紀州【中上健次】熊野 ..
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2:P
22/06/03 13:08:12.35 Znh5DrpM.net
あげ

3:吾輩は名無しである
22/06/03 15:57:55.37 IdKHk1ib.net
浅田彰「昭和の終わり、平成の終わり」
【実のところ、被差別部落出身であることを公表して作家活動を行っていた中上健次には、一般社会の上に排除された天皇と下に排除された被差別部落民が背中合わせの存在だという神話的構図に惹かれがちなところがあった。たとえば『日輪の翼』(1984年)では、作家が「路地」と呼ぶ被差別部落が再開発のために地上げされ、追い出された老婆らを若者らが日本各地の霊場に連れて行ったあげく最後に東京の皇居前広場にたどりつく。そこで嬉々として清掃奉仕をする老婆らをおいて、若者らは新宿歌舞伎町でホストになるのだが、彼らが老婆らを見る目はあくまでも優しい。私は、ノーマルな日常社会の上にある聖なるものと下にある賎なるものの通底という神話的構図を批判しつつも、私なら直ちに否定してしまうそうした構図を中上健次が複雑なニュアンスをこめて扱っていることをいかにも彼らしいと思っていた。いずれにせよ、すでに海外に出ることが多くなっていた柄谷行人と中上健次は、「日本の外に出れば天皇をめぐる神話的構図など意味を持たない、ただマイノリティの横の連帯(アソシエーション)あるのみだ」という線で再び一致することになるのだが、それは少し後の話である。】

4:吾輩は名無しである
22/06/03 16:15:01.19 IdKHk1ib.net
〈マゾヒズムの場合、法のすべては母へ投入される。そして母は象徴的空間から父を排除してしまう。〉〈ドゥルーズ「マゾッホとサド」〉
〈かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。〉
(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003年 『時のしずく』所収)

5:吾輩は名無しである
22/06/03 16:21:39.33 IdKHk1ib.net
高橋文樹の木澤佐登志著「ニック・ランドと新反動主義」
についての書評から
〈ここら辺のリバタリアンの思想的裏付けについては本書を読んでほしいのですが、僕の抱いた印象は「スキゾ・キッズのリア充番」です。
スキゾ・キッズというのは、浅田彰が『逃走論』で開示したモデルで、「分裂症的(スキゾフレニック)」に軽やかに色んな場所へ逃走していく生き方でした。〉

6:吾輩は名無しである
22/06/03 16:29:31.01 IdKHk1ib.net
高橋文樹さんは、あまりこの種のことに詳しくないので、それについて書かれていないが、
いうまでもなく「逃走論」におけるスキゾというのは、
ドゥルーズ=ガタリの「アンチ・オイディプス」から来ている。
そのズキゾというのは、ようするにカントの言うような超越論的統覚がばらけ気味ということです。
近年、カント哲学を精神分析的解釈する柄谷行人の本を読めばわかりますが、
これは「マゾッホとサド」においてドゥルーズが称揚した「マゾヒスト的」というのと非常に似ているのです。

7:吾輩は名無しである
22/06/03 16:35:04.55 IdKHk1ib.net
ジャック・デリダ、中上健次 『穢れということ −ジャック・デリダvs中上健次−』
中上健次は、1986年時点ですでに、日本を松阪牛に見立て、
それをリゾーム的なものとして批判しています。
浅田彰は、デリダと中上の対談の現場にいながら、それに気づいていなかった、
ということになるでしょう。

8:吾輩は名無しである
22/06/03 17:02:46.63 IdKHk1ib.net
浅田
[私なら直ちに否定してしまうそうした構図を中上健次が複雑なニュアンスをこめて扱っていることをいかにも彼らしいと思っていた。]
その中上らしさを、もし良いと思っているならば、見習ったらいいと思うのだが、
どうもそうはならないようだから、良いとは思っていないのだろう。

9:吾輩は名無しである
22/06/03 17:13:09.34 IdKHk1ib.net
6の補足
「自己意識とは欲望である」(ヘーゲル「精神現象学」〉

10:吾輩は名無しである
22/06/05 02:05:35.07 ude32MvF.net
7の補足
いわば、リゾームは,中心のない多方向に展開していく関係性のことだ。
家父長的規範(「父」であるような超自我)からの逃走(浅田の「逃走論」のきも)と
欲望の多方向性による偶然的接続による多様な生を(ヘーゲル哲学的な目的論的生成、ではない非目的論的な生成)
「リゾーム」という概念を示して肯定した、といえると思う。

11:吾輩は名無しである
22/06/05 02:10:07.44 ude32MvF.net
中上健次は、日本におけるドゥルーズ思想の受容の仕方が、
時流に合わせた天皇主義のモデルチェンジにしかならない
ということに気づいていたといえると思う。

12:吾輩は名無しである
22/06/05 02:47:56.44 ude32MvF.net
×「父」であるような超自我
〇「父」であるような自我理想と同一視されるような超自我

13:吾輩は名無しである
22/06/21 17:48:18.48 e3l+qgB/.net
死後急速に存在感なくなって行った作家だな
生前は何で文壇的にのさばってたんだろう?

14:吾輩は名無しである
22/06/22 09:59:03.57 LJvkw6xF.net
中上の『軽蔑』は朝日新聞に連載されたが、合田佐和子の挿絵が毎回女の眼だけを描く特異なものだった
しかし、単行本になった際、その挿絵は本のどこにも使われなかった
あれはとても残念で、自分は連載時の1回分の新聞切り抜きを単行本に挟んである

15:吾輩は名無しである
22/06/22 15:08:20.60 njEVAkQO.net
作品はいいと思った。少なくとも村上龍とかよりは。比較してはいけないんだろうけど。

16:吾輩は名無しである
22/06/25 17:14:05.60 +zkvXDhX.net
安里 朖
@St8GWBikWwNVhOV
·
Jun 21
裕仁下血時から死亡後にかけてだったか、中上健次の熱狂的な天皇礼賛文をよみ「とんでもねえ天皇主義者だ」と憤激して以来ずっと貶し続けてます。世の中全体が天皇熱にうかされてた時、それを更に煽り立てるような中上には恐怖すら感じた。日本人の天皇に対する脆弱性を探る上での好個の例というべき。
安里 朖
@St8GWBikWwNVhOV
·
Jun 21
あるに決まってます。で、あるに決まってるものに抵抗するのが左翼です。中上健次の雑文は「日本文化と天皇の絆」に抵抗しないどころか、それを称揚するもの。要は右翼耶蘇教徒・三浦朱門がいみじくもいう「天皇制は日本人の体質」をそのまま体現したような文。そんなゴミと魯迅を比較してはいけない。
Quote Tweet
Kentaro_SUZUKI
@suzuken2002
· Jun 21
Replying to @St8GWBikWwNVhOV
「日本文化と天皇の絆」、あるに決まっているじゃないですか? とむしろ詩人安里ミゲルさんにいいたい。「いきものががり」も当時のポスモダも「天皇の絆」です。その文化が嫌だからアニメやアニメ的日本映画ドラマを私はあまり見ませんがそれだけならまだ「楽」で、魯迅の為した国民性改造が必要です。
安里 朖
@St8GWBikWwNVhOV
·
Jun 24
『紀州』の抜書1つよんでも、中上健次の2流文学者ぶりがよく分る。深沢七郎は三島小説を"少年文学"と正しく称した。三島由紀夫も2流だが、文章家としては1流。少なくとも表面上はピカピカしてるのが三島の特徴。それに引替え中上は文章も2流以下で
安里 朖
@St8GWBikWwNVhOV
·
Jun 24
中上健次は、文壇的諸事情から柄谷行人を始めとする同世代(近辺)の文壇人からよってたかってゲタを履かされ、実物よりも大きく見えてるだけの典型的文壇作家。このクラスの商業文人に比べれば、大西巨人は確かに偉大だ。ポスモダとも結託した「吉本隆明の時代」(ヒデザネ)の産物としての価値しかない。

17:吾輩は名無しである
22/06/25 18:36:02.13 /a1wlE+1.net
ちなみに読んだことないらしい

18:吾輩は名無しである
22/06/25 18:54:39.89 RhOLOhlz.net
穢れや賤しいということを幾分、ポジティブに捉えてみせたところに中上のメリットがある。
我々はそれをさらにぐんと、推し進めるべきだろ。

19:吾輩は名無しである
22/06/25 20:04:04.90 h4b4NdD3.net
違う

20:吾輩は名無しである
22/06/26 09:55:09.90 rQ/0HZUJ.net
近代の平等の原則から言えば貴と賤とみなされてる者もあなたや私がそうであるようにありふれた人間でしかありえないってことなんだが

21:吾輩は名無しである
22/06/26 10:01:12.78 hz70FHvS.net
中上の小説を貴種とか賤民といった視点で読み解くのは空しいし、勝手にやってろと思う
あまりに被差別部落に拘泥した読解というしかないからだ
それよりもテクストの言葉を綿密に読み解いていくべきだ
彼が文体や物語といかに対峙したか、『地の果て 至上の時』を読め

22:吾輩は名無しである
22/06/26 16:03:17.97 i0v9Bo/g.net
柄谷を筆頭とした中上一派的な批評家たちがまだぞろぞろいて福田和也以外はなかなか中上については否定的に言い難い空気があるんだろうな
そのうち急速に萎むのは間違いない

23:吾輩は名無しである
22/06/26 18:02:28.85 7ns7sZyv.net
春樹信者の福田ごときに言われてもなw

24:吾輩は名無しである
22/06/26 18:28:15.14 cie7tnez.net
やるならちゃんとやってほしい
否定してやったぜ以外何も言っていないのに等しいのではあまりにも

25:吾輩は名無しである
22/06/26 23:42:15 8e1ZIUJP.net
父殺しの主題がそもそもよく分からん
秋幸はなんで龍造を殺したのかもよく分からん

26:吾輩は名無しである
22/06/27 00:16:36.47 skmctN9j.net
神話とギリシア悲劇からみる「父殺し」の普遍性
島田雅彦
中上健次はもともと、神話やギリシア悲劇が好きだというのがある。
また、精神分析や文化人類学(この場合は「父殺し」と「王殺し」とが重なることがある)的な図式を
あえて用いているというところもある。
のちには、中上はそれからずれて、↓の方向に行ったということもあるだろう。
「桜川」だったと思うが(ただし記憶が不確か)、龍造が随分と弱々しい人物として描かれていたのでなかったか。
〈マゾヒズムの場合、法のすべては母へ投入される。そして母は象徴的空間から父を排除してしまう。〉〈ドゥルーズ「マゾッホとサド」〉
〈かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。〉
(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003年 『時のしずく』所収)

27:吾輩は名無しである
22/06/27 00:22:46.60 skmctN9j.net
↑の書き込みは、「神話とギリシア悲劇からみる「父殺し」の普遍性」島田雅彦
からの引用ではない。
島田氏の批評文は、参考になるので、いちおう挙げておいただけ。

28:P
22/06/27 00:53:52.44 M0/KNkQP.net
>>25
待ってくれ。秋幸は龍造を殺したのか?

29:吾輩は名無しである
22/06/27 01:11:28.94 skmctN9j.net
龍造は縊死だったか。

30:P
22/06/27 01:12:51.40 M0/KNkQP.net
ネタバレになるから突っ込まない方がいいのか😂

31:吾輩は名無しである
22/06/27 01:30:40.38 skmctN9j.net
中上健次論 : 王殺しと物語の定型の破壊
増田真奈美
26で書いたようなことは、↑の論文に詳述してあった。

32:吾輩は名無しである
22/06/27 01:52:39.70 skmctN9j.net
それと、26の引用文中で中井先生が「超自我」といっているものは、
たぶん「自我理想」というほうが正確なのではないかと思う。

33:吾輩は名無しである
22/06/27 09:38:56.01 wPLMMf30.net
「 このように『羊をめぐる冒険』は『千の顔を持つ英雄』と正確に対応している。少なくともぼくにはそう思える。それは繰り返すが村上春樹の小説をキャンベルによって解釈したのではなく、『羊をめぐる冒険』がキャンベルの神話論に従って「物語論」的に物語られているからである。より正確にぼくの印象を記すならば、恐らくこういうことだ。
 村上春樹は「同時代」のアメリカ小説ージョン・アーヴィングやスティーヴン・キングやトルーマン・カポーティ、『スター・ウォーズ』や『地獄の黙示録』に共通の構造があることに「同時代としてのアメリカ」を書く前後には気がついていて、そしてその構造を抜き出す際に、キャンベルを明らかに参照している。
一方では、キャンベルの『千の顔を持つ英雄』の中で単一神話論の構造に従って紹介されていった古今の神話の一部を「ジャンク」として作中に引用している。つまり構造と素材の双方を借用していくことで村上春樹の中に「物語メーカー」というアプリケーションがインストールされたのである。
それが『羊をめぐる冒険』で起きたことである。これ以降、村上春樹はこのアプリケーションのプログラムをリナックスのユーザーのようにあれこれといじりまわしながら本格的に小説を書き始めるのである。」
「 村上春樹論、ないしは中上健次論が物語論として語られる時、一つの共通したアングルとして語られるのは、彼らは物語の構造を文学に敢えて導入することでそのような物語の構造やそれのもたらす陳腐さを顕わにした、という主張である。
(中略)同じ批評家の、ともに構造しかない小説を選択した中上と村上への評価が一八〇度違うのは「文壇」の二人に対する「空気」の問題でしかないが、例えば「村上春樹イエローページ」で加藤典洋も同じような評価を実は村上にしている。
(中略)恐らく四方田もそうであるように、物語構造が「主体」や「自己実現」というベタな主題を小説に代入してしまったことを村上なり中上の文学の支持者は受け入れ難いようにぼくには思える。」大塚英志『物語論で読む村上春樹と宮崎駿ー構造しかない日本』

34:吾輩は名無しである
22/06/27 12:14:02.33 skmctN9j.net
wiki
『旅芸人の記録』(希: O Θίασος、翻字: O Thiassos)は、テオ・アンゲロプロス監督のギリシャ映画。
旅芸人の一行が19世紀の牧歌劇「羊飼いのゴルフォ」を上演しながら、アトレウス家の古代神話を基にギリシャを旅し、1939年から1952年の政治史を中心としたギリシャ史が旅芸人の視点から語られる。「現代ギリシャ史と風景を横断する旅」をテーマとし、ギリシア神話に依拠した、叙情詩的、叙事詩的な作品である。

35:吾輩は名無しである
22/06/27 23:07:19.03 aU51EeBr.net
秋幸が実の父を殺そうとする動機はなんなん?

36:吾輩は名無しである
22/06/27 23:29:26.12 skmctN9j.net
≫秋幸が実の父を殺そうとする動機
「父殺し」「王殺し」(隆造=「蠅の王」)は、神話的な物語の十八番の演目だから、
話の中心に持ってきたということだろう。
たしか「地の果て…」には、フレーザーの「金枝篇」からの引用があっただろう。
けっきょくのところ、暴れん坊将軍が悪い幕閣の役付きをやっつけるようなものとして、
その種のお話では、「父殺し」「王殺し」のテーマはお決まりなわけです。

37:吾輩は名無しである
22/06/27 23:36:18.51 skmctN9j.net
wiki
『金枝篇』(きんしへん、英: The Golden Bough)はイギリスの社会人類学者ジェームズ・フレイザーによって著された未開社会の神話・呪術・信仰に関する集成的研究書である。金枝とはヤドリギのことで、この書を書いた発端が、イタリアのネーミにおける宿り木信仰、「祭司殺し」の謎に発していることから採られた。完成までに40年以上かかり、フレイザーの半生を費やした全13巻から成る大著である。映画「地獄の黙示録」でカーツ大佐(マーロン・ブランド)の愛読書として映るシーンがある。

38:吾輩は名無しである
22/06/27 23:59:12.83 skmctN9j.net
中上健次は、村上春樹とおなじで、
ポストモダニズムの作家ですよ。
わたしは、ポストモダン的な作風が悪いとは思わないので、
これは肯定的な意味です。

39:吾輩は名無しである
22/06/28 00:04:00.72 SFxQv+f9.net
wiki
エレクトラコンプレックス(ドイツ語: Elektrakomplex、 英語: Electra complex)は女児のエディプスコンプレックスを指し、ユングによって提唱された名称。コンプレックスを日本語訳し、エレクトラ複合と呼ぶこともある。
秋幸三部作はエディプスコンプレックス
「旅芸人の記録」のほうはエレクトラコンプレックス、
それが主題、こういうことでしょう。

40:吾輩は名無しである
22/06/28 04:22:42 9tI01udN.net
[父親であるとかまえる気など毛頭ないというようにボソボソと話しはじめた実父を見て、私はやりきれなかった。これが私の小説の主人公秋幸が自然そのものの化身とも、蠅の王とも呼んだ浜村龍造かと腹さえ立ち、これでは秋幸という私生児の物語の主人公がかわいそうすぎるじゃないかと、嘲いさえしたのだった。]
(熊野州「桜川」)

41:吾輩は名無しである
22/06/28 04:39:19 9tI01udN.net
×熊野州
〇熊野集

42:吾輩は名無しである
22/06/28 07:19:06.95 ebNLc788.net
中上が文学的想像力を駆使して浜村龍造を造型したことが分かる
中上の小説で最も魅力的な人物だった

43:吾輩は名無しである
22/06/28 10:39:34.07 TL8YWmHa.net
そういや子供のころ、「岬」書いたなあ。

44:吾輩は名無しである
22/06/28 13:52:24.34 9tI01udN.net
地域開発の記録文学/思想文学 : 中上健次『地の果
て 至上の時』をめぐるメモランダム
渡邊英理
↑の論文に詳しいが、中上文学には、
日本の戦後の「下部構造」の根幹といえる権威主義的開発体制の「マイクロポリティクス」の様相についての批判
という面があるだろう。
養父が土方の親方で、実父が流れ者から名士になりあがったデベロッパーということで、
そういうものに対する肉感を伴う分析がある。
その種の分析力というのは、村上春樹や村上龍のようなありふれた中間層から出てきた人にはなかなか身につかないものだ。
春樹の場合は、核になる文化的背景が学生むけの消費主義文化的風俗、龍の場合は、背景子供向けの劇画・マンガ文化的風俗みたいなことになるので、
私が思うに、中上とちがって、大人の鑑賞にはむかないところがある。
三島由紀夫の場合には、開発主義についての官僚的な計画者レベルの観点というのはあるのだが、
机上の分析というかんじで、肉感がとぼしい。

45:吾輩は名無しである
22/06/28 14:02:40.08 18iMpQ8n.net
自己宣伝増えたな。

46:吾輩は名無しである
22/06/28 15:19:46.60 9tI01udN.net
柄谷行人
「(「熊野集」は)物語=民俗学的空間と、私小説=自然主義的空間という日本近代文
学の「起源」において構築された二つの制度を脱構築する」

47:吾輩は名無しである
22/06/28 15:43:37.16 1dajNSKG.net
自分の言葉で語れよ

48:吾輩は名無しである
22/06/28 16:19:29.52 yV8jDAiQ.net
浜村龍造って田中角栄じゃないの?
角栄は賛否両論あるが下層への利益誘導という正の側面が確実にあるし殺すような対象でもないような
角栄的なものを引き継いだ自民党勢力は小泉に殺されたわけで秋幸は小泉か?

49:吾輩は名無しである
22/06/28 16:28:46.63 9tI01udN.net
秋幸は龍造を殺していない。
龍造は自分で縊死する。
ちなみに、おなじ「金枝篇」を引いている「地獄の黙示録」では
ウィラード大尉はカーツ大佐を殺す。
そして、ウィラードは「王国」を大佐の遺言に従って
破壊する(ナパーム弾による爆撃を軍に要請)。
秋幸は路地の跡地を燃やすが、あくまでもそこはすでに路地が破壊されたあとだ。
「地の果て…」の結末には、神話的物語のクライマックスとしては、
やや拍子抜けするようなズレがある。

50:吾輩は名無しである
22/06/28 17:03:04.57 9tI01udN.net
Apocalypse Now Kurtz Compound Destruction Deleted Scene with Credits
↑最初の劇場公開時にあったシーンなのだが、
完全版などではカットされているので、
見たことのない人もいるかもしれない。

51:吾輩は名無しである
22/06/28 21:59:43.34 ebNLc788.net
>>49
あえて物語を封印して、反物語としての小説を書いたわけだ
これをよしとする者と肩透かしと思う者とで評価が割れる

52:吾輩は名無しである
22/06/28 22:02:35.68 ebNLc788.net
ちなみに金枝篇は大江の傑作『水死』にも登場する

53:吾輩は名無しである
22/06/28 23:06:10.74 xWd1mBuZ.net
蓮實重彦は中上の小説は山口昌男の図式的な中心と周縁理論のヴァリエーションと言ってたな
中上は柄谷と仲良かったけど中上のバックグラウンドは柄谷じゃなくて山口と吉本なんだよな
蓮實は山口理論を超えられるのが中上の力と四方田みたいなあるいは春樹を評した加藤みたいなこと言ってたけどw

54:吾輩は名無しである
22/06/28 23:12:23.94 xWd1mBuZ.net
>>36
だから物語の構造に強いられてるのであって心からのリアリティがないってことじゃないの?

55:吾輩は名無しである
22/06/28 23:31:50.90 9tI01udN.net
<天皇>のいない世界 : 『地の果て至上の時』の象徴界
柴田勝二

56:吾輩は名無しである
22/06/28 23:38:11.36 9tI01udN.net
≫蓮實重彦は中上の小説は山口昌男の図式的な中心と周縁理論のヴァリエーションと言ってたな
これは一面的な読解だ。
むしろ中上の小説世界は、
「アポロ的なものとディオニュソス的なもの」「中心と周縁」「サンボリックとセミオティツク」
こうしたものからズレていって、しまいはリゾーム的なところにいきつく。
中上の文学世界に最も近しかったのは、吉本や山口の思想ではなく、
浅田彰の思想だった。

57:吾輩は名無しである
22/06/28 23:44:15.05 9tI01udN.net
吉本、山口にちかいのは、三島由紀夫。

58:吾輩は名無しである
22/06/28 23:57:52.45 9tI01udN.net
[中上は自らの路地を対外的に見出した「路地」の上位に据える. 気は全くなく、
それらを同一平面上に並べたリゾーム的な繋がりを持つ、
フラットで、脱. 中心的な世界を見ていた](今井亮一「中上健次とガルシア・マルケス」)
.

59:吾輩は名無しである
22/06/29 00:01:34.43 fKp6vMxV.net
恋愛とは、まさに安定した秩序=コスモスがつき破られ、そこに混沌とした渦巻き=カオスが湧き出してくる体験ではないだろうか。
前者の安定した社会関係、言語と主体からなる秩序を、クリステヴァはサンボリックと名づけ、
後者のコスモスのなかに侵入しそれを解体する暴力的な力をセミオティックと名づけるのである。
そうすると、たとえば恋愛という体験は、サンボリックとセミオティックのせめぎあうプロセスとして記述することが可能になるわけだ。
----------『現代言語論』 立川健二 山田広昭 共著 p. 141から144 より。

60:吾輩は名無しである
22/06/29 00:18:18.34 fKp6vMxV.net
吉本、山口、そして三島に似ているのは、むしろ蓮實重彦のほうですよ。
人は、自分で似ていると思うものではなく、
あいつと私は違うと拒否しているものに実は似ている、ということがありがちなのです。

61:吾輩は名無しである
22/06/29 00:28:42.69 fKp6vMxV.net
[安定した秩序=コスモスがつき破られ、
そこに混沌とした渦巻き=カオスが湧き出してくる体験]
蓮實重彦的な映画愛・小説愛によって生じる「陥没地帯」というのは、
読み取りのコード(物語=コスモス)がセミオティツクなものに
「不意打ち的」に侵入されることで
陥没するところのことだから、まさに↑の引用文にあるようなことです。

62:吾輩は名無しである
22/06/29 09:29:03.96 fpJY9rDx.net
長文オナニー野郎キモい

63:吾輩は名無しである
22/06/29 14:27:05.06 fKp6vMxV.net
路地の解体というのは、↑で言及した方がいる列島改造論
それに代表される土建中心の国家資本主義と生政治の結合で、
低開発地域の開発は、55年体制下の地方改善事業、同和対策事業として
自民党と社会党などの談合の産物だたっといえる。
「地の果て…」で路地の跡地に小屋をしつらえて仮住まいしているような連中、
それらがのちに「日輪の翼」で流民化する連中になるわけだが、
これは、国家資本主義+生政治のソーシャルリベラリズム体制内に居場所のない
サバルタンーノマドみたいなものだろう。
今の50歳未満の文壇・論壇人などは、1970〜1980年代はよかった、みたいなことを言うものが多い。
そういう人たちは、↑の中上作品にあるような批判をどのように評価するのか。

64:吾輩は名無しである
22/06/29 14:28:59.46 fKp6vMxV.net
×低開発地域の開発
〇低開発地域としての被差別部落の解体と再開発

65:吾輩は名無しである
22/06/29 14:36:59.00 fKp6vMxV.net
作中の秋幸の親族、現実の中上健次の親族には、
国のおこなった低開発地方開発事業、同和対策事業からの受益者が多い。
なお、柄谷行人の実家もたぶん、おなじくその受益者だろう。

66:吾輩は名無しである
22/06/29 14:39:48.78 n1jBcQUJ.net
だから?要点まとめろよ使えねえな

67:吾輩は名無しである
22/06/29 20:01:48.03 6FSuEXV3.net
汚い汲み取り便所の掘っ立て小屋から清潔な水洗トイレの住宅に
建て替えることの何が問題なのか、さっぱり分からんな
自民党も社会党も同意した政策だ

68:吾輩は名無しである
22/06/29 20:49:24.86 fKp6vMxV.net
青山真治 / 路地へ中上健次の残したフィルム (Trailer)
これでも「失われた路地へ」ということが主題ということらしい。
「失われた〜」というのは、なにか大切なものを喪失したようなときにいうだろう、
「失われた時を求めて」みたいに。
青山監督のような中上文学の熱烈なファンは、とりあえずそういう気分なのだろう。
中上健次の本心がどうだったのかは知らない。
中上の親族のおおくは、「汚い汲み取り便所の掘っ立て小屋から清潔な水洗トイレの住宅に
建て替える」ことを含む同和対策事業による路地の再開発でがっぽり儲けただろう。

69:吾輩は名無しである
22/06/29 20:49:58.21 fKp6vMxV.net
×主題ということ
〇主題

70:P
22/06/29 21:50:10.67 RcrPYZiA.net
>>67
俺もそれ自体は間違ってると思わない
みんな団地に住みたいからつくるとか

71:P
22/06/29 21:50:48.09 RcrPYZiA.net
でもそれが文学の主題にならないか?って言われたらなるでしょ

72:吾輩は名無しである
22/06/30 06:57:15.47 YKC4E+ox.net
中上文学を路地の消滅で論じようとは思わない

73:P
22/06/30 19:50:59.79 59IVtYze.net
それも色んな読み方ができるって事なんじゃないの。俺は被差別部落の歴史を知らないからそういう読み方をできないけど。でも中上は全部作り物だって自分で言ってるね。

74:吾輩は名無しである
22/06/30 20:42:55.63 QiUujSph.net
中上の部落は迷路のような路地だが、地形的には色んな部落=路地があるんだよ。
部落=迷路ではない。
部落=路地を前近代の構造の一つと見ることも可能だが、それらの構造は完全に消滅した訳ではないし、残った構造から過去を再現視することも易しい。そして、それはかなり有意義なことでもある。ポスト構造主義の良い所は構造を絶対視しなかった点ではないか?
卑近なところで言えば、武蔵小杉は大型台風に見舞われた以後はウンコ杉と言われてるが、さらに食料自給率の低下が危惧されたり、再生可能エネルギーが注目されてる中で、人間が食事から摂取する栄養は6割から7割に過ぎず、ウンコの利用価値は非常に高い。

75:P
22/06/30 21:47:26.00 pYDtcZ1E.net
武蔵小杉とか便利なのかも知れないけどめちゃくちゃ混むよな面倒臭い

76:吾輩は名無しである
22/06/30 21:57:48.52 QiUujSph.net
武蔵小杉の田舎で揉まれてりゃ世話ない。

77:P
22/06/30 22:05:44.50 pYDtcZ1E.net
渋谷か新宿に電車乗り換えなしで30分以内に行ける街ならどこでもいい駅からは徒歩10分が限度

78:吾輩は名無しである
22/06/30 22:18:10.62 QiUujSph.net
>>渋谷か新宿に電車乗り換えなしで30分以内に行ける街
タワマンのデヴェロッパーかよw

79:P
22/06/30 22:27:51.44 pYDtcZ1E.net
>>78
でもそれが最低限じゃない?それ以上はめんどくせーわ

80:吾輩は名無しである
22/06/30 22:42:57.32 3oeIOAc1.net
枯木灘を何の知識もなく読んだら被差別部落が絡む小説なんて分からないよね
千年の愉楽以降のならず者たちが跋扈する路地ってのも実状から言えばどうなん?

81:P
22/06/30 22:46:39.04 pYDtcZ1E.net
その通り。被差別部落の話だとは前提知識なしに読んでもわからないよな。

82:P
22/06/30 22:46:51.15 pYDtcZ1E.net
枯木灘

83:吾輩は名無しである
22/06/30 22:57:23.58 3oeIOAc1.net
和歌山及び新宮には行ったこと無いけど枯木灘は路地どうこうより地方の小さな都市のあのなんとも言えない感じは上手く描いてるなと思う

84:吾輩は名無しである
22/06/30 23:11:55.32 QiUujSph.net
>>80
西日本の人間には若くても、鋭い奴はピンとくるんだよ。
念のため、バイアグラじゃないよw

85:吾輩は名無しである
22/06/30 23:49:09.56 YKC4E+ox.net
中上文学は『橋のない川』や『青年の環』のような部落差別をテーマとしていない
かれが部落出身でも、そういう作品を書く意志はなかった
かれは戦前の徳田秋声の自然主義文学を戦後ただ一人受け継いだ作家だ
自然主義リアリズムを戦後にいかに脱構築したか、それが読みどころだ

86:吾輩は名無しである
22/07/01 00:10:50.41 an1s5nlF.net
中上は部落の唯物的なところを強調したが、それには長所も短所もあった。
部落差別がテーマなら、もっとはっきり部落であることを書いてるわな。
その程度のことは誰でも分かるよ。

87:吾輩は名無しである
22/07/01 05:11:00.30 an1s5nlF.net
>>85
>>自然主義リアリズムを戦後にいかに脱構築したか、それが読みどころだ
大杉重男がそういうことを言ってるらしい。
デコンストラクションは批評の手法だと思うが、中上がどの作品でやったのか、
知りたいね。

88:吾輩は名無しである
22/07/01 07:42:59.53 L06lD5qn.net
いま大した文芸評論家がいないので、
大杉重男には徳田秋声と中上健次で1冊評論を書いてもらいたい
自分は『地の果て 至上の時』が中上の最も批評的なテクストだと見ている

89:吾輩は名無しである
22/07/01 10:54:41.93 hR+P1VHj.net
中上健次は、戦後生まれとしては、
研究論文の数が圧倒的に多い作家だ。
精神分析、民俗学、記号論、コスコロ、カルスタ、フェミニズム(肯定的なものはオバの語りなどが対象になる)、
ほとんどすべての批評理論でもって論じられている。
研究論文を読めば十分だろう。

90:吾輩は名無しである
22/07/01 12:35:48.83 hR+P1VHj.net
>>67
の方がいうような政策の対象から漏れるような連中がいる。
グラムシのいう「サバルタン」にあたるような者たちだ。
「その土地のもっとも不毛な空き地の、定住を忌む思いの直接的表現としてのテント、バラックに
拠り、どのような定職にもつかず、自由な結婚をいとなみ、体制をゆすり、近親者にくらいついて
―水への馮依を拒否する一群は、事態の深部において、火に馮依する者である」
「今日もしプロレタリアートの純粋な心情というものがありうるとすれば、
(谷川雁「馮依の分裂を知る者―中上文学・二泊三日の旅から」
(『国文学 解釈と教材の研究』(一九八五年三月号))

91:吾輩は名無しである
22/07/01 12:39:20.84 hR+P1VHj.net
×「今日もしプロレタリアートの純粋な心情というものがありうるとすれば、
〇「今日もしプロレタリアートの純粋な心情というものがありうるとすれば、
  その最大公約数のごときものがここに示されている」

92:吾輩は名無しである
22/07/01 12:57:03 Q4MRVVkr.net
一人で頑張ってんのきっしょ
童貞おじさん?

93:吾輩は名無しである
22/07/01 15:08:41.19 5J4Bmvxm.net
>>89
研究論文はつまらない
文芸評論家の面白い評論を読みたい
大杉の『小説家の起源』は面白かった

94:吾輩は名無しである
22/07/01 17:54:25.82 hR+P1VHj.net
89訂正
×コスコロ
〇ポスコロ

95:吾輩は名無しである
22/07/01 17:58:25.29 an1s5nlF.net
>>85
>>かれは戦前の徳田秋声の自然主義文学を戦後ただ一人受け継いだ作家だ
自然主義リアリズムを戦後にいかに脱構築したか、それが読みどころだ
その読みどころの箇所を大まかで良いから教えてくれ。
そんなカッコいいことが、スガにおべっかを使う大杉に出来るのか疑問なので。

96:吾輩は名無しである
22/07/01 18:23:56.20 hR+P1VHj.net
わたしは、ユリイカや國文学のような準学術誌に載るような批評のほうがレベルが高く、
文芸誌に載るようなものよりも面白かったと思う。

97:吾輩は名無しである
22/07/01 18:55:15.43 an1s5nlF.net
ユリイカの原稿料は昔から安かった?
原稿料が安いほど原稿のレベルは上がるとか思ってる編集者もいるにはいた。
だが、今は通用しないかも。
ユリイカの安い原稿料への不満の声があちこちで上がってる。
やはり、編集者のレベルが下がったからではないか?
今のユリイカは、何も方向性が分からず、自力推進力も無くて、大海原に浮かんでる浮遊物に過ぎないと思うが。

98:P
22/07/01 19:39:26.51 SZoIrHY3.net
>>84
そうなんだろうな、とは思う。

99:P
22/07/01 19:40:25.97 SZoIrHY3.net
>>85
江藤淳が言ってた事でしょ

100:吾輩は名無しである
22/07/01 21:25:06.46 hR+P1VHj.net
「地の果て…」などではとくに、
「路地」の跡地にたてたバラックなどに仮住まいしているような
流動的な日雇い下層労総者からの略取・詐取といったものが、
社会的再生産の過程において、重要な資本蓄積の機会として描かれている。
「熊野集」でも、同和対策事業に乗って儲けるためには、
いかに上手にその種の下層労働者を「奴隷化」するかが肝心、
みたいなことが作者の姉夫婦の例を挙げて示されている。
中上文学にあっては、本源的蓄積は、資本主義の成立時にあった一過性のものではなく、
今現在も継続しているプロセスとして理解されているといえる。
上で引用した谷川雁の批評文にしても、そうしたことを踏まえて中上文学を論じたわけだ。
ところが、最近の「文壇」系の思想家は、本源的蓄積それ自体を「幻想」であるかのように言うことが多い。
これは中上の盟友であったはずの柄谷行人の「世界史の構造」などから出ているもので、
「子分」の大澤真幸などは、はっきり「幻想」という言い方をしている。

101:吾輩は名無しである
22/07/01 21:25:50.28 hR+P1VHj.net
×おいて、
〇おける

102:吾輩は名無しである
22/07/01 22:23:37.60 hR+P1VHj.net
「本源的蓄積」について何も共産党的マルクス主義のように理解しなくてもよい。
中上文学的な「路地の消滅」にしても、共同体の慣行としてのコモンズが
収奪され解体していく過程なのだと考えられる。
不払い労働、家事労働、ジェンダーによる役割分業、あるいは、義理人情がらみの貸し借り、
こういうものは、コモンズが相互扶助的な働きを失ってしまうと、
たんなる因習的な桎梏や収奪のための道具になる。
「階級」ではなく「身分」の観念によって維持されていた「路地」のコモンズが収奪され解体していく過程が、
資本主義社会において継続するプロセスとしての本源的蓄積の過程だったといえる。

103:吾輩は名無しである
22/07/01 23:05:37.79 QZbgzu6r.net
中上的な被差別部落の文学的活用って本当にいいことなん?

104:吾輩は名無しである
22/07/01 23:12:17.41 QZbgzu6r.net
被差別部落出身でもなんでもない者が千年の愉楽系の被差別部落小説書いたらいろいろ問題かも・・・

105:吾輩は名無しである
22/07/01 23:31:36.30 hR+P1VHj.net
中上健次の部落青年文化会は、部落解放同盟の新宮支部とは仲が悪かっただろう。
熊野大学も部落解放同盟からは迷惑がられていたのではないか。
とくに石原慎太郎を講師にして催したときは、
右翼反動を講師に招くとは、なんたること、みたいな非難があったと思う。

106:吾輩は名無しである
22/07/01 23:34:52.07 hR+P1VHj.net
中上健次と共産党系の全解連や自民党系の全国自由同和会との関係については、
どうなのか知らない。知っている人がいたら、それに関して教えてほしい。

107:P
22/07/01 23:48:23.64 66+UVDEy.net
リスペクトはされてるでしょ

108:吾輩は名無しである
22/07/02 08:30:31.60 5z/pgNvi.net
>>67
川べりに停めた舟の中で生活する人達は船の端っこから排尿排便をする習慣があって、
そういう習慣も継続性が強い。なかなか、近代的トイレの設備に馴染まないんだよ。
中上の「浮島」の木馬引きは避けがたい危険さが大き過ぎて、木材の運び方は実際とか
なり違っていたのではないかという気がする。現代ではピアノや金庫などの重量物を
運ぶ現場労働者は理詰めで考えるタイプの人が多くて、「浮島」のキンマ引きのような
やり方でやれと押し付けられたら、拒否すると思う。多分、山の上の方で太い切り株に
長いロープを引っかけて、そこからロープを伸ばしてキンマの後部を強固に把握しながら、
屈強な男4−5人がゆっくりとロープを緩めながら、キンマの先頭に立つ者の誘導によって
キンマを降ろしていったのではないか?
現場肉体労働でも、土方と鉱夫と重量物運搬者ではかなり気質は違うような。
友常勉のpdf論文の「報告/部落史研究における身分・階級・ 物語・コモンズ」が凄く参考になった。

109:吾輩は名無しである
22/07/02 09:35:47.99 JGjw61FQ.net
部落解放同盟やマルクス主義は中上文学とは無関係だ
もっとテクストの読解に即したものを読みたい
今月、阪大准教授(女性)の『中上健次論』が上梓されるが、
さてどうか

110:吾輩は名無しである
22/07/02 09:42:53.68 5z/pgNvi.net
>>109
>>部落解放同盟やマルクス主義は中上文学とは無関係だ
そのように君が思うのは君の勝手だ。

111:吾輩は名無しである
22/07/02 16:44:43.44 NOpTtFN2.net
>>108
【では擦れ違った四屯トラックはどこから材木を運んで来たのかと訊くと、山から山へケーブルを渡し
て下の里の窪地にそのケーブルで運んで来た材木を集め運んでいるのだと言った。道がなくともケーブ
ルを張れば材木出しは出来る。昔、秋幸が耳にした山の斜面を利用して軌道の上を木ゾリに乗せて運ぶ
木馬出しや、斜面に板を張ってその上を滑らせる修羅出しは過去のものだった。木馬出しも修羅出しも
川の支流まで運び、雨が降り、水嵩が上るのを待つ。材木を組みたてそのうちの一本だけカンヌキの用
をする材木を抜きとれば充分な水嵩の勢いに乗って次々と川を流れ落ちる、網場という方法は紀伊半島
の山の中から材木を出すのに都合よく蛇行する熊野川に適切な方法だった。水嵩と共に流れ出した材木
はバラバラに流れても決まったところで溜りをつくり、筏師らはそこで待ち受け、筏に組み、セリ市と
製材工場のひしめくその土地めざして川を流しておりてゆく。林道が整備され、林道の充分でないとこ
ろはケーブルが張られトラックが待ち受けるようになったのは、最近の事だった】
(「地の果て 至上の時」)

112:死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医国文師悪魔召喚居士
22/07/02 17:08:08.50 9i3gQ+Al.net
中二のシードぐらいの文学。低劣。

113:死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医国文師悪魔召喚居士
22/07/02 17:08:57.77 9i3gQ+Al.net
高校受験対策高校以降が大事。フロイト診るととくにそう思う。

114:死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医国文師悪魔召喚居士
22/07/02 17:11:07.38 9i3gQ+Al.net
高井姓 大熊野。

115:死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医国文師悪魔召喚居士
22/07/02 17:12:10.23 9i3gQ+Al.net
ポルノ文学としてもどうか、性徴期の繊細さない。

116:死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医国文師悪魔召喚居士
22/07/02 17:13:05.49 9i3gQ+Al.net
だから熊野詣なんてルートが大事。精神科なんてあほ。ネオナチ大社じゃねーけど。

117:死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医国文師悪魔召喚居士
22/07/02 17:13:39.49 9i3gQ+Al.net
若い時代とか序盤だからって下の値打ちのモノでは文学の商売成り立たん。

118:死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医国文師悪魔召喚居士
22/07/02 17:14:29.56 9i3gQ+Al.net
インカレ(大学院留学生私服大会優勝です)ってことのほうがいいのに。

119:死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医国文師悪魔召喚居士
22/07/02 17:15:08.22 9i3gQ+Al.net
ハイスクールレベルな競り合いを希望。

120:死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医国文師悪魔召喚居士
22/07/02 17:16:07.99 9i3gQ+Al.net
高校教師は現場にいない哲学文学倫理宗教技芸体育作文小論文男子校限定
あたりうろうろ。
でも何でも教えれるけどな。

121:吾輩は名無しである
22/07/02 18:11:37.36 5z/pgNvi.net
>>111
近畿地方南部の筏流しでの身体の使い方から、日本の重量物運搬での身体の使い方が生まれたと
いう気がする。日本の2大引っ越し屋の堺とアートはどちらも大阪の河内が発祥なので、作業員は
和歌山出身の貧民が多かったと想像されるのでw
ダンジリの上で踊ったりするのは、筏流しから来てるのでは?という気もする。

122:吾輩は名無しである
22/07/02 20:37:33.31 5z/pgNvi.net
>>121
自己レスだが、戦前の和歌山や奈良の林業では高知からの出稼ぎが多かったと言われてるので、或いはキンマ引きのような荒っぽい仕事は
高知人がかなり請け負ってたかも。
重量物を担ぐ時のバンド(帯)の結び方はアートと堺では違ってて、堺では片方を引っ張ればすぐに解けるようになってるが、これは階段
作業で事故になると思った時に上方にいる側がピアノの脚に引っかけた帯を瞬間で外して、自分がピアノと一緒に下方の相方を押し潰さな
いようにという配慮からそうなったというが、これは高知由来の技術かも。偶然だが、アートの高知出身の大先輩でその帯の結び方を知っ
てる人がいた。要は、落ちるものは流れに任せよということ。
高知と堺、河内、和歌山は中世から交流が盛んだった。

123:吾輩は名無しである
22/07/03 12:00:22.23 lVBcmGG6.net
>>109
その阪大準教授の論文の内容はすでに援用した。
「地域開発の記録文学/思想文学 : 中上健次『地の果
て 至上の時』をめぐるメモランダム」
渡邊英理
≫マルクス主義は中上文学とは無関係
あいにく渡邊英理さんの考え方は、
ネオマルクス主義的である。

124:吾輩は名無しである
22/07/03 12:05:49.03 lVBcmGG6.net
[路地が解体された後の世界の「職なしゲットー」や、そこで生み出される「廃棄可能な人間たち」。その萌
芽は、すでにして『地の果て』における路地跡の「空地」/「原っぱ」に住まうヨシ兄ら、野宿状態の労働
者たちに萌されている。かつて、中上は、「何度も小説にしたこの路地がたえず新しい読み終る事のない本と
してある」と言った。たえず新しい読み終わる事のない路地には、かつてあったことだけでなく、読者の「い
ま・ここ」に起こっていること、すなわち、それが書かれた時点では未来に属する出来事までも、書き込ま
れている。そのような本として路地を、路地の小説を、いま、この時代に再読することができる。路地なき
後の世界をも、中上の路地は、小説という形をもって、つかみとっていたのである。 ]
(渡邊英理 上記の論文の結びの文)

125:吾輩は名無しである
22/07/03 12:39:27.82 XC8quPeo.net
和歌 山県新宮市における同和対策事業 による公営住宅 の建設過程 と部落解放運動-1953~75年-
URLリンク(www.jstage.jst.go.jp)

126:吾輩は名無しである
22/07/03 15:23:57.18 lVBcmGG6.net
「本書は、路地を舞台とする中上健次の小説群、路地小説をめぐって書かれている。路地とは、(再)開発を表象する空間であるが、同時に、(再)開発に抗する文学的かつ理論的な構え、思想的なビジョンである。ビジョンとしての路地の核心は、その「仮設」性に見出すことができる。[…]脱中心的で偶発性に開かれ、その未決の複数性と多義性ゆえに群れとして形象化されうる路地の「仮設」性は、[…](再)開発に対する抵抗性において、国家と資本に益する「生産性」へと還元されることを拒み、[…]それとは異なる社会のあり方を探求する構えでもある。したがって、中上の路地とは、国家に抗い資本に抗う、脱国家的かつ脱資本的な志向性をもつ社会として構想されていたと言えるだろう。」
(渡邊英理)
ようするに、中上文学における「路地」は、リゾーム的なものだということになる。

127:吾輩は名無しである
22/07/03 15:25:04.92 lVBcmGG6.net
>>10

128:吾輩は名無しである
22/07/03 16:28:51.87 Y8f1C56e.net
文学作品をどのように解釈するかは自由だ
しかし路地をマルクス主義擁護のために解釈するのはシラケる
時代遅れで実験失敗済のマルクス主義バンザイと
脳内で雄叫びをあげてればいいだろうよ

129:吾輩は名無しである
22/07/03 16:41:31.78 lVBcmGG6.net
物理学者が物理をやる時に、いちいちニュートンだとかアインシュタインを引用する必要を感じるでしょうか? 彼らはそれを利用するが、自分がどれだけ師の意見に忠実かを示す証しとして引用符や脚注や賛辞を使う必要なんてない。他の物理学者たちだって、アインシュタインが何をやり、何を発見し、何を証明したかぐらいは心得ているから、読んでいきながらなるほどと思うだけです。今の時代に歴史をやるには、直接的であれ間接的であれマルクス思想につながる概念を全く使わないでやるとか、彼が説明を与え定義づけた視野に立たずしてやるなんてことは不可能です。つきつめれば、歴史家であることとマルクス主義者であることの間にどんな違いがあるのかとさえ思えるほどです。(中略)
 で、議論もマルクスによって定義され体系化されたその全体的視野の内部で初めて始まるわけです。その相手というのが、実際にはマルクス理論ではないのに、ただ共産主義理論のルールを操るという理由でマルクス主義者を自認してはばからない連中です。まあルールと言ったって共産党が決めたもので、党からマルクス主義者だと公認されるためのマルクス利用マニュアルのようなもんですがね。
 (ミシェル・フーコー「監獄についての対談−−本とその方法」ちくま学芸文庫、フーコー思考集成IV所収)

130:吾輩は名無しである
22/07/03 16:41:47.03 lVBcmGG6.net
ジル・ドゥルーズ「思い出すこと」
(聞き手:ディディエ・エリボン、鈴木秀亘訳、『批評空間』誌第II期第9号、太田出版)、p.11-12
〈マルクス〉

マルクスを読んだのはニーチェと同じ時期でした。素晴らしいと思いました。彼の生み出した
さまざまなコンセプトは、私にとって今でも役立つものです。そこにはひとつの批判、根本的な
批判が存在しています。『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』はマルクスに、マルクス主義に 完全に貫かれた作品です。現在私は、自分を完全にマルクス主義者だと考えています。
例えば、「管理社会」について書いた記事は(月刊ロートル・ジュールナル1号 1990年5月号に
掲載、ミニュイ社刊『記号と事件』に収録、邦訳河出書房新社)、マルクスが彼の時代には知り
えなかったことを語っているにもかかわらず、完璧にマルクス主義的なテクストです。
マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解でき
ません。マルクスは終ったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは
何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返
らなければなりません。

131:吾輩は名無しである
22/07/03 16:57:59.84 zeAXR2F0.net
自分の言葉で語れない人か

132:吾輩は名無しである
22/07/03 17:25:02.29 lVBcmGG6.net
131さんは、中上文学を論じたもので、マルクス主義とかかわりのないものを
一部でいいから引用して貼ればいいんですよ。
非常に少ないとは思うけれど、全然ないというものでもないでしょう。

133:吾輩は名無しである
22/07/03 18:10:39.55 +vxn3csH.net
>>123
「地の果て」のヨシ兄の鴨緑江で筏流しをやった話だが、彼とほぼ同世代の長野出身で
満州で運送屋をやってた人の話では、満州人や朝鮮人はしんどくなると荷物を落とすと
いうんだな。中上の筏流しやキンマ引きが神話化されてる感は拭えない。筏流しで重い
材木を竿で押しやるのはいわゆる「ナンバ」に過ぎん。
>>128
君のは創価の考え方だ。
創価は部落青年の知的関心を啓発することに全く無関心だが、中上は部落青年のために
熊野大学を開いた。マルクスは中上の知的関心の一つに過ぎない。君が気にし過ぎだろ。
創価には部落出身者が非常に多いにも関わらず、創価は部落出身者の知的向上を嫌うの
はおかしい。

134:吾輩は名無しである
22/07/03 18:32:03.52 lVBcmGG6.net
そもそも、日本のネオマルクシストの「第一人者」だとされることの多い柄谷行人と若いころからの親友で、
お互いに影響し合っている間柄なのに、
その中上健次が思想的にマルクスと無関係なわけがないだろう。

135:吾輩は名無しである
22/07/03 18:34:51.63 lVBcmGG6.net
現代思想の先駆者の「三巨人」マルクス、フロイト、ニーチェ、
とうぜん中上健次は、これらから多大な影響を受けているわけですよ。

136:吾輩は名無しである
22/07/03 18:41:43.28 Y8f1C56e.net
大杉重男あたりにマルクス主義とは無縁な中上論を期待する
徳田秋聲『あらくれ』から中上は何を学んで『鳳仙花』を書いたか

137:吾輩は名無しである
22/07/03 18:51:03.84 +vxn3csH.net
>>136
阿保馬鹿の絓秀実に気持ち悪いおべっか使ってたのが大杉。

138:P ◆8LHzvOF7F2
22/07/04 00:17:49 cXqAEQC6.net
>>130
そうだったのか…

139:死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医国文師悪魔召喚居士
22/07/04 09:19:46.93 LZl57Hvp.net
中二っぽいよな。中国も華国と華の方が華やいでええ。

140:吾輩は名無しである
22/07/04 15:33:19 iioa4Qpx.net
「媒介する言葉と路地の夢 : 中上健次とフランツ・ファノン」
渡邊英理

話題の阪大准教授には↑のような論文もあった。

141:吾輩は名無しである
22/07/04 15:41:46 iioa4Qpx.net
「俺、それまで大江健三郎の影響をものすごく受けていて、戦後民主主義の路線にとらわれていた。そうなんだ、平和と民主主義をほとんど鵜呑みという感じでね。それが、あの一〇・八でゲバ棒を持ったとき、一八〇度転換した。無茶苦茶に殴りかかってくる機動隊に対して、自衛のために棒を持ったわけだろう。その棒一本で、完全に大江健三郎の言ってることなんかが引っくり返った。
 要するに、暴力に対してどう思うか、暴力をどんなふうに位置づけるかということなんだ。
 それで、いろんな本を読んだよ。その中で、なるほど、これじゃないかと思ったのがフランツ・ファノン。暴力には二種類ある。権力をフォルスと言う、それに対して抑圧された者が押し返す力をバイオレンスと言う。これが暴力なんだとファノンは言うわけね。だから、暴力というのは、弱い人間にふるうものとは違うんだ。弱いからこそ打ち返すんだという暴力論が、俺たちの間で信念となっていた。
 目がさめた気がしたね。あっこれなんだと思ったんだよ。それで俺は大江を超える、大江の文学論からの呪縛を超える。それは同時に、戦後民主主議を超える論法を身につけることなんだ。そうすると、俺は自前で考えなくちゃいけない。それで、二十二ぐらいのときに初めて、自前でものを考えるということが出てきた。
 そうだね。その頃、すでに書き始めていたから、そういう考え方はぴったり俺の書くものにくっついている、そうだろう。しょっちゅう機動隊に殴られていたんだよ、それまで。それで自衛のために棒を持って打ち返した。そのとき、打ち返さなくちゃいかんという」論法に転換したんだよ。」
(つかこうへいによるインタビュー。『中上健次発言集成5』p138-9、及び『現代文学の無視できない10人』所収)

↑の中上健次の言うことには、どうやら記憶違いがあるらしく、「弱いからこそ打ち返す暴力」云々というのは、
ファノンではなく、ジョルジュ・ソレルの著書の書いてることなのだそうだ。
ただ、著者について記憶違いがあったとしても、論旨は変わりないだろう。

142:吾輩は名無しである
22/07/04 19:05:40.16 6aWFGM6b.net
>>141
>>↑の中上健次の言うことには、どうやら記憶違いがあるらしく、「弱いからこそ打ち返す暴力」云々というのは、
ファノンではなく、ジョルジュ・ソレルの著書の書いてること
それは誰の意見なのでしょうか?


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