【歴史】元寇・文永の役 モンゴル・朝鮮軍が日本で行った“殺戮”…それでも日本の武士「勇敢にして死をみること畏れず」★2 at NEWSPLUS
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1: ◆azusaI.91Q @あずささん ★@転載は禁止
14/06/08 13:01:47.05 0
今から740年前、中国全土をほぼ手中にし、日本も従属させたいモンゴル帝国(元)皇帝のフビライ・ハーンは
朝鮮半島を治める高麗と連合で3万以上の兵を派遣する。元寇(げんこう)と呼ばれる日本本土が2度にわたり
侵略を受けた事件である。対する日本は鎌倉幕府執権・北条時宗の命で集まった御家人ら約1万人。
武勲をあげて所領拡大を目指した御家人らの士気も高かったが、兵力の差もさることながら、集団戦法と
未知の兵器を前に日本の武士は次第に翻弄されていった。

突貫作業

元への服属を求めるフビライの国書を携えて日本に渡った使節がたびたび追い返されたため、業を煮やした
フビライは武力による日本進攻を決意。軍船を造るにあたって、文永11(1274)年1月、戦艦300隻など
軍船の建造を高麗に命じている。
平成23年、長崎沖の海底から弘安4(1281)年の2度目の元寇で使ったとみられる沈没船が見つかっている。
ほぼ完全な状態だったため復元してみると全長が27メートルに及んだ。
これは当時の海外渡航用の貿易船と同じ構造で、一隻で100人程度の兵士が収容できる規模だったといい、
1回目の進攻作戦でもこのような船を求めたことだろう。
だが、日本に大船団を出すのに風向や潮の流れなどを考えると、建造期間は半年しかなく、元が派遣した
ホン・タグの指揮の下、高麗は約3万人の労働者を動員して、昼夜関係なく突貫に次ぐ突貫の作業だったという。
その様子は、「疾(はや)きこと雷電のごとし。民、これに苦しむ」などと表現されている。
しかし、このときの現場を監督するキム・バンギョンは、強固な船だと期限内の完成は難しいと判断。費用が
安くて簡単な構造の高麗船でしのぎ、期間内に高麗が造った船は大小900隻に達する。
そして総司令官のキントが着任後の10月3日、総勢3万人以上からなる兵を収容した船団は合浦(がっぽ)
(現在の大韓民国馬山)から出港する。兵の3分の2はモンゴルと中国で、あとの3分の1が高麗だった。
(以下省略)
※以下の部分はソース元にてご確認ください。

ソース/産経新聞社
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
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