詩文学 at POETICS
[2ch|▼Menu]
236:を(終)はりなき数学ポエム
23/02/27 10:01:59.34 KoqPzC2N.net
円周率を、かぞ(数)へ/か(仮)ぞ(添)へられたあたひ(価/値/能)の比と
して求めることは、連分数計算の形式で表現してみれば、はっきりと
分かるとおり、究極的に数へられた数の比として決して収束すること
のない円周率を、既に定まった数の比として近似するたびに、
その都度、単位(たん・ゐ)としての1(「ひと/一/人/等」)の
方が精度として規定されることになる。これを、
「『まるくをさ(収/治)める』ように『を(折)りあ(合)ひ』が
つくようにすること」に合はせて考へてみるなら、何か角
の立つ事情が生じた場合、それが「まるくをさ(収/治)まる」
ように「ひと/一/人/等」の規定の方が「を(折)りあ(合)ひ」
をつけること/"modification"もしくは"moderation"/
»Bescheidenheit«を求められるようになることを意味して
いるだろう。

237:を(終)はりなき数学ポエム
23/02/27 10:31:33.46 KoqPzC2N.net
ところが、である。そのようにして「『まるくをさ(収/治)める』ように
『を(折)りあ(合)ひ』がつくようにすること」をすべての人々、あるいは
世界全体としての原理原則/倫(=人・侖)理としてしまうなら、
「を(折)りあ(合)ひ」をつけようとすることは、「究極的に数へられた
数の比として決して収束することのない円周率」を無限の精度で
追求するために、「ひと/一/人/等」が「を(折)りあ(合)ひ」をつける
ことを無限に絶え間なく求められるようなことになる。
当事者の間で物事に何らかの角が立つ状況であれば、「を(折)り
あ(合)ひ」をつけることが求められるのは、それが頻繁に生じて
煩わしいと感じられるとしても、「や(止)むを得ない」(原理原則
としての「を(終)はりなき」無限ではない)こととして受け容れ
られるだろう。しかし、もはや、みづから(身づ柄/自ら)が
関与することによって初めて成立する当事者の間では、
どのように角が立っているのかまったく不明でありながら、
「すべての人々、あるいは世界全体」という「究極的に数値
として求められた円周率」に喩えられる、決して「そこ」に
はあり得ない存在のために際限なく「を(折)りあ(合)ひ」を
つけることを求められるならば、それは、あらかじめ徒労
に過ぎないことと分かっていることを一方的に強制されて
いると感じられるようになる。にもかかわらず、一般的に
広く通用している哲学や思想は、明示的にであれ、暗黙裡
にであれ、そのような「『無限』の追求」を理想としている
のである。

238:名無しさん@お腹いっぱい。
23/02/27 10:40:58.59 KoqPzC2N.net
「『まるくをさ(収/治)める』ように『を(折)りあ(合)ひ』がつく
ようにすること」をすべての人々、あるいは世界全体としての
原理原則/倫(=人・侖)理として、あらかじめ定めて、その原理
原則/倫理に従ふように個々の人々を誘導すべきだという考へ方
は、一見、まともで、正しいものであるように見えながら、
それ自体、まったく»Bescheidenheit«を欠いている。

239:統治者目線で全体のことを考へるようになった蛙
23/02/27 10:44:25.94 KoqPzC2N.net
>「イソポ、アテナスの人々に述󠄁べたる譬の事」

240:名無しさん@お腹いっぱい。
23/02/27 11:13:55.78 KoqPzC2N.net
>この»mit・an・sehen«における»mit«の用法から、現代の日本語でも
普通に使はれる「いたたまれない」という表現が、「『ゐ(居)た(立)ち』
が『た(堪)えられない/たま(溜)らない』」という表現であることが分かる。
とても意外なことに、これに関連して「獺(カワウソ)」が、語源的に
どのような表現であったかを、連想により導き出すことができる。
なぜなら、「獺(カワウソ)」は、古語では、「かはうそ」ではなく、
「かはをそ」だからである。「かはをそ」が水辺に棲むイタチ科の
動物であることから、「かは」が「かは(河/川)」であることに
疑いの余地はない。では、「をそ」は何かと言へば、「を(居)そ(且)」
である。さらに、「そ(且)」が何かと言へば、それは立ち上がった
様子であり、したがって、「を(居)そ(且)」は、「ゐ(居)た(立)ち」、
つまり、「イタチ」の別表現であることになる。

241:名無しさん@お腹いっぱい。
23/02/27 11:15:17.37 KoqPzC2N.net
>Derived characters
咀, , 姐, 狙, 阻, 䏣, 柤, 𤇅, 祖, 租, 粗, 組(组), 蛆, 袓, 䱉, 助, 䢸, 䪶, 宜, 㡹, 査, 𤇙, 䯶, 跙, 徂
(出典 en.wiktionary.org/wiki/且)

242:名無しさん@お腹いっぱい。
23/02/27 11:26:53.19 KoqPzC2N.net
日本語の「ゐ(居)る」に対応して、英語の"to be"が本来的に
表現しているのは、「存在」とういよりも、「臨場感」だろう。

243:名無しさん@お腹いっぱい。
23/02/27 11:31:57.00 KoqPzC2N.net
ただし、あらかじめ非対称な関係がそこにあることを前提としている
ように感じられる「『臨床』哲学」という言葉は、私は好きではない。
「臨床」は"bedside"以外ではあり得ないだろう。

244:名無しさん@お腹いっぱい。
23/02/27 22:29:15.66 KoqPzC2N.net
臨場性/ライブとしての"being"

245:名無しさん@お腹いっぱい。
23/02/28 10:52:43.80 5iWWGne4.net
>「そ(且)」が何かと言へば、それは立ち上がった様子であり
「立ち上がった様子」を単に"standing"という状態に対応するものと
イメージしてしまうとすれば、この説明を適切に理解していない。
「そ(且)」によって表現されているのは、"standing"ではなく、
"to stand up"であり("to help"に対応する「助」という漢字が、
"to help (stand) up"をイメージさせるものであることを想起して
みるのもいいだろう)、さらには「『そ』び(聳)ゆ」の「そ」に
対応するように"rising up"であり(「阻」がどのような形象文字
としてどのような様態をイメージさせるものであるかを考へて
みるとよい)、その作用が概念化して捉へられた"uprising"である。
ただし、日本語の表現としてこの「そ」の用法は、「且」という
漢字によって縛られるものではなく、この漢字の象形がその様態の
イメージを想起させるのに好都合であるために利用したまでである。
例えば、以前に牛頭天王に関連して、
「曽尸茂梨(そしもり)」⇔「蘇志摩利(そしまり)」の互いに反転した
関係について説明したとき、「曽尸茂梨(そしもり)」は、死体が
うず高く重なる「死屍累々」であり、「蘇志摩利(そしまり)」は、
「復興の志」であるといったような説明をした憶えがあるが、
この場合の「そ(曽/蘇)」も、"rising up"に対応している。
他にも、「蝦夷(えぞ)」、「熊襲(くまそ)」「阿蘇(あそ)山」、
「味噌(みそ)」(てまえ・みそ(三十・一文字/みそ・ひともじ))など
における「そ」の用法がすぐに想起される(「そ/ぞ」は、「増」
や「層」などの漢字に関連付けられる場合も多く見られること
から、「そ(且)」と「そ(曽)」のイメージは複合化している)。

246:名無しさん@お腹いっぱい。
23/02/28 11:21:13.46 5iWWGne4.net
このような連想による推論のプロセスは、
「『まるくをさ(収/治)める』ように『を(折)りあ(合)ひ』がつく
ようにすること」は、その都度、暫定的に単位の精度を「都合に
合はせて」定めて、近似としてまるく(収/治)まるようにこた(応)へ
を求めることに喩えることができるが、それを何らかの権威によって
たし(確)かなことがあらかじめ保証され根拠に基づく演繹、または
「全体的な結果」として最終的に到達されるはずであると信じ込まれ
た絶対的な予定調和からの逆算のようなものと思ひ違ひをするなら、
推論の根拠がまったく不確かなことや、導き出される近似の
こた(応)への精度(誤差が大きすぎて、まったく使ひものにならない
場合も含めて)に大きなばらつきが生じることに気づいて、
期待を裏切られることになるだろう。しかし、それは、そもそも、
勝手な思ひ違ひである。というのも、私は、他の誰かが私の
推論によって導き出されたこた(応)へをたの(頼)みにしなければ
ならないなどということは、まったく要求していないからだ。
利用するのも、利用しないのも各々の勝手であり、たの(頼)みに
できるかどうかは、その都度、各自が自分で確かめればよいこと
であって、私の知ったことではない。

247:名無しさん@お腹いっぱい。
23/02/28 11:24:32.28 5iWWGne4.net
誤:近似としてまるく(収/治)まるようにこた(応)へを求めることに
正:近似としてまるく(収/治)まるようにこた(応)へを求める連分数計算に

248:名無しさん@お腹いっぱい。
23/02/28 11:44:43.48 5iWWGne4.net
"a live being"は、意味不明に冗長であるが、
"being alive"は、"being"と"live"の恣意的な切り離しである。

249:名無しさん@お腹いっぱい。
23/02/28 13:56:02.72 5iWWGne4.net
>>245
それにしても、「白(シロ)鼬(イタチ)」とも呼ばれる「オコジョ」の
名前の由来を検索しても、何もヒットしないばかりか、その漢字表記さえ
見当たらないのはなぜだろう。「カワウソ(獺)」という名前の「ウソ」は、
もともとは「をそ」であり、「乎曽」と表記されたことが岩波古語辞典
にも記載される。私は、この「をそ」は、「を(居)そ(且) 」であると
説明したが、「そ(曽)」に想定される中国語の中古音は、
"/d͡zəŋ/"または"/t͡səŋ/"であり、「そ(且) 」に想定される中国語の
中古音は、"/t͡sʰiaX/"または"/t͡sɨʌ/"であり、後者の音読みは、
"しゃ/しょ/そ/ぞ"とされている。「そ(且) 」と「力」を組み合は
せて、"to help (stand) up"を表現するものと考へらえる「助」
の音読みは、「じょ」であるが、想定される中国語の中古音は、
"/d͡ʒɨʌH/"であり、想定される発音がこれと近く、やはり助ける
ことを意味するように用ひられた「丞(じょう/しょう)」
(Middle Chinese: /d͡ʑɨŋ/, /d͡ʑɨŋH/)は、「烝」(Middle Chinese:
/t͡ɕɨŋ/, /t͡ɕɨŋH/)に関連して、その語源は、
>From Proto-Sino-Tibetan *s-tjaŋ (“upper part; rise; raise”) (STEDT).
であるとされる(Wiktionary参照)。それだけでなく、「烝」の発音は、
朝鮮語では、"증 (jeung)"として発音され、同じ発音で読まれる漢字
には、他に「曾/増/噌」があり、「烝/증 (jeung)」は、"steam"、
"many"の他に"to rise"を意味するものと解釈されている。

250:名無しさん@お腹いっぱい。
23/02/28 14:09:17.04 5iWWGne4.net
「貂/鼦」は、日本語としては「てん」と読まれるが、これは、
日本語となった「てん」に「貂/鼦」の漢字を当てたもので、
音読みではない。しかし、このようにみると、「てん」という
日本語の名称そのものが、
>Proto-Sino-Tibetan *s-tjaŋ (“upper part; rise; raise”)
に由来しているように見える。

251:名無しさん@お腹いっぱい。
23/02/28 17:22:49.21 5iWWGne4.net
それにしても、「小僧が憎い」というのは分からなくもないが、
「僧」は、サンスクリット語の音を漢字で移すために用ひられた
にしても、やはり、「人・曾」で"upright person"をイメージ
させただろうと想像できるが、「心・曾」で「憎む」/"to hate/abhor"
という意味になるのは、少し不思議な感じもする。
やはり「こころ(心)」は、「立たせる」べきものではなく、
「安らか」にさせていた方がよいということだろうかw

252:禁欲主義的僧侶/なほ(直)き人としての地球市民
23/02/28 18:02:43.77 5iWWGne4.net
biedermännisch rechtschaffenarch → honest upright
biedermännisch spießbürgerlich pej → bourgeois
biedermännisch contempt. (heuchlerisch) fig → hypocritical
(出典 wordreference.com/deen/biedermännisch)

253:あなづらはし
23/02/28 18:09:26.64 5iWWGne4.net
>Herkunft ⓘ
mittelhochdeutsch bider(be) = bieder; brauchbar, nützlich,
althochdeutsch bitherbe = brauchbar, nützlich,
eigentlich = dem Bedürfnis entsprechend<
(出典 duden.de/rechtschreibung/biderb)

254:名無しさん@お腹いっぱい。
23/02/28 21:47:47.77 5iWWGne4.net
>>202
>「コナトゥス」/"conatus"の第三者的な「具体化」/"corporation"が、
»das Mitnehmen«としての「み(身)ど(取/獲)り」/「みどり(緑)」
であることになる。 <
これは、書いてみると、とても便利な例であることにあらためて
気づかされる。どのように便利であるかと言ふと、真理条件意味論を
利用して、日本語の「みどり」の表現としての語源的な意味と、
英語の"be-〜"が、表現上、「"be-〜"により修飾される作用の
効果として主体性を再帰的に表出させる働きをする」という
記述の妥当性とが「たが(互)ひ」に実証されるのを示すことが
できるからである。
>'the infant is みどり' is true if and only if the infant is みどり.

255:一石二鳥
23/02/28 21:56:48.95 5iWWGne4.net
>'the infant is みどり' is true if and only if the infant is みどり.
さて、'the infant is みどり'という文において「みどり」が英語の
どのような表現に対応すると考へたら、この文が"true"/「まこと(真言)」
であるものとして成立するだろうか。そのこた(応)へは、もはや
言ふまでもないだろう。「と(取/獲)る」に対応する英語としてすぐに
思ひ浮かぶのは、"to take"と並んで極めて頻繁に用ひられる動詞で
ある"to get"である。これを"be-〜"で修飾すると"to beget"になる。
これをそのまま活用して、「みどり」≒"begotten"とすると、
>'the infant is begotten' is true if and only if the infant is begotten.
となり、かくして、「みどり」の意味の解釈と"be-〜"の表現上の
用法の説明の妥当性が「たが(互)ひ」に実証されることになる。

256:名無しさん@お腹いっぱい。
23/02/28 22:04:07.29 5iWWGne4.net
>>246
誤:このような連想による推論のプロセスは、
正:このような連想による推論のプロセスとして、


最新レス表示
スレッドの検索
類似スレ一覧
話題のニュース
おまかせリスト
▼オプションを表示
暇つぶし2ch

975日前に更新/176 KB
担当:undef