重度の覚せい剤中毒で鑑別所出身の元ヤン風俗嬢だった私が・・ at BOOKALL
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150:この名無しがすごい!
21/02/01 15:17:29.57 Ctpkekie.net
また実習が終わって毎日暇になり、嗜好品等にお金がかかるようになったために経済的に苦しくなった。そのため愛人を作って会うたびに毎回5万円もらい、そのお金を主に飲食代と脱法ハーブ代に充てた。当然勉強なんて一秒もしないし、実習が終わってからは学校になんて数えるほどしか行ってない。国家試験の二か月前の人間とは思えない生活サイクルである。そんなある日、恐らく12月末ごろだったと思う。私は酔っ払った勢いで、息子を叩いてしまったのである。私はいつも通り泥酔しており、酔っ払いながら大川先生に電話をかけ、電話中に息子の顔をつねった。息子は当然大泣きした。
私は大川先生にわざと息子のかんしゃくを起こしたかのように泣きわめく声が聞こえるよう息子に電話口を近づけ、「こいつ、つねったら超泣いたんだけどーマジ受ける!ギャハハハハ」と言った。この時相当アルコールが入っており何を言われたかまではよく覚えてないが大川先生が電話越しでかなり怒っていた。そして電話をつないだままお風呂場に息子を連れて行き、水をかけた。息子はかんしゃく玉のように号泣し続けている。

151:この名無しがすごい!
21/02/01 15:17:40.61 Ctpkekie.net
30分くらいしてから、五十嵐先生が私の家に来て、五十嵐先生に思いっきり引っ叩かれた。そして、息子を取り上げられた。五十嵐先生に“父親にも叩かれたことないのに人の顔面ぶっ叩きあがって…ふざけんなよ”と苛立った半面、どこかで安心した。誰かに息子を観てほしかったのである。大川先生への電話はセトマキの“もう育児にお手上げです。誰か助けてください”というSOSのサインだったのである。このままネグレクトを続けていくのも辛くて、かなり力加減をして息子に暴力をふるい、他人に看てもらおうという作戦であった。
この日より、私は息子に一切会わせてもらえなくなった。この事件を機に、私に子育ては完全に無理だと判断した大川先生や五十嵐先生方が動き始める。

152:この名無しがすごい!
21/02/01 16:10:13.53 bn8V1KRz.net
この事件の数日後に私は長野のD学園の女子寮に行き、年末年始を長野で過ごした。小沢先生に「今のお前に子育ては無理じゃないか?」「今のお前に病院で働くのは厳しいんじゃないかと思うんだよな…老人ホームとかで働いた方がいいんじゃないか」と再三言われた。
確かに大川先生の言うことが最もだと思った。今のこの精神状態で、F病院で働くことも、子育ても無理だろう。
でも、もうこの先のことも何にも考えたくなかった。とりあえず、長野にいる時も施設に入所している後輩に与える影響なんか何一つ考えず朝から晩まで麻雀三昧であり、大川先生の目を盗んではクラブに行き、クラブで知り合ったDJと遊びまくっていた。

153:この名無しがすごい!
21/02/01 16:10:23.89 bn8V1KRz.net
私が長野に遊びに行っている頃に、五十嵐夫婦と両親が私と息子の今後の進路について四人で話し合いをした。
まず五十嵐夫婦が「今のマキには看護学校を卒業しても、看護師として働くのがいっぱいいっぱいで、養育なんてとてもじゃないけど無理だと思う。しばらくは息子の親権をお父さんお母さんに移すか、息子を児童養護施設に預ける他ないと思う」ということを伝えた。
すると父が「私もマキが息子を看るのは無理だと思っている。しかし、私は九州に単身赴任することになった。それにもう52歳だし、子供を3人育てていて、また一から子育てをするのは厳しい。でも孫に会えなくなるのは嫌だから児童養護施設に預けるという選択肢はない。出来たらこれからも平日は五十嵐先生の家がみて、休日は私の私たちがみるというスタンスを続けていきたい」と言った。

154:この名無しがすごい!
21/02/01 16:10:37.06 bn8V1KRz.net
一方で母は「チカラが将来育ての親が本当の親じゃないと知ったら悲しむのではないか。絶対にマキに観させるべきだ」との意見であった。
そこで五十嵐夫婦は「チカラはもうすぐ4歳になろうとしている。このままあらゆる家庭をたらいまわしにするのはチカラの情緒にとって良くない。誰かがチカラを引き取って、チカラを支える主軸となる家庭を作ってあげなくてはいけない。マキは一時的に悲しむかもしれないが、母と子のどちらを優先させるかと言われたら、まずは子から優先させなくてはいけない。今、マキとチカラは距離を置くべきではないか」と伝えた。
しかし母は、マキに看させろの一点張りであった。
五十嵐夫婦が両親に、「セトさんのお父さんお母さんが看るという選択はないのですか?」と尋ねても、両親そろって「年齢的に無理だしそんな労力使えない」という意見だったという。

155:この名無しがすごい!
21/02/01 16:10:50.89 bn8V1KRz.net
それ以上に話を突き詰めようとしても、基本的な答えを出そうとせず、結局話し合いは何にも進展もないまま終わってしまったという。
私は長野から帰ってきてすぐに五十嵐夫婦からその話を聞かされた。愕然とした
と同時に、“あぁ、基本的に看るつもりはないんだな。引き取る気もないんだな”ということを悟った。
しかし、私だって、一生両親に看てもらおうなんて決して思っていなかった。もしかしたら半年かもしれない、もしかしたら十年かかるかもしれない、何年かかるかはわからないが、とりあえず看護師として自立するまででいいのである。自分が親に甘えている部分があるのはよくわかってはいたが、心のどこかで「マキが自立するまでの間は、私たちが引き取ります」って言葉を期待していた。その言葉を聞けたら、頑張れていたのかもしれない。ところが、それがことごとく裏切られるどころか全く看る気もないという予想外の結果となって返ってきた…。

156:この名無しがすごい!
21/02/01 16:11:06.96 bn8V1KRz.net
私は、両親への怨念の塊と化した。意地でもF病院なんかで働くかと思った。私はF病院で働かなくても済む方法を必死で考えた。そして、タトゥーを入れることにした。ナース服は基本的に半袖である。なので半袖を着たら必然的に見えてしまうであろう肩にタトゥーを入れることにした。
ノリで腰にもタトゥーを入れた。
さらにこの頃、ピアスもたくさん開けた。元々5箇所開いていたが、新たに10箇所開けて、全身で計15個ピアスをあけた。
当然のことながらすぐに両親にばれた。私は、バレた翌日に父親と新宿の大衆居酒屋に行った。
相変わらず父のお得意である、“ちょっと困っているような”笑みを浮かべていながらいる父である。セトマキは両親への怨念の気持ちでいっぱいであった。私は当然ビール、父はお酒が弱いため、ウーロン茶を飲んだ。最初に軽くつまみながら、他愛もない話をしていた。そして父から切り出してきた。

157:この名無しがすごい!
21/02/01 16:58:55.78 S7rxvMWW.net
「あんた、そのタトゥー消しちゃいなさいよー」笑顔でヘラヘラしながら言われた。
私は、笑顔で言われたことに激しい憤りを感じた。“娘がタトゥーを入れて、怒りもしないのか…しかも笑顔で言ってくるなんて…”
私の方も負けじと、
「(肩のタトゥーを見せながら)これ、カッコイイでしょー?カッコイイから消さないでちゅー。それにマキタン、お金ないのにどうやって消すんでちゅかー?」
もちろん、この赤ちゃん言葉は完全なる嫌がらせである。
すると父が満面の笑みで
「消しゴムでー。」
と答えた。私は、
「アーハハハハハ!!!!」大爆笑した。でも、本当は心の中では泣いていた。

158:この名無しがすごい!
21/02/01 16:59:07.44 S7rxvMWW.net
私は家に帰る途中でたくさんの菓子パンとケーキを買いこみ、家に着くなりお風呂場で全部戻した。父がご馳走してくれた食べ物も全部戻した。そして、一通り吐ききった後で、ハイボールを急ピッチでがぶ飲みし、そのまま潰れて寝た。
25年1月、良也と付き合って一周年を迎える。私は、良也を驚かせようと思い、サプライズをしようと考えた。私の家から自転車で20分ほどのところにあるダイニングバーで、私と良也の中学時代の共通の友人である小林がアルバイトをしていた。私は昔話に花を咲かせられるかもしれないと思い、私なりに小林にとっても良也にとっても良い再会となるように二人のために精一杯考えたつもりであった。私は小林と連絡を取り、彼の店で一周年のサプライズパーティーを行うこととなった。

159:この名無しがすごい!
21/02/01 16:59:29.03 S7rxvMWW.net
良也の部活が終わった後に最寄り駅で待ち合わせをし、彼のお店へと向かった。お店に着くなり私と良也はカウンターに座った。早速ビールを頼み、二人で乾杯した。
私は、事前にネームプレートにイニシャルを入れたネックレスをあらかじめ準備しており、良也がトイレに行っている間に小林にそのネックレスをこっそりと渡し、0時になったら飲み物にネックレスをかけて出してもらうようお願いをした。
このダイニングバーは中々繁盛しているようであり、平日の夜であるにも関わらずたくさんのお客さんで溢れかえっていた。小林も終始動きっぱなしで忙しそうだった。私と良也がビールを飲みながらなにげない会話をしていたら、店が落ち着いた頃に小林が私と良也が座っていたカウンターの席の前に来て、3人でカウンター越しに会話をした。

160:この名無しがすごい!
21/02/01 16:59:43.74 S7rxvMWW.net
最初は3人で何気ない普通の会話をしていたら、突然小林が
「こいつ中学の時ばりキモかったけんね。俺、めちゃめちゃいじめよったもん。マジこいつ頭おかしかったけんね」と言い出した。
私は、この言葉に大変なショックを受けた。私なりの気遣いで良也にサプライズがしたくて、あえて共通の友人である小林がいるこの店を選んだのに、どうしてそんなことを言われなければならないんだろうかと思った。仮にも、彼氏との1周年記念の場でそんなことを言われ、気分が台無しになった。
そして、「お前、子供どうしとるとや!?金はどうしとるとや!?」と聞かれた。

161:この名無しがすごい!
21/02/01 16:59:56.13 S7rxvMWW.net
自分が虐待とネグレクトをしてしまい養育不能な状態にあり、親が養育拒否をしている状況であるために来月知人に養子に出すことがほぼ確定していることなんて言えるはずもない。さらに現在彼氏の目を盗んで愛人と寝てお金をもらって生活してますなんてこの状況下で死んでも言えるはずがない。こんなプライベートなことをつっこまれて、正直、困った。
とりあえず、苦し紛れに「パパとママに看てもらってる。お金もパパとママからもらってる。」と答えた。
すると小林に「お前、最低やぞ!明美(中学の同級生)だってちゃんと子供のこと見よるとぜ!!」
すると隣にいた別のアルバイトの青年も、一緒になって私を責め立てた。この時、というか子供を手放すことがほぼ決まってからは思考が停止状態になっており、何を言われたかあんまり思い出せない。反論する気力もなかった。

162:この名無しがすごい!
21/02/01 21:06:43.89 kxWdgRUd.net
結局サプライズでネックレスを出してもらい、良也の方は本当に嬉しそうであった。しかし私の方は完全に気持ちが萎えていた。その後も二人でお酒を飲み続け、深夜タクシーで私の家に帰った。人生で一番最悪な一周年記念であった。私は小林と良也の為に飲みに行ったのに、なんでこんな最悪な思いをしなきゃいけないのかと思った。たしかに、小林が言うことは最もかもしれない。しかし、人にはやむを得ない色々な事情があるわけで、それを考えずに責め立てられたことがとても悲しかった。私は、この日に小林に言われたことは一生涯忘れないだろう。それから一年間はこのことを思い出す度に泣いた。そして、ほとんどの友人の連絡先を消した。この時にM.Kの連絡先も消した。
これを機に、元々悪かった対人関係がより一層悪くなり、完全に心理的に引きこもるようになった。

163:この名無しがすごい!
21/02/01 21:06:54.60 kxWdgRUd.net
2013年2月上旬、ついに保育園にて今後の縁の親権についての話し合いが行われた。参加者は私、両親、五十嵐夫婦、チカラのクラスを担当している保母さん二人、園長先生、A市の子供家庭支援センターの相談員二人の計10人であった。
もう私は頭が空っぽで、まるで自分が自分ではない感じであった。
両親が今どんな心情なのか気になり、両親の顔をちらっと見てみた。すると、なんと私の両親、話し合いが始まる前からうすら笑みを浮かべているのである。
これにはもう、むかっ腹が立つとか怨むとかいう気持ちを通り越した。
さっそく誰が息子を看るかについての話し合いが始まった。
まず私から意見を言った。私は、「将来的に看護師として自立したらみられるかもしれないけど、今はまだ精神的に自立も出来てなくて、アルコール依存症気味であるので、現段階で息子を養育するのは無理だ」という意見を押し通した。

164:この名無しがすごい!
21/02/01 21:07:04.69 kxWdgRUd.net
両親は、「マキは就職したらきっと子育てが出来るはずだし、チカラがいるから一人立ちできる」という意見であった。
この両親の意見に対し、五十嵐夫婦は「確かに出来る人もいるかもしれないが、今のマキに就職後にいきなり子育しろなんて無理がある。そんなことをしたら余計にマキを苦しめてしまう」と主張した。
ここで、子供家庭支援センターの相談員が「マキさんがこれから羽ばたこうとしている時に子供を足かせにしてはいけない。子供の存在が自立を促すことは絶対にないんです。子供がいることが返ってマキさんの自立を妨げてしまう」と言った。

165:この名無しがすごい!
21/02/01 21:07:18.19 kxWdgRUd.net
この意見に、両親を除く全員が納得した。
しかし母の“今のマキにみさせるべきだ”という意見は変わらないため、園長先生が、今後誰がどこでチカラをみるかという次の段階に進めた。
両親は「私たちがみるのは年齢的にも無理だ」と言い通した。両親は完全に養育を拒否していたため、五十嵐夫婦が「私たちが引き取ります」と強い口調で言った。
こうして話し合いは1時間ほどで終了し、五十嵐夫婦が息子の親権者となることが決定した。
私にはもう、何が起きているのかわけがわからなかった。
ただただ茫然と立ち尽くすしかなかった。

166:この名無しがすごい!
21/02/01 21:07:30.23 kxWdgRUd.net
そして話し合いの直後、
母が、「お腹すいたねー。」と切り出した。父が「そうだね」と相槌を打つ。そして母に「なんか食べに行こう。マキも食べに行く?」と聞かれた。私はこの時、なんて返事をしたのか、一緒にご飯を食べに行ったのか行ってないのか思い出せない。思い出そうとするとひどい頭痛がする。食べに行ったような気もするし行ってないような気もする。完全に自分が自分ではないような状態であり、もう一人の自分が両親との会話をしていて、本当の自分は空からこの出来事を見つめているような感じであった。
この日から一週間くらい私は朝から晩まで号泣し続けた。悲しいとか苦しいとか辛いとかもよくわからなかった。毎日涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった。大好きなお酒の味すらもよくわかんないくらいになっていた。

167:この名無しがすごい!
21/02/01 22:32:22.94 ZJhtE3lp.net
両親からは当然何の音沙汰もなかった。まわりの友人知人からの連絡は全部無視した。というか返す気力すらなかった。でも、大川先生だけは、毎日電話をかけてくれて、大川先生の電話だけは必ず出た。
そして大川先生から「俺は基本的にその人の親を悪くは言わない。だけどお前の両親は最低だ。お前は絶対に、お前の両親みたいになるなよ」と言われた。
一週間泣き腫らしてからは、完全にもぬけの殻状態であったが、この先のことを考えなければならない。本音ではキャバクラ嬢にでもなろうと思っていたが、看護学校を無事ここまで続けられたのも大川先生のおかげである。両親なんか糞くらえだと思ったが、大川先生がここまで愛情をかけて見守ってくれたのだから、せめて大川先生のためにもどこかで看護師をやらなければならないと思った。

168:この名無しがすごい!
21/02/01 22:32:41.86 ZJhtE3lp.net
私は、祖母の家がある千葉県にある特別養護老人ホームに電話をかけてみた。そこのホーム長さんに、新卒だが雇ってくれないか聞いてみたところ新卒でも雇ってくれるとのことであった。私は今いるA市から一刻でも早く離れたかった。自分の家の前に、この間まで息子であったチカラが他人の子供になっているということが辛くて耐えられなかった。A市から離れられるなら、正直どこでもよかった。私は直感的に、今の私の精神状態でもここならもしかしたら看護師として働けるかもしれないと思った。そして、国家試験の翌日にこの特別養護老人ホームで施設見学と面接を兼ねて行っていただくこととなった。

169:この名無しがすごい!
21/02/01 22:32:53.09 ZJhtE3lp.net
二月下旬国家試験が行われた。私は、前日は試験会場の近くのホテルに泊まった。当日A市の家からだと、絶対に行かないことが目に見えていたためである。精神不安定であったため、前日にマイスリ―という睡眠薬を5錠ほど飲んで寝た。この頃になると薬物依存とアルコール依存が行きすぎていて、アルコールで泥酔するか、薬物を過剰摂取しなければ眠れない状態となっていた。国家試験の前日に睡眠薬を飲むことはさすがの私ですら気がひけたが、一睡もせずに行くよりはましだろうと思い、睡眠薬を飲んでしまった。

170:この名無しがすごい!
21/02/01 22:33:05.42 ZJhtE3lp.net
翌朝、試験の2時間ほど前に目が覚め、朝ごはんを食べて会場に向かった。さすが未来の看護師さん達、ほとんどの受験者から緊張している様子が伝わってきた。それだけ看護師という仕事に憧れを持ってこの3年ないし4年、真剣に勉学に取り組みこの試験に命をかけているんだな、ということがよく伝わってきた。試験会場に金髪で来た人なんて私くらいのものである。私は試験当日も試験のことなんて考えていなかった。試験当日の朝まで息子のことが頭から離れず、試験のことなんて考える余裕すらなかった。そして、いよいよ国家試験が始まった。この3年間の集大成である。

171:この名無しがすごい!
21/02/01 22:33:17.86 ZJhtE3lp.net
ここで、アクシデントが発生した。前日に睡眠薬を飲みすぎたせいか私は試験が始まった直後に猛烈な眠気に襲われた。看護学校在学時に色んなテストや授業で余裕をかまして爆睡していた私ですら、“これはまずい!”と思った。とりあえず、試験が始まって3〜40分ほどで全部の問題を解き、自分が解答用紙に書いた番号を問題用紙にメモして、そのまま寝た。
看護師国家試験は問題種別として必修問題、一般問題、状況設定問題がある。必修問題は毎年変わらず80%以上、一般問題と状況設定問題の合計の正答率が60〜70%以上で合格となる。午前と午後に別れており、試験時間は午前、午後ともに2時間40分となっている。私は午後も同じく3〜40分で全部の問題を解き、急いで自分の解答した答えを問題用紙に軽くメモしてから眠りについた。

172:この名無しがすごい!
21/02/01 23:30:10.67 ehZcGZTG.net
金髪で、しかも試験が始まって速攻で爆睡している受験生。まわりから見たらさぞかし嫌味に見えただろう。しかし、この時は本当に眠かったのである。
こんな感じで国家試験は終了した。終了したというよりは眠りから覚めたら終わっていた、という感じであった。
試験が終わり会場から出ると、あらゆる看護系の予備校が解答速報を配っていた。看護師国家試験は問題用紙を持ちかえることが出来るため、ほとんどの受験生は解答速報が出た段階で答え合わせが出来るようにするために、問題用紙に自分がマークした解答番号を問題用紙にメモしている。試験が終わった段階では、まだ午前中の解答速報しか配られていなかった。私は受かっても落ちてもどうでもよかったが、なんとなく大手看護系予備校の解答速報をもらい、鞄の中にしまった。

173:この名無しがすごい!
21/02/01 23:30:23.67 ehZcGZTG.net
私はそのまま電車に乗り、六本木へと向かった。今日の夜は五十嵐先生の奥さんであるヨウコさんのタップダンスのライブがあり、あらかじめ招待されていたのである。六本木に着いたのが、18時過ぎであった。ライブが始まるのは20時からであり、まだまだ時間があったため、六本木駅付近の安い居酒屋でビールを頼み、時間をつぶした。一時間半後には、ほろ酔いとなっており、気持ちいい気分のままヨウコさんのライブを行うライブハウスへ向かった。ライブハウスに着いてすぐにヨウコさんにあいさつに行った。ヨウコさんは真っ赤な衣装を身にまとい、派手な化粧をしていた。ヨウコさんはいつも化粧をしていないせいか、化粧をしている彼女が真新しく見えた。私に会うなりヨウコさんが、「マキ!今日の国家試験どうだった?」と、訪ねてきた。私はまさかずっと寝てましたなんてことは言えず、「結構出来ました♪」と答えた。そして、「今日のライブ、頑張ってください!楽しみにしてます!」と伝えた。

174:この名無しがすごい!
21/02/01 23:30:35.85 ehZcGZTG.net
20時よりタップダンスのライブが始まった。ここのライブハウスの飲食形態として、アルコール飲み放題と軽いおつまみが一皿ついてくる。私は当然のことながらハイボールをざるのように飲みながらタップダンスのライブを鑑賞した。この日のライブでは踊り手は4人おり、ヨウコさんのライブは三番目であった。彼女の踊りはいつ見ても情熱的で力強く、みる人を元気にさせる何かを持っている。この日も彼女の踊りを見て元気をもらうことが出来た。ヨウコさんのライブが終わった頃に、今日の国家試験のことを思い出した。
“答え合わせ…してみよっかな…”

175:この名無しがすごい!
21/02/01 23:30:46.54 ehZcGZTG.net
私は、インターネットで<看護師国家試験 解答速報>と検索してみた。するともう午前午後ともに解答速報が出ていた。私はまだ試験が終わって数時間しか経っていないのに、もう解答速報が出ていることに感心しつつ、解答速報のサイトを開き、持ち帰った問題用紙を開き、早速答え合わせを始めた。“必修問題、問1、○、問2も○…問47も○…よし。必修問題は3問しか間違えてない。”この段階で、必修問題は50問中47問正解であり正答率は94%であった。続けて一般問題と状況設定問題の方も答え合わせをしてみた。正確な正答率は思い出せないが、確か80%前後であった気がする。

176:この名無しがすごい!
21/02/01 23:30:58.01 ehZcGZTG.net
つまり、解答の際に解答欄の書き違えなどがなければ無事に受かっているということになる。
私は、嬉しくなった。看護学校の3年間はまさに地獄絵図のような苦しい日々であったけれども、なんだかんだここまで頑張ってきてよかったって思った。早速ヨウコさんに報告した。
セトマキ「ヨウコさん、国家試験無事に受かってそうです♪」
ヨウコさん「本当?おめでとう!しかしまだ油断は禁物だよ!まだ結果は出てないんだから!」
セトマキ「いやー大丈夫っすよ!絶対受かってますってー♪」
お酒の勢いもあり、調子の良いことばかり言っている私である。
この後、ヨウコさんと乾杯し、一緒に夜中まで飲んだ。この日は久しぶりに満たされた一日となった。

177:この名無しがすごい!
21/02/02 02:03:21.26 Hs+dJseL.net
次の日、私は久々にスーツを着てこの間電話をした千葉県にある特養に面接に行った。3月の頭に郵送にて内定通知が送られてきた。
3月上旬、私はF病院に辞退の電話を入れた。心残りはあったしF病院には大変迷惑をかける結果となってしまったが、当時の自分の精神状態を考えると間違った判断ではなかったと思う。
これでようやく一段落ついた。息子もお世話になっている五十嵐先生に養子に出すことが決まり、F病院の内定も断り、今の精神状態でも働けそうな特養の内定を頂いた。あとは、引っ越しのみである。
しかし、ここで新たな問題が発生した。お金が全くないのである。それまでお酒と過食費用と脱法ハーブに衝動的に有り金すべてを使い、貯蓄なんて一切考えていなかった。
貯金残高を見てみたところ、10万円を切っていた。これから必要なお金は、引っ越し費用、敷金礼金代、初任給までの生活費…ざっと見て50万円ほどはいる。
一応、父に電話でお金を貸してくれないか聞いてみた。

178:この名無しがすごい!
21/02/02 02:03:34.01 Hs+dJseL.net
セトマキ『もしもし、実は千葉県の特養で働くことが決まったんだけど、引っ越しとかにお金がいるんだよね…ちゃんと返すから貸してくれない?』
父『必要なお金の方は、まず内訳を送りなさい。』
セトマキ『わかった!またメールします』
お互いに感情を交えることなく、先月息子を養子に出していざこざが起きたとは思えない冷静さとぎこちなさがあった。
私はすぐに必要なお金の内訳をメールで送信した。
「まず、敷金礼金30万円
  一か月の生活費 10万円
  その他諸経費などに10万円
  合計で50万円あれば足りると思います。貸してください。」
とメールした。

179:この名無しがすごい!
21/02/02 02:03:44.27 Hs+dJseL.net
しかしいくらたっても返信が来なかった。電話をかけてみた。すると父から『貯金があるでしょう』と言われた。
はっきり言って、貯金なんかあったら両親にお願いするわけがない。とりあえず父はお金を貸す気がないようである。
私は、もう2週間後には引っ越しを控えており、2週間以内に最低でも敷金礼金の30万は用意しなければならない。
最初はキャバクラで働こうかと思ったが、2週間で30万なんてキャバクラでは稼げない。もう、残された道は一つしかなかった。私は腹をくくり、渋谷にあるデリヘルで働き始めた。私は父にデリヘルで働いていることを電話で伝えた。こんなこといちいち書かなくてもわかると思うが、電話の目的は勿論嫌がらせである。

180:この名無しがすごい!
21/02/02 02:03:58.93 Hs+dJseL.net
『パパー♪やっほー!私、今、渋谷のデリヘルで働いてるでちゅー♪マキタン、売れっ子でちゅー♪』
すると父から、
『そういうことしてると、運気が落ちるよ。』と言われた。まるで他人事である。
私はさらに、『写真めっちゃ可愛く撮れてるんでちゅよお?見るでちゅか?』
すると父から、『見ないでちゅ』と言われた。
父得意の赤ちゃん言葉返しである。
私はこの言葉に毎度お馴染みの大爆笑をした。

181:この名無しがすごい!
21/02/02 02:04:14.53 Hs+dJseL.net
また、卒業間近のこの時期になって突然母が「奨学金を今すぐ返せ」と執拗に言ってくるようになり、奨学金でトラブルになった。今更ではあるが、また約束を裏切られた。しかも母は、毎月20万ずつ返済しろと言ってきた。そんなの、私の看護師の月給に相当する額であり、どう考えても他の高給な副業でもしない限り不可能である。ちょうどデリヘルで働いていた時期であったために、私は父に送った写真と全く同じ写真をメールに添付し「まきたん、お母さんに迷惑かけたくないから一生懸命体売ってお金稼いで毎月20万ずつ返すね(>_<)一括で返せなくてごめんね!早く返すためにももっともっといっぱい体売るね(>_<)」と本文に打ちこみ母に送りつけた。すると母から「そんなお金いりません」という返信が来た。そのため私は「え?お金、返さなくていいんでちゅか?」と送ると、母から「返さなくて結構です」と来た。

182:この名無しがすごい!
21/02/02 02:22:12.57 Hs+dJseL.net
返信は返さなかった。私は母が返さなくていいと言っているので、奨学金を両親に返済しないことにした。
風俗業界ですら不況の煽りを受け、一本もつかずに帰る風俗嬢も多い中、私は人気を博し、指名が相次いだ。おかげで2週間で無事に30万を貯めることが出来た。ちなみに、直感の鋭い大川先生には風俗で働いていることはすぐにばれた。普段なら風俗なんかで働いていることがばれたら引っ叩かれるであろうが、この時だけは何も言わなかった。
風俗で働いているさなかに看護学校の卒業式があった。友達も誰一人としていないけど、なんとなく卒業式には出席しておいた。他の看護学生たちずっと憧れであった看護師という職業が4月から現実のものになることに対して、喜びと希望に満ち溢れており、みんな表情が生き生きとしていた対極的に私には夢も希望も微塵もなかったが、 “まあ、こんな波乱万丈な三年間だったけど、よく頑張ったな…お疲れ、自分。なんとか看護師になれてよかった。”とやや安堵の気持ちに駆られていた。

183:この名無しがすごい!
21/02/02 02:22:23.96 Hs+dJseL.net
卒業式が終わって3日後に、私はひっそりと千葉県に越した。
三月下旬、看護師国家試験の合格発表が行われた。私は無事に合格しており、2013年4月より正式に看護師となることが出来た。
こうして親とのいざこざで精神は荒み果て、お金の為にたくさんの男の人に抱かれて体も汚しまくりであったが、社会人になるための生活の基盤を作り上げ、無事に看護師になることが出来た。
しかし、私はこの時にある決意をした。

184:この名無しがすごい!
21/02/02 02:22:35.28 Hs+dJseL.net
“私は、親の知り合いにレイプされてせっかく出した被害届をもみけされたり、出産にお母さんが来なかったり色々あったけど、それでも、それでも、どこかで素直に人のことを信じちゃう馬鹿なことがあった。私は、自分とチカラの人生のためには看護師にならなきゃいけないって強い信念をもって、この三年、看護師になるため自分なりに必死にあがいて頑張った。でも、息子のことでセト家の人たち全員の利己主義で自分のことしか考えてない汚い面しか見えなくなった…。それに私の事情を何にも知らない小林からはとても心ないことを言われた…まわりの人たちも誰も私のことなんか、わかってくれない…。もう、絶対に絶対に誰のことも信じない!!この先一人で生きていってやる。もう今までの友達と誰とも会わないし、誰とも遊ばないし、親友はお酒と脱法ハーブと睡眠薬だけで十分だ!このまま不摂生な生活を続けて20代でなんかの病気で死んでやる!!!”

185:この名無しがすごい!
21/02/02 02:22:46.65 Hs+dJseL.net
五節「どん底」
2013年4月1日、私は千葉県にある特別養護老人ホームに入職した。入職した頃の私は、子供のことを考えないようにするために毎日毎日刺激に流されて看護学生の頃と変わらずアルコールと脱法ハーブと睡眠導入剤漬けの生活を送っており、見た目もチャラチャラとしていた。入職した特別養護老人ホームの風紀が割と自由であったため私は派手な服装で金髪にピアスをジャラジャラにして職場に行っていた。また、当時は人に何を言われても完全に斜に構えてヘラヘラ笑ってごまかしていた。

186:この名無しがすごい!
21/02/02 02:22:58.92 Hs+dJseL.net
私が入職した特別養護老人ホームはまだ建ったばかりの施設であり、介護士も他の施設より若い人が多かった。看護師は私以外に常勤が二人、非常勤が数名いた。私以外の看護師はみな4、50歳代であり看護師としてのキャリアも長く、また看護師をする傍ら家庭を持つ主婦でもあった。私以外の常勤看護師は田村さんと小山さんという方で、三人とも入職した時期が近かった。小山さんは50代でもう子育てを終えており、その顔や雰囲気から優しさがにじみ溢れている看護師歴30年以上のベテラン看護師さんである。田村さんは40代で三人の子を持つ主婦であり、小山さん同様その顔立ちから優しさがにじみ出ており、とても可愛らしい人であった。入職してすぐに田村さんに「私は、社会では学歴とかではなく人からの信頼が一番大切だと思っている。セトちゃんには人から信頼される人間になってほしいと思っている。私は、セトちゃんのことを本当の自分の娘みたいに思っているからね。」と言われた。当然のことながら私は“は?私に信頼?そんなの無理無理。田村さん、残念ながら私に教育なんてしたって無駄だよ。教育する相手を間違えたな。だってこの私だもーん♪”って思っていた。田村さんは看護師としてのモチベーションやプライドも人一倍強く持っている方であり、後の私が大川先生の次に感謝する存在となった人である。

187:この名無しがすごい!
21/02/02 02:32:16.00 2L63MW4P.net
最初の頃は新卒の私のことをみんな娘のように可愛がってくれて、休憩中もよく先輩看護師たちと話をした。特に常勤看護師三人でよく話をすることが多かった。入職して間もない頃に、田村さんと二人でなにげない話をしているとふとしたことから恋愛話になり、盛り上がった。その時に田村さんに「セトちゃんには、良い恋愛をしてほしいなって思ってる。」と言われた。私は、「私に結婚なんて無理ですよー。」と返した。もちろん、心の中では“は?そんなの無理に決まってるじゃん。私だけには本気の恋愛なんか絶対にあり得ないし、そもそもお酒と脱法ハーブと睡眠薬以外に友達すら作らないもーん♪”って完全に斜に構えていた。就職して1,2週間くらい経った頃から先輩看護師たちが一致団結して私に仕事面から常識的な面までを事細かに厳しく注意してくるようになった。もちろんこれは私のための教育であり、先輩看護師の愛の鞭である。今考えたら大変失礼な話であるが当時の私は何にも吸収する気もなく、全て右から左に流してヘラヘラとし、どんなに怒られようが絶対に自分の感情を出さなかった。出さなかったというよりか素直な感情が出なくなってしまっていたと言った方が正しいかもしれない。

188:この名無しがすごい!
21/02/02 02:32:27.61 2L63MW4P.net
私は就職してからも経済的に厳しい状況が続いたため、4月の中旬までは風俗で働いていた。週に3回ほどのペースで看護師の仕事が終わった後にそのまま近くのデリヘルに行き、大体19時から22時くらいまでの間男性の相手をしていた。当面の生活費が貯まったところでデリヘルをやめ、4月の中旬から8月くらいまでの間はお小遣い稼ぎとして週に1〜2回ほどキャバクラで働いていた。

189:この名無しがすごい!
21/02/02 02:32:38.34 2L63MW4P.net
私は、風俗を辞めた後、仕事以外の時間が空いたため、毎日仕事以外の時間はダンスをして過ごしていた。仕事が終わったらレッスンに行き、レッスンが終わったらひたすら自主練をしていた。ダンスをやって体を疲れさせることで何にも考えないようにしていた。また、私は社会人になってから下剤依存が始まった。仕事で時間を拘束され便秘がちになっていたことがきっかけで、毎日下剤を飲むようになっていた。色々な下剤を組み合わせて自分に合った下剤を試し、私にはセンナダイオウという下剤が体質的に合っていることがわかり、さっそく1年分の下剤を買い込んだ。下剤の量は次第に増えていき、最終的には規定量の倍近くを毎日内服するようになっていた。

190:この名無しがすごい!
21/02/02 02:32:49.48 2L63MW4P.net
引っ越して間もなく、同じアパートの隣の部屋に住む顔立ちの整った20代半ばのフリーターの男性とセックスフレンドになった。相手は私の素性を全く知らないし、何せ隣に住んでいていつでも性欲を満たしてくれる、まさに私にとって“世界で一番都合の良い相手”だった。毎晩酔っ払って彼の家に行き、体を重ねた。互いに恋愛感情も一切持つことがないので、気楽だった。完全に欲に流される毎日だった。隣人の彼と肉体関係を持つようになってから、私の性欲は完全に満たされるようになっていたため、もはや彼以外の男性に会う必要性を感じなくなりそれまで付き合ったり別れたりを繰り返していた良也を振り、1年半の交際に終止符を打った。

191:この名無しがすごい!
21/02/02 02:33:00.63 2L63MW4P.net
さらにこの頃の人間関係について説明すると、まず、家族関係は、両親とは一切の縁を切っており、絶縁状態に近かった。他の親戚との連絡も極力控えていたが、祖母とだけは唯一連絡を取っていた。不良少女時代も子供を産んだ後も私のことを引き取ってくれたのは祖母であり、看護学校に入って以来決して良い関係ではなかったが、祖母のことだけは心のどこかで唯一の肉親だと思っていた。
次に友人関係については、今までの友人とも一切会わないようにしていた。誰とも会わないようになったきっかけは、子供の話題に誰にも触れてほしくなかったためである。これは、前章で書いた中学の同級生のバーに遊びに行った時に同級生から言われた言葉に深く傷ついたことが理由である。それ以外にもFacebookで記事を投稿すると、時々何も知らない知人友人から「マキちゃんは、子育てもやりながら看護師もやってて尊敬する」というようなコメントが来ることがあった。

192:この名無しがすごい!
21/02/02 02:48:15.30 Hs+dJseL.net
でも、もう私のそばには息子はいないわけで、そんなコメントが来る度に心が苦しかった。“Facebookなんかに投稿すること自体やめよう”と何度も思ったが、ついつい投稿してしまう自分がいた。多分、本当は寂しくて、心のどこかで人とのつながりを求めていたんだと思う。
このように子供を手放してからはまわりの人との心のつながりをシャットダウンして生活を送っていた。ある一人の人物を除いて。
ある一人とは、そう。大川先生である。
大川先生は私の精神状態を心配し、どんなに忙しくても毎日私がかける電話に出てくれた。そして毎月必ず私のところに来てくれていた。大川先生は私のところへ来る度に近所の居酒屋でお酒をおごってくれて、夜遅くまで私の話を聞いてくれた。

193:この名無しがすごい!
21/02/02 02:48:25.61 Hs+dJseL.net
8月のある日。この日大川先生は横浜で講演会があり、夜の7時過ぎに近所の焼肉屋で落ちあい、焼肉をおごってもらった。こんな暑い日には、キンキンに冷えたビールと焼肉がよく合う。それにしても、今日はやけに大川先生のピッチが速い。来てからわずか30分でビール3杯目を飲み干そうとしている。その後大川先生はいつもより速いペースでお酒を飲み続けた。9時過ぎにお店を出て、近所のスーパーで焼酎とおつまみを買い込んだ後、私の部屋で一緒に飲んだ。この日は大酒豪の大川先生の顔が赤く、珍しく酔っ払っているようである。そして部屋で飲み始めて1時間ほど経った頃、私は大川先生からとんでもない話を聞かされた。

194:この名無しがすごい!
21/02/02 02:48:36.34 Hs+dJseL.net
私は前述したとおり看護学校の間はずっとD学園の在宅生徒だったのだが、それが大川先生の知らない間に、それも何のお礼やあいさつもなく在宅生徒の契約が解約されていたという。そのため、現在の私は生徒でもなんでもないD学園とは契約の切れた卒業生という扱いらしい。大川先生は、当然のことながら、毎月親からきっちり月会費をもらっている現役のD学園の生徒を最優先に接しなければならず、生徒でない私のところに毎月顔を出すと優先順位がおかしくなり、他のスタッフからも「マキよりも現役の生徒を優先するべきではないか」という意見も出てしまう。D学園では、スタッフ同士が話し合いに話し合いを重ね、みんなで物事を決めているため、私が生徒でないとなると私のところに顔を出しづらくなってしまう。しかし大川先生としては、ここまで手塩をかけて育てた私のことをここで見捨てるなんてことはとてもじゃないけど出来ない。

195:この名無しがすごい!
21/02/02 02:48:47.32 Hs+dJseL.net
そのため、大川先生は父に電話をかけ、「自分はここまでマキの為を思って、あんなに人の金で酒はがぶ飲みして人の金で散々飲み食いして、毎日電話もよこすような金にもならないマキの為に色んな人が何年間も頑張ってきたんだ。自分は何としてでもマキのことを更生させたい。それなのに、何の挨拶もなしに在宅生徒の契約を打ち切るというのは話がおかしくないか?これは、銭金の話をしているのではないんだ。いきなり生徒の契約を打ち切られると、マキのところにも行きにくくなる。せめて、在宅生徒の契約を終了するならば三ヶ月くらい前に事前に言ってくれれば、他のスタッフに“マキはもうすぐ在宅生徒の契約が切れるが、自立するまでの間はサポートをしたい”という話を持ちだすことが出来る。」
と言ったらしい。すると、父は、
「母に相談してみます」
と言ったとのこと。

196:この名無しがすごい!
21/02/02 02:49:05.38 Hs+dJseL.net
そしてその後、父と大川先生の話し合いにより私は9月から12月までの3ヶ月の間だけ再び在宅生徒に戻ることになった。
大川先生は、祖母にも電話をかけ、父に伝えた内容と全く同じ内容を電話で伝えた。すると祖母は、
「その在宅生徒の費用はマキに支払わせればいいんじゃないんでしょうか?」
と言ったとのこと。
私は、大川先生からこの話を聞き、祖母が私に支払わせようとしていたとしているってことは、もう私のことは本当にどうでもいいんだなと思った。
大川先生は、「お前のばあちゃん、在宅生徒の費用、お前に支払わせろだってさ…ったくもう…」とだけ言い、口をつぐんだ。後日、祖母から「あなたが在宅生徒の費用を払いなさい」との電話がかかってきた。

197:この名無しがすごい!
21/02/02 02:55:09.74 vJejbFpW.net
ある日、私は仕事中に息子のことを思い出して泣き出してしまう。普段は息子のことを何にも考えないように脱法ハーブやアルコールでごまかしていたものの、仕事中に息子のことを思い出した瞬間に涙が止まらなくなってしまった。私を心配した常勤看護師の小山さんが、「大丈夫?話聞くよ」と言ってくれた。私は、小山さんに今までの経緯を泣きながら打ち明けた。すると、「そこまで親子関係がこじれちゃったんだね…」と話を聞いてくれた。職場の先輩に今までため込んでいた気持ちを打ち明けたことで少し気持ちが楽になった。私は田村さんにも話を聞いてもらおうと思った。小山さんにもその旨を伝えたところ、「田村さんならきっとわかってくれるよ!いいと思うよ。」と言ってくれた。早速次の日の休憩時間に田村さんに自分の今までの経緯を話そうとした。すると、断られてしまった。帰り際に田村さんから、「私は、あなたの話を聞いたところで家族になれるわけでもないからそんな話は聞けない。

198:この名無しがすごい!
21/02/02 03:34:26.37 pv0MdIOr.net
私にできることは、あなたのことを一人前の社会人に育てることしかできません。だから、あなたの諸事情は聞かないでおきます。」と言われた。これはあくまで私の予想であるが、小山さんは本当は田村さんに子供を手放した事実とか話したのだと思う。田村さんは私の経緯を知った上で、私のことを社会人として一人前に育てなきゃいけないと思って、私に愛の鞭で厳しく接してくれたのだと思う。
秋頃、風の噂で両親が東京都S区の高級住宅地に一軒家を建てたことを聞いた。私は、心の中でS区に一軒家を建てるほどのお金があるにも関わらずチカラに金銭的援助すら何にもしない両親に憤りを感じた。私は社会人になって一つだけ意地でも続けていたことがあった。それは息子への毎月三万の養育費の振込である。当然ながら息子の実父も私の両親も私以外は誰一人、息子への送金なんてしていなかった。でも私は何があっても意地でも息子が20歳になるまでは送金し続けていこうと固く決意していた。

199:この名無しがすごい!
21/02/02 03:34:38.42 pv0MdIOr.net
10月過ぎくらいから、職場の先輩看護師との関係が悪化してきた。職場の先輩看護師は、私がこのままだと社会人として通用しないために、みんなで一致団結して“愛の鞭”で厳しく接してくれていたのだが、私は子供を手放して以来、心理的に引きこもってしまっており、他人の愛情や優しさを感じ取れなくなっていた。先輩看護師にどんなに厳しいことを言われようと普通の人だったら泣いてしまうようなことを言われようと、私は心に分厚い壁を作り、全てを聞き流してヘラヘラとしていた。

200:この名無しがすごい!
21/02/02 03:34:49.84 pv0MdIOr.net
る一人のパートの先輩看護師は、田村さんが私の為に心を鬼にして接してくれているのに、私に何にも伝わらないことに対して泣いた。田村さんの方も、ここまで“心を鬼”にして色々言っているのに、私が全てを聞き流すために、今まで以上に色々と厳しく言ってくるようになった。日に日に田村さんとの距離感がおかしくなってきた。私は、田村さんとの関係が悪化すればするほどダンスに逃避し、休みの日は1日に7時間でも8時間でもダンスをするようになり、完全なる“踊り狂い”になっていた。さらに私は極度の偏食症に陥っており、毎日毎日決められたものを決められただけしか食べられなくなり、脂質を毎日5g以下に制限するようになった。日に日に痩せてきて、肌もガッサガサになってきた。大川先生や職場の先輩看護師に「最近変だよ」と言われても、自分では変だなんて微塵も感じなかった。それに、どんなことがあっても心の中で全部“なかったこと”にしていたため、意識的に辛いなんて思ったことは一度もなかった。もし何かを考えそうになったら脱法ハーブを吸引したり、泥酔するまでお酒を飲んだ。

201:この名無しがすごい!
21/02/02 03:35:00.64 pv0MdIOr.net
そして11月の下旬あたりから、ついに私は仕事をさせてもらえなくなった。最初の2週間は“負けるもんか”って意地になって仕事をさせてもらえなくても職場に行っていたが、だんだん職場に行くのがアホらしくなってきた。そして私は、うつ病でもないくせに、近所のクリニックで“うつ病の診断書”を書いてもらい、仕事を病欠という扱いで欠勤し始めた。
12月上旬、私はC市のデリヘルで働き始めた。もう風俗以外に、対価を得る手段はないというところまで精神状態が落ちていたのである。
10代の頃と違って、一日中働ける体力がなかった。一日一人相手にするのがやっと、二人相手にしたら精神的にも肉体的にも疲労困憊で、家に帰るなりそのまま寝込んでしまう程であった。とても23歳とは思えない体力のなさであった。正直、この頃から急激な体力の衰えを感じるようになっていた。

202:この名無しがすごい!
21/02/02 03:35:12.00 pv0MdIOr.net
いくら体力がないとはいえど、お金を稼がなければ生活が出来ない。セトマキには、頼れる家族も他人もいないわけで、お金を貸してくれる人もいないし、わざわざ借りるくらいなら体を売ってでも対価を得てやるって意固地になっていた。意地でも他人なんかに頼るか、一人で一生生きていってやるって思っていた。
もうこの頃になると、世の中に絶望しきっていて、無感情になっていた。将来への夢も希望も何にもなかった。看護学校の時みたいに自殺未遂を犯すほどのエネルギーも完全に枯渇した。

203:この名無しがすごい!
21/02/02 03:57:04.56 PDJK4Mf3.net
ただ毎日何にも考えずに心を空っぽにして風俗に出勤する。そして、1,2人のお客さんの相手をし、毎日1〜2万円をその日のうちに現金でもらい、帰宅する。帰宅後はDVDを見ながら毎日決められたおつまみを決められた量だけ食べ、決められた銘柄のお酒を決められた量だけ飲む。そして決められた時間に脱法ハーブを決められた量だけ吸い、決められた錠数の下剤と睡眠薬を摂取し、就寝する。朝は、必ず決められた時間に起き、決められたものを食べる。そしてだいたい毎日同じ時刻に猛烈な腹痛に襲われ、大量の下痢便。毎日自分の便の性状を観察し、ちゃんと食べたものが全て消化されているか確認する。いつもより便の量が少ない時は、パニックになり、まず初めにセトマキ大得意の自己摘便を行う。それでも出なければ、朝から大量の下剤を追加して飲む。そして朝から下剤を飲むと、ちょうど男性の相手をしている頃に腹痛と猛烈な便意に襲われる。いっつも漏れそうになるのを我慢し、“あと30分、30分でトイレに行けるから…”とそれだけを自分に言い聞かせて行為を行っていた。

204:この名無しがすごい!
21/02/02 03:57:17.07 PDJK4Mf3.net
私は20歳の時に拒食症になって以来生理が3,4回しか来ておらず、社会人になってからは一度も生理が来ていなかった。生理が止まっていることは風俗嬢セトマキとしては大変好都合であった。生理休暇もいらないし、妊娠の心配もない。
私は、1日に1人か2人しか男性の相手が出来ない代わりに毎日出勤することにした。クリスマスイブもクリスマスも年末年始も出勤した。誰とも会うこともなく、ただデリヘルの事務所とラブホテルと家の往復。せめてクリスマスイブくらいケーキでも食べようかなと思ったが、食事への強迫観念から、ケーキすら受け付けなかった。ケーキすら受け付けないのだからせめてでもと思い、くるみ割り人形のDVDを借りてきた。いつもの通り酔っ払いながらDVDを見て、“そういえば子供の頃にバレエの発表会でくるみ割り人形を踊ったな…懐かしいな。

205:この名無しがすごい!
21/02/02 03:57:29.40 PDJK4Mf3.net
まあ、毎日お酒飲んでる今の方がラクでいいけどさ。今はラクばっかりできて、毎日楽しいけどさ。人と一緒にいるとだるいし、一人で好き放題出来る人生って最高!”とか考えていた。そして、“私、このままだと、小学生の頃からのずっと夢だった中年以降にシベリア鉄道に乗ってオーロラ見る夢叶えられそうにないな…。多分このままの生活をしていたら、20代のうちになんかの病気になって死ぬだろうし。まあ20代で死ねるとか本望だな。でも、子供の時からの夢なんだから、せめてオーロラくらいは死ぬまでに見ておきたいな…。どうせ20代で死ぬんだから、今のうちに行っておくか。この仕事なら今月中でも多分2週間くらい休ませてくれるだろう。”
思い立ったら即行動しなければならない私である。貯金残高を確認したら70万ほどあった。それに手持ちが数万円。
お金なんて、ロシアから帰ってきてまた風俗で出勤したら結構な額になる。

206:この名無しがすごい!
21/02/02 03:57:42.48 PDJK4Mf3.net
さっそくシベリア特急でシベリアに行き、オーロラを見れるツアーがないかインターネットで検索してみた。生憎、私が期待していたようなツアーはなかた。ロシアではオーロラを見ることが出来る機会が少ないため、滅多にツアーが催行されていないのである。
ならば、シベリア特急に乗ることが出来るフリープランのツアーに一人で行こうと決めた。しばらく日本から離れるため、大川先生に伝えなくてはと思い、大川先生に電話をかけた。
セトマキ「大川先生〜!私、ちょっと海外旅行してきます!」
大川先生「お前、どこに行くんだ!?」
セトマキ「私、子供の頃から中年以降にシベリアに行ってオーロラ見るのが夢って何回も言ってたじゃないですかー?私、貯金もある程度貯まったし、2週間くらいロシアに行こうと思うんですよ。」
大川先生「馬鹿野郎!お前、そんな暇あるなら早く職場に復帰しろ!!!」

207:この名無しがすごい!
21/02/02 03:57:55.44 PDJK4Mf3.net
セトマキ「は?別にロシア行ってもよくないっすか!?もうこのままだと30手前で死んでいるんだろうし、死ぬ前にロシア行きたいもん!大体何でそこまで大川先生に指図されなきゃいけないのか意味わかんないんですけど!!別にどう過ごそうが私の勝手じゃん!」
風俗で働き始めてから今までに増して我儘になり、恩師である大川先生にも相当刃向かうようになった。
大川先生「馬鹿野郎!俺はお前の為を思っていてるんだぞ!そこまで言うなら好きにしろ!!」
“あーもう!どいつもこいつもゴタゴタうるせーな!確かに今良いツアーないし…仕方ないからいいツアー見つけるまで先送りしてやるよ。大川先生に言うんじゃなかった、マジうぜー”
こうして私は相当無念ではあったが、一度オーロラを見に行くことを断念することにした。

208:この名無しがすごい!
21/02/02 13:28:14.89 mYnnUVTf.net
1月の半ば頃から、私はなんか全てが無気力になってきた。風俗で働くことすら疲れてきた。それに貯金もだいぶ貯まったし、オーロラを見に行くという目標もなくなり、お金の使い道もなくなった。私は、風俗に出勤するのもやめ、趣味のダンスも行かなくなり、一日中お酒を飲みながら脱法ハーブを吸いまくった。起きたらその日飲むお酒をコンビニに買いに行く。ものすごい量である。多分お酒だけで2〜3000円は使っており、飲むのは主にワイン、ウイスキー、ハイボール、ビール、マッコリ、ストロングゼロというチューハイであった。そして飲みながら酔っ払ってきたところで脱法ハーブを吸い、ラリる。私はこの時ブラックスピリタスという銘柄の脱法ハーブにはまっていた。私が吸っていた脱法ハーブは一袋5000円弱であり、1日1.5袋も吸っていた。お酒と脱法ハーブだけで1日1万円も使っていた。お酒と脱法ハーブがダブルで決まってきたら、眠くなってしまい、寝る。

209:この名無しがすごい!
21/02/02 13:28:26.90 mYnnUVTf.net
そして、また起きてお酒を飲み始めて脱法ハーブを吸って、の繰り返しであった。もう時間なんて何時に起きて何時に寝てるんだかわけわかんないし、カーテンも閉めっぱなしであり、外が昼か夜かもわからない状態である。最初はなんとなく空き缶くらいは片づけていたが、だんだん面倒くさくなってきてこの生活を初めて3日後には部屋に大量の空き缶と空きビンとコンビニ弁当のゴミと大量のタバコの吸い殻が散乱していた。さらにトイレまで行くのが面倒くさくなってきて、トイレに行かず自分の部屋の中でその辺にあるコンビニのビニール袋に用を足すこともあった。しかも下剤を乱用してるため、下痢便。まだ華ざかりの23歳女子の行動とはとてもじゃないけど思えない。部屋は半端じゃない悪臭を放った。でも、アルコールと脱法ハーブで嗅覚が麻痺していたため、臭かったけどさほど気にならなかった。

210:この名無しがすごい!
21/02/02 13:28:37.25 mYnnUVTf.net
こんな生活をし始めて5日ほど経った時に事件が起きた。お昼時にいつも吸っているブラックスピリタスを家までデリバリーで3袋届けてもらった。いつも通り脱法ハーブを吸ったが、うまく決まらない。それどころかまずくて気持ちが悪くなってきた。
私は脱法ハーブが決まらないことにイライラしてきて、デリバリー業者に電話をした。
セトマキ「もしもし!さっき買ったやつ、全然決まらないんだけど!これ、本当に本物なの?混ぜ物かなんか入ってるんじゃないの?」
デリバリー業者「いや、これはちゃんとア○タ社から仕入れたものなんですけど…」
セトマキ「ふーん…そうなんだ」
ブチッ
怒りに身を任せて電話を切った。
“とりあえず、なんか気持ちが悪い。今は一旦脱法ハーブを吸うのは止めよう。代わりにお酒をがぶ飲みしよう”
私は急ピッチでお酒を飲み、泥酔してそのまま寝た。

211:この名無しがすごい!
21/02/02 13:28:51.52 mYnnUVTf.net
起きたら、夜になっていた。iphoneで時間を確認したら21時すぎであった。なんか気分がさえないな…
でも、やることもないので再びお酒を飲みだし、脱法ハーブを吸った。やっぱりいつもみたいに上手く決まらない…
おかしい。私は追加で何度も何度も吸引した。
そして深夜0時に近づいた頃…
突然、たまらなく気持ち悪くなった。
「うわあああぁぁぁーーーー」
あまりの気持ち悪さに私はうめき声をあげた。真夜中にこんな奇声を発して、近隣の人はさぞかし迷惑であっただろう。
そして、そのまま床に嘔吐した。
「オエェー…キャーーーーーアァァーーー」
奇声を連発した。部屋に、廊下に、トイレに何回も戻した。
救急車を呼ぼうかとも思ったが、就職してから救急車はあまり呼んではいけないものだという認識を持つようになったことと、こんな自分で馬鹿なことをしておいて救急車を呼ぶことほどアホなことはないと思い、救急車は使わないことにした。そして、最後の頼み綱である祖母に電話をかけた。

212:この名無しがすごい!
21/02/02 13:29:10.13 mYnnUVTf.net
―着信音♪―
祖母「もしもし、あらマキちゃん」
セトマキ「もしもし…実は今吐いててさ…死にそうなんだけど…いまから来てくれない?」
祖母「え?嫌よ!」
セトマキ「マジ一生のお願い…マジ死ぬ」
祖母「わかったわよ、じゃあ今から行くから」
セトマキ「マジありがとおおお!!」
電話を切ってからも吐き気が止まらない…たまらなく気持ちが悪い。
気持ちが悪過ぎて座り込んだまま一歩も動けなかった。
数分後、祖母が来た。
すると、最初の一言目が、
「ちょっと、まきちゃん!あんた、仕事行ってないってどういうことなのよ!」
――はあ?

213:この名無しがすごい!
21/02/02 15:21:36.80 XHTys5fb.net
私は思わず耳を疑った。私は今たまらなく気持ちが悪くて床にしゃがみこんでいるのに、今更ではあるが一言目にそんな言葉をかけるなんて、ずれているにもほどがある…。
私は吐きそうになるのをこらえながら、
「え…このタイミングでそんなこと言う…?」と言った。
すると祖母は「言うに決まってるわよ!」と言った。
私は気持ち悪さと呆れから、何にも返事をしなかった。
私はフラフラで意識が半分朦朧状態であった。私は真冬にも関わらず目の前にあった薄着をはおり、そのまま祖母の車の助手席に乗り込んだ。今にも吐きそうである。
祖母は車に乗ってる最中ずっと、「ちょっとマキちゃん!お願いだからビニール袋の中に吐いてちょうだいね!車を汚したら承知しないからね!車が汚れたら、うんと大変なんだから!」
私の体調を気遣う発言なんか一言もなく、車のことばかりを気にしている。

214:この名無しがすごい!
21/02/02 15:21:52.22 XHTys5fb.net
そうこうしているうちに病院に着いた。私は、すぐに救急処置室に通された。
救急処置室にて医師に軽く診察をしてもらい、吐き気止めの点滴を打ってもらった。看護師さんが私がいつ吐いてもいいようにと私の枕元にガーグルベースンを置いた。そして、看護師さんは退室した。私は点滴が入っている間は看護師さんも医師もおらず、処置室に祖母と二人きりであった。祖母は週刊文春を読み始めた。静かな時間が流れた。私は点滴が入っている間はずっとベッドに横になっており、終始気持ちが悪かった。

215:この名無しがすごい!
21/02/02 15:22:02.66 XHTys5fb.net
そして点滴が入ってから10分ほど経った頃に、たまらなく気持ち悪くなり、再び戻してしまった。しかもこの時、気分が悪過ぎて、枕元からガーグルベースンを取る気力もなく全部床にぶちまけた。
すると祖母が「なんで床に吐くの!まきちゃん!どうして床に吐くの!?」と突然怒り出した。なぜ床に吐くのかと再三問い詰められた。
確かに床に吐くのは良いことではないと思うが、この時はやむを得なかった。それに本当に体調が悪い時にそんなどうでもいいことを問い詰められて、勘弁してほしかった。
あまりに祖母が床に吐物を吐いたことに対して文句を言うので、すぐに看護師さんを呼び、吐物の処理をしてもらった。同じ看護師なだけに、大変な夜勤中に私の吐物の処理をさせてしまったことを申し訳なく思った。


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