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54:、ミジンコ
08/06/03 20:05:07 3fcDkuEE0
スレリンク(archeology板:91番)
スレリンク(archeology板:89番)
    /   _,.-=ニニ二二三三``ヽ、   `ヽ
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        〉、 ミ} l  {ミ;`i、  `=ー    /‐'/|  !  l ト }
        ト、 ミトl l  ト、>! ヽ、__ ,.  イヒ彡ノ|  i^Y^i从
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   l い       | l | `ヽ、_,. -‐ /    l } l__l ! | /
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55:,石像が手にするサーモジェット噴射機
08/06/21 10:15:29 qWcWp2bG0
手がかりは他にもある。1997年春、私はメキシコにいた。「アトランティスからスフィンクスへ」に基づくTV
ドキュメンタリー制作のためだ。われわれは古代遺跡トゥーラで1日を過ごした。かつてトランと呼ばれ
た場所で、メキソコシティから50マイル(約80キロ)北にある。ここはかつてトルテカ王国の都であっ
た。これはアステカ王国に先んずる王国で、紀元700年ごろから900年ごろまで栄えた(だが
その文化は紀元前に遡る)。

トランの重要性は、伝説によればここが二つの神、つまりケツァルコアトルとテスカトポリカの最終決戦が行
われた場所であるとされている点にある。この二つの神は通常はそれぞれ善と悪の緒力を
表すとされる―だがトルテカ人に言わせれば、それはあまりにも単純な見方に過ぎると言う。
ケツァルコアトルは、ヴィラコチャ、コン・ティキ、ヴォータン等々の中南米の神と同一視されるが、彼ははるか
太古に東方からやってきた白い神だという。

私は自分の本で、19世紀のマヤ学者ブラッスール・ド・ブールブ-ルの見解を引用したことがある。彼
によれば、ケツァルコアトルとはアトランティスの生き残りであり、文明の技を携えてやってきた。伝説に
よれば、彼は最終的に「煙立つ鏡の王」テスカリポカ(この鏡は魔法の水晶と同様、遠く離れた
場所の光景を映し出したという)との戦いに敗北し、いつの日か再来することを約束しつ
つ、筏で去っていったと言うのだ。

そんなわけで、私は彼の最終戦争が行われたと言うトゥーラに興味を持っていた。私はまた、
グラハム・ハンコックの「神々の指紋」の一節にも非常に惹かれていた。それによれば、トゥーラにあ
る4つの巨大な石像は、なかなかに興味深いものを手にしていると言う。これらの石像は
高さ16フィート(約4・9メートル)、角錐ピラミッドの頂の台の上に据えられている。このピラミッド
は明けの明星の神殿で、像はかつてこの神殿にあった木製の屋根を支えていた。

1880年、この祭祀遺跡を発見したフランスの探求家デジレ・シャルネは、いくつかの黒い玄武岩
のブロックを発見し、これを巨石像のあしであると考えた。彼はこれを「アトランティス人」と呼ん
だ。トゥーラの4つの巨石像が発見されたのはそれから60年後のことだが、それもまた同じ名
前で呼ばれた。
Wikipedia項目リンク トゥーラ


56:,
08/06/21 10:19:01 qWcWp2bG0
奇妙なのはこの石造が手にしている謎の物体だ。それは彼らの両脇にぴったりと押し付け
られているが、それが何を表したものかを明らかにしたものは誰も居ない。

右手の物体は一見、ホルスターに入った西洋のガンマンの6連発銃のように見える。その銃身が
ホルスターの底から突き出しているのだ。だがその物体を(二本指で)つかんでいる取っ手の部
分は、何かの電動工具に似ている。右手にあるのは、しばしば学者によって矢の束と香料
袋といわれる。だがその平行線は曲がっていて、矢であるはずがない。グラハム・ハンコックは、
それは金属製の何かを表しているような気がすると述べている。

私はこれに強く惹かれたので、ジョイは写真に撮ってもらった。家の帰ってからよく調べた
が、その目的については何の手がかりも得られなかった。多くのガイドブックによれば、
それは投槍器だそうだが、そうみなすのは不可能だ。

後に、ショーン・モンゴメリは、ゼカリア・シッチンの「失われた王国」(1990)の中のトゥーラに関する
一説を指摘した。この本は彼の地球年代シリーズの第4巻だ。立派な学者たちの文献にシッチンの
名が引用されることはない。彼は、地球がかつて外宇宙からの訪問者によって植民地化さ
れたと信じている、エーリヒ・フォン・デニケンの同類と見なされているからだ。シッチンはシュメール
語のテキストに基づいて、これらの訪問者(彼は「アヌンナキ」と呼んでいる)は今から50万年近
く前に、太陽系の第二惑星ビルからやってきて、奴隷として使うために人間を作ったという。
だが、シッチンはある重要な点でデニケンとは異なっている―しっかりした学問的基盤だ。彼の
仮説を支持しようとしまいと、彼は情報源としては無限の鉱脈だ。「失われた王国」の中で、
彼はトランの石像を論じている。それによると、柱形の一つに彫られた彫刻は節に分かれた服
を着ており、一種のバックパックのようなものを背負っていると言う。その手にはトゥーラの
石像と同じ道具―ホルスターに入った拳銃に似たもの―を持ち、その先端を目の前にある岩
の表面に向けている。そしてその「拳銃」の銃身からは激しい炎が噴出している。

57:,
08/06/21 10:29:10 qWcWp2bG0
シッチンは言う、「この人物は火炎放射器を用いて石を整形している」。そして彼は、ジョージア州
のストーンマウンテンにあるモニュメントを掘るのに「サーモジェット噴射機」が用いられたことを指摘する。

サーモジェット・トーチが意思の彫刻に使えるのかどうかはさておき、ブラウン気体がこの目的に使え
るということは厳然たる事実だ。そしてこの可能性をありえないとしてほうきするかどう
かもさておき、トランの神々が手にしている奇妙な物体から、炎のようなものが吹き出してい
るという事実は残るのだ。トルテカ人自身がその技術を持っていたか、あるいは少なくともそ
れを使う神々のことを知っていたらしい。世界の神話に登場する神々はたいてい雷ていを
投げつけることができるが、炎を吹き出す溶接トーチのようなものを持っている神などは、他
に聞いたこともない。

シッチンはトランについてさらに面白いことを述べている。このピラミッドは1940年代に再び発掘さ
れたらしい。その発掘を行った考古学者ホルヘ・アコスタは、テオティワカンの発掘にも携わっている。
このピラミッドの内側に深い溝を発見したのはこのアコスタで、その中に16フィート(約4・9メ
ートル)の「アトランティス人」がいたのだ。そこにはまた、かつて天上の4隅に立っていた4本
の柱もあった。

スレリンク(rikei板:244番) ブラウン気体

Wikipedia項目リンク チェチェン・イッツァ


58:,
08/06/21 10:31:40 qWcWp2bG0
この明けの明星の神殿」の地下には、さらに古いピラミッドが存在している。また完全に発掘
されては居ないが、内室と通路の痕跡が残されている。さらに石で彫られた管のようなも
のがあり、それは部品を組み合わせて作ったもので、直径は約18インチ(約46センチ)。
その角度はピラミッドと同じで、その先端まで通っている。アコスタによれば、それは水を排出す
るためのものだったと言う。だがシッチンは問う、単に排水目的なら粘土の管で十分なのに、
何故わざわざ精巧な石の管を彫ったのか?この石の管は明らかにピラミッドの構造の一部で
あり、その目的の一部である。シッチンは言う、「隣接する多数の小部屋を備えた多層の建物が
残されていると言う事実は、何らかの作業プロセスを示している。さらにまた、古代において、
トゥーラ川の水がこれらの建物の側を流れるように水路が作られているという事実は、この遺
跡において、非常古い時代に、テオティワカンと同様、何らかの浄水施設(金属の精錬のための)
があった可能性を示している」。

この見解は、リビア砂漠のガラスが何らかの産業プロセスの副産物である可能性を示唆するジョン・
ドーウィンとレンネル卿の仮説を思い起こさせる。

シッチンはさらに言う、「あの謎の道具は石を刻む道具ではなく、石を分析して鉱石を採取する
道具ではないのか?つまり言い換えるなら、非常に高度な採鉱具ではないのか?そして彼
らが求めていた鉱物とは金ではないのか?」。

なぜ金なのか?シッチンによれば、宇宙からの訪問の目的は地球の稀少鉱物の採取であり、中
でももっとも重要なのが金だった―科学的な目的のために必要だったのである。彼はアン
グロ=アメリカン・コーポレイションの報告を引用している。同社は考古学者たちに古代の鉱物を研究さ
せた。曰く、「採鉱技術は南アフリカにおいて、紀元前1万年以後のほとんどの時代におい
て用いられていた」。さらに彼によれば、ペルーでもメキシコでも、金は選鉱なべによってさいし
ゅされていたが、「このようなやりかたでは、これらの国々の莫大な宝物量を説明すること
はできない。」

59:,
08/06/21 10:38:31 qWcWp2bG0

Wikipedia項目リンク トルテカ帝国
Wikipedia項目リンク トルテカ文明
Wikipedia項目リンク ケツァコアトル

彼の引用する「ペルーの年代記」によれば、スペイン人は、インカ帝国から、毎年600万オンス(約160
トン)の金と2000万オンス(約560トン)の銀を聴衆していた。彼もまたユル・ブラウンと同様、
彼らは鉱石から希少金属を抽出するはるかに効率的な方法を知っていたと考えている。

さらに彼によれば、明けの明星の神殿の天上を支えていた4人の「アトランティス人」は、ホルスの
4人の息子たちが4つの主要方位でで天を支えていると言う古代エジプトの信仰を思い起
こさせるという。そしてこの4人の神々は、死せるファラオが「天への階段」を登るのに同行
する。ヒエログリフでは、それは一種の階段ピラミッドとして描かれている。トラン・ピラミッドの周囲
の壁を装飾する同じ階段ピラミッドのシンボルは、トルテカ人の跡にやってきた征服者アステカ人にとっ
ても主要なシンボルとなったという。

またシッチンは「羽あるベビ」ケツァルコアトルと、死せるファラオを天に導くエジプトの「羽ある蛇」の間
につながりをしてきしている。シッチンの基本テーゼの一つは、古代エジプトの神々とメキシ
コの神々の間には密接な関係があると言うものだ。


60:,
08/06/29 10:33:02 W5ZVcliE0




ティアワナコの遺跡の建造年代、、、



Wikipedia項目リンク ティアワナコ



61:,
08/06/29 10:35:00 W5ZVcliE0

同じTV番組を制作中、エジプトとメキシコの繋がりを示すもうひとつの手がかりを教えられた。
われわれはボリビアのラ・パスから車を走らせ、アルティプラノと呼ばれる広大な高原を越えて、
アンデスの古代都市ティアワナコに向かった。この聖なる遺跡は、海抜2・5マイル(約4000メート
ル)のところにある。だがティアワナコはかつてはティティカカ湖臨む港都だった。何らかの地殻変動が
大地を傾け、湖を12マイル(約19キロ)も彼方にやってしまったのだ。

ティティカカ湖には今もなお、タツノオトシゴなどの海生生物が豊富だ。つまり、明らかにそれはかつ
ては海面と同じ高さにあった。地質学者によれば、それは今から1億年前のことだという。
だが土地を傾け、ティアワナコから港を奪った大変動が何であれ、それは先史時代ではなく、ティア
ワナコの歴史時代に起こったことは確実だ。

かつての港都の痕跡で、現在残っているのは「プマ・プンク(ピューマの門)」くらいのものだ。
そこには巨石のブロックがナインピンズのように散らばっている。そのひとつには鋸の刃でつけら
れた長い切れ込みがあるが、それはまるでダイヤの鋸で切られたかのようだ。

数百ヤード離れたところに、カラササヤと呼ばれる壁で囲まれた巨大な神殿跡がある。この囲みの
北西隅には、ティアワナコで最も有名な(太陽の門)がある。それはまるでパリの凱旋門のミニチュア
のようだ。この門のまぐさ石には、その中心にある「入り口」に向けて走っている割れ目
がある。だが20世紀になるまで、それは単なる割れ目ではなかった。アーサープナンスキーの古典
作品「ティアワナコ―アメリカの人類の揺籃」(1945-57)所収の写真では、それは文字通りに二つ
に割れている。それが何らかの地殻変動によるものであることは明らかだ。

ティアワナコ周辺を見て回って驚かされるのは、その石造技術の高さだ。100トン以上にもなる巨
石のブロックが精密に切り出され、カミソリの刃一枚通らないほどぴったりと組み合わされている。
だが、プマ・プンクのように、石組みが外れたところでは、しばしば金属製の留め金のような
もので固定されている。恐らく地震でばらばらになってしまうのを防ぐためだろう。同じ
番組に携わっていた天文考古学者のニール・スティード教授は、こうした留め金の一つを調べた。

それは大体長さ6インチ(15センチ)ほどで、大文字Iのような形をしている。教授によれば、
建築家たちは携帯用の加熱炉のようなものを持っていたに違いないという―顕微鏡で調
べたところ、それは融解した状態のまま流し込まれたものだというのだ。


62:,
08/06/29 10:42:11 W5ZVcliE0

そんな携帯用加熱炉のようなものの痕跡はまったく見つかっていない。だが単なる焚き火
などでは、この留め金の金属を融解させるほどの温度は得られない。また、アルティプラノには
燃料となるような木材もない。ショーン・モンゴメリが書いていた、ブラウン気体は数秒のうちに融解
した金属の液体を作ったという話を読んで、私はティアワナコの金属の留め金を思い出した。そ
れはスティードが言うように「携帯用加熱炉」で溶かされたのだろうか、それともトゥーラの柱形
にあったような「溶接トーチ」のようなものが使われたのだろうか。

番組の次の場面は、エジプトのギザの遺跡だった。メンカウラー王のピラミッドから50ヤード(約800
メートル)のところで、私は、精密の掘られたブロックの壁を調べているショットを撮影された。
そして、エジプトもまた、このようなブロックに同様の留め金が用いられているのを指摘した。
グラハム・ハンコックも指摘しているように、それはカンボジアのアンコール・ワットでも見つかっている。

ティアワナコにはもうひとつ、トゥーラと同様の疑問をおこさせる特徴がある―アカパナと呼ばれるピ
ラミッドだ。これはかつて7つの段と水平な頂を備えた巨大な階段状ピラミッドだったもので、
何らかの工業施設か、あるいはヨーロッパ共同市場の官僚の家のように見えたかもしれない。

それはかつてこの神殿の領域を圧倒していたが、長年の間にその平板な石の90パーセント
は土建屋によって持ち去られ、今では一見したところ自然の丘のようになってしまってい
る。だがその頂に登れば、そこに一種の湖があったことがわかる。

だがそれは丘ではない。その内部は、トランのピラミッドと同様、トンネルがあり、用途不明の小部
屋がある。ボリビアの考古学者オズワルド・リベラは、この小部屋をこのピラミッドの「王の間」と
呼んでいる。また石つくりの水路によって水が流され、周囲を濠が取り囲んでいる。ピラミッ
ドの上に降った大量の水は中央の方庭に集められ―それが今では湖のように見える―
おそらく第一段の周囲を巡っていた排水設備に流れ込み、それから外に出て、再び内側に
導かれ、もう一度外に出て濠に流れ込む。頂は湖の水のように見える緑の小石で覆われている。この建物全体が、水のモニュメントとなっているのである。

われわれは、トゥーラに関するシッチンの言葉を思いおこした。「隣接する多数の小部屋を備えた多
層の建物が残されているという事実は、何らかの産業プロセスを示している。さらにまた、、、、、
この遺跡において、非常に古い時代に、テオティワカンと同様、何らかの浄水施設があった可能性を示している」。


63:,
08/06/29 10:44:09 W5ZVcliE0

私はアカパナ・ピラミッドの頂に立ち、遥か南のキムサチャタ山脈を見た。次に周囲に広がる広大な高
原を見渡した。ティアワナコが繁栄を極めていた頃、この場所はどんな風に見えたのだろうか。
200トンに達する巨石ブロックで建造された港のある巨大都市を思い浮かべることはほとんど
不可能だった。どうやってそんな巨石をここまで引き上げたのか?そしてこの湿度の高い
高原のど真ん中の都市はいったい何をしていたのか?それが今とはまったく違っていたと
いうことは明らかだ。何十もの活気のある村があり、人力も豊富だっただろう。

それから何が起こったのか?この不毛な高地に、何らかの巨大な破局が訪れたことは明ら
かだ。とりわけ、それはいつか?

カラササヤの向かいにある博物館と、アラン・L・コラータの「ティアワナコ」(1993)によれば、ティアワナコ
は西暦100年ごろから発見し始め、500年ごろに最盛期に達し、その後は1000年ごろまで
徐々に衰亡していった。だがこれは明らかな疑問を引き起こす。もしそうなら、「太陽の門」
を真っ二つに割り、港の巨石をぶちまけた破局はいつ起きたのだろうか?それは明らかに、
単なる局地的な地震ではない。だが西暦500年ごろにこのあたりにそのような破局があっ
たという痕跡はまったく存在しないのだ。

20世紀初頭、ティアワナコ遺跡の研究に生涯を費やしたアーサー・ボナンスキー教授は、ティアワナコが作られた
のは紀元前1万7000年ごろである、と結論した。彼の推論の根拠は、夏至と冬至の位置を
記したカラササヤの二つの観測点にあった(至というのは、太陽が北回帰線もしくは南回帰線の
真上に来るときを言う)。このとき、2つの至点は赤緯プラスマイナス各23度30分となる。だが
カラササヤが造られた時点では、この至点はわずかに赤道に近かった―正確には23度8部48
秒である。このように回帰線の幅が変わるのは、「黄道傾斜」と呼ばれる地球のわずかな回
転運動のためで、これに基づいてポナンスキーはカラササヤ建造の年代を計算したのだ。すでに見た
ように、彼の結論は紀元前1万7000年ごろであった。

ボナンスキーの仮説は考古学会に大論争を引き起こした。学者たちは彼が何千年も早く見積もり
すぎていると考えたのだ。だが1927年から30年にかけて、ポツダム大学のハンス・ルーデンド
ルフ博士等が率いるドイツ人学者らのグループは、ポスナンスキーの結論を追試し、基本的には合意
した。だが、学会の狂騒に気圧され、最終的にはティアワナコの建造を紀元前9300年にまで引き
下げた。だがこれですら考古学者や歴史家にとっては、なお9000年も古すぎたのだ。そし
てすでに見たように、現在もこの見方が主流となっている。

だが完全にそうであるわけではない。メソアメリカ「の考古学者ニール・スティード教授は、長年にわた
ってティアワナコの調査をした結果、この聖なる都の建造年代を今から1万2000年前とした。そ
して驚くべきことに、21年にわたってティアワナコの発掘に当たったボリビア国立考古学研究所の
オズワルド・リベラ教授もまた、それを認めたのである。


64:,
08/06/29 10:47:44 W5ZVcliE0

これが何故驚きかというと、1996年製作の「人類の起源の謎」というTV番組の中で、リベ
ラはスティードの計算に反対する旨を公表していたからだ。彼自身の見解によれば、ティアワナコの建
造者たちは単に少々ミスを犯したに過ぎない―結局のところ、スティードの論拠はたった21分
の違いに過ぎないのだ。だがスティードは納得しなかった―彼によれば、カラササヤの建造者もティ
アワナコの設立者も正確無比であり、些細な誤りも犯さない、というのだ。

1996年を通じて、リベラはティアワナコの日没を観測し続けた。その結果、最終的に彼はスティードの
正しさを認めるに至った。そこには「些細な誤り」もなかったのだ。日没の計測は日の出
とまったく同じ示度を示していた。かくしてリベラもまた、カラササヤの建造年代を1万2000年
前だと認めたのだ。

1997年、グラハム・ハンコックの「天の鏡」に紹介されているインタヴューで、リベラはティアワナコが失われた
文明によって築かれたものだとすら認めている。そしてこの文明とは「事実上、アトランティスと
考えていいかもしれません」とまで言っているのだ。

ハプグッドが1959年に思いつき、地質学者たちによって無視され否定されてきたアイデアは、
徐々にだが認められつつあるようだ。


65:,古代の天文学「ウリエルの機会」
08/06/29 22:39:10 W5ZVcliE0

Wikipedia項目リンク ストーンヘンジ

スレリンク(min板:72-77番) 古代の天文学「ウリエルの機会」





66:,
08/06/29 22:48:28 W5ZVcliE0
スレリンク(min板:79-96番)

Wikipedia項目リンク  ポルトラーノ

Wikipedia項目リンク ティアワナコ
Wikipedia項目リンク クルディスタン
Wikipedia項目リンク カッパドキア
Wikipedia項目リンク チャタル・ヒュユク

Wikipedia項目リンク アヌンナキ
Wikipedia項目リンク 大洪水
Wikipedia項目リンク エドフ

Wikipedia項目リンク バールベック
Wikipedia項目リンク レバノン
Wikipedia項目リンク ヒュプロス
Wikipedia項目リンク エーディン
Wikipedia項目リンク イェリコ
Wikipedia項目リンク ニップール


67:,
08/07/03 21:12:07 63B+56Tm0





巨大石球は何に使われたのか  、、、

Wikipedia項目リンク コスタリカ石球













68:,
08/07/03 21:16:34 63B+56Tm0

これらの問いに対する答を、ほとんど偶然に提唱したのは、コスタリカの若き教授アイヴァー・
ザップだ。彼はもともと世界最大の謎の一つ―コスタリカの石球に挑戦してきた

それが発見されたのは1930年代初頭のことである。ユナイテッド・フルーツ・カンパニーが、中央アメ
リカはコスタリカの南東部、ディキ・デルタと呼ばれる一帯に、バナナのプランテーションを作ろうとジャングルを
切り開いていた。木々を切り倒し、焼き払いながら進んでいた労務者たちは、巨大な石の
半球が地面から突き出しているのを次々と発見し始めた。苦労して掘ってみると、それは
巨大なビーチボールのような球体だった。ビーチボールと違うのは、それが花崗岩で出来ていたと
いう点だ。最大のものは直系9フィート(約2・7メートル)以上、最小のものはテニスボールほどの大
きさだった。

明らかに、これらの球体はかつてさまざまな宗教施設の一部をなしていたものだ。土塁の
上に安置され、周囲を石柱や彫刻で囲まれていたらしい。だが驚くべきことは、これを製
作した人々の技術の高さである―その多くは完全な球体であり、表面は紙のように滑ら
かだった。

この巨大な石球は確かに奇怪なものではあったが、それには人々の好奇心を急速に枯渇さ
せる何かがあった。コスタリカの大都市であるサン・ホセよリモンの金持ちは、これを自宅の庭に運ば
せたが、それによってその最大のものは重さ20トンに及ぶことが分かった。小数の考古
学者たちはそれを見て首をふり、これは太陽か月、あるいはその両方を表しているのだろ
うと述べて、それきりだった。

10年ほど後、アメリカの考古学者サミュエル・K・ロスロップは、美しい妻と休暇を過ごすためにディキ
地方を訪れたとき、パーマー・スルの庭にこの石球を見た。しかもそれは数百個もあり、それが
何であるかを解き明かした者は誰もいないと聞かされた。つまり、解くに値する謎だ。そ
してたまたまロスロップには、暇な時間があった―彼は目下、コルテガ族の陶器の発掘に取り込
んでいたのだが、盗賊の出没で、その作業の継続が困難になっていたのだ。彼はこの興味
深い謎の解明に取り組むことに決めた。


69:,
08/07/03 21:27:26 63B+56Tm0

研究は遅々としてはかどらなかった。この滑らかな球体には、文字通り引っかかりが何も
なかったのだ。だがついに彼は、元のままの位置にある石球を調べに出かけ、それらがし
ばしば3個一組で、三角形に配置されているということに気づいた。また場合によっては、
45個の石球が直線状に配置されていることもあった。だが3角形のほうは非常に不規則

で、しばしば異なる大きさの石球で構成されていた。
そこには何らかの意味、隠された暗号があるに違いない。だがその意味は見当もつかなか
った。彼はハーヴァードのピーボディ研究所の後援で石球に関する論文を書き、もっととりつく
島のある謎の追求に戻ってしまった。彼以外に、この謎を追及した考古学者はなかった。
というのも、あの短い論文だけで、ロスロップの好奇心は枯渇してしまったからだ。

さらに30年のときが流れ、石球のことを思い出すものも居なくなったかと思われた。だ
が1981年、コスタリカ大学の若き建築学教授が、まったく異なる観点からこの石球の謎に挑
もうと考えた。彼の名がアイヴァー・ザップ。その着想の源は、イギリスの研究家ジョン・ミッチェルの著
作である。ジョン・ミッチェルといえば「レイ・ライン」だ。レイ・ラインとは、イギリスの片田舎を、まるで
運河のようにまっすぐ走る直線路のことだ。ザップはディキ・デルタの石球が描く長い直線を思
い起こし、こう考えた。

ここでザップの推論を追うためには、先にジョン・ミッチェルとレイ・ラインについて説明しておく必要
がある。

この直線が「発見」されたのは1921年のことで、発見者はイギリスの実業家アルフレッド・ウォト
キンズだった。彼はヘレフォードシャーのブレッドウォーダインの近くで馬に乗っていたとき、いくつかの古
い小径がヤのようにまっすぐに何マイルも伸びていることに気がついた。それらはしばしば
丘の頂に向かっていた。突然彼は、イギリスには何百というこれら「古の直線道」が縦横に走
っているのではないか、と思い至った。彼はこの直線路を「ley」または「lea」と名づけ、
ブリテン島の最初の住民たちの交易路であったと考えた。

ジョン・ミッチェルがこの問題に関わってくるのは1960年代半ばのことだ。そのきっかけは彼
が空飛ぶ円盤に興味を持っていたことだ。ミッチェルは、空飛ぶ円盤の多くがレイ・ラインの近く、
特にいくつかのレイ・ラインの交点で目撃され、またレイ・ラインは地上からよりも空中からのほう
が見分けやすいという興味深い事実に気づいた。


レイ・ラインみつからねーや、、、。無いんですね、、、。


70:,
08/07/03 21:29:40 63B+56Tm0
Wikipedia項目リンク ダウジング

中国にもまた「龍脈」と呼ばれる同様の線があり、それは「天地の気の経路」とされてい
るということを知ったミッチェルは、レイ・ラインもまた何らかの「大地の力」の流れを示すもので
はないかと考えた。例えばダウザーはダウジング・ロッドやペンデゥラムの反応によってレイ・ラインを探
知することが出来る。

また、レイ・ラインはしばしば、埋葬塚や古い教会、ストーンヘンジのような古代遺跡などの「聖なる
場所」を通過している。

アイヴァー・ザップにとっては、ティキ・デルタの石球はストーンヘンジの巨石と同じ問題を投げかけてい
るように思えた―さらに言うなら、大ピラミッドの巨石ともだ。それらはどのようにして、
これほど完璧に造形されたのか?そしてどうやって運んだのか?石球の一部はコスタリカ沿岸
の高山でも発見されている。大多数のチームを組んだとしてもそれを転がして山頂まで運搬す
るのは不可能に思える―あまりにも困難であり、かつ危険だ。

ザップは学生たちを連れてディキ・デルタに赴き、この謎を解こうと試みた彼らは途方に暮れた
が、そのうちに一条の光が見えてきた。ロスロップは、石球が博物館や庭に移される前の状況
を図に残していた。それを見たザップは2つの3角形の一辺が直線状に配置されていること
に気づいた。そしてその直線路は、まっすぐ磁北極を指していたのだ。

もしそうなら、残りの2辺もまた地球上の何らかのポイントを指しているのだろうか?

彼はこの思い付きを地図上で検証しようとして、定規で直線を延長してきたが、結果には
がっかりさせられた。直線は特に何かを指しているというわけではないように見受けられ
たのだ。だがそのとき、当然ながら、地図というものは地球の円い表面を平面に投影した
ものに過ぎないということに思い至った。ザップはもう一度、今度は巻尺と地球儀で同じこ
とをやってみた。するとただちにそれが自己欺瞞ではないということが判明したのだ。球
体が発見されたパーマー・スルから延びた一本の直線はまっすぐココス島を指し、さらにガラパゴス
島を通ってイースター島に達していた。そういえばイースター島でも、コスタリカの巨大石球よりははるか
に小さいが、同様の石球が発見されている。


71:,
08/07/03 21:33:04 63B+56Tm0

だが、この「サイトライン」についてさらに調べていくうちに、ザップは疑念を抱き始めた。その
直線は、実際にはイースター島から42マイル(約25キロ)ほど外れていたのだ。だがその後、
彼は自分の確信を強める事柄を思い出した。ポリネシアの船乗りは、彼や雲の様子を見ること
で、70マイル(約112キロ)先の島の存在を知ることが出来る。島の存在がそれらに
影響を及ぼすのだ。また彼らは、アジサシやクロアジサシなどの陸生の海鳥の存在にも注目する。
そんなわけで、二つの島を貫く7000マイル(約1万1200キロ)の直線がたった4
2マイルの誤差でイースター島w

お指しているというのは、10分ヒットと見なせるのだ。

彼の疑念は、他のサイトラインを調べることで完全に晴れた。同じ3角形のほかの辺は、大西洋
を越えてジプラルタル海峡を指していた。また別の3角形では、辺は正確に大ピラミッドを指して
いた。あるいはまた別のものは、南イングランドを指しているのみならず、正確にストーンヘンジ
を貫いていたのだ。これは偶然ではありえない。


つまりアイヴァー・ザップはコスタリカの石球の目的を解明したのだ。それは航海のための指標だっ
たのである。そうであれば、その一部が平地に直線状に並んでいたり、海を見下ろす山の
上にあったりする理由も解ける。また、太平洋を望むコスタリカ南岸沖のカノ島で、本土よりも多
くの石球が発見された理由もわかる。

ロスロップもまた、これらの石球がしばしばインディオの墓地と関係するところで発見されるとい
うことに気づいていた。そこで彼は、それは死者に対する何らかの儀礼であったのではな
いかと考えていた。だがもしもそれが実際に方向の座標であるなら、それは墓地の近くに
置く意味も分かる。船乗りは、死んだ航海士の霊に導いてもらうことをねがったのだろう


72:名無し遺産
08/07/08 18:10:47 /C4kqhIE0
test

73:名無し遺産
08/07/15 02:27:01 kXiIbytsO
URLリンク(www.noromasu.halfmoon.jp)

74:,水晶髑髏
08/07/16 21:34:42 AWvF8Cav0
Wikipedia項目リンク 水晶髑髏

この「水晶髑髏」は西暦700年ごろのもので、1927年、マヤの神殿から発見された
といわれていた。発見者は探検家F・A・ミッチェル=ヘッジスの養女、アンナ・ミッチェル=ヘッジスである。
マヤ人の子孫である地元民に寄れば、この髑髏は病気治療や呪殺目的で用いられていたと
いう。だが、どういうわけか、ミッチェル・ヘッジスはこの髑髏については自伝の中でも口をつぐ
んでいた。

悲しむべきことに、実はこの髑髏はマヤの遺跡ではなく、ルバントゥムで発見されたものであっ
たことが後に判明した。しかも、これを発見したといわれていたミッチェル・ヘッジスは、実は1
944年に400ポンドでこれを買っていたことが、大英博物館の記録から明らかとなっ
たのである。

だが、これが世に出た経緯はどうあれ、この水晶髑髏が正真正銘の本物であることは間違
えない。その原料である水晶はカリフォルニアのカラベラス郡のもので、ヒューレット・バッカード社研究所の
レーザービームによる調査の結果、これは300年以上の年月をかけて一つの巨大な水晶から磨
きだされたものであることが判明している。

また、この髑髏は内部にレンズを挿入されたかのような、奇妙な科学的効果を示すことが
知られているが、もしもそれが意図的なものなら、その製造にはきわめて高度な技術が用
いられていたことがわかる。6年にわたってこの水晶髑髏を研究したカルフォルニアの美術管理用
員ランク・ドーランドによれば、それは1万2000年以上も前に作られたものである可能性が
あるという。さらに、ドーランドがこれを一晩自宅においておいたところ、ポルターガイスト現象が
発生したという話まである。

いずれにせよ、これがルバントゥムに由来するものであるということで、その意味はさらに重要
なものとなったことはいうまでも無い。

75:,精巧な長首瓶と砂漠のガラス
08/07/26 20:41:16 P1pRpJSf0



「古代の海王たちの海図」の最終章は「消えた文明」と題されている。その章の冒頭でハプ
グッドは、古代の海図が「きわめて遠い過去、現在知られているいかなる文化よりも以前に、
真の文明が存在した、、、、、それは全世界規模の文化だった」ことを示しているー−との確
信を繰り返し述べている。そして彼は警告の言葉を発する。

若いころ、私は単純に進歩を信じていた。人類がひとたび進歩の里程標をひとつの道にお
いて通過してしまえば、その同じ里程標別の道において再び通過するということなどあり
えないと考えていた。ひとたび電話が発明されれば、それはずっと存在し続ける。もしも
過去の文明が消滅したとするなら、それは彼が進歩の秘密を学ばなかったからである。科
学は恒久的な進歩を意味している。そこに逆行は無い、、、、、、この関係は永遠に続くのだ、
と」

だが古代の智頭はその思い込みとはまったく違うことを教えてくれた、と彼はいう。すな
わち、進歩と逆行することがありうるということだ。

ナイルを遡行する私のたびもまた同じことを教えてくれた。古代エジプト人は特定の事柄
に関して、現在のわれわれよりももはるかに多くのことを知っていた。そしてその知識の
ほとんどは失われてしまったという事を。



76:,
08/07/26 20:42:45 P1pRpJSf0

考古学者fゥリンダーズ・ピートリーは、1890年代にそのことを示すなぞに満ちた実例に遭遇し
た。ナイル湖畔のナカダと呼ばれる材を発掘していて、彼が発見した陶器とビンはきわめて高度
なものであったので、彼はこれを紀元前2000年ごろの第11王朝のものと考えた(つ
まり大ピラミッドの500年後だ。)だがその王朝史にはそのような民族の痕跡が無かった
ため、彼はこの民族を「新人種」となづけた。そして、紀元前3000年の墓所からまっ
たく同じ陶器を発見した彼は、「原始人」がどうやってこんな高度な陶器を作れたのかを説
明しようとはせづに、彼の年代記から「ナカダ」を省いてしまった。

紀元前2650年ごろに造られたとされるサッカラの階段ピラミッドで長首瓶が発見された際
も、同じような問題が生じた。その瓶は水晶、閃緑岩、玄武岩などのような結晶化した素
材から掘り出されたものだった。考古学者は首をひねった。これを作った職人は、どうや
ってその瓶の内側を削ったのだろうか?

このような加工のためには、長い首の下のほうまで届く長いドリルばかりだけではなくー
−その首は子供の指すら通らないほど細かかった―きわめて細部に内側を削ることがで
きる何らかの道具が必要だ。そこで、職人たちはクリスタルを粘土程度にまでやわらかくしたり、
あるいはガラスのように溶かしたりする何らかの手段を持っていたのではないか、などとい
うありえない想像もしたくなる。古代エジプト人は明らかに今は失われたテクノロジーを持って
いた、と。1957年、ハプグッドはこれと似た問題に助言を求められたー−リビア砂漠のガラ
スのなぞだ。このガラスが世に知られるようになったのは、その4半世紀ほど前、1932年、
12月のことだ。2人の英国人が、砂漠の中の砂の無い回廊のような道を車で走っていた
(実際にエジプトにはそういう場所がある)。エジプト砂漠測量局のパトリック・アンドリュー・クレイントン
と、その友人で大英博物館の鉱物管理者であるレナードスペンサー教授だ。


77:,
08/07/26 20:44:36 P1pRpJSf0
運転中、彼らは地面になにやらキラキラするものにあるのに気づいた。それは美しいガラス片で、
大きさは豆腐程度から卵ほどのものまであった。スペンサーはそれらをテクタイトだと考えた。テクタイ
トというのは一種のガラスで、おそらく隕石として地球に飛来したと考えられている。なぞと
いうのは、そのテクタイトが地表面に露出していたことだ。通常、隕石というものは地中に埋も
れた状態で発見されるのである。

2人はこの美しいものをー−アラブの職人はジュエリーの材料として珍重していたー−

1ハンドレッドウェイト(約50キロほど集め、カイロに持って帰った。だが詳細に調べれば調べるほど、
それはますます奇妙な物体であることが判明した。第一に、その一部は意図的に打撃を加
えたような割れ方をしていた。ちょうど、先史時代の手斧の側で発見される火打石の破片
に似ていたのである。もう日とつなのぞは、その量だ。テクタイトというものは比較的希少であ
り、ハンドレッドウェイト単位で見つかったりするものではない。

化学分析の結果、それはテクタイトなどではなく、砂漠の砂と同じ珪素でできているということ
が判明した。では、なにがそれを溶かしたのか?あたりにはクレーターの痕跡はなかった。

ひとつの興味深い標本が、この問題に関して奇妙な選択肢を示していた。それはレモンほどの
大きさだったが、きれいな穴がまっすぐに貫通していたのだ。まるで、それがまだ溶解中
に、誰かが金属棒を突っ込んだかのようだった。そしてさらに二つの穴が、「試錐孔」の様
に途中までうがたれていたのである。

全体として、それはあたかも人間の手で作られたガラスのような風情だったのだ。その中に
含まれるいくつかの気泡は、ちょうど溶解中に外力を加えられてねじられたかのように、
奇妙な形に引き延ばされていた。クレイトンとスペンサーは1933年、これを王立地理学協会で発
表した。群衆の中にとりわけこれに興味を引かれた人物がいた。名はフランシス・ジェイムズ・レンネル。
彼にロッド男爵レンネル卿となり、王立地理学協会の会長を務めることになる人物だ。


78:,
08/07/26 20:46:55 P1pRpJSf0

彼は第一次世界大戦中にエジプトで参謀将校を務め、後にはサハラ砂漠探検にも加わった。
そしてリビア砂漠のガラスのなぞにとりつかれたのだ。

これを造ったのはいったいどういう人間なのだろうか?その地域の岩面彫刻は紀元前55
00年ごろのもので、漂泊民が描いたとされる。もしも彼らがあのガラスを作ったのだとし
たら、紀元前6000年期のこの周辺にはかなり高度な文明が存在していたということに
なる。

50年代末、ネンネルは英国原子力公社のチーフ・エンジニアであるジョン・R・Vドーフィン博士にこのな
ぞについて話した。するとドーフィンは、かつてオーストラリアの砂漠で似たようなものを見たことが
あると言い出した。だが彼はそれがどうやってできたものかを知っていたー−核実験の産
物だというのだ。

ドーフィンはオーストリアのガラスをレンネル卿に見せた。卿は、それが驚くほどリビア砂漠のガラスに似てい
ることを認めた。リビアの試料と同様、ドーフィンのオーストリアのガラスにも、事実上まったく水分が
含まれていない。形成時の異常な高温がその原因だ。ドーフィンの試算によれば摂氏6000
度に上るという。



79:,
08/07/26 20:51:13 P1pRpJSf0

これによって、このなぞに新たな次元が加わった。色つきガラスは錬金術師たちが夢中にな
ったテーマのひとつであり、錬金術はギリシア=ローマ時代のエジプトでも、また古代インドや中国でも
研究されていた。だが、錬金術師の実験がこれほど大量の試料を作り出したのだろうか?
あるいはこのガラスは、何らかの工業プロセスの副産物だったのだろうか?このガラスは、古
代エジプト人に先ずる人々が、原子力を使っていたことを示しているようにも思われる。
それが制御不能となり、爆発を起こしたのだろうか?

レンネル卿はその可能性を真剣に考えた。彼自身、古代エジプトで作られた純金製の首飾りを
所有していたからだ。通常の冶金技術では、不純物のすべてを除去することはできない。
つまり純金の精錬は不可能ということになる。現在では、金の精錬には科学処理法が用い
られるが、その方法は古代世界では知られていなかった。もうひとつの方法は、ちょうど
酒を蒸留するのと同様、気化するまで金を熱し、これを冷まして不純物を除去するという
やり方だ。だがこの方法にはきわめて高い温度が必要となる。超高温を工業プロセスで用いる
には大量の水が必要。そしてリビア砂漠には水が無い。だが、この砂漠は過去もずっと乾燥
したままだったのか?




80:,鳥に変身して地上絵を見る
08/07/27 08:16:30 wRyDo9ND0
Wikipedia項目リンク ナスカの地上絵

カラワヤ族の故郷から西へ300マイル(約480キロ)行くと、ナスカ平原がある。巨大な鳥や動物の
絵、直線や幾何学模様などが地平線のかなたまで広がっている場所だ。

この地上絵の存在に最初に気づいたのはペルーの考古学者トリビオ・メヒーア・ヘスペ、1929年のこと
だった。だが、それが世に知られるようになったのは、1940年代にロングアイランド大学の歴史
家ポール・コソク博士が発表して以後だ。

1941年6月、コソクは古代の運河(化成の運河にたとえられてきた線)を探すために飛行機
でナスカ上空を飛び、赤い砂漠の表面に、まず鳥の線画を、つづいて巨大なくもを見た。さら
にコンドル、蝙蝠、シャチ、花などもあった。さらに崖の表面には、900フィート約270メート
ル)に達する人物像がああり、それはあたかも彼をもむかえいれるかのように両腕を広げ
ていた。

コソクはその線画を調べ、後にはドイツの学生マリア・ライトへと合同した。彼女は終世この地にとど
まることになる。彼女はその線画の目的についてはまったく不明としながらも、おそらく
何らかの天文学的な目的を持ったもの、たとえば巨大な暦などではないかと考えた。図案
に関しては、彼女の説によれば、ナスカの原住民が経済的に反映していたころ、彼らは氏族に
分かれており、これらの図は士族の紋章のようなものだったという。

直線と絵は、砂漠の表面の赤茶色の石を注意深く除去することによって造られている。こ
のパンパにはほとんど風が吹かないので、1000年もの間、そのままの姿をを留めていたのだ。
いうまでもなく、その石の年代を測る術はない。だが陶器や墓の副葬品などの工芸品から、
ナスカ族は北の隣人であるモチェ族と大体同時期にいたことが分かっている。


81:,
08/07/27 08:18:55 wRyDo9ND0

最近になってようやく分かってきたことだが、紀元535年ごろ、何らかの破局のために地
球の大気には粉塵が満ち、日光が遮られた。その後、1世紀以上に渡ってさまざまな災害が
起こった。その原因は誰にも分からないが、「破局」(1999)と題する本を書いた考古
学者ジャーナリストのディヴィッド・キーズは、スンダ海峡一帯の巨大火山、おそらくクラカトアの噴火をあ
げている、、、、もちろん、彗星衝突の可能性もある。かくして、厄病と旱魃が世界を覆った。

モチェ族はこの<大旱魃>によって滅びた。おそらくナスカ族にも同じことが起こったのだろう。
あの巨大な地上絵―空中からしか見ることができない―は、神への雨乞いの祈りだっ
たことはほぼ間違いない。

(ナスカの地上絵。空中からしかその形を把握できないこの地上絵は、酸化して茶色になった
表土を掘り、その下の白い沖積土を露出させて描かれている。)

エーリヒ・フォン・デニケンは「神々の戦車」の中で、当然ながらこの直線は宇宙からの訪問者が引
いたものだと述べている。さらに、長い直線は異性人の宇宙船のために滑走路であるなど
述べていることからしても、彼がそれを間近で見たわけではないということは明白だ(こ
んな岩だらけの滑走路では、さぞかしひどい離着陸になっただろう)。1997年の「神々の到
来」においてすら、彼は依然としてこの直線を「滑走路」と呼んでいる。


<大旱魃>が発生したという事実が判明したことによって、直線の目的に関する謎が解け
た。根本的な謎が残っている―これを描いた人々は、もしも熱気球を持っていなかった
のだとしたら、自分の描いたものが思い通りに描けているかどうかということをどうやっ
て確認したのだろうか?

おそらくその答えは、それを確認する必要はなかったということだろう。地上絵は、まず
砂の上に小さな下絵を描き、それをロープと杭のような単純な道具を使って「拡大」したの
だ。

だが最も興味深い手がかりは、パンパに描かれた猿の地上絵だ。猿はナスカ一帯では未知の生
物であり、ペルーのアンデス東方の熱帯雨林原産だ。熱帯雨林といえば―後に述べるが―シャ
ーマンの故地である。そのシャーマンは、われわれが「幻覚剤(サイケデリック・ドラッグ)」と呼ぶものを
使って、肉体の外へ出ることができると主張している。

このような薬物の特徴の一つは、多量の鼻漏だ。また、嘔吐が引き起こされることもある。
そしてナスカの陶器には、鼻漏や嘔吐が描かれたものがあるのだ。ナスカ一帯では、幻覚剤とい
えばサン・ペドロと呼ばれるサボテンだ。


82:,
08/07/27 08:19:47 wRyDo9ND0

この興味深い事実―BBCの「ホライゾン」(質の高いことで知られる科学番組)で述べられて
いた―は、ナスカ人が地上絵をどうやって空中から見たのかという謎を説明してくれるだろ
う。宇宙船―あるいは熱気球―は必要ない。幻覚剤は浮遊感覚をもたらす。すべての
シャーマンが断言するように、巨大な鳥のように空中からものを見ることが可能となるのだ。

ルーマニアの宗教学者ミルチア・エリアーデの「シャーマニズムー―古代の法悦技術」(1951)によれば、シャ
ーマンが世界樹の枝で巨大な鳥に育てられるという話は世界中の神話に去る。エリアーデは言う、
「鳥に変身する能力は、あるシャーマニズムに見られる基本的な特徴である」。シャーマンには、ジャガ
ーからねずみまで、彼を助けてくれる多くの動物、さらに植物がいる。これらは彼の師でも
ある。

「アトランティスからスフィンクスへ」の中で、私はこの伝承がシャーマンと自然の基本的な相互作用を祖呈
していることを示そうとした。たとえばF・ブルース・ラムの「アマゾン上流の魔術師」(1971)
によれば、マヌエル・コルドバというペルー人の若者が、ブラジルのアマワカ族―やはりアマゾン上流― 

に誘拐され、シャーマンとしての訓練を受けた。ホニ・シュマ(アヤワスカの抽出液)と呼ばれる「ヴ
ィジョンのエキス」を飲んだ原住民たちは―コルドバも含めて―共通の幻覚を体験した。

蛇や鳥や動物の登場するそれは、一晩中続いた。「ボアの歌」を歌うと、巨大なボアが森の
おくから現われ、それから別の蛇たち、さらに鳥たちの長い行列が続いた。中には巨大な
鷲がいて、彼らの前で翼を広げ、黄色い眼をきらめかせ、嘴を鳴らした。その後、たくさ
んの動物がつづいた―コルドバは、これに関してはあまり思い出せないという。「なぜなら、
その知識は私の意識から生じたものではないからです」後に、ジャングルキャットの「共有ヴィジョ
ン」を見たとき、コルドバは突然、昔見た黒いジャガーを思い出した。するとそのジャガーが突如
目の前に現れ、一同の間を歩き回った。コルドバは震え上がった。このヴィジョンがコルドバの所
為であることを知った原住民は、彼を「黒ジャガー」と名づけた。

シャーマンになる過程で、コルドバは薬物によるヴィジョンを制御するために歌を用いること―ボ
アの例のように―を知った。ここでもまた、われわれは音楽の深い意味を垣間見たわけ
だ。


83:555
08/08/12 01:17:26 3Pf41sdM0
URLリンク(122.220.238.10)

84:名無し遺産
08/08/21 03:31:53 pU2jc5bJ0
またラッコが暴れているのか。

85:,、、、  シュメールの王都ウルの発見   、、、、
08/09/13 21:57:58 kLQKUVUl0
Wikipedia項目リンク ウル
ギルガメシュ叙事詩によって、ジョージ・スミスは時の人となった―だが彼がその名声を享受した
のはわずか3年に過ぎなかった。というのも、彼はメソポタミアの途上、アレッポでウィルスに感
染して死ぬのだ。だがこのときまでに、彼はアッシュールバニパルの書庫からさらに書版を発見し
ていた。それは世界の創造の物語を書いたもので、聖書の「創世記」との類似は、洪水物
語と同様、驚くべきものだ。

これは世界的な関心を呼び起こした―聖書の物語は、シュメールの原典の焼き直しに過ぎない
のかもしれないのだ。信者たちにとっては、これらの物語は聖書の真実をヴィクトリア朝
の用語で言えば、不可知論者たち)にとっては、聖書もギルガメシュ叙事詩と同様に古代のフィク
ションとすることができた。スミスは万人を幸福にしたのだ。

ボッタ、レヤード、ローリンソンらの発見は、古代メソポタミアへの地滑り的関心を引き起こした。有望な調査
の候補地は、バスラの港から20マイル(約32キロ)北にある典型的な砂漠の丘陵である。
アラブ人はこれをテル・アル・ムカイヤルと呼んでいた。「アスファルトの丘」の意味だ。

それは砂漠を防ぐ遮蔽のほとんど無い不毛な平地にあった。1854年、ラッサムがアッシュールバニ
パルの書庫を発見して2年後、イギリスの役人J・E・テイラーがイギリスの外務省から派遣された大
英博物館のためにその塚を視察するためだ。

テイラーは考古学者ではなく、歴史的建造物の判別に関してはまったくの素人だった。彼にわ
かる範囲で言えば、それは四角い建造物で、かつて宮殿のように見えた。その上にさらに
3つの四角い構造がはめ込まれており、ちょうど階段ピラミッドのようになっていた―この
知らせが文明社会にもたらされると、これこそがバベルの塔なのではないかと考えられた。


86:,、、、  シュメールの王都ウルの発見   、、、、
08/09/13 22:06:19 kLQKUVUl0
これはまったく弁解の余地のない失態だ。というのも、ジョージ・スミスの時代には、ヘンリー・ロー
リンソンはすでにテイラーが送ってきた円筒印章のいくつかを翻訳しており、この塔を築いたのが
ウル=ナンムと呼ばれる人物であることを知っていたのだ。この名前の前半に彼は興味を持った。
「創世記」に寄れば、アブラハムの父はカルデア人のウルという都から家族をつれて出たという。こ
の破壊された塔は、聖都のウルの一部だったのか?そして実際、その通りであることがや
がて判明するのだ。

適切なことに、1922年に大英博物館に指名され、この地に赴いて発掘調査を行ったのは聖
職者の息子だった。第一次世界大戦前、レナード・ウーリーは、シリアのカルケミシュで発掘を行った。助
手はT・E・ロレンスと言う男で、彼は後に「アラビアのロレンス」として知られることになる。

1923年にイギリスとアメリカの合同調査隊が到着したとき、素人目にはアル・ムカイヤル遺跡は待ったく
見込みが無いように見えた。半分は解された塔の周囲には、平坦なビスケット色の砂漠が広が
り、そこに多数の塚が点々としているだけだ。だがウーリーは、シャーロック・ホームズに匹敵する推理
力を持つ考古学会の探偵だった。彼の目に見えていたのは、麦畑に囲まれ、目も眩むよう
な陽光を受けて輝く運河が張り巡らされた要塞都市の遺跡だった。

問題は、中東が緑をなす地であった時代に、こののどかな地域の中心であった神殿、宮殿、
家々を発見することだ。
Wikipedia項目リンク T・E・ロレンス


87:,
08/09/14 06:43:38 XwIsvyr90
その第一歩は、掘割を造る事だった。時は12月、一年で最も寒い時期であったにもかかわ
らず、これによって焚き火の煙のような埃が舞い上がった―ペルシア湾の奥は世界で最も暑
い夏を持つ地域のひとつだ。まず最初に陶器が見つかり、それから建造物の遺跡が発見さ
れた―ジグラットの周囲に半円形に配置された5つの神殿だ。中庭には噴水があり瀝青を塗
布された水桶があった。砂土で覆われた建造物の数だけを見ても、この発掘が何年もかか
るものであることは明らかだった。

神殿区域のすぐ外に古代の墓所があり、紀元前3000年ものと目された。死体は副葬品と共
に埋められていた―鉢、壺、道具類。彼らは死後の世界においてもこれらを使うことに
なると考えていたらしい。

墓所の下には墓穴があり、ここはさらに不吉なものが見つかった。ある石の納骨所の外に
は2台の牛車があり、その轅には牛の骸骨が繋がれていた。牛骨の中には御者の骨があり、
牛の頭蓋骨の近くには牛飼いの骨があった。墓穴の内部には、銅の兜を被り、かたわらに
槍を置いた兵士の骸骨もあった。

女王シュバドのものとされる墓では、平行する二列に並んだ廷臣たちの骸骨と、壊れた竪琴
を持った楽士の骸骨があった。女王の木製の柩台のかたわらには、2人の侍女の骸骨がうず
くまっていた。古代のウルでは、王と女王(あるいは貴族とその妻)は、家臣たちに付き
添われてあの世へ行くものとされていたらしい。争った形跡も無いことから、家臣たちは
自ら進んで、恐らく何らかの薬物を摂取してから絞め殺されたもの、とウーリーは推定した。
Wikipedia項目リンクカルケミシュ
Wikipedia項目リンクジグラット

88:,
08/09/14 06:47:51 XwIsvyr90
女王の墓は贅沢な贈り物で一杯だった。たとえば2つの舟の模型は、一つが銀、もう一つ
が銅で、それぞれ長さ2フィート(約61センチ)あった。頭飾りや鬘もあり、それはラピス・
ラズリ、カーネリアン、金の輪、白樺の葉や花で飾られていた。ウーリーの妻ケイトは居丈高な女で、たぶ
ん気性は女王ジュバトと共通するものがあったと思われるが、ともかく彼女には才能があり、
この女王の頭像を粘土で作り、塗装した。それはカイロ博物館のネフェルティティの胸像と競っている。

3年間の発掘で、ウーリーと作業員たちは古のウルの都を見下ろすことが出来るようになった。狭
い路地、市民のの豊かさを示す二階建ての家(当時の家のほとんどは一階建てだった)アーチ
のある戸口も一般的だった。ヨーロッパでそれが知られるようになるのはアレクサンダー大王以後の
ことだ。ウルは、多くの部屋を備えた広い邸宅に住む、裕福な中産階級の都のようだった。

さらに、幅200フィート(約61メートル)、深さ40フィート(約12メートル)の巨大な
穴が見つかった。その土壌はほとんどが廃棄物と古い灰だった。深さ40フィートもの廃棄
投棄場があったということは、その中身は極めて長期にわたって、もしかすると何世紀に
もわたって蓄積されたということだ。明らかに住民たちは、町の城壁の上からごみを捨て
ていたのだ。

だが、廃棄物のほとんどは年代測定が不可能だった。そこで、発掘6年目に当たる1912年、
ウーリーは多くの穴を掘り、年代のわかりそうなものがないか調べてみることにした。そして
すぐに、彼は仰天するような発見をするのである。

「突如、土壌の性質が変わった。それまでの陶器と廃棄物の層の下に、まったく不純物の
無い粘土があったのだ。それは完全に均質で、その組織から見て、水によって堆積したも
のだった。作業員は、これが底だと考えた。つまりそれこそ、元来のデルタを形成した川の
沈泥であると、、、、」。

だがそうではなかった。9フィート(約2・7メートル)に及ぶ粘土の層の下に、再び廃棄物
の層が出現したのだ―ただし、今度は石器だった。明らかに、より原始的な時代のもの
だ―大洪水によって終わりを告げた時代だ。だがそこには焼成煉瓦が存在していた。つ
まりそれは、泥煉瓦による原始的な村ではない。洪水によって沈んだのは都市だったのだ。


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