アメリカ文学総合スレpart5 at BOOK
[2ch|▼Menu]
[前50を表示]
750:吾輩は名無しである
23/03/25 14:21:50.41 2VizmC/4.net
>>748
The New York Times には、screenwriter としての Fitzgerald について
次のように書いている。
As Wilder foresaw, Fitzgerald in the end had even worse luck in Hollywood than writers like William Faulkner and Raymond Chandler, who actually saw a movie or two of theirs be made and in something like the form in which they had written it. In his entire Hollywood career Fitzgerald picked up only a single screenwriting credit, for the 1938 film ''Three Comrades'' (starring Robert Taylor and Margaret Sullavan and based on the novel by Erich Maria Remarque), and even that script was heavily rewritten by the producer, Joseph L. Mankiewicz.

751:吾輩は名無しである
23/03/25 14:24:39.65 2VizmC/4.net
>>748
>>金に困ってハリウッドの脚本作家に身を落とし、と書かれる始末です。
脚本作家、しかも Hollywood の脚本作家と言えば、原作者の作品をシナリオに書き換えるだけの仕事だから、
小説家や詩人に比べて、軽く見られて当然だと思うけど。
ただし、原作者であると同時にシナリオ作家であるような人は、小説家などと同じく尊敬されると思う。

752:吾輩は名無しである
23/03/25 18:55:36.14 210s8kZo.net
>>749
ありがと。日本語の文献だけという杜撰な調べ方だったので教えていただいた本は全く知らなかった。探してみる

753:吾輩は名無しである
23/03/25 19:11:31.74 210s8kZo.net
>>750
多分これがシナリオ作家としてのフィツジェラルドの一般的な見方でおそらくは正しいのだろうと思う。『三人の仲間』が脚本家としても評価の高かったマンキウィッツに(彼も晩年は不幸だったが)さんざん書き直されたのは有名な話だからフィツジェラルドにはシナリオ作家という職業は向いていなかったのだろう。ひょっとしたら彼自身がハリウッドのシナリオライターを下に見ていたのかもしれない

754:吾輩は名無しである
23/03/25 19:19:39.88 210s8kZo.net
>>751
金に困ったフィツジェラルドが糊口を凌ぐためにシナリオを書き始めたのは間違いない。また成功しなかったのも事実だ。ただ映画は文学の前に額ずくものではないと思っているので野崎孝の見方には反発を感じている。またフィツジェラルドの仕事全体を見る中で彼のシナリオがあまりに無視されているのは(まあクレジットされたのが一本だから仕方がないが〕あまりに片手落ちのように思うので少し調べてみたいと思っている。貴重なご教授ありがとう

755:吾輩は名無しである
23/03/27 10:42:33.43 yts4jSLB.net
ネットで調べたら立正大学の安達秀夫という人か書いた『アメリカ文学と映画』という論文にシナリオ作家としてのフィツジェラルドのことが書かれているというので読んでみた。結論としては面白くなかった。
まず第一にこの人はハリウッド映画のことを知らないし興味もない。取り上げている1917年版のトムソーヤも最初のトーキーのジャズシンガーも見ていない。どちらもその気ななれば容易に視聴が可能だ。まずはその姿勢を疑うし結果として、ようですとからしいですとか論文にはあるまじき言葉が並んでしまう。
第二に肝心のフィツジェラルドについても一次資料を当たらずに孫引きしてしまう。これも上記と同じでこの筆者の姿勢の問題。結果としてあまり得ることのない薄っぺらい論文が出来上がってしまった。こんなものを受理、採択してしまった立正大学にはレベルの低さしか感じない。
>>749が教えてくれたものを早く読んでみるよ

756:吾輩は名無しである
23/04/02 07:48:43.59 /fe1ZM4R.net
フォークナーの部分も読んでみたが相変わらず「らしい」や「ようです」が多く、論文の中で言及している映画も未見の物が多い。肝心の論考もフィツジェラルドのときと同じく『ときにはハリウッドね陽を浴びて』に依るもので書き写しの域を一歩も出ていない。再び言うが立正大学のレベルはこんなものなのか


最新レス表示
スレッドの検索
類似スレ一覧
話題のニュース
おまかせリスト
▼オプションを表示
暇つぶし2ch

435日前に更新/208 KB
担当:undef