【謎の歴史観】いだて ..
133:日曜8時の名無しさん
19/06/30 14:10:33.23 eNwnbX/2.net
>>1-5
当時の日本ではまだ古式泳法が盛んに行われていましたが、明治の半ばから後半にかけて各地でプールがつくられるようになり、次第に西洋式の競泳大会も開催されるようになりました。
田畑氏もいずれは競泳選手として大会に出場することを夢見ていましたが、その夢は病気によって断たれたのです。
以後は、自分が選手として活躍するのではなく、後輩たちを鍛えて浜名湖の水泳を日本一にしたいと考えるようになりました。
そう考えた田畑氏はすぐに行動を起こします。まず、弁天島の海水浴場を本拠にしているほかの中学校の代表者たちと話し合い、4つの学校と協力して「浜名湾遊泳協会」を設立します。
そして田畑氏は古式泳法の代わりにクロール泳法を導入。1日に何キロも泳がせるスパルタ指導によって後輩を鍛え上げていきました。
やがて第一高等学校から東京帝国大学、朝日新聞社と進んだ田畑氏。当時としては最高のエリートコースを歩みながらも、水泳の指導にはさらに情熱を傾けていきます。
地元の有力者と折衝し、浜名湖の海水浴場の一角に長さ100メートル、幅30メートルのプールを作ったり、1921年には各地の強豪を招いて全国競泳大会を実施したりしていました。
このとき、田畑氏はまだ20代です。
田畑氏は若いときから政治力、交渉力にずぬけたものがあった上、後年に「水泳のために実家の資産を食いつぶしたよ」と振り返るほど、資金面でも大きな貢献をしています。
そんな田畑氏の努力もあり、浜名湾遊泳協会は全国水泳大会で日本一となりますが、彼の目は早くも世界へと向けられていました―。
(続きは大河で)
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