重度の覚せい剤中毒で ..
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2:この名無しがすごい!
21/01/30 05:09:35.27 ka2E/6Ln.net
はじめに
初めまして、私の名前はセトマキ。
職業は、元々看護師だったけど退職し、現在は慶應大学法学部政治学科(通信課程)にて政治の勉強中。
今は中学時代に塾と中学校が一緒であり、高校時代のクラスメイト、そして現在東京都の某国立大学大学院生であるM.Kと交際している。
M.Kのためにおいしいご飯を作ることが一番の幸せであり、ごくごく平凡で充実した日々を過ごしている超がつくほど彼氏思いのごくごく真面目だがちょっと風変わりな女子である。
こんな私が福岡県国公立校トップのC高校理数科を中退し、16歳から家出をしてキャバクラや風俗で働きながらありとあらゆる薬物に手を染め、17歳で覚せい剤を吸って鑑別所に入り試験観察処分を受けるほどの不良少女となり、18歳で出産したけど虐待して子供を養子に出し、さらに16歳から23歳までひどいアルコール依存症で、20歳からは拒食症と過食嘔吐を繰り返し、22歳で両親への腹いせに入れ墨を彫り、そしてつい最近まで現役の風俗嬢だったなんて今の私からは誰も想像がつかないであろう。
このストーリーは、エリート家系に産まれて何不自由ないお嬢様であった女の子が非行少女となり覚せい剤をはじめとする薬物依存症、摂食障害、ギャンブル依存症、アルコール依存症に陥り、最後には風俗嬢まで転落したが、奇跡としか言いようのない不思議な体験をしてからとっても幸せな女の子になったセトマキっていう人間の数奇な人生物語である。

3:この名無しがすごい!
21/01/30 05:11:38.02 ka2E/6Ln.net
第一章 セトマキの生い立ち
一節「いい子ちゃん」
私が産まれた家であるセト家は、超がつくエリート一家である。父方の親戚の八割以上は東大、慶應、医学部が占めている。まさに学歴はピカイチである。祖父はT大出身の某一流商社マンである。その他の親戚の職業は商社マンや経営者、外交官や医師がほとんどを占めている。というより身近の親戚で上記の職種以外の人は恐らくいない。
父は幼少期をロンドンで過ごし、私立の中学高校へ進学、その後私立K大学経済学部から大手一流企業に就職した。いわゆる典型的なエリートボンボンのお坊ちゃんである。
母は対極的な育ち方をしており、ごくごく一般家庭で産まれた。母方の祖父は高校中退後、工場で勤務をしており母は三人兄弟の長女として産まれた。母は大変な努力家であった。書道、珠算共に有段者であり、ピアノもショパンの幻想即興曲をスラスラと弾きこなし、大学時代はジャズバーでピアノを弾くアルバイトをするほどの実力であった。また大変な勤勉家であり、福岡県内の学区トップ高校から旧帝大学教育学部へ進学した。母には二つ上に兄がおり、母の兄と母の大学への進学時期が重なってしまったために母は大学の学費を出してもらえなかった。そのため母は、奨学金を借りて塾の講師のアルバイトをしながら大学へ通った。大学卒業後は大手証券会社に就職した。
父と母の出会いは福岡であった。父が用事で母の証券会社に行った際に対応したのが母だったのである。すぐに交際を始め、5年間の交際の末に結婚したのだ。
そんな父と母の下でセトマキは産まれた。
セトマキは子供の頃からとにかく変わっていた。よく言えば、不思議ちゃん。一般的に言えば、大変人。
幼稚園の頃から母方の祖母に会うたびに「まきちゃんね、将来すっごく有名人になるんだ!これ、本当なんだよ!本当にほんとなんだ♪」がお決まりの口癖だった。だから母方の祖母から付けられたあだ名は『夢見る夢子ちゃん』だった。

4:この名無しがすごい!
21/01/30 05:14:21.33 fXYUt9Oq.net
セトマキは、小さいころから天から舞い降りてくるお告げに沿って行動していた。信じるものは天空から舞い降りるお告げのみ。とにかくお告げに素直だった。そのため、子供の頃からまわりの子とは全く違う行動をとる子供であった。両親は私をアスペルガーではないかと心配し、病院で検査を受けさせたりしたこともあるらしい。
話は戻るが、セトマキは、傍から見ればこんなに優秀な両親から産まれ、経済的にも何不自由ないお嬢様なわけで、子供の頃からたくさんの習い事をやっていた。幼稚園に入る前からリトミック、子供チャレンジ、幼稚園の頃からはピアノ、水泳、英会話、ドイツ語、体操などである。特にピアノは頑張った!小さい頃から母が演奏してくれていたショパンの幻想即興曲とジャズピアノの名曲であるTAKE5を聴くのが大好きだった。将来は母みたいにピアノがうまく弾けるようになりたいって純粋に思っていた。
さて、セト家にはセト家を統率する強力な存在がいた。父方の祖母である。祖母は会社を経営しており、T大卒某一流商社マンの祖父より稼いでいる時もあった。やり手の女社長である。
セト家は、学歴や家柄、職業などいわゆる社会的ステータスを重んじる傾向にある家庭であり、学歴や社会的ステータスのない人を見下す傾向にあった。
母は一般的な家庭からセト家のようなエリート家系に嫁いでしまったため、私がセト家の人間として恥じないような人間にしなくてはならない、それなりの社会的ステータスを身につけさせなくてはならないという強いプレッシャーがあったんだと思う。
子供の頃から母との話が他人の家の年収や学歴、自分の家の学歴の話に偏っていた。そのため、セトマキは幼稚園の頃から、幼稚園の友達の親に「○○ちゃんのお母さん!○○ちゃんの家のお父さんの年収っていくらなの?どこの大学出てるの?うちのお父さんはK大出てるんだー!」なんていう会話ばかりしていた。幼稚園児にして相当偏った人間であった。そのために、まわりから変な扱いを受けた。どこへ行っても変なやつ扱いをされて孤立していた。

5:この名無しがすごい!
21/01/30 05:15:32.10 qFtVoSv2.net
子供の頃から母との話が他人の家の年収や学歴、自分の家の学歴の話に偏っていた。そのため、セトマキは幼稚園の頃から、幼稚園の友達の親に「○○ちゃんのお母さん!○○ちゃんの家のお父さんの年収っていくらなの?どこの大学出てるの?うちのお父さんはK大出てるんだー!」なんていう会話ばかりしていた。幼稚園児にして相当偏った人間であった。そのために、まわりから変な扱いを受けた。どこへ行っても変なやつ扱いをされて孤立していた。
セトマキは父の海外転勤に伴い小学校一年生から四年生までをドイツのデュッセルドルフで過ごす。一年生の時と二年生の時は現地小学校であるブリューダーグリムシューレに通う。最初は全くドイツ語が話せずに言葉の壁で苦労したが、年齢が若く言語の習得が早かったこと、担任のノエル先生がとても熱心な先生で毎週月曜日の放課後に私を自宅へ招きマンツーマンでドイツ語の指導をしてくれたこと、週三回日本人の家庭教師がドイツ語を教えに来てくれたことにより、ドイツに引っ越して一年たった頃にはほぼバイリンガルとなっていた。ドイツ人の子たちはみんな優しく割と馴染めた。しかし私はこの二年間現地小学校にいたことにより元々ずれていたTPOがさらに大きくずれてしまうこととなる。
三年生と四年生はドイツの某日本人小学校で過ごす。クラスメイトは全員日本人である。私はTPOが全く読めずに、クラスでは完全に浮いた存在であった。みんな優しい子たちであったためにこんな私と仲良くしてくれたが、誰とも、誰とも合わなかった。クラスメイトと根本的な感覚が違った。人と一緒に遊んでいても、心の中ではいつも孤独だった。そんな小学生の私は、自分の居場所を宇宙に求めた。宇宙、特に星が唯一の友達であった。毎日のように星や星座の図鑑を見て、天体望遠鏡で夜空を観察した。夏の夜空にキラキラと輝く真っ赤な一等星であるさそり座のアンタレスが大好きであった。また、星と同じくらいオーロラが大好きな子供であった。小学校の頃から、“大人になったら、絶対にシベリア鉄道に乗ってシベリアでオーロラを見るんだ!”という夢を持っていた。

6:この名無しがすごい!
21/01/30 05:16:45.41 xoz4XRZh.net
私は産まれてからずっと同世代の誰とも子たちと誰とも合わないことへの強い孤独を抱えていた。どう合わないかと言われても、上手く説明できないが、根本的な何かが全く違うのである。正直、小学生の頃から人一倍、他人への違和感や生き辛さを感じていた。四年生のある日、セトマキは産まれてくる前に、神様から「君は日本一のラッキーガールだ」と言われたことを思い出した。
“全然ラッキーじゃないじゃん…お告げの嘘つき!”
心の中で神様にいつも文句を言っていた。
四年生の終わりに日本に帰国し、世田谷区の公立小学校に転入した。日本に帰国してすぐに近所のWアカデミーに通い始め、母と二人三脚で受験勉強を頑張り始める。
5年生になり、クラスが変わってから壮絶ないじめに遭う。このいじめは小学校卒業まで続き、学校では友達もいないまま一人ぼっちで過ごすこととなる。塾の方でも、完全に浮いた存在でありいつもトラブルメーカーであった。
六年生のある日、大平光代さんの『だから、あなたも生きぬいて』という本に出会う。この本は中学生のときに自殺未遂をするほどのいじめを受け、その後非行に走り、暴力団の組長にまでなった女性が、北新地でホステスをしている時に偶然父の友人と出会ったことがきっかけとなりそこから猛勉強を開始し見事一発で司法試験に受かるという更生物語である。私は、大平光代さんという名前が引っかかった。六年生のときに何となく、直感的に自分もそんな人間になる予感がした。

7:この名無しがすごい!
21/01/30 05:19:08.05 Pd9XpuCA.net
6年生の終わりに、中学受験をするもことごとく失敗する。4年生まで海外にいたこともあり、他の子よりも日本語が弱く、成績があまり伸びなかったのである。結果的に第一志望のF中学校というお嬢様学校には合格できず、第二志望、第三志望もことごとく失敗し、第四志望である中堅校のK中学校に進学した。K中学校は、男女別学であり、実質女子校のようなものであった。K中学ではいじめに遭うことはなかったものの、以前変わらず周囲から浮いていた。みんなすごくいい子たちであり、クラスメイトのこととは好きではあったが、波長が全く合わなかった。頑張って合わせようとすればするほど浮いた存在となってしまった。そんな中、父の福岡転勤が決まる。高校を再受験してほしいという親の意向もあり、K中学を退学し、福岡県に転勤することとなった。そして、中学二年生の1学期に福岡市の公立中学校に転入した。
福岡県に引っ越してすぐに、英○館という九州最大手の進学塾の入塾テストを受けた。私はK中学校が中高一貫であったこともあり、中学一年生の頃に全くと言っていいほど勉強をしておらず、中堅の私立中学に通っていながら学力が大幅に低下していた。そのために、テストの結果は、2000人中の真ん中よりちょっと上らへん、偏差値も全体で50より少し上くらいであり、自分の予想をはるかに下回る結果となった。私も母もこの成績には絶句であった。とりあえず、私は英進館のE本校の特Sクラスという真ん中より少し上のクラスに入った。
中2になった頃から、母の様子が何かおかしくなってきた。

8:この名無しがすごい!
21/01/30 05:21:26.19 VKbAbfY3.net
母の望みは、福岡県の学区トップ校の一つである福岡県立S高校に私を行かせることであった。中2の5月頃、母と二人で夜ごはんを食べようとしていたところ、S高校を受験するように言われた。福岡県の公立高校は学区制であり、S高校は別の学区であった。そのために、S高校を受験するためには私は転校して、越境受験をしなければならない。私はせっかく今の中学に馴染めてきたばかりであり、転校するのなんて嫌だった。なので私は、「私、転校するのは嫌だ!」と言った。すると、母が半狂乱になって怒り出したために私も負けじと言い返し、激しい口論となった。あまりに頭にきた私は、「だったらいいもん!受験しても白紙で答案出して、無理矢理落ちてやる!!!」と言った。すると母が「ふざけなさんなよ!」と言い、今から食べようとしていたまだ湯気の立っているお味噌汁をかけてきた。お味噌汁は4月に購入したばかりのまだ真新しい制服のスカートにかかった。
「ちょっとなんてことしてくれるの!?あたし制服これ一着しか持ってないのに、どうするの??あたし明日学校行かないからね!もう知らない!」と言い放ち、私はご飯を食べずに自室に戻り、お味噌汁のかかった制服を床に投げ捨て私服に着替え、塾に自習に行った。塾から帰ってくると、お味噌汁のかかった制服は洗濯されており、乾いた状態で部屋の隅に置かれていた。それも丁寧に折りたたまれていた。私はこの光景を見て、母に対して申し訳なさを感じた。そして私は入塾テストでの成績が思わしくなかったこともあり、中2の5月ごろから火がついたかのように猛勉強を開始した。学校から帰ってきたら、ひたすら勉強、勉強、まだ高校受験まで2年もあるのに血眼になって勉強した。

9:この名無しがすごい!
21/01/30 05:28:12.59 Aew+SI4D.net
その結果、中2の夏に、見事英○館のTZSクラス判定をもらった。TZSクラスとは英○館のトップクラスであるTZクラスの中から、さらに選抜された精鋭たちが集うクラスである。TZSクラスは、主にN、開○、慶○女子、学○大付属、ラ○ール、K附設など、全国超難関私立を受験するための選抜クラスであり、講師もみな受験を熟知している精鋭された人たちであった。また、TZSクラスは私が通っていた薬○本校にはなく、近場だと天○本館にしかなかったため、私は夏期講習から天○本館に校舎が変わることとなった。私は、親の期待を裏切らずに済んだことに一安心した。
早速夏休みになり、天○本館での授業が始まった。さすが各校舎から選ばれてきた生徒たち、みんな知的なオーラが出ているし、休み時間も黙々と勉強をしている。私はまわりの勤勉さに多大な影響を受け、“今の勉強量では大変まずい”と直感的に思った。天○本館に通い始めて数日経った頃、色黒で目鼻立ちのはっきりした少年とすれ違った。“なんだあの人?あたしと顔似てる…”これが初めてM.Kと出会った瞬間だった。別に好みのタイプでも何でもなかったけど、なぜか強く印象に残った。

10:この名無しがすごい!
21/01/30 05:32:47.90 aNj4j+MC.net
話は戻り、TZS クラスでの私の成績はいつも下から数えた方が早かった。日に日に焦りが増していく。
私は、中2の頃から寝る時間を惜しんで勉強をするようになった。また、私は幼稚園の頃から続けていた
ピアノも継続して習っており、ピアノの練習時間も必要であった。
そのため、朝時間がある時は学校に行く前にピアノの練習をしてから学校に行った。
中学校のクラスメイトもみんないい子たちであったし、みんな私に優しくしてくれたが、
やっぱり何かが合わず、無理に合わせようとすればするほど浮いた存在となってしまった。
それに中学生となると盛り上がる話題はテレビドラマの話であるが、私は9時以降はテレビを
見ることを禁止されていたため、ドラマの話題にも全くついていけなかった。
また母は、私が幼少の頃から食育に大変厳しく、毎食、野菜がふんだんに使われたいかにも
健康的な食事を作った。

11:この名無しがすごい!
21/01/30 05:33:49.92 s9VCqJFv.net
家にインスタントラーメンなんて置いてないし、お弁当に冷凍食品が使われることも滅多になかった。
食卓に冷凍食品やレトルト食品が並ぶなんて論外である。
また、私は中学生までの間にカップラーメンを食べたことがあるのは海外旅行の時くらいであった。
そのため私は中学生の頃まで、レトルト食品やカップラーメンは、その日ご飯を食べるお金もないような
よっぽど生活に困窮した人しか食べないものだと思い込んでいた。

12:この名無しがすごい!
21/01/30 11:40:51.17 2d+3eecl.net
食卓に冷凍食品やレトルト食品が並ぶなんて論外である。また、私は中学生までの間にカップラーメンを食べたことがあるのは海外旅行の時くらいであった。そのため私は中学生の頃まで、レトルト食品やカップラーメンは、その日ご飯を食べるお金もないようなよっぽど生活に困窮した人しか食べないものだと思い込んでいた。
中2の終わり頃から私は母と志望校の不一致でもめるようになった。TZSクラスでは九州最難関の私立高校であるK附設高校やラ○ール高校を志望する生徒が多く、講師たちもK附設高校やラ○ール高校に特化した授業も定期的に設けており、K附設模試やラ○ール模試も年に何回も行われていた。私はそんな環境で毎日勉強していたため、自然とK附設高校を志望するようになった。母に、K附設高校に行きたいということを素直に伝えてみた。すると、母から、「男が多いからK附設に行きたいんだろ、そんなの許さない」と言われた。私は唖然とした。確かにK附設高校は元々男子校であり男女共学になってから間もなかったために男女比は10:1くらいであった。しかし私は、モテたいから行くとかではなく、両親の期待に応えてより良い大学に行きたかったために少しでも偏差値の高い高校に行きたいという思いからK附設高校を志望していたのである。

13:この名無しがすごい!
21/01/30 11:41:14.47 2d+3eecl.net
さすがにこの母の一言には相当頭に来た。そのため、父にこの母との出来事の一連を伝え、K附設高校にどうしても行きたいという自分の気持ちを伝えた。すると父は、「お父さんはK附設に行くことは反対しないよ。お母さんが本当にそんなこと言ったの?わかったよ、話しておくよ」と言ってきた。数日後、どうなったか父に聞いてみたところ、「いや、お母さんはそんなこと言ってないと思うよ」と適当にはぐらかされてしまった。父が母に私がK附設高校に行きたいと思っていることを話してくれていないことが一目瞭然でわかった。よく考えてみたら、私は両親と話し合いというものを産まれてから一度もしたことがないことに気付いた。しかし、この頃はまだ中学生であり、他の家庭も大切なことに関して話し合いをしないのが当たり前だと思っていた。
さらに、なんと母は越境受験のために福岡県でも一等地である“大濠公園”にマンションを購入した。やたらとS高校にこだわっていた。
ここまでされると、勉強へのプレッシャーで頭がおかしくなりそうであったし、それに母の異常な執着が恐ろしくなってきた。

14:この名無しがすごい!
21/01/30 11:41:44.53 2d+3eecl.net
両親の下から逃げて、楽になりたかった。そのため、私は千葉にあるS教育学園幕張高校を志望することにした。ここであれば父方の祖母の家から通えるし、両親と離れて暮らすことが出来る。早速私は父方の祖母に電話をかけ、どうしてもS教育学園幕張高校に行きたいことを伝えた。S教育学園幕張高校は千葉県でもトップ高校の私立であり、全国でも名門高校である。学歴や体裁を気にする祖母は、そんなS教育学園幕張高校に行きたいという私の思いに反対するわけがない。祖母は、私の両親に、関東の方が予備校もたくさんあるし私をS教育学園幕張高校に行かせ、千葉県の家に下宿させるのが本人にも良いのではないかと半ば強引に提案した。我が家のボスは父方の祖母であるため、私の両親は父方の祖母の意見に対して「NO」なんてことは言えるわけがない。こうして私は中3の初めに第一志望をS教育学園幕張高校に変更した。この辺りから、母のS高校への異常な固着は消えた。
そんな中学3年生のある日、学校の授業の一環で薬物乱用防止の講演会が行われた。この日に私は、“お前はこんなに勉強を頑張っているけど大学には行けない。将来覚せい剤を吸って18歳で子供を産む”とのお告げを受けた。私は、このお告げを受けて数日間ショックを隠しきれなかった。“そんなのウソに決まってるよ…そんなこと、あるわけないじゃん。だって子供の時から勉強頑張ってきたのに…そんなのあり得ないあり得ない。”とりあえず、自分の心の中でなかったことにしておいた。この時は、数年後に本当にこの“お告げ”の通りになってしまうなんて思ってもいなかった。

15:この名無しがすごい!
21/01/30 11:42:05.23 2d+3eecl.net
私は中3の夏に、ずっと続けていたピアノを辞めた。先生には“勉強が忙しいから”という理由にしていたが、本当は違った。中2の頃から月光第三楽章という曲を弾き始めたのだが、この数ヶ月間どんなに練習しても上手く弾けるようにならなかった。いつも同じ所で間違えてしまう。また、ピアノの練習の時に同じ所ばかり間違える私を見る母の目線が辛かった。年々弾く曲の難易度も上がり練習も辛くなってくるし、年と共にピアノが好きだという感覚も薄れてきた。なので、本当はただピアノの練習が辛かったからなのに、“受験勉強が忙しいから”と自分に言い訳をして、ピアノを辞めた。12年間頑張ってきたものをあっさりとやめた。大切なものを一つ失った。
中3の二学期、塾で同じのM.Kが私の通っている中学に転校してきた。
“あ、塾で一緒のM.K君だ。なんだろ…なんかよくわからないけど気になる…。でもあの人はきっと私と世界で一番遠い人だ。”
M.Kは中学の頃から大人しい少年であったが、人に印象を残す何かを持っていた。私はM.Kのことを好きなわけでもなんでもなかったのになぜかすれ違うたびに目で追っていた。また、M/Kが転校してきた時にM.Kのうわさがちらほらと流れた。多分、M.Kは私以外の人から見ても気になる存在だったんだと思う。私は他の人の噂は聞き流す程度にしか関心がなかったのに、M.Kの噂だけはなぜだか記憶に残った。

16:この名無しがすごい!
21/01/30 11:42:22.02 2d+3eecl.net
二学期が始まってからは、受験まで半年を切ったこともあり、心の中は受験へのプレッシャーで頭がおかしくなりそうになっていた。平日はほぼ毎日学校と塾を往復し、休日は朝から晩まで塾で勉強、毎日三時間睡眠で死に物狂いになって勉強した。
志望校の件では最後まで母と揉めたが、結局、第一志望がS教育学園幕張高校ということは変わらなかった。この頃には母のS高校への異常な熱は冷めており、公立高校は受験しない方針となっていた。K附設高校は、塾で半ば強制的に受けさせられるために、母は渋々納得した。結局私は、S教育学園幕張高校、K附設高校、S学園高校、S学院高校を受験することになった。
そして10月、11月、12月と勉強漬けの日々を過ごし、1月を迎え、受験シーズンが到来した。
受験の結果から言わせてもらうと、私はS教育学園幕張高校とK附設高校には不合格であり、S学園高校とS学院高校に合格した。
S学院高校は、福岡市内の私立高校では一番の難関校で、制服が可愛いことと自由な校風で人気であった。
S学園高校は長崎県にあり、年によって多少前後すると思うが全国偏差値ランク6位と全国レベルでの難関高校で、東大京大国立医学部への高い合格実績と、質の高い教育、そして校則の厳しさで有名であった。S学園では多くの生徒が下宿し、下宿先から通学していた。

17:この名無しがすごい!
21/01/30 11:43:35.07 Oi15mC11.net
難関大学を志望している私は、S学院高校に入学する気なんて鼻からなかったため、私はS学園高校に進学することを決め、入学手続きを取った。もちろん家から通うことは出来ないため、4月から下宿をしなければならない。私は4月から親元を離れて下宿をすることに対して強い不安を抱いていたが、良い大学に入るためなら仕方がないと自分に言い聞かせた。
2016年2月下旬のある平日、私は学校に登校していつも通り授業を受けていた。この日は公立高校願書出願の締切日であった。私はS学園高校に行く気満々であったにも関わらず、“やっぱりS学園に行きたくない、下宿なんて嫌だ”という気持ちが突然こみ上げて来て、休み時間に思わず泣き出してしまう。私は担任の先生に相談したところ、先生が母を呼び出してくれた。母はすぐに学校に駆け付け、私と母と担任の先生で急遽進路についての話し合いを行った。私と母はなんだかんだお互いに離れるのが辛くて中学の応接室で二人で泣き出してしまい、急遽公立高校を受験することとなった。願書の締め切りが目前に迫っていたため、別の学区であるS高校を受験することは時間的に無理であり、私が行っている中学校の学区トップ校である福岡県立C高校を受験することとなった。C高校には普通科と理数科があったが、見栄と向上心が人一倍強い私は当然のことながら理数科を志望した。
私は、それまで公立高校受験ということはあまり視野に入れていなかったため、公立高校受験には必ずついて回る“内申点”への対策を全くしていなかった。C高校受験者は内申点がオール5に近く、40台を切っている人はほとんどいなかった。私の中3の頃の内申点は30台という低さであり、合格が絶望的であったが、奇跡的にC高校理数科に合格した。
こうして私は2016年4月よりC高校理数科に進学することが決まったのであった。

18:この名無しがすごい!
21/01/30 11:44:37.34 Oi15mC11.net
二節「非行少女」
平成18年4月、福岡県内ではおそらくほとんどの人が知っているであろう福岡県の御三家高校の一つである福岡県立C高校理数科に入学した。私は、とりあえず親やセト家の期待には一応応えられたであろうと束の間の安堵を覚えた。しかし、この段階でもう大学受験を視野に入れていた。塾は春期講習で一旦辞め、塾に行かない代わりにZ会を始めた。
私のクラスは理数科であったため3年間クラス替えなしである。理数科はT大K大をはじめとする国公立大学や医学部への進学を目標として、普通科とは違う理系に特化した教育課程を行うクラスである。当然のことながら普通科よりも優秀な生徒の割合が多い。
私は今まで以上にプレッシャーを覚えた。小学校の頃からずっとずっと大学受験のためだけに勉強してきたが、ついにその大学受験が三年後に控えている。“この三年間は今まで以上に勉強を頑張らなきゃやばいな…。目標はT大K大もしくは国立医学部現役合格、何があっても最低でも現役で私大医学部には入らなくちゃ…。”プレッシャーが重くのしかかる。そのため、勉強も今までにも増して頑張った。

19:この名無しがすごい!
21/01/30 11:45:14.31 zgw4J/9N.net
毎日学校が終わってからは門限の5時に間に合うよう家に直帰し、そこから平日は4時間くらい勉強をしていた。主にはその日の復習と宿題、そして残りの時間で次の日の授業の予習を行い、まれに時間に余裕がある時はZ会をやっていた。休日は一日中勉強をしていることが多く、主にその週に授業で学んだ内容の復習とZ会をやっていた。時々友人と遊ぶこともあったが、午前か午後のどちらかは必ず勉強時間に充てていた。高校在学中に一度だけ受けた校外実力テストである進研模試での偏差値は、三教科で76であった。私の代の理数科は最終的に38人中T大9人(理V1名)、K大2人、国立医学部5人、国公立大学進学者30人弱でありクラスの過半数が旧帝大以上の国公立大学に進学した。私の高一の一学期の段階でのクラス順位は6〜18番の間であった。当時の私は“今よりクラス順位が落ちてしまったら私の人生全てが終わりだ”という根強い恐怖心があった。今思えば、高校一年生の頃は若干勉強ノイローゼのような状態になっていたんだと思う。

20:この名無しがすごい!
21/01/30 11:46:16.35 ZudKrDbx.net
理数科での交友関係は比較的順調であった。クラスメイトにも恵まれていた。どこに行っても浮いていて友達が出来ない私であったが、この時はカオリって言う女の子と大の仲良しになった。同じ中学から理数科に進学したのはM.Kだけであった。“またこの人と一緒だ…。相変わらず根暗っぽい人だな…。”M.Kのことはどこか印象に残る存在であったがさほど気に留めてはいなかった。
7月のとある日の4限目の音楽の時間。この日の音楽の授業は、自分の最も好きな曲の発表であった。いつものように3限目が水泳であったため、急いで着替え、授業が始まるチャイムと同時に音楽室に着いた。そして、一人ずつ自分の好きな曲の発表を行っていった。この時、M.KはJames BluntのYou`re Beautifulを発表していた。この曲を特別に良いと思ったわけではなかったが、なぜか印象に残る曲であった。私はこの週末にTSUTAYAに行きJames BluntのYou`re BeautifulのCDをレンタルして自分のウォークマンに入れた。この日から毎日James BluntのYou`re Beautifulを聞くようになった。私は自分が何の曲を発表したかも覚えていないし、他の人が何を発表したかも全く覚えていないが、M.KがJames BluntのYou`re Beautifulを発表したことだけが、高校を辞めた後も何年間も忘れられないC高校在学時で唯一記憶に残っている出来事となった。

21:この名無しがすごい!
21/01/30 11:47:48.81 Oi15mC11.net
一学期が終わり夏休みに入った。2006年8月1日、福岡で最も大きな花火大会である大濠の花火大会があった。私はこの時付き合っていた人とデートであったが、親には筑紫丘の友達と見に行くと言い、8時に帰ってくる約束の下で特別に花火大会のお許しをもらった。この日は母方の祖母が遊びに来ており、母が台所で夕食の準備をしている間に隣の部屋で祖母に浴衣の着付けをしてもらった。
その時に、祖母が私に「マキちゃん、ずいぶん胸が大きくなってきたね♪」と言われた。私はこの手の話が非常に苦手であり、黙り込んでしまった。着付けが終わり、花火大会に行く準備も出来、そろそろ家から出ようとしたら母が私の方にやってきて、「あんたさっきおばあちゃんになんか言われよったね。ふざけなさんなよ!!この色気違い!!」と、怒鳴られた。“色気違い…?”私は色気違いという言葉がよくわからなかったが、なんとなく色気を振りまく女性のことなのかなって思った。

22:この名無しがすごい!
21/01/30 11:49:51.92 tb+uJznm.net
とりあえず、時間も押していたために私は母を無視して花火大会に行き、門限通りに帰ってきた。私は家に帰った後も色気違いという言葉が頭から離れず携帯で色気違いという言葉を調べてみた。【色気違いとは、色情が異常に強いこと。また、その人。色情狂】と書かれてあった。色情狂って何だろうか。色情狂について調べてみた。【色情狂とは色情が激しく性的に常軌を逸した行動をすること】要するに男好きの男狂いな人って意味であろう。ショックだった。母親が思春期の娘に対して言う言葉なのか。もう一人の悪い自分が私に“だったら母親の言う色気違いになってやれ”と言ってきた。この後私はこの悪魔の囁きに素直に従うようになってしまったのである。親の目を盗んでは、同級生と肉体関係を持ち、簡単に体を許すようになった。
2学期に入ると、母の門限への固着が今まで以上にひどいものになってきた。5時を過ぎたら着信が1分おきに入るようになっていた。高校生で門限5時というのもさすがに早すぎると思うが、土日の遊びに行っている日だけとかならば話はわかる。しかし、平日の補講がある日まで5時を過ぎたら着信が入るようになった。理数科は普通科よりも授業の進行度も早いため、週に2回ほど放課後に補講の授業があった。

23:この名無しがすごい!
21/01/30 11:52:11.47 wvCUotBC.net
私は元々天才というわけでもなく、ただの努力家の勤勉家である。補講をサボらずに受けて、家で毎日何時間も勉強して辛うじてクラスで過半数の順位を保っているわけであり、補講に出なくなったら成績が低下することなんて目に見えている。母の鬼のような着信が勉学へ集中力の妨げとなり、私は日に日に勉学への意欲を失い始めた。
日々、“このままだと周りに遅れていく…どうしよう、どうしよう”という焦りの気持ちと“もうどうでもいいや、勉強なんか”という自暴自棄な気持ちが交差した。
母に門限の相談をしても、「自分も高校の時門限が5時だった」と言われた。母の高校生当時の状況はどうだか知らないが、一つ言えることは今の私の状況に対して門限5時は完全にミスマッチングだということである。しかし、母に門限の相談をしたところで自分の高校生時代の門限に執着しており、全く話にならないために父に相談することにした。
私は父に「門限5時を過ぎたらお母さんから着信がたくさん入って、すごくストレスになっている、やむを得ない事情なのだから門限を遅くしてほしい、どうにかしてほしい」と切実に相談してみた。すると、父に「そんなことないんじゃないの」と全く取り合ってもらえなかった。

24:この名無しがすごい!
21/01/30 12:40:07.79 RyiM5JU/.net
親に内緒で叔母さん(父の姉)に電話をかけ、「高一で門限が5時というのは早すぎるし、やむを得ない事情で門限を過ぎるわけで、補講が終わったら着信がたくさん入っていて困っている」ということを相談してみた。すると叔母さんは、「自分の娘が高校生の時には門限なんてもっと自由にしていたし、やむを得ない理由で帰宅時間が遅くなるのは仕方がない。大体マキちゃんのことがそんなに心配ならば門限で縛るのではなく、迎えに行ってあげるとかしてあげればいいのに。私が○○(父の名前)に言っておいてあげる」と言ってくれた。

叔母さんが父に言ってくれたのか言ってくれなかったのかはわからないが、この後も門限である5時を過ぎたら母から1分おきに着信が鳴り続くことは変わらなかった。
もう私の精神は限界に達していた。
“このままだと、本当に勉強についていけなくなる…理数科の中で順位が過半数を切ってしまったら私の人生おしまいだ…でもこのまま補講にも出づらい状況が続くと確実に過半数を切ってしまう…”
私は最後に藁にもすがる思いで母親に哀願した。

25:この名無しがすごい!
21/01/30 12:40:31.56 RyiM5JU/.net
セトマキ「お願いだから、門限もう少し遅くしてほしい…。じゃないと補講も出られないし、私そんなに成績いいわけじゃないからこのままだと成績が落ちちゃうよ…」
母「夕飯はみんなで一緒に食べなきゃいけないからダメ。」
ちなみに我が家の夕飯は大体6時頃って決まっていた。
セトマキ「でもこんなんじゃ学校続けらんないよ。大体補講終わったら着信が入ってるとか普通にあり得ないんだけど。マジ無理マジ無理!!!!もう耐えらんない!」
母「だったら補講なんか出なさんな!」
―カチン
この言葉についに私はキレた。
セトマキ「はあ?ふざけんなよてめえ!!!!だったら高校なんか二度と行かねえよ!つーかこんな家二度と帰ってこねーよ!死ね!!」
今まで両親の前で“イイ子ちゃん”だった私が自分でも信じられないような言葉を発した。この瞬間、自分の中で今までの人生16年で頑張って積み上げてきたものがガラガラと音を立てて崩れていくのがわかった。

26:この名無しがすごい!
21/01/30 12:40:48.62 RyiM5JU/.net
私は真っ先に携帯片手に家を飛び出した。とりあえず行くあてもないので、この日は公園で野宿をした。私はこの日を境に家出少女となった。私はそれまでが優等生であったため、悪い交友関係がほとんどなかったが、地元の友人を通して少しずつ不良の友達が増えていった。
手始めに髪の毛を金髪に染めた。化粧なんかほとんどしたことがない私が派手な化粧をするようになった。慣れないタバコを吸い始めた。不良仲間と毎晩のように飲酒をした。お金がないので欲しいものは全部万引きで手に入れるようになった。夜遊びで昼夜逆転の生活を送るようになった。高校も週に2〜3回くらいしか行かなくなった。
世間でも、こんな事例はくさるほど転がっているであろう。この頃は非行と言っても、この程度のまだ可愛いものであった。
いわゆるどこにでもいるような不良高校生である。この段階で、私の両親が私と本気で向き合い、本音で話し合いをし、早めの打開策を取っておけば、私はもしかしたらC高校にちゃんと行くようになっていたかもしれない。

27:この名無しがすごい!
21/01/30 12:41:01.42 RyiM5JU/.net
この頃は、3日に1回は必ず家に帰っていたため、お互いに本音の話し合いの場を設けることは可能であった。しかし私の両親は本音で話し合うということはなかった。今になって考えたら両親ともに非行の“ひ”の字も知らないようなピカピカのエリートであるために、どのように対処したら良いのかわからなかったんだと思う。
私が非行に走り始めてすぐに妹が万引きで捕まった。初犯だったということもありすぐに帰ってきた。すると私は両親から、「妹がグレたのはお前のせいだ。下がグレるのは上のせいだ。」と言われた。私はこの言葉に激しい怒りを覚えた。私は「ふざけんなよ!!!じゃあ私がグレたのは誰のせいなんだよクソ野郎!」と言った。すると両親から「お前がグレたのはC高校でいじめられたからだ」と言われた。確かに高校では浮いていたが、いじめられたという事実は、全くない。クラスの友達とも自分の人生の中ではうまくいっていた方であると思う。更に両親の言っている、下がグレるのが上のせいという論理を使用してみよう。仮に妹がグレたのは姉である私のせいならば、普通に考えたら、私がグレたのは私を育てた親のせいと考える方が至って普通であるだろう。なんだこの屁にもならないようなド屁理屈は。親が娘に言う言葉か。誰がどう考えても私の考えの方が理にかなっている。

28:この名無しがすごい!
21/01/30 12:41:56.63 RyiM5JU/.net
“あぁ…この人たちは私と真剣に向き合う気はないんだな”って思った。
私の非行は日に日にエスカレートしていった。最初は3日おきに帰っていたが、4日おきになり、1週間おきになり、2週間おきになり…気付いたらほとんど帰らないようになっていた。ここまで家に帰らないと、一番必要になるのはお金である。いくら万引きで食料品やタバコを補えたとしても、万引きでは限度がある。16、17のまさに娘盛りの女の子が手っ取り早く大金を得る手段は援助交際だろう。しかし私は援助交際だけには踏みとどまれなかった。自分の体を売って対価を得るということに大きな抵抗があった。私は16歳にして地元のキャバクラでホステスとして働き始めた。この当時の福岡県はまだ規制も甘く、18歳に満たなくても法の目をくぐり抜けて働けるお店が存在した。私はキャバクラやスナックを転々とし、あるキャバクラに行きついた。時給は1800円であったが労働時間が長く、また自分のお客さんからドリンクを入れてもらったり指名をいただいたらその都度バックがつく。

29:この名無しがすごい!
21/01/30 16:37:10.79 663DCvnp.net
また、お酒も元々弱かったが売り上げを伸ばすためにはお酒が強くならなければならないと思い、毎日潰れるまで必死になって飲んだ。毎日泥酔し、営業中に酔っ払って潰れてしまうこともあった。それでもほぼ毎日のように吐いて吐いて少しずつ耐性をつけていった。日に日にお酒が強くなり、高1の秋には焼酎一杯飲んだだけで潰れていた私であったが高2の春にはザルのように飲めるようになっていた。次第に毎日酔っ払うことが当たり前になり、毎晩酩酊しないと気が済まなくなっている自分がいた。この“毎晩酩酊しないと眠れない”という習慣に私はこの先の7年間苦しめられることとなった。

30:この名無しがすごい!
21/01/30 16:37:25.57 663DCvnp.net
久しぶりに家に帰ると、家に通信制の高校の入学案内のパンフレットが置いてあった。私は、このパンフレットを見た瞬間に激しい怒りを覚えた。そして母に向かって「ふざけんなよクソババア!お前誰に断ってパンフレットなんか取り寄せたんだよ!お前、今すぐ捨てろよ!死ね!!」と言い放ち、金属バッドを持ちだしてきて振り回し、家の中で暴れまわった。母は、黙ってパンフレットを捨てた。久しぶりに母のことをよく見てみると、前よりだいぶ痩せて、うつろな表情となっていた。後々聞いた話だが、母はこの頃、ここまで大事に大事に育てた娘が突然にグレたためにあまりのショックで鬱状態に陥り、睡眠導入剤を内服していたそうである。

31:この名無しがすごい!
21/01/30 16:37:38.03 663DCvnp.net
ある日のこと、地元の友人や先輩たちと数人でドライブをしており、ある先輩の提案によりみんなでマリファナを吸うことになった。私はマリファナを見た瞬間、“あ、マリファナだ!中学の時の薬物乱用防止の講演会で見たやつだ!!これ、まずいんじゃないかな…。でも断るに断れないし…ま、楽しければいっか”って思った。そして勢いでマリファナを吸引してみた。吸引するなりすぐに眠くなり、車の中で眠ってしまっていた。先輩に起こされ目が覚めた時には、家の前についていた。
これが私の薬物との出会いであった。私はこの日からマリファナ、シンナー、エクスタシーと様々な薬物に手を染め、気付いたら覚せい剤に手を出していた!!!!

32:この名無しがすごい!
21/01/30 16:37:49.94 663DCvnp.net
ある日の夜8時頃、着替えを取りに二週間ぶりに久しぶりに帰宅すると、両親がそろっていた。そして、両親から、「これから先は門限は5時じゃなくて、7時半にしてあげようと思う。」と言われた。私は、一瞬耳を疑った。門限の交渉なんて、セトマキが相談した段階で解決するべきであった内容であり、もうセトマキは次の段階に来ているのである。今は、もう門限通りに帰ってこないどころか、ほぼ家出状態であり、外ではキャバクラで年齢詐称をして働き、覚せい剤を吸っている段階なのである。対応が遅すぎる。

33:この名無しがすごい!
21/01/30 16:38:01.66 663DCvnp.net
最初は加熱吸引を行っていたものの、まわりの覚せい剤乱用者から「あぶり(加熱吸引のこと)よりも打ちこんだ方が少ない量で長い時間キマるよ!」と覚せい剤の静脈注射を勧められ、静脈注射をし始めた。最初はまわりの友人に打ってもらっていたが、いつの間にか自分で静脈注射が出来るようになっていた。日に日に注射の技術がうまくなっていくことに達成感すら感じ始めていた。この頃は将来看護師になるなんて想像すらしていなかったが、私は自分のことを心の中で“セトマキ看護婦さん♪”なんて呼んでいた。
私はマイ注射器(覚せい剤を注射するために違法ルートで手に入れた注射器)をピンクのポーチの中に入れ、常に携帯していた。

34:この名無しがすごい!
21/01/30 22:05:04.07 ++UAxTcb.net
春が過ぎ、初夏のさわやかな風が流れる季節となった2007年6月1日。いつものようにラブホテルでマリファナを吸い、昼過ぎに着替えを取りに実家に帰った。当然のことながら鞄の中にはピンクのポーチが入っていた。着替えを選び終えた後、少し眠くなってきたため、そのまま自分の部屋で昼寝をした。目が覚めると、すでに外は真っ暗であった。時間は夜の7時になっていた。のどが渇いたためそのまま起きて、台所に飲み物を取りに行こうとした。
すると、なぜか東京に住んでいる私の叔母さん(父の姉)が家にいて、私の両親と叔母さんの3人で深刻そうな顔をしていた。
私は何か嫌な予感がした。
そして父に「マキ、ちょっと話があるんだけど」と言われた。
私は呼ばれるがままにリビングへ行き、父の前に座った。
すると父が、「マキが寝ている間にこっそり鞄の中を開けてみたら、このポーチの中から注射器が出てきた。これが何か説明してほしい」と言われ、私の鞄の中に入っているはずの注射器が出てきた。私は何の言い逃れも出来ず、ただただ黙り込んだ。
突然、母が泣きだした。

35:この名無しがすごい!
21/01/30 22:05:16.17 ++UAxTcb.net
父が、「マキは親のことを裏切ったね」と一言だけ言い、その後口をへの字にして黙り込んだ。
叔母さんが、ヒステリックに怒鳴り始めた。私もパニックになって号泣した。
家の中は修羅場と化した。私と母の泣き声と、叔母さんのどなり声が入り混じり収拾がつかない事態となった。
しばらくして事態が落ち着いてから4人で話し合いをした。
両親と叔母さんの提案は、このまま警察署に行くか、しばらくハワイに行くかのどちらかであった。
両親と叔母さんはハワイに行くことを勧めてきた。もう飛行機も手配しているとのことであった。また、両親は私が大のイルカ好きであることを知っており、イルカと触れ合うツアーも予約してくれていた。しかし、私はハワイに行くことを断固拒否した。“そのままハワイのインターナショナルスクールにでも入れられて、また勉強させられるのではないか”という強い不安があったためである。そのくらい勉強に対して強い拒否反応を示していたのである。それに、心のどこかで“これだけ体裁ばっかり気にする両親が私を警察署になんか連れて行くわけがない”という気持ちがあった。

36:この名無しがすごい!
21/01/30 22:05:27.43 ++UAxTcb.net
私は、「ハワイに行くくらいなら鑑別所に入った方が一億倍マシ、ハワイに行くくらいなら自殺する」という意見を押し通した。
両親はしばらく黙っていた。そして、「わかった」と一言言った。
私は“きっと、このまま何事もなく終わるんだろうな”って完全になめきっていた。
すると突然外に出る準備をし始め、父に「じゃあ今から警察署に行くよ」と一言言われた。
私は“どうせこんなの脅しだろう。警察署に行くとか言って、ドライブにでも行くんだろう”と思い、余裕綽々とした態度で車に乗り込んだ。
“さあ、どこに連れて行ってくれるのかなー♪”と半ば楽しみにすらしていたら、到着先はあろうことか福岡中央署であった。私は予想外の事態に言葉を失った。

37:この名無しがすごい!
21/01/30 22:05:39.99 ++UAxTcb.net
忘れもしない2007年6月2日、私は両親に福岡県中央署に連れていかれ、そのまま福岡鑑別所へ入所することとなった。
鑑別所での生活は地獄であった。鑑別所にいた4週間のうちの3週間を個室で過ごした。個室はトイレ付で3畳と大変狭く、お風呂は週に二回であり、歯磨き粉はなんと粉であった。今まで裕福な家庭で大事に育てられてきた私は、本当に耐えられず、最初の3日間は朝から晩まで泣き続けた。それでも1週間経った頃には鑑別所での生活に慣れてきて、審判の日を指折り数えながら待ち続けた。
そして、入所した約一ヶ月後の7月上旬に審判が行われた。両親は国選弁護人ではなく、高いお金を払って弁護士をつけてくれたために千葉にある祖母の家に移り住むという条件の下で試験観察処分で出所することが出来た。私は鑑別所に入所したことで“悪さ”をすることにほとほと懲りたために、しばらくは大人しくすることにした。

38:この名無しがすごい!
21/01/30 22:05:52.50 ++UAxTcb.net
私は鑑別所を出所してから数日後に、千葉県の祖母の家に引っ越した。
祖母の家に越してきて間もなく、父の知り合いであるY先生が私のために友人を数名呼び、飲み会を開いてくれた。
私は、祖母とともに祖母の車で我孫子の指定された居酒屋に向かった。
夜の7時頃に我孫子にある大衆的な居酒屋についた。私たちが着いた時には父、Y先生、Y先生の友人数名が集まっていた。この時坂本という男と知り合った。坂本は、「自分は遊び担当でマキちゃんのこと、色んなところに連れて行ってあげるね♪よろしくね♪」と言ってきた。坂本は父の友人である矢島先生の友人であり、某テレビ局に勤務していた。年齢は40代後半であり、見た目は芸術家風の風変わりな男であった。私はまわりの人のすすめもあり、電話番号を交換した。

39:この名無しがすごい!
21/01/30 22:09:50.87 BmtHgmWK.net
私はこの時、父と祖母の知り合いである人だから、まさか変なことはないだろうと安心しきっていた。少々風変わりではあるが、きっと私の今後の進路のために色々なところに遊びに連れて行ってくれるのだろうと思いこんでいた。
この日はY先生やその友人たちに、仕事や経営についての貴重な話を聞かせてもらい、22時頃に帰宅した。
家に帰ってから早速坂本から電話がかかってきて、翌日に会うことになった。
翌日、私は昼過ぎに起床し、いつもより入念にメイクをした。15時頃、坂本がスポーツカーで迎えに来た。祖母は坂本に「マキをよろしくお願いします」と一言言ったあと、私のことを笑顔で送り出した。私は坂本のスポーツカーに乗り込み、助手席に座った。私が助手席に座るなり、坂本は車を発進させた。私は、坂本との二人きりのドライブが怖いなんて全く思わなかった。だって、父と祖母の知り合いだし、“お墨付き”だもん♪

40:この名無しがすごい!
21/01/30 22:11:52.41 KJ4hnkdO.net
この日は、結局横浜までドライブをした。田舎から出てきたばかりの不良少女セトマキには全く身の丈に合っていない素敵な夜景の見える高級レストランに連れて行ってもらった。17歳の私には、贅沢過ぎるご馳走を食べさせてもらい、いくらするかわからないような高そうなカクテルを何杯も飲ませてもらった。結局この日は23時頃帰宅した。こんな時間に帰ってきても、相手が坂本なので祖母は当然怒りもしない。
坂本は毎日何度も何度も電話をかけてきた。そして、ほぼ毎日のようにドライブデートをした。渋谷やお台場など、色んなところに連れて行ってもらい、その度にオシャレで高そうなお店に連れて行ってもらった。坂本の行動は次第にエスカレートし、会う度に2〜3万円分の洋服を買ってくれたり、ブランドのネックレスをプレゼントしてくれるようになった。さらに知り合って2週間ほど過ぎた頃に、「これは俺の人生最大の大恋愛だ」や「マキちゃんが18歳になったら正式に付き合おう」などと言い始めた。当然のことながら私には付き合う気なんてさらさらない。

41:この名無しがすごい!
21/01/30 22:23:30.70 RyiM5JU/.net
“親のお墨付きだから、私に何の害もなくて、なおかつ普段の私には行けないような高級なお店に連れていってくれてご飯をご馳走してくれたり、洋服を買ってくれたりする優しいオジサン”くらいにしか思っていなかった。
坂本と知り合ってから三週間ほど経った頃、事件は起きた。この日は房総半島に連れて行ってもらい、おいしい海鮮料理をごちそうしてもらった後、高そうなバーでお酒をおごってもらった。私は今日も美味しい食べ物とお酒をご馳走してもらい、大満足であった。そして21時を回った頃にバーを出て、いつものように坂本の車に乗り、車で私の家の方に向かった。車が発進して30分ほど経った頃、坂本が突然道端に車を停めた。そして「君にとって俺はどういう存在なんだ!」とやや激しい口調で言い出した。私は、「どうって…突然そんなこと言われても…」と言った。すると坂本が「俺はお前にいくら使ったと思っているんだ!お前のためにどれだけの時間を割いていると思ってるんだ!」と怒り出した。

42:この名無しがすごい!
21/01/30 22:23:43.83 RyiM5JU/.net
私は突然の坂本の豹変ぶりに驚いて、黙り込んだ。怒りがおさまらない坂本は、私の首を絞めてきた!そして、何と言われたかまでははっきり覚えてはいないが、「(セックスを)させろ」というニュアンスのことを言ってきた。私は怖くてただただ黙り込むしかなかった。坂野は、そのまま車を発進させた。向かった先はラブホテルであった。その後私の身に起きたことは、書かなくても察しがつくであろう。私はこの坂本という男に強姦されたのである。私はショックが大きすぎて、自分の身に起きた出来事なんだかすらもよくわからなかった。行為が終わると、坂本はまっすぐ私を車で家に送ってくれて、「このことは口外しないように」と言ってきた。

43:この名無しがすごい!
21/01/30 22:23:56.69 RyiM5JU/.net
家に着いたのは確か0時頃であった。私は家に帰って何度も何度も体を洗った。とにかく気持ちが悪かった。自分の体が自分の体でないような気がした。放心状態で涙すら出なかった。夢であってほしいと思った。
お風呂から出たら、すでに夜中の1時を回っており、祖母は寝室で寝ていた。私は祖母を無理矢理起こし、坂本に強姦されたことを伝えた。
きっと祖母も激怒するに違いないと思った。
しかし、予想外の反応が返ってきた。
祖母から「どうせあんたが誘惑したんでしょ?」と言われた。頭が真っ白になった。
私はこの日ショートパンツにTシャツと少々派手な格好をしていたが誘惑なんか絶対にしていないし、そもそも40代のきちんと分別をわきまえられるいい年をした大人が17歳の娘と性行為を行うこと自体が犯罪である。

44:この名無しがすごい!
21/01/30 22:24:10.00 RyiM5JU/.net
祖母の言葉に言いようのない怒りとやるせなさを感じた。私は祖母の部屋を一目散に飛び出し、ショックをごまかすため家の目の前のコンビニでアサヒのスーパドライ500mlを5本買い、急ピッチで飲み、明け方潰れてそのまま寝た。
起きたら昼過ぎであった。坂本からの着信が入っていた。私は電話には出なかった。
その後数回坂本から着信が入ったが、私はその後坂本と会うことはなかった。
数日後、父にも電話で坂本に強姦された旨を伝えた。父は、坂本に対して怒る様子は微塵もなく、やや困ったような様子であった。電話越しですら、父の事を荒立てたくないという気持ちが伝わる。母には言えなかった。母に言ったら、きっと母は精神が壊れてしまうだろうと思った。

45:この名無しがすごい!
21/01/30 22:24:22.07 RyiM5JU/.net
親や祖母に助けを求めても無理であることがよくわかった。ならば自分でどうにかしよう。
私は知人のヤクザにこの事件を話した。ヤクザは、坂野の社会的地位に目をつけ、私の坂本への復讐に協力してくれることになった。
ヤクザは某テレビ局に数回電話し坂本を脅した。しかし、坂本は割と小ずるい男であり、金を払うことを出し渋り、結局ヤクザを使って金を巻き上げるという作戦は失敗に終わってしまった。
私は次に週刊誌に公表してやろうと思い、某編集部に電話をかけた。編集部の記者に電話越しで強姦の旨を伝えたところ、最初は話に食いついてきたが、結局記事には載せてもらえなかった。

46:この名無しがすごい!
21/01/30 22:25:13.35 cgGkuJPo.net
そして私は最終手段に出た。松戸警察署へ行き、強姦の旨を警察官に伝え、被害届を出した。これで坂本に復讐が出来ると、つかの間の安堵感を得た。訴訟を起こす気満々であった。何が何でも坂本に復讐をして社会的制裁を与えてやろうと思った。
しかし、しばらくしてから予想外の出来事が起きた。あろうことか被害届が取り消されていたのである!!
これには驚愕した。
父や祖母に聞いても、完全になかったことにされていて、詳しいことは何も教えてくれなかった。それどころかその話自体がタブーとなってしまった。

47:この名無しがすごい!
21/01/30 22:27:33.12 aCrUheuK.net
私はこれを機に、今までよりもさらに目茶苦茶な性行為を繰り返すようになった。援助交際だけは絶対にやらないと決めていたため、援助交際だけはやらなかったが、街でナンパされたら相当難がなければ誰とでも寝るようになった。3Pや4Pもやるようになった。覚せい剤も再び吸うようになった。主には知り合いのヤクザからもらったり買ったりしていた。今はわからないが当時は覚せい剤は東京近辺であればどこでも買えるものであった。この時私は試験観察処分を受けており、また捕まってしまったら一発で女子少年院送致である。私は牢獄の中に入るのは鑑別所でほとほと懲りたため、極力捕まらないように覚せい剤を使用することにした。まず、人と一緒に使用することを避け、覚せい剤を使用する時は必ず自分の部屋の中で一人で使用した。いつも覚せい剤を使用する前日か当日に、数日間は家から出なくても大丈夫なよう、数日分の酒とタバコを用意した。

48:この名無しがすごい!
21/01/30 22:28:10.72 aCrUheuK.net
そして部屋で加熱吸引、通称アブリをした。アブリは静脈注射よりもたくさんの量を必要とするうえ、持ちも悪い。しかし静脈注射をすると、腕に跡が残ってしまい、バレてしまう恐れがあった。そのため加熱吸引で覚せい剤を使用することを徹底した。お金は主に祖母のお金を盗んだり、知り合いの男性と飲みに行ってお小遣いをもらったりとどうにかなっていた。私は昼過ぎに起きてまず一発目の加熱吸引をし、覚せい剤が切れそうになったらまた炙って、切れそうになったらまた炙ってを繰り返した。そして明け方ごろハルシオンという睡眠薬、通称青玉を飲んで寝た。ちなみに覚せい剤を使用している時は絶対にお風呂には入らなかった。お風呂に入ることで汗をかいてしまい、覚せい剤が体外に放出されてしまうためである。 多分お風呂に入ってないことで覚せい剤使用者特有の悪臭を漂わせていたと思うが、家から一歩も出ないので全く気にしなかった。この頃になると普通に覚せい剤使用時でも普通にご飯が食べられるようになっており、覚せい剤を使用していない時と全く変わらない生活を送れるようになっていた。

49:この名無しがすごい!
21/01/30 22:30:04.69 NOlk/Rgp.net
そして覚せい剤を2、3日連続で使用した後、1、2日覚せい剤を抜く日を作った。この覚せい剤を抜く期間も当然のことながら家からは絶対に外出しなかった。水や酒をたくさん飲み、一日にお風呂に何度も入り体から覚せい剤を抜いた。
覚せい剤が抜けたら、私は再び夜の街に繰り出し、行きずりの男と寝たり、パチンコをしたり知り合いのヤクザに飲みに連れて行ってもらったりした。元々同年代とは合わなかったが、千葉に来てからは同年代の友達を作る機会もなかったし欲しいとも思っていなかったため、常に単独行動をしていた。単独行動をするようになってからは今までより拍車をかけてパチンコにはまった。パチンコの海物語IN沖縄が全盛期であり、私は海物語IN沖縄にはまった。この当時はただの暇つぶし程度であり、損得考えず当たればラッキーくらいの気持ちであったために、今考えたら恐ろしいような台の選び方をしていた。16、17歳の二年間で100万以上は負けた。

50:この名無しがすごい!
21/01/30 22:31:35.37 1Ib4i8r5.net
毎晩毎晩色んな男性と遊んだ。主にはヤクザやスカウトマンが多かった。泥酔するまで酒を飲み、酔っ払ってから性行為を行った。鑑別出所後は人と一緒に覚せい剤を使用することだけは避けていたため、覚せい剤を使用して性行為を行うことはなかったが、マリファナやMDMAを使用して性行為を行うことは何回かあった。おそらく思春期から24歳の現在までの間に60人から70人くらいの人と肉体関係を結んだと思われる。普通の人から見たらかなり経験人数は多いが、私は援助交際の経験はないため、経験人数が3ケタに達することはなかった。とにかく毎日刺激と快楽だけを求め続けた。
しかしこんな風に遊んでばかりの毎日も、一ヶ月くらい経ったら徐々に飽きてきた。それにいくら色んなところからお金が入ってくるといえど、やっぱりどこかで毎月安定した収入が欲しいと思い始めた。普通に働きたいと思い始めた。

51:この名無しがすごい!
21/01/30 22:32:38.31 kcoI+aW7.net
そこで私は近所のコンビニで一週間アルバイトしてみた。一日四時間、週三回。しかし一週間働いたところであることに気付いた。自給はたったの800円、一日四時間、週三回働いても一週間で9600円にしかならないのである…。
こんなのでは、覚せい剤0.2gすら買えない…。キャバクラ以外でまともに働いた経験のない私は、金銭感覚が完全に狂ってしまっていた!そして私は一週間でコンビニのバイトを辞め、再びキャバクラでバイトすることを決意した。
早速知り合いのスカウトマンにキャバクラに入店をしたい旨を伝えたが、九州と関東ではひとつ大きな違いがあった。
福岡では身分証明書がなくても年齢を偽り、法の網の目をくぐり抜けて働けるキャバクラがあったが、東京では年齢確認が厳しく、顔つき身分証明書が必須であった。
当然17歳の私はそんなものを持っていない上、17歳を証明するような身分証明書なんか提出できるわけがない。そこで私は、知り合いのヤクザに電話をかけて、身分証明書を何とかして偽造できないか尋ねてみた。すると、知り合いの中国人が運転免許証の偽造を行っているので、頼んでみてくれるとのことであった。


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