野々村元県議の今後を考える3 at MAYOR
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938:B城下町はまた封建的 な社会制度の象徴的な縮図でもあった。城下町の街区割には、タテ町とヨコ町という二つ の類型が存在した。タテ町は、城への道に並行して大半の路地が敷かれているもので、反 対にヨコ町は多くの路地が城へのアプローチに直行して開けられている、札幌はヨコ町型 の街路であったが、他方、豊原は典型的なタテ町であった 1912 年に樺太守備隊が撤退し、樺太庁は唯一の行政府となった。だが、樺太庁は新市街 地の中心になりながら、第 2 の城というシンボル性を持つことはできなかった。その敷地 が第 2 の中心街路である神社通り(現在のコムニスチーチェスキー大通り)に面していた ことは確かである。だが、この庁舎は神社通りに背を向けて北向きに建てられていた。事 実、それは中心部にある官公庁舎の一つでしかなかった。そうした中で、樺太庁は本庁舎 の代わりに新しいシンボルを建設し始めた。それが 1912 年 8 月に建てられた樺太神社であ った。それは単に日本の植民地化のシンボルというだけでなく、樺太の「首都」である豊 原の新たな中心核となった。樺太庁は駅と神社を結ぶ道路(神社通り




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