○●Я親鸞仏教質問箱R(その7)●○ at PSY
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500: ◆K3PkkhVAkA
12/05/23 22:14:25.68 ydFiGbix
(^-^) 祝・500だね♪

501:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
12/06/01 15:14:25.41 RQvFmNKv
 5月14日からアク禁になっていました。モリポタで書き込みますが、忍法帳が邪魔して、
満足な書き込みができません。すこしずつ書きます。

502:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
12/06/01 15:44:50.17 RQvFmNKv
 現実には、善因は必ずしも善果をもたらさない。悪因は必ずしも悪果をもたらさない。善因が
悪果をもたらすことも多い。悪因を積めば善果が得られることも多い。現実には善因悪果、悪因
善果の場合の方が多いのではないか。こんな話は当たり前のことであり、これ以外の考えを持つ
人がいれば、その人は頭がおかしいと僕は思う。

503:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
12/06/01 16:10:29.41 RQvFmNKv
 しかし釈尊は言う。善因善果を信じ、善因を行っていけ。悪因悪果を信じ、悪因を離れよ。こ
れが釈尊の悟りである。善因を実践しなさい。例え悪果に陥るとも、善因を積んだ結果であれば
それを恐れてはいけない。悪果を実践してはいけない、悪因を実践すれば仮に善果に至ると分か
っていても、そのような善果を決して求めてはいけない。これが釈尊の悟りの中身である。

504:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
12/06/01 16:22:54.01 RQvFmNKv
 ものごとの本質的解決(無明)を求めよ。本質的解決を求めるなら、善因を実践せよ。善因の
結果、仮に悪果に陥ろうとも、その場合、潜在的には本質的課題(無明)の解決に一歩近づいて
いる。そのように思おうではないか。悪因をなして、それで仮に善果が得られても、それはなん
ら本質的課題の解決には役に立たない。そのように思おうではないか。


505:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
12/06/01 16:50:42.95 RQvFmNKv
 物事の表面的な解決に満足してはいけない。本質的課題の解決をおざなりにして表面的な解決
に満足すれば、同じ過ちを今後も二度、三度と繰り返す(輪廻)だろう。再起(生)挫折(死)、
再起(生)挫折(死)の同じ轍を踏むことになる。

506:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
12/06/01 16:55:20.72 RQvFmNKv
 ものごとの本質的解決は、あくまで正攻法による。善因のみによる。善因が善果をもたらし、
悪因は悪果をもたらすと、そう信じ、善因を実践していくこと以外、正攻法以外に方法はない。
これが釈尊の悟りである。問題点(苦)を浮き彫りにし、そのための解決策(集)を探り、それ
を実践(滅)し、その解決を実現する(道)。四諦以外に、本質的課題の解決策はない。当たり
前の話だ。


507:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
12/06/01 16:58:13.18 RQvFmNKv
しかし、この方法を選んでも、必ずしも成功するとは限らない。失敗することは多い。当たり前
の話だ。しかし失敗に怯んではいけない。怖じ気づいてはいけない。「ここで怯んではいけない。
怖じ気づいてはいけない」というのが釈迦の悟りの主張だ。善因を積む以外に真の解決策はない。
そのように信じて進もうではないか。非道な方法を行えば都合のいい結果を生むことがあるかも
しれない。しかし、そのような誘いに乗ってはいけない。


508:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
12/06/01 17:02:18.40 RQvFmNKv
 釈迦が掲げた善因善果、悪因悪果には実は大きな問題がある。外でもない。善因を積んでも必
ずしも善果に至らないという現実である。悪因を積めば悪果どころか、善果が得られる場合も多
いという問題である。仏教の先人達はこの現実に苦しんできた。悪果になったのは、前世に悪業
を積んでいたからに違いない。

509:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
12/06/01 17:42:15.17 RQvFmNKv
 人を苦しめる悪魔的なとんでもない説を、今なお主張する者がいるということは、実に残念で
ある。これは釈迦の敵である。仏教の破壊者である。
 空というのは、まさにこうした問題を背景にし、ウッダカ・ラーマ・プッタの主張を釈迦の悟
りの中に大胆に取り入れた考えが生まれてきた。  (続く)

510:渡海 難 忍法帖【Lv=7,xxxP】   ◆Fe19/y1.mI
12/06/12 14:05:12.83 V2hOEcPY
 ウッダカ・ラーマ・プッタの主張とは何か。
「そんなの関係ない。」「そんなこと気にする必要は無い。」「そんなこと無視すりゃ
いいんだ。」「無だ。」「空だ」。
 ようするにそう言うことだ。善因を実践して善果が得られたなら、それはそれでい
い。しかし、善因を実践したが、善果にならず、悪果になった。そうしたら、その悪
果になった問題だけは、「悪果などは関係ない。」「そんなこと気にする必要は無い。」
「そんなこと無視すりゃいいんだ。」「そんなものに心が捕らわれる必要ない。」「無
だ。」「空だ」、このように思おうではないか。そして、転んでも、転んでも、今後も
可能な限り善を実践していこう。大乗の先人達はそのように考えているんだろうと僕
は思う。

 善因を積んで善果が得られることは、現実には確かに非常に少ない。そうなら、我
々の環境は空が本質である。そうも言えるだろう。だから、ほとんどのことについて
は、「そんなの関係ない。」「そんなこと気にする必要は無い。」「そんなこと無視す
りゃいいんだ。」「無だ。」「空だ」と言っていい。しかしその中で、善因によって善
果が得られそうなことだけは、確実に善を選んでいこう。一切空無我なりと通達すれ
ども、なおかつ身を引き締め、歯を食いしばってでも専ら浄仏土を求めて、必ずかく
のごときの刹を成ぜん。優れた学校を建設していこう。大無量寿経は、大乗仏教の学
習者に学校の建設を呼びかけている。そのように理解します。

 しかし、そうは言っても、現実に大変な努力をした結果、努力が水泡に帰するとい
うことは決して少なくない。期待が外れて喜ぶ人はいない。「無だ」、「空だ」、など
と、そんな話に納得できることは現実にはほとんどない。

511:渡海 難 忍法帖【Lv=7,xxxP】   ◆Fe19/y1.mI
12/06/12 14:06:31.47 V2hOEcPY
 釈尊先生はそんな場合、人々に禅定を勧めた。「無だ」、「空だ」などと思えなくて
いい。恐いことは、過去の失敗、あるいは不幸に引きずられて新たな一歩が歩み出せ
なくなることだ。善因善果、悪因悪果の確信が揺らぎ、すすんで悪因に手を染めるよ
うになることだ。悔いが残り、悲しさがこみ上げてくる現実を前にして、「無だ」、「空
だ」と仮に認識できなくても、少しでも気持ちに整理を付け、再び、善因善果、悪因
悪果の確信をしっかりもって進んで行ければそれでいい。大乗仏教の先人達はそのよ
うに語ってくれている。

 悔しい。悲しい。残念だ。そういう思いは、禅定をすれば少しはやわらぐ。自分の
至らなかったことも見えてくる。「無だ」、「空だ」などと、思えるか、思えないか、
そんなことは実はどうでもいいことだ。失敗の後の悔しさ、悲しさ、それが少しでも
和らげばいい。
 一切は空である。それは善因を実践しても善果に成りにくい現実、悪因を実践する
と善因になりやすい現実、こういう現実を前にして、転んでも転んでも善因善果を実
践していきなさいと、先人が、禅定と一緒に我々に提起してきた大事な一つの考え方
である。そのように考えていいと僕は思う。

  とりあえず「空」はここまで。

 「無我」について考えよう。

512:神も仏も名無しさん
12/06/28 21:57:39.47 pVpSg91n
我今までよりなすところの
念仏誹謗の罪ここに懺悔す

513:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/07/03 11:47:01.85 ByDsRXtN
 無我とは何か。この意味は、仏典の中に求めても、僕などは正直言ってよくわからない。この
意味は、僕は日本文化の中に求めれば意外と分かりやすいと思う。
 日本の茶碗などの陶芸を見ると、いかにも泥臭く、いびつで、一見するとどうしてこれが美し
いんだろうと思うような作品がたくさんある。しかし、その一つ一つをよく見ると、いくら見て
いても飽きない不思議な味わい、おもしろさがある。素材を見事に生かしてあるのだ。
 素材を生かすというと、日本料理にその真骨頂がある。支那、朝鮮の料理は、色々な具を一つ
の鍋で煮込んでしまう。日本にもそういう料理が無いわけではない。すき焼き、雑炊などはさま
ざまな具を鍋で一緒に煮込む。しかし、すき焼きなどは、狩人、あるいは被差別部落から発生し、
徳川時代末期から明治維新にかけ、西洋から肉類を食べる習慣が入ってきた時、日本の一部で食
されていた料理が全国に広まったものだ。日本には、もっと仏教の影響を受けている料理がたく
さんある。それは、すき焼きなどの大衆料理ではなく、精進料理、高級料理の中にある。
 精進料理は素材の味を徹底的に生かす。素材が違えば性質が違う。素材ごとにそれぞれ料理法
を異にし、容器も変える。料理人は、素材に潜む個性をできるだけ引き出し、その持ち味が死な
ないように、料理人は料理の配置、つまり盛り合わせに自分の個性を発揮する。
 無我とはそういうものだろうと思う。大乗仏教は教育学である。教師は、生徒一人一人の個性
を最大限に掘り起こす。自然のままに放置すれば、原石は埃まみれ、泥まみれである。埃や泥を
払ってやれば、素晴らし個性が潜んでいる。教師の最初の仕事はその個性を掘り起こすことだ。
生徒一人一人の個性は、集団の中で実現する。生徒には、それぞれそれぞれ、固有の個性ができ
るだけ発揮する適所を与えて成長させる。これが教育の基本原則だろうと思う。
 教師は、自分の主観に振り回されてはいけない。生徒を鋳型に嵌めてはいけない。大鍋で一緒
に煮込んではいけない。自分の思い込み、誤解を排し、できるだけ客観的な事実を下にして一人
一人の相手の本質を見極め、あるべき適所を考えて与えて行く。これが無我ということだろうと
僕は思う。

514:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/07/03 11:47:59.95 ByDsRXtN
 粗末な物は無価値である。古い物は無価値である。日本人はそういう考えが間違いであること
を教わってきた。非常に粗末なものであっても、その中にもひときわ光る優れた美がある。日本
人は、こうした美を「わび」と称し、大事にしてきた。古びて傷んできたものの中に、ひときわ
優れた美が潜むことがある。これを「さび」と称してきた。茶道・俳諧などはこうし美に着目す
る。「わび」・「さび」などは、無我という仏教的概念が、日本人の価値観の中に同化し、美とい
う価値観の中で体系化した美学だろう。無我という概念がわかりにくければ、「わび」・「さび」
という概念から遡って考えて行くと分かりやすいと思う。
 無我は以上です。


515:渡海 難!ninja  ◆Fe19/y1.mI
12/07/03 11:58:51.02 ByDsRXtN
>>512
>念仏誹謗の罪ここに懺悔す

 念仏誹謗? 懺悔?
 そんな懺悔なんかしてもしなくてもどうでもいいわ。それより、5分でも10分でも念仏称えて
みるといい。
 どんなふうに称えるのか。ここで紹介している。
 
URLリンク(www7b.biglobe.ne.jp)
 僕のホームページです。

念仏称えてどうするのか。奢摩他・毘婆舎那ができるようになるといい。奢摩他・毘婆
舎那は止観ともいう。きっと素晴らし人生が開けるだろう。

 いきなり止観ができるようになろうなどと欲を出さず、少しずつ称えて行くといいだろう。

516:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/07/04 12:44:41.12 lLT/Q3tb
>>485
>他の誰でもなく、私はなぜ私なのか

 これは、パスカルが出した命題ですか。僕にはデカルトのような感じがしないでもない。
いずれにしても、西洋哲学に発する命題のようです。
 西洋哲学には、西洋哲学の発想法があります。僕は西洋哲学を学んだことがない。他人
が西洋哲学と東洋哲学の両方に跨って議論することに抵抗はありませんが、僕にはその資
格がありません。


>「草木国土悉皆成仏」との関わりについて分かり易く説明願います。

 「草木国土悉皆成仏」の原典はどこですか。涅槃経は「一切衆生悉有仏性」という。原
典では、国土も衆生なのか。国土も衆生であるという認識を持っているのでしょうか?あ
るいは、非衆生にも仏性ありという主張なのか。理屈をこねればいくらでも説明だけはで
きそうですが、原典の真意を確認しないで議論するのは控えようと思います。

 涅槃経は「一切衆生悉有仏性」といいます。ここについて、親鸞は非常に重要な議論を
している。この場合の衆生は、人々という意味です。草木、国土を議論の対象にしません。
 「草木、国土が成仏するか。この場で答えよ」。もしそう言われれば、いまここでは「ナ
ンセンス。空!」と回答しておきます。

 「人間以外の猫が仏になるか。犬が仏になるか」。そういう話なら、禅宗の坊さんと時
間のある限り話をしてくるといいでしょう。素晴らしい話が聞けるでしょう。帰りに猫の
死体を持たされるかも知れません。その時は断ればいいでしょう(笑)。僕は御免被りま
す。「猫に仏性があるか。犬に仏性があるか」。いまここで答えを出せと言われれば、僕
は、「まあ、どうぞ勝っ手にしなさいな」と回答しておきます。

 「一切衆生悉有仏性」。それよりも次に、親鸞の主張を考えていきましょう。

517:神も仏も名無しさん
12/07/04 13:04:53.55 r5WdD/al
地球は太陽の重力に作用して安定している。
太陽は銀河系の中心にあるブラックホールの重力に作用してそこにある。
しかし、銀河系の中心にあるブラックホールには何もない。
光もない、時間もない、自も他もない。あるのはあなたの頭の中にだけある。

518:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/07/06 12:01:24.40 xkjqIkCY
>>510
× 善因を実践して善果が得られたなら、それはそれでいい。

○ 善因を実践して善果が得られたなら、それは当たり前のことではなく、大変ありがたいことだ。
仏教で『ありがたい』という言葉は、こうした場合のために準備されている。

 悪因を行って善果が得られたなら、それは有り難いということではない。これは恥ずかしい事だ。
善因によって悪果が生じたなら、これを空という。悪因によって悪果が生じたなら、これも有り難い
というべきだろう。

>>514
 教行信証の中で無我という言葉が出てくる。

 大王、今当に臣の所説を聴くに、実に殺害なかるべし、と。もし有我ならば実にまた害なし。もし
無我ならばまた害するところなけん。

 この場合の無我とは空という意味だ。言葉の使い方、意味には揺れがあるようである。しかもこの
場合の空とは、善因悪果の空ではない。善因善果、悪因悪果が正しく理解されたなら、過ぎ去った悪
因悪果は空として処理するということだ。ここはもっと詳しく説明する必要があるが、今は省略する。


519:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/07/06 12:04:51.52 xkjqIkCY
>>517
 地球は太陽の重力に作用して安定していても、地球の重力に作用して太陽が安定していても、安定
していなくても、そんなの、そんなのおれには全く関係ねぇ。
 太陽は銀河系の中心にあるブラックホールの重力に作用してそこにあるっても、なくても、そんな
のそんなの、おれには全く関係ねぇ。
 銀河系の中心にあるブラックホールには何もない。何があっても、そんなの、そんなのおれには全
く関係ねぇ。
 光もない、時間もない、自も他もない。あってもなくても関係ねぇ。頭の中も頭の外もおれには全
く関係ねぇ。

 「ああ、昨日、社長とケンカしちまった。今日はどの面下げて会社にいきゃいいんだろう。辞めち
まうか、謝るか?どうすりゃいいんだ。どうすりゃいいんだ。」
 これが頭の中の問題だ。

 親は寝たきりになった。公的介護も毎日ではない。自分はこれ以上会社を休めない。いっそ親を殺
して自分も死のうか。いやいや、自分まで死ぬ必要は無い。それでは親だけ殺すか。親を殺して生き
ていけるか。心臓に刃物を突き刺せば、血柱は天井まで届くだろう。体は動かなくても、全身は「生
きたい、生きたいと」願っている。
 それでは、自分だけ死ぬか。いやいや、そうすれば、親は生きていけない。

 こうした問題こそが、今の人類(私)の大問題である。ブラックホールも重力も全く関係ない。ブ
ラックホールも重力も全く関係ない人類の大問題の解決こそ、それが宗教の問題である。この問題に
宗教は答えを出せ。
 泥臭く、みすぼらしく、他人から見れば実に他愛のない問題であっても、今の現実の問題、それこ
そが人類の大問題である。宗教は人類の大問題を解決せよ。それが解決できない宗教は、宗教ではな
い。
 人が生きる上の道具として、使い勝手がいいか、わるいか、浄土真宗も、道具としての使い勝ってが、
篩の上で常に試されている。

520:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/08/01 12:45:18.98 zoBYy4y1
 一切衆生悉有仏性は、信の巻がよくまとまっている。読んでみよう。

『涅槃経』、善男子、大慈大悲を名づけて「仏性」とす。何をもってのゆえに。大慈大悲は常
に菩薩に随うこと影の形に随うがごとし。一切衆生畢に定んで当に大慈大悲を得べし。このゆえ
に説きて「一切衆生悉有仏性」と言えるなり。

 みなさん。大慈大悲というのがある。大慈大悲を仏性という。なぜなら、大慈大悲は、仏道を
修行する人にはいつも影のように付随しているからです。仏道を修行する人は、やがて必ず大慈
大悲を体得します。ですから、あらゆる人に悉く仏性があるというのです。

 大慈大悲は体得する前と、体得した後という二つの時期があります。体得すれば顕在化します。
しかし、体得前は存在しないのではなく、潜在化していると、そのように評価すべきと考えます。
仏道の修行を続けていけば、それもいつかは必ず顕在化します。
 大慈大悲は、顕在化して始めて発生するものではなく、顕在化前は、潜在化しているのであり、
常に必然的可能性として存在しているのです。潜在的か顕在的かというのは、現象であって、本
質ではありません。顕在・潜在の違いがあるとしても、本質を考えれば、大慈大悲はあらゆる人
に存在するといえます。つまり、仏性はあらゆる人に必然的可能性として潜在する。だから、一
切衆生悉有仏性というのです。

「仏性」は名づけて「如来」とす。大喜大捨を名づけて「仏性」とす。何をもってのゆえに、菩
薩摩訶薩は、もし二十五有を捨つること能わずは、すなわち阿耨多羅三藐三菩提を得ること能わ
ず。もろもろの衆生畢に当に得べきをもってのゆえに。このゆえに説きて「一切衆生悉有仏性」
と言えるなり。

521:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/08/01 12:46:40.63 zoBYy4y1
 みなさん。仏性とは何か。仏性こそ如来です。この仏性は、大喜大捨が支えています。仏道修
行者は、欲界・色界・無色界をなかなか捨てることができない。人々は、無明、つまり本質的原
因問題の解決を疎かにするため、再起・挫折・再起・挫折という生死・生死の連鎖が断ち切れな
い。如来は、生死・生死の連鎖を断ち切ったところに存在します。本質的原因問題を克服したと
ころに存在します。だからこそ、大喜大捨を名づけて「仏性」という。本質的原因問題を克服す
ることは決して不可能ではない。仏道を修行していけばやがて、必ず克服できる。だからこそ、
あらゆる人々に仏性があるというのです。

 大喜大捨はすなわちこれ仏性なり、仏性はすなわちこれ如来なり。仏性は「大信心」と名づく。
何をもってのゆえに、信心をもってのゆえに、菩薩摩訶薩はすなわちよく檀波羅蜜乃至般若波羅
蜜を具足せり、一切衆生は畢に定んで当に大信心を得べきをもってのゆえに。このゆえに説きて
「一切衆生悉有仏性」と言えるなり。

 みなさん。仏性とは何か。大喜大捨こそ仏性であり、その仏性が如来です。仏性は「大信心」
を本質とします。仏道を修行する人は、やがて必ず信心を得るようになる。信心を得るようにな
れば、やがて、他の人々に、様々なもの、大事なものを与え、智慧も与えられるようになる。そ
こからさらに多くの人々が目覚め出す。まだ仏道を修行していない人も、こうした現実によって
仏道と出会う。話を先回りして、潜在的にはあらゆる人々に仏性があるという。究極的にはあら
ゆる人々が仏性を顕在化できる可能性を秘めている。だからこそ、一切衆生悉有仏性という。

 大信心はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ如来なり。仏性は「一子地」と名づく。
何をもってのゆえに、一子地の因縁をもってのゆえに菩薩はすなわち一切衆生において平等心を
得たり。一切衆生は畢に定んで当に一子地を得べきがゆえに、このゆえに説きて、「一切衆生悉
有仏性」と言えるなり。一子地はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ如来なり、と。

522:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/08/01 12:47:58.51 zoBYy4y1
 仏道を修行する者は、やがて信心を得る。信心は他の人々に影響を与えていく。多くの人に影
響を与えていく大信心、その本質は仏性にある。仏性こそ如来の本質です。仏性は、他人に対
し、あたかも大事な自分の一人っ子に接するかのように優しく接する。だからこそ、そこから平
等心というのが発動する。仏道修行する人は、やがてそのような一人っ子に接するかのように優
しく接する心を持つ。だからこそ、あらゆる人々に仏性があるというのです。

 一切衆生悉有仏性とは、難しい議論ではなく、以上をもって話はほとんど尽きているように思うが、
これでは分からんという人もいると思うので、蛇足になっても、もう少し説明しよう。


523:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/08/08 11:16:03.97 s1U95hg7
 世の中には素晴らしい人がたくさんいます。彼等は、しばしば哲人、賢人と言われ、大家と言われ、
ある人々は縁の下の力持ちとも言われます。彼等には共通の思いがあります。人々の苦しみを和らげ
よう、できるかぎり喜んで貰おう、そういう思いがあり、そのための実践があります。そうした思い
を、ここでは例えば哲人の心と総称してみます。哲人の心が、様々な人々の心に宿ると、現れる人の
人格に応じ、哲人・賢人・大家・縁の下の力持ちなどと様々に言われます。

 哲人の心は、あらゆる努力家達にはいつも影のように付随しています。努力家達は、やがて必ず哲
人の心を体得します。ですから、あらゆる人に哲人の心はことごとく存在すると言うのです。
 
哲人の心は、得られる前と得られた後という二つの時期があります。得られれば顕在化します。し
かし、得られる前は哲人の心が存在しないのではありません。努力を重ねている努力家達には、潜在
化していると、そのように評価すべきでしょう。一つのことに向かって努力を重ねていけば、努力家
達はいつか必ずその心が顕在化します。
 哲人の心は、顕在化して始めて発生するものではなく、顕在化前は、潜在化しているのであり、常
に必然的可能性として存在しているのです。潜在的か顕在的かというのは、現象であって、本質では
ありません。顕在・潜在の違いがあるとしても、本質を考えれば、哲人の心はあらゆる人に存在する
といえます。つまり、哲人の心は努力するあらゆる人に必然的可能性として潜在する。だから、仏教
では一切衆生悉有仏性というのです。

 哲人の心は、哲人そのものです。哲人の本質です。真の哲人は、自分を捨ててでも他人のこと、他
人の心を大事にします。他人に対する誠意、優しさを大事にします。それを哲人の心といいます。哲
人を目指し、あるいは賢人を目指して努力を重ねている段階では、まだまだ自分を捨て切れていない
ことがたくさんあります。克服できていない思いがあります。しかし、努力を重ねていけば、やがて
そこにも世界が開けてきます。将来は必ず開けてきます。だからこそ、努力する者にはかならず哲人
の心が存在する。そのように言います。


524:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/08/08 11:17:10.25 s1U95hg7
 哲人の心こそ、哲人の本質です。この哲人の心は、他人のこと、他人の心を大事にするために、と
きには自分を犠牲にします。努力家達はまだそれが不完全です。自分が可愛い。現実と乖離した自分
の主義主張が離れない。自分の主義主張が現実と乖離しているとなると、自暴自棄になる。人々は、
自分の本質的な問題の解決を疎かにするため、再起挫折再起挫折という負の連鎖が続いていく。真の
哲人は、そうした負の連鎖を断ち切ったところに存在します。そこに哲人の心が存在します。本質的
な問題を克服することは決して不可能ではない。一つのことに向かって努力を重ねていけば、必ず克
服できます。どんな人でも努力を重ねていけば必ず克服できるからこそ、哲人の心はあらゆる努力家
達に存在するというのです。

 哲人の心とは何か。自分を捨ててでも他人のこと、他人の心を大事にする心であり、その哲人の心
こそ、哲人の本質です。哲人の心は、共感的であり、感動的であり、肯定的であり、先見的であり、
明瞭であり、自信があり、確信があります。努力する者は、やがて必ずそのような思いを得るように
なる。共感的・感動的・肯定的・先見的・明瞭な自信・確信が得られるようになれば、やがて、他の
人々に、様々なもの、大事なものを与え、智慧も与えられるようになる。哲人と出会えた人は、その
出会いをきっかけに自らも努力に目覚め出す。
 努力を知らない人も、哲人と出会えば努力に目覚める。出会いはどこにでもあり、努力を知らない
人も、出会えば努力に目覚める。だからこそ、話を先回りして、努力を知らない人も潜在的には哲人
の心があるという。出会いはどこにでもあり、どこでも可能だからこそ、話を先回りし、究極的には
あらゆる人々が仏性を顕在化できる可能性を秘めているという。だからこそ、あらゆる人々に哲人の
心があるという。仏性はあらゆる人々に開かれている。存在する。

 一切衆生悉有仏性とは、難しい議論ではないと思うが、これでは分からんという人もいると思うので、蛇
足になっても、もう少し説明しよう。

(続く)

525:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/08/22 17:02:56.14 dtZ6rMJI
 かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、
一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。(信の巻)
  一念をひがごととおもうまじき事。多念をひがごととおもうまじき事。(一念多念文意)

 一念念仏と多念念仏とをしっかり練習してみなさい。やがて奢摩他・毘婆舎那ができるように
なる。奢摩他・毘婆舎那ができるようになれば、一念念仏と多念念仏を通じて奢摩他・毘婆舎那
を他人にも指導できるようになる。

 講道館に来て、立ち技、寝技、指導力が体得できれば、その後は、柔道を学びたいと思ってい
る人々の中に飛び込んでいき、世界中の人々に武道を教えられるようになる。立ち技だけできれ
ばいい。寝技はいらない。このように思ってはいけない。寝技だけできればいい。立ち技はいら
ない。このように思ってもいけない。立ち技も寝技も両方とも大事である。

 嘉納冶五郎先生は多くの柔道家を育成しました。多くの哲人、賢人がその周囲から育っていき
ました。
 哲人の心は、柔道の努力家達にはいつも影のように付随しています。柔道の努力家達は、やが
て必ず指導的な哲人の心を体得します。ですから、柔道のあらゆる努力家には哲人の心がことご
とく存在すると言うのです。

 哲人の心は、柔道が上達して顕在化し、そこで始めて発生するものではなく、顕在化前は、潜
在化しているのであり、常に必然的可能性として存在しているのです。潜在的か顕在的かという
のは、現象であって、本質ではありません。顕在・潜在の違いがあるとしても、本質を考えれば、
哲人の心はあらゆる人に存在するといえます。つまり、哲人の心は努力するあらゆる人に必然的
可能性として潜在する。だからこそ嘉納冶五郎先生はあらゆる人々に柔道を学んで欲しいと思っ
ていました。

526:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/08/22 17:03:45.30 dtZ6rMJI
 念仏道場に来て、多念念仏と一念念仏とを等しく練習し、奢摩他・毘婆舎那ができるようにな
れば、その後は、奢摩他・毘婆舎那ができるようになりたいと思っている人々の中に飛び込んで
いき、世界中の人々に奢摩他・毘婆舎那を教えられるようになる。親鸞聖人の思想の立地点は法
華経です。『法華経』の普門示現の類(証の巻)つまり、このようにすれば、世界中に観音菩薩
が涌出してくることでしょう(法華経従地涌出品)。

 親鸞聖人は多くの念仏者を育成しました。その中から、多くの哲人、賢人が育っていきました。
 哲人の心は、念仏の努力家達にいつも影のように付随しています。念仏の努力家達は、やがて
必ず指導的な哲人の心を体得します。ですから、念仏のあらゆる努力家に、哲人の心がことごと
く存在すると言うのです。 

 一切衆生悉有仏性とはそう言う意味です。

       続く

527:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/08/23 01:13:20.49 N0FcbrWC
 一切衆生悉有仏性についての議論は、以上をもって終わりとし、
これ以上の議論はしないことします。

 


528:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/08/29 20:21:38.19 YUPngzc9
 河野洋平を称賛すれば称賛するほど、日本の外交力は強くなる。

 日韓基本条約を骨抜きにしようとしている韓国の動きを鮮明にすれば鮮

明にするほど、日本の立場は強くなる。

河野談話は、韓国が日韓基本条約の原則を守って貰うための政治的文書

であり、政治的に一定の役割があった。

 河野談話は、歴史的使命を終えた。このように言えば、世界は納得するだろう。

 

529:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/08/29 20:23:24.61 YUPngzc9
>>528

 誤爆です。


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