【早稲田大学】渡部直 ..
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451:吾輩は名無しである
18/08/21 22:46:48.50 qwNtIREl.net
野村崇明
絶賛炎上中の福嶋亮大によるRealTokyoでの時評、(石原千秋と渡部直己はまた別問題として)
北条裕子・佐々木敦・藤井光への批判は、現代批評における対立点が明確に示されていて興味深い。
これは『神話が考える』と『ターミナルから荒地へ』の間にある、グローバリズムへの意識の対立が齎したものだ。
グローバリズムを所与の条件としながら、それをハッキングして都度新たなゲームを立ち上げていく
(過剰流動性の中で特異性の領域を立ち上げるの)か、
それともローカル/グローバルの対立が中性化された「飛行機」を故郷とし、
共感可能性の拡張を行うのかという対立は、「私」を巡る対立でもある。
あるいは『ゲーム的リアリズムの誕生』と『21世紀のアニメーションがわかる本』における、
一回性の扱い方の対立とも相似形であり、後者の著者の博論審査会において、
フェミニズムの視点から批判が行われた事実ともよく似ている。
いずれにせよ、ポスコロが批判したものを所与の条件としつつ、
そこにハイブリッドな「私」性を立ち上げる動きというのは、いわゆる「パースペクティズム」の問題でもあり、
私でもありあなたでもあるような「新しい『私』」の問題でもある。その意味において、
福嶋亮大が佐々木敦の(おそらくなんでも褒めているように見えるところを)問題としたのは、不当に見える
(『例外小説論』や『新しい小説のために』において、
既存の基準では評価しきれないが佐々木が褒めた作家たちについて、
氏は読解の基準を立ち上げている、という意味で)。
特異性か、自己であり他者でもある「私」の利用かという対立は、
だがグローバリズムという傷への、防御の二つの型でもある。
2018年8月20日


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