○●Я親鸞仏教質問箱R(その7)●○ at PSY
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450:神も仏も名無しさん
11/12/13 22:58:42.52 fU8HGrNR
>>442>
440は文が切れておりまして「親鸞激流編」の終わりの方の話なんですが
「悪人でも念仏を称えなくても浄土に行ける。でもそれは死んだ後の事であり
生きてる時に念仏を称え阿弥陀様を信じればその瞬間から救われる」と
小説内の親鸞は言ってます。
その前の話に黒念仏と白念仏ってのが流行ってどちらも念仏を誤解してるって言われてます。
黒念仏はどんな悪い事しても浄土行けるのだから享楽の限り尽くそうぜ!
って集団。白念仏は善行を積んだ者だけが浄土に行けるって教え。
当時の「善行」ってのが散々庶民を苦しめてる武士や貴族がお金や荘園を寺に寄進する事なんですねぇ。
しかも荘園では奴隷として売り買いされる下人が働かされてるわけで。
そんなもん寄進するのが善行なのか?庶民は寄付する金もなく生きるためには泥棒売春殺人さえ行わなければならない。
では貧しい下層民は救われないのか?
と小説内の親鸞は疑問に思ったようですよ。

451:基地子♀
11/12/14 05:47:05.02 b3c0EY0f
本堂のお掃除終わりました!(^o^)/
渡海さんご機嫌如何ですか?(*^^*)

452:渡海 難 忍法帖【Lv=24,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
11/12/14 14:11:54.82 6Xue7feT
>>448
>そもそも仏教に善悪の概念なんてあるんですか? (^。^)y-~

 何事よりは、聖教の教えをも知らず、また、浄土宗の真の底をも知らずして、不可思議の放逸
無慚の者共のなかに、悪は思う様に振る舞うべしと、仰せられ候なるこそ、返す返す、あるべく
も候わず。
 どのようないきさつがあるあるにしても、浄土宗の教えの本質も分からず、道理を欠いた勝手
気ままな人の中で、どんな悪を冒してもいいと言う主張があるようです。とんでもない間違いで
す。そんなことがあるわけありません。

 この世の悪きを捨て、悪しきことをせざらんこそ、世を厭い、念仏申すことにては候に、年頃、
念仏をする人なんどの、人のために悪しきことをもし、また、言いもせんは、世を厭う徴もなし。
 悪いことは止め、悪いことはしないというのが、厭離穢土の意味です。念仏を称えると言って
も、念仏を称えるふりをしながら、故意に悪事を働き、あるいは悪いことを言うということでは、
厭離穢土の心など、微塵もありません。

 されば、善導の御教えには、「悪を好まん人をば、敬いて、遠ざかれ」とこそ、至誠心の中に
は、教え置かせおわしまして候らえ。
 だからこそ、善導大師の教えで、悪事をする人については、敬意を損なうことなく距離を保ち
なさいと、至誠心を説くなかで教えています。

 いつかは、我が心の悪きに任せて振る舞えとは候。
 ときには、心のままに悪いことをしてもいいということはある。

 大方は、経釈の文をも知らず、如来の御事をも知らぬ身にて、努々その沙汰あるべくも候らわ
ず。
しかし、ほとんどは、経釈文の意味を理解せず、如来の本質も分かってないということでしょ
う。何か道理があるということなどあるはずがありません。

453:渡海 難 忍法帖【Lv=24,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
11/12/14 14:12:52.63 6Xue7feT
 基地子♀は歎異抄の「他の善も要にあらず、・・・悪をもおそるべからず、」「善悪の二つ総じ
てもって存知せざるなり。」という言葉に騙されているんだろう。
 「外見あるべからず」「於無宿善機、無左右不可許之者」この言葉をしっかり読んでほしい。
 歎異抄は基地子♀が読む本ではない。読んではいけない。歎異抄は忘れなさい。

 貴方には仏教は向かない。仏教の勉強など止めちゃいなさい。善悪などはないなどという話は、
歎異抄以外からは教わってないはずだ。仏教を捨て、歎異抄を忘れ、歎異抄以外で教わった倫理、
道徳を思い出して欲しいものだ。

454:基地子♀
11/12/15 22:04:45.66 wmcqbwAA

たまにはお得な情報でも

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これ無料会員でもいけるからやって味噌

1500円なら収入申告しても引かれないと思うわ
でもその辺は自己責任でヨロ

455:基地子♀
11/12/16 06:35:26.07 yOA6Q7cb
お早うございます!\(^ρ^)/


             / / / / l | | lヽヽ
  ┏┓  ┏━┓    / / // ⌒  ⌒ヽ
┏┛┗┓┃ ━ ┃    | | |/  (●) (●)
┣  ━┫┃┏┓┃┏━(S|| |   ⌒ ・ィ  ヽ.━┓┏┳┳┓
┗┓┏┛┗┛┃┃┗━ | || |   ト-=-ァ ノ━┛┗╋┛┃
  ┗┛     ┗┛   .| || |   |-r 、/ /||      ┗━┛
       __     | || | \_`ニ'_/| ||_ 
       `ー⊂`  ̄ ̄ノノノノ⌒    ⌒ノ从   ̄ つ
            ̄`ー( (ヽ))        ノヽ))´ ̄
                  |  ☆ ☆ ノ
                  /     〈
                 ,;'       l
                 ',     ゚  ノ
                 \   Y  |
                  ノ  ノ  ノ
              三  (_)ノ

456:基地子♀
11/12/18 04:00:05.34 mP9+Zn9P
URLリンク(dic.nicovideo.jp)
2ちゃん脳

・あらゆる物事に対してまず否定から入る。
・肯定・賛美を認めない。
・否定に特化したダブルスタンダードな性格。
・不確実でも都合の良い周辺情報は信用する。
・10か0かの極端な思考。
・レッテル貼りの多用。
・非寛容で、許容の心がない。
・自分の行動に責任を持たず、他者に自己責任を押しつける。
・自分には自由と権利を、他人には義務と責任を求める。
・煽り荒らしの姿勢が常態化する。

457:基地子♀
11/12/18 09:50:16.55 VayxW1Uf
お早うございます!渡海さん♪

  _, ,_  パーン
(´・ω・`)
  ⊂彡☆))Д´;)・・・祖師再来意!?

458:基地子♀
11/12/22 06:27:35.95 ZXDkc/AU
お早うございます!\(^o^)/
渡海さん、見てますか?
       ,.-‐- 、,         ,..:::'"´i
      /::::::::::::::::`'::..、    /:::::::::::::|
      |::::::::::::::::::::::::::::\--/:::::::::::::::::::ヽ.
      |::::::::::::::> '"´ ̄ ̄`"''<:::::::::::::\
      |::::::::/           __\::::::::::::::>
    /::::::/   / ̄`    ´     `ヽ;::::/
   /:::::::::7   /    ,   ,   ,      ∨   なんなの?
    \:::::::|  |   /|   / ! /|-‐ハ     \
     \::!  ,'  |/ー!-イ__,レ' レァ'ハ|   ! r--`  バカなの?
    /::7 /   !r ‐ァ'7ハ'    り ノ| /|/\
    `ヽ/ ∠,_!  八 弋__,ノ       ∨∧ ̄     散るの?
     /   ノイ ヽ.`' ー  , -‐、  人' |
     !     ∧  ト 、.,_ (  _,ノイ ∧/__
   |\| ∧  /  \|_, イ\ ̄「\-|/ ´ |/
   | | \ \|/ア´`ヽ\__>rイヽ. \/
   ∨ヽ.__>、, /     \::::/ム:::::', __,〉-‐ ァ
    \ /   ヘ   、__ ノ::く__r-、〉:|´ \/
      >---‐>、r'´  \:::::::::::>'´ ̄ ̄__ソ
    <.,____,,.イ 〉\   \/  、,__ン´〉
      / / /:::::::::\  ´   .∧ /
     ∠,_>'/::::::/:::::::::::::`:.、,__/:|::::\ソ



459:基地子♀
11/12/23 07:28:13.67 7phd+r77
渡海さん、お早うございます♪

  |  ┃                       ________
     |  ┃      ヽヽ__            イ´    ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;; ヽ
     |  ┃    -┼┐ __        /ノ___     ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;   ヽ
     |  ┃     / |   /      /::/   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
     |  ┃    ./ J  / ツ  ::/:::::::/       :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::    \
     |  ┃ ―          /:::::::/          ::::::::::::::::::::::::::::      \
     |  ┃ ―         /:::::::::/        ::::::::::::::::::::/\:::::::::::::::       \
     |  ┃ ―        /:::::::/        ::::::::::::::::::::::(__人__)::::::::::::::::::      \
     |  ┃          /_::ノ            :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::         \
     |  ┃         [___________________________]
     |  ┃        ::|::::::::::::::::::::::::::: /  /  / /        ∧     :',  /  /  /   |
     |  ┃         |::::::::      /  /  / {        / ヽ     } /  /  /   |
     |  ┃         |::::::::             ヽ___/ __ \___ノ            |
     |  ┃         |:::::::::::              ヽ   ´    `  '             |
     |  ┃ ―      \:::::::::                                   /
     |  ┃ ―       \:::::::::::                "`              /

460:渡海 難 忍法帖【Lv=32,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
11/12/24 12:01:31.45 kG2PeCJS
 仏教というのは、常に対機説法である。機は器を意味する。相手のうつわ(器量)を見て法を説く。
 親鸞聖人・蓮如上人の仏法では、人を三種類に分ける。念仏を称えようという誘いに対し、誘
っても念仏を称えない人、これを邪定聚という。誘えば称えるけど、誘わないと称えない人、こ
れを不定聚という。誘わなくても自分からどんどん称えて行く人、これを正定聚という。正定聚
の人はさらに二つに分ける。念仏の実力者と念仏の初心者である。大般涅槃經要文には、次の重
要な記述がある。

 〜 世尊よ、經の中に説くがごとし。若し毘婆舎那がよく煩悩を破すなら、なにがゆえぞまた
奢摩他を修するや。 〜 毘婆舎那煩悩を破せば、獨りよく破すとやせん。伴にことさらに破す
とや。

 師子吼菩薩が釈尊先生に聞く。「経典の中では奢摩他と毘婆舎那の両方を修行しなさいと仰っ
ています。煩悩は毘婆舎那で破します。どうして奢摩他も修行しなさいと仰るのでしょうか」。
釈尊先生が答える。「毘婆舎那が煩悩を破すと言えば、それは毘婆舎那が単独で煩悩を破すと考
えるのでしょうか。それは間違いです。毘婆舎那は奢摩他と共に煩悩を破すのです。だから、奢
摩他も毘婆舎那と共に大事なのです。奢摩他と毘婆舎那の両方を修行しなさい」。

 親鸞の書き物で、奢摩他・毘婆舎那に触れているものは何か。それは教行信証である。教行信
証を読んでみる。

 彼の土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、
一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまうなり。
 極楽浄土に往生すれば、奢摩他・毘婆舎那ができるようになる。そうすれば、奢摩他・毘婆舎
那を教える指導力も付く。再起・挫折・再起・挫折を繰り返す民衆の中に入り、人々に奢摩他・
毘婆舎那を指導して仏道に向かわせることもできるようになる。

 菩薩は、奢摩他・毘婆舎那、広略修行成就して、柔軟心なり
 極楽浄土の菩薩は、奢摩他・毘婆舎那を様々に修行する。だからこそ心が柔軟である。

 入第三門とは、一心に専念し作願して、彼に生じて奢摩他寂静三昧の行を修するをもってのゆ



461:渡海 難 忍法帖【Lv=32,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
11/12/24 12:10:05.16 kG2PeCJS
えに、蓮華蔵世界に入ることを得しむ。これを入第三門と名づく。寂静止を修せんためのゆえに、
一心にかの国に生まれんと願ずる、これ第三の功徳相なりと。
 不定聚が念仏を誘われて念仏門に入る(第一門)、やがて面白くなってきて自分から進んで称
えるようになる(第二門)、初心者を卒業して実力者域(蓮華蔵世界)に入ろうする(第三門)。
実力者域に入るとはどういうことか。しっかりした念仏者になろうと決意し、極楽浄土に参加
してひたすら奢摩他を修行する。こうして実力者域に入る。心を静めて止つまり奢摩他を修行
し、蓮華蔵世界への転入を願う。これが第三段目にあたる念仏の効果である。

 入第四門とは、かの妙荘厳を専念し観察して、毘婆舎那を修せしむるをもってのゆえに、かの
所に到ることを得て、種種の法味の楽を受用せしむ。これを入第四門と名づく」(論)とのたまえり。
 蓮華蔵世界には、もう一つ奧に門がある。極楽浄土のあり方を観察し、毘婆舎那を修行してそ
の奧に進む。様々な有益なものを得る。第四門である。

 何を言っているのか。柔道で説明しよう。

 師子吼菩薩が釈尊先生に聞く。「柔道のテキストは立ち技と寝技との両方を練習しなさいといい
ます。立ち技で十分相手を倒せます。どうして寝技も練習しなさいと言うのでしょうか」。「立ち技で
十分に敵を倒せると言えば、それは立ち技単独で敵を破ると考えるのでしょうか。それは間違いで
す。両方で相手を破るのです。だから、立ち技も寝技も大事なのです。立ち技と寝技の両方を修行
しなさい」。 

 柔道場に行けば、寝技・立ち技ができるようになる。寝技・立ち技を教える指導力も付く。柔道がで
きない人に、寝技・立ち技を指導して柔道に向かわせることもできるようになる。

 柔道家は、寝技・立ち技を様々に修行する。だからこそ身心が鍛えられている。
 子供達が柔道に誘われて柔道場に入る(第一門)、やがて面白くなってきて自分から進んで通
うようになる(第二門)、初心者を卒業して実力者の域に入ろうする(第三門)。しっかりした柔道家
になろうと決意し、柔道場に参加し、ひたすら柔道を練習する。こうして実力者域に入る。心を静め
てまず寝技を修行し、実力者への転入を願う。これが第三段目にあたる柔道の効果である。

462:渡海 難 忍法帖【Lv=32,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
11/12/24 12:14:16.77 kG2PeCJS
 柔道界には、さらにもう一つ奧に門がある。敵の動きを観察し、立ち技を修行してその奧に進
む。様々な有益なものを得る。これが第四門である。
 
 教行信証は、柔道場に通ってなく、寝技も立ち技も知らない人に説いている。念仏道場を知ら
ず、奢摩他・毘婆舎那を修行したことのない人つまり、不定聚に向かって説かれている。

 教行信証とは、不定聚に向かって説かれている文書である。この点をしっかり認識する必要が
ある。
 これに対し、大般涅槃經要文は、寝技も立ち技も両方を練習している人、奢摩他・毘婆舎那を
修行できる人、つまり、念仏の実力者に向かって説かれている。

 親鸞聖人の教えは、奢摩他・毘婆舎那ができるようになって念仏者がベテラン域、つまり実力
者になると大きく転換する。普通の人は、そこで卒業する。仏道の専門家はそこから始まるのだ。
 つまり浄土真宗とは、念仏を誘えば称えるようになる人(不定聚)を誘い、念仏を通じて奢摩
他・毘婆舎那ができるようにし、できるようになればいったん卒業する(出第五門)。卒業生の
内、プロを目指す人はそこから聖道門に入るのだ。
 いきなり本格的な仏道つまり聖道門に入るのではなく、奢摩他・毘婆舎那だけ、先に集中して
できるようになり、専門家を目指す人はその後に専門課程に進むというプログラムを持っている。
これが浄土真宗である。

 空也上人も親鸞聖人も共に、観音菩薩の行を実践する。空也上人の仏教は、大衆がいきなり
観音菩薩の行を実践する。人々は、空也上人の行動を横目で見ながら、見よう見まねでそれを
学ぶ。親鸞聖人はそうではない。いったん立ち技・寝技を練習してそれができるようなって、その
後で思いっきり社会で活躍してほしい。まず奢摩他・毘婆舎那ができるようになろう。奢摩他・毘
婆舎那ができないなら僧ではない。奢摩他・毘婆舎那ができるるようになったら、心ある者はそれ
から僧になって観音菩薩の行を思いっきり実践せよ。親鸞聖人と空也上人との考えの違いである。

 それでは、奢摩他・毘婆舎那うまくができない内はどうするのか。親鸞聖人の考えを聞いてみ
よう。

463: ◆K3PkkhVAkA
12/01/15 22:12:00.29 cWN/VEhn
(^ε^) こんばんは。
1号顔文字です。

464: ◆K3PkkhVAkA
12/01/15 22:13:23.86 cWN/VEhn
(^ε^;) 今年、初めての書き込みだね。

465: ◆K3PkkhVAkA
12/01/15 22:14:35.23 cWN/VEhn
(^ε^) 今年も頑張っていきましょう

466:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/01/16 21:27:56.70 IHBv/hmM
 インターネット念仏会

 ヤフーメッセンジャーを介して遠方の人をつなぎ、一緒に同時に念仏を称える
念仏共修会を開いています。

 月・木の午後1時30分から2時

 参加者の都合で、時間変更はかなり自由です。

 念仏を10分間称え、その後、20分間チャットをします。チャットは20分で終わ
らない時、時間延長もあります。

 参加可能人数には限界もありますが、しばらく参加者を募りたいと
思います。興味のある方はご連絡ください。

URLリンク(form1.fc2.com)
 

467: ◆K3PkkhVAkA
12/01/19 21:28:21.97 Ynp2APh4
(^-^) ヨロナーをしようかな

468:基地子♀だよ〜ん♪
12/01/19 21:40:12.32 2lC4N1mV
渡海ちゃん、お久しぶりで〜す!
ヒャッハー♪ (^д^)y-~

469:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/01/22 00:48:13.68 UqECSbqG
 親鸞聖人の教えは、不定聚つまり念仏を誘えば称えるという人に念仏に誘い、念仏を練習させて奢
摩他・毘婆舎那が実践できるようにすることだ。
 しかし、奢摩他・毘婆舎那だけを練習していればいいということではない。仏教は三学の学習を基
礎にする。親鸞聖人もその原則を守っている。

 もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・礼・
智・信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切善法みな断じ、出世間の一切賢聖みな滅しなん。
 (教行信証 信の巻)
 それ出世の法において五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもりて、
内心には他力の不思議をたもつべきよし師資相承したてまつるところなり。(改邪鈔)

 仏教は、世間・出世間の善道を説く。仁・義・礼・智・信を教える。これが重要なことだ。浄土真
宗というのは、基本的には仁・義・礼・智・信を教えることが非常に重要なことと考えている。仁・
義・礼・智・信は、論語・孟子・大学・中庸の中心的重要な思想だ。親鸞は、少なくとも四書を非常
に重視したと考えるべきだろう。弟子達に、念仏と併せて、儒教の教えを叩き込んだと考える。
 特に「出世の法において五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもり
て」と言っているから、五戒と五常の両方を守れと言うのではなく、出世の法(仏道)では五戒と言
っているが、これは 世法(社会道徳)の五常つまり仁・義・礼・智・信と読み替えて学習せよ、お
そらくそういう意味だろうと考える。

 仏教の戒律は極めて複雑である。僧の守るべき教えと、在家が守るべき教えが混同している。誰が
どこまで、何を守るべきかがわかりにくい。その点、特に論語は非常にわかりやすく簡潔である。解
釈が分かれる文章もあるが、その場合には、普通いずれの説も一理ある。著名な解釈であれば、どれ
を採用してもいいだろう。念仏に誘えば称えるような人々には、念仏とと共に、親鸞は儒教を教えて
いた。

470:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/01/22 00:48:56.50 UqECSbqG
 昨日まで木曽の山中で追いはぎ、山賊をしていたような連中が、今日はまぶしいばかりの都大路を、
甲冑に身を固め、刃物を持って警官面して練り歩く時代だ。親鸞は彼等に、念仏による禅定と、儒教
の基礎道徳を教えたいと思い、関東では、新興の武士達に、太子堂でそのような教育を行った。これ
が浄土真宗である。

 論語・孟子を読ませて文字を教え、念仏を称えさせて禅定を経験させ、奢摩他・毘婆舎那を体得さ
せる。禅定の後はフリートーキングをさせ、他人の問題に関心を持たせ、自分の中の気づきに敏感な
人材を育てる。親鸞はそのようにして、将来に向かって生きた観音菩薩を育てることに全力を傾けた
のだ。

 親鸞にとって、出家は急ぐ問題ではなかった。奢摩他・毘婆舎那ができるようになってから、出家
を勧めた。しかし、親鸞の下には、既に出家した人も集まってきたようだ。国分寺・国分尼寺は既に
荒廃していたから、恐らく自分で勝手に髪を剃り、一人で勝手に出家宣言した人々だろう。空也上人
の流儀では、こういう人も出家として扱っていたに違いない。親鸞はそういう存在も否定していない。
 これについて考えてみよう。

471:基地子♀だよ〜ん♪
12/01/23 02:33:18.28 fFJo74Ul
親鸞上人は基地子♀を否定
されるでしょうか?σ(^_^;)?

472:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/02/05 13:38:29.38 6PFGJfAS
 ホームページ 親鸞仏教 更新しました。
 外道について論じました。

 増筆分は、HTMLで表示することにしました。

  URLリンク(www.xn--68j6e3ab.jp)<)しんらん.jp

 

473: ◆K3PkkhVAkA
12/02/19 20:20:50.97 Tphtr5tn
(^-^) シナミーをしようかな

474: ◆K3PkkhVAkA
12/02/23 21:36:33.26 2BgF/BNu
(^-^) 夜な夜な

475:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/02/25 18:06:01.56 QIveT9Qg
 浄土真宗親鸞聖人の重要な教えを紹介します。とても大事な教えです。親鸞聖人の教えを20
年も30年も聞いてきたという人でも、親鸞聖人のこの教えを聞いたことがあるというひとはほ
とんどいないでしょう。
 これは、親鸞聖人肉筆の文書(大般涅槃經要文 真宗聖ヘ全書五)として高田専修寺に遺って
います。この文書から、浄土真宗の僧を考えてみます。
 「どうか勇気をもって、聖道門を歩んで欲しい」。親鸞はそう主張しています。


 善男子よ。佛の十力の中で業力が最も深し。善男子よ、諸の衆生ありて、業縁の中において心
輕く信ぜざらん。彼を慶ばせんがための故にかくのごときの説をなすなり。
 みなさん。仏は超人的な働きとして十の能力を持っている。その中で業力が最も重要である。
仏は悪業を行った者には悪果をもたらし、善業を行った者には善果をもたらす。なぜこのような
ことを説いているのか。難しい理由はない。世の中には色々な人がいる。様々な行い、あるいは
きっかけの中で、大事なことが決して安易に考えられないようにするためである。人々に喜んで
貰えるようにこのように説いているのである。

 善男子よ、一切の作業に輕あり、重あり。輕重の二業にはまたそれぞれ二あり。一には決定、
二に不定なり。
 みなさん。人々の様々な行為はそれぞれ結果を生じます。結果は、軽微な結果と重大な結果と
があります。軽微な結果を生む行為と、重大な結果を生む行為、これらそれぞれにも二つの態様
があります。必ずそのような結果を生む場合もあります。一方、起きてみなければ予測がつかな
いという場合もあります。

 善男子よ、あるいは人ありて言はく。惡業は果なし。もし、惡業に定んで果ありと言わば、氣
嘘栴陀羅にして天に生ずること得はいかん。鴦崛摩羅は解脱の果を得。この義をもっての故にま
さに知るべし。作業は、定に果を得、不定に果を得ることあり。


476:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/02/25 18:07:18.30 QIveT9Qg
 みなさん。悪いことをしてしまえば、よい結果を生むことはないと言う人がいます。失敗をし
てものちに良い結果を生むことはあります。例えば、氣嘘栴陀羅や鴦崛摩羅の例があります。不
幸だった氣嘘栴陀羅はやがて天に生まれ、悪いことをしていた鴦崛摩羅は覚りを開きました。こ
うした例から分かるように、世の中には予測できる結果を生むということもあれば、予測できな
い結果を生むこともあります。

 我、かくの如きの邪見を除斷するがための故に、經の中にかくの如きの語を説けり。一切の作
業は果を得ざることなし。
 人々の間違った考えを正すため、私は経典で次のように言っています。どのような行為でも、
必ず結果を生む。

 善男子よ、あるいは重き業あり。輕くなすことを得べし。あるいは輕業あり。重くなすことを
得べし。一切の人にただ愚智があるに、この故にまさに知るべし。一切の業はことごとく定んで
果を得るに非ず。定んで得ずといえどもまた得ざるにあらず。
 みなさん。重大な行為を行ったのに、軽微な結果だけが生じることがあります。簡単な行為だ
ったのに、重大な結果を生じることもあります。どんな人にも間違いがあります。だからこそ、
あらゆる行為について、結果が決まっているということはありません。結果は決まってないとは
言っても、結果が生じないということではありません。

 善男子よ。一切の衆生におよそ二種あり。一は智人、二は愚癡なり。有智の人は、智慧の力を
もって、よく地獄の極重の業をして現世に輕く受けしむ。愚癡の人は、現世の輕業をして地獄に
ありて重く受く。
 みなさん。人は大きく二つに分かれます。思慮深い人と浅はかな人です。思慮深い人はよく考
えますから、非常に重大な行為をしても、その結果は継続・連続する生活の中で、自分に軽微な
結果を生みます。浅はかな人は、小さな行為であっても地獄のような重大な結果を生みます。

 師子吼言わく。世尊よ、もしかくの如きならば、すなわち、清淨梵行及解脱の果はまさに求ま
らずと。
 獅子吼菩薩が釈尊先生に質問します。先生、もし先生の仰るようなことであれば、正しい仏教の
修行、あるいは覚りなどはほとんど得ることができないのではないでしょうか。

477:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/02/25 18:09:40.93 QIveT9Qg
 佛言はく。善男子よ、一切の業が定んで果を得るならば、すなわち、梵行解脱はまさにもとま
らずと。
 釈尊先生が応えました。いい質問です。しかし、どんな行為でも予定された結果が必ず得られ
るというなら、仏道を修行しても覚りを得られるということはないでしょう。仏道を修行して覚
りを得られるということは、結果が必ずしも決まってないということを意味します。

 不定をもっての故に則ち梵行及び解脱の果を修せよ。善男子よ、もし能く一切の惡業を遠離せ
ば、すなわち善果を得む。もし善業を遠ざからば、すなわち惡果を得む。
 結果は決まっていない。だからこそ、仏道を修行して覚りを得てほしい。みなさん。もし、悪
いことは何もしなければ、かならずきっといい結果を生むでしょう。もし正しい行為をしなけれ
ば、必ず悪い結果を生むでしょう。

 もし一切の業で定んで果を得んとすれば、すなわち聖道を求めて修習すべからず。もし道を修
せずば、すなわち解脱なし。
 だからといって、もし、良いことをすれば必ず良い結果が得られるようにしようと思うなら、
聖道門を求めて修行する資格がありません。もし、仏道を修行しなければ、覚りを得ることはな
いでしょう。

 一切の聖人が道を修するゆえんは、定業を壊して輕報を得るがゆえなり。不定の業は果報が無
きゆえなり。もし一切の業で定んで果を得んとすれば、すなわち聖道を求めて修習すべからず。
 世の中には様々な聖者がいます。厳しい修行の道を歩んで覚りを得ています。彼等はなぜ厳し
い修行の道を歩むのでしょうか。あらゆる聖者に当てはまります。確定的な結果を粉砕し、過去
にたとえ重大な悪いことをしていても、過去に行った重大な悪い行為の結果は、軽微な報いで済
ませられるからです。重大な結果を生むか、軽微な結果で済むか、結果が流動的な行為には重大
な悪い結果が生じないようにするためなのです。もし、良いことをすれば必ず良い結果が生じま
すようにと期待するなら、聖道門を修行する資格はありません。

 もし、聖道を修習することを遠離して解脱を得れば、この處(こと)はりあることなけん。解
脱を得、涅槃を得ずば、またこの處(こと)はりあること無けん。

478:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/02/25 18:30:41.72 QIveT9Qg
 聖道門を修行しないで偏りのない認識が得られれば、釈迦の教えは間違っていたことになりま
す。偏りのない正しい認識を得たのに、人々とそれを正しく共有化できなかったら、その場合も
釈迦の教えは間違っていたことになる。

 善男子よ、もし、一切の業で定んで果をえれば、一世の所作、純善の業は、まさにながくすで
に常に安樂を受くべし。一世所作、慇重の惡業は、またながくすでに大苦悩の業果を受けるべし。
若し爾らばすなわち修道し解脱する涅槃の人はなからん。
 みなさん。もし良いことをすれば必ず良い結果が生じ、悪いことをすれば必ず悪い結果が生じ
るというなら、どんな場合も、良いことをした人はまさにいつまでも常に幸せであるでしょう。
重大な悪いことをした人は、いつまでもいつまでも大きな苦しみを受けるでしょう。世の中に重
大な悪いことをした人はいませんから、修行して覚りを得られるという人は一人もいなくなるこ
とになります。

 現実には修行して覚りを得ているひとはいますから、結果が予測的に決まっているということ
はありません。どうか勇気をもって、聖道門を歩んで欲しい。


479:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/03/29 19:05:01.93 dMsEE+z+
 日本語が分かる外国在住の方を相手に、インターネットYHOOメッセンジャを
使用して教行信論を始めました。

 六回目位になると思います。最初の方は録音していません。

 録音内容をインターネットに貯蔵しています。ダウンロード可能です。編集はしていません。
約1時間、88.7MB mp3ファイルです。
URLリンク(xfs.jp)

ダウンロード可能期間は、今日から3日間です。無料会員ですので、その後は削除されます。

 なお、レジメを希望する方はメールをください。レジメをお送りします。txt文書で簡単な内容です
が、録音だけでは分からず、漢字を見て始めて分かる言葉の理解には必須です。

480:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/04/11 13:44:38.98 UE4sVP0w
 話がまとまらないおそれが出てきました。>> 475-478は無視し、別の問題として切り離します。
議論を>>470に戻して考えていきたい。

 親鸞聖人にとって出家というのは、奢摩他・毘婆舎那ができるようになってからの問題だった
と思って間違いない。親鸞聖人の文書の中で、出家を扱っているのは、大般涅槃經要文だけであ
って、大般涅槃經要文は奢摩他・毘婆舎那ができるようになった人に向かって話をしている。大
般涅槃經要文があるということは、親鸞聖人の周囲には、奢摩他・毘婆舎那ができるようになっ
た人がたくさんいたということだろ。その一方、教行信証を含め、大般涅槃經要文以外で人々に
出家を勧めている文書はない。それにもかかわらず、現実には、親鸞聖人の周囲で、奢摩他・毘
婆舎那ができないと思われる人も僧として存在している。
 
 何事よりは、聖教の教えをも知らず、また、浄土宗の真の底をも知らずして、不可思議の放逸
無慚の者共の中に、悪は思う様に振る舞うべしと、仰せられ候なるこそ、返す返す、あるべくも
そうらわず。北の郡にありし、善証坊といいし者に、ついに、合い睦るることなくて止みにしを
ば見ざりけるにや。(消息集)
 どんな事情があるにしても、聖教の教えを知らず、浄土宗の真意も理解できない手が付けられ
ないような人々に対し、勝手気ままに悪事を働いてもいいんだと言うようなことは、けっしてあ
るはずもありません。北の郡に住んでいた善証坊という人物とは、ついに親しく語り合うことが
なかったということは、ご存じありませんでしたか。

 「悪人正機は間違っているぞ」と親鸞聖人が言っている重要な文書の一節です。善証坊という
のは、ならず者のようです。念仏者を名乗り、鹿島・行方地方で悶着を起こし、それが鎌倉幕府
に伝わって一悶着があったようです。この部分を読むと、「凡夫ですから、悪いことをやっても
いいんです。罪悪深重の者が良いことをするのは自力です」などと、ノータリンを触れ回ってい
る坊さんの顔が僕には浮かんでくる。

481:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/04/11 13:45:08.46 UE4sVP0w
 京都に戻った親鸞の下には、関東での様々な問題の報告が伝わり、親鸞はそれに返事を書いて
いる。鹿島・行方地方で問題を起こした善証坊は、親鸞もよく知っていた人物だったようだ。し
かし、親鸞は善証坊と口も利かなかった。親鸞が口も利かないという相手がいたようだ。善証坊
に親鸞は口も利かなかったが、他の同朋・同行達は特に警戒することもなく、とりわけ分け隔て
することもなかった。

 親鸞はその人物を善証坊と呼んでいる。つまり親鸞教団の中で僧として扱われていたようだ。
この人物はどのようにして坊さんになったのか。親鸞聖人の下で受戒したとは思えない。当時は
已に国分寺・国分尼寺制度は崩壊していたはずだから、恐らく自分一人で剃髪し、僧宣言をした
人物だろうと思う。
 仏教には、もともと、師匠の立ち会い無く僧になる方法がある。その場合には、非常に厳しい
条件、作法が定まっている。彼等は私度僧と呼ぶ。しかし、関東の僧達は、おそらくそのような
作法とは関係なく、僧宣言をしていたと思う。空也上人でさえ、正式な受戒は僧宣言してから2
0年以上過ぎてからである。当時の親鸞教団には、自分で勝手に頭を剃り、僧宣言していた人物
もかなりいたのではないかとそのように思う。
 
 奢摩他・毘婆舎那ができない坊さんというのは、現実には親鸞聖人の時代から親鸞聖人の回り
にたくさんいたようだ。関東の親鸞教団では、そう言う人々も僧として処遇していたようだ。そ
ういう僧達はどのような位置あったのか。基本的には空也衆、空也宗であると考えるべきだろう。

 空也衆には出家に当たって特別な決まりはない。自分で僧を宣言し、周囲がそれを認めれば誰
でも直ちに僧になる。空也は、死体処理、井戸掘り、児童擁護活動をしながら、托鉢などで社会
的な支援を受けていた。勝手に僧宣言した善証坊等も、そうした社会活動をするのが本来の使命
だったろうと思う。果たして善証坊がそのようなことをしていたかどうかはわからない。善証坊
は、実際には泥棒や山賊を生業にしていたかもしれない。しかし、本来は社会活動こそ、そうし
た僧の業務であり、関東時代の親鸞も、勧進僧として普段はそのような業務を行っていたことだ
ろうと僕は想像する。

482:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/04/11 13:45:55.56 UE4sVP0w
 親鸞聖人の教えは、パン屋さんが聞いてもいい。ラーメン屋さんが学んでもいいように、お坊
さんが教わっても全く構わない。それは、空也衆という社会活動を行うことを柱とする坊さんで
あっても構わない。そういう坊さんは、パン屋さんやラーメン屋さんと分け隔て無く仏教を教わ
り、念仏を称え、特別な待遇を得ることはなかったろう。

 親鸞はそういう坊さんにも奢摩他・毘婆舎那を教えた。奢摩他・毘婆舎那ができるようになる
と、彼らも浄土真宗を卒業する。浄土真宗の卒業生は、親鸞から厳しい聖道門の道を歩むことを
勧められる。しかし、それを選択するか否かは、一人一人の自由であったことも当然だろう。

 僧とは何かという議論は、まとまりがありませんでしたが、ここで終わります。

483:神も仏も名無しさん
12/04/23 19:31:52.31 X69qXC7w
仏教の「無」と「空」の概念を分かり易く説明願います。又、サルトルの「存在と無」のこの無の概念と仏教の「無」の関係
について説明願います。

484:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/04/24 13:45:56.17 JNGBQpTA
>>483
 サルトルはパスさせてください。40年くらい前、本を買って読み始めたことはありましたが、
数ページ眺めて放り出した記憶があります。説明する能力も資格もありません。

 空と無とはほとんど同じ意味で使われているように思います。空と無我とは違うようです。空
と無我について考えてみたいと思います。

 一切空無我なりと通達すれども、専ら浄仏土を求めて、必ずかくのごときの刹を成ぜん。(大
経)

 一切、諸の世間に生る者は皆、死に歸すなり。壽命は無量なりといえどもかならず盡きること
あるべし。それ盛りなるものは必ず衰うることあり。 〜 衆苦輪に際なし。諸の楽しみ有るこ
と無し。本性の相に近づくことあれば一切みな空无なり。(大般涅槃経要門)

 たとえば涅槃は非有・非無にしてまたこれ有なるがごとし。殺もまたかくのごとし。非有・非
無にしてまたこれ有なりといえども、慙愧の人はすなわちすなわち非有とす。無慙愧の人はすな
わち非無とす(信の巻)。

「仏法には無我」と、仰せられ候う。「われ、と思うことは、いささかあるまじきことなり。


485:神も仏も名無しさん
12/04/25 13:34:43.32 bIWFBcDS
「空」と「無」とは、ほとんど同じ意味で使われていると言う見識は大変、為になりました。
実存的な主観的認識(他の誰でもなく、私はなぜ私なのか)と、「草木国土悉皆成仏」
との関わりについて分かり易く説明願います。

486:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/04/25 15:49:22.83 KgmGjhXd
>>485
 暫く多忙です。少し待ってください。仏教というのは、思考の原理

が分かることが重要と思います。

 原理から考えれば、なーんだ、そんなことだったのかということに

なります。釈迦の悟りに戻って考えてみましょう。

 

487:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/04/29 12:40:29.93 vGMOqRU2
 仏教の問題で何か分からなくなったら、必ず釈尊に帰る。釈尊の悟りとは何だったかを考える
ことが、一番重要であり、大原則だと思っています。
 また、原始仏教というのは重要なかぎになってきます。特に浄土真宗の教えで分からなくなる
と、例えば中村元博士の原始仏教の研究などは非常に参考になります。

 次に無色界の第一処である空無辺処について見るに、無辺なる虚空を思い浮かべて念ずる精神
統一(空無辺処定)という語は、原始仏典の詩句の中に現れていない。しかし、そういう思想は
説かれている。
『つねによく気をつけ、自己に固執する見解をうち破って世界を空なりと観ぜよ。そうすれば、
死をわたることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死王は見ることがない。』
 ありとあらゆるものを空とであると観ずるためには、それらは譬えば虚空のごとくであると観
ずべきである、ということを大乗仏典においては繰り返し教えている。
 だから四無色定といわれる一つ一つの禅定の説明、およびそれを貶しおとしめる説明を並べて
みると、われわれはそこに、最初期の仏教における思想的発達を見出すことができる。そしてそ
の或る部分は外道の仙人の口にかこつけて説かれているのである。
          (ゴーダマ・ブッダ 中村元選集 春秋社刊114〜115ページ)

 釈尊は、成道前、アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタという二人の仙人に学び、
その教えに飽き足らなくて独立し、独自に悟りを開いた。これが仏所行讃などの仏伝が教えると
ころです。
 最初期の経典では、空無辺処定という、後世に作られたテクニカルタームの使用例はなくても、
事実上、空無辺処定に関する思想が説かれている。ところが、四無色定といわれる禅定の説明が、
仙人の口にかこつけて説かれ、貶しおとしめられているという。

488:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/04/29 12:41:03.72 vGMOqRU2
 釈尊の教えは、釈尊一代で突然生まれたものではない。アーラーラ・カーラーマ、あるいはウ
ッダカ・ラーマプッタなどの説を継承しつつ、それを批判する形で独自の思想を生み出してきた。
空の思想の原点はウッダカ・ラーマプッタの非想・非非想の思想でしょう。そうであれば、空の
内容を考えるなら、仏教教団、特に釈尊が継承し、批判したウッダカ・ラーマプッタの非想・非
非想の思想を一典型として掘り起こし、そこから思索を拡大していくのがいちばん分かりやすい
と思います。
 ウッダカ・ラーマプッタの非想・非非想の思想は何だったか。それは意外と簡単であり、我々
の身近にいくらでも見られるありふれた思想だった。思想中村元さんの引用文の中から見えてく
る(続く)。

489:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/05/05 23:16:09.06 Fg/ErUkM
 四無色定は、空無辺処定と識無辺処と非想非非想処と無所有処とを包含する。無所有処と無辺
処とは少し違いそうだが、空無辺処・識無辺処・非想非非想処は、互いに重箱の隅ほどの違いも
ないだろう。こういう分類は、当然、釈迦の時代よりは相当後の時代の分類だ。重箱の隅の議論
より、空の実体を批判した釈迦の敏感な感覚を理解することが大事だろうと思う。

 非想非非想処とはどんな思想か。中村元は『スッタニパータ』を引用している。『ありのまま
に想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想い無き者でもなく、想いを消滅した者でもない』。
 中村元は、この言葉に、「非想非非想ということがはっきりと示されている」と評価している。
しかし、否定形の言葉を綴られれば、僕には真意が伝わってこない。物事は肯定系で説明してほ
しいものだ。

 中村元はもう一つの言葉を紹介してくれている。この中身は詭弁であると言っているが、僕に
はこちらの方が意味が伝わってくる。中村元は『中阿含経』第二十八巻「優陀羅経」を引用する。

 『チュンダよ。実にウッダカ・ラーマ・プッタはこのようなことばを語った、―「見つつ、見
ず」と。何を見つつ、見ないのであるか?。よく磨かれた剃刀の面(平)を見るけれども、その
刃を見ないのである。これが「見つつ、見ず」と言われるものである。ウッダカ・ラーマ・プッ
タの語ったこのことは、劣って卑しく、凡夫のことであって、聖に非ず、意義のないことで、剃
刀のことのみを暗に含めて考えてそういうのである。しかし「見つつ、見ず」ということを正し
く語る人が語るならば、「見つつ、見ず」ということを正しく語るべきである。では、何を見つ
つ、見ないのであるか?。「かくのごとく一切の相が具わり、一切の相を円満し、減なく増なく
善く説かれ純粋円満なる清浄行が明らかにされた。」と、実にかくのごとく見るのである。「こ
こでこれが除かるべきである。それはかくのごとく更に清浄となるべきである。」と、かくのご
とくそれを見ないのである。「ここでこれが加えられるべきである。それはかくのごとく円満と
なるべきである。」と、かくのごとくにそれを見ないのである。これが「見つつ、見ず」と言わ
れるのである。』

490:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/05/05 23:16:55.22 Fg/ErUkM
 ウッダカ・ラーマ・プッタは、「見つつ、見ず」という言葉を振り廻して人々を驚かした。し
かし、誰もその意味を了解することができなかった。その意味を尋ねると、「このことばの意味
は深遠であって、腹工合の善い時でないと答えられない。暫らくして答えよう。」といって、四
ケ月間、人の尊敬供養を受けていたという。その後に「〈見つつ見ず〉というのは〈剃刀の平は
見るべからず〉という意味である」と説明した、ということになっている。

ウッダカ・ラーマ・プッタは、一方では非常に尊敬される一方、激しく非難する人もいたとい
う。ウッダカ・ラーマ・プッタの考えは、どこにでも転がっている極めてありふれた思想だと言
うべきだろう。

491:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/05/08 11:32:20.88 77oxIMl4
 ウッダカ・ラーマ・プッタ先生は、「見つつ、見ず」と言ったという。これは中村元先生の誤訳で
はないかと思う。我々の分かりやすい言葉を使えば、「見てみないふりをする」ということだろう。
この言葉の方が適切だ。見てみない振りをすることが大事なんだといば、こういう思想は現代、どこ
にでも転がっている。

「剃刀の平は見るべからず」。剃刀の平はうっかり触ると怪我をする。危ないことは見ないのがい
ちばんいい。そうすれば苦しいことは何もなくなる。
 人はなぜ苦しむのか。「危ないこと、苦しいこと、そういうことをしなければいけない、負担しな
ければならない」、そう思うから苦しくなるのだ。そんなことを考えなければ(非想)苦しみから解
放されるではないか。確かに、何も知らなければ困ることもある。そこで、何も考え無いということ
でもない(非非想)。苦しくない程度で物事を認識し(非非想)、苦しくなったり、負担に感じるよ
うになる手前で考えたり見たりすることを停止すればいいのだ(非想)。

 物事を考えて行って、もっと先がある、もっと本質的なものがある。そう思うと苦しくなる。考え
るから苦しくなるのだ。「関係ない。どうでもいい。どうということもない。幻だ。放っておけば時
が解決する。そう思えば楽になる。苦しさも、楽しさも、全て自分の心の反映に過ぎない(識)」。
ウッダカ・ラーマ・プッタは、そのように言っているのだろう。

 ウッダカ・ラーマ・プッタは、財産もあり、多くの人から尊敬され、何不自由ない生活をしていた
という。そういう立場であれば、他人が困っていても、苦しんでいても、そんなことは本質的に関係
ない。どうでもいいことだ(空)。そう思っていても別に悪いことはないだろう。仏教はこういう立
場を、外道にとっての理想の境地、最高の境地、つまり有頂天という。

492:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/05/08 11:34:24.64 77oxIMl4
 関係ない。つまり無である。心配ない。つまり無である。空である。ウッダカ・ラーマ・プッタ
先生が主張した空とは、まさにそういうことだろう。ウッダカ・ラーマ・プッタ先生がそうは言っ
ても、やはり物事は不安になる。心配になる。そんな時は瞑想をすればいい。「実体はない」「関係
ない」「心配ない」のだから、自分の心だけ落ち着かせ「ああ、関係なかった」「心配なかった」と
そう思って不安を沈めればいいのだ。そうすれば不安はなくなる。ウッダカ・ラーマ・プッタ先生は
そう言って瞑想を勧めた。瞑想によって、「実体はない」「関係ない」「心配ない」という心の安定(無
識)を得る。空を悟る。

 しかし、「関係ない」「心配ない」と、あからさまに言えば、怒り出す相手もある。だから、思想
の核心部分を語る時は慎重を要する。「このことばの意味は深遠であって、腹工合の善い時でないと
答えられない。暫らくして答えよう」といって、四ケ月間程度様子を見ることも必要になる。必要の
無い限りは妄りに話さない。

 「空である」「無である」と言わないで、現代であれば、別の表現で言う場合もあるだろう。「(阿
弥陀様が助けてくださるから)心配ない」「(そんなことをしたら自力になる。自力ではいけない。
自分は自力ではない。他力でいこう。だから、)放っておいていいんだ(時が解決してくれるだろう)」
「(余計なことをすれば偽善になる。偽善が一番いけない。偽善はやめよう)だから放っておけばい
いんだ(それで自分は何も困らない)」「生かされているんだから、心配いりませんよ(だれも困ら
ないでしょう)」。「悪人でいいんです。悪人正機ですからね」こういう概念は、ウッダカ・ラーマ・
プッタ先生の思想といささかの違いもない。

493:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/05/08 11:35:39.92 77oxIMl4
 南京大虐殺事件は朝日新聞が作った。慰安婦問題は旧社会党と朝日新聞が作った。シルクロードの
旅行記を通じ、NHKはタクラマカン砂漠、ウィグル地区での中国による原爆実験の惨禍を隠蔽した。
未だ一人の犠牲者もけが人も出てない福島の発電所の事故は大騒ぎするが、数百万人もが既に死傷し、
現在進行形のウィグル地区での原爆実験に、NHKは完全に沈黙している。ウィグル地区はなんら問
題ないという、中国が国連に出した証拠フィルムは、外国報道機関という立場で、NHKが作ったと
いう。
 朝日新聞も、NHKも、自らは完全に安全な立場に立って、「関係ない。どうということもない。
心配ない」というスタンスを取る。有頂天にあったウッダカ・ラーマ・プッタ先生の空を実践してい
るというべきだろう。外道の空は、今、現在、いたるところに転がっている。

 釈尊は、こうした空はだめだと考えた。しかし、一部は承継している。釈尊の批判と継承を考えよ
う。

494:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/05/11 14:25:41.58 xdnaxM/D
 釈迦による批判に入る前に、ウッダカ・ラーマ・プッタによる外道の空についてもう少し説明
したい。外道の空とはどういうものか、中村元博士の「ゴータマ・ブッタ」の引用で読んでみる。

 (ウッダカ・ラーマ・プッタは)なにを見つつ、見ないのであるか?「かくのごとく一切の相
が具わり、一切の相を円満し、減なく増なく善く説かれ純粋円満なる清浄行が明らかにされた」
と、実にかくのごとく見るのである。

 何を見て、何については見ない振りをするのか。「阿弥陀様の五劫思惟の願は一切の相が成就
し、一切の相を円満し、欠くこともなく余すこともなく説かれ、純粋円満なる清浄の行が他力に
おいて明らかにされた。」と実にかくの如く見るのである。

 「ここでこれが除かれるべきである。それはかくのごとく更に清浄となるべきである。」とか
くのごとくそれを見ない振りをするのである。

 「悪行は除かれるべきである。人々は清浄となるべきである。善行を行うべきである。」とか
くの如くはそれを見ない振りをするのである。

 「諸惡を作すことなし。諸善を奉行すべし。自からその意を淨くする。これ諸佛のヘなりと(大
般涅槃經要文 親鸞真筆 専修寺蔵)。」このような親鸞聖人の教えからは目を背け、考えない
振りをするのである。

 「ここでこれが加えられるべきである。それはかくのごとく円満となるべきである。」とかく
のごとくそれを見ないのである。

 義を見て為さざるは、勇なき也(論語 為政編)。
 諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・礼・
智・信あることを知らんや(信の巻)。
 世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもりて、内心には他力の不思議をたも
つべきよし師資相承したてまつるところなり(改邪抄)。
 仁義礼智信を守りて王法をもって先とし、内心には深く本願他力の信心を本とすべき(お文)。

 親鸞聖人のようには考え無いのである。なぜなら、次のように自説を立てるからである。

495:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/05/11 14:27:32.96 xdnaxM/D
 聖道の慈悲というは、ものを哀れみ、悲しみ、育むなり。しかれども、思うがごとく助け遂ぐ
ること、極めて有り難し。
 本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべ
からず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに(歎異抄)

 凡夫が下手に善いことをすれば自力になり、偽善になってしまうからである。

 阿弥陀様の本願は完全に満足されているからである。地獄に堕ちるはずの我々凡夫はそのまま
で救われていく身だからである。
 だから我々は、仁義礼智信は排除するのである。親鸞のように、仁義礼智信を必要とは見ない
振りをするのである。

 ラーマプッタは恐らくマガダ国の地方で尊崇を受けていたが、これはバラモン達の好まぬとこ
ろであった。

 他力本願の教えは、日本で尊崇を受けているが、他力本願の教えは多くの人が軽蔑するとこで
あることは、言うまでもないだろう。

496:774
12/05/11 14:38:18.56 XFjp4O96
5月のある天気の良い日、南朝鮮最大の仏教宗派である「大韓仏教曹渓宗(チョゲジョン)」で僧侶たちが賭博しているのを隠しカメラで撮られた、坊主まで腐ってる(笑)
URLリンク(media.daum.net)

497:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/05/13 15:18:56.56 i7FjyOLC
 仏教で問題が分からなくなったらどうするのか。大事な原則がある。それは、釈迦に戻ると言
うことだ。釈迦の悟りに戻って考える。間違っても、阿弥陀仏に戻ってはいけない。阿弥陀仏の
本願に戻ってはいけない。阿弥陀や阿弥陀仏の本願に戻って考えようとすると、物事が分からな
くなる。阿弥陀や阿弥陀仏の本願は、先に釈迦に戻り、釈迦の悟りをしっかり押さえ、釈迦の悟
りから次に拡大していく思索の発展の過程で巡回していくというのが正しい姿勢だ。例えば、こ
ういう場合、歎異抄に騙されてはいけない。歎異抄はどのように騙しているか。歎異抄は言う。
「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさ
ば、善導の御釈、虚言したまうべからず」。議論を弥陀の本願から始める。こういう思考は間違
いである。阿弥陀や阿弥陀仏の本願など、全く考える必要が無い場合も非常に多い。釈迦から考
える。こうした思考回路こそ、仏教史的に見て最も素直な考えである。

 釈迦は、三五歳の時、菩提樹の下で何を悟ったのか。多くの仏典が様々なことを言っている。
十二因縁、中道、因果の法則、四諦、八正道、三学などである。これらは、全て別々のことと考
える必要は無い。恐らく、釈迦の悟りは、原始的な十二因縁であり、それは原始的な中道であっ
た。原始的中道は、原始的な因果の法則であり、原始的な四諦、原始的な八正道、原始的な三学
である認識を得たのだろうと考える。だからこそ、釈迦の後、仏弟子達は、精巧な十二因縁・中
道・因果の法則・四諦・八正道・三学を完成していった。
 十二因縁を語る時、それが因果の法則、あるいは四諦などの議論と矛盾するような内容であれ
ば、それは少なくともどちらか、通常はその全ての理解が間違っているんだろうと想像する。因
果の法則を語る時には、十二因縁、あるいは中道などと矛盾無く説明できて、始めて第一の関門
がパスすることになる。第二の関門は、その考えが釈迦の後の歴史的高僧達の説とも矛盾がない
こと、第三の関門は、我々の日常の諸現象と矛盾がないことだろうと考える。

 釈迦の悟りを因果の法則から考えてみよう。釈迦は善因善果、悪因悪果という原則を立ててい
る。

498:渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】   ◆Fe19/y1.mI
12/05/13 15:20:25.23 i7FjyOLC
諸惡を作すことなし。諸善を奉行すべし。自からその意を淨くする。これ諸佛のヘなりと(四
句の偈)
 無間獄は寿一中劫なり。五逆罪を造り、因果を撥無し、大乗を誹謗し、四重を犯して、虚しく
信施を食らへるもの、このなかに堕つ。(往生要集 『観仏三昧経』)

 因果の法則は、様々な経典に登場する。しかし、親鸞は注目すべき記述を教えてくれている。
(大般涅槃經要文)

 善男子よ、もし、一切の業で定んで果をえれば、一世の所作、純善の業は、まさにながくす
でに常に安樂を受くべし。一世所作、慇重の惡業は、また永く既に大苦悩の業果を受けるべし。
若し爾らばすなわち修道し解脱する涅槃の人はなからん。
 みなさん。もし良いことをすれば必ず良い結果が生じ、悪いことをすれば必ず悪い結果が生じ
るというなら、どんな場合も、良いことをした人はまさにいつまでも常に幸せであるでしょう。
重大な悪いことをした人は、いつまでもいつまでも大きな苦しみを受けるでしょう。世の中に重
大な悪いことをしてない人はいませんから、修行して覚りを得られるという人は一人もいなくな
ることになります。

 良いことをすれば必ず良い結果が生じ、悪いことをすれば必ず悪い結果が生じる。そんなこと
はない。善因は必ずしも善果をもたらさない。悪因は必ずしも悪果をもたらさない。親鸞はそう
言う。
 これは、一面で常識的な、当然の主張と考えるが、こういう考えは仏教に存在しないと勝手に
思い込んでいると、我々は意外な印象を受ける。なぜなら親鸞は次のように言っているからであ
る。

 因果なく〜と言いて、もろもろの邪語富闌那等を信ずる、これを信邪と名づく。
 因果つまり善因善果、悪因悪果というこんな原則はない。こう言って、因果を否定して外道の
富闌那等に騙されていく。これを信邪と名づく(信の巻)。

 善因善果、悪因悪果を信じることこそ、仏教においてもっとも重要なことである。善因善果、
悪因悪果を信じないということはどういうことか。親鸞は言う。「因果を撥無する見を、空とす
(行の巻)」。因果の法則を否定する見解は、空、つまり実体が無い、内容がないと言う。


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