青函連絡船 ..
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2:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/04 13:24:14 8CRuiUUc
八甲田丸

3:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/04 17:26:12 a/cLqI9i
摩周丸

4:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/04 17:27:29 T0tAtvZX
うんにゃ、海峡の女王と呼ばれたS型蒸気船の洞爺丸、大雪丸、羊蹄丸、摩周丸

綺麗な勇姿
URLリンク(station.catorea.ne.jp)

5:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/04 23:31:54 OZXWkpig
青函連絡船はトータル205回乗船しました。
学生時代から社会人になっても続いた北海道への足。
最終日の航海はさすがに感無量でしたね。
その後、半年間青函博のために臨時運航されましたが、
それも最後の日、朝、青森桟橋で船内仮眠サービスを終えて、
いよいよお別れの時、案内所で1人詰めていた客室係の方に書いていただいた短歌。
今でも記念の品です。

一番多く乗ったのは大雪丸。次いで摩周丸、松前丸、八甲田丸、津軽丸、羊蹄丸、十和田丸、石狩丸、檜山丸。

6:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/05 05:26:10 tIEHZq+/
あの雄姿をいまでも見ることができる場所があるときいたが、知っている方

7:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/05 09:20:55 45StE/jQ
URLリンク(www.hakonavi.ne.jp)

8:海峡ラーメン
08/09/05 18:55:48 mnb82NMH
連絡船内で切符を買うと(グリーン船室とか)
発行駅のところが船名になっていて感動したよ
船名集めるためにいつもグリーン利用していた

9:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/05 21:21:13 xOuAazmZ
摩周丸については >>7 だが
八甲田丸が青森港に、羊蹄丸が東京の台場に保存されている。
大雪丸は長崎にあったが、この5月に中国に売られたそうだ。

青函連絡船が運航しなくなっていつの間にやら20年。
東日本フェリーも高速船などの健闘むなしく
11月に津軽海峡から撤退らしい。


10:5
08/09/05 22:48:15 nokup9pT
青函連絡船に乗船した時のだいたいの私の行動(若い時の)。
まずとりあえず席を確保。その後、デッキに出て出航風景を眺める。この時間がまず1つの“勝負”!
なぜかって? 出航の時間は多くの旅人がその風景を見ようとデッキや甲板に出てくる。
そこでまずは“め・ぼ・し・い・女・の・子”を物色するのだよ。
特に夏の北海道は今と違って北海道は若い旅人で溢れていたのだ。
キャアキャア言いながらグループで出てくるのが1つの狙いめだったかな。彼女等は何はさておき、
「記念写真」を撮るからな。そこで「写真撮りましょうか?」と、さりげなく声を掛けるのだよ。
ベタなパターンだけれど、一番それが自然な声掛けだった。
あとは1人でボーっと眺めている女性ね。出航後、「螢の光」のメロディが消えて船内設備の案内放送が始まる頃になると、
デッキや甲板にいた人の多くは自分の席に戻って行ってしまう。
そんな時間でもたいがい1人や2人はジーっと海を眺めている女の子がいたもんだ。
好みのタイプだと“勇気を出して”声を掛けるのだ。その時の帰ってきた答え方のニュアンスでだいたいの雰囲気が分かる。
うまく話せそうならしめたもの! ダメならそれは仕方ない。深追いはしないで次を当る!
で、話が弾んできたところで、食事の時間で食堂が開いていればそちらへ、それ以外の時間だったら「サロン海峡」へ。
こんな時なら函館までの時間はあっという間だった。
でも、そういう相手に恵まれなかった時は、することもないから自分の席に戻って寝るしかなかったな。
別にイケメンでもない私だったけど、船旅というものは、なぜか自然にそんな雰囲気にさせるものがあったんだよ。

11:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/05 22:54:13 mnb82NMH
↑ 俺みたいなことやってるなw

>>9
内部はともかく肝心な外観は羊蹄丸がいちばん現役時に近いね

12:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/05 23:01:32 qZP8FoQD
このスレ、微妙に板違いのような気がするのだが…

13:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/05 23:49:07 FLFzBuxE
いいじゃないの。
鉄道好きなら必ず乗るルートだったんだし。
宇高共々、海上のレールですよ。

14:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/05 23:49:27 dvD2QO+K
>>12
これにとって密接な関係がある

北海道の昔の鉄道の思い出を語ろう4!!
スレリンク(jnr板)



15:坂井輝久
08/09/06 02:49:56 Rsr8zudC
洞爺丸台風

16:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/06 12:08:37 OoJ2fUfv
工房の頃、東京から北海道ワイド持って733M長岡夜行で出発し
1日かけて深夜の青森へ、行きが摩周丸で帰りが大雪丸
両方とも深夜便で疲れが限界にきて乗った早々
カーペット席で超爆睡したのでほとんど乗った記憶がない
唯一、船で押したスタンプだけが記念品だ。

17:5
08/09/06 12:15:52 8NPcpgOT
深夜の連絡船。
照明が減らされ、しばしの休眠タイムに船内は異様な程の静寂。潮で汚れて白く濁る窓の外には何も見えない暗闇。
その静寂が到着30分前に終わる。
はじめ目一杯抑えたヴォリュームで、やがて次第にそれは大きくなって船内に響くようになる鳥のさえずり。
そして流れ始める「カッコウワルツ」。
それを機に、照明も点灯して明るくなった船内は俄にざわつき始める。洗面所へ行く人、眠たそうな眼をこすりながら
下船の準備を始める人、それでもまだ居眠りしている人…。
デッキに出れば、遠く函館の街の灯りが暗闇の中に瞬いて見えてきた。東の空はうっすら白み始めた明け方4時前。
夏でもひんやりした空気と心地よい風がこれから訪れる北海道への期待をかき立てる。
船内に戻れば既に下船口は長蛇の列。お尻は客室にまで延々と続いている。
函館に着くと同時に一斉にスタートする席取り競争。そこには年齢、性別のハンディキャップは全くなし。
老いも若きもなりふり構わず桟橋を猛ダッシュ!
しかし、目的地は意外な程遠かった。受ける特急「おおぞら1号」「北海」の自由席は札幌寄りという過酷な条件。
列車が見えてもその列車の編成の先頭まで行かなくてはならない。
先頭を切って逃げ切ろうとした兄ちゃん、大きな荷物で途中で息が上がって次々と後続に追い越されていく。
完全にペース配分の失敗…。傍らでは小さな子供が泣こうが喚こうが、母ちゃん必死の形相で全力疾走だ!
そんな壮絶なバトルが演じられていたなど意にも介さず悠然と降りてくる指定券確保組。
当時ワイド周遊券では特急にも乗れなかったが、折角高い追加料金を払って自由席に立ち通しは嫌だったから、
何はさておき、この函館からの接続特急の指定券を確保するのが一番重要だった。

18:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/06 12:28:07 8tR5R1ur
>>12
鉄道連絡船と鉄道は密接なつながりがあるし
懐かしいというのはぴったりじゃん

19:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/06 12:45:31 EqgEn+BR
「俺が乗る時はいっつも○○丸なんだよね」ってジンクス、結構ありましたよね。

20:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/06 23:03:43 1AWIzuxN
>>19
それ俺だ。
87年夏に1往復だけ乗ったんだけど、どっちも摩周丸。
行きが25便、帰りは3日後の6便。

21:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 00:13:57 fwVqIscE
一度も乗船したことがないのですが、末期は乗船代はいくらだったのですか?

22:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 00:29:29 BDxltdXK
>>19
俺の場合、なぜか津軽丸に乗ることが多かった。
津軽丸引退後は特定の船に偏ることはあまりなかったな。

あと、>>17は深夜便で唯一賑わっていた食堂の描写がないのが残念なところ。
メニューは海峡ラーメン(塩・味噌)だけだったが、乗るたびに食べていたな。

もっとも、俺自身は深夜便に乗ることはあまりなく、大抵はおおとり〜ゆうづる・はくつる
の乗継だったから、下りは朝もやの中の出港、上りは夕陽を見ながらの航行と言うのが
印象としては強かった。


23:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 01:20:34 BDxltdXK
>>21
函館〜青森の片道運賃は2000円。
但し当然ながら、青函連絡船を含む区間の運賃は通算計算されていた
(例:東京都区内〜札幌市内の片道運賃12800円)から、大多数の人た
ちにとって、青函区間の運賃は意識されるものではなかった。


24:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 01:24:32 G1ei0GZl
>>23
まったくそのとおりだね
純粋に青森〜函館だとフェリーも運航されているから地元の人には
料金は切実かもしれないけど
遠方から北海道を目指す人にとって、その区間だけの料金は意味をなさないものね

25:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 01:36:08 5p8x99m6
上野からの急行が青森に近づくと乗船名簿みたいな紙が配られたしかグリーン用と普通席用の二種類。それを列車内で書き込んでいるとなんか特別な所に行くみたいで。今だと海外に行った時の入国カードってとこかな

26:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 01:37:38 l8/VZ0Mp
水冷機の横にぶらぶら下がってた記憶が…

27:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 01:52:36 s5mMd98m
当時、他社フェリーの運賃は1400円だったけどね。
ただ、今の青函フェリーに毛の生えた程度の船だったし、
場所も不便だから、車以外で乗るものではなかった。

俺の乗った頃(1984年〜)には、すでに深夜便の食堂営業はなくなってた。
それ以降何度も乗ったけど、その深夜便だけが混雑して、
他の便はたいていがら空きだった印象で、
深夜便に乗るよりは、待合室で寝て朝の便、みたいな事もやったなあ…。

28:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 02:00:45 Jp6Jx9cr
>>26
もともとは配ってた。
乗船人数の把握と言う目的もあったからでは?

最後は合理化でぶら下げになった。
連絡線が満席にならなくなったからかもしれないが。


29:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 02:07:39 Jp6Jx9cr
>>27
長距離移動だと本州内夜行か青函夜行が一般的だったからね。
本州内夜行は時間が分散したけど、青函夜行は上下とも0時頃発→4時頃着
に集中するから混むんだろうね。最盛期は続行してたし。


30:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 05:10:35 /tzhEbgq
その便にあわせて青森に、はつかり、みちのく、白鳥、しらゆき等がやってきた。

31:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 06:53:15 Znsp+IKz
青函連絡船の最終日と青函トンネルの開業日が重なったので、その日1日だけ両方を経由する切符が存在したよな。


32:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 07:18:07 Q+2/mqZP
最長トンネルなんて話題になったけど、入っちゃえばずっと壁しか見えないし、
時間はかかっても船旅の方が風情があるよな。

S50年代前半くらいまでは、連絡船も暫くは残しておくという意見もあった様な。

33:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 07:26:23 w/seW1pc
マリンガールと記念撮影しました

34:5
08/09/07 12:23:59 GtfvFlQx
青函連絡船は基本的に毎日同じ便には同じ連絡船が就航していた。
だから、毎回同じ時間帯で(例えば深夜便)乗船すると、いつも同じ連絡船ばかりに当って、
十和田丸などはなかなか乗る機会に恵まれなかった。

ところで、いつだか定員1,286名(寝台20、グリーン指定96、グリーン自由200、普通席970)の連絡船に、
乗客たった15人!という便に乗ったことがある。
その日は大雨でダイヤが乱れていて、青森には特急が軒並み1時間前後遅れて到着していた。
接続の深夜便との連絡が微妙な時間になったため、国鉄では急遽、遅れた時の救済として続行便の営業を決めた。
というのも、「みちのく」「白鳥」から20分で接続する11便にはどちらも間に合いそうもなく、
その後の「はつかり」はそれ程の遅れはなく青森に向かっているとのことなので、
3本全ての乗客が1便に集中することが予想された。そこで、万一の積み残しを危惧して続行便の手配をした訳だ。
当時の連絡船ダイヤは意外にタイトで、列車が遅れて接続を取るには限度があったのだ。
11便は結局ガラガラで定時出航。暫くして「みちのく」「白鳥」そして「はつかり」が相次いで到着した。
「はつかり」が到着した頃には既に出航時間を過ぎていたが、さすがに“1系統”を無視することはできなかったのか、
結局30分程遅れて出航した。
しかし、旅行シーズンではなかった秋のことだったので、3本の特急を接続しても定員にはまだ余裕があった。
そのため、先を急ぐ人が多い“1系統”だから、「後続便も御利用ください」というアナウンスも空しく、
ほとんどの人が1便の客となり、続行便に変えた人は桟橋待合室に20人も残らなかった。
その「続行便」は、実はふだんでも「貨物便」として運航している深夜2時半に出航する151便だった。
お盆や年末年始などの多客期には時刻表にも登場して客扱いするが、ふだんは貨物航送専用の便だった。
結局、深夜のその便に乗船したのは桟橋待合室にいた15人程。思い思いに広い桟敷席を占有し、
寝て行けたのは言うまでもない。驚いたことに僅かの客のためでも、売店は少しの間だけだったが開けてくれていたし、
弁当さえ積み込んでいた。
広い船内に人の気配がしない船旅というのが、意外に無気味なもんだと感じた時間でもあった。

こんなケースのように、深夜便の救済として、この貨物便が急遽営業運航されることは、
そう珍しいことではなかったようだ。

35:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 13:24:46 zpp7/XHu
昭和53年8月1日の記録
上野発19時発583系ゆうづる1号(1号車クハネ583−14)
翌朝5:10?着
3便 十和田丸
函館9:15着

36:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 17:38:51 G1ei0GZl
>>34
なるほど
急遽船を用意するのは当然のごとく難しいが
通常貨客船を貨物船として運用している便を使うのなら
少しの要員を増やすだけで対処できるというわけか

37:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 20:39:55 F1iM5hUQ
どこで貰ったかわからないが、連絡船のイラスト入りのステッカーがある。


38:ほわいと青函3
08/09/07 20:45:40 Mgm57KCU
寝台室・グリーン室の女子便で売り子(KIOSK ?)の姉ちゃんとセクスした思い出。

39:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 20:52:56 UMmLm3HZ
>>36
とは言うものの、10人以上の客室乗務員を急遽集めるのは当時でも大変だよ。
まあ、集まる見込みができたから、臨時便運航を決めたのだろうが。


40:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 21:10:35 RYWlhTwx
一番驚いたのは、昭和62年4月1日をまたいで2週間ほど道内回っての帰り
短期間で煙突のJNRマークがJRマークに取り替えられていたこと

41:名無しさん@お腹いっぱい
08/09/07 22:08:27 8BaeH0EN
S48.3だったが「みちのく」から11便に乗り継ぐ予定だったが時化のため青森で足止め。
しかし11便,1便そのものは貨物便として出港して行った。
結局、乗船出来たのは青森5:00(33便),5:25(3便)で先発には「白鳥」他、後発には
「みちのく」「はつかり」の乗客が案内された。33便は運行予定はなかったがよく乗り組み員
や食堂関係者が集められたと思う。
(3便には「ゆうづる1,2号」が所定だが遅れていたので当日は接続しなかった。)

あと、S49.4に6D「おおぞら2号」が1時間30分以上遅れたので6便には接続せず、21:45頃出る
貨物便(152便?)に乗客がそっくり案内された。青森では「八甲田」は行っちまったが「はく
つる」は待っていてくれた。

42:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 22:58:42 GpZWLU5L
>>40
同じ時期、俺も北海道まわってた。31日から1日のあの日は、大雪に乗っていたよ。
で、日付が変わるとき、車掌がJRのワッペンを 照れくさそうにつけていた。
31日は、利尻、大雪は絵馬を配ってたんだけど、青函連絡船も何かだした?

43:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 23:11:35 rJiMHv7/
>>40
技術的に時間があれば変更可能だろ、強制されれば職員だって一瞬で変更する手段を考えるだろ
たとえばJNRマークの下にJRマークを隠すとかさ


44:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 23:26:53 Qml+ALVD
コンテナには、Nだけを塗りつぶした急ごしらえのJRマークがあったな。

45:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 23:33:03 O0oR23dk
先月、函館行ってきたんだけど函館駅の改札の上(2F)で
青函連絡船の写真展やってたな。
BGMにみちのく号の上野到着間際の車内放送が流れてた。

連絡線がなくなる数年前、青森まで連絡船を見に行ったことが
あるが、新幹線+583はつかり乗車が主目的で北海道に渡るには
予算オーバーで乗れず、そのままとうとう一度も乗る機会がなく
廃止になってしまった。
あの時無理してでも乗っておくべきだったと今になって思うよ。

46:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/07 23:49:46 MT5mwW4N
だいたい渡道や内地に戻る時は
夜行便が多かったけど

明るい時間に乗りたい時は桟橋待合室で寝てから乗る時もあった
レストラン海峡も良かったが
喫茶でけだるい海見ながら食べる
トーストセットも良かった

47:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/08 05:07:54 rowuz5/i
船内でラーメンとか食べて、船酔いとかしないもんなの?

48:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/08 07:42:46 RWblk17J
こればかりは人それぞれですからね。
連絡船自体はそこそこ大きな船だから、ふだんならそんなに気になりませんが、
さすがに時化ている時はユラリユラリ、時にはつかまらないと立って歩けないことはありました。
まあ、そんな時には食堂や喫茶は安全のため臨時休業になりました。甲板への立入も制限がかかってね。
ただ、連絡船は余程風が強く波が高い場合でなければ、少々の時化くらいでは欠航にはならなかったですよ。
函館を出て津軽海峡で大いに揺さぶられても、ある時からそれがふと和らぐんですね。
そうすると下北半島の内側、陸奥湾に入ってきているんですよ。

49:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/08 15:59:42 5tFEdsUT
初めて青函連絡船に乗って海峡ラーメンを食べてからシャワー室へ。急に気分悪くなり、シャワー室の中でリバースした。

50:・
08/09/08 19:07:41 aIsaJVCv
先代の大雪丸、羊蹄丸、摩周丸には何度も乗船したのに、
洞爺丸はたったの1度きり、台風15号で転覆沈没してしまった。

その当時は青函連絡船は、123各等があったと思うが、
3等は車両甲板の下で怖かったから異級乗車券で2等に乗船したと、
両親は語っていた。

51:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/08 19:20:25 Ju21hrEI
>>43
それなんてUFJ銀行?

52:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/08 21:18:37 lRx7ckaa
連絡船内に確か投函ポストがあって自分宛にはがきを出したら
消印が青森函館間になっていたよ

53:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/08 22:34:27 K7AEolRl
>>48
俺はその逆で、青森を出てさすが大型船は揺れないや、と喜んでいた。
陸地が見えたので、あれが初めて見る北海道かと思っていたら
それは後ろに遠ざかり、そして船は大きく揺れはじめたw

>>50 異級乗車券には赤い「異」の影文字がしるされていたとか。
乗車券図鑑のようなものでしか見たことはないけど。

54:5
08/09/09 01:18:49 IBGOe5t7
青函連絡船の航路は概ね決まっているのだが、天候状況や観光シーズンの時は青森行きの便で、
下北半島の仏ケ浦沖に近付いて航行することもあった。
晩年は夏場の旅行シーズンを中心に、陸地にかなり近付いて航海し、船上から仏ケ浦の奇岩を眺めることができた。
特に夕方の便では、夕陽が岩肌をオレンジ色に染めて、何とも美しい風景を見せてくれたのが印象に残る。

津軽海峡といえば何となく荒々しい海をイメージするけれど、時化ている日はそれ程多くはなく、
自分が乗船した時は、凪いで汐風が心地よい航海の方がはるかに多かった。
陸奥湾を航行中は穏やかな海原に、時にはイルカが一緒に横を泳いでいたり、
海鳥がいつまでも連絡船の後を追ってくるというような、長閑な風景を見ることができていた。

55:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/09 01:28:58 C7PZdWxg
自動車航送船もあったなあ。
それに乗ると何だか違和感があった。


56:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/09 12:07:55 +SVlfGn/
ご存知の方がいらっしゃいましたらレスをおねがいしたいのですが、
洞爺丸の船内はどんな感じだったのでしょうか?
なにかで1等船室ロビーの照明がとても素晴らしいものだったと書いてあったのを見たもので…
あと、汚い話で恐縮ですが、昔の青函連絡船の便所はボットン便所だったのでしょうか?

57:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/09 13:41:28 o2P8P2w4
>>55
デッキに数台の乗用車がw

陸奥湾周遊の貸切航行も乗った記憶が

58:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/09 18:36:50 jVYE/Z9i
おはようございます!皆様長らくのご旅行お疲れ様でございます。

まもなく終点の青森でございます。
青函連絡船で函館にお渡りの方はこの旅客名簿にご記入をお願い致します。

59:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/09 18:40:09 E1DqbSMl
【鉄道総合板 運転見合わせ】

2ちゃんねる鉄道総合板はサーバーの移転作業のため18:00分頃から運転を見合わせています。
なお、運転再開には時間を要する見込みです。


【鉄道路線・車両板 運転見合わせ】

2ちゃんねる鉄道路線・車両板はサーバーの移転作業のため18:00分頃から運転を見合わせています。
なお、運転再開には時間を要する見込みです。

【鉄道総合板 運転見合わせ】
18:10分頃一部のスレでは運転を再開しましたが18:30分頃から再び運転を見合わせております。
なお、運転再開には時間を要する見込みです。





60:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/09 18:52:29 E1DqbSMl
【鉄道総合板 運転再開】



2ちゃんねる鉄道総合板はサーバーの移転作業のため18:30分頃から運転を見合わせておりますが
18:47分頃に運転を再開し遅れが出ています。

61:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/09 19:31:35 Ko0AUlKD
この間NHKで摩周丸の前で石川さゆりが冬景色を歌っていたなあ
歴代の船長さん達も揃ってた。
最終日に摩周丸でもらった船長さんのサイン入り証明書の
船長さんも居てちょっと感激

62:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/09 21:27:36 dl/EC/wf
昭和52年8月号 交通公社の時刻表

  5M 特 はくつる    上野22:20→ 7:10青森 (東北本線経由)
 15M 特 ゆうづる3号 上野21:40→ 7:05青森 (常磐線経由)

  5便 青函連絡     青森 7:30→11:20函館

  5D 特 おおぞら3号 函館11:40→21:42釧路(室蘭・千歳線経由)
 15D 特 おおとり   函館11:45→21:49網走(室蘭・千歳線経由)
305D 急 宗谷     函館11:50→22:45稚内(函館本線経由)

なつかしいなー

ゆうづる〜おおとり 利用したな。

函館駅での3本の優等列車並んでるシーン忘れられません。

63:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/09 21:32:39 awaC/ZC/
ワイド周遊券握りしめて
上野駅2118発103レ急行八甲田に、何度も乗った。
青森に翌9時頃到着し、25便にも何度も乗ったなぁ。
いつも気の毒なぐらいガラガラだったが
渡道するふいんきを盛り上げる至福のひとときだった

64:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/09 23:16:44 jVYE/Z9i
上野発6番線19時15分発急行十和田号青森行が懐かしく思ふ…

浅虫温泉辺りで車掌が一両つづ挨拶をし手を挙げた奴に旅客名簿を渡す…

65:50
08/09/10 00:14:40 teOFG/7P
>>56
(年齢が分かってしまうが)
1度きりの洞爺丸乗船は昭和29年3月、
丁度小学校に上がる直前で残念ながら余り覚えていない。
父の転勤で家族で、何故か1等船室だった事は確か(母が良く話していた)。
ボーイさんが荷物を赤帽さんから受け継いで、
うやうやしく案内された記憶はある。
後は応接セットみたいなフカフカの椅子が。
(料金が3等の7倍だったから、寝台もあったかも)
後に氷川丸に行ってみたら、雰囲気は結構似ていたそうだ。
 もうちょっと後で乗船していたら、覚えていたのにと残念に思う。
 他の船の2等船室はしっかり覚えているのだから。
その朝、上野発の夜行急行「北斗」(のちの)C寝台で青森に着いて乗船。
函館からは根室行き急行「まりも」の特別2等車(指定席)。
札幌から増結された寝台車には乗っていない。
 青森や函館で、ホームを乗客が走る意味をこの時は知らなかった。

この時は、勿論異級乗車券で(上級の1等の薄緑色)
1等の乗車券は生涯でこの1回きり、残っていたらプラチナ価値だな。


ちなみに連絡船のトイレは、塩水を使った水洗トイレだった。
   (その頃の船舶は皆そうだった筈)
当時は汚物貯留槽は無かったと思う、それはポットンだった列車トイレと
同じ臭いが船の周りにあったから。港を出てから、薄めて粉砕して洋上投棄
していたと思う。30年位前は、都市からのトイレの汲み取りも
海岸線から遠くで洋上投棄していた位だから。
(薄めずに濃いままで=黄色の帯が漂ったそうだ)

 

66:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/10 06:23:03 sNazM2Ca
7倍って、そんなに高いんか。

随分と金持ちやね

67:56
08/09/10 09:13:48 GtR493Tp
>>65
レスありがとうございます。
このスレに実際に洞爺丸に乗船された方がいらっしゃったとは!!
しかも1等ですか。すごいですね!!
昭和天皇のお召し船に抜擢されたくらいですから、
洞爺丸の1等船室なんて庶民には雲の上のような存在だったんでしょうね。
ちなみにトイレは海水を使った垂れ流し式だったんですか。
鉄道ジャーナルの竹島氏の記事の中に関釜連絡線のことが書かれていて
なんでも敗戦時の引き上げ船では「トイレはあふれ、飲む水も切れてしまった」
と書かれてたので、昔の船のトイレはボットン式だったのかな?と思ってました。
あと、洋上投棄船なんてのもありましたよね。
実際にそのようなことを先進国の日本がしていたかと思うと…
まあこれも下水道の普及とともに姿を消しましたが。

68:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/10 21:04:02 mDd13eZR
オイラもワイド周遊券握りしめてよく乗ったなぁ。
上野から八甲田とか津軽で行くときもあったけど、みちのくとかはつかりで行き、便名は忘れたけど19時50分発?で函館へ。
で、43レ?で札幌のパターンが多かった。
新幹線開業後も。

69:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/10 21:22:26 IvLmAhT7
>>17
今も青函トンネルがなければ「函館ダッシュ」のAAが作られていたのだろうか…

70:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/10 21:26:17 zfB534A2
本当の最終運航日、貨車甲板を見学させてもらった時、
貨車搬入扉?を開けてもらって海が目の前に広がった時感動した。

東京で青函連絡船がいつでも見れるようになってよかった


71:5
08/09/10 23:26:43 NtqOpwOk
3時間50分の長旅を終えて到着する直前、青森でも函館でも連絡船は急旋回し、反転する形で港に接岸する。
下船口で待つ乗継客を後目に、この様子を見るために甲板に出るのが連絡船に乗った“最後の楽しみ”でもあった。

港内に入って航行速度を落とし、右前方に桟橋が見えてくる頃、
連絡船はいきなり大きく右旋回(いわゆる“酉舵一杯”!)を始める。
しかし、図体のでかい連絡船であるから、狭い港の中で自力で急旋回をするのは難しい。
そこでどうするか。
すると、どこからともなくスルスルスルと小さな緑色の船が連絡船に近付いてくる。
「プ〜ッ!」というどことなくユーモラスな汽笛を鳴らして合図すれば、連絡船もそれに応えて汽笛を鳴らす。
そして、船体の周囲一杯に古タイヤを装備したその船が、連絡船の右後方にほぼ直角になるように
ピタリと舳先をくっつけて汽笛を鳴らせば、次の瞬間、小さな船は黒い煙を吐き出しながら、
エンジン全開で猛然と連絡船のお尻を押し始めるのだ。小さな船の後ろが激しく渦を巻いているのは
力一杯押している証だ。
おかげで連絡船は次第に大きく頭を右に振り、あっという間に頭は港外に向いて接岸できるようになった。
小さな船はこれでお役御免。再び、「ポ〜ッ」と短笛鳴らして所定の場所へと戻って行くのだった。

青函連絡船はこれら青森、函館各1隻の「タグボート」の手助けがなければ桟橋に接岸するのは難しい。
まさに青函連絡船の“縁の下の力持ち”だったのがこの2隻のタグボートだった。
青森港では「ふくうら丸」、函館港には「ひうら丸」が担当していた。
連絡船が着く度に出動して、ただひたすら“押していた”。

ところで、その後、「ふくうら丸」は苫小牧港でもタグボートとして活躍し、韓国に売却されたそうだが、
どうやら近々廃船になるようだ。一方の「ひうら丸」は、現在も石狩新港で現役活躍中らしい。

72:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/11 02:31:33 greLJkp4
今でこそ、オリジナルの色に復元されているけど、
一時的に羊蹄丸の船体の赤い部分が青く塗装されていた頃が有ったな。
赤よりも青に塗り替えれば展示物として見栄えがするとでも思っていたのだろうか

73:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/11 04:21:41 ozs0nfW4
束は交通博物館の0系新幹線を緑色に塗ったぐらいだからね。


74:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/11 08:40:58 ZlDxsXic
>>73
えっそんなのあったの?青梅鉄道公園の「緑の0系」なら覚えているが。

75:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/11 19:10:21 ozs0nfW4
>>74
教えてくれてありがとう。
そうか、記憶違いだったか。

でもたとえ交博が青梅になっても>>72に通じるひどさだよねw


76:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/11 19:23:27 7W7u36h2
>>70
どちらのフネにお乗りでしたか?
当時青森在住だったので18、19日の動きは逐一見届けてました。
9/18臨4便十和田丸は着岸時に船尾扉が半開だったので、『夕暮れの海をみんなで眺めたんだろうなー』と思ってます。

77:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/11 19:23:58 lfxky9H8
青函連絡船の自動車航送は車両甲板の一部が路面電車の
軌道のようになっていて自動車も車両甲板に積んでいると勘違いしていた。
実際に乗船したら高いところに露天で積んであったのを見て驚いた。

78:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/11 19:59:40 XhyrJZ36
「かげに人がいる」っていう札知ってる?

79:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/11 20:05:21 NJtvw6LC
民間フェリーと違い野ざらしでの航送なので洗車券付きだったとか

80:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/11 21:21:37 iuh4tn3X
>>79
港近くのGSで洗車してくれ ってこと?

81:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/11 21:47:31 NJtvw6LC
>>80
らしい
詳細は知らん

82:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/12 07:00:51 BGLaatzb
檜山丸は船楼内駐車だったので洗車券はくれなかったな。

83:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/12 07:58:41 4WoyhjtP
どのみち潮風に晒されるわけだから、
すぐに洗車した方が無難な気がする

84:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/12 18:18:01 6hS94spn
>>76
何便だったかは思い出せないので、
当時の写真をひっぱりだしてみます。

85:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/12 19:24:19 1wyoc6Zd
下りはいつも7:30出港の23便で、
はくつるや八甲田の車内で「本日の23便は○○丸です。」という放送を聞くのが楽しみだった。
ちなみに船はいつも違っていた。
ディーゼルの津軽丸型で乗ったことがあるのは、松前、八甲田、羊蹄、十和田、大雪。
津軽と摩周には乗れなかった。

86:78
08/09/12 19:41:19 dtLm46tt
そうか、みんな気がつかなかったのかな。
トイレのところにある扉に書いてあるんだけどな。
私が北海道を初めて感じるのは、青函連絡船ホールにあるよつば3.4牛乳テトラパックの自動販売機でした。

87:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/12 21:58:20 lDIltJA4
88年夏の復活運航で最初で最後の乗船だったが多いかも?

88:名無しさん@お腹いっぱい
08/09/12 23:33:47 2KRKbUlU
>>85
青函連絡の船名を聞くといかにも遠くへ行くなって感じがしたね。
上りは北海道ともうお別れで現実生活が待っているなんて思ったものだが。

俺も全便制覇したくて、「宗谷」〜「はくつる」の乗り継ぎで16便か6便かを船名によって選択
出来る予定を組んでいた。
でも運用がわかった時は青森でその日の配船をメモっておいて帰りの船名を割り出して、時化等
で狂わない限り、それも結構当たったものだった。

89:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/12 23:58:50 y0Klq/Os
津軽丸型と洞爺丸型って入り乱れて運航されてた時代ってあったっけ?

90:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/13 00:31:43 5AGXjtnr
>>89
津軽丸型の就航は
津軽丸 1964.5.10
八甲田丸 1964.8.12
松前丸 1964.12.1
大雪丸 1965.5.16
摩周丸 1965.6.30
羊蹄丸 1965.8.5
十和田丸 1966.11.1

洞爺丸型と十和田丸(I)の終航は
洞爺丸 1954.9.26
羊蹄丸 1965.6.20
摩周丸 1964.10.26
大雪丸 1964.8.31
十和田丸 1966.10.1

ざっと2年かけて入れ替えた感じですね。
貨車渡船も1965年でタービン船は全廃されてます。

91:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/13 06:35:56 7gGyLm7U
船が違うと、客室の造りとかも違うの?

92:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/13 07:45:47 g4FtY1IK
青函連絡船 正しい乗り方過ごし方(下り便の場合) 個人差もありますが・・・。
昭和50年(1975)まで 蒸気機関車撮影旅行が目的のため、連絡船は極力休息の時間だった。
旅や鉄道連絡船を楽しむといった心の余裕は(金銭的にも)なかった。
 急行で着きすぐ座席(桟敷が多かった)を確保、その後スタンプをおして販売が始まった駅弁(船内)弁当で
安い「新巻弁当」を買う。さらに自動販売機で「3.4牛乳」を買い安価ではあるが「北海道の味」を早速味わう。
売店では当時ここでまず買えた(実際は東京でも可能だったが)弘済出版の「道内時刻表」を購入しあとは
今後の撮影計画の確認をしてひたすら函館到着まで休息する。したがって船内施設の利用とかお金のかかることは極力せず、また蒸機を撮るための貴重なフィルムゆえ連絡船での記録はほとんどしなかった。

昭和51年(1976)以降
「汽車旅」を楽しむことをあらためて思い直し、船内各施設も積極的に利用したり記録したり
旅の足跡をつけたりするようになる。
 乗船→席確保(寝台やグリーン席も利用)→ロビー(スタンプ・牛乳・時刻表・弁当など)→出航をデッキで
→船内散策→シャワー→食堂(海峡ラーメンや定食)→後部デッキ(または上部甲板まで)→サロン海峡
→席に戻って旅の計画再チェック→ロビーにて指定券などの状況調べや船内からの記念?電話、売店ひやかし
→少し寝る→早めに支度をしてロビーへ出て下船準備→下船



93:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/13 07:47:20 g4FtY1IK
昭和54年(1979)以降(この年、初代「ウォークマン」TPS-L2登場)
小型ステレオカセットプレーヤーの登場により、航行中に聞く音楽の楽しみが増える。
さらにその数年後にはステレオ録音機能も付いたので、それまでの大掛かりな「音の記録」も
手軽にできるようになった。

昭和55(1980)年頃以降
さらに「ビデオ」という記録手段が加わる。

「上り便」の場合、ほぼ同じだが、荷物の整理・旅の記録のまとめ・買い忘れたお土産を売店で購入などが入る。
シャワー室で旅の疲れをいやし、サロンで珈琲を片手に津軽海峡の風景を眺めながら旅の終わりをかみしめ、
適度な切り替え時間をもってまた帰京の途につくことができた。

なお以上の事は正常運行が基本で、異常な混雑時や荒天航行の場合はその限りでありません。


94:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/13 08:49:00 xR0A1fk8
>>90
解りやすい解説サンクス
ファンネルも"工"と"JNR"が混在してたんだ

95:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/13 10:00:35 aFWffq4L
>>90
貨車渡船の蒸気タービン船では、十勝丸と日高丸が昭和45年頃まで残ってますよ。

96:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/13 10:51:25 nCTA5uSZ
>>94
考えると職員のヘルメットの工はJRになるときまで存在したのはすごいな

97:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/13 11:04:40 GevVxbw4
>>92
ややスレチ気味だけど、
道内時刻表が廃刊になったという風のウワサを耳にした。
元々2種類あって片方だけ消えた?それとも全滅?

98:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/13 12:16:46 WIeojGip
そう言えば
こないだ久々に書泉グランデに行った時
道内時刻表は無かったような
JR版は廃刊したと聞いた事ある

青函航路は勿論宿代わりに何回も使ってが
桟橋待合室で寝た回数ももっと多いかも

今、(中央快速233車内)ふと見上げると
壁面広告に何故か二股らじうむ温泉と広告が…?
無くなったんじゃなかったかと(・_・?
それともココ十年くらい北海道行ってないから行けと神の(ry

99:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/13 13:24:48 UYXzJKK3
まだあるみたい>道内時刻表
URLリンク(www.kotsu.co.jp)

100:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/13 17:20:26 iWN3FjTa
>>98
二股らじうむ温泉はサラ金業者の経営で続いている

101:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/13 17:49:19 vAK/cXfK
>>97
片方。

102:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/13 18:06:22 4MPj7L6P
>>100
三和ファイナンスに破産申立した奴が居る

103:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/13 20:43:36 +vv3HH+K
今日、青函連絡船以来、初めて青函を船で超えた。
「ナッチャンWorld」で・・・
この船も来月で廃止と思うと感傷深い・・・・

104:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/13 22:28:54 GevVxbw4
ナッチャンRera ってのもあるけど、連絡船のレラが由来かなあ?

105:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/13 23:12:36 iWN3FjTa
アイヌ語で風。
千歳のアウトレットモールも同じ。

106:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/13 23:18:17 GevVxbw4
>>105 サンクスです。
教えて君ですみませんでした。

107:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/14 08:32:54 6wkL4B4o
>>92
おぉ 新巻弁当懐かしいw

あと青函レ−スを尻目に青森駅のホ−ムで立ち食いのホタテの天婦羅蕎麦
を食った事もある。

108:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/14 10:12:51 gEcShiXI
>>90
タービンじゃなくてモーターシップで、船齢も10年ばかりの初代十和田丸が排除されたのは、
やはり急造で津軽丸型に比べると乗り心地が悪かったから、だっけ?
比羅夫丸以来青函で伝統だったタービンを止めて、最初にディーゼル化された船で、振動が不評を買ったときくが。

109:名無しさん@名無し変更議論中
08/09/14 22:18:23 YyhOYQDs
>>108
洞爺丸の代替船だったからね。

110:回想774列車
08/09/16 17:15:54 nhOprtFg
>>76
3便だった。
操舵室からの写真や指定券も出てきた。

111:回想774列車
08/09/16 21:32:04 NFgE3Dwj
>>110
レスありがとうです。
臨3便羊蹄丸は3月に続き青森発の最終便にもなったわけで、写真や切符はさぞ思い出深いでしょう。

出航時自分は船首近くの岸壁で、左舷に鈴なりの皆さんを見ていましたヨ。

112:回想774列車
08/09/16 23:35:24 znfyr2Ty
凾館走りしない時は必ず指定グリーンに乗っていた
指定と自由では同じグリーンでも相当の差があった。

113:回想774列車
08/09/17 22:02:00 jOTDp0Xf
>>71
タグボートは船尾を押すだけでしたよね?
船首には横向きスクリュー?が付いていましたよね?

それから詳しい人に聞きたいんだけど、十和田丸に横揺れ防止のスタビライザーが装備されていたと思うんですが私の記憶違いじゃないですよね?
台風で欠航寸前の便に乗船したら、船長が船内放送で「この船は最新の横揺れ防止装置がついているから揺れません」って言ってたんですよね。
そのときの船が十和田丸だったんです。

114:・
08/09/18 03:28:51 hfCVtLf1
>>113
洞爺丸海難以前の青函連絡船は、
フィンースタビライザーなんて付いてなくて、
湾内から海峡に出ると横風が強い時は、
どっちかに傾いたまま航行していた。
子供ではまっすぐ歩けない位だった。慣れない大人もよろよろ。

沢山の諸君が車両甲板の扉の思い出を書いているけど、
当時は扉はなくて吹きさらしだったから、
吹雪や海のしぶきが飛び込むので、
厳冬期は凍結した線路の除氷が大変だった。

車両甲板には線路が3本?あったけど、線上には分岐器はなくて、
線路がぎりぎり接近していて、一見踏み切りのように板が敷き詰めてあった。
桟橋と甲板を結ぶ可動橋は、重い入れ替え機関車が乗れないので、
控車(ヒ)を数両連結して搭載した車両を出し入れした。
ヒは軽いので、氷片がレールに挟まっていると簡単に脱線する。
定時連絡のたった20分の接続時間は戦場のような雰囲気だった。
「北斗」「まりも」で荷物車・郵便車も直接接続していたかは定かでないが、
寝台車航送の時代は接続ダイヤも決まっていたしね。

宇高連絡船でも、紫雲丸以前は大阪から松山・高知への
同様の直通客車航送があったね。


115:回想774列車
08/09/18 08:45:46 zhMEMu6P
>>113
> タグボートは船尾を押すだけでしたよね?
> 船首には横向きスクリュー?が付いていましたよね?
・船首の横向きスクリュー…バウスラスターです。
・タグは船尾押しだけでなく、函館では風向きによって離岸引き出しもしたようです。
ほかに右アンカーを落とした冬場の停泊写真もありますね。
・スタビは客貨船では十和田丸(2代)だけです。

さて20年前の今日は、羊蹄丸・十和田丸によるアンコール運航最終日です。

116:回想774列車
08/09/18 11:51:55 ihkvAKG/
津軽丸形と貨物船(後の改造船含む)とは汽笛の音が微妙に違っていたのを思い出した。津軽丸形は低いボォーっていう音で、貨物船はブゥーっていう軽い音。

改造船には食堂も喫茶もなく、くつろげる場所がなくて眺めも悪く当たると嫌だった記憶。バイクや車を持ち込むときは屋根があるから逆によかったかな。

117:回想774列車
08/09/18 13:06:27 xBXbudwe
>>115
そうかあ、旅客船としての最後の航海の日だね。
20年も経つのか。




118:回想774列車
08/09/18 18:30:45 zhMEMu6P
1988.9.18-17時半過ぎ。夕暮れの青森港。
『ドッドッドッドッ…』
ふくうら丸が最後の尻押しをすべくスタンバイを始め、大勢の人々が見守っていた。
1745過ぎ。防波堤の向こうに最後の客を乗せた十和田丸がゆっくりと近づいてくる。
『ボゥー、ボゥーー』入港の汽笛に呼ばれたように、ふくうら丸はエンジンを轟かせながら港内を進んでいった。

やがて港口を交した十和田丸は2岸へ頭を向け、船首左舷が泡立ち始める。

119:118
08/09/18 19:24:54 zhMEMu6P
『ボゥーー(トモ押せ)』、『プゥーー!』
応答の汽笛が甲高く鳴ると、十和田丸が全長132mの向きをみるみる変えてくる。
『ふくうら丸お疲れさまでーす』
グリーンデッキと船尾は、最後の光景を目に焼き付けようと乗客が身を乗り出し、ふくうら丸にストロボが焚かれ盛んに手が振られた。
夕凪を眺めたであろう、半開の船尾扉からは空の貨車甲板が覗いていた。

やがて船体が岸壁に並行する。
『ふくうら丸お世話様でしたーッ』
『プゥーーーーッ!』
長い汽笛が響きふくうら丸は後進した。

120:118
08/09/18 20:30:04 zhMEMu6P
『サンジュウメーター』
ふくうら丸が見守る中後進が始まり、距離がカウントダウンされていく。
放たれたモヤイが巻かれピンと張られること暫し、
『ボゥーーーーッ!』
長声が響き、異状無く定刻1805に着岸は完了した。
ふくうら丸はそれを見届けるとゆっくり旋回し、舟溜りに戻ってきた。

繋留を終えた3人のクルーが迎えた人々と和んでいると、青函博閉幕の花火が鳴り響いた。
それは同時に青函航路最後の長い夏を、終末を告げた合図だった…。

18日の光景は写真も無く、記憶だけを頼りに書きました。
長文&連投ですみません。

121:回想774列車
08/09/19 07:16:08 +hcTyrGG
>>98
亀レススマソ
@道内時刻表(弘済出版社→交通新聞社)今でもあります
A北海道時刻表(交通公社[JTB]出版) 廃刊
BJR北海道ダイヤ(JR北海道)    廃刊

122:回想774列車
08/09/19 09:54:38 W7A2U9y+
20年前の今日、青森港はきれいな秋の空が広がっていた。
青函博覧会が前日で終了し、祭りの後の淋しさと静けさが
安方の船だまりにも漂っていた

記憶では朝、8時半過ぎに補助汽船ふくうら丸が函館へ帰港する旅路に就いた
出航前、岸壁には乗組員の友人、知人、そして青函くつろぎカードで十和田丸船内に
宿泊していた全国各地から集まった連絡船ファン、地元ファンも集まっていた

ふくうら丸はプゥ〜という可愛い汽笛を鳴らし、岸壁の見送りの人たちと乗組員の方が
手にした色とりどりの紙テープがシュルシュルと伸びてゆく
やがて紙テープが切れ、岸壁の人たちが名残惜しそうに去りゆくふくうら丸の後ろ姿を
見つめていた

しばらくして、ふくうら丸は右に回頭を始め、何度も別れの汽笛を鳴らしながら旋回を始めた
すると…十和田丸がまるで貴船の安航を祈ると言わんばかりに汽笛を鳴らした

爽やかな秋の青空の下、朝の青森の街に十和田丸とふくうら丸の汽笛が鳴り響き、
岸壁で見送る人たちの多くが目頭を熱くしながら、防波堤をかわして陸奥湾に船出する
ふくうら丸の姿を見送り続けていた情景を思い出します

臨時運航中、ほぼ毎日、夕方になるとふくうら丸に遊びに来ていた小学生の男の子がおり
この男の子の親戚が漁師をやっていることから、この男の子とご家族はふくうら丸出航を
見届けてから、親戚の漁船に乗ってふくうら丸を追いかけ、平舘海峡近くまでふくうら丸と
併走し、別れを惜しんだという話しがあります。

ふくうら丸の乗組員の方から、この男の子は船乗りを志し、商船学校に入学し、今は船乗りとして
活躍していると聞いています。

123:回想774列車
08/09/19 12:22:43 y4aDrhLP
>>122
ふくうら丸出航は1040ですね。
前日に聞いた11時より早めに行ったら船尾が離れつつあり、慌ててラジカセのスイッチを入れましたw

124:113
08/09/19 14:34:02 4wZlA+7n
>>115

そうでしたか。スタビライザー装備は十和田丸だけでしたか。
とすると、あの乗り心地を体験出来たのはラッキーだったんですねぇ。
横に振られそうになるとグググって言うか、ゴゴゴって感じで揺れを強引に押さえ込んでる乗り心地でしたね。
おかげで船酔いもせず青森に到着できました。

125:118
08/09/19 22:10:12 y4aDrhLP
1988.9.19月曜日。
青森最後の一夜を明かした十和田丸は、いつもと同じように陽光を受けていた。
九時半頃に入場券を買って桟橋へ。
今度こそ人が通わなくなる通路を抜けると、待合室ではベンチなど備品を船内へ積む作業中。
空き家となっていく待合室片隅に使い残した乗船名簿があり、お礼を述べて数枚ずつ戴いた。

もう今朝は乗客がいないのに、案内幕にはきちんと十和田丸と表示されている。
そして岸壁ではホースが繋がれ、最後の給油(給水?)が行なわれていた。

鉛色だった3月の終航式を想い巡らせているともうすぐ10時半。
ふくうら丸を見送るべく桟橋を後にした。

駅を出て1岸わきを通り抜けると、『プゥーーーッ』と紙テープに彩られ、拍手に包まれながら離岸しつつあった。

126:回想774列車
08/09/19 22:46:24 x/o1ak08
>>116
それは、近鉄電車が上下の方向別に和音の高さを変えてるみたいな感じで、
同じ音色だけど高さが違うって事ですか?
それとも音色自体が違う感じですか?

私は、末期3年ほどしか知らないので、はっきりとは語れませんが
(その代わり当時の全船の汽笛は聞いたと思う)
汽笛の音色の違いには気が付かなかったもんで…

127:118
08/09/19 22:56:45 y4aDrhLP
あわててラジカセの録音を入れながら駆け寄り、>122さんと同じく見送ることができた。

そこから駅西口に回り、岸壁を辿ると港内が一望できる。
使われなくなった3岸、アスパムと閉幕した青函博のテント群。
展示船の八甲田丸船橋上には、見送る人々が連なっていた。

十和田丸に近づくと待合室でセレモニーが行なわれているのだろう。
スピーカーから最後の回航であることと、謝意を述べる声が聞こえてくる。

1155『五分まえードライブぅプロペラー、五分まえードライブぅプロペラー』
バウスラスターがクイィーと動作を始め、同時に“蛍の光”が流れてくる。
その頃には大勢の青森駅員や、郵便職員が続々と集まっていた。

そして1157。最後のタラップが収納された。

128:118
08/09/20 00:01:04 7HoQcYnq
船首では一等航海士以下が配置につき、その時を待っていた。
『○○○ー○!(※)』、『ピリリリリーッ!』
笛が響くと4人がかりでビットからモヤイが外され、『ヨッコイセーのセィー!』と力強く放り込まれた。
『オモテクリアー』

『ボゥーーーッ!』長声一発、臨回5011便が動き始めた。
船首が離れ前進しだすと、陸とフネの間で声が飛びかう。
『ボゥーーーーーーー‥』
『さよならーーお世話になりましたーー(涙声)』
「お疲れさまでしたー、お気をつけてー」
船橋の柴田船長以下、左舷デッキの人々全てが大きく手を振り合う。

青森駅員氏がハンドマイクで「せいかんれんらくせんばんざーい!」と叫ぶ。
十和田丸は『ボゥォーーーー…』長い長い20秒もの最後の声を響かせた。
八甲田丸も『ブォーーーッ!』と少し枯らした声を鳴らしていた。

やがて左転した十和田丸は防波堤を交わし陸奥湾へ進んでいった。
出航からわずか5分間の出来事である。

(※)…テープからは号令の言葉がわかりません。
「レッコーショアライン」とは違うようです。

129:回想774列車
08/09/20 00:46:32 AJVNb5Lg
感動的な話だな。

130:回想774列車
08/09/20 07:26:47 a87G/aaF
回航便に乗せてもらった連絡船ファンが三串に最後の航海を回顧した日記をあげてるね。

ふくうら丸出航の写真も出ていて目から汗が出たよ。

131:118
08/09/20 10:02:30 7HoQcYnq
二日にわたる長い書き込み失礼しました。
翌9/20の地元紙には【何度も別れの長笛を響かせ、白波を残して去る十和田丸】と添え書きされた写真記事が掲載。

書籍や年譜では殆ど触れられないアンコール運航ですが、最後まで普段通りの手順で5011便十和田丸は青森第2岸壁から出航していきました。
きっと最後の函館着岸も普段通りに行なわれたでしょう。

132:回想774列車
08/09/20 23:59:15 yppFlo3T
大雪丸が好きだった

133:回想774列車
08/09/21 09:27:21 3d9aeVoM
知ってる人間はは少ないと思うが
八戸駅には就航船の一覧表が掲示されていた。


102便 0:10 石狩丸
2便 0:30 大雪丸


みたいな感じでその日の就航船の一覧表を掲示したボードがホームにあった。


車掌の案内用だったらしいけど
あれを見ると青森まであと少しだという実感がわいたものだった。

134:回想774列車
08/09/21 11:03:55 Qj+Sa4WD
>>133
階段降りたトコの柱?

135:回想774列車
08/09/21 11:41:05 3d9aeVoM
>>134
記憶が曖昧なんだけど
たぶんそのあたりにあったと思う。

136:回想774列車
08/09/21 21:08:31 w8O2Ju/E
青森向きに階段降りてすぐの左にあった覚えが

137:回想774列車
08/09/21 23:47:54 sAO3DCCS
海峡ラーメンってよく出てくるけど、どんなラーメンだったんですか?
他にメニューとかあったのですか?

138:回想774列車
08/09/22 00:07:43 h46zTxNB
>>137
普通の(札幌風)ラーメン。
塩味と味噌味があった。(醤油味もあったっけ?)

深夜便のメニューはこれだけだったが、昼間の便は普通のメニューもあった。



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