平賀源内は稀代の男色家だった 「美少年大好き」 [きつねうどん★] at LIVEPLUS
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24/04/27 19:52:29.50 akwtRdSL.net
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画像:平賀源内の肖像画 木村黙老著『戯作者考補遺』(写本)より
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男と男が愛し合う「男色(だんしょく/なんしょく)」。
現代では「ボーイズラブ」などと呼ばれて、ドラマ・映画・漫画などで数々の作品が話題になっています。
実は「男色」の歴史は非常に古く、奈良時代に成立した歴史書「日本書紀」にも二人の男性について「男色を思わせる」記述があるそうです。
その後、男色は奈良・平安時代には僧侶や公家の間、戦国時代には武将と家臣の間で広まり、江戸時代に入ると本格的に庶民の間でも男女の性愛同様、ごく普通に嗜まれるようになりました。
そんな江戸時代のこと。「お江戸のレオナルド・ダ・ヴィンチ」こと稀代の天才として大活躍し、現代にもその名を知られるあの平賀源内も、実は筋金入りの「男色家」として知られていたのです。
平賀源内といえば、うなぎ・エレキテルなどで有名ですが、今回は男色家としての一面をご紹介しましょう。
当時、お江戸で流行っていた男色を嗜む天才・平賀源内
平賀源内といえば、江戸時代中頃の人物で、学者・医師・戯作者・浄瑠璃作者・発明家・俳人・画家など、さまざまな顔を持つ天才として知られています。
そのマルチな才能ぶりは長い時を経ても語り継がれ、現代でも「日本のダ・ヴィンチ」「お江戸のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と称され、右に出る人はいないと高い評価をされています。
友人・杉田玄白に「妻を娶れ」と言われても聞き流す
平賀源内は享保13年(1728)、讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の白石家の三男として生まれました。源内は子供時代からその天才ぶりを発揮。
13歳の頃は、薬草の知識「本草学」や儒学を学び長崎へ遊学し、さらに医学・オランダ語・油画など、さまざまな西洋の知識や技術も学びました。
宝暦6年(1756)28歳の頃、源内は脱藩して江戸にやってきました。そして、翌年には、日本初となる薬品の博覧会のような「薬品会」や動植物などの展示会などを催し、江戸中にその名を知られるようになっていきます。
そんな平賀源内は、いつ「男色」を好むようになったのか。子ども時代から同性が好きだったのか、江戸で流行っていた男色に興味を持ち、はまっていったのか……定かではありません。
源内は生涯にわたって妻帯することはなく、親しくしていた杉田玄白などが妻をめとることを勧めても、何食わぬ顔で聞き流していたとか。
文人・狂言師である大田南畝(おおた なんぽ)の随筆『仮名世説』には
「平賀源内は遊女のいる吉原の遊郭には遊びには行かず、当時江戸の三代男色街として知られていた芳町(現在の日本橋人形町あたりか)でよく遊んでいた」
といった記述があります。
源内は、美少年・美青年を好み、特に歌舞伎役者を愛していたといわれています。
つづき
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