○●Я親鸞仏教質問箱 ..
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2:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/10 13:02:48.99 oe8b5UDB
スレリンク(psy板:615番)

 親鸞の時代、念仏道場はどんな雰囲気だったか。

 「佛閣にあらずといへどもこの所にをひて佛像を安じ、その體を言ふに、人屋たりといへども
この所にをひて念佛を勤行す。念佛の中には衆悪を遠離して衆善に親近し、世間舎をいでて出世
間舎に住する功力を備へたり。かるがゆへに念佛を行ずる所は道場なり」。
 普通に言えば、凡そ寺院とは言えないような場所、例えば普通の民家でも、仏像を設置し、そ
の場所で合同で念仏を称えれば、全て道場であるという。自ずから様々な悪を離れ、善に近づく。
そこには非仏道界から仏道界に転入する力が備わっている。存覚はそのようにいう。

 念仏道場はどのような飾りがあったか。存覚は弁述名体抄で次のように言う。「高?親鸞聖人
御在生のとき、末代の門弟等、安置のために定め置かる、本尊あまたあり、いはゆる六字の名号、
不可思議光如來、无?光佛等なり。 〜 この外、あるひは天竺・晨旦の高?、あるひは吾朝血
脈の先コ等の眞影を表はされたり」。
 存覚の時代には、後世の門弟のために親鸞の時代から大事に設置されてきていた本尊がたくさ
んあった。それは文字本尊であり、六字の名号、不可思議光如來、无?光佛等と書かれている。
インド、支那、日本の高僧達の絵図もあった。これらはどのように設置するのか。存覚は詳しく
説明している。

 文字本尊の「不可思議光如來を中(央)に据え奉り」、「(南无阿彌陀佛)の名号は正しき右に
据え奉」り、「无?光(如来)は〜左に安ぜらる」とする。「つぎに(阿弥陀仏と釈尊の)二尊
の形像をもて(文字名号の)前に安ぜられたり。まづ彌陀の形像は、『觀經』の像觀の心なり。
かの『經』に十三定善をとくなかに、第八の觀は像觀なり、これ形像なり」。〜「つぎに釋迦の
形像を載せらる」。
 阿弥陀如来と釈迦仏の像を設置する。阿弥陀如来は観無量寿経の第八の観を使う。第八の觀は
座像である。鎌倉の大仏、あるいは宇治平等院の阿弥陀像である。立像つまり来迎像は念仏道場で
は使わない。釈迦像は、阿弥陀像と対で設置するから、当然、座像を使用することになる。

3:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/10 13:07:44.45 oe8b5UDB
 以下、絵像を設置する。「三菩薩のなかに、勢至は 〜 中尊とす、龍樹天親は 〜 出世の
前後により、地位の高下につきて、左右に居したまへり。 〜 勢至は 〜 菩薩のかたちに圖
せらる。龍樹・天親は 〜 菩薩の形ならんこと相違あるべからざる」。
 勢至菩薩を中央、龍樹菩薩を右、天親菩薩左に配置する。勢至菩薩は無論だが、龍樹・天親菩
薩も菩薩像として配置する。菩薩像とは、蓮の華の上で結跏趺坐している姿で描くことになる。

 絵像はさらに続く。菩提流支・曇鸞和尚・道綽禪師・善導和尚・懐感禪師・少康法師・法照禪
師である。さらに、聖コ太子・惠心・源空聖人・親鸞聖人・信空聖人・聖覺法印を並べるのであ
る。
 弁述名体抄では親鸞聖人の絵像を掲げるということから、親鸞の思想というより、存覚の解釈
が前面に出ていると考えて良いと思うが、親鸞の時代の念仏道場の考え方が非常に強く残ってい
た時代の思想であることは間違い無い。
 ここで重要な点は、真宗の七高僧の思想が全く現れてないということ。阿弥陀仏の脇士である
勢至菩薩が登場しているのに、観音菩薩が出てこないということ。この二点が注目点である。七
高僧については触れない。親鸞思想の中での観音菩薩の位置についてさらに考えて見たい。


>>2で、「高」?は「高祖」という字の旧字を使っています。 「无?」は「无碍」と言う字の旧字を使っ
ています。

4:神も仏も名無しさん
13/10/10 19:27:32.77 /3DNiGMX
イヨッ! クニガミエタ!

5:神も仏も名無しさん
13/10/11 14:07:15.74 K9DFDpuv
一 煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。この条もつてのほかのことに候ふ。
 即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、
四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は
他力浄土の宗旨、信心決定の通故なり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。
おほよそ今生においては、煩悩・悪障を断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、真言・法華
を行ずる浄侶、なほもつて順次生のさとりをいのる。いかにいはんや、戒行・慧解ともになしと
いへども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土の岸につきぬるものならば、
煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、
一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにては候へ。この身をもつてさとりをひらくと候ふなるひ
とは、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益候
ふにや。これをこそ、今生にさとりをひらく本とは申し候へ。『和讃』(高僧和讃・七七)にいはく、
「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」
と候ふは、信心の定まるときに、ひとたび摂取して捨てたまはざれば、六道に輪廻すべからず、
しかれば、ながく生死をばへだて候ふぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかすべきや。
あはれに候ふをや。「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ
候ふぞ」とこそ、故聖人(親鸞)の仰せには候ひしか。


☆親鸞肉声のを今に伝える一級資料

要点
「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ
候ふぞ」とこそ、故聖人(親鸞)の仰せには候ひしか。

6:神も仏も名無しさん
13/10/11 16:03:45.72 H/hceHAJ
>>5  >親鸞肉声のを今に伝える一級資料
歎異先師口伝之真信
くでん【口伝】
1 言葉で伝えること。くちづたえ。 2 師が、学問や技芸の奥義などを弟子に口で伝えて教え授けること。
また、その教え。口授(くじゅ)。口訣(くけつ)。 3 奥義を伝えた文書や書物。秘伝書。
URLリンク(dictionary.goo.ne.jp)

ひでん【秘伝】
秘密にして、特別の人にだけ伝授すること。また、その事柄。
URLリンク(dictionary.goo.ne.jp)

外見あるべからず。   外見
2 他人に見せること。また、他人に見られること。
URLリンク(dictionary.goo.ne.jp)

於無宿善機、無左右不可許之者也。  宿善
前世で行ったよい行為。前世で積んだ善根。
URLリンク(dictionary.goo.ne.jp)

そうなし【左右無し】
1 ためらわない。無造作である。
URLリンク(dictionary.goo.ne.jp)

  親鸞肉声のを今に伝える最大級資料 消息集
 もと、盗み心あらんものも、極楽を願い、念仏申すほどのことになりなば、もと僻うだる心も、思い直してこそ
あるべきに、その徴もなからん人々に、悪苦しからずということ、ゆめゆめあるべからず候。(消息集)
 浄土真宗の中に、悪人こそ救われるという主張がないわけではない。しかし、それは、一般の人、その中でも
とりわけ歪んだ心を反省しないような人にまで妄りに説いてよい教えではないわけです。

 歎異抄は浄土真宗の重要な文書である。決して妄りに人に見せてはいけない。公開範囲を限定すべきである。
奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、念仏道場を開ける実力が付き、これから念仏道場をひらくぞという人に、
念仏道場運営の「虎の巻」として許可すべきである。

7:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/11 16:06:20.57 H/hceHAJ
>>6
 渡海難がレスしました

8:神も仏も名無しさん
13/10/13 07:28:32.23 G6w3iXx+
>>6
>  浄土真宗の中に、悪人こそ救われるという主張がないわけではない。しかし、それは、一般の人、その中でも
> とりわけ歪んだ心を反省しないような人にまで妄りに説いてよい教えではないわけです。


まるで私が歪んだ心を反省しない人間と決め付けてるような意見ですね。
>
>  歎異抄は浄土真宗の重要な文書である。決して妄りに人に見せてはいけない。公開範囲を限定すべきである。
> 奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、念仏道場を開ける実力が付き、これから念仏道場をひらくぞという人に、
> 念仏道場運営の「虎の巻」として許可すべきである。


奢摩他毘婆舎那ができる人は世の中に何人ぐらいいますか?
あなたはできますか?
念佛道場の主催者は当然奢摩他毘婆舎那などはできるのでしょうね。
またできる人がいたとして浄土門とはそのような狭き門でしょうか?
誰のための浄土宗でしょうか?
そもそも浄土とは何か?

9:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/13 11:39:24.98 ZdNClU9W
>>8
>まるで私が歪んだ心を反省しない人間と決め付けてるような意見ですね。

「まるで私が歪んだ心を反省しない人間」
 何か貴方には身につまされる覚えでもあるのでしょうか?。僕には心当たりありませんが、
貴方には貴方にしか分からない身につまされる貴方の問題があっても、誰も不思議に思い
ません。
 文句があれば親鸞聖人に言ってください。親鸞聖人の墓に泥でも塗ってきますか。

>奢摩他毘婆舎那ができる人は世の中に何人ぐらいいますか?

 世の中に一人もいないなら、歎異抄は永久に封印すべきでしょう
 関東時代の親鸞聖人には多くのお弟子さんがいたはずです。その内、24人の名前が現代に
残っています。親鸞在世中に念仏道場を開いた人、又は親鸞聖人が開いた念仏道場を承継し
た人々です。金沢専光寺に伝わる三骨一廟の文書は念仏道場開設の認可状だったと思います。
彼等は当然、奢摩他・毘婆舎那ができるようになったと判断し、親鸞が道場の開設を許可した人
々だったでしょう。
 奢摩他毘婆舎那ができるようになっても、念仏道場を開かなかった人もたくさんいるでしょう。奢
摩他毘婆舎那ができるようになることは、決して難しいことではないはずです。

>浄土門とはそのような狭き門でしょうか?

 浄土門が狭き門ではありません。教師用の虎の巻を読める人は教師に限るという単純な話で
す。念仏道場を運営しないのであれば、念仏道場運営上のノウハウ書など読む必要はありませ
ん。歎異抄を読むことが許される人の範囲は絞られるということです。
 現代では、奢摩他毘婆舎那ができる人がいないというなら、公開を完全封印すべきでしょう。いま
さら封印が不可能であればどうするか。放置していいという問題では決してありません。本願寺は、
百年以上昔に、実に馬鹿な困ったことをしてしまったものです。いまさらどうしようもないという問題で
は済まないでしょう。

10:神も仏も名無しさん
13/10/14 06:39:58.26 YvtXcKEI
歎異抄を著した唯円は念佛道場の教師用に書いたのか、
そして著作を一般門徒は読むべからず秘匿ないしは秘蔵せよと考えていたのか、
よくよく原文を読んで意を知るように。

唯円からはるか後世の蓮如がどう言ったこう言ったという話ではない、
著作者唯円がどう考え書物を著したかを書物の中からよく考えてみよう。

11:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/14 15:50:10.09 g7ApGDF5
>>10
> 念佛道場の教師用に書いたのか、 〜 著作者唯円がどう考え書物を著したかを書物
の中からよく考えてみよう。

  (念仏道場での)一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、泣く泣く筆を
染めてこれを記す。名づけて歎異抄というべし。(許された教師以外の他人に妄りに見ら
れてしまうような)外見あるべからず。

                                  (著者)

12:神も仏も名無しさん
13/10/15 08:21:44.05 5hvrCW5x
>>11
> >>10
> > 念佛道場の教師用に書いたのか、 〜 著作者唯円がどう考え書物を著したかを書物
> の中からよく考えてみよう。
>
>   (念仏道場での)一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、泣く泣く筆を
> 染めてこれを記す。名づけて歎異抄というべし。(許された教師以外の他人に妄りに見ら
> れてしまうような)外見あるべからず。
>
>                                   (著者)


(許された教師以外の他人に妄りに見ら> れてしまうような)


以上は渡海さんの改ざんです本文にはかっこのなかのようなことは書かれていません。
外見あるべからずというのは念仏者以外の事を言うのです。

13:神も仏も名無しさん
13/10/15 21:41:44.81 s/mUa+IO
うっ…

14:神も仏も名無しさん
13/10/15 23:39:24.72 P6XyRIXN
どうして私は前世において、阿弥陀仏に救われなかったのでしょうか。

15:神も仏も名無しさん
13/10/16 02:38:22.61 KSlHYoSB
前世なんてないからだよ
真宗の価値観の中から応えるなら22願の成就とも言えるし法を聞く機会に出遇うのはとても難しいからとも言える

16:神も仏も名無しさん
13/10/16 03:40:23.85 KSlHYoSB
連投になって申し訳ないけど歎異抄の外見あるべからずは歎異抄が信仰告白の書であると理解せずに読むとただの破邪顕正になってしまうからだよ
換言するならば、自力無効の自覚、愚悪の凡夫とも思うことのできない、真宗を名聞利養勝他のために使う極悪人の自覚がなければ歎異抄は読めないということ
歎異している対象は唯円自身をも含んでるだよ

17:神も仏も名無しさん
13/10/16 10:55:11.11 CMeAKb6K
>>16
> 歎異している対象は唯円自身をも含んでるだよ

うーん、どうかな?
唯円自身が歎異してどうなるのだろう。
この場合はやはり自分以外の念仏者の中における理解の違いを
嘆いていると考えたほうがいい。

18:神も仏も名無しさん
13/10/16 17:13:06.31 KSlHYoSB
どの方面から述べているのか推測になってしまうから適切に応えられてないかもしれないけど
完全に意志や行動やあらゆる事柄が宿業に左右される愚悪の凡夫たる自覚を持っているならば正しさは主張でき得ないと思うよ
そうであるにもかかわらず自身の間違った価値観の内で他者を歎異するならばそれは必然的に自身を含まざるを得ないと思う俺はね

19:神も仏も名無しさん
13/10/16 21:10:07.82 KZr+l6dm
書店に並んでいる歎異抄を読むなと言っても無理だよ。
それより、すぐ手に入る本なのに、なぜ読んではいけないのか。
読んではいけない理由を言わないと傲慢なだけだろう。
 
読んでいい人、読んではいけない人はどこに一線を引くのだろうか。
それはどんな理由に基づくのだろうか。
誤解されそうなら、誤解されないように解説すればいいではないか。
多くの人が真理を知りたがってるのに、真理を隠そうとする意図は何か。
それとも歎異抄は真理ではないのか。

20:神も仏も名無しさん
13/10/16 21:20:05.58 KZr+l6dm
歎異抄を公開すべきでないという理由が、
 
真宗僧侶である、自分たちの特権を維持するためというなら
 
軽蔑するよ。

21:神も仏も名無しさん
13/10/16 22:04:01.58 YeLO48QQ
>>20
歎異抄を公開すべきでないとここ論陣を張ってるのは真宗僧侶ではないよ

22:神も仏も名無しさん
13/10/16 22:18:09.92 KZr+l6dm
>>21
それじゃ何のために言ってるのだろうか。
ますます謎だね。

23:神も仏も名無しさん
13/10/17 08:33:04.59 N8dBkxe/
>>18

> 完全に意志や行動やあらゆる事柄が宿業に左右される愚悪の凡夫たる自覚を持って
>いるならば正しさは主張でき得ないと思うよ

そこは難しいところですよね。
凡夫の自覚を持っているがゆゑに善悪の判断は難しい、ただ親鸞さんの教えその
ものの正否までがわからないと考えると何もいえなくなってしまう。

24:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/17 10:11:07.39 xK6mqWIe
>>22
>ますます謎だね。

 >> 6 に気づかない上での言葉でしょうか。>> 6を無視した上での言葉でしょうか。
>> 6が分かった上での発言でしょうか

 掲示板は、先行レスを読んだ上で書き込みたいものですね。

25:神も仏も名無しさん
13/10/17 14:29:32.53 ooQheWv2
>>20
歎異抄は公開すべきだよ
だから書店に並んでるんだし
ただ歎異抄に書いてあることではなく歎異抄自体を通して今ここにまで届く真の宗と言わざるを得ない如来回向の内実に気付くことを目的としなくちゃならないとは思うけどね

>>23
何も言えなくなればいいんだよ
それでも真の宗と言い切れるものが今あなたにまで届く如来回向の内実なんだから
何を選択するかだよ
真宗は親鸞の思想(回向表現)そのものを学ぶのではなくその思想を通して方法論(自分自身に届く回向表現とは何か)を学ぶんだと思うよ

26:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/17 16:46:54.24 xK6mqWIe
>>25
> 歎異抄は公開すべきだよ
> だから書店に並んでるんだし

 書店は売れると思うと並べる。売れないと思うと並べない。それだけの話だ。
 親鸞や蓮如の意見に現代人が同調する必要は無いというのは、その通りだが、

 おぬしは、親鸞・唯円・蓮如、少なくともこのお三方に対し、貴方の意見は間違っ
ていますよと、反論できる自信があるのか?

 少なくともこの三人が「悪苦しからず」という教えを非公開にしなければならないと
考えていたその理由を、述べてみろ。そして、それに反論してみろ。

27:神も仏も名無しさん
13/10/17 17:19:52.84 ooQheWv2
> 書店は売れると思うと並べる。売れないと思うと並べない。それだけの話だ。

その奥にある意味を見出さないといけないね

> 親鸞や蓮如の意見に現代人が同調する必要は無いというのは、その通りだが、

> おぬしは、親鸞・唯円・蓮如、少なくともこのお三方に対し、貴方の意見は間違っ
>ていますよと、反論できる自信があるのか?

間違っていないよ別に
回向の表現は人それぞれだからね
根元をたどれば同じことを言っているんだよ

> 少なくともこの三人が「悪苦しからず」という教えを非公開にしなければならないと
>考えていたその理由を、述べてみろ。そして、それに反論してみろ。

善人なおもてのところを指してるのかな?
具体的な場所を教えてもらえれば応えられると思うよ

28:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/17 17:53:15.56 xK6mqWIe
>>27
>善人なおもてのところを指してるのかな?
具体的な場所を教えてもらえれば応えられると思うよ

>>24,>>6
 掲示板は、先行レスを見てから書き込むことを常識としたいものだ。

 >>6に、特に解説が必要ですか?

29:神も仏も名無しさん
13/10/17 19:37:27.85 O2EvCkfq
タダイマ

30:神も仏も名無しさん
13/10/17 19:56:23.90 Sq9pB3Ez
>>6
>歎異抄は浄土真宗の重要な文書である。決して妄りに人に見せてはいけない。公開範囲を限定すべきである。
>奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、念仏道場を開ける実力が付き、これから念仏道場をひらくぞという人に、
>念仏道場運営の「虎の巻」として許可すべきである。
 
これは渡海さんの考えじゃないの? 
だとすれば渡海さんは、歎異抄はだれもが勝手に読んでいい、とは言ってないよね。
その理由を聞いているのだけど。そうやって傲慢に構えるのはなぜ?

31:神も仏も名無しさん
13/10/17 20:28:35.50 sgsd+1sV
>>28
ご消息は広本かな?善性本かな?
文脈の中から読みたいからできたら何の本に載ってるとかもうちょっと特定できるように詳しく教えてもらいたいな

まあぱっと見た感じでいいなら
親鸞の文章には同意できるよ
ただ

> 浄土真宗の中に、悪人こそ救われるという主張がないわけではない。しかし、それは、一般の人、その中でも
>とりわけ歪んだ心を反省しないような人にまで妄りに説いてよい教えではないわけです。

とは思わないし

> 歎異抄は浄土真宗の重要な文書である。決して妄りに人に見せてはいけない。公開範囲を限定すべきである。

とも思わないし

>奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、念仏道場を開ける実力が付き、これから念仏道場をひらくぞという人に、
>念仏道場運営の「虎の巻」として許可すべきである。

とも思わないけどね

この文章の核は宿業の表れ方の違う人間に対して自分の糞狭い価値観に立って一方的に裁くなってことだからね
あと当然この文章は親鸞自身を包んでいるよ

32:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/17 21:00:11.58 xK6mqWIe
 もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・
礼・智・信あることを知らんや。(信の巻)

仏教の内外の諸問題で、仁・義・礼・智・信を説くことこそが諸仏菩薩にとって極めて重要な
ことである。

 修多羅及び諸の戒律を除きて、その餘の説あり。四句之偈なり。いわゆる諸惡を作すことなし。
諸善を奉行すべし。自からその意を淨くする。これ諸佛のヘなりと。(大般涅槃経要門 親鸞真
筆 専修寺)

 悪いことをするな。良いこと行え。高い意識を持て。これこそがあらゆる哲人達の普遍的な教
えである。

 汝若し修せずしてすなわち佛になるといはば、喩へば飢えたる人のひろく風を掩ふがごとし(五
会念仏法事讃略抄 親鸞真筆 専修寺)

 もし貴方が、座禅も戒律も守らないで自分は仏になるんだと言えば、それは空腹の人物が風下
に立って吹いてくる風を腹にため込もうというような、実に愚かなことである。

 出世の法において五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもりて、
内心には他力の不思議をたもつべきよし師資相承したてまつるところなり(改邪抄 覚如)。   

 仏道では五戒を守れと言う。仏道で五戒と言っているものは、非仏道界で五常と称する仁・義
・礼・智・信のことである。つまり、五戒を守れと言っている文脈は、五常を守れと言う文脈で読み、
仁・義・礼・智・信を守り、その上で、心の奥には他力の教えを保持してほしい。これが、親鸞聖人
から伝わってきた教えである。

内心には他力の信心をふかくたくわえて、世間の仁義をもって本とすべし。(お文)

 心にはしっかりと他力の信心を蓄え、世間の仁義を守ることを基本とせよ。

33:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/17 21:03:09.45 xK6mqWIe
 王法は額にあてよ。仏法は内心に深く蓄えよ」との仰せに候う。仁義と云う事も、端々あるべ
きことなるよしに候う。(聞き書き)

 社会のルールを頭にしっかりたたき込み、仏法を心の中で抑えておく。仁義が大事だと言うこ
とを常に仰っていました。

 もと、盗み心あらんものも、極楽を願い、念仏申すほどのことになりなば、もと僻うだる心も、
思い直してこそあるべきに、その徴もなからん人々に、悪苦しからずということ、ゆめゆめある
べからず候。(消息集 広本)

 浄土真宗の中に、悪人こそ救われるという主張がないわけではない。しかし、それは、一般の
人、その中でもとりわけ歪んだ心を反省しないような人にまで妄りに説いてよい教えではないわ
けです。


他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず
他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり
罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえ
本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。

34:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/17 21:06:44.29 xK6mqWIe
 於無宿善機、無左右不可許之者也。(蓮如奥書)
  宿善
前世で行ったよい行為。前世で積んだ善根。
URLリンク(dictionary.goo.ne.jp)
 そうなし【左右無し】
1 ためらわない。無造作である。
URLリンク(dictionary.goo.ne.jp)
 
 (歎異抄は)宿善のない人にまで無造作に見せてはならない (蓮如)

 歎異先師口伝之真信(唯円)
くでん【口伝】
1 言葉で伝えること。くちづたえ。 2 師が、学問や技芸の奥義などを弟子に口で伝えて教え授けること。
また、その教え。口授(くじゅ)。口訣(くけつ)。 3 奥義を伝えた文書や書物。秘伝書。
URLリンク(dictionary.goo.ne.jp)

ひでん【秘伝】
秘密にして、特別の人にだけ伝授すること。また、その事柄。
URLリンク(dictionary.goo.ne.jp)

 歎異抄は、親鸞先生から、秘密にして、特別の人にだけ伝授される口授(くじゅ)、口訣(くけ
つ)として秘伝された教えである。

外見あるべからず。(唯円)
外見
2 他人に見せること。また、他人に見られること。
URLリンク(dictionary.goo.ne.jp)
 
 歎異抄は、関係者以外、他人に見せる書ではない。

 しばらく書き込み困難。2,3日休みます。

35:神も仏も名無しさん
13/10/17 21:07:33.73 sgsd+1sV
そんなに理論武装しなくても大丈夫だよ
自分自身の言葉で語ってみなよ
どんな言葉でも理解しようとするからさ

36:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/17 21:24:07.00 xK6mqWIe
 ただこの高僧の説を信ずべし (正信偈)

>>35
 気になるから、しばらく呼ばないでくれないか。

37:神も仏も名無しさん
13/10/18 02:10:21.75 2a6j+HCO
うんまあその言葉は還相をくぐって、化身土をくぐって如来回向に気付き真実教を選択して初めて意味を持つんだよね
間違いに立つ自覚を持って初めて意味があるんだよ

仁義を大切にするってのを否定してる訳じゃないんだよ
人間の自我意識じゃ19願20願からは逃れられないからね
ただ問題なのはそれを盾にとって事実としてあるどうしょうもない自分を守ることであり、剣にして他人を裁き斬り殺すことなんだよ
勿論そこからはどんなに反省しても逃れられない
だからこそ歎異ってのは自分自身を含まざるを得ない
自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、こう劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなしって法然が拠った善導も言ってるんだよ
親鸞はここに立って全てのことを言っているんだよ

38:神も仏も名無しさん
13/10/18 05:09:35.99 Lt+nP9KQ
もしかして、
自分は悪人だという自覚が親鸞にあったということか?

39:神も仏も名無しさん
13/10/18 08:15:42.05 5DjRM4n8
歎異抄にある
「外見あるべからず」というのは
@念仏者以外には見せても無駄と言う意味。
Aたんなる仏教の作法としてのことばで、これは法然さんも選択集において「壁底に埋めよ」
 と言うのと同じでこの書物で諍論するなと言う意味。

ぐらいに考えればよろしい

また歎異抄に唯円自身を含めるかと言うことについては
凡夫の自覚のある唯円さんだが著書には自信を持っているだから
自分自身を嘆いているわけではない。
凡夫ゆえに善悪の判断はできないが、親鸞の直接音声を聞き普段の生活を知っている
唯円は他の念仏者が間違った念佛をしているのに一言注意したかったと考える。
そのためになくなく歎異抄を書いた。そのように記している。

40:神も仏も名無しさん
13/10/18 08:24:20.77 5DjRM4n8
親鸞さんという人がどのような人であったか、それは
消息集、歎異抄を読めばわかる。
人を知った上で教行信証に進めば理解も早いように思う。

井上ひさしさんというのがどういう人物であったかは、本人が書いた
著作ではわからないその細君や子供の証言でわかる。
いくら楽しい小説を書いても平和運動の旗頭になっても
細君の顔がわからないぐらい殴りつけるようなDVであったと言うこと
を知れば彼の平和運動もむなしいであろう。

親鸞さんの思想は唯円の証言でわかる、寝食をともにした人の
証言は貴重だ。
教行信証などの余所行きの飾られた言葉より真実を伝えているように思う。

41:神も仏も名無しさん
13/10/18 23:13:18.23 gDL2nId1
>>38
悪人とも思えないしどこまでいっても善人にしか立てない極悪人の自覚があるよ
だからただ如来の回向に帰依せざるを得ない

>>40
まあどこまでいっても想像の域を出ないよね
俺はそう思わないってだけでどう承るかはその人の業によるからね
なぜ自分に信を持てない凡夫が自信を持てるのかが重要だろうね

あといのうえひさしの反戦運動はむなしくないと思うよ
痛みを知らないものの反戦運動よりとても悲嘆と尊厳に満ちていると思うよ

42:神も仏も名無しさん
13/10/20 07:51:14.28 /dzI8li4
不体失往生と言う場合は浄土は心の中のことを言うのだろうね、
そうとしか考えられない。
あるいは実際にこの世にPURE LANDというものを想定しているのかどうか。

43:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/20 11:20:46.01 iaQ6crbQ
 歎異抄を公開すべきではないという議論は、ひとまず出尽くしたと
考えます。

 この後は、この掲示板を見てくれている方が、それぞれお一人
お一人の思考の中で考えてください。

>>3の続きを2,3日後から書きたいと思う。  

44:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/20 11:41:20.38 iaQ6crbQ
>>42
 不体失往生論は重要な問題だ。
 この問題は、
  ↓
【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロン72【御同行】
スレリンク(kyoto板:321番)

 ここから開始し、ランボーの邪魔が入り、途中で切れてしまった。

【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロン72【御同行】
スレリンク(kyoto板:935番)

親鸞仏教質問箱で続けると宣言していますので、そのつもりでいます。
しかし、外の議論が始まってしまいました。

 不体失往生論は重要な問題ですので、必ず続けます。少し時間を
ください。

スレリンク(psy板:614番)
天台止観を大衆に教えることこそが親鸞のライフワークだったと思います。

 親鸞のライフワークは何だったか。この議論が終われば、不体失往生論に移行しようと
思います。全て議論は密接に関連しています。

45:神も仏も名無しさん
13/10/20 11:46:30.55 qzGkLJDk
>>3
存覚の個人的なものがどれくらい反映されているかわからないですけど
「七高僧」の概念が出てこないとすれば興味深い。
教行信証も(ということはご和讃も)、はとにかく七高僧ですからね。
書簡では聖覚、隆寛のおすすめもありますが。

晩年の親鸞聖人は十字名号を御本尊にされていたと何かで読んだ記憶があります。
かなりシンプルなものを好まれたのではないかなあ。
もっとも、これは晩年の円熟がもたらしたものであって、
入門者にとって親切なものであるとは限らないですが。

存覚は諸神本懐集なんかを書いたりしてる人だから、察するに、
浄土教にあらわれた人物やら何やらを、とにかく綜合的なものことに興味があったのではないかなと思います。
祭壇の前で一望できるように全部を表現してやろうと。
いわば曼荼羅的な志向ですね。

46:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/20 11:55:36.73 iaQ6crbQ
>>42
>不体失往生と言う場合は浄土は心の中のことを言うのだろうね、

 「自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」(信の巻)と言っているから、「心の
中のこと」というのは間違いだろうと思う。
 仏教の原点は善因善果・悪因悪果だから、これを合理的に思考した先にあ
ると言うべきだ。
 僕の考えを後で詳しく説明します。

>この世にPURE LANDというものを想定しているのかどうか。

 違うと思う。
 親鸞聖人という人は、非常に合理的な思考の人だから、学ぶ僕らも合理主
義を徹底すべきだ。親鸞聖人という人は、ものすごく大きなことを考えていると
思う。

47:神も仏も名無しさん
13/10/20 16:18:42.35 0DV5rtOg
>>42
不体失往生をどのように理解しているかがまず分からないからどうとも言えないけど難思議往生はこの身が受けるのであって人間の自我上には双樹林下往生と難思往生しかあり得ないよ
だから帰依ということが起こるんだからね

あとこのあらゆる不浄を許容する穢土こそが浄土だよ
人間の描く浄土は主観的かつ個別的で相対的である以上穢土でしかありえないからね
まあその本来的には穢土でしかあり得ない主観的浄土を選び取ることこそが重要なんだけども

48:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/20 21:43:47.38 iaQ6crbQ
>> 47さんは、「自我上には双樹林下往生と難思往生しかあり得ない」「あらゆ
る不浄を許容する穢土こそが浄土だ」「本来的には穢土でしかあり得ない主観
的浄土を選び取ることこそが重要」。このように心得たということでしょうか

 心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。 〜 少し
も、心得たると思うことは、あるまじきことなりと、仰せられ候う(聞き書き)

 先人の真意は慎重に考えたいものですよね

49:神も仏も名無しさん
13/10/21 08:01:17.49 CIZLIeWs
不体失往生はそもそも
渡海が批判する大谷派の近代教学か石泉学から導きだされるものである。
どうしても臨終往生を否定するならか心の問題とするしかない。

50:神も仏も名無しさん
13/10/21 08:06:27.22 CIZLIeWs
また仏教の原点は善因善果、悪因悪果ではない
転迷開悟すなわち迷いから悟りへの転換が原点であろう。
悟りと言っても何も難しいことではない、真実を覩て迷いを断ち切ること
がゴータマの本意だろう。
ゴータマは平易な現地語でそれを語った、誰でもが理解できるはずである。
支那語への翻訳過程で支那文字を使うことで誰もが困惑する迷宮に入ったのである。

51:神も仏も名無しさん
13/10/21 08:33:56.82 CIZLIeWs
>>47
> あとこのあらゆる不浄を許容する穢土こそが浄土だよ
> 人間の描く浄土は主観的かつ個別的で相対的である以上穢土でしかありえないからね
> まあその本来的には穢土でしかあり得ない主観的浄土を選び取ることこそが重要なんだけども


なんだか難しいい方をしているけど、穢土=浄土つまり
現世で浄土を選び取るということですか。
それなら心の問題ですが・・・

52:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 09:12:13.90 GVpdt/kp
 全体の話の流れは体失・不体失往生論の方向でしょうか?
 それなら、その流れに乗ろうと思います。

53:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 23:13:00.00 GVpdt/kp
>>スレリンク(kyoto板:233番)
「〜が浄土に行った」なんてどうやって証明するの?

>>スレリンク(kyoto板:235番)
 証明は出来ない・・だろうね。浄土に限らず「死後なんらかの形で存在する」「死後の世界はある」
という事も"万人が認識できる"形では証明しようがないと思う。

 【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロン72【御同行】で出てきた疑問を原点とし、体失・不体失往生
論について渡海難が持論を主張しています。
 議論は終結していません。体失・不体失往生論について、アラシが激しくなって続けられなくなりま
した。このスレで改めて議論の叩き台として提出します。

54:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 23:15:18.98 GVpdt/kp
321
>「〜が浄土に行った」なんてどうやって証明するの?

 今、柔道界にいるという人は少なくない。生まれながらに柔道界にいたという人はいない。今、柔
道界にいる人は、全て柔道界の外から柔道界に行った人だ。
 「彼等は柔道界に行ったなんて、どうやって証明するんだろうね?」「え?!。何言っているんだ?
見て分かんないのか?。(笑)」
 芸能界にいるという人は少なくない。生まれながらに芸能界にいたという人はいない。今、芸能界
にいる人は、全て芸能界の外から芸能界に行った人だ。
 「芸能界に行ったなんて、彼等はどうやって証明するんだろうね?」
 「え?!。何言っているんだ?見て分かんないのか。(笑)」

 極楽浄土とは何か。浄土に行ったという問題は、極楽浄土とは何かということから考える必要が
ある。
 親鸞の極楽浄土、大無量寿経の極楽浄土、阿弥陀経の極楽浄土、観無量寿経の極楽浄土、全
て概念が違うようだ。各経典にはそれぞれ著者がいる。経典の極楽浄土は、それぞれ経典の著者
の極楽浄土観をもって描かれている。大無量寿経の場合、梵文と漢文とでも違うようだ。梵文は梵
文著者の極楽浄土観、漢文は漢訳者の極楽浄土観をもっている。
 僕はそれぞれについていま説明している余裕はない。経典毎の極楽浄土の相違に関する議論は、
僕は説明することなく自分の墓の中に抱えたまま持ち込み、闇の中に葬ることになるんだろう。
 極楽浄土はそれぞれ異なる。いまここでは、親鸞の極楽浄土観に基づいて往生を説明すれば足
りるだろう。

 善信は、念仏往生の機は体失せずして往生をとぐという。 〜 善恵房の体失してこそ往生はとぐ
れと、たてらるるも、また、やがて、さぞと、おおせあり。(口伝抄)

55:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 23:17:39.83 GVpdt/kp
322
 親鸞の思想の中に体失往生という発想がないわけではない。しかし、親鸞の往生を考えるなら、ま
ず不体失往生でその思想をしっかり固め、それを足場にして体失往生に話を拡大していくという順序
が分かりやすい。浄土真宗がほとんど葬式仏教化してしまった現代では、体失往生の議論は避けら
れない。その場合でも、少なくとも親鸞中心で考えるなら、不体失往生の議論を先に固めておかない
と、体失往生の議論はとんでもない勘違いに飛んでいく。不体失往生の議論から考えよう。これが基
点である

 1882年、嘉納冶五郎先生は東京にある永昌寺で「講道館」という看板を掲げた。これが現代の世
界柔道の原点だそうだ。
 柔道界に来ませんか。人々にこのように声を掛けると、声を掛けられた人は三通りの反応をする。
 第一のグループ「とんでもない。絶対に嫌だ。俺は死んでもあんなことはしたくない」。第二のグルー
プ「うーんどうしようかな。やってみようかな、止めておこうかな。うーん」。第三のグループ「もちろんだ。
是非やりたい。誘われなくても自分はやるよ」。この三通りである。

 念仏界に来ませんか。人々にこのように声を掛けると、声を掛けられた人は三通りの反応をする。
 第一のグループ「とんでもない。絶対に嫌だ。俺は死んでもあんなことはしたくない。勧められるの
は絶対に嫌だ」。第二のグループ「うーんどうしようかな。やってみようかな、止めておこうかな。うー
ん」。第三のグループ「もちろんだ。是非やりたい。誘われなくても自分はやるよ」。この三通りである。

56:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 23:20:15.35 GVpdt/kp
323
 第一のグループを親鸞は邪定聚という。聚とは衆、集という意味だ。邪という字を使っていても特
に悪い意味はない。ようするに、念仏なんかしたくないというひとだ。浄土真宗のお坊さんには特に
念仏のこの邪定聚が多い。念仏をやろうというと「いやだ」という。
 第二のグループを親鸞は不定聚という。「当今の凡夫は、 〜 また不定聚と名づく(化身土)」。親
鸞に言わせれば、現代人のほとんどが、この不定聚だという。浄土真宗のお坊さん以外では、21世
紀でも多分通じる話だろう。浄土真宗のお坊さんには、この不定聚の人に仏法が弘まるのを邪魔し
たいと思っている人がいそうである。
 第三のグループを親鸞は正定聚という。昔も今も数は少ない。現代でこの正定聚がいないという原因
は、現代浄土真宗の存在がその妨害になっているという面がありそうだ。しかも、とりわけ妨害してい
る人に限って、本当は邪定聚のくせに自分は正定聚だと、誤解している人が、特に、浄土真宗の新興
宗教の教祖などにいる。

 柔道場に行くと、練習時間の内の非常に長い時間、道場の隅で小さくなっている人がいる。誘われ
てきたんだが、勝手が分からずどぎまぎしている人だ。決して柔道が強いというわけではないが、積
極的に練習に励んでいる人もいる。勝手が分からずどぎまぎしている人と、積極的に練習に励んでい
る人は、同じ柔道場にいても、住んでいる世界は違うはずである。

57:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 23:22:35.41 GVpdt/kp
471
 柔道場にA君・B君という二人の仲良しが通うようになった。A君は半年前から通っており、いつも
生き生きと練習している。来年の昇段試験では初段を受けるという。一週間に2回の練習日を休む
ことがほとんどなく、道場に来ればほとんど動き回って練習している。B君はA君の友人だ。A君に誘
われて最近通うようになった。

 二人は、道場から一緒に揃って家に帰る。そんな折り、二人が交通事故に遭って大けがをした。
柔道場に警察から電話が入り、入院先の病院の名前が告げられた。C氏が病院に行く。C氏はベ
テランの柔道家で、柔道四段、国体の出場経験があり、オリンピックの代表選手候補にも名が上が
り、将来が有望視されている。病院では警察官が待っていた。

 眠った状態のA君を指さして警察官がC氏に聞く。
 「あなた方のお仲間ですね」
 「はいそうです。非常に可愛い仲間です。よく柔道の練習に来ています」。
 眠った状態のB君を指さしてC氏に聞く。
 「こちらの少年もあなた方のお仲間ですね」
 「う?!。はいはい!。うちの道場の登録会員です」

 C氏はB君を「仲間ですね」と聞かれ、一瞬息が詰まる。B君は、先週初めてやってきて、次の練
習会を休んでいる。今日は2回目である。道場に来て挨拶はしたが、その後はほとんど隅でずっ
と座り続け、受け身の練習さえうまくできなかった。A君はC氏にとって非常に可愛い仲間である。
しかし、B君は入会したばかりでまだ遠い存在なのである。それでは、嘉納冶五郎先生の目から
見た場合、A君、B君がどのように見えるだろうか。嘉納冶五郎先生から見た場合、A君とB君とは、
ほとんど差のないとても可愛い仲間に見えるだろう。

 C氏から、「もちろん仲間です」と言われるA君も実は、B君のような時期を通過し、その後にC氏
から「仲間だ」と思って貰えるような世界に転入している。浄土真宗親鸞聖人の極楽浄土もこういう
世界観と共通する。僕はそう思う。

58:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 23:24:54.65 GVpdt/kp
522
 A君とB君は、柔道場にどのようにして参加しているか考えると、二人の違いが分かる。B君は柔
道場に入るとき挨拶をした(礼拝門)。B君は挨拶をして参加する。挨拶をして柔道場に参加してくる
者は、嘉納冶五郎先生から見ればみんな仲間である。嘉納冶五郎先生が創設した世界(極楽浄土)
にやってきた人々である。先生は、自らが創設した世界の中に差別を持ち込むことはなかった。嘉
納冶五郎先生から見て、A君とB君の間にいかなる差別もないということである。

 しかしいったい人は何をしに柔道場に来るかの。B君はA君に誘われたから柔道場に来たのであ
り、A君との友人関係を切りたくないから道場に来た。B君はまだ、柔道をしたいという気持ちは大き
くない(疑城胎宮)。しかし、考えて欲しい。柔道場の目的は何か。挨拶(礼拝)が目的ではないだろ
う。挨拶だけすればいいということではない。柔道場に来れば、やはりそこでは練習に参加して欲し
い。C氏ならそう思う。C氏から見れば、積極的に練習に参加してこないB君は、確かに柔道場に近
いところ(近門)にはきている。だから柔道場の隅(辺土)いるのだ(難思往生)。本物の稽古場(報
土)には来ていない。B君は仮に様子を見に来ている(仮土)。だから柔道場の本当の仲間ではまだ
ない。

 A君から見て見てB君は、誘えば柔道場に来るような人物だった(不定聚)。A君は、自分では柔道
を非常に面白いと思っている(讃嘆)。A君の中には、「柔道は凄い。面白い」と思う気持ちがわいて
きてきている。A君は誘われなくても自律的に自主的に練習に参加する(正定聚)。A君にとって柔道
は何が面白いのか。柔道をすること(行)が面白いのだ。我流ではなく、できるだけC先生の教えに忠
実に柔道をすることが楽しい。面白い。中学・高校生あたりが半年・一年程度練習をしても、まだまだ
強いとは言えないだろう。五年も十年も続けてきた人に比べれば、練習量は圧倒的に少ない。しかし、
C先生の教えを(教)できるだけ忠実に守って柔道をやると(行)、C先生のようにきっと強くなる。将来
きっと強くなる(証)。

59:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 23:27:17.70 GVpdt/kp
523
A君には、この認識(教行証)を客体とし、その客体を感動を伴って喜ぶ(敬信)主体としての心(信楽
心)ができてきている。おそらく、できかかってきているという状況だろう。この認識は、C先生の認識
と同一のものだろう。C先生の教えを(教)できるだけ忠実に守って柔道をやると(行)、A君だってB君
だってC先生のようにきっと強くなる。将来きっと強くなる(証)。A君はC先生の認識を共感的共有的
に享受しつつある。
 A君はC先生と共通の認識界、C先生の柔道界に転入している(難思議往生)。C先生は同じ柔道
界の仲間(大会衆の数)としてA君を認識しつつある。柔道のベテランのC先生から見て、A君とB君
とは違いがある。A君は、柔道界の大会衆の数に入った。大会衆の数に入ったA君には、それまで
見えなかったものが視界に入ってくる(功徳大宝海)。先生に恵まれ、自分も来年の昇段試験を受け
てみよう。そんな目標ができてくる(功徳)。

 C氏とA君とは同じ世界だろうか。C氏から見ればほとんど同じ共通の価値観を持った同じ世界(報
土)の同じ仲間ということになるだろう。柔道界の人なら、みなA君、あるいはC氏と同じ価値観を持っ
ている。同じ価値観世界(報土)に存在する。しかし、病院で待っていた警察官のような人からみれば、
A君とC氏は全く世界が違う。国体に出場し、オリンピックの選手候補にも名が挙がるような人であれ
ば、C氏はまさに柔道界(蓮華蔵世界)の人として認識するだろう。しかし、柔道を始めて半年・一年程
度の中学・高校生で、初段にもなってないA君を、警察官は柔道界の人とは見ないだろう(要に逢わ
ず)。書類の中に、病院に駆けつけたC氏を警察官は柔道家と記載することはあっても、A君を柔道家
と記載することはないだろう。

 このようなC氏であるが、このC氏であっても、ある日突然そのようなところに到達したわけではない。
B君の段階(難思往生)、A君の段階(難思議往生)を通っている。やがて、単に面白い、楽しいではな
く、「これは真剣にやらなければいけない」と真剣に思うようになり(作願門)、実力をつけてきた(蓮華
蔵世界)。実力者になってもC氏は修行中の身であり、まだ目指すべき上(屋門・園林遊戯地門)があ
る。

60:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 23:30:27.55 GVpdt/kp
524
 奢摩他・毘婆舎那(証の巻)を目指す親鸞の極楽浄土も、本質はこれと全く変わらない同じような世
界なのである。親鸞は、極楽浄土に五つの門を設定した。第一門・近門・礼拝門・化土・疑城胎宮。第
二門・讃嘆門・報土・功徳大宝海。第三門・作願門・報土・蓮華蔵世界。第四門・屋門・報土・蓮華蔵世
界。第五門・園林遊戯地門・教化地。

 柔道家にとって世界は大きく二つに分かれる。スポーツ界(仏道界)と非スポーツ界である。
スポーツをしていなかった者がスポーツを行うようになれば、それまで抱えていた大きな一つの宿題(生
死)が片付くことになる(双樹林下往生)。柔道家にとってスポーツ界は二つに分かれる。柔道界(浄土
門)と非柔道界(聖道門)である。柔道をやってみようかなと思う者が柔道を始めれば(難思往生)、そ
れだけで大きな一つの宿題(生死)が片付くことになる。
 挨拶だけでもしに来ませんか。最初はそう誘う(礼拝門)。挨拶だけでもしにくれば(難思往生)、挨拶
だけでもしにこない人に比べれば、嘉納冶五郎先生の目から見て、大変な進歩である。
 しかし、B君のように挨拶だけで帰るのでは残念だ(仮土往生)。楽しい、面白いとA君のように思って
くれる(功徳大宝海)こと(報土往生)は重要なことだ(讃嘆門)。A君のように面白いと思うようになれば、
ここで本当の柔道界への参加となる。面白いと思ってくれれば、自律的に柔道を続ける。そうすれば必
ずうまくなる(正定聚)。
 面白い、面白いと思ってるのはいいが、いつまでも楽しい楽しいだけの遊び半分では残念である。や
はりいつかはC氏のように真剣にやらなければならないと思って欲しいものだ(作願門)。それがなけれ
ば進歩がない。真剣にやらなければならないと思った(真如の門)先(蓮華蔵世界」)にこそ柔道界の本
質(要)がある。
 柔道界の本質に入れば、いくつかの難関(屋門)がある。オリンピックに出る。日章旗を掲げるという
目標を持つこともいいだろう。難関(屋門)を通過してこそ、本当の卒業(園林遊戯地門)がある。

 極楽浄土の往生とは、一念念仏・多念念仏によってまさにこの段階を進むことを言う。

61:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 23:33:50.06 GVpdt/kp
708
「帰命尽十方無碍光如来」は、「帰命」はすなわちこれ礼拝門なり、「尽十方無碍光如来」はすなわちこ
れ讃嘆門なり。 〜 「願生安楽国」は、この一句はこれ作願門なり、天親菩薩帰命の言なり。(行の巻)
 南無阿弥陀仏の南無には挨拶(礼拝)の意味がある。阿弥陀仏には讃嘆の意味がある。南無阿弥陀
仏は願生安楽国という言葉をを伴う。願生安楽国には願いを立てる(作願)という意味がある。念仏界に
積極的に参加することを求めるという意味がある。南無阿弥陀仏には、礼拝・讃嘆・作願の意味がある。
南無阿弥陀仏をとなえることは、礼拝・讃嘆・作願を実践することである。

 ここをもって本願の欲生心成就の文、〜 浄土論(論註)に曰わく、「云何が回向したまえる。一切苦
悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆ
えに」とのたまえり。回向に二種の相あり。 〜 還相は、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方
便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまう
なり(信の巻)。
 親鸞聖人の教えを(教)できるだけ忠実に守って念仏をすると(行)、親鸞先生のようにきっと奢摩他・
毘婆舎那ができてくる(証)。この認識(教行証)を客体とし、その客体を感動を伴って喜ぶ(敬信)主体
としての心(信楽心)ができてきてきたとき(欲生心成就)、奢摩他・毘婆舎那が現実を帯びてくる。

 王いま座禅してただ当に念仏すべし(行の巻)
 親鸞は、釈尊が厳父に座禅して念仏をすることを勧めていることを引用し、念仏の作法を明らかにす
る。極楽浄土では結跏趺坐が公式な着座法である。親鸞の念仏は、座禅して行うのが正式である。親
鸞の念仏道場(至道抄)では座禅して念仏を行うのが原則である。
 念仏道場では座禅して念仏を行う。念仏道場は奢摩他・毘婆舎那を実践する。奢摩他・毘婆舎那が
できてくると、教育力つまり方便力が成就してくる。

62:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
13/10/21 23:36:10.37 GVpdt/kp
709
 入第四門とは、かの妙荘厳を専念し観察して、毘婆舎那を修せしむるをもってのゆえに、かの所に到
ることを得て、種種の法味の楽を受用せしむ。これを入第四門と名づく(証の巻)。

 定観成就の益は念仏三昧を獲るをもって観の益とすることを顕す(化身土)。
念仏三昧はこれ真の無上深妙の門なり。 〜 「王いま座禅してただ当に念仏すべし」(行の巻)。
一念をひがごととおもうまじき事(一念多念念仏文意)

 座禅してただ当に一念念仏すれば、善導流の定善観をしなくても、定観成就の効果を得る。かの妙荘
厳を専念し観察したのと同じ益を得る。つまり、毘婆舎那を修せしむ。入第四門、屋門を通るのだ。

 奢摩他・毘婆舎那が出来てくるのは決して一本道ではない。奢摩他ができるようになっても、毘婆舎那
ができるとは限らない。しかし、やがて奢摩他・毘婆舎那がともにできるようになるときがくる(屋門)。
 奢摩他・毘婆舎那ができ、教育指導力も体得できれば、教化地に至る。出第五門を果たし、『法華経』
の普門示現の類(証の巻)として活動できる舞台が開けてくる。

 親鸞聖人の不体失往生とは、おおよそ、以上のような内容であると考えます。
 体失往生(死後往生)は、不体失往生(生前往生)を原点にして議論を拡大していきます。浄土真宗は、
思想的には空也宗を基本とし、空也宗の上に親鸞宗が重なっています。体失往生は、先に親鸞宗の体
失往生を明確にし、その議論を空也宗レベルに矛盾なくシームレスに拡大延長して考えていくことになる
と思います。

63:神も仏も名無しさん
13/10/22 08:19:16.69 zLoLpFzC
@仏教は現生での迷い苦しみを転迷開悟することであった
A当然死後のことではなく現生において教えである
B生老病死は大きな苦しみであり、六道輪廻の思想が当時の庶民の苦しみの一つの原因でもあった
C真実の探求によって転迷開悟したのがゴータマであった
Dゴータマはやがて仏と称されるようになった
Eゴータマの死後弟子たちが様々なテキストを作りゴータマの教えを説いた
F経典と呼ばれるのがそれである、経典は人間が作った
Gインドの言葉から支那の言葉へ翻訳されるときに漢字を用いた故経典自体が
 不可思議な呪文のようになった
H浄土門はテキストのうち慈悲を中心に記された経典を採用した
I現生での転迷開悟は難しいとの認識に立っている
Jやがて死後の苦しみについては心配しなくともよい、という人が現れた
K法然さんもその一人である、法然さんは迫害を受けながら懸命に宗を起てた
L真実と慈悲と言う二本柱で死後の憂いを和らげたのである
M鎌倉時代には日本では葬儀の際に特別な儀式を執り行うようになってきていた(引導など)
N特別な儀式のない教えは念仏者を不安に駆り立てた
O特別な儀式なしに「すでに救われている」と言う思想は必要だった
P現生正定聚がそれである

後日に続く


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