○●Я親鸞仏教質問箱R(その7)●○ at PSY
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100:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/10/18 18:23:20 8HRmn+oJ
>>98
 異論はない。教団真宗は邪宗だ。

>>99
 一部に誤解もあるようだが、本質はその通りだ。

 徳川時代初期に浄土真宗は壊滅した。


101:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/10/19 13:29:01 aKIdDx6L
>>95
 基礎学習を修了し、多くの人々が持っていない正しい知識を知り得た方々よ、これからは思い思いの各地
の場所で学校を建設し、近在の人々を招き、自分たちが学んだ正しい知識を多くの人々に公開して欲しい。
あなた方の学習は基礎学習を修了し、多くの人々から先生と尊称されるようになって終わったのではない。
先生と尊称されるようになったこれから始まるのだ。知り得たことを、多くの人々と共感的に共有し、共通
の財産として多くの人とともに利用できるようになり、多くの人々が救われるようになったとき、あなた方
の学習も完成する。さあ、釈尊先生がそのような先生であったと同じように、あなた方もあの釈尊先生と同
じ道を歩んで欲しい。大無量寿経は、インドの人々が人類として教育の重要性に初めて気づいたとき、その
最初期の教育哲学を展開している。大無量寿経はその中で、特に学園論を主題としている。
 学園とはどういう世界か。学園における教師の目的は何か。大無量寿経では法蔵菩薩という一人の修行僧
が、学校教育に当たる教師として四八箇条の誓いを立てている。四八箇条の近いのモデルは祇園精舎で実践
されていた教育理念だろうと考える。祇園精舎で実践されていた教育理念を理想化し、それを具体的に書い
てくれている。学園における教師は、このような信念をもって教育に当たるべきである。大無量寿経はその
目標とすべき理想像を書いている。 
 学園教師とは何か。その理念はどうあるべきか。大無量寿経はそれを四八箇条に列挙してある。箇条書き
列挙の場合、冒頭に全体を総括する基礎的事項を掲げるのが常識である。四八箇条に渡る理念の中で、最も
重要なのが第一条である。これが四八箇条にわたる箇条書きの目玉となる。学校とは何か。教育者とは何か。
その根源的な意味を大無量寿経の第一条に見てみたい。

 たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。

 人類が教育の重要性に気がついたとき、最初に考えたことがこれだったようだ。この意味を深く考えてみ
たい。

102:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/10/26 12:10:45 qzsRj5y0
 たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。

 教育とは何か。教育者とは何をする者か。学園、教場という場を作って人々を教育する者はどのような理
念を持つべきか。人類が歴史上初めて教育というものの重要性に気がついたとき、人類は何を考えたのか。

 釈迦が人類史上に残した最大の業績は祇園精舎の建設にあったと考える。祇園精舎は、学則と制服があり、
全寮制で授業料は無料という特異な組織だった。そこは、古代ギリシャでプラトンが建設したアカデミヤと
前後し、洋の東西で生まれた人類初の組織的な大規模な教育施設であり、多くの賢人・哲人を輩出した。祇
園精舎の分校は寺院という名称でその後世界各地に建設された。
 阿弥陀仏の極楽浄土は釈迦が建設した祇園精舎をモデルにしている。大無量寿経で書かれている阿弥陀仏
の誓願とは、祇園精舎の教育ポリシーをそのモデルにしている。
 祇園精舎で釈迦は入門者に基礎教育を実践した。戒律と禅定と共に、算術、文字、暦、薬学、土木、建築、
施政学等々、王侯貴族に伝わっていた当時の最高の知識を伝えている。祇園精舎で基礎教育を修了した者は、
故郷に帰ると先生と呼ばれ尊敬された。人々が知らない様々なことを知っており、阿羅漢、あるいは辟支仏、
単純に「仏」とも呼ばれた。

 祇園精舎で卒業証書を貰いました。基礎学問をマスターし、先生になりました。阿羅漢になりました。辟
支仏になりました。これで満足してはいけない。これからが本当の戦いだ。教育の重要性に目覚めた古代の
人々はそのように考えた。「たとい我、仏を得んに」とは、基礎学問を卒業し、小乗仏教では先生と言われ
るようになっても、それで満足するのはやめようという意味である。

103:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/10/26 12:14:42 qzsRj5y0
 大乗仏教の先人達は、基礎教育をマスターした若者に新たに国を作ることを推奨した。国とは、一定の価
値観があり、共通の価値観を重んじる人々の集合体である。実業家には実業家の世界がある。彼らは一定の
共通の価値観を有する。政治家には政治家の世界がある。彼らは一定の共通の価値観を有する。価値観が異
なると世界が異なる。大人の世界に子供の世界の価値観が入り込むと大人の世界は秩序を失って動揺する。
大人の価値観で子供の世界を縛ると、子供の世界は動きがとれなくなることがある。
 大乗仏教の先人達は、基礎教育をマスターした若者に国の建設を推奨した。その国とは学校である。ある
いは教場である。自分が学んだ学習を多くの人々に組織的に伝達していく伝達の場を作りなさい。そのよう
に言っているのだ。モデルとなったのが祇園精舎である。国には一定の価値観がある。

 学校の中に、もし地獄・餓鬼・畜生という世界があれば、正覚を得たとは思わない。真理を認識したとは
思わないと言うことである。仏教は、正しい真理を認識することを目標とする。基礎教育を修了し、必要な
基礎的事項が理解できれば、それで人は正しい真理を認識したことになるのか。この考えを肯定する人はい
るだろう。しかし、大乗仏教の先人はそれを否定した。その認識を多くの人と共通の財産として共感的に享
受利用できるようになったとき、初めて真理を認識したことになる。それまでは、悟ったというのはやめよ
う。大乗仏教はそう提唱する。

 建設した学校の中に、地獄・餓鬼・畜生がいたなら、多くの人とその認識を共通の財産として共感的に享
受利用できるようになったとは思うまい。仮に自分は基礎教育を修了して人々から先生と仰がれても、真の
悟りを得たとは思うまい。人類が歴史上初めて教育というものの重要性に気がついたとき、教育学に目覚め
た人類はそう考えた。

 それでは、地獄・餓鬼・畜生とは何か。それを考えてみよう。

104:神も仏も名無しさん
10/10/29 18:19:57 xjF3bKWz
長い割には意味が無い
だから、若い頃 勉強しなさいと言われていたのではないか?


105:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/11/03 12:07:51 /QaDdzF/
 願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず 仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず

 仏陀は願力に限界がない。だからどれほど深い罪を冒した人も仏陀にとっては重すぎると言うことがない。
仏陀の智慧には限界がない。どれほど物事が混乱していても、かならず納めてくださる。

 ギリシャに始まる西洋文明になじんできた我々現代人には仏教がわかりにくい。基本的な発想がインドとギ
リシャで異なるからだ。物事の本質を考える場合、ギリシャではしばしば抽象化という手法を取る。インドで
は象徴化という手法をとる人格についてのとらえ方も大きく異なる。ギリシャでは肉体と精神の合体という捉
え方をする。インドでは、意思と行動の合体というとらえ方をする。インドではそれに智慧というファクター
を加える。仏典を読むとき、この人格論をはき違えると混乱を起こす。
 仏陀は願力に限界がない。願とは意思を表す。四八願とは、四十八箇条の基本意思つまりポリシーという意
味だ。力は行動である。仏陀は意思と行動と知恵において限界がない。言い換えれば、仏陀以外の人格は限
界があり、その度合いによって様々に変化する。

 人は、肉体の誕生で始まり肉体の死で終わる。精神はその肉体に宿る。ギリシャに始まる西洋文明ではその
ように教える。おそらくアリストテレスなどに始まる発想だろう。
 人は意思と行動を持つ。意思と行動が変われば人格が変わる。人格が変わるとき、古い自分は死に、新しい
自分が誕生する。人は、挫折という人格の死と、再起という人格の生を繰り返す。再起から挫折までの間に、
しばしば彷徨という病を経験し、あるいは疲弊という老を経験する。
 人格の転変は知恵の量が作用することがある。豊かな知恵を持っている者は彷徨・疲弊・挫折が少ない。知
恵のない者は、しばしば彷徨・疲弊・挫折する。意思は知恵の容器というべきだ。知恵という容器は、普通、
欲と知恵が併存する。

106:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/11/03 12:09:16 /QaDdzF/
 自らの意思を行動で思う存分実現できる者がいる。しばしばそれを天才という。並外れた才能があれば、そ
れも可能になる。権力者は権力という道具で自らの意思を実現する行動力を有する。普通は大きな知恵があり、
欲もあり、並外れた行動力でその欲と知恵とを実現する。欲の量は様々である。

 普通の人は行動力に限界がある。限界のある行動力の範囲内で自分の意思を実現する。意思の中には若干の
知恵があり、若干の欲もある。限界のある行動力の範囲内で、若干の知恵と若干の欲が結びついた意思を実現
する。

 意思がなく、行動力だけの人格もある。意思は他人の意志に従属するのだ。典型的な例は軍人である。軍人
は他人の意思の実現に向けて行動する。他人とは、普通は天、つまり政治的権力者である。高級軍人は普通、
姿が見えない。海底に奥深くにいる。下級軍人は辺境の地で敵の侵入を防ぐ守りについている。
 彼らはずば抜けた意思実現力をもっているが、天ではない。これを阿修羅という。阿修羅とは、インドの言
葉で非天という意味だそうだ。

 天・人・阿修羅は、実現対象の意思の中に欲もあるが知恵もある。しかし、知恵がない欲だけの存在もある。
それを三悪という。地獄と餓鬼と畜生である。

107:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/11/21 14:34:09 coirfjTy
 裁判所に被告が入廷する。傍聴席からいきなり野次が飛ぶ。「鬼畜生!」。被告に一人娘を殺された遺族、
母親の我を忘れた叫びだった。裁判のことを放送していたアナウンサーはひとごとのようにいう。「人間を
鬼畜生というのはおかしいですよね。被告も人間ですからね」。

 仏教はアナウンサーのような考えはもたない。ヒトDNAを有する生物でも、畜生の意思で畜生の行為を
する者は畜生と言うべきだろう。鬼の意思で鬼の行為をする者は鬼と言うべきだろう。知恵のない邪悪な欲
望に駆られ、邪悪な行動をすれば、ヒトの仮面を被っていても、本質は鬼畜生である。ヒトであっても、時
に鬼となり、畜生となり、あっという間に有頂天になったかと思ったら次の瞬間には地獄に堕ちる。
 「悪かった悪かった。この自分が悪かった。」このように涙ながらに後悔して真人間に戻ったはずの人が、
翌日にはまた畜生となり、鬼の手先になって地獄に堕ちていくということもある。
 知恵の無い邪悪な欲望に駆られ、欲望に駆られた行動をするものは大きく二つに分かれる。休みのあるも
のと、休みのないものである。ライオンは満腹になると他を襲わないそうだ。畜生には休むことがある。こ
れに対し、常に飢えており、一寸の休みのないものもいる。休み無く邪悪を繰り返す者、これを鬼という。
鬼と畜生とは休みの有無で相違がある。
 邪悪な行動は長くは続かない。やがて、欲望は限りなく燃えさかりながら、一寸の行動も取れなくなるこ
とがある。燃えさかる溶鉱炉が厚い南極の氷に閉ざされているような状態である。仏教はこれを地獄という。
 人類が教育というものの重要性に気がついたとき、人々は、教育の本質を、まさに地獄と餓鬼と畜生とを
なくすことであると考えたということである。この原則は現代でも教育の本質と考えられ、反対する者はい
ないだろう。
 地獄と餓鬼と畜生とはどのようにすればなくすことができるのか。地獄と餓鬼と畜生の共通項に着目すれ
ばよい。知恵が無いということである。言い換えれば、人々に正しい知恵を与えれば、畜生も餓鬼も地獄も
なくなるはずである。

108:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/11/21 14:35:28 coirfjTy
 釈迦に真理を学んだある高弟達は、教育に独立的な価値観を置き、それをもって人類の最高の価値として
大乗仏教を完成させた。阿弥陀仏という架空の仏を創作し、その行動原理の第一条に、国に地獄・餓鬼・畜生
あらば、正覚を取らじと宣言させた。教育者は、教場を建設し、その教場の中から地獄・餓鬼・畜生を無くして
いく。それが最大の仕事である。基礎学習を終了し、専門課程で未来の教育者を目指す若者に、教育原理の
第一条として、大乗仏教の先人達はそのように教えたのである。これが大無量寿経である。

109:間抜けな学者の妄説信者へ
10/11/22 14:16:08 girDvisS
 仏、キリスト教等既存宗教は全て教祖の教えを捻じ曲げたがらくた。本当の
宗教は日月神示に記された神の教えのみ。
 君達はいつまで科学と言う愚説にしがみついているのか。これから私が科学
の常識を粉砕して見せてやる。神学が正しいか、科学が正しいかは神様が建替
えなされれば一目瞭然である。臍をかんで後悔しても後の祭りで、どうなって
も知らんぞ。神様も目に物見せてやると仰せである。
 太陽から1番近い水星が数百度の高温で、一番遠い冥王星がー273度にな
るなら、平地よりもエベレストの山頂の方が地熱が高くなる筈だが、現実には
その逆である。これは地球の火球(地中太陽)からの熱が山頂まで伝わり難いか
らである。
 水は百度以上にならない。それを超えると水蒸気になって気化熱を奪うから
と言うが、真冬でも川に霧がたち込めて水蒸気が出る。これは空気中の湿気が
水蒸気になったのではない。それなら水面近くだけが凝結する。川以外の地面
からは霧は出ない。盆地などに霧が出るのは山から水蒸気が出るからである。
水溜りや人間の汗は百度にならなくても蒸発する。氷から水蒸気が出る。これ
らの現象は龍神の働きである。
 太陽の傾きで夏冬になるのなら、夏の夜間も冬となる筈である。地熱は水や
空気に伝わってすぐに上昇する。焚火の煙の様に。空気の熱は光の様に天へ帰
る。だから、上空の空気は冷たい。熱が何時までも地球に残るのなら地球は熱
の蓄積で焼尽する。すると、太陽が沈めば地熱は冷めて気温も下がる筈である
が、地球の火球が太陽の活動の周期に合わせて活発になるから、夏の夜間でも
寒くならない。去年の夏は暑くなかったとか、今年は残暑も厳しいとか言うの
は、地球の火球の活動が太陽に同調しないからである。太陽黒点の影響は小。
 夏季の天気は低気圧が西から東へ移動して雨となる。西の空が夕焼けになる
のは地球の火球が活発になる前兆で、活発と成れば雨雲を蹴散らせて晴れとな
る。春一番は風の神の働きで春を知らせる。季節と言うものは地の神の働きで
天の神(太陽等の天体)はその手伝いである。だから、天神地祇と言う。恵み下
さるのは地の神である。今度は天神地祇が合体して、天地をすり鉢で捏ね回す
のだから神よ、人民よ腰を抜かして目玉を飛び出ない様見ているがよい。


110:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/11/24 10:49:56 xeSPcx16
 理容業・美容業で専門学校が生まれたのは戦後のことだ。戦前にはなかった。子供の頃、住んでいた田
舎に始めて理容専門学校ができた。そのとき、ぽつりと言った母親の言葉が僕には不思議に耳に残ってい
る。話の前後の文脈は全く覚えてないが、「こんな学校要らないわよね。髪結いさんはみんな見よう見まね
で覚えるものよ」、と。
 理容業・美容業を母親は髪結いと言っていた。この種の独立の専門学校を母親がどうして嫌っていたか、
今は心情が全く分からないが、大正生まれで大正育ちの母は、徒弟制度こそが職業学習の王道であるとで
も信じていたようだ。

 教育は徒弟制度の中にもある。徒弟制度の中の教育は、特定の職業の中の従属的なもので、独立的価値
観をもっていない。特定の職業に対し、優越的価値観をもたない。教育観に根本的な違いがある。

 徒弟制度から独立教育機関制度へ移行していくのは近代化の重要な流れだと思うが、教育の従属的な地
位を排し、教育に独立専門的な価値観を認め、教育こそあらゆる価値観の最高位にあると考える主張は、
古代において実に画期的な思想だったと思う。教育者に独立的な職業性を認め、教育に独立的な価値を認
めると、いままで見えなかったことが見えてくる。

 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、寿(いのち)終わりての後、また三悪道に更らば、正覚を取ら
じ。

 教場で教師から新しい知識を学ぶ生徒にとって、教場が人生の最終到着点ではない。学校を卒業した後
に新しい人生が待っている。卒業生が戻った実社会で困難にぶつかったとき、学校で学んだことが生きな
いでそれを克服できず、挫折していくようでは学校で学んだ意味がない。いのち終わりて、つまり学校で
の学習期間満了後、社会に戻った卒業生が、再び地獄・餓鬼・畜生の世界に転落していくようなことがあ
れば、教師は教師として完成したとはいえない。真実を人々と共感的に共有的に享受できるように至った
真の悟りを得た完成した教師とは言えない。古代の教育学は、未来の教育者を目指す若者に、教育の本質
をそのように教えている。

111:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/11/24 10:50:51 xeSPcx16
 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、ことごとく真金色ならずんば、正覚を取らじ。

 昔、ランドセル会社がコマーシャルで「ぴかぴかの一年生」というキャッチコピーを流行させた。南方
の坊さんは黄色い衣を着る。黄色は黄金色を象徴している色である。希望を持って新たな道を生き生きと
歩む者は、全身から光を放ってまぶしく見えるものだ。体中からまぶしいほどの光を放って生き生きと前
進していくそんな生き方を生徒一人一人に実現する。それが教育である。

112:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/11/26 13:05:17 Jc1/3MmK
 法華経は指導論、大無量寿経の本質は学校論である。教育者は生徒をどのように指
導するのか。法華経は教育指導者の教育実践論が書かれている。それに対し、大無量
寿経は、箱物としての学校はどのような考えで運営していくか、その箱物論である。大
無量寿経を読むと、教育というものに始めて目覚めた我々の先輩が考えた学校という
ものの概念が非常によく見えてくる。

 無量寿仏のその道場樹は、高さ四百万里なり。その本、周囲五十由旬なり。枝葉四に
布けること二十万里なり。一切の衆宝自然に合成せり。月光摩尼・持海輪宝・衆宝の王
たるをもって、これを荘厳せり。 〜 この樹を見るもの、三法忍を得。一つには音響忍、
二つには柔順忍、三つには無生法忍なり。

 道場樹とは菩提樹のことである。ここではインド菩提樹を指している。極楽浄土の菩
提樹はその高さが四百万里という。古代の尺貫法で調べると月まで二往復半してまだ
おつりが来る。周囲五十由旬は、関東平野の全面積17000平方メートルを円に換算
した周囲長の2倍に近い。枝の長さは20万里、太平洋横断ケーブルの長さの8倍に
なる。これだけおおきな菩提樹が立っているという。これだけおおきな菩提樹であれば、
世界中でどこからでも見ることができるだろう。 
 スリランカ、タイ、ミャンマーなどの寺院に行くとほとんど必ず大きな菩提樹が植え
てあるそうだ。菩提樹は仏教寺院にとってきわめて重要な樹木である。菩提樹が意味
する象徴性から、古代の先人達の学校観を考えてみたい。

113:神も仏も名無しさん
10/12/01 02:55:59 oaPanVcz
URLリンク(webtv.hongwanji.or.jp)
親鸞の教えがタイトルになってる夏フェス「他力本願でいこう!」
いいんじゃないかなこういうのw

114:間抜けな学者の妄説信者へ
10/12/03 14:14:05 q4QrLs4U
 癌細胞は遺伝子が突然変異して発生すると言うが、普段は核内の遺伝子は2
重らせんの鎖で護られているから、細胞分裂時に遺伝子が2つに分裂する時に
しかその隙はない。卵胞ホルモンを多量に注射すると、その支配を受けている
臓器(乳腺、膣等)に癌が発生する。この現象は細胞分裂とは関係がない。日本
人は昔は胃癌が多かったが、今では西洋人の様に体全体に癌が発生している。
即ち、西洋人の様に肉や牛乳を摂取するから癌になるのである。牛や豚等の怨
念が穢れた血液(その元が肉や牛乳)に宿って癌細胞となり、人間を取り殺そう
として活動する。癌細胞は新たに湧いた(発生した)赤子の様な細胞で、霊体の
抑制がないから、無制限に増殖する。悪質液は怨念が毒に変化したものである。
この怨霊は国の支配者等に憑依して戦争を引起し、殺戮し尽くす。この事は聖
徳太子の未来記に書かれている。北朝鮮が、中国が、ロシアが、世界中が動き
出す。メーソンの命令の下に。
 肝臓を3分の1だけ残して切り取ると、肝臓は復元力によって細胞分裂して
元の大きさに戻る。これは霊体の肝臓が存在するから、その形に鋳込む様に復
元されるのである。体の何処かに異常があれば、それをミヤビ(体中を巡る神
霊)が心臓に知らせるから痛みで感知し、悪霊が侵入すれば、直ちに神軍が派
遣されて追い出したり、退治したりするのである。
 静脈の血液やその他体液はどうやって心臓へ帰る事が出来るのか。それは気
が体中を巡ってそれらを運んでいるからである。天の気が雨を地上に降ろし、
地の気が水蒸気を天の方へ上げる。頭寒足熱でないと体液は循環し難い。寒い
時に小便が近くなるのは胃の気が水蒸気を頭まで運ぶ事が出来ず、途中で雨に
なって膀胱に溜まるからである。かき氷を食べると頭のこめかみが痛むのは胃
の気が頭まで届かないからである。気が渋滞すると痛みが起きる。神経とはま
ったく関係がない。
 はり治療は気の流れを整えたりするから、体の具合が回復するのである。は
り麻酔は気を遮断する事によって知覚をなくす。痺れると痛みは判らない。


115:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/12/06 14:07:46 CfcEKRpp
 菩提樹つまり道場樹は羅針盤である。そのように考えるといいだろう。古代インドには地図がない。我が
国で科学的な地図ができたのは徳川時代後期のことである。その昔は行基地図と言って、非常に不正確な地
図を使っていた。戦国の武将達は、山の上からみた鳥瞰図を地図の変わりにしていた。
 地図のない時代、旅人はどのようにして道を知ったか。彼らは大きな目標を道の先々で求め、その目標を
頼りに進んでいく。古代インドでは、菩提樹がその役割を担った。
 インド菩提樹は高さが20メートル以上に及ぶという。一般に樹木の高さが低いインド大陸北部では、巨
大な菩提樹はひときわ目立つ。これが遠くから見える。菩提樹は旅をする者に地理上の方向を指し示す羅針
盤の役割を果たした。またそこは、日中、日差しの熱い一時期、人々に日差しを和らげる休息の場を提供し
た。
 極楽浄土の菩提樹も、このような思想を背景にしていると考える。真実を学ぼうとするなら、極楽浄土の
菩提樹を探せ、菩提樹が見つかれば、その方向に進め。かつて釈尊はその下で悟りを開いた。仏教の先人
達はそのような伝説を創設している。
 樹下開悟伝説は、史実かどうかは問題ではない。そのような説が伝わってきたという事実の方が大事だ。菩
提樹の根元に求めるべき悟りがある。我々の先人達は、真理を学ぼうとする学生達に、そのように指導し、こ
れを学校のシンボルにしていたようだ。

 阿弥陀仏の第十八願は王本願と言われているが、どうして十八番目というような中途半端な位置にあるの
かと聞かれた。これはとても大事な疑問だ。こういう疑問を持てる人がやがて自分の力で経典を読むことがで
きてくる。

 この疑問を解く鍵は何か。それは、第十八願は王本願であると言っている人の主張と、大無量寿経の著者
の主張とは全く違うんだという事実を素直に認識すれば分かってくる。
 阿弥陀仏の十七,十八,十九,二十願を、法然・親鸞という中間の人々のフィルタを外し、大無量寿経の
著者の真意に直接飛び込んで読んでみたい。

116:トーヘンボク
10/12/07 05:17:25 HRy+Bv+L
・・・ここは、勉強になりそうなスレですねえ。
これから、読ませてもらいますよ。


117:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/12/08 10:15:39 xNjCa5BB
>>116
> これから、読ませてもらいますよ。

ようこそ。ようこそ。

 大無量寿経を著者の主張に沿ってその真意を知ろうとすれば、梵文大無量寿経から考えて行くのが順序だ
ろうと思う。梵文大無量寿経を邦訳本で紹介する。大乗仏典 第六巻 浄土三部経 中央公論社 昭和51
年刊である。漢文大無量寿経十七願、十八願、十九願、二十願は、梵文大無量寿経の17,18,19願に
対応する。

(17)世尊、もしも私が菩提に到達したとき、無量の仏国における無量・無数の諸仏・世尊が(私の)名をほめ
讃えず、讃嘆ぜず、称揚ぜず、宣揚しないようであったら、そのあいだは、私はこの上ない完全な正覚をさ
とることはないでありましょう。

(18)世尊、私が菩提に到達したとき、他のもろもろの世界にいる有情たちは、この上ない完全な正覚(を得
たいと)の心を起こし、私の名を聞いて、浄く澄んだ(信)心をもって私を思い起こすでありましょう。(その)
彼らに死の時刻が近づいたとき、それはすなわち(彼らの)心が散り乱れないためになのであるが、もしも私
が比丘の僧団にとりかこまれ、恭敬されて、(その)面前に立たないようであったら、そのあいだは、私はこ
の上ない完全な正覚をさとることはないでありましょう。

(19)世尊、私が菩提に到達したとき、無量・無数の仏国にいる有情たちは、私の名を聞いて、その仏国に生
まれようがために心をかけ、もろもろの善根をさし向けるでありましょう。もしも(そこに生まれたいと)十
度までも心を起こした(のに、それ)によって(彼らが)かの仏国に生まれることがないようであったら、その
あいだは、私はこの上ない完全な正覚をさとることはないでありましょう。(ただ、)直ちに(その報いをう
けねばならぬ)ほどの(極悪な)行為(無間業)をした(有情)や、正法を誹誇するという(煩悩の)覆いにおおわ
れている有情は除いて、であります。

 これらの願を読むと、人類が始めて組織的な学校というものを持ったとき、それはどのように運営されて
いた、実によくわかる。そのあり方は、現代でも、例えば開発途上国などで始めて小学校を開いた場合のあ
り方と非常によく似ている。

118:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/12/08 10:16:34 xNjCa5BB
 開発途上国などでは、ある村に始めて学校を開くと、三つのことが必要になる。自分の存在を知って貰う
こと、子供達を勧誘すること、入学希望者の住んでいる環境に働きかけ、入学できるようような条件が整う
ように応援すること、これらのことが重要になる。開発途上国で開拓的な教育者になろうとする者は、その
ようなことも教育者の仕事の一つとなる。釈迦の高弟達が人類として始めて教育学に目覚めたとき、同じよ
うな考えを抱いた。
 
 仏教の先人達は、教育に最高の価値を見出し、将来の教育者を目指して教育学を学習した。教わるべき事
は全て教わって菩提に達し、卒業していよいよ社会の一線で教育者として人々を指導していこうとするとき、
教育者のたまご達すなわち大乗の菩薩は教育学を教えてくれた先生に誓いを立てる。自分は、今後、教育者
として人々から尊敬を受け、称讃を受け、著名な人物になっていこうと思います。それが達成できない内は、
正覚を得た真の教育者大乗の仏になったとは思いません。どこまでもどこまで努力を重ねていきたいと思い
ます。このように誓うのである。

119:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/12/10 10:48:27 B2SGMm3t
 梵文大無量寿経の十七願では、無量の仏国と言っている。国と書いているからわかりにくい。世界とい
う言葉に変えればいい。仏・世尊と言っているからわかりにくい。指導者と言う言葉に変えればいい。
 政界・歌謡界・農業界・産業界・言論界、社会には無数の世界がある。こういった無数の様々な世界の
指導者達から称讃つまり尊敬と支持を受けられるようになろう。十七願はそう言っている。なぜなら、そ
ういう環境がないと、子供達が先生の下で教わろうという気持ちにならないからだ。未来のリーダを目指
す若者が教わろうと思う先生は、様々な世界の多くの指導者から尊敬を受けている人なのだ。多くの人に
尊敬されるような人になれ、将来の教育者を目指す若者に、大乗仏教の先人達はそのように説いている。

 人々から尊敬を受けるような人は、どこかに一人で閉じこもっていれば自然に生徒が集まってくるのだ
ろうか。そんなことはない。生徒募集というのも教育者の重要な仕事だ。それが梵文大無量寿経の十八願
である。

 自分が教育学課程の学習を修了し、学校を開いたとき、きっと多くの若者が入学を希望してくれるよう
になるだろう。十八願が言う「他のもろもろの世界の有情」とは、例えば佐藤さんの家には佐藤さんの家
の世界があり、そこには若者がいるということだ。山下さんの家には山下さんの世界があり、そこにも若
者がいる。大山さんの家には大山さんの世界があり、そこにも若者がいるだろう。彼らは、これまでも再
起・挫折・再起・挫折を繰り返してきた人々であり、今後も再起・挫折・再起・挫折を繰り返していくで
あろう人々である。それぞれが自分の人生の中で輪廻輪廻を繰り返していく有情達である。

 そんな人々が、そんな自分ではいけないと気づき、正覚を得、輪廻の迷いを断ちたいと真剣に思い、そ
んな折りに教育者である私の名を聞きつけてくれるということもあるだろう。是非、あの先生の学校で学
びたいと純粋にそう思ってくれることもあるだろう。
 学校に入学したいと思っても、いつでもすぐに入学できるということではない。遠方の人であれば、身
辺整理も必要だろう。アルバイトをしている人であれば、契約期間が切れれまで時間がかかるかも知れな
い。学校は四月から始まる、八月に入学しようとしても難しい。


120:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/12/10 10:49:39 B2SGMm3t
 彼らに死の時刻が近づいたときというのは、肉体の死を意味しない。入学を拒んでいた環境条件期間に
終期が到来し、新たにな生き方が可能になる入学可能な条件期に近づいた時という意味である。そのよう
な時期には、教師は学校関係者を連れて自らその希望者の家に迎えに行こう。一度は学校に入りたいと思
っても、入学できる環境に変わった時期には、再び心変わりして入学の心が離れているかも知れない。教
師自らが迎えに行けば、その子も入学しようという思いにまた戻るかも知れないのだ。

 学校周辺で、いつも潜在的な入学希望者を調査しておき、入学可能な時期には迎えに行くと言うことは、
非常に大事なことだ。開発途上国で始めて小学校ができた場合にはそういうことが行われている。古代イ
ンドにおいても同じようなことが行われていたのである。
 もしそれができないなら、仮に教師になっても、自分は完成した教育者になったとは思わないでおこう。
どこまでもどこまでも努力を重ねていこう。阿弥陀仏の18願はそう誓っている。

121:トーヘンボク
10/12/11 18:51:12 Hb+skzTF
・・と、思ったが、やめた。長い文章は読めない質なので。


122:平田篤胤著仙界異聞が科学をぶった斬る
10/12/12 13:03:39 YhE/QwPw
問 瘧神、疫病神、貧乏神、疱瘡神、首絞神、火事などと言う様なものが世の
人に災いをもたらしているが、これらはどのようにして出来たものか。
寅吉 それらは全て人の霊から出来たものです。そのような鬼物どもが世の人
々を一人でも多く同類を増やそうとうかがっているのです。人は僅かであって
も曲がった気持ちを持つと妖魔に引き込まれます。よこしまな願いを叶えてく
れる悪魔や妖怪に目をくらまされて、死んで極楽どころか魔道に入って、永久
に神罰にさいなまれる事になります。
 そもそも天皇は天下万国の君であられ、天神地祇のお祭りを大切に行ってお
られます。今の世は外国の道がとても流行っており、神の道が廃れ、諸神社も
衰えて、それを再興しようとする者もいません。けれども、神はなお世の人を
お憐れみになり、日照りの時は雨を降らせ、長雨の時は風を起されて雲や霧を
吹き払いになられます。火にも水にも、野にも山にも幸ある様にして、万民を
撫育しておられます。これは神のお役目であり、そうなされなくては済まない
からです。
 風火金水土の5つはもとより、山海川野に生まれるものはすべて神が支配さ
れておられ、神の御徳によってそれぞれのものの用をなしています。にも拘ら
ず、人間は火も水も、また野や山も自然にある様に勘違いをして、神をおろそ
かにして軽んじています。この様な事は大変恐れ多い事です。
 取り敢えず許容しておられますが、最後には神罰を被るものである事には疑
いの余地がありません。その神罰は罪人だけが被るものでなくて、天下全体の
災いとなります。ですから、よく神々を崇敬し奉って、このような災いを逃れ
るべきなのです。
 だから、地震、台風等の天変地異、戦乱、疫病、火事、事故等は神罰でもあ
り、警告でもあるのです。今は悪神の強い者勝ち、我よし、騙しが手柄の悪弊
がはびこって、政治も経済も学問等も腐れ果てて、誰も責任を取らずに逃げて、
そんな世の中が成り立つ筈がないのである。ここに正神が大建替えを断行すべ
く、日月地の御民(身魂の磨かれた)を道具に使って、鬼退治をして、天地のあ
らゆる穢れを大掃除して、弥勒の極楽浄土を築かれなされるのである。 



123:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/12/14 21:30:27 /HtF+p5J
 新年会の予定

 日時 1月30日 午後5時から8時ころまで

 場所 東京新宿

 詳細はメールでお知らせします。

 なお、自動スパム防止のため、 アドレスを全角にしてあります。
 半角に直してお送りください。
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124:神も仏も名無しさん
10/12/14 23:22:12 x71nd75S
うちは浄土真宗なんですけど、浄土真宗は供養は必要ないはずなのに
葬儀後7日事にお坊さんが家にやってきます。もちろんお布施が必要です。
1年間は月参りも必要だといわれたのですが、何故法要や月参りが必要なのですか?

どうもお布施のために教えを歪めているとしか思えないのですが。
とっても嘘っぽくて嫌です。

125:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/12/15 10:22:25 5jZwrG3l
>>124
 現代浄土真宗では重要な問題です。浄土真宗は空也宗、あるいは空也衆であるということです。背景の思想
を説明したい。

いま2ちゃんねるでは大経論を議論しています。百家争鳴の掲示板に場所を移して議論したいと思います。同じ
質問を、そちらに書いてもらえませんか。
 百家争鳴
 URLリンク(www.propatent.jp)

126:神も仏も名無しさん
10/12/15 20:37:32 qC7uocUY
>>125
アドレス間違ってませんか?

127:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/12/15 23:02:12 W1E1vpXX
>>126
 アドレスは間違っていません。

 上段左側が掲示板です。

 上段右側に書きましたが、公開ID:SINRAN、公開パスワード:0000を使ってください。
 


128:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/12/16 13:37:06 XZ/qF2fB
 阿弥陀仏の19願を考えよう。

 人は、学校に入学できなくなる阻害条件が無くなれば必ず入学できるのか。そうではない。一つの阻害
条件が解決しても、次から次に別の阻害条件が発生するという場合がある。そういう人はなかなか入学で
きない。
 自分が教育学課程の学習を修了し、学校を開き、先生と呼ばれるようになったとき、きっと多くの若者
が入学を希望してくれるようになると思う。多くの若者が私の名を聞きつけ、どうかあの先生のあの学校
に入学したいと、そう思ってくれるだろう。入学希望の若者も、入学のための様々な努力をしてくれると
思う。繰り返し繰り返しそのように思い続け、様々な努力をしたにも関わらず、それでもやはり入学でき
ない、そういうこともあるかもしれない。もし、そういうことがあれば、それは大変残念なことだ。
 学校を開いたとき、入学を希望をしてくれる若者がいれば、その若者の環境に働きかけ、入学できるよ
うな環境に変えていくことも教師の仕事である。入学を希望しているにも関わらず入学できないという若
者が一人でもいたなら、自分は教育者として完成したとは思わないようにしよう。
 自らが知り得た真理を、多くの人と共感的共有的に享受すると言うことは、入学希望の生徒は必ず入学
できるようにすると言うことであり、そのために努力することは、まさに教育者の社会的義務である。そ
のように思うことにしよう。
 ただ、その若者が過去非常に悪いことをしていたとか、あるいは学ぶべき真理を誹謗するような行為を
するような若者まで、必ず入学できるということではない。けじめはつけよう。

129:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/12/16 13:38:08 XZ/qF2fB
 人類が始めて教育というものに抜きんでた価値があると気付いたとき、教育者とはどういうポリシーを
持つべきか、教育学課程では未来の教育者にこのように教えていたのである。
 非常に悪いことをしていた者は除くとはどういう意味か。入学してきても門を閉ざすぞという意味か、
それとも、入学できなくなる場合もあるぞという意味か、どちらかはわからない。学校も環境に働きかけ
て努力するが、その効果なく入学阻害要件を完全には払拭できないという場合もあるということかもしれ
ない。

 梵文大無量寿経の考え方はおおよそこれで分かって貰えたと思う。この考えが漢文大無量寿経になると、
大きく変わってくる。漢文大無量寿経の場合、翻訳者の主張というものが全面に出てくる。それを次に見
てみよう。

130:神も仏も名無しさん
10/12/16 23:19:44 oUZqXZAi
あのさぁ、素人なんだけどちょっと質問!
最尊第一ってお釈迦様が言ってるから阿弥陀様サイコー!ってのが教えの根本にあるわけでしょ?
でも大日如来は宇宙の中心、最強!ってのも大日経でお釈迦様が言ってるよねw
また、大無量寿経が真実の経である、ってのもお釈迦様の発言を根拠にしてるわけでしょ?
でも法華経だってこのお経がサイコー!って言ったのはお釈迦様でしょw
その辺整合性をどう考えてるわけ?大日経や法華経はニセモノの経だとでもいうの?

それから「親鸞は弟子一人ももたずさふらう」なんでしょ?
なのにどうして同じ文の最後で「また師の恩をもしるべきなり」なんて言ってるわけ?
矛盾してね?
それに「惣じてもて存知せざるなり」な事を他人に勧めるのは無責任なんでね?

131:神も仏も名無しさん
10/12/16 23:55:01 oUZqXZAi
あとさ、一向専念無量寿仏かなんか知らんけど、阿弥陀様以外の神仏はゴミ!
信じちゃいけない、熊野詣につきあっても礼拝なんてスンナ!つーのは排他的過ぎでしょ?
他の神仏に敬意を払う事と阿弥陀仏を信じる事は両立するでしょ?
弥陀の本願を信じてるからといって、他の神仏を排斥しなきゃならん理由にならんでしょw
日蓮宗並みに排他的な教えで、阿弥陀様はユダヤの神並みに嫉妬深くケツの穴が小さいですと言ってるようなもの
それはむしろ無限の慈悲をもつという阿弥陀様を侮辱してると思うんだけど、そのへんどーなの?
それに親鸞の神格化の為に、恵信尼の夢で法然は勢至菩薩、親鸞は観音菩薩として出てきた、とか
女犯の夢告に救世観音が出てきた、なんて話あるでしょ?
それらの仏の存在は教えに矛盾するでしょwおかしくね?

132:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/12/17 11:00:35 6VbMaTmm
>>130
>整合性をどう考えてるわけ?
 主語は誰を指していますか? 渡海難はどう考えているのかという質問であると解していいですね。

>お釈迦様が言ってるから阿弥陀様サイコー!ってのが教えの根本にあるわけでしょ?

 貴方の勘違いでしょう。
 弥陀仏は、自然の様を知らせん料なり(自然法爾抄)。阿弥陀仏は、自然という概念を教えるための
(架空の)資料(手段・道具)である。
 絵本で桃太郎が『日本一』という旗を持って教えてくれていても、それをもって架空の桃太郎を日本一
の侍であると考える根本にはなりません。

>大日如来は宇宙の中心、最強!ってのも大日経でお釈迦様が言ってるよねw
  知りません

>法華経だってこのお経がサイコー!って言ったのはお釈迦様でしょw
    僕は存じません。天台大師は法華経を最も重要視していたと理解しています。

>大無量寿経が真実の経である、ってのもお釈迦様の発言を根拠にしてるわけでしょ?
    聞いたことがありません。僕は、親鸞聖人の発言を根拠にしています。

>「親鸞は弟子一人ももたずさふらう」なんでしょ?
    還俗していた親鸞は、社会的に弟子を持つことは出来なかったということでしょう

>「また師の恩をもしるべきなり」なんて言ってるわけ?矛盾してね?
 弟子の方で、勝手に自分は親鸞聖人の弟子だとアイデンティティを持つことは自由でしょう。

>熊野詣につきあっても礼拝なんてスンナ!つーのは排他的過ぎでしょ?
  人それぞれの好き好きがあるでしょう。

133:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/12/17 11:04:00 6VbMaTmm
>他の神仏に敬意を払う事と阿弥陀仏を信じる事は両立するでしょ?
  人には基本的人権として信教の自由がある。内心の自由をもって自分で考え、自分で決めることでし
 ょう。

>弥陀の本願を信じてるからといって、他の神仏を排斥しなきゃならん理由にならんでしょ
人には信教の自由がある

>それはむしろ無限の慈悲をもつ
  おとぎ話の世界の話の次元だと思います。桃太郎は日本一かどうかという議論に似ています。
  架空の話には作者の主張がある。その真意を考えることが重要だ。
  作者の主張に賛同するか、しないかは、読者が決める。

>阿弥陀様を侮辱してると思うんだけど、そのへんどーなの?
  信謗共にあるべしと考えればいいでしょう

>それに親鸞の神格化の為に、
  恵信尼には親鸞を神格化しなければならん理由はありません。
  生き仏のように感じていたということはあるでしょう。

>夢で法然は勢至菩薩、親鸞は観音菩薩として出てきた
  人は、自分が見る夢を操作できません。見ようとしても見られないし、見たくないと思っても見るこ
 とがある。潜在意識が作用しているようです

>女犯の夢告に救世観音が出てきた、なんて話あるでしょ?
     親鸞の弟子の真仏のでっち上げです。

>それらの仏の存在は教えに矛盾するでしょ
     無視しましょう。

   この続きは百家争鳴に書いてください。
  URLリンク(www.propatent.jp)


134:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/12/25 11:16:50 GaII7xCN
                                          (新年会 >>123

漢訳大無量寿経を読んでみる。
 十七願
たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取
らじ。
十八願
たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし
生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。
十九願
たとい我、仏を得んに、十方衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、心を至し願を発して我が
国に生まれんと欲わん。寿終わる時に臨んで、たとい大衆と囲繞してその人の前に現ぜずんば、正覚を取
らじ。
二十願
たとい我、仏を得んに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの徳本を植え
て、心を至し回向して我が国に生まれんと欲わんに、果遂せずんば、正覚を取らじ。

 漢訳大無量寿経の十七願と梵文大無量寿経の十七願とは、ほとんど同じ内容と考えていいだろう。梵文
十八願が漢訳では十八願と十九願とに分かれている。梵文十九願と漢訳二十願とはほとんど同じだが、梵
文十九願の一部が漢訳では十八願に入っている。そのように読むことができる。
 しかしどうもそうではないようだ。梵文十八願の核心は、死の時刻が近づいたとき、つまり入学を拒ん
でいた環境条件に終期が到来し、入学できる環境になったとき、教師の方から若者を誘いに行く努力をす
るという話だ。これは漢文十九願の思想と全く一致すると考えていい。それではなぜ漢訳十八願が存在す
るのか。善導大師、法然上人、親鸞聖人のフィルターを外して考える必要がある。漢訳十八願を裸のまま
読んでみよう。漢訳十八願の本当の意味は何なのか、それを考えてみよう。

135:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/12/25 11:17:48 GaII7xCN
 漢訳大無量寿経十八願の思想とは、学校に入学したいと思っている若者がいれば、その若者は生徒でな
くても生徒である。そのように考えようという意味だ。東京大学に入学したいと真剣に思っている高校生
がいれば、その高校生も東大の学生である。こう言えば、その考えに反対する人は多いだろう。高校生が
東大生であるわけがない。しかし、東大の先生の中には一人くらいへそ曲がりがいるかもしれない。東京
大学に入学し、自分の下で勉強したいと真剣に思ってくれている高校生は、在籍する東大生と自分の観念
の中で区別して扱う必要は無い。同等に扱おう。そう考える先生がいても不思議ではない。
 例えば、現代では、千葉大学には高大連携企画というのがあって高校と大学の連携事業をしているそう
だ。勉学に意欲があり、是非、あの学校に入学したいと思ってくれるそんな若者は、仮に形式的には大学
に籍はなくても、在籍登録のある学生と同等と考え、そのように扱おう。もしそれが出来ない内は自分は、
真の教育者になったとは思うまい。自分はどこまでもどこまでも、そういう理想の教育者を目指そう。そ
う誓っているのだ。漢訳十九願は、入学を拒んでいた環境条件に終期が到来し、入学できるようになった
とき、まさにそういう学生の下に、教師は迎えに行くぞという誓いである。

 こう考えると、漢訳十七,十八,十九,二十願の流れが実にスムーズにみえてくる。漢訳二十願は梵文
二十願と同じである。しかし、悪さをするような人間は除くぞという唯除の一句が、漢文では十八願に入
った。漢文十八願に、未入学の学生を在籍登録のある学生と同等と扱うぞという議論を建てた以上、その
中で扱う問題であるというのは、自然なことだ。

136:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/12/25 11:19:25 GaII7xCN
 ここには古代インドで行われていた激しい思想論争があるように考える。仏教では、常に非常に激しい
思想論論争が行われる。その中には論争に勝ってその後の思想をリードしていく人も現れるが、一方では
論争に負けて退場していく者もいる。漢訳大無量寿経は、インドでのそのような論争に敗れ、居場所を失
った改革僧が、新天地である中国に自らの居場所を求め、独自の改革思想で著した改革思想の書である。
僕はそのように思っている。

 ここではこれ以上触れないが、梵文大無量寿経と比較すると、漢訳大無量寿経は多くの点で相違があり、
思想論争の激しさが感じられてくる。大無量寿経は、中国、さらに日本に渡ってくると、どんでん返しを
繰り返しながら予想外の方向に思想が大きく展開していく。残った本流の思想はインドでやがて思想界か
ら退場していったというのも、感慨深いものがある。

137:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
11/01/06 13:43:32 8HtLgqde
 漢訳大無量寿経十八願は、梵文大無量寿経になかった新たな思想を創設した。この思想が、その後、どの
ように受け入れられていったか考えてみたい。

 善導は、往生礼讃と観念法門と観経玄義分とで言う
<往生礼讃>
 もしわれ成仏せんに十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ

<観念法門>
もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、
わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ

<観経玄義分>
 もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、
もし生ぜずは、正覚を取らじ

 善導の十八願理解はどのようなものか。観念法門に重要な記述がある。
 『無量寿経』の四十八願のなかに説き給ふがごとし。「仏曰はく、もし我成仏せんに、十方の衆生、わが
国に生ぜんと願じて、我が名字を称すること、下十声に至るまで、我が願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚
を取らじ〉」と。これ則ちこれ往生を願ずる行人、命終らんと欲する時、願力摂して往生を得しむ。故に摂
生増上縁と名づく。

 善導は、経典の「心を至し信楽して、わが国に生ぜんと欲する」という十八願の本来の表現を「わが願力
に乗じ」、あるいは「わが国に生ぜんと願ぜん」という表現に変えている。「乃至十念」が「下十声」に変
わっている。さらに、善導は十八願を観経の主張とパラレル化し、十八願も臨終往生の願であると理解して
いるのだ。
 十八願も臨終往生の願であるというのは、大無量寿経の翻訳者の思想から後退し、先祖返りしていると言
うべきだろう。「学校に入学したいと思っている若者がいれば、その若者は、実際には未入学でも入学済み
の生徒と同等に扱おう」このような翻訳者の革命的主張は放棄しているようだ。

138:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
11/01/06 13:46:02 8HtLgqde
 もし、翻訳者の思想も善導と同じであるとすれば、念仏はもろもろの功徳の一部とし、念仏はその中の特に
力説する対象とし、十八願の内容は十九願の後に来るべきである。十八願が十九願の前に来るという順番
で考えれば、善導の思想は翻訳者の思想外と言うべきである。
 善導の往生観は二つの臨終往生を考えている。
(1) 菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、心を至し、願を発して我が国に生まれんと欲すれば、臨
終に臨んで入学できる(十九願)。
(2) 名号を称していれば、もろもろの功徳を修していなくても、臨終に臨んで極楽浄土に往生する(十
八願)。

 善導の往生観は二つの論点を提供する。
(論点1) 大無量寿経は、本当に念仏を扱っている経典なのだろうか。
(論点2) 十九願による臨終の概念は何か。十八願も臨終往生の願と考えた場合、十八願の往生と同じな
のか。

 論点1について、善導は大無量寿経の十八願を引用しているが、いずれも大無量寿経を正面から論述して
いる文書ではない。往生礼讃は念仏礼賛がテーマである。観念法門は、観仏と称名念仏の方法を説明してい
る。観経玄義分は観経の解説を行っている。いずれも大無量寿経を説明する書ではない。
 十八願の引用は、称名念仏で極楽往生できるということを根拠づけるために行っている。しかも、善導は、
称名念仏で極楽往生できるぞと、十八願を自分で書き換えて引用しているのだ。論証方法としては論外と言
うべきだろう。
 大無量寿経を読むと分かるが、そこには南無阿弥陀仏の南の字も出てこない。南無阿弥陀仏という字が出
てくるのは、観無量寿経である。つまり、大無量寿経というのは、作者も翻訳者も、念仏については全く念
頭にないテーマであり、大無量寿経に称名念仏を持ち込んだのは善導大師からであると言うべきである。し
かもその持ち込み方は、念仏の真実性を説明するための傍証的、我田引水的な扱いであると言わざるを
得ない。
 大無量寿経によって念仏が真正面から説明されるようになるのは親鸞からであるという事実は認識してお
く必要がある。

 次に論点2について考えよう。

139:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
11/01/06 16:30:06 8HtLgqde
新年会の予定

 日時 1月30日 午後5時から8時ころまで

 場所 東京新宿

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 big_sunsky−mutsuki@@yahoo.co.jp

140:あぼーん
あぼーん
あぼーん

141:ロシアが日本を取りに来る 東北の大雪はその前兆
11/01/18 08:55:41 vz2fyJ11
 ヨハネの黙示録
 大いなる天の徴が天に現れた。一人の女が太陽を着て、子を産み落とそうと
していた。大きな赤い竜がその生まれた男子(救世主)を食い殺そうと構えてい
た。この子は御座の所へ上げられた。ミカエルとその御使達が竜と戦ったが、
竜は負けて地に投げ落とされた。竜は女の残りの子ら、即ち神の戒めを守って
いる者達に対して、戦いを挑む為に出て行った。竜は一匹の獣に自分の力と権
威をを与えた。彼は聖徒に戦いを挑んで勝つ事を許され、すべての国を支配す
る権威を与えられた。聖徒達は虜にされ、剣で殺される。
 聖徒達に忍耐が課せられる。他の獣が先の獣の像を作らせて、それを拝まな
い者を皆殺させた。すべての人々に、額と手に666の悪魔の刻印(メーソン
の洗脳が完了している者の刻印)を押させ、この刻印のない者は皆、物を買う事
も売る事も出来ない様にした。この刻印を受ける者は火と硫黄で焼かれる。
 主が七人の御使に神の激しい怒りの満ちた金の鉢を渡して、地に傾けよと言
われた。第1の鉢を地に傾けると、獣の刻印を持つ人々の身体に悪性のでき物
が出来た。第2を海に傾けると、海が死人の血の様になって生物が死んだ。第3
を水の源に傾けると、血になった。第4を太陽に傾けると、人々は激しい炎熱
で焼かれた。第5を獣の座に傾けると、獣の国は暗くなり、人々は苦痛の為舌
を噛み、天の神を呪った。第6をユウフラテ川に傾けると、水が枯れて、三悪
霊がハルマゲドンと言う所に王達を招集した。第7を空中に傾けると、今まで
になかった大地震が起り、町々は破壊された。
 地に住む人々は大淫婦と姦淫を行い、彼女の姦淫のぶどう酒に酔いしれた。
彼女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石とで身を飾り、イエスや聖徒達の血に酔
いしれた(彼女の贅沢は人の生血に吸って得た物)。彼女は地の王達が支配する
大いなる都の事である。彼女の罪は積もり積もって天に達している。彼女は不
義の行いを働き、贅沢を享受したので、様々な災害が死と悲しみと飢饉とが一日
の内に彼女を襲い、そして火で焼かれてしまう。
 獣と偽預言者は生きたまま、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。獣の
刻印を受けた者は、救世主の言の剣で切り殺され、その肉をすべての鳥が食べた。


142:日月地神学の伝道者
11/01/20 16:03:04 mFlT9ZHV
 琉球に続く台湾澎湖島、御国に遠きその島に心を配れ、日本人。外国魂のこ
こかしこ。国売る曲の多くして、主人の留守の間鍋炊き。柱を崩すカミ斗り、
ヤンキーモンキー騒ぐとも、降る雨リカを防ぐ由なし。 出口王仁三郎いろは歌
 長い間この歌の解釈が不明だったが今漸く判明した。この澎湖島は尖閣諸島
である。外国魂とはメーソン魂で、国売る曲は菅直人ら民主党議員で、国民が
留守にしている内に、中国様用の料理を作って、独立国家の主権をないがしろ
する神(人)ばかり、アメ公、支那公が反日で騒いでいるが、攻めて来るアメリ
カ軍から防衛する術はない。その理由は次の通り。
 2010年9月の尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件は、工作船(漁民が大切な舟を
ぶつける筈がない)が故意に日本の海保巡視船に体当たりした事件で、日本は
領海侵犯を犯し、障害を加えた船長を、中国の恫喝に怯えて釈放した。中国は
日本人を麻薬売買容疑で死刑にしたのに。11月、ロシアのメドベーシェフ大統
領が不法占拠している北方領土の国後島を訪問した。政府の要人で始めて。対
日戦勝記念日制定。11月、北朝鮮が韓国の島に砲撃。12月日米合同軍事演習中
にロシアの軍用機が日本の領空を侵犯。
 尖閣諸島は沖縄と一緒にアメリカの占領下にあり、返還後、尖閣諸島も日本
の領土になり、台湾の漁民が漁に来る事が領海侵犯となる。後に日本の弱腰外
交が禍して、台湾が領土を主張。中国は日本が台湾を侵略したとして、中国も
領土を主張。明治初期、日本人が台湾の高砂族に虐殺される事件が起きた。中
国に照会した処、蛮族は中国の管轄外だと言う回答を得て、台湾征伐を行った。
台湾はどこの国にも属しておらず、日本の領土とする事も出来た。アメリカが
北米大陸を盗んだ様に。
 アメリカが日米安協の僚友なら、一言言ってくれそうだが、アメリカがメー
ソンで日本潰しの親玉である。基地移転のしわ寄せがこの様な状況を作り出し
た。否、この様な状況にする為にこじらせた。北朝鮮も中国もロシアもアメリ
カもすべてグルで、日本を挑発して嘲っているのだ。後は日本をなぶり殺しに
するだけ。田母神は先の大戦を自衛戦と言い、勤務上は言えない。それなら前
に自衛隊を辞める筈だ。一色同様、メーソン臭い。



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