重度の覚せい剤中毒で ..
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75:この名無しがすごい!
21/01/30 23:25:50.80 qltc75Yp.net
D学園は、あるNPO法人の総合格闘技団体が運営法人となり、武道を通じて家庭内暴力・ひきこもり・不登校・非行・ニートなどの青少年を教育し自立を支援している施設である。「家庭内で暴力をふるう」「非行や家出をしてしまう」「社会や学校でうまくやっていけない」「自分に自信が持てない」など対人関係や環境になじめず、自分の進むべき道がわからない青少年の社会での自立を目的とした教育を行っているとのこと。
D学園は長野県とフィリピンに寮があり、私はディヤーナ国際学園のフィリピン寮に現在預けられているとのことであった。
つまり、簡単に解釈すると私の非行に手に負えなくなった両親が見かねて、私を民間の更生施設に預けたのである。そしてここにいる体格の良い男性たちは現役の格闘家兼青少年の健全育成を行っているスタッフであり、私のことを興味津々に観てきた青年たちは何らかの問題を抱えて預けられたD学園の生徒たちだったのである。
ようやく理解することが出来た。“ふざけんな…まあ確かに私もやり過ぎたけど、私の自由を奪いあがって…”ふつふつと怒りがこみ上げてくる。今となっては高いお金を出してD学園に預けてくれた両親に本当に感謝しているが、当然のことながら当時の私にはそんなこと理解できるわけもない。

76:この名無しがすごい!
21/01/30 23:27:06.22 5jy8ZGA8.net
私は文句を言わなければどうしても腹の虫がおさまらず、みんなの前で両親の悪口を機関銃のように喋りまくった。人に言わなくていいような両親の“恥”まで事細かに面白おかしく話してやった。もちろん両親への復讐である。その場にいた人たちは全員私の話に腹を掲げて笑い転げた。
ざまあみろ、両親め。実に良い気味である。
こんな和気あいあいとした空気の中で、あの、まわりと明らかに違うオーラを放った体の大きな男性が、笑いながらも私の話を興味津々に聞いていた。この日は結局、夜中まで私一人でマシンガントークをし、楽しい一日となった。次の日、私はまわりとは明らかに違うオーラの体の大きな男性に呼び出され、一緒に一時間ほど散歩をしながら話をした。この男性は他の人から大川先生と呼ばれていた。先生は某総合格闘技連盟の理事長、また空手団体の首席師範であり、D学園を創立した方である。また大川先生は、私の人生を大きく変えてくれた方でもあり、後のセトマキが世界で最も尊敬する人となった。

77:この名無しがすごい!
21/01/30 23:28:37.46 dVl+VbH2.net
私は大川先生と散歩をしながら、今までの人生の経緯や生い立ちについて話した。すると、大川先生は、「マキは根はすごく真面目で良い子で自分の気持ちをため込みすぎたから、高校生の時に今までため込んでいたものが爆発してしまって、それまでの東大や医学部がすごいという価値観とは正反対の、ヤクザやヤンキーがすごいという風に価値観が逆転してしまったんだね。」と、私の心理を分析し始めた。それまでの私は、自分でも何が起きているのかわからず、ただただ親への反発心で行動していたために、大川先生に言われた内容がとても腑に落ちた。確かに、大川先生に言われたことが原因だとしたら、今までの行動すべてに納得がいった。自分の今までの行動の原因は頭の中では少しだけ理解できたが、感情の方は全くついてこなかった。 私は今の自分の好みと全く違う洋服が用意されていたことに相当頭に来ていたため、大川先生に頼みこみ、来月私の指定した洋服を送ってもらうように頼んだ。私は両親にわかりやすいようにどんな洋服か絵を描き、洋服の特徴をこと細かく明記した手紙を書き、大川先生に渡した。

78:この名無しがすごい!
21/01/30 23:29:46.85 5jy8ZGA8.net
大川先生は、翌日に日本に帰国してしまった。私は翌月の大川先生が来る日まで、この熱帯モンスーン気候のフィリピンにいるにも関わらず毎日長袖厚地のプレイボーイのスウェット一着のみで過ごした。
翌月、一つの段ボールが届いた。中身を開けると大量の洋服が入っていた。頼んだ洋服の中で、入っていないものもあったが、大体のものは入っていた。しかし私が一番肝に障ったのは、自分が愛用していた色違いのプレイボーイのスウェットを頼んだにも関わらず、新品のものが送られてきたことである。私は、きっとあのスウェットは捨てられたんだと直感的に思った。そのため、両親に手紙で“私は新品じゃなくていいから、使っていた黒のプレイボーイのスウェットを送ってください”と頼んだ。すると、翌月に両親から“そんなものはどこにもない。”との返信が来た。私は、捨てられたことに対して頭に来たのではなく、本当は捨てているにも関わらず、どこにもないと言い張られたことに対して、つまりウソをつかれたことに対して相当な憤りを感じた。

79:この名無しがすごい!
21/01/30 23:30:52.24 KJ4hnkdO.net
私の両親、特に父親は都合が悪くなると平気でその場しのぎの嘘をつく。そのことが、私と真剣に向き合ってくれていないような気がして子供の頃からうんと辛かったし、“どうせ親と約束したって守られることはない”という両親への強い不信感の原因となっていたのである。
話は変わり、フィリピン寮では私の持ち前の明るさからすぐに他の生徒やスタッフと打ち解けることができ、毎日みんなでトランプをしたりDVDを見たりしながら過ごした。それと私はフィリピン寮に入寮してから麻雀を覚えた。私は麻雀を始めた頃から基本的に負けたことがなかったため、“勝つことへの快感”から私は麻雀にハマり、一人で居る時はひたすら本を読んで役を覚えた。麻雀は今となっても暇さえあればオンラインゲームでやっており、趣味のうちの一つである。それとフィリピン寮では、近所のフィリピン人との交流も大事にしていた。近所のフィリピン人はみんな優しくフレンドリーであり、見ず知らずの私に対してとても親切に接してくれたために私はすぐに近所のフィリピン人と仲良しになった。

80:この名無しがすごい!
21/01/30 23:32:30.72 sgmUeORL.net
またフィリピン人は約束や時間を徹底的に厳守する日本人とは正反対であり、時間に対してアバウトであった。それまで約束や時間に対して真面目であった私は、初めはカルチャーショックを受けたが、フィリピンのゆったりとした時間の中で今の日本社会にはない人の優しさを感じながら穏やかな毎日を送ることができた。
私がフィリピンに連行されてからしばらくして、アメリカから一つ年下のユウキという名の少年が施設に連れてこられた。預けられた原因は両親への家庭内暴力であった。ユウキは両親に対して暴力を振るうようには全く見えない大人しそうな少年であり、まるで子犬のような実年齢よりも子供っぽい表情が特徴的であった。
私たちは年齢も一番近く連れてこられた時期も近かったためにすぐに仲良くなった。お互いに無理矢理海外の施設に連れてこられて、心のどこかでうんと寂しかったんだと思う。私とユウキは一日中ずっとずっと一緒にいた。ずっと一緒にいることでお互いの寂しさを紛らわしていた。

81:この名無しがすごい!
21/01/30 23:33:57.41 wvCUotBC.net
大川先生は毎月フィリピンに出張で来て、一回の出張で3日から一週間ほどフィリピンに滞在していた。フィリピンに出張に来ている間は朝から晩まで、時には自身の寝る間を惜しんでまで生徒一人一人と真剣に向き合い、生徒の話を否定することなく辛抱強く聞いていた。もちろん、大川先生は私の話も毎日嫌な顔せずに聞いてくれた。私は、少しずつ、少しずつ、大川先生のことを信頼し始めた。私はある日、全裸で大川先生の布団にもぐりこんでしまう。今となってはなんでこんな奇行に及んだのか意味不明であるし思い出すと思わず赤面してしまうが、恐らく大川先生のことを試したんだと思う。私は、17歳の全く色気のないクソガキなセトマキであろうが体を使えば男の人なんか何でも思い通りになることをホステス時代に学んだのである。しかし、大川先生には全く通用しなかった。大川先生は私のことを一人の女性として見ないどころか、まるで小ザルを見るような目で見てきて、半ば呆れた様子で「なにやってるんだーお前」と言ってきた。

82:この名無しがすごい!
21/01/30 23:35:01.17 /R+DBAhF.net
私は、唖然とした。世の中には、私をただの性の対象としてではなく、一人の17歳の人間として見てくれる大人がいることにビックリした。でも、嬉しかった。このことをきっかけに私は大川先生に絶大な信頼を抱くようになった。私はこの瞬間に、人生で初めて心から人のことを信用したのであった。
私はフィリピンで18歳の誕生日を迎えた。スタッフも生徒もまわりのフィリピン人も私の誕生日を盛大に祝ってくれた。フィリピン寮では、好きな先生も嫌いな先生も気の合う生徒も気の合わない生徒もいたし、ささいなことで口論になったりもした。でも、同じ寮で共同生活をし、楽しい時も苦しい時もみんなで過ごしたために今までの人生で感じ取ることが出来なかった“人とのつながり”というものを感じ取ることが出来、本気で他人を心配したり、相手の苦しみや喜びがまるで自分のことのように感じることが出来た。産まれて初めての経験であった。フィリピンでは、まわりの仲間と情を通わせ合いながら充実した日々を過ごした。

83:この名無しがすごい!
21/01/30 23:36:28.87 wBTuXhIX.net
D学園では、ほぼ毎月入寮している生徒の親と面談をし、現在の生徒の様子を伝え、今後の方針などについて両親との話し合いの場を設けていた。
私は両親に無理矢理連れてこられたという憤りと、早く日本に帰りたいという強い思いから両親の考えが気になって仕方なかったため、両親との面談の内容について毎月、大川先生が来るたびに我一番に話を聞きに行った。母は、“一刻も早く日本に帰してマキに高卒認定を受けさせ、早く家に帰して大学受験の準備をさせたい”という強固な意見の一点張りであった。一方で父は、“今はまだ日本に帰るという段階ではないため、本人の情緒が安定するまで2〜3年くらいフィリピンにいさせた方が良いのでは”という意見であった。完全に夫婦の意見が割れていた。D学園サイドとしては、夫婦で方針が食い違うということが最も困ることであり、D学園サイドは私の両親との面談の度に「まずはご両親の意見を統一されてください」と言っていたという。

84:この名無しがすごい!
21/01/30 23:40:21.97 RVtWbGTq.net
両親の意見が食い違っていることは昔からのことであり、半ば呆れのような気持ちすらあった。私は母がいまだに大検というものにこだわっていることに対して、 “これだけ勉強というセト家の価値観を押し付けられたこと対して激しい反発をしたのに、なんでこの期に及んでまで勉強をさせられなきゃいけないんだ。いい大学に行かせることしか頭にないのか。”という激しい憤りの気持ちがあった。
しかし両親は高卒認定を取って難関大学に入ると公言しなければ、この施設から出してくれなさそうである。そこで、とりあえず、“また勉強し直して早慶以上には入り直します”と両親に手紙を書いて送った。

85:この名無しがすごい!
21/01/31 01:20:56.30 d5cKa581.net
おーい割り込んで悪いが
5ちゃんねるは語り合う場なんで小説だか実録だかしらんが発表したいならなろうにでも投稿したらいかがか?

86:この名無しがすごい!
21/01/31 03:30:02.27 qgbZyjjs.net
すると翌月、慶應の総合政策学部と情報環境学部の赤本と、数学の青、黄、白チャートが送られてきた。さっそく勉強に取りかかろうと思い、C高校の頃に使用していた黄チャートを開いてみたが、全くやる気が起きなかった。幼稚園や小学校の頃からあれだけ毎日勉強を頑張っていたにも関わらず、高校を中退した時点で燃え尽き症候群のような状態となっており、勉学に対する意欲が完全に枯渇していた。“やっぱり明確な将来像や目的もないのに、いい大学に入るためだけに詰め込み方式の勉強をすることは、もう出来ないんだな”自分が再燃不能な状態にあることを悟り、結局勉強することをやめることにした。

87:この名無しがすごい!
21/01/31 03:30:16.58 qgbZyjjs.net
しかし、こうなってしまっては日本に帰れなくなってしまう。いつ施設から出られるかもわからないような状況であり、生徒の中には何年間も入寮している人もいた。“このまま施設に何年間も入りっぱなしなんて、そんなのは嫌だ!!”
私はどうやったら出られるかそればかりをひたすら考えた。勉強を頑張るのは、もう無理な状態であることを悟ってしまったため、もう無理である。態度を改めるということも現段階では出来そうにない。私は、あることを思いついた。
“そうか!子供を作れば…そしたら親が施設に対して不信感を覚えて家に帰してくれるかもしれない。それにフィリピンはキリスト教国であり、多分中絶が出来ないだろうから、どっちにしても一旦中絶のために日本に帰るだろう。その時に逃げ出せば…。”
そして私はユウキと子作りに専念することにした。

88:この名無しがすごい!
21/01/31 03:30:35.32 qgbZyjjs.net
今考えたら、本当に安易なことをしたと思う。なぜならば、結果的にこの私の浅はかな行いによって、息子、まわりの人に多大な迷惑をかけ、振り回し、苦しめる結果となってしまったからである。
2008年の8月頃、生理が2ヶ月来ていないことに気づく。施設の先生の目を盗んで妊娠検査薬を買い、こっそりと検査をしてみた。すると、案の定陽性反応が出た。とりあえずユウキだけには妊娠したという事実を伝えた。ユウキはことの重大さがいまいちわかっていないようであった。とりあえず妊娠の事実はユウキと私の二人だけの秘密にすることにした。私は近頃体調がおかしかったため、どこかで妊娠しているのではないかと想像はしていたものの、いざ妊娠してしまうと怖くなってしまった。本当はD学園のスタッフに何度も相談しようと思ったが、ばれたら怒られるんじゃないか、大川先生をはじめとするD学園の先生にもう見捨てられちゃうんじゃないかとか色んな不安が頭を駆け巡り、結局言えないでいた。

89:この名無しがすごい!
21/01/31 03:30:49.64 qgbZyjjs.net
妊娠が発覚した翌月である9月に、ユウキが11月にある高卒認定受験のために日本に帰国し、長野県にあるD学園の寮に入寮した。
私は、ユウキが帰国する際に悲しくて寂しくて自分でも信じられないくらい泣いた。他人と離れることが寂しくて泣くという経験は産まれて初めてであった。この寂しさはいわゆる恋人と離れることが寂しいといった恋愛感情から来るものではなかった。親子で感情をぶつけ合った経験がない私は、子供の頃から他人に情を感じ取ることが出来ず、人と共感というものをしたことがなかった。しかし、施設では共同生活を送ることで苦楽を共にせざるを得ない環境であったため、ここで人生で初めて他人と気持ちを共感し合うことが出来、“他者への情”というものが芽生えたのである。

90:この名無しがすごい!
21/01/31 03:31:03.38 qgbZyjjs.net
私は結局妊娠の事実は誰にも言えないず、一人不安な気持ちを抱えたまま毎日を過ごしていた。妊娠4ヶ月頃から徐々にお腹が大きくなってきて、近所に住んでいるフィリピン人の間で噂になり始めた。フィリピンは噂社会であるため、私が妊娠しているという噂が徐々に広まり、ついにD学園のスタッフの耳にも入った。そして噂を聞きつけたD学園のスタッフから妊娠していないかどうかを問い詰められた。私は、怒られるのが怖くて妊娠していますとは言えず、「わかりません」とあいまいな返答をした。D学園のスタッフは妊娠の真偽を一刻も早く確かめるべく、その日のうちに妊娠検査薬を買ってきて、私に検査をするよう命じられ、私は検査薬を使用した。当然のことながら陽性反応が出た。フィリピン寮のD学園のスタッフは、私を咎めることはなく、とりあえず私の体の為にもお腹の中に宿った新しい生命の為にも一刻も早い対応をしなければならないと考えてくれて、すぐに日本サイドのD学園スタッフに報告を行った。私はこの瞬間、“人生で初めての信頼できる大人である大川先生に見捨てられちゃう…”という強い見捨てられ不安に陥った。

91:この名無しがすごい!
21/01/31 03:32:10.46 iYw7l7CQ.net
妊娠が発覚した時にはすでに20週になっていた。私は妊娠が発覚してすぐに日本に帰国し、ひとまず長野にあるD学園の寮で過ごすこととなった。帰国した翌日に女性スタッフと共に長野にある産婦人科に行った。
産婦人科ではまず問診票を書き,その後尿検査や血液検査などを行った。当然のことながらこの段階で妊娠しているという事実は確定である。そして、最後に超音波検査を行い、お腹の中の赤ちゃんの様子を見た。すると、お腹の中の赤ちゃんはもうかなり成熟しており人として形が出来上がっている状態であった。そして赤ちゃんは、もう手足を動かせるほどに成熟しており、超音波を見ている時に手を動かした。この光景が、まるで私に手を振っているように見えたのである。私は日本に帰国するという目標を達成出来たわけで、赤ちゃんの命なんて正直どうでも良くて、鼻から育てる気などなく中絶する気満々であった。しかしこの光景を見てしまうと、堕ろすことが可哀相になってきてしまった。

92:この名無しがすごい!
21/01/31 03:33:11.50 Z9d7qjbg.net
“お腹の赤ちゃん…私の軽はずみな行動で命を作ってしまってごめんなさい。最初は産むつもりなんかなかったけど、君のこと、産むね!ちゃんと育てるね!”
私は、まわりのスタッフが大反対の中、勝手に子供を産む決意をしていた。
私の妊娠が発覚して間もなく、大川先生と両親は、私が出産するか堕胎するかについての話し合をした。大川先生は、「マキはまだ18歳で高校生の年齢である上に現在施設に預けられているような子であるため、一人で子育てをするのは絶対に無理です。」と強く主張した。
すると私の両親は、「まあ、それも本人たちの問題ですから。産む産まないは本人の意思で。」という意見を主張した。
そこで大川先生が「そうなんですね。ということは、本人が産みたければ産んでも良いということなんですね。ただ、マキ一人で子供を育てるのは絶対に無理です。絶対に親御さんのサポートが必要ですよ」と主張したところ、両親が「もちろんです」と述べた。

93:この名無しがすごい!
21/01/31 03:34:13.68 eAB/+4MU.net
大川先生個人の意見としては、私にたくさんの社会的な経験をほしいという強い思いがあり、18〜22歳の一番色んなことを経験出来る時期を子育てで終えてしまうことが残念でならないようであった。それに、子供を育てるということは本当に大変なことだということを私に伝えるために、水商売をしながら狭くて古いアパートで必死になって赤ちゃんを育てているシングルマザーの女性に無理を言って頼みこみ、私を一晩泊らせたりもした。
しかし当時の私は全くの無知の世間知らずであり、どこから湧き上がってきたのかわからないが私なら絶対に出来るというへんてこりんな自信すらあった。
大川先生は大変無念そうであったが、こうして私は両親の合意の下で、18歳にして子供を出産することとなった。
出産することが決まってから、ユウキが突然私に暴力を振るうようになった。束縛も激しくなり、ささいなことで屁理屈を言っては身重の私に暴力をふるい、ひどい時は顔面を殴られて鼻血が出たりもした。私は、この人と家庭を築くのは無理だと悟り、シングルマザーで産み、育てていく決心をした。

94:この名無しがすごい!
21/01/31 03:53:04.86 BdAI4jKd.net
私が18歳という若さもあってか、お腹の中の赤ちゃんは何の問題もなく順調に成長していった。それと私は自分の身勝手な行為でまわりに迷惑をかけたことに申し訳なさを感じ、少しは出産を許してくれた親の意に添わなければならないと思い、毎日特にすることもない妊娠中に高卒認定を受験した。勉強は全くと言っていいほどしていなかったが高校までに培った知識のおかげもあり、全科目満点に近い点数を取り無事に高卒認定試験に合格することが出来た。

95:この名無しがすごい!
21/01/31 03:53:16.41 BdAI4jKd.net
そんな妊娠生活を送る中、私は一つだけ腑に落ちないことがあった。私はシングルマザーで出産するにあたり、父の健康保険の扶養から外れ、国民健康保険に加入する必要があった。この時私は妊娠9ヶ月を過ぎていた。出産育児一時金の関係もあり一刻も早く国民健康保険に加入しなければならない。もう二カ月近くも前から父に扶養から外す手続きを取ってもらうようお願いしていたにも関わらず父から一向に連絡はなかった。そのため、私から催促してみたところ適当なことを言われてはぐらかされてしまった。困った私は、保険証に書いてあった父の会社単独の健康保険組合に電話をかけて直接問い合わせてみた。すると若そうな声をした女性が親切に対応してくれた。その夜、父の会社の健康保険組合に勝手に電話をしたことに激昂した父から電話がかかってきた。あんなに怒った父の姿を見たのは初めてであった。確かに、何の断りもなく電話をかけたのは悪かったと思ったため、素直に謝った。数日後、父はやっと私を健康保険の扶養から外す手続きを取ってくれ、私は無事に国民保険に加入することが出来た。こうして出産ぎりぎりになってしまったが、やっと出産に向けての一通りの準備が終わった。

96:この名無しがすごい!
21/01/31 03:53:28.75 BdAI4jKd.net
2009年3月、きっと世間の18歳は高校の卒業式を控えている時期に私は3500gを超える元気な男の子を出産した。産まれたときから私に似て二重であり、ユウキに似てまつげが長く、“この子はきっと将来イケメンになるだろうな〜”なんて有頂天になっていた。私は息子を“チカラ”と名付けた。早く、早く両親、特に母にこの可愛い顔をした我が子を見てもらいたかった。きっと両親も私を産んだ時は今の私の感動に近いものがあったんだろう、少しだけ両親の気持ちがわかった。私は母に会ってここ数年間の非行のことを謝ろうと決めていた。

97:この名無しがすごい!
21/01/31 03:53:41.43 BdAI4jKd.net
出産した日に大川先生や施設の先生方が私と息子に会いに来てくれた。次の日も施設の先生や施設に入所している生徒たちが面会に来てくれた。そして待ちに待った週末である。父の仕事が休みであるため、きっと両親揃って来てくれるに違いない。午前中にユウキの両親が来てくれて可愛いベビー服をプレゼントしてくれた。私は早く両親がくることを待っていた。そして午後に一人の面会者が私のベッドに訪室した。私は思わず目を疑ってしまった。なんと、父一人だけであったのである。私は父に、「お母さんは?」と尋ねた。すると、「来ていない」とのことであった。私は唖然としてしまった。父は我が子を目一杯にあやし、夕方東京へ帰って行った。
私は父の前では感情をこらえていたが、さすがに母が面会に来てくれなかったことにはびっくりしたし、それ以上にショックだった。後々施設の先生から聞いた話だが、母親が一度も面会に来なかったことに対して病院の助産師さんたちは全員びっくりしていたそうである。

98:この名無しがすごい!
21/01/31 03:53:51.52 BdAI4jKd.net
その晩私は一人声を押し殺して泣いた。“何でだろう…産んでもいいって言ってくれたのにどうして来てくれないんだろう…お母さんが来てくれたら、今までの非行のことを謝ろうと思ってたのに…両親の期待に添えずに良い大学にも行けなかったし、医学部にも入れなかったけど、産んでもいいって言ってくれたってことは医学部に入れなかったことを許してくれたんだと思ってたよ…”ここは長野の中でも田舎の方であり、里帰り出産で田舎に帰ってきて、この病院で出産する産婦さんも多くいた。そのために当然のことながらどの産婦さんの母親も毎日のように面会に来ては、可愛い孫をあやしていた。みんな家族から祝福されていて幸せそうだった。そんな光景を目の当たりにするのは、若干18歳の私としては辛いものであった。

99:この名無しがすごい!
21/01/31 03:54:44.65 6VjcagPn.net
一人でメソメソと泣いていると、そこに一人の年配の助産師さんが巡回に来た。巡回に来た助産師さんは、私の様子を察したのか、しばらくそばにいてくれた。この人の前では自然と涙がこぼれてきて、我慢していた感情が爆発して、声を出してワンワン泣いてしまったん。我慢していたけど、本当はそのくらい辛かったのである。
この時何か会話をしたかどうかすらよく覚えていないが、ただそばにいてくれたことがとても心強かった。私はこの時に、私もいつか、この助産師さんみたいにその人の心に寄り添える人になりたいと思い、看護師を志す決心をした。

100:この名無しがすごい!
21/01/31 12:24:47.46 wHrbEuZr.net
退院後、私とチカラはしばらくの間D学園の校長の家庭に住ませてもらった。両親に代わって校長の奥さんやその他大勢の方の手厚くサポートしてくれたおかげで、なんとか育児を行うことが出来た。私は、自分の身勝手でこんなにD学園の方々に迷惑をかけてしまったのにも関わらず、誰も私を見捨てることはなくみんなが支えてくくれたことに絶大な感謝をした。そして、大川先生への信頼も “この人だけは、何があっても私の見方でいてくれるんだ”という絶大的なものとなった。私はここまでみんなのお世話になったのだから、一刻でも早く自立をしたいと思うようになった。
自立に向けて、看護師という仕事について現実的に考えてみた。看護師は給与面でも安定した職業であり、看護師という資格を取れば、たとえシングルマザーであっても息子と二人で自立して生活を送っていくことも出来る。

101:この名無しがすごい!
21/01/31 12:25:00.41 wHrbEuZr.net
そして、私は大川先生に、「看護師になりたいという夢が出来た」ということを伝えた。最初は「お前には向いてないんじゃないか?」などと言われたが、それでも看護師になりたいという思いを熱く語ったところ、私の“看護師になりたい”という夢を応援してくれるようになった。
しかし、問題が立ちはだかった。両親は私が出産したことを私の兄弟含め親戚全員に秘密にしていた。そのため実家には当然のことながら帰れないということである。
自分の為にも息子の為にも早く看護師として自立したいという思いが強く、出来たら来年看護学校に入学したいという思いが強かったが両親から一向に連絡がなく、今後の方針を決めることが出来ず宙ぶらりんな状態であった。
私の両親は問題をなかったことにし、面倒くさいことは先送りにする人間であることは私が一番よく知っているため、自分からアクションを起こさなくてはならないと思い、父方の祖母に、息子の写真を添えて今の状況を伝える手紙を両親にはもちろんのことD学園のスタッフにも誰にも内緒でこっそり送った。

102:この名無しがすごい!
21/01/31 12:25:11.36 wHrbEuZr.net
三日後、父方の祖母が母方の祖母と共に私と息子に会いに急遽長野までやってきた。二人とも、まさかひ孫ができていたことに対して驚きを隠せない様子であった。父方の祖母も母方の祖母も近隣の旅館に二晩泊まった。双方の祖母が滞在している間に小沢先生と父方の祖母が私の今後の進路について話し合いをした。
そして、大川先生が、今私が本当に更生する思いがあって看護師を志していることも祖母に伝えてくれて、私をしばらく祖母の家に置かせてもらえないかどうか頼んでくれた。私からも頭を下げてお願いした。祖母は、何で親が引き取らないで80歳の自分が孫とひ孫の面倒を見なければならないのかということに憤りを感じていたが、私と息子のことを引き受けると言った。私はこの時、心から祖母に感謝をした。

103:この名無しがすごい!
21/01/31 12:25:23.78 wHrbEuZr.net
私は2009年8月にD学園を卒寮し、息子と共に千葉にある祖母の家に移り住んだ。また、父と祖母とD学園スタッフの三者の話し合いにより、看護学校を卒業するまでの間は、完全にD学園とチカラを切って、大川先生の精神的なサポートなしに生活するのはまだまだ厳しい段階だろうという三者一致の見解から、入寮コースから在宅コースの生徒へ移行という形となった。在宅コースは、月に1、2度のペースでD学園スタッフと会ったり、電話でのサポートを受けながら自立を目指すというコースである。

104:この名無しがすごい!
21/01/31 12:25:34.75 wHrbEuZr.net
8月から3月までの間は、祖母の協力もあり落ち着いて子育てをすることが出来た。離乳食を含め料理は主に私が担当し、離乳食も全部手作りで作った。私は、料理を作ったら祖母が「おいしい」と言ってくれるのが嬉しくて、手の込んだ料理を作るようになった。19歳の段階で和洋中一通りのものが作れるようになっており、得意料理の肉じゃがともつ煮込みと牛すじ煮込みはオリジナルレシピを考案したりもした。また、祖母の家に越してきた直後に申し込んだ認可保育園にもすんなり入ることが出来たため、日中は保育園に息子を預け、介護ヘルパーのアルバイトを始めた。保育園もアルバイト先も決まり、千葉県での生活が慣れてきた頃からは祖母の家の近くにある4万5千円のアパートを借りて、息子と二人で住み始めた。かつかつの生活ではあったが母子扶養手当とアルバイト代で生計を立てた。とは言っても、週のうちの2、3日は祖母の家に泊まっていたし、食材を祖母にもらったり、息子と祖母と3人でららぽーとに行って息子の洋服を買ってもらったりと、祖母から全面的に助けてもらっていた。

105:この名無しがすごい!
21/01/31 15:12:08.94 wHrbEuZr.net
大川先生も月に一度、私に会いに千葉県まで来てくれた。大川先生は、私の元気そうな様子を見て安心しており、このまま順調に看護師になれるだろうと安心していたという。私はアルバイトと子育ての合間に受験する看護学校を決めたり、金銭面でも極力親に頼らないよう私でも借りることが出来る奨学金はないかどうか調べたりと、進学に向けての準備をしていた。色々と国の制度について調べていたところ、母子高等技能促進費というものがあることを知った。母子高等技能訓練促進制度とは、母子家庭の母親が看護師や介護福祉士、保育士などの専門的な資格を取得するために2年以上養成機関等で修業する場合、費用の一定期間分が訓練促進費として支給される制度であり、就学中の間は月額約14万円ほど支給されるものである。私はこの制度について詳しく調べたところ、私も母子高等技能訓練促進費の支給対象に当てはまっていることがわかったため、もし看護学校に合格したらこの制度を利用することにした。また私が志望している看護学校では学生の間毎月3万円の奨学金の貸付を受けることが出来、卒後一定期間母体病院に勤務したら奨学金の返済を免除される制度があることも知った。

106:この名無しがすごい!
21/01/31 15:12:21.39 wHrbEuZr.net
2010年2月に無事看護学校に合格し、2010年4月から都内にある看護学校に進学することが決まった。
看護学校に進学することが決まってから、看護学校へ進学するにあたっての金銭面についてみんなで話し合いを行い、看護学校の学費は両親が全額負担すること、自分の生活費は母子高等技能促進費と母子扶養手当と私が合格した看護学校の母体病院からの奨学金の合計約22万円で自分自身でやりくりすること、私が奨学金の貸付を受ける母体病院で働かなかった場合は一度両親に奨学金の返済を立て替えてもらい少しずつ奨学金を返していくことの三点が決まった。
こうして、私は看護師という夢への切符を見事手に入れたのであった!

107:この名無しがすごい!
21/01/31 15:12:32.82 wHrbEuZr.net
四節「ママ学生」
2010年4月、私は都内にある私立の看護学校に入学した。
“高校を中退して以降非行に走り、普通の人よりは波乱万丈であったものの、やっと軌道修正することが出来た。ここから先は順調なレールに乗って、看護師になってシングルマザーとしてチカラを立派に育て上げるぞ!絶対に出産で母が来なくて泣いたときに励ましてくれたような助産師さんみたいな看護師になるぞ!”って希望と夢に満ち溢れていた。この時は、まさか毎日が地獄絵図のような学生生活を送るなんて想像もしていなかった。

108:この名無しがすごい!
21/01/31 15:12:44.03 wHrbEuZr.net
四月は祖母の家の近くのアパートから通っていたが、学校まで片道一時間半かかるため、朝7時に息子と共に家を出て息子を保育園に預け、そのまま学校へ行き、9時から16時過ぎまで授業を受け、授業が終わり次第すぐに保育園に迎えに行き、家に帰り、その後は育児と家事を行うという生活スタイルであった。正直、この生活は続けられないわけではなかったが、精神的にも肉体的にも中々大変であった。そんな中で私のいとこが出産のためにしばらくの間祖母の家に住むこととなった。祖母から、孫二人の面倒を見るのは精神的に負担だと言われた。すると、今まで私にあまり会いにも来なかった母が突然、「チカラの面倒を全面的に見てあげるし、うちの方に住んだら学校にも通いやすくなるからうちの近くに引っ越してきたらどうか」と言われた。実家から学校までは徒歩の時間を含めて約40分位の距離であった。いとこが祖母の家に引っ越してきたら祖母にも色々と頼みづらくなるし、それに母が全面的にサポートしてくれると言っている。実家の近くの方が学校へも近くなるし、私は母のことを何一つ疑いもせず信じ込み、実家の近くに移り住むことにした。これが地獄の幕開けになるとは知らずに…。

109:この名無しがすごい!
21/01/31 15:12:56.11 wHrbEuZr.net
大川先生はこのことに対して大反対をした。
「お前なあ、今までの経緯をみてもわかるだろ。お前の母親を悪くは言いたくないけど、約束なんか絶対に守られないぞ。そのまま千葉県に住んでた方が絶対にいいぞ。」と言われた。
大川先生は、私が実家の近くに移り住むことに懸念を抱いており、父に「マキをそのまま千葉県にいさせるべきだ」と交渉した。
しかし父の意見は「両親が面倒をみるべきだと思います」という実にもっともらしいものであった。
大川先生は、「もしマキが実家の近くに引っ越したら、精神バランスを大きく崩して、またD学園に預けられる前のような状態になってしまう可能性がありますよ。」と強く念を押して言った。
すると父は、「もしそうなったらまた祖母の家の近くに帰すので大丈夫です」と言った。大川先生は、本当は反対であったが、しぶしぶと納得した。私と息子は、ゴールデンウィークに実家の近くにある家賃約10万のアパートに引っ越した。

110:この名無しがすごい!
21/01/31 17:30:53.68 arPB1TS/.net
引っ越して間もなく、母に「毎月の学費の約半分である4万円を払いなさい」と言われた。確かにもう子供もいて自立しなければならない立場であるために本来ならば学費は自分で払うべきなのかもしれないが、看護学校に入学する前の話し合いで、3年間の看護学校の学費は両親が支払うという約束であったため、私はこの母の発言に両親への強い不信を抱いた。
また、心のどこかで中学の頃までは高校受験のためにマンションまで買い、湯水のように教育費を使ってくれた両親が、子供が出来てから私に全くお金を使いたがらなくなったことがショックであった。客観的に見たら、もう母親である上に年齢も年齢なので両親がお金を使わなくなるのは至って普通のことであるが、私は両親の“私へのお金のかけ方”が一気に変わったことがきっかけで、“どうせ勉強の出来ない私なんて可愛くないんだ。勉強できない私なんて誰からも愛されないんだ。原因は私が医学部に行けなくて、看護学校にしか入れなかったからだ”という強い学歴コンプレックスを抱くようになった。

111:この名無しがすごい!
21/01/31 17:31:04.46 arPB1TS/.net
話は変わり、看護学校のクラスメイトたちはみんなすごくいい子たちであり、私に優しくしてくれたが、今までと以前変わらず、誰とも合わなかったため一人行動をすることが多かった。看護学校での勉強の方は、子育てに追われ、全くといっていいほど勉強をしていなかったが、高校受験の際に勉強した理科やC高校の理数科で学んだ生物が役に立ち、常に上位の成績をキープしていた。
息子は一歳児であり、よく熱を出した。その度に保育園から「チカラ君が熱を出したので迎えに来てください」との電話がかかってきた。私も授業が休める時は学校を早退し迎えに行っていたが、看護学校は月から金まで授業がみっちり入っており、そんなに休むわけにもいかなかった。私は、母の全面的に面倒をみてあげるという言葉を信じていたため、息子が熱を出した場合などは母が迎えに行ってくれると思っていた。母は、パートがない日は迎えにいってくれて、面倒をみてくれたが、パートの日は保育園の迎えには行ってくれなかった。そのため、私の学校がある日と父の仕事がある日と母のパートの日に息子が熱を出して保育園から電話がかかってきた時は、誰が迎えに行くかでいつも揉めた。そして最終的には、いつも一流企業の部長である父が仕事を休んで保育園のお迎えに行っていた。

112:この名無しがすごい!
21/01/31 17:31:20.45 arPB1TS/.net
それに、テスト前の時も「テスト前だから今日はみてほしい」と母にお願いしても、「保育園に預ければいい」の一点張りであり、母がみてくれることはほとんどなかった。また、体調が悪い時に、「今体調が悪いから今日息子を預かってほしい」と哀願しても、「私はお義母さんにそんなことしてもらったことはない」と強く言い返された。祖母と母は嫁姑関係であり、私と母は実の親子なのに何で助けてくれないのか不思議でならなかった。
結局、ほとんど一人で子育てを行わざるを得ない状況となった。近所に友達がいるわけでもなく、頼れる人もいないため、毎日学校から帰ったら息子を一人で見た。祖母の家にいる時は、よく一緒に外食に行ったり、息子と二人きりの環境が辛くなったら祖母の家に行き、祖母に2,3時間息子を預け、気晴らしに美容院に行ったりして精神的なバランスを保っていた。

113:この名無しがすごい!
21/01/31 17:31:48.45 arPB1TS/.net
しかし、ここでは祖母のように私を支えてくれる人が身近にいなかったため、学校に行っている間以外の時間は息子と二人きりで家にこもって子育てをした。もちろん、両親が全く何もやってくれなかったと言っているわけではない。ただ、肝心な時、心がいっぱいいっぱいの時に頼れる存在ではなかったのである。初めての子育てであり、わからないことの連続であった。家で息子と二人きりで毎日過ごすうちに、子供のことがうっとうしく思うようになってきた。自分の可愛いわが子に対して“うっとうしい”と感じてしまう自分に自己嫌悪を感じるようになった。しかし、元々人に自分の気持ちを出すことが苦手な性格である上に、保育園のママたちはみんな自分より一回り以上離れていたため特別話す人もおらず、ましてママ友なんているわけがない。私は次第にネグレクトをするようになった。息子が泣いても無視をするようになった。

114:この名無しがすごい!
21/01/31 17:32:15.18 arPB1TS/.net
祖母の家にいる時は、離乳食も手作りで作っていたのに、実家の近くに越してきてからご飯をあげず、お風呂に入れない日々が続いた。私は息子の隣で“誰か助けて、誰か助けて…”と言いながら毎日朝から晩まで泣いていた。そんな毎日泣いてばかりいる私の隣にいた息子も急に生気のない全く笑わない子になってきた。
私はこの頃より尋常じゃなく食べ物にこだわり始めた。自分が食べるもの全てのカロリーが気になって仕方がなくなった。そして、自分が決めたもの、主にはきのこ類やワカメなどの低カロリーなものしか口に出来なくなってしまったのである。また、摂取カロリーを1日800キロカロリーに制限するようになった。お腹がすいても、“これはちゃんと子育てが出来ない自分への罰だ”と言い聞かせて意地でも食べなかった。食べ物への固着は日増しにすごいものとなっていった。

115:この名無しがすごい!
21/01/31 20:50:29.34 iw0AeepP.net
大川先生は、そんな私の異常事態を察して、すぐに千葉に戻すように父に何度も言った。
しかし、父は適当に調子のいいことばかり言い、千葉に戻そうとはしなかった。これは後に聞いて知った事実であるが、2年前の私が妊娠した時に大川先生が父に電話で「マキが妊娠したので近々に会って話し合いをしたい。お母さんにも伝えておいてください」と伝えたが、父は母にそのことを伝えてなかったようであり、母は話し合いの日まで妊娠したという事実を知らなかったようである。そのために、D学園が私の妊娠を隠していたという風に思い込み、D学園に対して不満を持ち、D学園を嫌うようになった。私が現在D学園の在宅生徒だなんて知ったら母の逆鱗に触れることを恐れた父は、D学園から毎月来る月会費の明細書を祖母の自宅に送るようにしてもらっており、月会費は母に内緒で父の“ヘソクリ”から支払っていたのである。また父は、D学園からの明細書を祖母の家に送る理由を、「母が怒るから」とだけしか説明していなかったために祖母は、孫とひ孫を押し付けたことといい、明細書の件といい母に対しての不満を強く持つようになり、母と祖母の関係が劣悪なものとなっていた。

116:この名無しがすごい!
21/01/31 20:50:42.00 iw0AeepP.net
そのために、母と祖母の間で板挟みになった父は、私を祖母の家の近くに戻すことに対してどうしても首を縦に振ることが出来なかったのである。
そうこうして実家の近くにいるうちに、みるみると私の体はやせ細り、4月には48キロだった体重が気付いたら8月頃には38キロにまで落ちていた。生理も完全に来なくなった。私を心配した大川先生は、東京に来れば私に会う時間を作ってくれ、暇さえあれば私を長野に来させた。
二学期になり、私の精神状態は完全に鬱状態となっていたが、意地でも学校だけは通った。先行きも何もかもが見えない真っ暗闇であったけれども、“ここで看護師になれなかったら私には後がない…”というただ一つの強い気持ちを持ち続けた。

117:この名無しがすごい!
21/01/31 20:50:53.11 iw0AeepP.net
私は意地でも看護師になってやるという強い信念から、市役所にネグレクト気味になっていることを自ら相談しに行き、何とか現状を変えようと試みようとした。すると、祖母と父も“私の母が全く面倒を見ないために私がネグレクト気味になっている”ということを相談しに来ていたことがわかった。祖母も父も私のことを心配していてくれることが嬉しかった反面、私は“何で父は母に直接言わずにわざわざ市役所に相談に来るのだろうか。母に直接言えば済む話ではないか”と、父に対して情けなさを感じた。
そんな中で、保育園の先生が日に日に痩せていく私を見て、私の精神状態がまずいのではないかということに気づき、私の両親と話し合いをしてくれた。両親は、保育園から言われたことで私の状態が非常にまずいことに気付いたのか、このことをきっかけに両親がほぼ全面的に面倒をみてくれるようになった。

118:この名無しがすごい!
21/01/31 20:51:04.58 iw0AeepP.net
私は子育てから解放されたことで、精神的には少し楽になった面もあったが、母が“なんでマキが面倒見ないんだ、なんで孫を押し付けるんだ。あんたは最低な母親だ”と発狂しだしたりすることもあり、息子を面倒みてもらうようになったことで両親と私の関係は悪化していく一方であった。
2010年10月のある日、私は“食べたい”という欲求がどうしても抑えられなくなり、学校帰りに走って実家に行った。この日、実家には幸いに誰もいなかった。私は、実家にあったチョコレートやカステラ、食パン、昨日の残り物などを手当たり次第に食べた。食べたというよりも貪ったという表現の方が近いかもしれない。

119:この名無しがすごい!
21/01/31 20:51:52.79 iw0AeepP.net
2時間くらい無我夢中で食べ続けた後、私はパニックに陥った。“太る!!どうしよう…どうしよう…”一瞬考え込んだ後、“そうか!吐けばいいんだ!”私はお風呂場に駆け込みのどに手を突っ込んで戻した。多少時間はかかったが、ほぼ全部戻した。私はこの日より拒食症から過食症に変わった。毎日毎日、たくさんのものを吐いては戻した。それも一回に食べる量が尋常ではなかった。具体例を示すと、コンビニの大盛りパスタ一人前に、焼き肉弁当一人前、おにぎり1つ、スナック菓子一袋、菓子パン3つ、ケーキ2つ、アイス2つとかであった。毎日学校帰りにこれらの食品をコンビニで大量に買い込み、帰り道に人目を気にせず餓鬼のように貪った。道行く人は私のことをまるで異常者のような目でじろじろと見てきた。そして家に帰ってから一旦戻して胃の中をリセットし、また食べ始める。家にいる間は帰ってから寝るまでの間休むことなく食べ吐きを繰り返した。また、実家に行っては実家にある食材を全てと言っていいほど食べあさった。

120:この名無しがすごい!
21/02/01 00:06:03.72 28Tim629.net
母に、「別に過食嘔吐なんてするのは勝手だけど、うちの食材には一切手を出さないでね。迷惑だから。」と言われた。私が過食嘔吐をすることにより私と両親の関係も悪くなっていく一方であった。
体重は一気に増えた。一時期は38キロだった体重が、一気に55キロくらいまで増えた。一番太った時は58キロくらいだったと思う。私は、母に体型のことをからかわれはじめるようになり、深く傷ついた。それと同時に自分の体型へのコンプレックスがとても強くなっていった。何としてでも痩せたいという思いから、当時流行していたMDクリニックダイエットにも手を出した。MDクリニックダイエットとは、ホスピタルダイエットとも呼ばれ、ダイエットを目的とし、タイの病院が処方するダイエットに効果のある何種類もの錠剤を飲むというダイエット方法であり、インターネットの個人輸入代行サイトにて購入するものであった。一時期女性の間で大流行したが、死亡例も発生しており、危険性について問題となっていた。MDクリニックの処方薬の成分には向精神薬、甲状腺機能を亢進させる薬、下剤、利尿剤が含まれていた。私は、全ての薬のメカニズムや作用、副作用の全てを“知った上で”服薬していた。

121:この名無しがすごい!
21/02/01 00:06:15.63 28Tim629.net
また、私は便秘の時は、看護学校で学んだ“摘便”という技術を自分自身に行った。摘便とは、文字の通り肛門から指を入れ、便を摘出する行為のことである。私は1日でも便がなければ自分で摘便をした。傍から見たら、ただの異常者である。でも、そこまでしてでも、何があっても痩せたかった。
そんな中で、私は看護学校の授業で“胃洗浄”という看護技術があることを知る。胃洗浄とは、自殺のための服薬や子供が煙草を飲んでしまったようなときに、胃の中の毒物の体内への吸収を少しでも防ぐために行なうもので、口か鼻からゴムの管を胃の中まで入れて、生理的食塩水などで胃の中を洗うことである。私は、これを過食嘔吐に活かせるのではないかと考えるようになった。完全なる医療知識の悪用である。私は早速、ホームセンターでシリコンチューブを購入した。そして看護技術の教科書に書いてある“胃洗浄”の手順を真似して、過食嘔吐を行ってみた。すると、今までよりも楽に吐くことが出来た。これにより、過食嘔吐の回数が一気に増え、平日は平均して3回、休日は平均して6,7回くらい過食嘔吐を行うようになった。過食嘔吐の回数が増加に伴い、過食嘔吐への依存度も増し、一秒でも長く食べていたいという欲求が強くなり、学校をさぼってまで過食嘔吐を行うようになった。日に日に欠席が目立つようになり、あと一日でも休んだら留年になる科目が3つ、4つ出始めた。

122:この名無しがすごい!
21/02/01 00:06:27.33 28Tim629.net
“あぁ…やっぱりもうダメだったんだ…私もう看護師にはなれないんだ”という半ば諦めの気持ちが生まれてきた。そんな時ですら、私を助けてくれたのは大川先生だった。大川先生は私に、毎日一時間近く電話をかけてくれた。きっと私への毎月の電話代も在宅コースの月会費なんかでは補えるものではなかったと思う。
大川先生は私に、「お前、赤の他人がお前にここまでやったんだぞ。今は辛いと思うが、それだけお前の看護師になりたいという夢を応援している人がたくさんいるんだぞ。今は辛いと思うけど、俺はお前のことを絶対に見捨てたりしないから、頑張れ」と言われた。正直、未来への希望も展望も何もなく、この先どうなるかもわからない非常に辛い状態だった。でも、大川先生がビジネスという枠組みを超えて、本当に私という人間の為にやってくれているんだという愛情が伝わってきたから、なんとか頑張れた。

123:この名無しがすごい!
21/02/01 00:06:39.31 28Tim629.net
私は今の状況はまずいと思い、祖母の家に相談に行った。甘えていることは重々承知であるが、祖母だったら“またうちで面倒をみてあげるわ”と言ってくれるに違いないという一抹の期待すら抱いていた。私は、祖母に現在過食嘔吐がひどくて辛い状況であることと、母が面倒を見てくれると言ったので引っ越ししたのに全然子供を見てくれなくて困っているということを伝えた。
すると祖母は私の以前より丸くなった体型をじろじろと見て、
「マキちゃん、顔がまん丸お月さまみたいですごいわね。それに、何その太い足。ダイエットした方がいいんじゃない」といわれた。
私は、身内の中で一番信頼していた素直に心を開いて相談したのにも関わらず、祖母から心ない言葉が返ってきたことに大変ショックを受けた。

124:この名無しがすごい!
21/02/01 00:06:52.98 28Tim629.net
私は、祖母の家に泊まっている間も何度も過食嘔吐をした。いくら抑えようとしても、どうしても“食べたい”という欲求を抑えることができなかった。すると祖母に「マキちゃん、なんでそんなみっともないことするの?あなたには山の手沿線のお嬢様としての恥じらいがないの?あなたには克己心っていうものがないのよ!我慢しようっていう気持ちがないからいけないの!」と言われた。
祖母の家に行ったことは、何の現状解決にもならなかった。
私は祖母に言われた通り、過食嘔吐を我慢してみることにした。どうしても過食嘔吐がしたくなったら、ガムを噛んで我慢をした。2,3日我慢することが出来た。しかし、3日後には再び過食嘔吐を繰り返すようになっていた。さらに無理に我慢をしたことが結果的にひどい事態を招いてしまった。

125:この名無しがすごい!
21/02/01 01:13:29.46 1TcEZEaE.net
私は夜間に過食嘔吐をするようになったのである。夜中に起きだして、冷蔵庫にあるものを貪り始める。なんでも手当たり次第食べ始めた。好んで食していたのは、菓子パン、揚げ物、カップ麺、お米、お菓子などの普段制限している高カロリーな食材や炭水化物を多く含んだ食材であった。夜間飲食をしたことを全く覚えていなく無意識に近い状態の時と、夢の中の出来事のようにうっすら時があった。私は体型に対して強いコンプレックスを持っていたため、例え夜間の睡眠中の飲食ですら無意識のうちに毎回きっちり嘔吐をしていた。
私は睡眠時に過食をするのはまずいと思った。私は、自分なりの打開策を考えた。毎晩深酒をし、睡眠薬を飲んで夜間無理矢理眠りについたら、夜間過食はなくなるのではないかと考えた。

126:この名無しがすごい!
21/02/01 01:13:43.16 1TcEZEaE.net
看護学校一年の冬あたりから睡眠導入剤をもらうために“不眠症”と偽り、近所の精神科にとし、睡眠導入剤を処方してもらった。最初はマイスリ―という軽い睡眠導入剤を就寝時に一錠飲み始めた。そして睡眠導入剤の服薬量は日増しに1錠、2錠と増えていき、気付いた時にはロヒプノール、エリミン、ハルシオン、マイスリ―を毎日10錠以上服薬するようになっていた。勿論、一か所の精神科ではこれだけの量を出してはくれないため、何件もの精神科をはしごした。次第に、向精神薬にも手を出すようになった。また、しばらく肥満恐怖で飲まなかったアルコールも馬鹿みたいに飲み始めた。1日にウイスキーを一本近く開けるようになった。

127:この名無しがすごい!
21/02/01 01:13:54.81 1TcEZEaE.net
夜中まで泥酔するまで酒を飲み、泥酔したところで上記の睡眠導入剤たちを飲んで就寝した。完全にラリったような状態で就寝するために寝つきは相当よかったが、夜間過食の方はさらに悪化し、ひどい時には朝起きたら何も覚えていないけど食べ物だけがなくなっているということが続いた。家に食べ物を何も置かないようにしても夜中に近所のコンビニに買い出しに行ってしまい、どんな打開策を取っても無駄であった。もう自分ではコントロール不能な状態にまで陥っていた。
ひどい時は過食嘔吐に月20万使うようになった。だんだんお金が底をつき、私は月々の収入ではやりくりできないようになってきた。
私は万引きを繰り返すようになった。
大川先生は、ここ最近の私の異常行動を見て、これは緊急に対処しなければ大変なことになると悟ったらしい。

128:この名無しがすごい!
21/02/01 01:14:19.88 1TcEZEaE.net
大川先生は父に電話をかけ、「マキは最近目に見えて行動がおかしくなってきているし、最近万引きなどの犯罪行為を行うようになってきた。このままだと、覚せい剤を吸うのも時間の問題だと思う。以前覚せい剤を吸った時は10代だったので犯罪にはならなかったが、今マキは20才で成人しており、れっきとした犯罪だ。もしマキが覚せい剤で捕まったら、あなたの名前も新聞に載りますよ」と、半ば脅しで父に伝えた。
父は、自分の名前が新聞に載るかもしれないという言葉に強く反応したようである。父は、このことを言われてからすぐに動いてくれた。
前述したが、千葉県に戻ることは、母の逆鱗に触れるために不可能である。そこで大川先生は、自分の直弟子であるA支部の道場の五十嵐道場長に、私と息子を近くに住まわせて面倒を見てほしいということを頼み込んでくれた。五十嵐道場長は、タップダンスの講師をしている妻と二人暮らしであり、子供はいなかった。五十嵐夫婦は、しばらく悩んだが、どうしても困っているならやむを得ないということで大川先生の頼みを引き受けてくれた。

129:この名無しがすごい!
21/02/01 01:14:32.44 1TcEZEaE.net
私は、すぐにA市の五十嵐夫婦の家の前のアパートに引っ越した。そして両親と五十嵐夫婦で話し合いをし、今後の方針についての取り決めを行い、以下の内容が決定した。
・マキがチカラを育てられるようにするためには、まずマキの自立が優先であるため、マキが看護学校を卒業するまでは、マキが学業に専念出来るよう子育てを放棄させる。
・今チカラは実家の近くの保育園に通っているため、A市の保育園が決まるまでは平日は両親が息子の面倒を見て、土日は五十嵐夫婦が面倒を見る。
・マキが五十嵐夫婦に毎月5万円を支払う。
2011年4月、一時はもうダメかと思ったが、無事に2年生に進級することが出来た。
五十嵐先生と両親が交互に息子を観てくれることとなったため子育てから解放され学業に専念出来る環境になったこと、A市に引っ越したことで両親から離れたことにより精神状態がだいぶ落ち着いた。アルコール依存はずっと続いていたものの、6月には過食嘔吐も夜間飲食もなくなった。

130:この名無しがすごい!
21/02/01 02:28:24.69 8WtKgbC7.net
学校の方も、特に友達がいたわけではなく相変わらずの単独行動であったが、精神的に落ち着いてきたことで、1年生の頃よりは落ち着いて勉学に取り組むことが出来るようになった。
アルコール依存症は、妊娠中と授乳期間を除き16歳から23歳までずっと続き、どんなに体調が悪くても飲まない日なんてなかったが、この時期の飲酒量毎晩ハイボール500mlを4本程度であり、自分の中ではかなり少ない方であった。恐らく看護学校2年生の4月から10月あたりがこの3年間の中で一番精神的に安定していたと思う。
そんな比較的安定した日々を過ごしていた中、ある日突然予想もしない人物からFacebookを介してメールが来た。中学と高校の同級生のM.Kからである。
対人付き合いを極力避けていた私だが、M.Kからの突然のメール、しかも「高校の時に何も話を聞いてあげれんでごめん」と言われ、当時の私のことを気にかけていてくれていたことが嬉しくなり、あっさりと会う約束をしてしまった。
私たちは2011年6月28日に実に4年ぶりの再会をした。

131:この名無しがすごい!
21/02/01 02:28:36.83 8WtKgbC7.net
私たちは夕方5時半に新宿東口で待ち合わせをした。私は東口近くの喫茶店で看護学校のレポートをやりながらM.Kのことを待った。M.Kは30分ほど遅れて到着した。私たちは会うなりキャッチに引っかかり、そのまま歌舞伎町にある大手の安い居酒屋に行った。私はビールを頼み、M.Kはサワーを頼んだ。
そしてM.Kから、
「俺、お前のことが気になって仕方なかったっちゃん。高校の時に本当は話を聞いてあげたかったっちゃけど、俺もあの頃部活とかでいっぱいいっぱいで話聞いてあげれんやったっちゃん。あの時に話聞いてあげれればってずっと後悔しよって、いつか会いたいと思いよったっちゃん。」と言われた。

132:この名無しがすごい!
21/02/01 02:28:53.95 8WtKgbC7.net
私は、あの怖い人という印象しかなかったM.Kが意外と優しいやつだったことに驚いた。しかし、この時の私には他人の優しさなんて微塵にも伝わらなかった。
“どうせこいつも口だけの偽善者だろう”と思った。
その後、互いの家庭環境や生い立ちなどの話で、盛り上がった。
そこで、M.Kが大貧困家庭で大変苦労して育ったこと、C高校理数科の時は特別に授業料免除を受けていたこと、私が知っているM.KはT大A判定で、どう転んでも間違いなくT大に入れるほど学力が高かったにも関わらず現役で某旧帝大に落ち一浪して東京都の某国立大に行ったことを知った。そして、“M.Kって怖くてチャラそうなB系ファッションで私と最も遠い人くらいにしか思ってなかったけど、意外と苦労人なんだ…驚き”と思った。

133:この名無しがすごい!
21/02/01 02:29:03.96 8WtKgbC7.net
私も、自分はすごく学歴や地位のある家に産まれて16歳まで勉強と習い事でがんじがらめであったこと、門限5時に耐えかねて高校を辞めたこと、高校を辞める頃には覚せい剤漬けであったこと、高校辞めた後フィリピンに行っていたこと、現地で日本人の青年との間に子供が出来たことなどを話した。
会話が弾んだ。
その後、私から「理数科のみんなは元気なのー?みんなどうしてるの?」と聞いた。
するとM.Kが、あいつは今T大に行ってるとか、あいつは今医学部に行ってるとかみんなの近況について教えてくれた。

134:この名無しがすごい!
21/02/01 02:29:15.68 8WtKgbC7.net
私は、“聞くんじゃなかった”と後悔した。この頃の私は学歴コンプレックスの塊となっており、常に他人と自分の学歴を比べては自分を卑下していた。子供の時からあれだけ勉強してきたのに、医学部に行けなかった自分、女医になれなかった自分のことが許せなかった。更に追い打ちをかけるようにM.Kに「セトは看護師っていう道を選んで、本当にいい選択をしたと思うよ。大正解だと思う。」と言われた。
この言葉にカチンと来た。
“この野郎!!!馬鹿にしやがって!あたしが高校辞めて学力が低下して看護師にしかなれなかったからって馬鹿にしやがって!結局こいつも家族と一緒だ!看護師にしかなれない私のことを馬鹿にしやがって!”


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