【群像☆】批評の新人 ..
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119:吾輩は名無しである
22/02/05 00:06:21.61 fmlS7hZH.net
>>110
>批評復活の日も近い?
文系院卒で社会復帰が難しくなった人による
キャリア形成のためのたたき台のようなところがあったから
文芸誌とはいえ、いちおう商業誌ではある文芸誌が
そういうリサイクル工場のような役割を担うのが嫌になった
というのが批評系新人賞停止の理由だとおもうけど?
ジャンル特性上もめごとが多そうだし
じっさい、せまい業界向けの文芸時評程度でもいろいろあったし

120:群像評論賞最後の応募者(一次まで通過)
22/02/05 01:47:25.07 Lf/No3Dx.net
>>119 てか要は文芸批評に需要がなくなったってだけのこと(悲) 代わりにこういう5ちゃんスレがかつての批評のいわば「短歌」「俳句」版になってるってことで、その辺は多分110さんも分かった上で、半ば諦めのレスしてるってことじゃないかな
それから(あえてまた蒸し返すけど) >>90 さんや >>94 さんはどうして大江(的ヒューマニズム)に「しがみつく」んだろう? 大江の言うこと聞いてると、結局「ヒューマニズム=お涙頂戴=正義の押し売り」ってことでしかないじゃん

121:吾輩は名無しである
22/02/05 08:13:38.59 lx2+mGsV.net
>>117
下村など近代の超克系の人たちは結構方向性が近いですね
ですか、いわゆる京都学派の仏教理解はかなりおかしいです
僧兵や日蓮、ロンヒギャなどについては、先に述べたように退廃や非仏教と考えます
ロンヒギャなどイスラム問題は難しいものがありますが、排斥運動している僧はおかしいと思います
ミヤンマーはテーラワーダの最も生きた国ですが、そういう僧もいるでしょう
中共進攻以前のチベットは大乗の最も生きた国と思われますが、その中でも悪霊派が大いに力を振るったことからも、いつの時代も聖者は希だということでしょう。
ともあれ、仏教が世界平和の希望であることは確信しています。

122:群像評論賞最後の応募者(一次まで通過)
22/02/05 12:50:50.47 Lf/No3Dx.net
 人口爆発の問題がある以上弱者や老人は流行り病で死んだほうがいいってのは、ある意味真理かもしれんが決して救済ではない(まあ、現実の世界で人が人に出来るのはあくまでも「助け」であって「救い」じゃないけど)
 丸山真男のいうことで個人的に一番ヤなのは「悪」よりは「偽善」って考え お釈迦様はカンダタのあとに大勢の亡者が糸を掴んだとき、カンダタが「来るな!」って言ってくれるのを待ち焦がれてたに違いない 文学者が「悪人」をやめてただの「偽善者」になってしまったら、そしてそんな文学者が世界的な勲章貰ってしまったら、そしてそんな文学者を文芸評論家が肯定・礼賛するようになってしまったら、批評は勿論のこと文学そのものも、もう終わりだ

123:吾輩は名無しである
22/02/07 15:51:38.11 sZLvAb4S.net
>>122
URLリンク(ci.nii.ac.jp)
上はポレミックで優秀なインド学研究者による『蜘蛛の糸』批判の最新のもの
文献学としては明解で妥当だと思います。
ただし、この学者および19世紀欧州文献学者が仏教が分かっていたとは思いません。
この方法はルネサンスの源泉へ(ad
fontes)運動を取り入れたプロテスタントの、聖書原典探求、カトリック批判を植民地主義とドイツのアーリア主義に応用したもので、言語分析や文献批判は見事ですが、それで法(ダルマ)になるとは思えません。
例えば、無我をアイデア、命題と捉えていて、それを信じることで助かると書かれていますが、それでは助からないでしょう。もちろん、信じないよりいいですが。
その意味で19世紀欧州文献学者より、ヴィパサナを実践しているユヴァル・ハラリの方が仏教を知っているし、批判される大拙の方が仏教を知っている、さらには前に紹介したマチウ・リカールなどの実践者の方が知っていると思います。
ですが、確かに芥川よりの学者および19世紀欧州文献学者の方が仏教に近いと思います。
その論文に書かれるようにお釈迦様は縁ある人に教えを説くだけで、相手が求めもしないのに自分の意志で糸を垂れるようなことはありません。
まして、お釈迦様が〈「カンダタ「来るな!」って言ってくれるの待ち焦がれてい〉ることは有り得ません。
まあ、私が言わせたようなものですし、芥川の作品はそう考えてもしかたないように書かれているので、学者は批判しているのですが、
そういう皮肉は言わない方がいいですよ。私に対して言ってもかまいませんが

124:群像評論賞最後の応募者(一次まで通過)
22/02/07 20:14:05.27 0RZ6SL9h.net
 もともと文芸批評スレだったはずのこのスレ、90番代辺りから「正しい本来の仏教とは何かスレ」にすり替えられてしまい、しかもこのしょーもないスレチ行為に結果的に私も加担してしまっている(恥) だがそんな詰まんないことに関心があるのは実際、宗教学専攻の好事家インテリかファナティックな坊さんだけだろう(もっともアンベドガルの仏教が単なる「回帰」かそれに留まらないある種の革新運動なのかは個人的には興味深い ただ、いわゆる「畜生」戒名をうっちゃって来た私達日本人の大多数には、それは結局他人事でしかないというのが現実なのだ)
 「蜘蛛の糸」のお釈迦さんが必ずしもホントのそれじゃないなんてことは高校生でも知ってるし、そんなことはどうでもいい 問題なのは現代文の授業で私達は皆、「あんなこと言うカンダタが一番悪い」と「教えられる」ことなのだ (話がすっ飛ぶが)トランプの移民政策を批判してたバイデン(ハリス)は今頃内心、「芥川のお釈迦さん」を心底羨んでることだろう お釈迦様を責める人はいないのだから
 そして丸山や大江といった戦後民主主義者は、おそらく仏教か儒教のいずれか(もしくは両方)に端を発するだろう「悪よりは偽善」という観念を受け入れることで、(長期的には)戦後の思想・文学を確実に腐らせてきた この場合の「腐食」「頽廃」は必ずしも近代主義とは関係ない 近代主義者としての丸山を一本調子に批判(=擁護)する人にとって、私がこのスレで繰り返ししつこく問題にしていることは(傲慢の誹りを承知で言えば)理解不能の問題でしかないのだ
 つまるところ「悪人は自らの悪を自覚する可能性を持つが、偽善者は自らの偽善を自己欺瞞の中に隠蔽する」ーーこのアポリアは文芸批評のものではあっても好事家のそれではない(無論それは「悪人正機」や「罪なき者石を投ぜよ」に通じているけれども)

125:吾輩は名無しである
22/02/07 20:58:25.81 sZLvAb4S.net
>>124
アベンドカルは唯の仏教に仮託した平等運動、伝承もないし輪廻否定してるので
マルコムXとかキング牧師に近い

126:吾輩は名無しである
22/02/07 21:01:01.21 sZLvAb4S.net
>>124
仏教で偽善つかってる人は偽物
まあ、いいやここで止めとく
スレ違い失礼

127:吾輩は名無しである
22/02/07 22:14:16.02 INs8ACAS.net
>>124
要するに釈尊をああ描いた芥川が悪い。
すまん、一つ重要かもしれないので最後に追加しときます。
それまで重視されてなかった悪人正機、歎異抄を使ってプロテスタント化したのが清沢満之
それが倉田百三などによって流布され、仏教の核心のようにいわれるが、歎異抄は自著でなく、蓮如以前に痕跡すらなく、清沢以前は重視されてない
流布してる説は、ほとんどプロテスタント的なので仏教とは思えないし、真宗で妙好人などを出していた生きた伝統とは全く違い、この流れからは、妙好人は出てないように見える。
つまり、結果が出せない誤ったものと思います

128:群像評論賞最後の応募者(一次まで通過)
22/02/08 00:08:12.71 T2bFIyx/.net
 実は私、アンベドガルについてはほぼなんにも知らない ただかつて野間宏が沖浦和光との対談でアンベドガルについて延々とくっちゃべってたのに目を通したことがある そのとき野間があたかもアンベドガルこそ真の仏教者であるかのように持ち上げつつ、彼が社会主義(=スターリニズム)に批判的だったことについてはほとん触れない姿勢に「これだから政治的な文学者はーー」と若干失望した覚えがある
 仏教が「輪廻」の概念をバラモン教から引き継ぎつつ、一方で「解脱」を唱えたのはおそらく事実だろう そしてその宗教史的事実こそ仏教が結局カーストをそのものを否定出来ず、ヒンドゥーの「付録」になり果て、我が国における差別戒名にも繋がっていった原因でもあろう 多分アンベドガルはこの事実を薄々知ってたからこそ、そして反面で社会主義にも与しえなかったからこそ、「輪廻」を頑なに斥け、その否定こそが真の仏教であるといわば強弁したのだろう(マルコムXはムスリム組織からの離脱後も自分をイスラムと思っていたのか?)
 私の実家が一向宗(浄土真宗という言い方はコンプラ的に法然の浄土宗との関係上よろしくないらしいので、ここではあえて古めかしい歴史用語を用いる)の檀家なこともあって同宗派については乏しいながらも知識がある 「歎異抄」が親鸞死後のものだということぐらいは知ってるが、悪人正機が蓮如以前に遡れないというのはホントだろうか 仮にそうだとしても基本的に「救いの対象者が誰かは初めから決まってる」とするプロテスタントと「悪人こそはーー」という「近代的(?)一向宗」はホンマに類似品なんだろうか?
 個人的には、「正しい仏教」なんてことはどーでもよくって、アンベドガルや明治以降の一向宗がなぜああいう教えを仏教として主張したのかが少し気になる(この問題も文芸批評というより社会批評、オピニオンというべきなのかもしれんがーー) それは私が大江の「戦後民主主義」に「多事争論」よりも「同調圧力(=空気読め的な)」しか感じないこと、そして「もともと民主主義はこんなもんじゃない もしこれを民主主義と呼ぶなら、もう民主主義なんか要らない」と思ってしまうことと、多分どっかで関わってる

129:吾輩は名無しである
22/02/08 03:20:34.01 l672CwT4.net
アンベドカルは不可触民を差別しないのが仏教なので利用した
清沢は江戸以来の反仏教思想と外来の科学的プロテスタントの批判の中で、廃仏毀釈が起こり、仏教が滅亡の危機にあったので、プロテスタント化を図り精神主義というものを唱えた
その根幹に歎異抄を用いたと考えます
それがインテリ層に受けた。
なので、方便としては一時的にしょうがなかったとは思います
問題は未だにそれを正しいとしてるとこ、安田理深みたいによりプロテスタント化を正当とするような人もいて、彼のような人が尊敬されてるとこですね
歎異抄が蓮如以前に遡れないのは調べた限りそうです。
少なくとも最古写本は蓮如本なのは確実です。
覚如、存覚、高田門徒などの現存本にも言及されません。
江戸期でも註釈が数点あるだけで、中心的なものではないように思います
私としては清沢と同時代の七里恒順師のような方の教えが真宗の本質と思います。彼は有名な妙好人も育てていて、行動と教えから本物と思われます


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