重度の覚せい剤中毒で鑑別所出身の元ヤン風俗嬢だった私が・・ at BOOKALL
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50:この名無しがすごい!
21/01/30 22:31:35.37 1Ib4i8r5.net
毎晩毎晩色んな男性と遊んだ。主にはヤクザやスカウトマンが多かった。泥酔するまで酒を飲み、酔っ払ってから性行為を行った。鑑別出所後は人と一緒に覚せい剤を使用することだけは避けていたため、覚せい剤を使用して性行為を行うことはなかったが、マリファナやMDMAを使用して性行為を行うことは何回かあった。おそらく思春期から24歳の現在までの間に60人から70人くらいの人と肉体関係を結んだと思われる。普通の人から見たらかなり経験人数は多いが、私は援助交際の経験はないため、経験人数が3ケタに達することはなかった。とにかく毎日刺激と快楽だけを求め続けた。
しかしこんな風に遊んでばかりの毎日も、一ヶ月くらい経ったら徐々に飽きてきた。それにいくら色んなところからお金が入ってくるといえど、やっぱりどこかで毎月安定した収入が欲しいと思い始めた。普通に働きたいと思い始めた。

51:この名無しがすごい!
21/01/30 22:32:38.31 kcoI+aW7.net
そこで私は近所のコンビニで一週間アルバイトしてみた。一日四時間、週三回。しかし一週間働いたところであることに気付いた。自給はたったの800円、一日四時間、週三回働いても一週間で9600円にしかならないのである…。
こんなのでは、覚せい剤0.2gすら買えない…。キャバクラ以外でまともに働いた経験のない私は、金銭感覚が完全に狂ってしまっていた!そして私は一週間でコンビニのバイトを辞め、再びキャバクラでバイトすることを決意した。
早速知り合いのスカウトマンにキャバクラに入店をしたい旨を伝えたが、九州と関東ではひとつ大きな違いがあった。
福岡では身分証明書がなくても年齢を偽り、法の網の目をくぐり抜けて働けるキャバクラがあったが、東京では年齢確認が厳しく、顔つき身分証明書が必須であった。
当然17歳の私はそんなものを持っていない上、17歳を証明するような身分証明書なんか提出できるわけがない。そこで私は、知り合いのヤクザに電話をかけて、身分証明書を何とかして偽造できないか尋ねてみた。すると、知り合いの中国人が運転免許証の偽造を行っているので、頼んでみてくれるとのことであった。

52:この名無しがすごい!
21/01/30 22:35:15.84 sgmUeORL.net
すぐに折り返しの電話がかかってきた。30万で作ってくれるとのことであった。
私は即決で「作ってください!」とお願いした。
どうしてもどうしても偽造運転免許証が欲しかった。そしてヤクザに10日後に30万を支払う約束をし、電話を切った。
しかし、30万なんて大金どうやって作ろうか…。援助交際だけはしないという自分自身のへんてこりんなこだわりから、援助交際という選択肢はなかった。私は、知り合いのスカウトマンに電話をかけて相談してみた。すると、10日で30万作るならデリヘルがいいよ、と断言された。

53:この名無しがすごい!
21/01/30 22:36:18.00 Q9bmiEj8.net
私は正直風俗という言葉に相当な抵抗を感じた。とりあえず詳しく話を聞いてみることにした。風俗にも色々な形態があり、いわゆるデリヘルというものは、本番行為はしなくていいとのことであった。
即決は出来なかったため、一度電話を切ってよく考えてみた。
かなり悩んだ…。“体を売ってお金をもらっていいのかな…それだけはしてはいけない気がする…でも坂野に一回レイプされてるし、あれ自体身売りの延長じゃん。一回も百回も大して変わらなくない?それに本番しないなら、まあいっか。腹をくくるんだ、マキ!!”こうして風俗で働くことを決意した。セトマキ、17歳にして初の風俗デビューである。

54:この名無しがすごい!
21/01/30 22:37:18.67 4enVdgQy.net
私は、運良く年齢確認なしでデリヘルに入店することが出来た。私の源氏名はアイになった。
デリヘルとはデリバリーヘルス(出張型ファッションヘルス)のことであり、コンパニオンが自宅やラブホテルに出向き、顧客が決めた時間(一般的には60分、90分を選ぶ人が多い)の間、本番行為以外の性的サービスを行う。私は大体1日に平均5人の相手をし、毎日5万円前後稼いでいた。
デリヘルで働き始めて4日目、この日も私はいつも通り仕事をしていた。3本連続で仕事についたところで一度待機所に戻り、休憩に入った。このデリヘルは、マンションの一室を待機所として使用しており、常時数名の風俗嬢が待機していた。
私は、待機所にいる時もいつも誰とも話さず一人でいた。まわりと関わるのが面倒くさかった。しかし、この日は違った。デリヘルに入って初めて話しかけられたのだ

55:この名無しがすごい!
21/01/30 22:38:29.00 y97mX9eG.net
麗子「初めまして、私、麗子っていうんだ。よろしくね!」
セトマキ「初めまして、アイです。宜しくお願いします。」
私と麗子は、15分ほど特に記憶にも残らないような、いわゆるどうでもいい話をした。麗子は、実年齢24歳らしい。二重のややつりあがった大きな瞳が印象的な女性だった。恐らく街中で歩いていても、人が振り返ると思われる中々の美人であった。私は、麗子にメールアドレスを聞かれ、教えた。
その後、私は2本仕事につき、この日はトータルで4万8000円になった。そして私は、店の送迎を使って帰宅した。
帰ってすぐに麗子から電話がかかってきた。
麗子「もしもしアイちゃん、麗子です!よろしくね♪」
セトマキ「よろしくお願いします!!」
麗子「突然なんだけど、アイちゃんってなんかクスリ系のものとかやってるー?」
私は正直、ドキッとした。

56:この名無しがすごい!
21/01/30 22:39:31.34 fyZz3Qeq.net
セトマキ「え?な、なんでですか?」
たぶん相当わかりやすかったと思う。
麗子「なんかそんな匂いがしたんだー!」
セトマキ「麗子さんはやってるんですか?」
麗子「んーまあ、時々ね♪」
セトマキ「マジですかーー!?Sっすか??どこでひいてるんですか?」
説明するまでもないが、ここから一時間くらい私と麗子は覚せい剤の話で盛り上がった。そして一日で急速に仲良しになってしまった。
千葉に来て初の薬物仲間が出来たのだ。私は、共通の話題が薬物でもいいから、人と仲良くなれることがとても嬉しかった。

57:この名無しがすごい!
21/01/30 22:40:31.42 APp0SIsE.net
次の日、セトマキは仕事が休みであり夜10時に起きて、アサヒのスーパードライを飲んでいた。すると電話がかかってきた。麗子さんからであった。
セトマキ『もしもし』
麗子『もしもし、アイちゃん。彼氏がネタ引いてきてくれたんだよね!今キメてるんだけど、あげよっか?もうほとんどないから、ただであげるよ!』
セトマキ『本当ですか!?今すぐ車で向かいます!』
私はこの時スーパードライの500mlを5本飲んでおり、すでに酔っぱらっていた。しかしアルコールでテンションがあがっており、千鳥足で車庫に向かった。そして祖母の車であるトヨタのプログレスに乗車した。半分居眠り状態のなかキーを差し込み、エンジンをかけた。サイドブレーキを解除し、ドライブモードに切り替えた。そして、思いっきりアクセルを踏んだ。

58:この名無しがすごい!
21/01/30 22:42:05.90 GjTkSlDz.net
――ガシャン!!!
すごい音がした。
なんと、泥酔していたせいでハンドルを右に切っており、ガレージに車をぶつけてしまったのである。車は幸いにもサイドミラーが壊れた程度であった。
私は覚せい剤をもらいに行くことを諦め、その場でしばらく居眠りをした。数時間後、祖母に自ら事後報告をした。当然のことながら大変なお叱りを受けた。
当然私には反省の色なんか微塵もない。しかしさすがのセトマキでもこれは相当まずいことをしてしまったという認識はあったため、私としては珍しく「すいませんでした」と一応うわべだけで謝っておいた。

59:この名無しがすごい!
21/01/30 22:44:24.53 U1tOj/g6.net
後日、修理にかかった数万円は母が支払うという形で解決した。
今考えたら、この時ぶつかったのがガレージで良かったと思う。もしこのまま運転して人をひいてたら、もしもっと変な所に車をぶつけて重傷を負ってたら…って思うと、ぞっとする。
これ以降、無免許運転はやめた。
そして私は、一週間ほどデリヘルで働き、30万が貯まったその日のうちに、デリヘルを退店した。
翌日、ヤクザに30万を渡しに行き、一週間後に偽造免許証が届いた。
私は、これでやっとキャバクラで働ける、と喜びで満ち溢れた。セトマキは、この偽造免許証を“17歳のキャバ嬢セトマキを救ってくれる天から舞い降りた救世主様”と名付けた。

60:この名無しがすごい!
21/01/30 22:45:59.69 U1tOj/g6.net
田中さんには金銭面でも精神的にも本当に支えられた。キャバクラで働き始めてからは、祖母の家に帰るのが億劫になり、ほとんど帰らなくなった。しかし私は家出少女のような状態であるため武田さんの家を始め、あらゆる男の人の家を転々とした。覚せい剤が吸いたくなった時と荷物が欲しい時と爆睡したい時だけ祖母の家に帰っていた。
10月、私はヤスという極東会系のヤクザにナンパされ、付き合い始めた。別に好きっていうわけでもなく、彼氏なんだかセフレなんだかよくわからない存在だったけど、覚せい剤をただでくれた。当時の私にとって、覚せい剤をただでくれる人ほどありがたい人はいない。ヤスとのデートは大体一週間に一度ペースで会って、一緒にお酒を飲んで、ご飯を食べて、そのままラブホに行って、次の日の朝に覚せい剤を0.2〜3gくらいもらって別れるというパターンが多かった。

61:この名無しがすごい!
21/01/30 22:47:37.08 U1tOj/g6.net
11月半ばのある日、私はヤスからいつも通り覚せい剤をもらい、覚せい剤を吸うために祖母の家に帰った。帰るなり「あんたどこに行ってたの!」と一喝されたが、祖母には適当に調子のいいことを言い、部屋にこもって鍵をかけた。そしてお昼過ぎから覚せい剤の加熱吸引を始めた。
この日は、むしゃくしゃしていて何か満たされないものがあった。そのため、いつもより早いペースでいつもより多くの量の加熱吸引を行った。自分でも“やばい、ちょっと今日ペース早いかな?大丈夫かな…?”って思った。

62:この名無しがすごい!
21/01/30 22:49:24.92 4enVdgQy.net
私はこの免許証を手に入れてから、ついに東京でキャバ嬢デビューをすることとなった。東京のキャバクラは福岡よりも全然お給料がよくて、最低でも40万は稼げた。でも、さすが東京である。キャバ嬢のレベルも福岡とは全然違うし、お客さん遊び慣れしている。福岡よりも指名を取ることがはるかに難しかった。そんななかで私は田中さんと出会った。田中さんは全国展開しているスポーツ用品店の社長さんであり、六本木のミッドタウンに住んでいた。田中さんはなぜか私を気に入ってくれて、お店に来てくれたら一晩で30万以上使ってくれた。私は田中さんと親密な関係になった。お店でも毎月数十万使ってくれて、なおかつ会ったら一回5万円くらいくれた。ほぼ毎週会っていたので、大体毎月20万くらいもらっていた。たくさんのブランド品ももらった。田中さんはなんでも受け入れてくれるお父さんみたいな存在であった。もしかしたら田中さんに父性を求めていたのかもしれない。

63:この名無しがすごい!
21/01/30 22:50:58.65 0ZpFhl04.net
でも、そんなに気に留めることもなく加熱吸引を続けた。加熱吸引を初めてすぐに、覚せい剤特有の多幸感に満たされてきた。いつものように夢中になって何時間も何時間も加熱吸引をしていた。途中で覚せい剤が切れてしまい、床をじーっと見渡して、ハイエナのように這いつくばってキラキラ光るものを見つけたら、それがたとえ覚せい剤でなくてもアルミに乗っけてまた加熱吸引を行った。気付いたら夜中になっていた。突然、激しい呼吸困難に襲われた。回数とかはよくわからないけど、多分1分間に40回くらい呼吸してたんじゃないかなって思う。脈拍数もいきなり上昇した。120回は越えていたと思う。胸が苦しくなってきた。もう死ぬんじゃないかっていう不安が突如として襲い、人生最大のパニックになった。そして、そのまま過呼吸を起こしてしまった。私は過呼吸を起こしたのが人生初めてであり、対処法も全く分からなかった。

64:この名無しがすごい!
21/01/30 22:55:31.17 kcoI+aW7.net
本当なら病院に行きたいところであるが、病院なんかに行って覚せい剤を使用したことがばれたら、試験観察中の私は一発少年院である。それだけは避けたい。“あぁ…どうしよう、とりあえず苦しい…死んじゃいそう…”私は、mixiの松戸在住の人専用のコミュニティに『今、起きてる人いますか?今スゴク困っていて…どなたか電話出来ませんか?』という文章を投稿した。通報されるリスクも高いが、苦しすぎてそんなことまで頭が働かなかった。
数分後、メッセが届いた。どうやら男性のようである。『初めまして、大丈夫ですか?私でよければ相談乗りますよ!080−XXXX−○○○○』
私は苦しさのあまり通報覚悟でこの男性に電話をした!!
そして、“実は私クスリをやっていて、今日いつもより多めに決めちゃたんです…そしたらいきなり息が上がって呼吸困難みたいになっちゃって苦しくて…どうしたらいいですかね?”と相談してみた。

65:この名無しがすごい!
21/01/30 23:01:10.23 NOlk/Rgp.net
するとこの男性、なんと元覚せい剤使用者だったのである!! 男性は、まず紙袋を用意し紙袋を口に当てて呼吸をするよう促した。私は言われた通りに紙袋を口に当てて呼吸した。しかしパニックは続き、私は「あーーーもう死んじゃうよー」とか「苦しい…助けて」と言い続けた。男性は、私が落ち着くように「大丈夫だから落ち着いて、深呼吸してリラックスして」と何度も声をかけてくれた。20分ほど経った頃に、私の過呼吸は少しずつ治まってきた。私の過呼吸が治まったのを見計らった男性が、「でも君、電話をした相手が俺で本当に良かったね。普通だったら通報されてたよ。でも、何で覚せい剤なんか吸ってるの?もしよければ話聞くよ。俺の周りも命を落としたやつや捕まったやつがたくさんいるしさ…」と言ってきた。私はこの人だったら大丈夫かなと思い、覚せい剤を吸い始めた経緯を話し始めた。男性は私の話を黙って聞いてくれた。

66:この名無しがすごい!
21/01/30 23:03:28.78 LsdC054p.net
そして一通りの話を聞いてくれた後に「俺も若い頃やってたからあんま偉そうなことは言えないけど、出来たらやめた方がいいと思うよ。自分の体を大切にね」と言ってきた。そして私はお礼を言い、電話を切った。電話をかけた相手がこの男性でよかったって心から思った。 
私はこの事件をきっかけに覚せい剤をきれいさっぱりと辞めた。
2007年12月、再審判があり、全く予想もしていなかったが幸いなことに不処分で終わった。つまり、私は無理に千葉の祖母の家にいる必要がなくなったのである。これで私は自由の身である。
有頂天になった私は不処分となった翌週に、最低限の荷物をまとめて新幹線に乗り、勝手に福岡の実家に帰った。
福岡に帰ってからは、不良仲間と毎日遊び呆けた。覚せい剤はさすがもやらなかったものの、シンナーやマリファナを使用し、朝から晩まで遊び狂った。
福岡に帰ってから一カ月ほど経った頃から、父の知り合いだという家に体格の良い人柄の良さそうな男女数人が出入りするようになった。私は直感的に怪しいと思い、極力家に帰らないようにし、不良仲間の家を転々とするようにした。

67:この名無しがすごい!
21/01/30 23:19:54.69 wBTuXhIX.net
2008年1月20日、家に体格の良い男女が出入りし始めてから1週間ほど経った頃、私は極力帰らないようにしていたが同じパンツを3日履き続けていたことに我慢が出来なくなり、着替えを取りに家に帰った。他人の家を転々としていたために、久しぶりに家に帰った瞬間にどっと疲れが出てしまい、そのまま自分のベッドで寝込んでしまった。
何時間寝たのかわからないが、ベッドで心地よく寝ていると突然電気がついた。私はねぼけまなこであたりを見渡した。すると、父とその隣に体格の良い中年男性が立っていた。
セトマキ「は?ちょっと!いきなり何??」
父「お前はこんな生活ばっかりしてたらいかん!」
セトマキ「は!?意味わかんない!ていうか人のこと起こすんじゃねーよ!!!」

68:この名無しがすごい!
21/01/30 23:20:07.59 wBTuXhIX.net
すると体格の良い中年男性が突然私をタックルし、かつぎあげられそのまま車に乗せられた。車にはすでに体格の良い男性一人と女性一人が乗っておいた。私は後部座席の中央に乗せられ、私が左隣に父、右隣に体格の良い女性、そして先程私をタックルした男性が助手席に座り、もう一人の体格の良い男性が運転席という座席図となった。全員が車に乗り込むなり、車はすぐに我が家を出発した。
私はあまりに頭に来すぎて父に向かって「おい、お前ふざけんなよ!一体今からどこに行くんだよ!」と怒鳴りつけた。すると、父が「秘密の隠れ家みたいなところや」と言い出した。“なんだよ秘密の隠れ家って。きっと、どこか自分の自由がなくなってしまう場所に連れて行かれるんだろう…また親の思い通り人生に戻ってしまうのか―せっかく手にした自由がなくなるのか…”

69:この名無しがすごい!
21/01/30 23:20:18.88 wBTuXhIX.net
体格の良い男女3人と父に囲まれた地獄のドライブを続けること約16時間。気付いたら、なんと中部国際空港に到着していた。私は何か嫌ーな予感がした。国内のどこかに強制連行されるなら、別に福岡空港や最悪博多駅から新幹線でも問題がないはずである。わざわざ国際空港に来るということは、もしかしたら海外に強制連行…???
嫌な予感が的中した。父が国際便の手続きを取っている。私、セトマキは今から海外に飛ばされるようである。海外なんかに連れていかれたら毎日シンナーが吸えなくなる…。そんなの嫌だ、嫌すぎる。
私は何とか強制連行を阻止しようと最後の悪あがきに出た。中部国際空港に入っているあらゆる雑貨店にて万引きをした。ここで万引きが見つかって逮捕されることを心の底から願った。しかし、私の願いはむなしくも叶わず、万引きは全くばれなかった。万引きが見つかること自体がそんなに多いことではない上に、この一年半の非行生活で万引がプロのように上手くなりすぎていた。

70:この名無しがすごい!
21/01/30 23:20:31.27 wBTuXhIX.net
他に逃げ出す方法はないか考えているうちに飛行機の出発予定時刻となってしまい、私は父と体格の良い空手家に付き添われて海外便に乗せられ、海外へ向かうこととなった。
“あぁ…今からどこに行くかわからないけど海外に拉致されるのか…あぁ、人生終わった…さよなら不良少女セトマキ…”
私は今までの人生で一番の絶望感を味わった。
こうして私の人生最大の親への反抗期は、わずか二年足らずで幕を閉じたのであった。

71:この名無しがすごい!
21/01/30 23:20:51.30 wBTuXhIX.net
三節 「転機」
――5時間後。
飛行機は無事に到着し、飛行機から降りるとそこは1月とは思えない暑さであった。どうやらここは南国のようである。
セトマキ“????どこだここは!?!?”
私はどこの国に連れてこられたか理解も出来ないうちに、迎えに来ていた車に乗せられた。防衛体制は変わらず私は後部座席の真ん中に座り、父と体格の良い女性が私の両隣に座った。私はもう抵抗しても無駄だということがわかり、大人しく車に乗った。車に乗って一時間ほど経っただろうか。車は一軒の二階建ての建物の前で止まり、そこで私は車から降ろされた。私は父と体格の良い女性と共に建物の中に入った。建物は質素な作りをしており廊下を挟んで左右に数室ずつ部屋があった。
階段を上り二階に上がると、恐らく20代だと思われる日本人の青年たちが数人部屋から廊下に出てきて私のことをまるで新しい転校生が来たかのように興味津々な目で見てきた。

72:この名無しがすごい!
21/01/30 23:21:43.74 KJ4hnkdO.net
私は体格の良い女性に、2階のある一室に案内され、両親が用意したと思われるスーツケースを手渡された。そして今日からここに泊まるようにと言われた。部屋は8畳くらいの広さであり2段ベッドが二つと本棚が置かれていた。2段ベッドが二つあったが今は誰も使用していないようで、ここは私の単独部屋のようである。本棚の中には主に格闘技関係の本がおかれてあった。奥にはシャワーとトイレも完備されてあった。
私はどうやら何かの寮に預けられたようである。
私はとりあえず荷物を開けてみた。すると、まだ非行に走る前の中高生の頃に着ていた女の子っぽいフリフリ系の洋服が何着も入っていた。今の自分が絶対に着ないような洋服を入れられたことに激しい怒りを覚えた。私だって年頃の娘なので、ファッションにはそれなりにこだわっていた。これからここで過ごすのに、いかにも今の自分が着ない洋服を入れるなんて何かの嫌がらせではないかと思った。

73:この名無しがすごい!
21/01/30 23:22:44.62 0ZpFhl04.net
私は海外のこんな辺鄙なところに預けられたことといい、自分の全く好みでない洋服を用意されたことといい、両親への怒りで頭がいっぱいであった。
あまりに頭に来すぎてアドレナリンが活性化してしまい次の日のお昼近くまで独り言で「クソジジイ、クソババア死ね、絶対ぶっ殺す」と何度も呪文のように唱え、お昼近くに力尽きて眠りに着いた。
次の日の夕方、私の部屋へのノックの音で目を覚ました。部屋を開けると小柄ではあるが筋肉質であり鍛えていることが一目でわかる若い男性が立っていた。男性から、今から食事会があるので一緒に来るように半ば強引に誘われた。私は部屋にいても特にすることがないので、食事会に参加してみることにした。食事会は私が宿泊している建物から徒歩数分のところにある同じような構造をした建物の一室にて行われた。
私が食事会を行う部屋に入ると、体格の良い男女数人と、昨日私が建物に到着した際に部屋から廊下に出てきて私を興味津々に見つめてきた青年数人と、“あの”憎き父親が座っていた。

74:この名無しがすごい!
21/01/30 23:24:11.02 P5YhCahI.net
父の顔を見るなり私は怒りが爆発してしまった。「おい、お前ふざけんじゃねえよ!!お前、ここどこや!?ばりうぜえっちゃけど!おめえボコされてえのかよ?あぁ?お前こんなことしてタダで済むと思ってんじゃねえよ、クソ野郎!!!」私はその場に大勢の人がいることも忘れ、父に罵声を浴びせた。その場にいた人全員が一瞬凍りついた。私は罵声を浴びさせても腹の虫が治まらず、先に一人で自分の寝泊まりしている部屋に帰った。部屋で一人でふてくされていると、私の部屋を誰かが2回ほどコンコンとノックし、「おい、入るぞ」という声とともに突然扉を開けられた。
そこには先程の食事会にいた体格の良い男性が2〜3人と、私を興味津々に見つめていた日本人の青年が二人、それにまわりの人と明らかに違うオーラを放った何かを悟っような眼差しをした体の大きな男性がおり、私の部屋を開けるなりズカズカと私の部屋に入ってきた。
そして私の部屋で団らんした。私は体格の良い若い男性の一人に今一体ここがどこで今何が起きているのかを聞いてみた。
すると、その人は私に親切に教えてくれた。
私が今いるこの国はフィリピンであり、私が今住んでいるこの建物はD学園という民間の更生施設の寮らしい。

75:この名無しがすごい!
21/01/30 23:25:50.80 qltc75Yp.net
D学園は、あるNPO法人の総合格闘技団体が運営法人となり、武道を通じて家庭内暴力・ひきこもり・不登校・非行・ニートなどの青少年を教育し自立を支援している施設である。「家庭内で暴力をふるう」「非行や家出をしてしまう」「社会や学校でうまくやっていけない」「自分に自信が持てない」など対人関係や環境になじめず、自分の進むべき道がわからない青少年の社会での自立を目的とした教育を行っているとのこと。
D学園は長野県とフィリピンに寮があり、私はディヤーナ国際学園のフィリピン寮に現在預けられているとのことであった。
つまり、簡単に解釈すると私の非行に手に負えなくなった両親が見かねて、私を民間の更生施設に預けたのである。そしてここにいる体格の良い男性たちは現役の格闘家兼青少年の健全育成を行っているスタッフであり、私のことを興味津々に観てきた青年たちは何らかの問題を抱えて預けられたD学園の生徒たちだったのである。
ようやく理解することが出来た。“ふざけんな…まあ確かに私もやり過ぎたけど、私の自由を奪いあがって…”ふつふつと怒りがこみ上げてくる。今となっては高いお金を出してD学園に預けてくれた両親に本当に感謝しているが、当然のことながら当時の私にはそんなこと理解できるわけもない。

76:この名無しがすごい!
21/01/30 23:27:06.22 5jy8ZGA8.net
私は文句を言わなければどうしても腹の虫がおさまらず、みんなの前で両親の悪口を機関銃のように喋りまくった。人に言わなくていいような両親の“恥”まで事細かに面白おかしく話してやった。もちろん両親への復讐である。その場にいた人たちは全員私の話に腹を掲げて笑い転げた。
ざまあみろ、両親め。実に良い気味である。
こんな和気あいあいとした空気の中で、あの、まわりと明らかに違うオーラを放った体の大きな男性が、笑いながらも私の話を興味津々に聞いていた。この日は結局、夜中まで私一人でマシンガントークをし、楽しい一日となった。次の日、私はまわりとは明らかに違うオーラの体の大きな男性に呼び出され、一緒に一時間ほど散歩をしながら話をした。この男性は他の人から大川先生と呼ばれていた。先生は某総合格闘技連盟の理事長、また空手団体の首席師範であり、D学園を創立した方である。また大川先生は、私の人生を大きく変えてくれた方でもあり、後のセトマキが世界で最も尊敬する人となった。

77:この名無しがすごい!
21/01/30 23:28:37.46 dVl+VbH2.net
私は大川先生と散歩をしながら、今までの人生の経緯や生い立ちについて話した。すると、大川先生は、「マキは根はすごく真面目で良い子で自分の気持ちをため込みすぎたから、高校生の時に今までため込んでいたものが爆発してしまって、それまでの東大や医学部がすごいという価値観とは正反対の、ヤクザやヤンキーがすごいという風に価値観が逆転してしまったんだね。」と、私の心理を分析し始めた。それまでの私は、自分でも何が起きているのかわからず、ただただ親への反発心で行動していたために、大川先生に言われた内容がとても腑に落ちた。確かに、大川先生に言われたことが原因だとしたら、今までの行動すべてに納得がいった。自分の今までの行動の原因は頭の中では少しだけ理解できたが、感情の方は全くついてこなかった。 私は今の自分の好みと全く違う洋服が用意されていたことに相当頭に来ていたため、大川先生に頼みこみ、来月私の指定した洋服を送ってもらうように頼んだ。私は両親にわかりやすいようにどんな洋服か絵を描き、洋服の特徴をこと細かく明記した手紙を書き、大川先生に渡した。

78:この名無しがすごい!
21/01/30 23:29:46.85 5jy8ZGA8.net
大川先生は、翌日に日本に帰国してしまった。私は翌月の大川先生が来る日まで、この熱帯モンスーン気候のフィリピンにいるにも関わらず毎日長袖厚地のプレイボーイのスウェット一着のみで過ごした。
翌月、一つの段ボールが届いた。中身を開けると大量の洋服が入っていた。頼んだ洋服の中で、入っていないものもあったが、大体のものは入っていた。しかし私が一番肝に障ったのは、自分が愛用していた色違いのプレイボーイのスウェットを頼んだにも関わらず、新品のものが送られてきたことである。私は、きっとあのスウェットは捨てられたんだと直感的に思った。そのため、両親に手紙で“私は新品じゃなくていいから、使っていた黒のプレイボーイのスウェットを送ってください”と頼んだ。すると、翌月に両親から“そんなものはどこにもない。”との返信が来た。私は、捨てられたことに対して頭に来たのではなく、本当は捨てているにも関わらず、どこにもないと言い張られたことに対して、つまりウソをつかれたことに対して相当な憤りを感じた。

79:この名無しがすごい!
21/01/30 23:30:52.24 KJ4hnkdO.net
私の両親、特に父親は都合が悪くなると平気でその場しのぎの嘘をつく。そのことが、私と真剣に向き合ってくれていないような気がして子供の頃からうんと辛かったし、“どうせ親と約束したって守られることはない”という両親への強い不信感の原因となっていたのである。
話は変わり、フィリピン寮では私の持ち前の明るさからすぐに他の生徒やスタッフと打ち解けることができ、毎日みんなでトランプをしたりDVDを見たりしながら過ごした。それと私はフィリピン寮に入寮してから麻雀を覚えた。私は麻雀を始めた頃から基本的に負けたことがなかったため、“勝つことへの快感”から私は麻雀にハマり、一人で居る時はひたすら本を読んで役を覚えた。麻雀は今となっても暇さえあればオンラインゲームでやっており、趣味のうちの一つである。それとフィリピン寮では、近所のフィリピン人との交流も大事にしていた。近所のフィリピン人はみんな優しくフレンドリーであり、見ず知らずの私に対してとても親切に接してくれたために私はすぐに近所のフィリピン人と仲良しになった。

80:この名無しがすごい!
21/01/30 23:32:30.72 sgmUeORL.net
またフィリピン人は約束や時間を徹底的に厳守する日本人とは正反対であり、時間に対してアバウトであった。それまで約束や時間に対して真面目であった私は、初めはカルチャーショックを受けたが、フィリピンのゆったりとした時間の中で今の日本社会にはない人の優しさを感じながら穏やかな毎日を送ることができた。
私がフィリピンに連行されてからしばらくして、アメリカから一つ年下のユウキという名の少年が施設に連れてこられた。預けられた原因は両親への家庭内暴力であった。ユウキは両親に対して暴力を振るうようには全く見えない大人しそうな少年であり、まるで子犬のような実年齢よりも子供っぽい表情が特徴的であった。
私たちは年齢も一番近く連れてこられた時期も近かったためにすぐに仲良くなった。お互いに無理矢理海外の施設に連れてこられて、心のどこかでうんと寂しかったんだと思う。私とユウキは一日中ずっとずっと一緒にいた。ずっと一緒にいることでお互いの寂しさを紛らわしていた。

81:この名無しがすごい!
21/01/30 23:33:57.41 wvCUotBC.net
大川先生は毎月フィリピンに出張で来て、一回の出張で3日から一週間ほどフィリピンに滞在していた。フィリピンに出張に来ている間は朝から晩まで、時には自身の寝る間を惜しんでまで生徒一人一人と真剣に向き合い、生徒の話を否定することなく辛抱強く聞いていた。もちろん、大川先生は私の話も毎日嫌な顔せずに聞いてくれた。私は、少しずつ、少しずつ、大川先生のことを信頼し始めた。私はある日、全裸で大川先生の布団にもぐりこんでしまう。今となってはなんでこんな奇行に及んだのか意味不明であるし思い出すと思わず赤面してしまうが、恐らく大川先生のことを試したんだと思う。私は、17歳の全く色気のないクソガキなセトマキであろうが体を使えば男の人なんか何でも思い通りになることをホステス時代に学んだのである。しかし、大川先生には全く通用しなかった。大川先生は私のことを一人の女性として見ないどころか、まるで小ザルを見るような目で見てきて、半ば呆れた様子で「なにやってるんだーお前」と言ってきた。

82:この名無しがすごい!
21/01/30 23:35:01.17 /R+DBAhF.net
私は、唖然とした。世の中には、私をただの性の対象としてではなく、一人の17歳の人間として見てくれる大人がいることにビックリした。でも、嬉しかった。このことをきっかけに私は大川先生に絶大な信頼を抱くようになった。私はこの瞬間に、人生で初めて心から人のことを信用したのであった。
私はフィリピンで18歳の誕生日を迎えた。スタッフも生徒もまわりのフィリピン人も私の誕生日を盛大に祝ってくれた。フィリピン寮では、好きな先生も嫌いな先生も気の合う生徒も気の合わない生徒もいたし、ささいなことで口論になったりもした。でも、同じ寮で共同生活をし、楽しい時も苦しい時もみんなで過ごしたために今までの人生で感じ取ることが出来なかった“人とのつながり”というものを感じ取ることが出来、本気で他人を心配したり、相手の苦しみや喜びがまるで自分のことのように感じることが出来た。産まれて初めての経験であった。フィリピンでは、まわりの仲間と情を通わせ合いながら充実した日々を過ごした。

83:この名無しがすごい!
21/01/30 23:36:28.87 wBTuXhIX.net
D学園では、ほぼ毎月入寮している生徒の親と面談をし、現在の生徒の様子を伝え、今後の方針などについて両親との話し合いの場を設けていた。
私は両親に無理矢理連れてこられたという憤りと、早く日本に帰りたいという強い思いから両親の考えが気になって仕方なかったため、両親との面談の内容について毎月、大川先生が来るたびに我一番に話を聞きに行った。母は、“一刻も早く日本に帰してマキに高卒認定を受けさせ、早く家に帰して大学受験の準備をさせたい”という強固な意見の一点張りであった。一方で父は、“今はまだ日本に帰るという段階ではないため、本人の情緒が安定するまで2〜3年くらいフィリピンにいさせた方が良いのでは”という意見であった。完全に夫婦の意見が割れていた。D学園サイドとしては、夫婦で方針が食い違うということが最も困ることであり、D学園サイドは私の両親との面談の度に「まずはご両親の意見を統一されてください」と言っていたという。

84:この名無しがすごい!
21/01/30 23:40:21.97 RVtWbGTq.net
両親の意見が食い違っていることは昔からのことであり、半ば呆れのような気持ちすらあった。私は母がいまだに大検というものにこだわっていることに対して、 “これだけ勉強というセト家の価値観を押し付けられたこと対して激しい反発をしたのに、なんでこの期に及んでまで勉強をさせられなきゃいけないんだ。いい大学に行かせることしか頭にないのか。”という激しい憤りの気持ちがあった。
しかし両親は高卒認定を取って難関大学に入ると公言しなければ、この施設から出してくれなさそうである。そこで、とりあえず、“また勉強し直して早慶以上には入り直します”と両親に手紙を書いて送った。

85:この名無しがすごい!
21/01/31 01:20:56.30 d5cKa581.net
おーい割り込んで悪いが
5ちゃんねるは語り合う場なんで小説だか実録だかしらんが発表したいならなろうにでも投稿したらいかがか?

86:この名無しがすごい!
21/01/31 03:30:02.27 qgbZyjjs.net
すると翌月、慶應の総合政策学部と情報環境学部の赤本と、数学の青、黄、白チャートが送られてきた。さっそく勉強に取りかかろうと思い、C高校の頃に使用していた黄チャートを開いてみたが、全くやる気が起きなかった。幼稚園や小学校の頃からあれだけ毎日勉強を頑張っていたにも関わらず、高校を中退した時点で燃え尽き症候群のような状態となっており、勉学に対する意欲が完全に枯渇していた。“やっぱり明確な将来像や目的もないのに、いい大学に入るためだけに詰め込み方式の勉強をすることは、もう出来ないんだな”自分が再燃不能な状態にあることを悟り、結局勉強することをやめることにした。

87:この名無しがすごい!
21/01/31 03:30:16.58 qgbZyjjs.net
しかし、こうなってしまっては日本に帰れなくなってしまう。いつ施設から出られるかもわからないような状況であり、生徒の中には何年間も入寮している人もいた。“このまま施設に何年間も入りっぱなしなんて、そんなのは嫌だ!!”
私はどうやったら出られるかそればかりをひたすら考えた。勉強を頑張るのは、もう無理な状態であることを悟ってしまったため、もう無理である。態度を改めるということも現段階では出来そうにない。私は、あることを思いついた。
“そうか!子供を作れば…そしたら親が施設に対して不信感を覚えて家に帰してくれるかもしれない。それにフィリピンはキリスト教国であり、多分中絶が出来ないだろうから、どっちにしても一旦中絶のために日本に帰るだろう。その時に逃げ出せば…。”
そして私はユウキと子作りに専念することにした。

88:この名無しがすごい!
21/01/31 03:30:35.32 qgbZyjjs.net
今考えたら、本当に安易なことをしたと思う。なぜならば、結果的にこの私の浅はかな行いによって、息子、まわりの人に多大な迷惑をかけ、振り回し、苦しめる結果となってしまったからである。
2008年の8月頃、生理が2ヶ月来ていないことに気づく。施設の先生の目を盗んで妊娠検査薬を買い、こっそりと検査をしてみた。すると、案の定陽性反応が出た。とりあえずユウキだけには妊娠したという事実を伝えた。ユウキはことの重大さがいまいちわかっていないようであった。とりあえず妊娠の事実はユウキと私の二人だけの秘密にすることにした。私は近頃体調がおかしかったため、どこかで妊娠しているのではないかと想像はしていたものの、いざ妊娠してしまうと怖くなってしまった。本当はD学園のスタッフに何度も相談しようと思ったが、ばれたら怒られるんじゃないか、大川先生をはじめとするD学園の先生にもう見捨てられちゃうんじゃないかとか色んな不安が頭を駆け巡り、結局言えないでいた。

89:この名無しがすごい!
21/01/31 03:30:49.64 qgbZyjjs.net
妊娠が発覚した翌月である9月に、ユウキが11月にある高卒認定受験のために日本に帰国し、長野県にあるD学園の寮に入寮した。
私は、ユウキが帰国する際に悲しくて寂しくて自分でも信じられないくらい泣いた。他人と離れることが寂しくて泣くという経験は産まれて初めてであった。この寂しさはいわゆる恋人と離れることが寂しいといった恋愛感情から来るものではなかった。親子で感情をぶつけ合った経験がない私は、子供の頃から他人に情を感じ取ることが出来ず、人と共感というものをしたことがなかった。しかし、施設では共同生活を送ることで苦楽を共にせざるを得ない環境であったため、ここで人生で初めて他人と気持ちを共感し合うことが出来、“他者への情”というものが芽生えたのである。

90:この名無しがすごい!
21/01/31 03:31:03.38 qgbZyjjs.net
私は結局妊娠の事実は誰にも言えないず、一人不安な気持ちを抱えたまま毎日を過ごしていた。妊娠4ヶ月頃から徐々にお腹が大きくなってきて、近所に住んでいるフィリピン人の間で噂になり始めた。フィリピンは噂社会であるため、私が妊娠しているという噂が徐々に広まり、ついにD学園のスタッフの耳にも入った。そして噂を聞きつけたD学園のスタッフから妊娠していないかどうかを問い詰められた。私は、怒られるのが怖くて妊娠していますとは言えず、「わかりません」とあいまいな返答をした。D学園のスタッフは妊娠の真偽を一刻も早く確かめるべく、その日のうちに妊娠検査薬を買ってきて、私に検査をするよう命じられ、私は検査薬を使用した。当然のことながら陽性反応が出た。フィリピン寮のD学園のスタッフは、私を咎めることはなく、とりあえず私の体の為にもお腹の中に宿った新しい生命の為にも一刻も早い対応をしなければならないと考えてくれて、すぐに日本サイドのD学園スタッフに報告を行った。私はこの瞬間、“人生で初めての信頼できる大人である大川先生に見捨てられちゃう…”という強い見捨てられ不安に陥った。

91:この名無しがすごい!
21/01/31 03:32:10.46 iYw7l7CQ.net
妊娠が発覚した時にはすでに20週になっていた。私は妊娠が発覚してすぐに日本に帰国し、ひとまず長野にあるD学園の寮で過ごすこととなった。帰国した翌日に女性スタッフと共に長野にある産婦人科に行った。
産婦人科ではまず問診票を書き,その後尿検査や血液検査などを行った。当然のことながらこの段階で妊娠しているという事実は確定である。そして、最後に超音波検査を行い、お腹の中の赤ちゃんの様子を見た。すると、お腹の中の赤ちゃんはもうかなり成熟しており人として形が出来上がっている状態であった。そして赤ちゃんは、もう手足を動かせるほどに成熟しており、超音波を見ている時に手を動かした。この光景が、まるで私に手を振っているように見えたのである。私は日本に帰国するという目標を達成出来たわけで、赤ちゃんの命なんて正直どうでも良くて、鼻から育てる気などなく中絶する気満々であった。しかしこの光景を見てしまうと、堕ろすことが可哀相になってきてしまった。

92:この名無しがすごい!
21/01/31 03:33:11.50 Z9d7qjbg.net
“お腹の赤ちゃん…私の軽はずみな行動で命を作ってしまってごめんなさい。最初は産むつもりなんかなかったけど、君のこと、産むね!ちゃんと育てるね!”
私は、まわりのスタッフが大反対の中、勝手に子供を産む決意をしていた。
私の妊娠が発覚して間もなく、大川先生と両親は、私が出産するか堕胎するかについての話し合をした。大川先生は、「マキはまだ18歳で高校生の年齢である上に現在施設に預けられているような子であるため、一人で子育てをするのは絶対に無理です。」と強く主張した。
すると私の両親は、「まあ、それも本人たちの問題ですから。産む産まないは本人の意思で。」という意見を主張した。
そこで大川先生が「そうなんですね。ということは、本人が産みたければ産んでも良いということなんですね。ただ、マキ一人で子供を育てるのは絶対に無理です。絶対に親御さんのサポートが必要ですよ」と主張したところ、両親が「もちろんです」と述べた。

93:この名無しがすごい!
21/01/31 03:34:13.68 eAB/+4MU.net
大川先生個人の意見としては、私にたくさんの社会的な経験をほしいという強い思いがあり、18〜22歳の一番色んなことを経験出来る時期を子育てで終えてしまうことが残念でならないようであった。それに、子供を育てるということは本当に大変なことだということを私に伝えるために、水商売をしながら狭くて古いアパートで必死になって赤ちゃんを育てているシングルマザーの女性に無理を言って頼みこみ、私を一晩泊らせたりもした。
しかし当時の私は全くの無知の世間知らずであり、どこから湧き上がってきたのかわからないが私なら絶対に出来るというへんてこりんな自信すらあった。
大川先生は大変無念そうであったが、こうして私は両親の合意の下で、18歳にして子供を出産することとなった。
出産することが決まってから、ユウキが突然私に暴力を振るうようになった。束縛も激しくなり、ささいなことで屁理屈を言っては身重の私に暴力をふるい、ひどい時は顔面を殴られて鼻血が出たりもした。私は、この人と家庭を築くのは無理だと悟り、シングルマザーで産み、育てていく決心をした。

94:この名無しがすごい!
21/01/31 03:53:04.86 BdAI4jKd.net
私が18歳という若さもあってか、お腹の中の赤ちゃんは何の問題もなく順調に成長していった。それと私は自分の身勝手な行為でまわりに迷惑をかけたことに申し訳なさを感じ、少しは出産を許してくれた親の意に添わなければならないと思い、毎日特にすることもない妊娠中に高卒認定を受験した。勉強は全くと言っていいほどしていなかったが高校までに培った知識のおかげもあり、全科目満点に近い点数を取り無事に高卒認定試験に合格することが出来た。

95:この名無しがすごい!
21/01/31 03:53:16.41 BdAI4jKd.net
そんな妊娠生活を送る中、私は一つだけ腑に落ちないことがあった。私はシングルマザーで出産するにあたり、父の健康保険の扶養から外れ、国民健康保険に加入する必要があった。この時私は妊娠9ヶ月を過ぎていた。出産育児一時金の関係もあり一刻も早く国民健康保険に加入しなければならない。もう二カ月近くも前から父に扶養から外す手続きを取ってもらうようお願いしていたにも関わらず父から一向に連絡はなかった。そのため、私から催促してみたところ適当なことを言われてはぐらかされてしまった。困った私は、保険証に書いてあった父の会社単独の健康保険組合に電話をかけて直接問い合わせてみた。すると若そうな声をした女性が親切に対応してくれた。その夜、父の会社の健康保険組合に勝手に電話をしたことに激昂した父から電話がかかってきた。あんなに怒った父の姿を見たのは初めてであった。確かに、何の断りもなく電話をかけたのは悪かったと思ったため、素直に謝った。数日後、父はやっと私を健康保険の扶養から外す手続きを取ってくれ、私は無事に国民保険に加入することが出来た。こうして出産ぎりぎりになってしまったが、やっと出産に向けての一通りの準備が終わった。

96:この名無しがすごい!
21/01/31 03:53:28.75 BdAI4jKd.net
2009年3月、きっと世間の18歳は高校の卒業式を控えている時期に私は3500gを超える元気な男の子を出産した。産まれたときから私に似て二重であり、ユウキに似てまつげが長く、“この子はきっと将来イケメンになるだろうな〜”なんて有頂天になっていた。私は息子を“チカラ”と名付けた。早く、早く両親、特に母にこの可愛い顔をした我が子を見てもらいたかった。きっと両親も私を産んだ時は今の私の感動に近いものがあったんだろう、少しだけ両親の気持ちがわかった。私は母に会ってここ数年間の非行のことを謝ろうと決めていた。

97:この名無しがすごい!
21/01/31 03:53:41.43 BdAI4jKd.net
出産した日に大川先生や施設の先生方が私と息子に会いに来てくれた。次の日も施設の先生や施設に入所している生徒たちが面会に来てくれた。そして待ちに待った週末である。父の仕事が休みであるため、きっと両親揃って来てくれるに違いない。午前中にユウキの両親が来てくれて可愛いベビー服をプレゼントしてくれた。私は早く両親がくることを待っていた。そして午後に一人の面会者が私のベッドに訪室した。私は思わず目を疑ってしまった。なんと、父一人だけであったのである。私は父に、「お母さんは?」と尋ねた。すると、「来ていない」とのことであった。私は唖然としてしまった。父は我が子を目一杯にあやし、夕方東京へ帰って行った。
私は父の前では感情をこらえていたが、さすがに母が面会に来てくれなかったことにはびっくりしたし、それ以上にショックだった。後々施設の先生から聞いた話だが、母親が一度も面会に来なかったことに対して病院の助産師さんたちは全員びっくりしていたそうである。

98:この名無しがすごい!
21/01/31 03:53:51.52 BdAI4jKd.net
その晩私は一人声を押し殺して泣いた。“何でだろう…産んでもいいって言ってくれたのにどうして来てくれないんだろう…お母さんが来てくれたら、今までの非行のことを謝ろうと思ってたのに…両親の期待に添えずに良い大学にも行けなかったし、医学部にも入れなかったけど、産んでもいいって言ってくれたってことは医学部に入れなかったことを許してくれたんだと思ってたよ…”ここは長野の中でも田舎の方であり、里帰り出産で田舎に帰ってきて、この病院で出産する産婦さんも多くいた。そのために当然のことながらどの産婦さんの母親も毎日のように面会に来ては、可愛い孫をあやしていた。みんな家族から祝福されていて幸せそうだった。そんな光景を目の当たりにするのは、若干18歳の私としては辛いものであった。

99:この名無しがすごい!
21/01/31 03:54:44.65 6VjcagPn.net
一人でメソメソと泣いていると、そこに一人の年配の助産師さんが巡回に来た。巡回に来た助産師さんは、私の様子を察したのか、しばらくそばにいてくれた。この人の前では自然と涙がこぼれてきて、我慢していた感情が爆発して、声を出してワンワン泣いてしまったん。我慢していたけど、本当はそのくらい辛かったのである。
この時何か会話をしたかどうかすらよく覚えていないが、ただそばにいてくれたことがとても心強かった。私はこの時に、私もいつか、この助産師さんみたいにその人の心に寄り添える人になりたいと思い、看護師を志す決心をした。

100:この名無しがすごい!
21/01/31 12:24:47.46 wHrbEuZr.net
退院後、私とチカラはしばらくの間D学園の校長の家庭に住ませてもらった。両親に代わって校長の奥さんやその他大勢の方の手厚くサポートしてくれたおかげで、なんとか育児を行うことが出来た。私は、自分の身勝手でこんなにD学園の方々に迷惑をかけてしまったのにも関わらず、誰も私を見捨てることはなくみんなが支えてくくれたことに絶大な感謝をした。そして、大川先生への信頼も “この人だけは、何があっても私の見方でいてくれるんだ”という絶大的なものとなった。私はここまでみんなのお世話になったのだから、一刻でも早く自立をしたいと思うようになった。
自立に向けて、看護師という仕事について現実的に考えてみた。看護師は給与面でも安定した職業であり、看護師という資格を取れば、たとえシングルマザーであっても息子と二人で自立して生活を送っていくことも出来る。

101:この名無しがすごい!
21/01/31 12:25:00.41 wHrbEuZr.net
そして、私は大川先生に、「看護師になりたいという夢が出来た」ということを伝えた。最初は「お前には向いてないんじゃないか?」などと言われたが、それでも看護師になりたいという思いを熱く語ったところ、私の“看護師になりたい”という夢を応援してくれるようになった。
しかし、問題が立ちはだかった。両親は私が出産したことを私の兄弟含め親戚全員に秘密にしていた。そのため実家には当然のことながら帰れないということである。
自分の為にも息子の為にも早く看護師として自立したいという思いが強く、出来たら来年看護学校に入学したいという思いが強かったが両親から一向に連絡がなく、今後の方針を決めることが出来ず宙ぶらりんな状態であった。
私の両親は問題をなかったことにし、面倒くさいことは先送りにする人間であることは私が一番よく知っているため、自分からアクションを起こさなくてはならないと思い、父方の祖母に、息子の写真を添えて今の状況を伝える手紙を両親にはもちろんのことD学園のスタッフにも誰にも内緒でこっそり送った。

102:この名無しがすごい!
21/01/31 12:25:11.36 wHrbEuZr.net
三日後、父方の祖母が母方の祖母と共に私と息子に会いに急遽長野までやってきた。二人とも、まさかひ孫ができていたことに対して驚きを隠せない様子であった。父方の祖母も母方の祖母も近隣の旅館に二晩泊まった。双方の祖母が滞在している間に小沢先生と父方の祖母が私の今後の進路について話し合いをした。
そして、大川先生が、今私が本当に更生する思いがあって看護師を志していることも祖母に伝えてくれて、私をしばらく祖母の家に置かせてもらえないかどうか頼んでくれた。私からも頭を下げてお願いした。祖母は、何で親が引き取らないで80歳の自分が孫とひ孫の面倒を見なければならないのかということに憤りを感じていたが、私と息子のことを引き受けると言った。私はこの時、心から祖母に感謝をした。

103:この名無しがすごい!
21/01/31 12:25:23.78 wHrbEuZr.net
私は2009年8月にD学園を卒寮し、息子と共に千葉にある祖母の家に移り住んだ。また、父と祖母とD学園スタッフの三者の話し合いにより、看護学校を卒業するまでの間は、完全にD学園とチカラを切って、大川先生の精神的なサポートなしに生活するのはまだまだ厳しい段階だろうという三者一致の見解から、入寮コースから在宅コースの生徒へ移行という形となった。在宅コースは、月に1、2度のペースでD学園スタッフと会ったり、電話でのサポートを受けながら自立を目指すというコースである。

104:この名無しがすごい!
21/01/31 12:25:34.75 wHrbEuZr.net
8月から3月までの間は、祖母の協力もあり落ち着いて子育てをすることが出来た。離乳食を含め料理は主に私が担当し、離乳食も全部手作りで作った。私は、料理を作ったら祖母が「おいしい」と言ってくれるのが嬉しくて、手の込んだ料理を作るようになった。19歳の段階で和洋中一通りのものが作れるようになっており、得意料理の肉じゃがともつ煮込みと牛すじ煮込みはオリジナルレシピを考案したりもした。また、祖母の家に越してきた直後に申し込んだ認可保育園にもすんなり入ることが出来たため、日中は保育園に息子を預け、介護ヘルパーのアルバイトを始めた。保育園もアルバイト先も決まり、千葉県での生活が慣れてきた頃からは祖母の家の近くにある4万5千円のアパートを借りて、息子と二人で住み始めた。かつかつの生活ではあったが母子扶養手当とアルバイト代で生計を立てた。とは言っても、週のうちの2、3日は祖母の家に泊まっていたし、食材を祖母にもらったり、息子と祖母と3人でららぽーとに行って息子の洋服を買ってもらったりと、祖母から全面的に助けてもらっていた。

105:この名無しがすごい!
21/01/31 15:12:08.94 wHrbEuZr.net
大川先生も月に一度、私に会いに千葉県まで来てくれた。大川先生は、私の元気そうな様子を見て安心しており、このまま順調に看護師になれるだろうと安心していたという。私はアルバイトと子育ての合間に受験する看護学校を決めたり、金銭面でも極力親に頼らないよう私でも借りることが出来る奨学金はないかどうか調べたりと、進学に向けての準備をしていた。色々と国の制度について調べていたところ、母子高等技能促進費というものがあることを知った。母子高等技能訓練促進制度とは、母子家庭の母親が看護師や介護福祉士、保育士などの専門的な資格を取得するために2年以上養成機関等で修業する場合、費用の一定期間分が訓練促進費として支給される制度であり、就学中の間は月額約14万円ほど支給されるものである。私はこの制度について詳しく調べたところ、私も母子高等技能訓練促進費の支給対象に当てはまっていることがわかったため、もし看護学校に合格したらこの制度を利用することにした。また私が志望している看護学校では学生の間毎月3万円の奨学金の貸付を受けることが出来、卒後一定期間母体病院に勤務したら奨学金の返済を免除される制度があることも知った。

106:この名無しがすごい!
21/01/31 15:12:21.39 wHrbEuZr.net
2010年2月に無事看護学校に合格し、2010年4月から都内にある看護学校に進学することが決まった。
看護学校に進学することが決まってから、看護学校へ進学するにあたっての金銭面についてみんなで話し合いを行い、看護学校の学費は両親が全額負担すること、自分の生活費は母子高等技能促進費と母子扶養手当と私が合格した看護学校の母体病院からの奨学金の合計約22万円で自分自身でやりくりすること、私が奨学金の貸付を受ける母体病院で働かなかった場合は一度両親に奨学金の返済を立て替えてもらい少しずつ奨学金を返していくことの三点が決まった。
こうして、私は看護師という夢への切符を見事手に入れたのであった!

107:この名無しがすごい!
21/01/31 15:12:32.82 wHrbEuZr.net
四節「ママ学生」
2010年4月、私は都内にある私立の看護学校に入学した。
“高校を中退して以降非行に走り、普通の人よりは波乱万丈であったものの、やっと軌道修正することが出来た。ここから先は順調なレールに乗って、看護師になってシングルマザーとしてチカラを立派に育て上げるぞ!絶対に出産で母が来なくて泣いたときに励ましてくれたような助産師さんみたいな看護師になるぞ!”って希望と夢に満ち溢れていた。この時は、まさか毎日が地獄絵図のような学生生活を送るなんて想像もしていなかった。

108:この名無しがすごい!
21/01/31 15:12:44.03 wHrbEuZr.net
四月は祖母の家の近くのアパートから通っていたが、学校まで片道一時間半かかるため、朝7時に息子と共に家を出て息子を保育園に預け、そのまま学校へ行き、9時から16時過ぎまで授業を受け、授業が終わり次第すぐに保育園に迎えに行き、家に帰り、その後は育児と家事を行うという生活スタイルであった。正直、この生活は続けられないわけではなかったが、精神的にも肉体的にも中々大変であった。そんな中で私のいとこが出産のためにしばらくの間祖母の家に住むこととなった。祖母から、孫二人の面倒を見るのは精神的に負担だと言われた。すると、今まで私にあまり会いにも来なかった母が突然、「チカラの面倒を全面的に見てあげるし、うちの方に住んだら学校にも通いやすくなるからうちの近くに引っ越してきたらどうか」と言われた。実家から学校までは徒歩の時間を含めて約40分位の距離であった。いとこが祖母の家に引っ越してきたら祖母にも色々と頼みづらくなるし、それに母が全面的にサポートしてくれると言っている。実家の近くの方が学校へも近くなるし、私は母のことを何一つ疑いもせず信じ込み、実家の近くに移り住むことにした。これが地獄の幕開けになるとは知らずに…。

109:この名無しがすごい!
21/01/31 15:12:56.11 wHrbEuZr.net
大川先生はこのことに対して大反対をした。
「お前なあ、今までの経緯をみてもわかるだろ。お前の母親を悪くは言いたくないけど、約束なんか絶対に守られないぞ。そのまま千葉県に住んでた方が絶対にいいぞ。」と言われた。
大川先生は、私が実家の近くに移り住むことに懸念を抱いており、父に「マキをそのまま千葉県にいさせるべきだ」と交渉した。
しかし父の意見は「両親が面倒をみるべきだと思います」という実にもっともらしいものであった。
大川先生は、「もしマキが実家の近くに引っ越したら、精神バランスを大きく崩して、またD学園に預けられる前のような状態になってしまう可能性がありますよ。」と強く念を押して言った。
すると父は、「もしそうなったらまた祖母の家の近くに帰すので大丈夫です」と言った。大川先生は、本当は反対であったが、しぶしぶと納得した。私と息子は、ゴールデンウィークに実家の近くにある家賃約10万のアパートに引っ越した。

110:この名無しがすごい!
21/01/31 17:30:53.68 arPB1TS/.net
引っ越して間もなく、母に「毎月の学費の約半分である4万円を払いなさい」と言われた。確かにもう子供もいて自立しなければならない立場であるために本来ならば学費は自分で払うべきなのかもしれないが、看護学校に入学する前の話し合いで、3年間の看護学校の学費は両親が支払うという約束であったため、私はこの母の発言に両親への強い不信を抱いた。
また、心のどこかで中学の頃までは高校受験のためにマンションまで買い、湯水のように教育費を使ってくれた両親が、子供が出来てから私に全くお金を使いたがらなくなったことがショックであった。客観的に見たら、もう母親である上に年齢も年齢なので両親がお金を使わなくなるのは至って普通のことであるが、私は両親の“私へのお金のかけ方”が一気に変わったことがきっかけで、“どうせ勉強の出来ない私なんて可愛くないんだ。勉強できない私なんて誰からも愛されないんだ。原因は私が医学部に行けなくて、看護学校にしか入れなかったからだ”という強い学歴コンプレックスを抱くようになった。


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