夫、大丈夫。乗り物には気をつけるからさ」
「………………」
「それに、まだ時間に猶予はあるよ。……多分」
「………………」
彼女は俯いたままだ。
安心させるために、硬くなっている腕を撫でる。
そのまま、少し無言。
無性にタバコを吸いたくなってくるが、この部屋での喫煙は禁止されている。
「(まぁ、匂いが付くからねぇ)」
しょうがないといえば、しょうがないのだが。
「(もう一回ぐらい、交渉してみようか?)」
多分、否、まず間違いなく否決されるだろうけれど。
そう思いながら、口を開く。
すると。

「……わたしもいく……」

359:ふみお
08/02/14 20:14:12 zAXvEo8u
彼女が意外なことを言い出した。
「行く、って。○○○県にかい?」
頷く彼女。
おいおいおい。
僕は少し呆れてしまう。
「そんなことできるわけないじゃない。君にだって仕事があるだろう?」
「……有給、つかう……」
「そんなの直ぐに無くなっちゃうよ」
「……大丈夫……」
大丈夫なはずないだろう。
僕は彼女の頭を軽く叩いた。
「……いたい……」
「君が聞き分けのないことを言い出すからだよ」
「……でも」
彼女は心配性すぎる。過敏なのだ。
ふぅ。
僕は小さくため息をついた。

こんなことでもダメなのか?
だったら―

―本当のことなんて、なおさら言えないじゃないか。

僕は安心させるために彼女の頭を撫でた。
「大丈夫、大丈夫。たった2〜3週間さ」
「………………」
されるがままの彼女。
それでも心配そうな上目遣いはやめない。
「クリスマスには、何とか間に合うでしょ。だから、勘弁してよ」
「………………」

結局、その日は最後まで納得してくれなかった。
まぁ、それでも、ついていくという発言は撤回させたが。

「(綾音君。ごめんね……。でも、大丈夫だから)」

一週間後、僕は約束どおり、ある場所へと向かった。

「先生。お願いします」

目の前の医者に頭を下げる。
そして、心の中で綾音君にも、頭を下げた。

     ◇  ◇  ◇

彼が出立した、その日。
私は見送りに行くと、何度も訴えたが、あえなく彼に却下された。
なぜなら、その日は平日。
私にも仕事があったからだ。
……そんなこと、気にしなくてもいいのに。
そうは言ったのだが、彼が頑なに拒否するので、諦めた。
……少し、腹が立つ。
「(恋人が見送るって言ってるのに、断るとは何事だ……)」
でも。
彼が安心していいって言ったから。
大丈夫だって、言ってくれたから。

信じるしか、ないじゃないか。

それでも、不安な一週間ちょっとが過ぎた。

360:ふみお
08/02/14 20:14:45 zAXvEo8u
彼とは毎日連絡を取り合っている。
でも、どうしてか通じないことが多い。
基本的に、彼のほうからしかかかって来なかった。
まぁ、お互いに仕事を抱えた身だ。
時間が制約されるのもやむないだろう。
そう思っていた。

でも。事情が変わった。
あの人に伝えなければならないことが出来た。
いまだに若干、震える体を押してまで確認した、事実。

「(そういえば……)」
キーボードに数字を打ち込みながら、気がついた。
「(悟さんの、向うでの連絡先、聞いてない)」
迂闊、といえばあまりにも迂闊だった。
そう言えば、彼は携帯があるからと、しきりに言っていた。
でも。
「(それじゃ、使用料が高くなる)」
お互いに。
そんな不経済なこと、許されないだろう。
別に倹約家ではないが、それでも。
「(お金のことを考えながら、電話したくないし)」
気がついてしまった以上、しょうがない。
もしかしたら工藤さんが知っているかもしれないし。
後で聞いてみることにして、とりあえず、仕事に意識を戻した。
……つもりだったのだが。
どうしても、顔が微笑んでしまうのは隠しようがなかった。
「(あの人は、なんて言うだろう)」

そして、迎えたお昼休み。

昼食に誘ってくれた小林さんと佐藤さんに断りを入れて、とりあえず、工藤さんに電話を掛ける。
………………。
つながらない。
そこまで考えて、思った。
「(そうだ。第一企画室の人なら確実に知っているだろう)」
それならば。
私はエレベーターを使い、彼の人の在籍する階にたどり着く。
第一企画室は、フロアの中心、エレベーターの真ん前に、存在感たっぷりに居座っていた。
知らないフロアの、知らない部署。
当然、すれ違う人たちも知らない人たちばかりで。
生来、人見知りな私は恐縮しつつ、誰か話しかけれそうな人を探す。
すると。

「あれあれあれ? あなたってぇ、ペテン室長の彼女さん、じゃないですか〜?」

一度も会ったことがない丸顔の女子社員が話しかけてきた。
……ペテン室長?
この部署で室長といえば悟さんのことだろうが……。
“ペテン”って。
言いえて妙だが、無礼ではないのだろうか。
軽く腹が立つ。
そんな私の内心を知りもしない彼女は、早口でまくし立ててきた。
「あ、やっぱり〜。っていうか、ちょ〜可愛いんだけど。つーか、マジ犯罪スレスレ? むしろ、スレスレ犯罪?」
褒められているのだろうか。
っていうか、この場合の“可愛い”って、子供に対して言うような“可愛い”なんじゃないか?
初対面のはずなのだが、ちょっと失礼だ。
それでも、向うから話しかけてくれたことはありがたい。
ので、多少、非礼な発言には目を瞑ろう。

361:ふみお
08/02/14 20:15:36 zAXvEo8u
早く、本題に―

「あの室長が年甲斐もなく、浮かれる理由がわかるね〜。年下だわ、清楚だわ、その上、こんな可愛いなんて!!」

―入れない。
目の前の彼女の、マシンガントークを、止めるすべを私は知らない。
呆然と彼女の発言を受け流す。
しばらくすると、彼女は途端に、しおらしくなった。

「―でもぉ、心配ですよね〜。室長、あんなことになっちゃって……」

あんなこと?
ようやく、発言する隙ができた。
「あんなことって……?」

もしかして。

いや、そんなことはないはずだ。
万が一なことがあれば、一番に連絡が来ることになっている。
それに昨日だって、ちゃんと携帯に電話をくれた。

目の前の彼女はさも意外そうな顔をしている。
私が知らないことが信じられないように。

「だって、一週間くらい前から、室長―」

     ◇  ◇  ◇

「(やれやれ)」
とうとう、屋上にも見張りが付いたようだ。
これでは、気持ちのいい一服が出来ないじゃないか。
しょうがないので。
僕は監視の目を誤魔化しつつ、一階に下りた。
そして、そのまま外で一服しようと考えたのだ。
「(高いところが一番気持ちいいんだけれど)」
ま、吸えないよりはましか。
僕は誰にも見咎められないように、外に出た。
「(さて、どこにいこうかな)」
あまり遠くにはいけないし、しょうがないのでこそこそと吸うか。
そんなことを考えたときだった。

「……なに、してるの……?」

ここでは聞こえるはずのない声がした。
聞いてはいけないはずの声が。

目の前に、彼女が、綾音君がいた。

……。
………………。
………………………。

国立総合病院の近くの喫茶店。
綾音君は女子社員の制服のまま。
僕は入院着のパジャマのまま。
「(異色のコンビ、誕生! といったところか……)」
当然、周囲の視線が、少しばかり気になる。
でも、目の前の彼女は珍しいことにそんなこと、気にもしないようで。
真剣に僕の目を見つめている。
否、睨んでいる。


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