○●Я親鸞仏教質問箱R(その8)●○ at PSY
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53:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 23:13:00.00 GVpdt/kp
>>スレリンク(kyoto板:233番)
「〜が浄土に行った」なんてどうやって証明するの?

>>スレリンク(kyoto板:235番)
 証明は出来ない・・だろうね。浄土に限らず「死後なんらかの形で存在する」「死後の世界はある」
という事も"万人が認識できる"形では証明しようがないと思う。

 【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロン72【御同行】で出てきた疑問を原点とし、体失・不体失往生
論について渡海難が持論を主張しています。
 議論は終結していません。体失・不体失往生論について、アラシが激しくなって続けられなくなりま
した。このスレで改めて議論の叩き台として提出します。

54:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 23:15:18.98 GVpdt/kp
321
>「〜が浄土に行った」なんてどうやって証明するの?

 今、柔道界にいるという人は少なくない。生まれながらに柔道界にいたという人はいない。今、柔
道界にいる人は、全て柔道界の外から柔道界に行った人だ。
 「彼等は柔道界に行ったなんて、どうやって証明するんだろうね?」「え?!。何言っているんだ?
見て分かんないのか?。(笑)」
 芸能界にいるという人は少なくない。生まれながらに芸能界にいたという人はいない。今、芸能界
にいる人は、全て芸能界の外から芸能界に行った人だ。
 「芸能界に行ったなんて、彼等はどうやって証明するんだろうね?」
 「え?!。何言っているんだ?見て分かんないのか。(笑)」

 極楽浄土とは何か。浄土に行ったという問題は、極楽浄土とは何かということから考える必要が
ある。
 親鸞の極楽浄土、大無量寿経の極楽浄土、阿弥陀経の極楽浄土、観無量寿経の極楽浄土、全
て概念が違うようだ。各経典にはそれぞれ著者がいる。経典の極楽浄土は、それぞれ経典の著者
の極楽浄土観をもって描かれている。大無量寿経の場合、梵文と漢文とでも違うようだ。梵文は梵
文著者の極楽浄土観、漢文は漢訳者の極楽浄土観をもっている。
 僕はそれぞれについていま説明している余裕はない。経典毎の極楽浄土の相違に関する議論は、
僕は説明することなく自分の墓の中に抱えたまま持ち込み、闇の中に葬ることになるんだろう。
 極楽浄土はそれぞれ異なる。いまここでは、親鸞の極楽浄土観に基づいて往生を説明すれば足
りるだろう。

 善信は、念仏往生の機は体失せずして往生をとぐという。 〜 善恵房の体失してこそ往生はとぐ
れと、たてらるるも、また、やがて、さぞと、おおせあり。(口伝抄)

55:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 23:17:39.83 GVpdt/kp
322
 親鸞の思想の中に体失往生という発想がないわけではない。しかし、親鸞の往生を考えるなら、ま
ず不体失往生でその思想をしっかり固め、それを足場にして体失往生に話を拡大していくという順序
が分かりやすい。浄土真宗がほとんど葬式仏教化してしまった現代では、体失往生の議論は避けら
れない。その場合でも、少なくとも親鸞中心で考えるなら、不体失往生の議論を先に固めておかない
と、体失往生の議論はとんでもない勘違いに飛んでいく。不体失往生の議論から考えよう。これが基
点である

 1882年、嘉納冶五郎先生は東京にある永昌寺で「講道館」という看板を掲げた。これが現代の世
界柔道の原点だそうだ。
 柔道界に来ませんか。人々にこのように声を掛けると、声を掛けられた人は三通りの反応をする。
 第一のグループ「とんでもない。絶対に嫌だ。俺は死んでもあんなことはしたくない」。第二のグルー
プ「うーんどうしようかな。やってみようかな、止めておこうかな。うーん」。第三のグループ「もちろんだ。
是非やりたい。誘われなくても自分はやるよ」。この三通りである。

 念仏界に来ませんか。人々にこのように声を掛けると、声を掛けられた人は三通りの反応をする。
 第一のグループ「とんでもない。絶対に嫌だ。俺は死んでもあんなことはしたくない。勧められるの
は絶対に嫌だ」。第二のグループ「うーんどうしようかな。やってみようかな、止めておこうかな。うー
ん」。第三のグループ「もちろんだ。是非やりたい。誘われなくても自分はやるよ」。この三通りである。

56:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 23:20:15.35 GVpdt/kp
323
 第一のグループを親鸞は邪定聚という。聚とは衆、集という意味だ。邪という字を使っていても特
に悪い意味はない。ようするに、念仏なんかしたくないというひとだ。浄土真宗のお坊さんには特に
念仏のこの邪定聚が多い。念仏をやろうというと「いやだ」という。
 第二のグループを親鸞は不定聚という。「当今の凡夫は、 〜 また不定聚と名づく(化身土)」。親
鸞に言わせれば、現代人のほとんどが、この不定聚だという。浄土真宗のお坊さん以外では、21世
紀でも多分通じる話だろう。浄土真宗のお坊さんには、この不定聚の人に仏法が弘まるのを邪魔し
たいと思っている人がいそうである。
 第三のグループを親鸞は正定聚という。昔も今も数は少ない。現代でこの正定聚がいないという原因
は、現代浄土真宗の存在がその妨害になっているという面がありそうだ。しかも、とりわけ妨害してい
る人に限って、本当は邪定聚のくせに自分は正定聚だと、誤解している人が、特に、浄土真宗の新興
宗教の教祖などにいる。

 柔道場に行くと、練習時間の内の非常に長い時間、道場の隅で小さくなっている人がいる。誘われ
てきたんだが、勝手が分からずどぎまぎしている人だ。決して柔道が強いというわけではないが、積
極的に練習に励んでいる人もいる。勝手が分からずどぎまぎしている人と、積極的に練習に励んでい
る人は、同じ柔道場にいても、住んでいる世界は違うはずである。

57:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 23:22:35.41 GVpdt/kp
471
 柔道場にA君・B君という二人の仲良しが通うようになった。A君は半年前から通っており、いつも
生き生きと練習している。来年の昇段試験では初段を受けるという。一週間に2回の練習日を休む
ことがほとんどなく、道場に来ればほとんど動き回って練習している。B君はA君の友人だ。A君に誘
われて最近通うようになった。

 二人は、道場から一緒に揃って家に帰る。そんな折り、二人が交通事故に遭って大けがをした。
柔道場に警察から電話が入り、入院先の病院の名前が告げられた。C氏が病院に行く。C氏はベ
テランの柔道家で、柔道四段、国体の出場経験があり、オリンピックの代表選手候補にも名が上が
り、将来が有望視されている。病院では警察官が待っていた。

 眠った状態のA君を指さして警察官がC氏に聞く。
 「あなた方のお仲間ですね」
 「はいそうです。非常に可愛い仲間です。よく柔道の練習に来ています」。
 眠った状態のB君を指さしてC氏に聞く。
 「こちらの少年もあなた方のお仲間ですね」
 「う?!。はいはい!。うちの道場の登録会員です」

 C氏はB君を「仲間ですね」と聞かれ、一瞬息が詰まる。B君は、先週初めてやってきて、次の練
習会を休んでいる。今日は2回目である。道場に来て挨拶はしたが、その後はほとんど隅でずっ
と座り続け、受け身の練習さえうまくできなかった。A君はC氏にとって非常に可愛い仲間である。
しかし、B君は入会したばかりでまだ遠い存在なのである。それでは、嘉納冶五郎先生の目から
見た場合、A君、B君がどのように見えるだろうか。嘉納冶五郎先生から見た場合、A君とB君とは、
ほとんど差のないとても可愛い仲間に見えるだろう。

 C氏から、「もちろん仲間です」と言われるA君も実は、B君のような時期を通過し、その後にC氏
から「仲間だ」と思って貰えるような世界に転入している。浄土真宗親鸞聖人の極楽浄土もこういう
世界観と共通する。僕はそう思う。

58:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 23:24:54.65 GVpdt/kp
522
 A君とB君は、柔道場にどのようにして参加しているか考えると、二人の違いが分かる。B君は柔
道場に入るとき挨拶をした(礼拝門)。B君は挨拶をして参加する。挨拶をして柔道場に参加してくる
者は、嘉納冶五郎先生から見ればみんな仲間である。嘉納冶五郎先生が創設した世界(極楽浄土)
にやってきた人々である。先生は、自らが創設した世界の中に差別を持ち込むことはなかった。嘉
納冶五郎先生から見て、A君とB君の間にいかなる差別もないということである。

 しかしいったい人は何をしに柔道場に来るかの。B君はA君に誘われたから柔道場に来たのであ
り、A君との友人関係を切りたくないから道場に来た。B君はまだ、柔道をしたいという気持ちは大き
くない(疑城胎宮)。しかし、考えて欲しい。柔道場の目的は何か。挨拶(礼拝)が目的ではないだろ
う。挨拶だけすればいいということではない。柔道場に来れば、やはりそこでは練習に参加して欲し
い。C氏ならそう思う。C氏から見れば、積極的に練習に参加してこないB君は、確かに柔道場に近
いところ(近門)にはきている。だから柔道場の隅(辺土)いるのだ(難思往生)。本物の稽古場(報
土)には来ていない。B君は仮に様子を見に来ている(仮土)。だから柔道場の本当の仲間ではまだ
ない。

 A君から見て見てB君は、誘えば柔道場に来るような人物だった(不定聚)。A君は、自分では柔道
を非常に面白いと思っている(讃嘆)。A君の中には、「柔道は凄い。面白い」と思う気持ちがわいて
きてきている。A君は誘われなくても自律的に自主的に練習に参加する(正定聚)。A君にとって柔道
は何が面白いのか。柔道をすること(行)が面白いのだ。我流ではなく、できるだけC先生の教えに忠
実に柔道をすることが楽しい。面白い。中学・高校生あたりが半年・一年程度練習をしても、まだまだ
強いとは言えないだろう。五年も十年も続けてきた人に比べれば、練習量は圧倒的に少ない。しかし、
C先生の教えを(教)できるだけ忠実に守って柔道をやると(行)、C先生のようにきっと強くなる。将来
きっと強くなる(証)。

59:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 23:27:17.70 GVpdt/kp
523
A君には、この認識(教行証)を客体とし、その客体を感動を伴って喜ぶ(敬信)主体としての心(信楽
心)ができてきている。おそらく、できかかってきているという状況だろう。この認識は、C先生の認識
と同一のものだろう。C先生の教えを(教)できるだけ忠実に守って柔道をやると(行)、A君だってB君
だってC先生のようにきっと強くなる。将来きっと強くなる(証)。A君はC先生の認識を共感的共有的
に享受しつつある。
 A君はC先生と共通の認識界、C先生の柔道界に転入している(難思議往生)。C先生は同じ柔道
界の仲間(大会衆の数)としてA君を認識しつつある。柔道のベテランのC先生から見て、A君とB君
とは違いがある。A君は、柔道界の大会衆の数に入った。大会衆の数に入ったA君には、それまで
見えなかったものが視界に入ってくる(功徳大宝海)。先生に恵まれ、自分も来年の昇段試験を受け
てみよう。そんな目標ができてくる(功徳)。

 C氏とA君とは同じ世界だろうか。C氏から見ればほとんど同じ共通の価値観を持った同じ世界(報
土)の同じ仲間ということになるだろう。柔道界の人なら、みなA君、あるいはC氏と同じ価値観を持っ
ている。同じ価値観世界(報土)に存在する。しかし、病院で待っていた警察官のような人からみれば、
A君とC氏は全く世界が違う。国体に出場し、オリンピックの選手候補にも名が挙がるような人であれ
ば、C氏はまさに柔道界(蓮華蔵世界)の人として認識するだろう。しかし、柔道を始めて半年・一年程
度の中学・高校生で、初段にもなってないA君を、警察官は柔道界の人とは見ないだろう(要に逢わ
ず)。書類の中に、病院に駆けつけたC氏を警察官は柔道家と記載することはあっても、A君を柔道家
と記載することはないだろう。

 このようなC氏であるが、このC氏であっても、ある日突然そのようなところに到達したわけではない。
B君の段階(難思往生)、A君の段階(難思議往生)を通っている。やがて、単に面白い、楽しいではな
く、「これは真剣にやらなければいけない」と真剣に思うようになり(作願門)、実力をつけてきた(蓮華
蔵世界)。実力者になってもC氏は修行中の身であり、まだ目指すべき上(屋門・園林遊戯地門)があ
る。

60:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 23:30:27.55 GVpdt/kp
524
 奢摩他・毘婆舎那(証の巻)を目指す親鸞の極楽浄土も、本質はこれと全く変わらない同じような世
界なのである。親鸞は、極楽浄土に五つの門を設定した。第一門・近門・礼拝門・化土・疑城胎宮。第
二門・讃嘆門・報土・功徳大宝海。第三門・作願門・報土・蓮華蔵世界。第四門・屋門・報土・蓮華蔵世
界。第五門・園林遊戯地門・教化地。

 柔道家にとって世界は大きく二つに分かれる。スポーツ界(仏道界)と非スポーツ界である。
スポーツをしていなかった者がスポーツを行うようになれば、それまで抱えていた大きな一つの宿題(生
死)が片付くことになる(双樹林下往生)。柔道家にとってスポーツ界は二つに分かれる。柔道界(浄土
門)と非柔道界(聖道門)である。柔道をやってみようかなと思う者が柔道を始めれば(難思往生)、そ
れだけで大きな一つの宿題(生死)が片付くことになる。
 挨拶だけでもしに来ませんか。最初はそう誘う(礼拝門)。挨拶だけでもしにくれば(難思往生)、挨拶
だけでもしにこない人に比べれば、嘉納冶五郎先生の目から見て、大変な進歩である。
 しかし、B君のように挨拶だけで帰るのでは残念だ(仮土往生)。楽しい、面白いとA君のように思って
くれる(功徳大宝海)こと(報土往生)は重要なことだ(讃嘆門)。A君のように面白いと思うようになれば、
ここで本当の柔道界への参加となる。面白いと思ってくれれば、自律的に柔道を続ける。そうすれば必
ずうまくなる(正定聚)。
 面白い、面白いと思ってるのはいいが、いつまでも楽しい楽しいだけの遊び半分では残念である。や
はりいつかはC氏のように真剣にやらなければならないと思って欲しいものだ(作願門)。それがなけれ
ば進歩がない。真剣にやらなければならないと思った(真如の門)先(蓮華蔵世界」)にこそ柔道界の本
質(要)がある。
 柔道界の本質に入れば、いくつかの難関(屋門)がある。オリンピックに出る。日章旗を掲げるという
目標を持つこともいいだろう。難関(屋門)を通過してこそ、本当の卒業(園林遊戯地門)がある。

 極楽浄土の往生とは、一念念仏・多念念仏によってまさにこの段階を進むことを言う。

61:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 23:33:50.06 GVpdt/kp
708
「帰命尽十方無碍光如来」は、「帰命」はすなわちこれ礼拝門なり、「尽十方無碍光如来」はすなわちこ
れ讃嘆門なり。 〜 「願生安楽国」は、この一句はこれ作願門なり、天親菩薩帰命の言なり。(行の巻)
 南無阿弥陀仏の南無には挨拶(礼拝)の意味がある。阿弥陀仏には讃嘆の意味がある。南無阿弥陀
仏は願生安楽国という言葉をを伴う。願生安楽国には願いを立てる(作願)という意味がある。念仏界に
積極的に参加することを求めるという意味がある。南無阿弥陀仏には、礼拝・讃嘆・作願の意味がある。
南無阿弥陀仏をとなえることは、礼拝・讃嘆・作願を実践することである。

 ここをもって本願の欲生心成就の文、〜 浄土論(論註)に曰わく、「云何が回向したまえる。一切苦
悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆ
えに」とのたまえり。回向に二種の相あり。 〜 還相は、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方
便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまう
なり(信の巻)。
 親鸞聖人の教えを(教)できるだけ忠実に守って念仏をすると(行)、親鸞先生のようにきっと奢摩他・
毘婆舎那ができてくる(証)。この認識(教行証)を客体とし、その客体を感動を伴って喜ぶ(敬信)主体
としての心(信楽心)ができてきてきたとき(欲生心成就)、奢摩他・毘婆舎那が現実を帯びてくる。

 王いま座禅してただ当に念仏すべし(行の巻)
 親鸞は、釈尊が厳父に座禅して念仏をすることを勧めていることを引用し、念仏の作法を明らかにす
る。極楽浄土では結跏趺坐が公式な着座法である。親鸞の念仏は、座禅して行うのが正式である。親
鸞の念仏道場(至道抄)では座禅して念仏を行うのが原則である。
 念仏道場では座禅して念仏を行う。念仏道場は奢摩他・毘婆舎那を実践する。奢摩他・毘婆舎那が
できてくると、教育力つまり方便力が成就してくる。

62:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 23:36:10.37 GVpdt/kp
709
 入第四門とは、かの妙荘厳を専念し観察して、毘婆舎那を修せしむるをもってのゆえに、かの所に到
ることを得て、種種の法味の楽を受用せしむ。これを入第四門と名づく(証の巻)。

 定観成就の益は念仏三昧を獲るをもって観の益とすることを顕す(化身土)。
念仏三昧はこれ真の無上深妙の門なり。 〜 「王いま座禅してただ当に念仏すべし」(行の巻)。
一念をひがごととおもうまじき事(一念多念念仏文意)

 座禅してただ当に一念念仏すれば、善導流の定善観をしなくても、定観成就の効果を得る。かの妙荘
厳を専念し観察したのと同じ益を得る。つまり、毘婆舎那を修せしむ。入第四門、屋門を通るのだ。

 奢摩他・毘婆舎那が出来てくるのは決して一本道ではない。奢摩他ができるようになっても、毘婆舎那
ができるとは限らない。しかし、やがて奢摩他・毘婆舎那がともにできるようになるときがくる(屋門)。
 奢摩他・毘婆舎那ができ、教育指導力も体得できれば、教化地に至る。出第五門を果たし、『法華経』
の普門示現の類(証の巻)として活動できる舞台が開けてくる。

 親鸞聖人の不体失往生とは、おおよそ、以上のような内容であると考えます。
 体失往生(死後往生)は、不体失往生(生前往生)を原点にして議論を拡大していきます。浄土真宗は、
思想的には空也宗を基本とし、空也宗の上に親鸞宗が重なっています。体失往生は、先に親鸞宗の体
失往生を明確にし、その議論を空也宗レベルに矛盾なくシームレスに拡大延長して考えていくことになる
と思います。

63:神も仏も名無しさん
13/10/22 08:19:16.69 zLoLpFzC
@仏教は現生での迷い苦しみを転迷開悟することであった
A当然死後のことではなく現生において教えである
B生老病死は大きな苦しみであり、六道輪廻の思想が当時の庶民の苦しみの一つの原因でもあった
C真実の探求によって転迷開悟したのがゴータマであった
Dゴータマはやがて仏と称されるようになった
Eゴータマの死後弟子たちが様々なテキストを作りゴータマの教えを説いた
F経典と呼ばれるのがそれである、経典は人間が作った
Gインドの言葉から支那の言葉へ翻訳されるときに漢字を用いた故経典自体が
 不可思議な呪文のようになった
H浄土門はテキストのうち慈悲を中心に記された経典を採用した
I現生での転迷開悟は難しいとの認識に立っている
Jやがて死後の苦しみについては心配しなくともよい、という人が現れた
K法然さんもその一人である、法然さんは迫害を受けながら懸命に宗を起てた
L真実と慈悲と言う二本柱で死後の憂いを和らげたのである
M鎌倉時代には日本では葬儀の際に特別な儀式を執り行うようになってきていた(引導など)
N特別な儀式のない教えは念仏者を不安に駆り立てた
O特別な儀式なしに「すでに救われている」と言う思想は必要だった
P現生正定聚がそれである

後日に続く

64:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/22 13:15:27.92 IJ/SyYuT
>> 61,62 がわかりにくい。少し言い直そう。

1 「帰命尽十方無碍光如来」は、「帰命」はすなわちこれ礼拝門なり、
2 「尽十方無碍光如来」はすなわちこれ讃嘆門なり。
3 「帰命尽十方無碍光如来」は「願生安楽国」が続き、これ作願門なり
 南無阿弥陀仏には礼拝・讃嘆・作願門が含まれている。

 B君は挨拶(礼拝)門を通過して化土にいる。A君は讃嘆門を通過して功徳大宝海にいる。C氏は
作願門を通過して蓮華蔵世界にいる。柔道の中には礼拝門・讃嘆門・作願門が具わっている。柔道
には礼拝門・讃嘆門・作願門が具わっているから、B君は挨拶(礼拝)門を通過し、A君は讃嘆門を
通過し、C氏は作願門を通過したのだ。礼拝・讃嘆・作願門が存在しなければ、通過することはでき
ない。

 親鸞の南無阿弥陀仏は座禅して称える(行の巻)。南無阿弥陀仏には、礼拝・讃嘆・作願門が含
まれている。念仏を実践すれば、礼拝門、讃嘆門、作願門に到達する。不定聚は化土に進み、化土
から功徳大宝海(報土)に転入して正定聚となる。正定聚は、功徳大宝海から蓮華蔵世界にまで到
達するのである。 

 A君が自分は柔道家であると言っても、警察官は笑うだろう。しかしC氏が自分は柔道家であると
言えば、警察官はそう思うだろう。本格的な柔道はC氏のように作願門から蓮華蔵世界に入って始
まる。A君のように、面白い、面白いと思って、その功徳を満喫しているだけでは十分ではない。
 本格的な柔道、蓮華蔵世界の中にこそ様々な本物の難関(屋門)がある。C氏はその一つ一つを
不屈の精神力で克服していくだろう。柔道家は、寝技、立ち技を体得し、指導力が体得できて人々に
柔道を教えることができる

 奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入する(証の巻)。念仏者は、奢
摩他と毘婆舎那と方便つまり指導力とが体得できて初めて極楽浄土を卒業する。

65:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/22 13:18:54.78 IJ/SyYuT
 入第四門とは、かの妙荘厳を専念し観察して、毘婆舎那を修せしむる(証の巻)。蓮華蔵世界の中
には第四門がある。屋門である。屋門はかの妙荘厳を専念し観察して克服していく。この妙荘厳を
専念し観察するという実践を、親鸞はどのようにして行えというのか。
 念仏三昧を獲るをもって観の益とすることを顕す(化身土)。すなわち、かの妙荘厳を専念し観察し
て毘婆舎那を実践する観察行つまり定観は、念仏三昧によって達成する。
 念仏三昧はこれ真の無上深妙の門なり。「王いま座禅してただ当に念仏すべし」(行の巻)。念仏三
昧は、座禅してただ当に念仏することで実践する。

 親鸞の念仏には、一念念仏と多念念仏とがある。いずれも疎かにしてはいけない。一念念仏と多
念念仏には、このようにして礼拝門・讃嘆門・作願門・観察門が開けている。だからこそ、一念念仏
と多念念仏とを座禅して実践すれば、B君の通過した礼拝門、A君の通過した讃嘆門、C氏の通過

た作願門、C氏が向かっている観察門に至る。
 奢摩他・毘婆舎那・方便力が成就すれば極楽浄土を卒業し、多くの人々に念仏を指導することに
なる。これが園林遊戯地門である。

 念仏者はこのようにして体失せずとも極楽浄土に往生し、出第五門を達成して観音菩薩の普門示
現の類を実践することになる。

 これが親鸞聖人の往生論の全てである。体失往生論は、ここから派生する。

66: ◆K3PkkhVAkA
13/10/22 20:01:42.11 2D71o3A5
6(^з^)6  66  6(^ε^)6

67:神も仏も名無しさん
13/10/23 07:47:53.21 um2USqrK
第7条
 念仏者は無碍の一道なり。

ねんぶつしゃは

 念仏の行者は無碍の一道(何ものにもさまたげられないひとすじの道)を歩む者という意。
「念仏者は」の「は」を「者」に添えた訓(よ)み仮名とみて、「念仏は」と読む説がある。

その場合、念仏は無碍の一道であるという意になるが、いずれにしても念仏の法が無碍道
であるから、念仏者は無碍者であることを明かしているのである。(歎異抄 P.836)



☆念佛はさとりとつづくみちでもある
意識せずとも悟りへと導くものでもある

68:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/23 13:59:54.52 XP4eS4EI
 A君は、一年以上昏睡状態が続いた後、帰らぬ人になった。C氏はA君の両親に手紙を書いた。

 A君のご不幸につきまして、心からのご冥福をお祈り申し上げます。
 A君が亡くなられたことは、誠に悲しく、残念に堪えまん。事故から一年以上、ご両親様によ
る献身的なご看病・ご苦労にも関わらず、事故の後、二度と目を開けることがなかったことは、
ご両親様におかれましてその悲しさはいかばかりかと思い、言葉もありません。
 A君は柔道の練習を実に熱心に楽しんでくれていた少年でした。今年は昇段試験も無事終了し、
その結果発表もありました。A君と同時期に柔道を始めた仲間も、数人が初段に受かりました。
 思えばA君のように、あれほど生き生きと元気よく力強く練習に励んでくれる少年は、珍しかった
と思います。生前のA君が一生懸命に柔道に励んでいたことは、決して無駄ではなかった。そのよ
うに思いたいと思います。今では、天の川の星々の一つになり、柔道の有段者の一人として、歴史
的なかつてのかずかずの名選手達と共に、天上界で、きっと楽しく柔道の練習に励み、私たちのこ
とも見守ってくれていることでしょう。
 ご両親様も、どうかお気持ちに区切りをつけられ、一日も早くお元気な生活に戻られることを
お祈り申し上げます。

 以上のような手紙は、僕は決しておかしなものとは思わない。
 次のような手紙を書いたらどうだろうか?

 A君は、亡くなって残念でした。柔道をしていたことがみんな無駄になってしまいました。死
んでしまえば、みんな終わりです。無駄になって終わってしまいました。何のためにあんなに柔
道の練習なんかしていたんでしょう。いくら初段になりたいと思っても、試験も受けられず死んでし
まえば、あんな努力は馬鹿みたいでした。
 どうせ死んでしまうんだったら、柔道なんかしないで、その間、うまい物を食い、たのしい映
画でも見ている方が利巧でした。
 A君の柔道は、死んでしまえば実に馬鹿馬鹿しい、意味のないあほらしい人生でした。

 C氏がこんな手紙を書いたらどうだろうか。恐らく非常識という批判を免れないだろう。それ
では、仏教の原理主義に忠実に照らした場合、昇段試験を受けることなく死んだA君の柔道はど
うに考えるべきか考えてみたい。

69:(^_^.)
13/10/24 07:38:28.21 Ffuf3d+3
縷々意見を述べてきたがそろそろで尽くしたので


跋文

念佛には不可思議な働きがある機根の相違にてはたらきも違うようだ、
念佛によって救われる人から念佛によって現生の間に正定聚なり悟りに近い
境地に至る人まであるようだ。たとえて言うなら似たようなことで登山がある。
登山と一言で言っても冬山の富士山はプロでも登頂は難しい、
一方条件がやさしい低山ハイキングのような登山もある。

念佛には初歩の段階から高度な段階までレベルによっていろいろあるようだ。同じように
プロの山岳ガイドは様々な状況に応じて高度なテクニックを身につけなければいけない、
とりわけ案内する相手によって難易度を知り安全にガイドすることが重要な任務である。
念佛も同じこと、プロの指導者は瞑想法や呼吸また知識を涵養しておく必要がある、
そうでなければとても念佛を他人に教えることはできないであろう。
渡海は本願寺を批判する、プロの念仏者として指導できないような教義を頭においてのことであろう。
それはそれでごもっともな意見の一つだろう。聞き置くべきことかもしれない。

真実を探求し慈悲を知るそれが浄土門であり仏教の本道でもある。
そのことを念佛によって知っていくことが一番大切。
それ以外に別にない                         以上

2013年10月24日        花押     (^_^.)

70:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/25 14:02:45.13 WLodEoKb
 親鸞聖人の考え方が分からなければどうするか。
 釈尊に返る。釈尊の悟り、釈尊の出家に戻って考えよう。


 2〜3日多忙です。

71:神も仏も名無しさん
13/10/25 17:14:20.03 zVOLDUed
>>48
その通りだと思うよ
凡夫に心得たなんてことはあり得ない
それはどこまでいっても自分の間違った価値観で心得るからなんだよね
そういうことで何を語ろうとしているのかってことが重要だよね

>>51
ちょっとよく分からないからそうなのかもしれないけど
とにかく言いたいのは現世で穢土を選び取ることだよ
真仏土はこの世で我々の自我はどこまでいっても化身土でしかあり得ないってことが言いたいの

72: ◆K3PkkhVAkA
13/10/25 22:14:06.34 duiGt5Oj
(^-^) ナニ〜?

73: ◆K3PkkhVAkA
13/10/25 22:17:00.85 duiGt5Oj
>>69
(^ε^) 新メンバーだね、ヨロシク!


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