○●Я親鸞仏教質問箱R(その7)●○ at PSY
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50:神も仏も名無しさん
10/04/20 21:42:09 34pCP+7c
如意輪観音にまつわる示現の元になるような言い伝えが広まっていたんでしょう。
だいたい立川流と決め付けるのも早計ですよ。

51:神も仏も名無しさん
10/04/20 21:47:45 34pCP+7c
平安末期は僧侶の妻帯が普及してきます。
聖覚法印の実父も僧侶ですね。

52:神も仏も名無しさん
10/04/20 21:56:22 34pCP+7c
あ、資料的根拠ですか。親鸞が元となった言い伝えを見聞きしていた、
という直接の資料があるわけではないです。
でも夢告が立川流と関係があるという根拠も無いですよね。
むしろ、真仏がつくり話を書かなくてはならないのか、そっちのほうが疑問です。
なぜつくり話を書く必要があるのでしょうか?必然性がないですよ。



53:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/04/21 11:12:00 cDNt5svJ
>>50
>如意輪観音にまつわる示現の元になるような言い伝えが広まっていたんでしょう。

 比叡山は、確か戦前まで女人禁制だった。非常に最近まで女性は入れなかった。そのような環
境の中で、平安時代、夢記のような文章が広まり、親鸞がその影響を受けていたとは、僕には思え
ない。
 夢記の本文は漢文だから、一般庶民が読む内容ではない。漢文を読める貴族か僧侶しか触れる
ことはない。まして、夢記を読みましたということと、夢想しましたということはとんでもなく
違う。読んだと言うことを夢想しましたといえば、これは嘘を言ったことになる。親鸞は嘘つき
だったのか?

 「親鸞は嘘つきだった。親鸞は言い伝えに触れていてそれを見ていた」。こういうなら、あな
たがその主張の根拠となるものを提示してください。あなたの悲壮な希望的想像で主張されても、
僕は対応できない。

>だいたい立川流と決め付けるのも早計ですよ。

 僕は自分で可能な範囲で根拠を示しているつもりです。後は、根拠の評価の問題だ。評価はそ
れぞれ人によって主観が相違する。

>>51
>平安末期は僧侶の妻帯が普及してきます。

 真言宗立川流(醍醐寺派)は、当時、高野山派をしのぐ勢いだったようです。立川流が主流に
なった。
 立川流は、南北朝の争いで事実上南朝が敗北し、南朝と運命を共にした。その間、立川流には
非常に多くの僧がいた。彼らは妻帯していたかもしれない。しかし、それ以外はほとんど妻帯し
ていなかったろう。
 平安末期は僧侶の妻帯が普及していたというなら、幕末期、真宗以外で妻帯僧はどのくらいい
たのか。その数字くらいは提示して主張したらどうですか?
 日本が朝鮮半島を植民地化する前、朝鮮の寺には妻帯僧はほとんどいなかった。まして、平安
末期、妻帯僧がたくさんいたというなら、その資料的根拠を出してほしい。

54:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/04/21 11:14:18 cDNt5svJ
>聖覚法印の実父も僧侶ですね。

 これは遺伝学的に親子だったということでしょうか?。僧には淫戒というのがある(梵網経三
重戒等)。
 僧が子供を持ってはいけないという戒律はない。僧の回りには子供がたくさんいる。子供には
四種類ある。弟子と養子と猶子と実子だ。淫戒を守れば、遺伝学上の実子は生まれない。しかし、
弟子・養子・猶子というのはいる。親の無い子、親が育てられない子を預かり、養育・教育する
ことは僧の重要な社会的使命だ。親鸞は、九歳の時、青蓮院という寺に、弟子として預けられた。
 猶子は養子と実子の間で、実子との境目は、外部からはほとんどわからない。僧に子供がいた
と言えば、遺伝学上の実子であると考えるのではなく、猶子か養子と考えるのが常識だろう。
 僧を見たら破戒僧だと思うというのは、浄土真宗の悪い癖だ。人を見たら泥棒だと思うといえ
ば常識がない。人がなにか物をもっていれば、盗品と考えろといえば、むちゃくちゃな話しだ。
人が何かを持っていれば、正当な所有権、支配権がその人にあるという推定のもとで社会は動く。
推定を覆して、盗品だと判断するには、それなりの証拠がなければならない。

 僧を見たら、いきなり破戒僧であるという先入観で判断するのは常識に反する。 だから浄土
真宗は常識がない。平成時代には泥棒がたくさんいました。みんな泥棒をしていました。だから
ID:34pCP+7cも泥棒で、その持ち物はすべて盗品です。こういえば、ID:34pCP+7cさん、あなたは怒
るだろう。
 ID:34pCP+7cさんが物を持ち歩いていれば、それは盗品ではないという推定をたてる。敢えて盗
品であるというなら、そのための証拠が必要になる。僧に子供がいましたといえば、遺伝学的な
実子ではないという推定を先に立て、弟子か養子か猶子と考えるのが常識だ。僧は破戒僧であり、
子は遺伝学的な実子だったというには、ID:34pCP+7cさんが泥棒で、持ち物は盗品であると主張で
きるくらいの、相当な根拠が必要だ。

>>52
>直接の資料があるわけではないです。

 資料を見つけ、見つかってから言ってください。 
 あなたの個人的希望的妄想におつきあいするつもりはありません。



55:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/04/21 11:15:49 cDNt5svJ
>でも夢告が立川流と関係があるという根拠も無いですよね。

 こんなところで同意を求められても迷惑です。
 立川流の思想の一部を継承している後継宗教であるという主張を、僕はしています。そのため
の証拠も出している。
 僕が証拠を出しても、それは立川流との関係を根拠づけないというなら、それはあなたの証拠
評価です。あなたの証拠評価はあなたの自由です。僕とは主観が相違するということに過ぎない。
僕にはあなたの脳みそを改造できる技能も資格も意志もない。あなたから、主観の相違する相手
に同意は求めないでほしい。

>なぜつくり話を書く必要があるのでしょうか?必然性がないですよ。

 僕は以前、覚如の作り話だろうと思い、覚如が作り話をする必要性について、一、二度書いたこと
がある。作り話をする必要性があるという主張を真仏にシフトする必要はあるが、それは無理な話で
はない。

 ただ、立川流との関係を示す証拠を出しても、それを無視して「立川流とは関係がない」というあな
たには、作り話をする必要性についても説明をしても、あなたの耳には入らないでしょう。

 五根者、心為其主(眼・耳・鼻・舌・身の五根は、心をその主体とする〔天台小止観〕)。「立川流とは
関係がないんだ」という心が主体になっていれば、つくり話を書かなくてはならない理由を耳や眼から
入れようとしても、あなたは拒絶するでしょう。聞く耳のない人に話をするつもりはありません。

56:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/04/21 11:36:56 cDNt5svJ
 平安・鎌倉時代、破戒僧はたくさんいた。だから親鸞も破戒僧で妻帯していた。これは、
むちゃくちゃな議論だ。
 平成時代、社会には泥棒がたくさんいた。だからID:cDNt5svJも泥棒で生活していた。
こういうなら、平成時代、社会にどのくらい泥棒がいたか、その数字くらいは最低限出す
べきだろう。
 
念佛は聲聲に佛種を下す。坐禪持戒は眞功を用いてなり。汝若し修せずしてすなわ
ち佛になるといはば、喩へば飢えたる人のひろく風を掩ふがごとし(五会法事讃略抄)。

 親鸞は戒律を守れと説く。親鸞は流罪で無戒になった。しかし流罪前に破戒僧だった
いうには、ID:cDNt5svJを泥棒であると立証できるくらいの証拠を示してほしい。

57:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/04/26 10:17:55 FPeI80hy
 死んでいる浄土真宗学ではなく、親鸞聖人の生きている念仏を実践したいものだ。

58:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/04/26 10:18:45 FPeI80hy
>>57 誤爆

59:神も仏も名無しさん
10/04/27 18:25:08 0YhILwsC
こんにちわ渡海 難さん
あなたが「死んだら鬼籍に入る」と言っているのは、
どこかの経典、聖教に典拠がありますか?

60:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/05/06 12:21:37 dluL8Az3
>>59
 他の板での継続的議論です。飛び火にはノーコメントとします。

         ○  ●  ○  ●  ○  ●  ○
>>45
 一切の業で定んで果を得んとすれば、すなわち聖道を求めて修習すべからず。
(大般涅槃経要文 親鸞真筆)

 正しい修行を積めば、ことごとくその結果を出さなければならないなどと、そのように思って
はならない。結果が出ないこともある。結果が出ないこともあることは覚悟の上で、どうか聖道
を求めてほしい。親鸞は、大般涅槃経要文を介し、釈迦の言葉を引用して弟子達にそのように訴
える。

 善男子、菩薩摩訶薩、大乗大涅槃經を修習し、佛性を見んとおもう。このゆえに少欲知足を修
習す。 〜 出家の人に四種の病あり。この故に、四沙門果を得ず。何等を四病とす。謂く、四
の惡欲なり。一には衣のための欲、二には食のための欲、三には臥具のための欲、四には有のた
めの欲なり。これを四惡欲と名づく。これ出家の病なり。四の良薬ありて能く是病を療す。いは
く。糞掃衣は、比丘の衣惡欲をなすを能く治す。乞食は、食惡欲をなすをよく破す。樹下は、臥
具惡欲をなすをよく破す。身心寂静なるは有惡欲をなすをよく破す。この四薬をもって四病を除
く。これを聖の行と名づく。かくのごときの聖の行は、則ち少欲知足と名づくことを得るなり。乃至

 親鸞は無欲になれとは言わない。親鸞は僧に言う。少欲知足を学べと。
 善男子よ。正しい修行者は大乗大涅槃経を修習する。佛性を得ようとして少欲知足を学ぶ。き
れいな服を着たい。うまいものを食いたい。快適な夜具で寝たい。いいものを欲しい。これを坊
さんの四つの病という。ぼろを着ろ。托鉢をせよ。樹下で寝ろ。心身寂静となれ。このようにす
れば、四病は直る。

 もし、如來の所有の身業を見たてまつらん、まさに知るべし。これすなわち、如來とするなり。
これ眼見と名づく。もし、如來所有の口業を觀ぜば、まさに知るべし。これすなわち如來とする
なり。これを聞見と名づく。 〜 もし、如來所作の神通を見むに、衆生のためとやなせん、利
養のためとやせん。若し、衆生の爲にして、利養の爲ならずば、まさに知るべし。これすなわち
如來とするなり。これを眼見と名づく。

61:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/05/06 12:24:31 dluL8Az3
もし、如來を觀ずるに、他心智をもって衆生を觀ずる時、利養のために説き、衆生のために説か
ん。もし衆生のためにして、利養の爲にせず。まさに知るべし。これすなわち如來とするなり。
これを聞見となづく。 

 如来が行うようなことを行っている人がいれば、その人は如来であると思いなさい。如来が語
るようなことを語っている人がいれば、その人は如来であると思いなさい。自分のためではなく、
多くの人のために行動している人については、その人を如来と思いなさい。人の心を見抜く力の
ある人が、その力を自分の利益のためではなく、他人の為に努めている人がいれば、それは如来
であると思いなさい。
 親鸞は僧に言う。如来が行うようなことを行っている者がいれば、その人に学べ。如来が語る
ようなことを語っている人がいれば、その人に学べ。自分の利益を忘れ、他人のために行動して
いる者がいれば、その人に学べ。人の心を見抜く力のある人が、自分の利益を忘れ、他人のため
にその力を発揮していれば、、その人に学べ。

 若し毘婆舎那がよく煩悩を破すなら、なにがゆえぞまた奢摩他を修するや。 〜 もし破する
に到らざれば凡夫なり。衆生はすなわちよく破すべし。 〜 毘婆舎那煩悩を破せば、獨りよく
破すとやせん。伴にことさらに破すとや。

 一念念仏と多念念仏とをなぜ実践するのか。一念念仏は毘婆舎那となって効果的に人々の煩悩
を破壊するからである。もし、煩悩を破壊できなければ、それは、未熟だからである。普通の人
は、早晩、よく破壊できるようになる。一念念仏は煩悩を破壊するなら、何故多念念仏を実践す
るのか。毘婆舎那は奢摩他となる多念念仏が付随することで煩悩を破壊するのである。

 親鸞は、称名念仏が煩悩の破壊に効果があるからこそ人々に勧めている。未熟なうち、つまり
初心の内はなかなかうまくいかないが、慣れてくればそれが可能になる。だからこそ、念仏道場
を開き、初心者もベテランも一緒に念仏を称え、ベテランが初心者を指導できる環境を作ろうと
した。
 称名念仏ができるようになりなさい。煩悩をできるだけ破壊できるようになりなさい。奢摩他
・毘婆舎那ができるようになりなさい。親鸞は人々にそう勧める。

62:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/05/06 12:25:31 dluL8Az3
禅定ができるようになり、奢摩他・毘婆舎那ができるようになって煩悩を破壊できるようになると、
在家の仏教は事実上卒業となる。僧はそこからスタートする。

 私は凡夫です。煩悩の固まりです。念仏を称えられません。そのようなことを言っている人は、
浄土真宗には坊さんとしては一人もいないはずなのである。
 僧は四病を直せ。きれいなものを着たいと思うな。うまいものを食べたいと思うな。安らかに
寝られる夜具を求めるな。無いものを欲しいと思うな。自らの利益を捨て、他人の為に尽くせ。
そのためには、自らの利益を捨て、他人の為に尽くしている人に学べ。これが浄土真宗の底流の
教えである。

 世に曲事の起こり候いしかば、それにつけても、念仏を深く頼みて、世の祈りに心を入れて、
申し合わせ給うべしとぞおぼえそうろう。(消息集)
 世の中で困ったことが起これば、それを縁として、互いに打ち合わせあい、集まりあい、念仏
を深く信頼し、世の中がどうか幸せになりますようにと祈りあってみてください。念仏を称え合
ってください。親鸞は手紙でそのように訴える。

 親鸞が提起した質問に、存覚上人は一つの回答を提示する。

 されば念佛の行者、うちに信心を蓄えて心を淨土の如來に掛くといふとも、道場を構えて功を
安置の本尊に積むべし。自行化他の利益これにあるべきなり。 〜 穢土なれども淨刹に准じて
道場といふなり。されば自作・教他ともに最上の善根なれば、誠心をぬきんでて道場をかまへ、
同行を會して念佛を行ずべきなり。念佛は无上の功徳超絶の勝行なるがゆへに、諸佛も哀納し諸
天も歓喜したまふ。諸佛の照覧に叶ひ諸天の守護にあづからば、恩所の得脱も疑なく、自身の往
生も決定し、二世の所願一々におもひの如くして、自利々他の願行圓滿し、自他平等の利益を獲
得すべきなり。

63:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/05/06 12:37:37 dluL8Az3
 念仏道場を作ろう。多くの人々と共に五会念仏を称え、互いに様々に語り合えるそのような場
を作ろう。存覚上人は、これこそが僧の最大の仕事であると考えた。存覚上人は全国に多くの念
仏道場を作る。浄土真宗は、多くの人々と一緒になって座禅して五会念仏を称え、互いに様々に
語り合うそんな場を作る念仏運動である。その中核になるのが僧である。これこそ、親鸞が六角
堂で後世を憂い、悩んだ問題に対する回答であり、観音菩薩の行、法華経の一つの実践の姿だろ
うと考える。親鸞は日蓮聖人とほぼ同じ時代に出現し、日蓮聖人とは全く異なった法華経の実質
的な実践のありかたを提起する。

64:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/05/10 18:55:59 9uxfTMDB
 インターネットアーカイブが公開している一切経(カナダトロント大学収蔵)の
索引を作りました。

  しんらん.jp
 



65:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/05/13 13:59:10 oIKDDxxm
 智慧の力あり、戒と誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想(禅定)を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、執著から脱して、
荒れたところなく、煩悩の汚れのない人、─諸々の賢者は、かれを聖者であると知る。(中村元 スッタニパータ)

 戒律と禅定と智慧を学ぼう。三学を学ぼう。この主張は、紛れもなく釈迦その人の主張だろうと思う。十二因縁の学習は
四諦の学習であり、四諦の学習は八正道の学習であり、八正道の学習は中道の学習であり、中道の学習は三学の学習
である。これらは、釈迦の中では別々の思想ではなく一つの思想だったろうと僕は考える。浄土真宗は、三学の学習を思
想の基盤とする。

 親鸞は持戒と座禅を勧める。教行信証の行巻で、法照の言葉を引用する。

 「王いま座禅してただ当に念仏すべし」と。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。

 正法よく世間を超出す。 持戒・座禅を正法と名づく。 念仏成仏はこれ真宗なり。 仏言を取らざるをば、外道と名づく。 
因果を撥無する見を、空とす。 正法よく世間を超出す。 禅律いかんぞこれ正法ならん。 これ真宗なり。 性を見、心
を了るは、すなわちこれ仏なり。いかんが道理、相応せざらん。

 親鸞は、五会法事讃略抄で法照禅師の教えを紹介し、念仏三昧の位置を提示する。

 念仏三昧は、これ真の無上深妙の禅門なり。

 念仏三昧は禅門である。念仏三昧というのは、親鸞が勧める念仏方法である。法然が勧めていた善導流の正定の業で
は浄土の要に至らない。親鸞はそう考える(化身土)。親鸞は、道綽の安楽集を引用し、在家である厳父に対し釈迦が念仏
三昧を勧めている言葉を紹介する。親鸞は、不定聚に対し念仏三昧を勧めている。当今の凡夫は、〜「不定聚」と名づく
(化身土)。親鸞の考えの重要な柱である。浄土真宗は、現代の凡夫に、念仏三昧という無上深妙の禅門を開いた。

 正法と真宗、浄土真宗はこの二つの思想を根本思想とする。念仏をもって成仏を開く。それが真宗である。持戒・座禅が
正法である。なにゆえ正法を必要とするのか。親鸞は法照の教えを紹介する。

 念仏は声声に仏種を下す。座禅持戒は真功を用いてなり。汝若し修せずしてすなわち仏になるといはば、喩へば飢えた
る人のひろく風を掩ふがごとし

66:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/05/13 14:01:42 oIKDDxxm
 念仏は一声と一声に仏になる因をもたらしてくる。しかしそれだけでは中身がない。座禅持戒
なく仏になるといえば、空腹の人が風下に立ち、吹いてくる風を腹の中に押し込めようとするよ
うなものだ。実に空虚である。座禅と持戒とは、実体的な効果をもたらすために必要なのだ。座
禅と持戒は、親鸞の教えの重要部分である。

 親鸞は大涅槃経要門を引用して言う。
 巻第三十一の師子吼菩薩品、第十一の五に言はく。「師子吼言ふさく。世尊よ、經の中に説く
がごとし。若し毘婆舎那がよく煩悩を破すなら、なにがゆえぞまた奢摩他を修するや。 〜 毘
婆舎那煩悩を破せば、獨りよく破すとやせん。伴にことさらに破すとや。

 親鸞は一念念仏と多念念仏とを勧める。一念念仏すなわち毘婆舎那で煩悩を破すなら、どうし
て多念念仏すなわち奢摩他を修行する必要があるのだろうか。毘婆舎那は奢摩他を伴って煩悩を
破すのである。親鸞はそのようにいう。


 親鸞は涅槃経によって釈迦の言葉を紹介する。禅定と智慧とは、それぞれ学ぶべき時があると
いう。その上で親鸞は忘れることの大切さを説く。
 
 善男子よ。もし菩薩摩訶薩ありて善く定時・慧時を知れり。これを菩薩摩訶薩の菩提道を行ず
るとなずく。師子吼言ふさく。世尊よ、いかんが菩薩は時と非時とを知ると。善男子よ、菩薩摩
訶薩は樂を受くるによりて大僑慢を生ず。あるいは法を説くによりて驕慢を生ず。あるいは精進
するによりて驕慢を生ず。 〜 まさに知るべし。その時、よろしく智を修せずして、よろしく
定を修すべし。これを菩薩は時と非時とを知ると名づく。もし精進を勤修すれども、菩薩はいま
だ涅槃の樂の利益を得ず。得ざるをもっての故に、悔心を生ず。 〜 自から戒律を疑い、羸損
あるが故なり。 〜 まさに知るべし。そのとき、よろしく定を修せずして、智を修すべし。こ

67:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/05/13 14:02:55 oIKDDxxm
れを菩薩は時と非時とを知ると名づく。善男子よ、若し菩薩の定慧二法が平等ならざれば、まさ
に知るべし。そのときよろしく捨を修すべからず。二法もし等しくば、すなわちよろしくこれを
修べし。これを菩薩は、時と非時とを知ると名づく。善男子よ。もし、菩薩ありて定慧を修習せ
んに、煩悩をおこすことあらば、まさに知るべし。そのときはよろしく捨を修すべからず。まさ
に十二部經を讀誦し、書寫し、解説し、念佛し、念法し、念?し、戒を念じ、天を念じ、捨を念
ずべし。これを捨を修すると名づく。乃至

 驕慢が生じたときは智慧ではなく、禅定を学べ。禅定の努力をしても悟りという結果が生じな
いときには智慧を学べ。悟りという結果が生じないことで戒律の重要性を疑いだしたら、大きな
間違いを冒すだろう。現代の浄土真宗の坊さんのように、戒律の重要性を忘れたなら、大きな間
違いを犯すだろう。
 戒律の重要性を忘れないためにも、禅定と智慧とはバランスよく学べ。バランスが悪い場合に
は、欠けている方に努力を傾けよ。学習を放棄してはならない。禅定と智慧とをバランスよく学
べたなら、それを忘れることを学べ。忘れることが大事である。しかし、煩悩が起きてきたなら、
禅定と智慧の学習を忘れてはならない。経典類を読み、それを書写し、意味を理解し、念仏し、
念法し、念僧し、戒を念じ、天を念じ、その上で全て忘れよ。全てを学んで全てを忘れよ。親鸞
はそのように言う。

 浄土真宗は、釈迦以来の仏教の本道を説いている。しかし、その三学の説き方に若干の相違が
ある。それを考えてみよう。

68:神も仏も名無しさん
10/05/13 21:42:01 ZwoajjMR
実に興味深いです。

69:神も仏も名無しさん
10/05/15 17:50:52 dUeeBy4T
南無阿弥陀仏

70:転落院
10/05/16 20:05:14 YuuBBomp
さて質問です。
例えば…、

末法五濁の衆生は
 聖道の修行せしむとも
 ひとりも証をえじとこそ
 教主世尊はときたまえ 『高僧和讃』 

末法五濁の有情の
 行証かなわぬときなれば
 釈迦の遺法ことごとく
 龍宮にいりたまいにき 『正像末和讃』

 よく似た和讃、とくに一句目が似ていますよね。とりわけ「衆生」と「有情」という違いが見てよくわかります。
色々な辞書で調べましたが、どれも「衆生」=「有情」という扱いのようです。
しかし、『三帖和讃』の中でも『正像末和讃』だけは、他と比べても「衆生」ではなく「有情」という語にこだわりがあるようです。
ここには当然、親鸞さんの何かしらの意図があるのでしょうが、今のところ皆目見当がつきません。

どうお考えになりますか?

71:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/05/18 10:21:22 ek+qpUeN
>>70
 ブログ親鸞仏教の百家争鳴の中にも書き込まれていましたので、そちらの方に
コメントを書きました。

 ぶろぐ親鸞仏教
   URLリンク(www.)しんらん.jp



72:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/05/19 11:21:25 nX3nPuu/
 お知らせ

 期限未定で休筆します。

 いずれ再開すると思いますが、1か月、半年、1年以上先か

 全く分かりません。

73:あんぽんたんオオムラ
10/05/29 20:47:45 salGUk8M
親鸞の著書『教行信証』とは、浄土三部経を自己流に翻訳したものだと聞いたことがありますが、

これで正解ですか?

しかし、本願寺の現代語版には、『観経疏』とか『如来会』からの引用もあるのですが???

これらは、浄土三部経のなかの何処かの章のタイトルなのでしょうか?

74:神も仏も名無しさん
10/06/22 15:49:49 s4dNlzjf
age

75:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/07/12 11:54:39 BZ7kAAeE
>>73
 もう少し時間をください。

76:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/07/25 13:09:52 aevD/RuW
 娘がちょっと難しい病気になり、その世話で物理的にも精神的にも2ちゃんねるに気を向ける余
裕がありません。それでも長い間ご無沙汰しているのも気になるので、少し書いてみます。

 浄土真宗は、釈迦以来の仏教の本道を説いている。しかし、その三学の説き方に若干の相違があ
る。それを考えてみよう(>>67

 釈迦仏教では、入門するとまず戒律を授かる。戒律を守りながら、直ちに智慧と禅定とを学ぶ。
親鸞はこの教育プログラムに疑問を持った。三学を同時にスタートする必要があるのだろか。これ
は現代にそぐわない。

 三学を学べ。親鸞がそう言っているのは、おそらく大般涅槃経要文だけだろうと思う。未発見あ
るいは歴史の中で消失した文書の中に書いてあった、あるいは書いてある可能性は否定できないけ
ど、現時点では大般涅槃経要文だけであるという仮説を前提にして考えたい。また、出家の守るべ
き道を記載してあるのも、この大般涅槃経要文だけだろうと思う。

 大般涅槃経要文は、禅定ができるようになった人を読者にしている。つまり親鸞にとって、出家
とは禅定ができるようになってから始まる。三学の学習も、禅定ができるようになてから始まるの
だ。禅定ができるようになるまでは、出家を考えるな。智慧も戒律も入らない。親鸞仏教とは、出
家という学校に上がる前、いわばプレスクールの教育プログラムを社会教育として社会に提示して
いるのである。

 歎異抄は言う。
 「経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といいつ
べし」。
 この言葉に親鸞の教育プログラムの信念が含まれていると思う。経典を読んだり、論釈を読んだ
りしないならば、本当に仏教を学んでいることにならない。仏教を学ぶと言うことは、戒律と禅定
と智慧とを平行して学ぶ必要がある。そういう考えが伝統的価値観の中にある。親鸞はこの考えに
反対する。親鸞は禅定先行論を主張する。


77:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/07/25 13:11:12 aevD/RuW
 戒律や智慧の学習も大事だけど、最初は禅定を先行させようではないか。戒律や智慧の学習は、
禅定の実践ができるようになってからで遅くはない。親鸞はそう考えている。
 戒律や智慧の学習は後回しでいい。事務員さんも、警備員さんも、ラーメン屋さんも、まず禅定
の学習だけやってみてください。その場合でも、いきなり奢摩他・毘婆舎那をしなさいとは言わな
い。念仏道場などで一念念仏・多念念仏を実践してみて、そこで禅定ができるという経験を積んで
欲しい。事務員さんや警備員さんやラーメン屋さんに、親鸞が坊さんとして教えることのできるの
はこの禅定だけです。親鸞はそういう。

 ラーメン屋さんや警備員さんが、法華経を読んでも、唯摩経を読んでも、たいした参考にはなら
んだろう。ラーメン屋さんはそれより、簿記の勉強や、仕入れ、販売の勉強をした方がいい。勉強
することもなく、経営も安定すれば、少年野球チームの監督でも引き受けたらどうですか。法華経
もいいけど、他にも読む本はたくさんあるだろう。警備員さんも事務員さんも同じだ。村上春樹の
『1Q84 BOOK』がいいか、法華経の方がいいか、好き好きもあるだろうが、『1Q84 BOOK』を読まず
に法華経を読みなさいとは言えないだろう。そんな事務員さんも、警備員さんも、ラーメン屋さん
も、一念念仏・多念念仏を実践してみて禅定ができるようになってほしい。できるようになったら
どうするか。そしたらそれで仏教の学習は卒業でいい。仏教の戒律を学ぶより、警備員さんには警
備員さんの世界のルールがある。国法を守り、地域の決まりを守り、業界のルールを守る。それが
大事だ。ラーメン屋さんも同じだ。

 出世の法において五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもりて、
内心には他力の不思議をたもつべきよし師資相承したてまつるところなり。(改邪鈔)もし諸仏菩
薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・礼・智・信ある
ことを知らんや。(教行信証)

 仏教では五戒を守れと言うが、実際には仁・義・礼・智・信を守れ。世の通常の道徳、常識を守
れ。親鸞はそういっていた。諸仏菩薩は、人々に仁・義・礼・智・信、つまり世の通常の道徳、常
識を守れと教える。


78:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/07/25 13:12:15 aevD/RuW
 親鸞は、仏教初心者には、智慧と戒律の教育を後退させた。しかし、自分は仏教の専門家になる。
人々がそういう志を抱くことは大変大事なことだ。親鸞は、禅定ができるようになった人には出家
を許した。出家になると、今までの態度は一変する。浄土の教えを終わらせ、聖の行を実践せよ、
聖道門を守れと説く(大般涅槃経要文)。

 出家は戒律と禅定と智慧と捨を学ぶ。禅定と智慧と捨を学び、念仏道場を作って人々を教化する。
これが親鸞仏教の大乗プログラムである。

 まさに親鸞仏教とは、現代の実情にかなった釈迦仏教、大乗仏教の中核に位置する。僕はそう思
う。

79:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/08/06 14:12:01 sdfz2SSw
 念佛三昧は、これ眞の無上深妙の禪門なり(五会法事讃略抄)。王いま座禅してただ当に念仏
すべし(行の巻)。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひ
とのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり(歎異抄)。かの土に生じ已りて、奢摩
他・毘婆舎那・方便力成就することを得(証の巻)

 念佛三昧は禅門である。座禅して多念念仏、一念念仏を練習し、奢摩他・毘婆舎那ができるよ
うになりなさい。きっとすばらしい人生が開かれてくるだろう。戒律と智慧の学習を後退させ、
親鸞は禅定の学習を提唱した。三学を一律でなく、優劣をつけるという考え方は親鸞が最初では
ない。古くは鑑真の時代からある。鑑真は、日本に来ると一般民衆にまで授戒を行った。鑑真は、
大衆には智慧と禅定を後退させて戒律を説いた。現代の学校教育はどうか。座禅を教えている学
校は極めて少ない。いわば智慧の学習がほとんである。学校で生徒に禅定を教えれば、学校教育
におそらく革命が起きるだろう。

 智慧や戒律を後退させ、禅定を学ぼう。こういう提案は、通常の釈迦の教えからは出てこない。
その場合、曹洞宗や臨済宗であれば、教外別伝・不立文字という主張が可能になる。しかし天台
宗にはそのような考えはない。親鸞は、経典群の中から阿弥陀仏という名の架空の仏の教義とし
てその主張を体系化した。

 親鸞の考えは、たしかに釈迦には思いも寄らない考えだったかも知れない。しかし、釈迦の教
えに時間というファクターを加えれば、自然に出てくる考えだろうと思う。その意味で、親鸞仏
教は釈迦仏教の本懐を説いていると僕は思う。

 以上を持って、昨年の八月から続けた釈迦仏教と浄土真宗との関係に関する議論を終わります。


 以前に「大無量寿経がなぜ真実教か」という問いがありました。それと、ある人から八苦の内
の五蘊盛苦の意味を教えて欲しいという質問をインターネット外で受けたことがあります。その
とき直ちに答えられなかった。
 五蘊盛苦とは何かを先に考え、その後、「大無量寿経がなぜ真実教か」ということを考えてみ
たい。

80:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/08/19 13:20:04 fImJh8FY
 五蘊盛苦の問題に入る前に、触れておきたい問題を思い出した。「仏教では五戒を守れと言う
が、実際には仁・義・礼・智・信(五常)を守れ」。親鸞はそう教えていた(改邪鈔)。この問
題の解説が舌足らずだ。これが意味するテーマは、日本仏教の中で割合と深い問題を孕んでいる
ように思うので触れておきたい。

 法照禅師は、坐禅の実践と戒律の維持の重要性を説いている。親鸞仏教では、禅定ができるよ
うになるまでは出家になれない。親鸞聖人が教化の中心に置いた人々は、禅定が不十分な不定聚
と正定聚であって、全て在家である。仏教の原則では、在家が守る戒律は五戒という五項目であ
る。つまり、不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒である。つまり、親鸞は、仏
教の原則で言えば、人々に不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒を説く立場にあ
った。
 しかし親鸞は「五戒つまり五常を守れと説いていた。覚如上人はそう教えてくれている。もし
そうであれば、親鸞の主張の伝統教学上の正当性と社会的客観的妥当性が問題になる。

 伝統教学上で親鸞の主張は正当か。親鸞は曇鸞に基づいていたのだろうと思う。親鸞は教行信
証で、「もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁
・義・礼・智・信あることを知らんや」。という浄土論註の言葉を引用している。諸仏菩薩が説
く世間・出世間の善道とは、仁・義・礼・智・信である。親鸞はこの言葉から、五戒に代えて仁
・義・礼・智・信を説く正当性を導いていたに相違ない。

 社会的客観的妥当性の問題は、評価する人の主観にもよるが、在家が守るべき基本的な道は五
戒に置くよりも仁・義・礼・智・信に置いた方が現実的であり、ベターであるという判断が働い
ている。
 明治以降、特に戦後になって法句経・阿含経、スッタニパータなどが広く一般の人々の手に届
くようになってきた。江戸時代までは、仏教の専門家である坊さん達以外、庶民にはほとんど知
られていなかった。法句経・阿含経、スッタニパータなどにはあまり触れない。これが伝統的日
本仏教の特徴である。社会規範としては法句経・阿含経、スッタニパータにまさるものがある。
それは儒教である。日本仏教の先人達はそう考えていた。

81:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/08/19 13:21:07 fImJh8FY
 日本仏教の先人達は仏教に固執しなかった。儒教と天秤に掛け、より良いと思う方を庶民に提
示したらしい。仏教の戒律は解釈が難しい。出家と在家ではダブルスタンダードを適用しなけれ
ば妥当性が導けない。それに比べ、儒教倫理の方が庶民、在家の倫理規範としては合理的でわか
りやすい。日本仏教の先人達はそのように考え、親鸞は仁・義・礼・智・信を守れと説いていた。
そのように考えるべきだろう。

82:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/08/19 14:07:50 fImJh8FY
 それでは、親鸞は仁義礼智信を説き、仏教の戒律の維持は説かなかったのか。そん
なことはない。例えば、親鸞肉筆の文書の中に「浄肉不浄肉の文」というのがある。
ここで肉食の限界を教えている。
 鎌倉時代、関東は土地がやせ、肉食は生きるための最低条件だったろうと思う。その
ような中で、親鸞は肉食の限界を教えていると考えたい。「浄肉不浄肉の文」は、出家
者に向けての持戒の教えだ。
 親鸞は、在家には五常を説くが、出家には持戒持律の生活を要求していたと考える。
浄土真宗の僧は仏教の戒律を守れ。

 もし精進を勤修すれども、菩薩はいまだ涅槃の樂の利益を得ず。 〜 自から戒律
を疑い、羸損あるが故なり。まさに知るべし。そのとき、よろしく定を修せずして、
智を修すべし。

 戒律は重要である。努力を重ねているがなかなか悟りの利益が得られなければ、結
局は戒律を疑い、戒律を破って自らを損ねることもある。戒律に疑いを持つようにな
れば三学の内の智慧を学び直して戒律の重要性を再認識せよ。(大般涅槃經要文)

 親鸞聖人は、禅定ができるようになり、蓮華蔵世界で出家した僧に向かってはこの
ように説いている。これが浄土真宗親鸞聖人の教えである。

83:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/08/30 11:06:53 o8y/sL3N
 五蘊盛苦とは何か。最近、僕は、秋葉原歩行者天国での通り魔殺人事件が思い浮かぶ。犯人の
加藤智大さんは、自動車工場の派遣社員だったという。彼の世代の多くが、現代では非常に困窮
している。1980年代、日本中が土地バブルに踊った。その後、日本経済は長い不況トンネル
の中に入った。
 一方、中国はGNPで日本を追い抜き、中国経済は世界を動かそうとしている。G5(日、独、
英、米、仏)又はG7(日本、独、英、米、仏、伊、加)に代わってBRISC(ブラジル、露、
印、中)が勢いを増し、VISTA(ベトナム、インドネシア等)、NEXT11(イラン、イ
ンドネシア等)がそれを追っている。そんな中、G5の先頭にいる米・日、特に日本は疲弊が激しい。
土地バブルの後遺症を脱していない。職のない若者達が塗炭の苦しみを受けている原点は、土
地バブルによるものだろう。

 土地バブルの狂乱経済と秋葉原での殺人事件とは関係がないというかもしれない。しかし、当
時の人々が国の舵取りを間違えなければあのような狂乱時代はなかったろう。土地バブル狂乱経
済は人が起こしたが人災であり、あれがなければ、秋葉原の殺人事件もなかったろうと思う。

 現代の我々が今経験している再起・挫折・再起・挫折は、過去無数の人々が経験してきた再起
・挫折・再起・挫折と本質的にはいささかの相違もない。今後、無数の人々が経験していく再起
・挫折・再起・挫折と本質的にいささかの相違もない。土地バブルを起こした愚かさと、無差別
殺人を起こす愚かさとは同一であると言えば言い過ぎか。本当のことが見えていない闇の中では、
全てが真っ黒に見る。愚かさは暗黒をその本質とする。
 人が、再起・挫折・再起・挫折を繰り返すその根本には、実態が見えず、本当のことが分から
ない無知(無明)が横たわっている。始め無き始めから終わり無き終わりに向かってそれは限り
なく連続している。

 土地バブル開始の頃、加藤智大さんなどは、まだ生まれていなかったに違いない。最近、秋葉
原殺人事件を模倣した同様の殺人事件が広島マツダ工場で起きた。愚かさは、常に人々の精神の
奥底でマグマのように沸騰しており、弱いところがあるとそこを突き破って地表に吹き出てくる。



84:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/08/30 11:10:22 o8y/sL3N
吹き出た爆発の様相は各所で表面的な相違があっても、地下では時代を超え、地域を越えてつな
がっている。

 人々に智慧がない。正しい智慧がなければ悲劇は二度、三度と繰り返す。無明を破る力は、倹
約ではない。我慢の精神力でもない。智慧以外のなにものでもない。我々一人一人に智慧がない
こと、それがマグマの本質であり、無明の実体であると言うべきではないか。

 智慧は深い思索すなわち禅定から気づけてくる。釈迦が二千年以上前に我々に提唱してくれた
仮説だ。深い思索を忘れた上辺だけでの認識、浅い思考、分別無き行動は全て迷いである。ネッ
トで相手をされなくなれば殺人に走る。実に愚かで悲しいことではないか。

 肉体は眼・耳・鼻・舌・身・意を持つ。眼はものを見、耳は音を聞く。深い心がなく、上辺で
物事ごとを見れば、本当のことは見えないだろう。本当の音は聞こえないだろう。眼は節穴であ
り、耳は壁になる。鼻は塞がれ、舌は抜かれた状態になる。眼に眼はなく、耳に耳はなくなる。
鼻に鼻が無く、舌に舌がない。智慧を忘れた一切が空である。

 むかついた。腹が立った。頭に来た。殺してやりたい。こうした感情も、深い思索があれば変
わることも多いはずだ。受けた感情、抱いた考えは、根も葉もない妄想だったということは少な
くないだろう。

 深い思索すなわち悟りのない色・受・想・行・識のどこに、確実なものがあると言えるだろう
か。確実なものはどこにもない。

 念仏三昧は、これ真の無上深妙の禅門なり。念仏三昧これ真宗なり。念仏成仏これ真宗なり。
王今坐禅してただ当に念仏すべし。(五会法事讃略抄)

 五蘊盛苦とは、親鸞が提唱するこの仮説と表裏の概念だろうと僕は思う。

85:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/08/30 17:02:21 7NYIUEXX
 口の利けない人、言葉の発せられない人は極楽浄土にいけないのか。百家争鳴で回答しました。

ブログ親鸞仏教
      www.しんらん.jp
      百家争鳴 掲示板

86:どんくさい学者の妄説信者へ
10/09/11 15:51:41 KT6W8uo1
神学1
 日本人の後ろ盾には、この宇宙を創造された神がおわします。悪神(メーソン)
はこの神に成り代わろうとして、日本人を人質にとって言いなりにさせようと
している。メーソンが日本に原爆を落としたのもこの理由からである。最近、
日本人が海外で死亡しているのはメーソンの陰謀である。日本人の血統は一番
神に近い。そのことは竹内文書にうたってある。日本人はキリストのように人
類の罪を贖わなければならない運命に置かれている。
 西洋人の面貌は昔の人が言っているように、紅毛青眼の醜夷である。ほりが
深く、青眼なのは吸血鬼ドラキュラと一緒で、青眼だから太陽の光が眩しいの
で彫りを深くして眩しさを防いでいる。つまり、悪魔の類である。韓国人の面
貌、特に目の形がつり目やたれ目でいびつなのは、これも同様に目蓋で眩しさ
を防いでいるのであり、悪魔の類である。日本人の目は均整が取れて美しい。
昔の日本人の大和魂も美しい。
 メーソンは日本人を卑しめる為に、洗脳して来たのである。日本には固有の
文字がなかったとか、中国文化を習ったとか、西洋文化で文明開化したとか、
太平洋戦争でアジアを侵略した(この戦争は自衛戦争、その前の中華事変で挑発
された。米英は中立を守らず、蒋介石に軍事援助した)とか。そのお陰で日本古
来の伝統の神道が絶たれた。神国日本に神風が吹かなかったのは、戦争と言う武
力で物事を解決しようとしたからである。その罰が原爆被害として表れた。
 神が表に現れて善と悪を立て分ける。ヨハネの黙示録に言う悪魔の刻印を押
された者とは、肉食を行なう事によって内なる神の分け御霊を穢して、まるで、
太陽が黒雲で覆い隠された様なものである。この悪魔に取り憑かれた者は、慈
悲の心と羞恥心が欠如し、自己の欲望を満たす為に正義から外れた行動をとる。
五戒(殺生、偸盗、邪淫、妄語、贅沢)の罪を犯す。この者は神を信じないか、
悪魔の宗教に魂を売っている。神を否定した科学を妄信して、科学によって生
ずる害毒が自然を破壊する事に手を貸している。この者達は神の最後の審判に
よって草木等に替えられる。内なる神の御霊が発揮出来る様に直ちに菜食に移
行しなければならない。


87:どんくさい学者の妄説信者へ
10/09/12 13:03:37 WZbQe3O9
 587年、物部、蘇我氏との間で神仏戦争が起き、聖徳太子の家来である迹見
赤檮が物部守屋を弓矢で射殺した。彼は押坂彦人大兄皇子の家来でもあった。
日本書紀は彦人皇子が死んだとも記述しないで、突然、その子・舒明天皇が即
位したと述べている。その皇后・皇極天皇治世時に大化の改新が起こり、中大
兄皇子らが蘇我入鹿を暗殺した。罪名は国政を専横したと言う。しかし、皇極
天皇は彦人皇子の孫で蘇我氏の血を受けていない。なぜ、蘇我氏が専横してい
るのに、皇位が蘇我氏の血を受けていない本流に戻ったのか。どうしてそれが
専横となるのか、矛盾している。彦人皇子は皇太子であるのに天皇になれなか
った。まるで聖徳太子とそっくりである。両者の家来が迹見赤檮である事から
聖徳太子の正体は押坂彦人大兄皇子であり、天皇に成れない訳がない。聖徳太
子は蘇我入鹿として斬殺された。三韓の朝貢時に事件は起きた。つまり、犯人
は中大兄皇子(百済王豊璋)である。だから、彼は滅んだ祖国・百済を再興す
る為に、日本軍を白村江の戦いに注ぎ込んだのである。中大兄皇子はイスラエ
ル12支族のユダ族である。天皇家の紋章がイスラエルのシンボルの麒麟(一角
獣)である事からも分かる。
この偽の天皇の為に、楠正成、2.26事件の将校、神風特攻隊員等が犠牲となっ
た。未だに日本は朝鮮人に支配されている。真理を悟る事が出来るのは聖者だ
けである。本来世界は天皇が治めるべきものであり、その国の王が委託を受け
ていた。メーソンが世界制覇の為に各国の王政を破り、天皇に成り替わらんと
している。悪魔が統治しても悪の世は潰れる。神の信任を受けた聖者が統治し
なければならない。民主主義などと言う衆愚の多数決ではものごとは解決しな
い。悪魔は世を潰し、神の裁きを受けて退治される。

88:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/09/12 13:26:14 qDB+n+Ce
 大無量寿経はなぜ真実経か。この問題について考えて行きたい。
 この問題を考える場合、大事なことがある。予め一切のフィルターを外し、生の形の大無量寿経を認識
することだ。
 親鸞が真実経であると言ったから真実経である。そういう考え方をやめよう。四十八の誓いの中で、十
八願を法然が王本願と言ったからそれが中心である。こういう考え方をやめようではないか。善導大師は
大無量寿経から念仏の教えを開いてきた。だから大無量寿経は念仏の経典である。そういう考え方を一切
やめようではないか。

 大無量寿経には筆者がいる。筆者は誰か。筆者の主張は何か。筆者の主張に焦点を当てて、筆者の思い
を考え、大無量寿経が語ろうとしてことを一つ一つ掘り起こして行きたい。そうすると、親鸞や法然の主
張とは全く違う大無量寿経が現れるだろう。そこから、大無量寿経が真実経であると言っている意味を掘
り起こして行きたい。

 大無量寿経には筆者が二人いる。それは、梵文大無量寿経の筆者と、漢文大無量寿経の筆者である。梵
文と漢文とは内容が大きく違う。漢文大無量寿経は、独自の創作がされたと考えるべきだろう。両者のず
れから、大無量寿経の本質、浄土教の本質を考えたい。

89:どんくさい学者の妄説信者へ
10/09/17 09:25:56 PdPEATRW
 神学3
 暴走族は神風特攻隊の霊が憑依して、暴走を行わせているのである。日本の
為に、子孫の為に命を捧げたのに感謝される処か、侵略者の汚名を着せて狂信
者扱いで侮辱している。それに怒って、鬱憤を晴らそうと爆音を響かせて、我
々の安眠を妨げて嫌がらせをしているのである。それが証拠に、暴走族は特攻
服を着て、命知らずの爆走をしている。
 秋葉原で起きた無差別殺傷事件等も神風特攻隊の霊障である。本人は死ぬ気
になって、たとえ死刑になってもいいから、人を道づれにして殺そうとする。
神風特攻隊の霊が発狂してしまうほど、日本人の精神が堕落して、性根の腐っ
た人非人(ひとでなし)になっている。
金と学に支配されて、正義も人情も捨てて、我さえよけりゃ後は知ったことじ
ゃない。
 こうして私が神意を伝えようとしても、誰も真剣に耳を貸そうとはしない。
情けないことではあるが、人間としての価値を失い、その資格を失っているの
である。
 元神は三千世界(神、幽、現界)を大改革するべく、建て替えを断行する。こ
の世の鬼(ひとでなし)を退治して草木に替える。もう今までの様に敗者復活は
ないのである。1日でも早く、神の御旨に沿うよう(不殺生、不偸盗、不姦淫、
不妄語、不贅沢)改心して、神の大恩に報いる生活に改めなくては人間として生
きる価値がないのである。


90:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/09/25 13:35:19 nTGdQ0Zn
 物語には主題と筋書きとがある。大無量寿経にも主題と筋書きとがある。大無量寿経の概要について、親
鸞は如来の本願を説くことをもって宗致つまり主題としている。仏の名号をもって経の体としているという。
つまり、著者がアピールしたい内容は如来の本願であるということである。筋書きは、南無阿弥陀仏・南無
阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と展開しているということを言っている。
南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と展開しているとはどういう
ことか。簡単に言えば、礼拝・賛嘆・作願・観察・回向という順序になっている、つまり宝蔵菩薩が阿弥陀
仏になる道筋がそのストーリーであるというのだ。

 親鸞の主張は横に置いておいて、あらすじを見てみる。漢文大無量寿経は、前半と後半に分かれている。
後半は、ほとんどが漢訳で加わっている部分である。梵文には無い部分がある。序説部分も漢訳で始めて加
わっている。
 梵文で書かれていた部分は漢訳文ほど長くない。釈迦が登場し、阿弥陀仏の存在を教える。法蔵菩薩とい
う修行者が登場し、世自在王如来を訪問する。さまざまな仏国土を教わり、やがて法蔵菩薩は数十箇条に及
ぶ誓いを世自在王如来に立てる。法蔵菩薩はその誓いを実現し、極楽浄土を完成する。大無量寿経はその極
楽浄土の内容を詳細に説明している。
 大無量寿経とはどういう経典か。大無量寿経とは大乗仏教の経典である。梵文大無量寿経は言う。大無量
寿経の聴衆について、「いずれもみな博識なることによってよく知られ、長老であり仏の偉大な弟子であっ
た」という。漢訳では「かくのごときらの上首たるものなりき」という。大乗仏教の同じような経典では、
漢訳法華経はいう「衆に知識せられたる大阿羅漢等なり」。梵文法華経は「これらの長老達と、その他の偉
大な弟子達もいた」という。

大乗仏教は、基本的には小乗仏教の学習を終了した大阿羅漢達に説かれる教えなのだ。

91:神も仏も名無しさん
10/09/26 14:09:58 Uzvo1l6g
質問です。
阿弥陀仏はキリスト教の主にあたるのでしょうか?

92:神も仏も名無しさん
10/09/26 17:14:55 j3Y3EkwN
いつのまにか難さん復活してるな。
親鸞聖人の竜樹理解(十住毘婆沙論)について何か意見があればお願いします。

93:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/09/29 14:41:37 K4emjaVx
>>91
>阿弥陀仏はキリスト教の主にあたるのでしょうか?

 無関係です。

 神ノアおよび彼と皆(とも)にある其の子等に告げて言たまひけるは(創世記9−8) 見よ我汝等と
汝等の後の子孫 および汝等とともなる諸の生物即ち汝等とともなる鳥家畜および地の諸の獣と契約を立
(たて)ん都(すべ)て方舟(はこぶね)より出たる者より地の諸の獣にまで至らん 我汝等と契約を立
てん総て肉なる者は再び洪水に絶ることあらじ又地を滅ぼす洪水再びあらざるべし

 唯聴察を垂れたまえ。我が所願のごとく当に具にこれを説くべし。
たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし
生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。(大無量寿経)
 この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束ある(歎異抄)


 キリスト教の主にも約束がある。阿弥陀仏にも約束がある。同じではないか。こういう人がいますが、
僕はそういう主張をする人の気が知れません。

 キリスト教の神は、紀元前3761年10月7日(ユダヤ暦元年 史学的な根拠は薄弱)、チグリスユーフ
ラテス川を周辺で誕生した実在のアダムという子供の両親であると言うべきでしょう。
 阿弥陀仏は、釈迦の人格の一つを独立させた架空の仏陀です。釈迦には、教師・医師・生産者・休息所
という四つの性格を持っていました。その内の教師像を独立させた概念です。

  アダムは実在の人物でしょう。阿弥陀は架空です。全く無関係です。
URLリンク(www.propatent.jp)



>>92
 面白いテーマで言いたいことはたくさんありそうだけど、自分の中でまとまっていません。いずれ考え
をまとめてみたいですね。

94:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/10/09 12:06:01 ububZTzd
 世尊、我無上正覚の心を発せり。願わくは、仏、我がために広く経法を宣べたまえ。我当に修行して仏
国を摂取し、清浄に無量の妙土を荘厳すべし。我世において速やかに正覚を成らしめて、もろもろの生死
・勤苦の本を抜かしめん。」

 世饒王仏つまり世自在王仏先生。私法蔵比丘は無上正覚の心つまり大乗仏教の悟りを得ようと心に決め
ました。先生、どうか、私により深い、より広い教えを説いてください。私は、努力を重ねて仏国土を開
き、汚れのない素晴らしい世界を実現しようと思います。私は遅滞なく大乗の悟りを得、人々の様々な迷
い、苦しみを除去しようと思います。

 時に世饒王仏、法蔵比丘に告げたまわく、修行せんところのごとく、荘厳の仏土、汝自ら当に知るべし。

 このとき、世自在王仏先生は教えを求めに来た法蔵比丘に言う。「貴方は既に学ぶべきことは全て学ん
でいらっしゃいます。素晴らしい仏土とはどういうところかは、人に聞かなくても、自分で考えたらいか
がでしょうか。

 この義弘深にして我が境界にあらず。唯願わくは世尊、広くために諸仏・如来の浄土の行を敷衍したま
え。我これを聞き已りて当に説のごとく修行して所願を成満すべし。

 素晴らしい仏土とはどういう世界か、これはあまりに難しく、私には分かりません。世自在王仏先生、
どうか様々な諸仏の様々な浄土をお教えください。私はそれを伺い、諸先輩の行っていらっしゃるように
努力を重ね、自らの決意を達成したいと思います。

 世自在王仏、すなわちために広く二百一十億の諸仏刹土の天人の善悪、国土の麁妙を説きて、その心願
に応じてことごとく現じてこれを与えたまう。

 世自在王仏は、二一〇億に及ぶ様々な諸仏の国々、そこに住む人々、国土のあり方を、法蔵比丘の願い
に叶うように説いた。

 小乗仏教の学習を終了した人々は何をすべきなのか。基礎的な学習を終了した人はそれだけで大阿羅漢
と呼ばれて尊敬される。そうした人々は、思い思いの場所に行って、思い思いの自由な生活をしていけば
いいのだ。ある者は商人として商売を行い、ある者は製造者となって社会に役立つものを生産する人にな
る。ある者は政治家になって人々を導くのもいいだろう。

95:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/10/09 12:07:31 ububZTzd
 しかし、大乗仏教はそうした大阿羅漢達にある提案をする。もっと勉強して、自分でも仏国土つまり学
校を開いてみないか。小乗仏教の学習で自分が救われただけではなく、自分以外の人々に自分が知り得た
知識を伝え、人々の様々な迷い、苦しみを除去しようとしてみよう。大乗仏教はそのように大阿羅漢達に
そのような提案をする。
 無上正覚の心とは、自分が真実を認識しただけで満足することなく、自らの認識を多くの人々と共感的
に享受、利用できるように多くの人々との共有の財産化しようという心である。つまり、人々を育てる教
育者になろうという心である。

 これから学校を作りたいと思うのだが、どのようにして作ったらいいだろうか。法蔵比丘は、世自在王
仏先生に相談に行く。学ぶべきことは全部学んでいるのだから、自分で考えて自由におやりなさいと、世
自在王仏先生は法蔵比丘に言う。それが分からないから相談に来たのですと法蔵比丘は世自在王仏先生に
打ち明ける。世自在王仏先生は法蔵比丘に世界中の様々な学校のあり方を教えた。

 大無量寿経はそのように書いてある。この部分は梵文とほとんど共通である。

96:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
10/10/10 14:37:26 voOYEfG+
浄土真宗が言う後生の問題について解説しています。

スレリンク(psy板:443番)

97:真言・念仏・禅は謗法邪宗
10/10/17 13:28:26 bhE5zqpR

真言・念仏・禅の邪宗が広まった理由
まず、邪義「真言」が、なぜ広まったのか。
それは、像法の末に伝教(最澄)が「法華経最第一」を確立した「後」に、空海(弘法)によって伝来したからである。

つまり、天台・伝教の破折を「まぬかれている」のだ。

伝教(最澄)が南都六宗の邪義を破った後に、空海(弘法)によって伝来した真言が、
後に天台宗の人々が真言に「籠絡されていく落とし穴」となってしまった。

真言は、天台の一念三千の法を「盗み入れて」自宗の極理となし、
「真言宗は天台宗と法理の次元では同じだが、天台宗にない印と真言という事相があるから勝れている」
との邪義を立てた。
その策略にかかり、天台宗を真言へとおとしめてしまったのが比叡山第3代座主の「慈覚(円仁)」である。

伝教が一生の闘争で確立した「法華経最第一」の原則を崩し、「理同事勝」の邪義を唱え、
天台宗の真言密教化に踏み切ってしまった慈覚が、謗法の端緒を開く元凶となった。
さらに、慈覚の弟子「安然」は、禅宗を促し、「恵心」は、念仏を広める役割をした。

高徳・碩学と仰がれた慈覚が、後世の安然や恵心の邪義を引き出す呼び水になったのだ。
法をより深くむしばむ害虫は、他宗ではなく正法を護るべき天台宗の中にいた。
(よって現在の天台宗は、慈覚・安然・恵心の謗法を引継ぐ邪宗・謗法宗である)

そして、謗法に毒された人々を救うため、末法悪世の変革のために、次々と起こる
大難・迫害に命がけで戦い勝ち越えてきた、末法における妙法流布の法華経の行者が
日蓮である。

謗法の人々も今は法華経を誹謗しているが、亡国・亡身の危機に直面した
とき、一切の仏寺・一切の神寺を捨てて、「南無妙法蓮華経」と唱えるようになるだろう。



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