【甲子園】1位近畿、2位四国、3位東海>>関東・中国・九州・北海道・北信越・東北【成績】 at HSB
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500:名無しさん@実況は実況板で
18/02/24 07:40:58.07 kajFny+Q.net
骨折していた・・・もう投手は無理/大野倫10
主将の屋良景太は、沖縄の自宅でくつろいでいた。甲子園は2年連続の準優勝に終わった。
那覇空港では前年の5000人には及ばないものの、1000人の県民が待ち受けて拍手を
送ってくれた。厳しかった高校野球を終え、心と体を休めていた。
何げなく、テレビをつけた。自分たちが映っていた。甲子園の閉会式のシーンだった。
その時、屋良は跳び起きた。「何だ、これは・・!」と叫んだ。大野の肘が曲がっていた。
曲がったまま行進し曲がったまま整列していた。屋良は隣に並んでいたが気付いていなかった。
屋良 肘が変な方向に曲がっていて・・。
その時、初めて倫が右肘を故障していたことを知ったんです。
いつも隣に整列していたのに全く気付かなかった。
オレは何をやっていたんだろうって思いました。倫が1人で頑張っていたのに・・。
オレは気付いてやれなかった。そればかりか倫のことを責めてしまった。
他のチームメートも同じだった。大会を終えて、沖縄に戻ってから大野の故障を知った。
大会中から新聞などで肘の故障は報道されていた。だが、彼らは目にしていなかった。
移動のバスに医師が同乗していたこともある。
それもチーム内では深刻に受け止められていなかった。
肩痛でベンチを外れた末吉朝勝が、その理由を推測する。
末吉 当時はちょっと痛いくらいでは、練習をやめなかった・・。
時代的にも故障に鈍感だったというのもあると思います。
大野は甲子園大会の後、高校日本代表に選出され指名打者として出場した。
桐蔭学園の高木大成や、星稜の松井秀喜とともに打者として活躍した。
沖縄に戻ると検査を受けた。春に右肘を痛めてから、ずっと避け続けていた病院へ行った。
診断は「右肘の剥離骨折」だった。亀裂も入っており、軟骨も欠けていた。
医師からは「この肘の状態ではピッチャーは無理だろうね」と言われた。
大野 覚悟はしていたので、やっぱりかと。ただ、骨折にはビックリしました。
亀裂も入り、軟骨も欠けていると。ビー玉くらいの骨片も浮いていました。
10月に沖縄県内の病院で手術を受けた。本格的なスローイング再開まで約1年かかった。
チームメートは、ギプス姿の大野に声をかけられなかった。
本来ならば「大丈夫か」と気遣いたかった。「きっと治るよ」と励ましたかった。
だが、彼らは大会前に大野を責めていた。不調なのに練習しない態度を非難した。
ベンチを外れた知念直人は、草刈り鎌を手に大野を追いかけ回したこともある。
知念 オレは何てことをしたんだって思いました。あいつの頑張りも知らずに・・。
本当に申し訳ないなと思います。
いつも会うたびに「あの時はごめんな」と謝ろうと思うんですけど、まだ言えてないんですよね。
ここまで来たら、死ぬ時に謝ろうと思ってるんですよ(笑い)。
大野の故障は、高校球界にも影響を及ぼした。
甲子園で投じた773球は、あまりにも過酷ではないか。
3回戦から4連投の546球は酷使ではないか。
結果的にベンチ入り人数が15人から18人に増え大会前のメディカルチェックにつながっていく。
監督の栽を批判する声も上がった。その声が、大野を奮い立たせた。(敬称略=つづく)

501:名無しさん@実況は実況板で
18/02/24 08:04:22.59 kajFny+Q.net
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502:名無しさん@実況は実況板で
18/02/24 08:38:53.82 kajFny+Q.net
タイケン学園、創立20周年記念に関係者800人
昨秋の長野大会で初優勝した日本ウェルネスなどをグループに持つタイケン学園が22日、
都内で創立20周年の記念式典を行い、関係者約800人が集った。
現在、日本ウェルネス高校は東京と長野が高野連に加盟している。
柴岡三千夫理事長は「沖縄は(県高野連に)加盟申請を行いました。
来年以降、宮城や茨城なども(開校し)どんどん加盟していきたいです」と話した。
タイケン学園グループは専門職の人材を全国に輩出。
五輪や、国内外の大会で活躍するアスリートやトレーナーを輩出していることでも知られる。

503:名無しさん@実況は実況板で
18/02/24 11:41:14.92 kajFny+Q.net
(白球の世紀:11)米騒動、富山から各地へ 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
1918年7月31日に始まった第4回全国中等学校優勝野球大会の兵庫大会では、
関西学院中(現関西学院)は順当に勝ち進んだ。
8月1日の2回戦は神戸一中(現神戸)に9−2、2日の準決勝は御影師範に10−0。
3日の神戸商との決勝では、2点を追う八回表に逆転を遂げ、2万人と伝えられる観衆を
沸かせた。
この間、社会情勢は急速に暗転していた。
政府は2日、シベリア出兵宣言を公表した。
米国の要請と、シベリアで孤立したチェコスロバキア軍の救出を強調した内容で、ロシアの
領土の尊重と内政不干渉をうたった。だが、日本軍の派遣人員は最大7万2400(18年8月)
に達し、米国9千、英国7千、中国2千、伊1400、仏1300、カナダ少数に比べ群を抜いていた。
陸軍省軍務局長の奈良武次中将は同日夜、記者に「出兵となれば米価は益(ますます)昂(あが)
るでせうね」と語ったと、4日付大阪朝日新聞夕刊は記す。
同3日付夕刊によれば、白米の値段は1升40銭で「日本開闢(かいびゃく)以来の高値」。
和歌山では白米不足で一部旅館が休業。政府は大手総合商社の鈴木商店(本社神戸市=双日、
神戸製鋼所、帝人などの前身)に、朝鮮から買い込んだ米の放出を命じたとする。記事は
「どの位(くらい)の値でどんな方法で売り出すのかも市では全く没交渉なので処置に困ってゐます」
と語る大阪市の担当者の発言を引用し、同社への非難を強くにじませた。
関西学院中が全国大会出場を決めたその日、富山県で事件が持ち上がった。
地元紙「高岡新報」は4日付で「女軍(ぢょぐん)米屋に薄(せま)る/百七八十名は三隊に
分れて/町有志及び米屋を襲ふ」と、同県西水橋町(現富山市)で、生活に困った漁村の
女性が米屋に強訴した事件を伝えた。
翌5日付大阪朝日が「女房連の一揆/米高に堪(たま)り兼(か)ね『餓死すると』口々に
喚き立て/三百余名米屋へ押しかく」と報道。枯れ野の火のように騒ぎは広まった。

504:名無しさん@実況は実況板で
18/02/24 11:58:27.68 kajFny+Q.net
(白球の世紀:12)神戸で焼き打ち、大会延期 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
「米騒動」は1918年7月23日ごろ、富山県魚津町(現魚津市)で、米価の暴騰に怒った女性
たちが集団で異議を申し立てたのが起点とされる。8月3日に起きた同県西水橋町(現富山市)
の「女房連の一揆」が県外へ報じられ、暴動の度合いを増しながら各地へ広がった。
「米穀取引所を襲撃す/岡山における立会後の椿事(ちんじ)」「女房一揆/飛火(とびひ)か/
高松の惨状」。8月10日付大阪朝日新聞夕刊は点描する。同じ夕刊がシベリアへ出兵する
浦潮(ウラジオストク)派遣軍の編成も告げる。10日付朝刊は「万歳の声と共に!!」の見出し
で出征兵士らの写真を載せ、右隣に「怨嗟(えんさ)の声/米を求める凄(すご)い叫び」と
神戸の対応の混乱を報道。その下には、第4回全国中等学校優勝野球大会で全14地区の
代表校が決まったとする記事がある。
11日付朝刊で大阪朝日は1面社告で予定通りの大会開催を強調。だが、9〜10日に京都市、
兵庫県・播州地方、愛媛県今治町(現今治市)などで騒乱が発生。11日、京都で軍隊が出動。
名古屋で警官隊が抜刀した。
神戸で外地産米の売り出しが伝票の不手際から停滞。12日付大阪朝日夕刊は「責任は鈴木商店」
と報道。12日夜に神戸で、鈴木商店と隣の神戸新聞社が約3500人に焼き打ちされる。
騒乱は兵庫代表・関西学院中(現関西学院)の野球部員も無関係ではなかった。
3年生の三輪竹男の父徳太郎は、鈴木商店傘下だった神戸製鋼所の専属運送会社を営んでいた。
徳太郎らは製鋼所の支配人宅を焼き打ちから守ろうと、優れた防火剤でもある味噌を大量に
集め塀全体に塗った。竹男の長男武は、「おやじは生前よくその話をした」と語る。竹男は戦後、
日本高野連副会長を務めた。
報道と焼き打ちの実態を「鼠(ねずみ) 鈴木商店焼打ち事件」にまとめた作家の城山三郎は
「一鈴木商店が、天下の不満を一身に引受(ひきう)けた」と記す。14日付大阪朝日夕刊1面に
「全国野球大会延期 開催日は追(おっ)て発表」の社告が出た。

505:名無しさん@実況は実況板で
18/02/24 12:08:10.48 kajFny+Q.net
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506:名無しさん@実況は実況板で
18/02/24 13:57:49.28 kajFny+Q.net
(白球の世紀:13)削り取られた1面社説 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
米価が引き金の騒乱は続いた。
大阪朝日新聞は1918年8月13日夕刊(14日付)で第4回全国中等学校優勝野球大会の
延期を告げたが、翌14日付朝刊は変わり果てた姿となった。
1面トップの社説全文が削られ、刃物の跡が紙幅いっぱいに残った題字脇の欄外に「号外」の
大活字。その下に「発売を禁止せられたるにつき其筋(そのすじ)の忌諱(きい)に触れたりと
推測せらるべき記事を削除し本号外を発行せり」とある。
輪転機にかける鉛版をノミで削り取った紙面だった。
大日本帝国憲法は言論の自由を「法律ノ範囲内」で認め(第29条)、内務大臣は「安寧秩序ヲ
紊(ミダ)シ又ハ風俗ヲ害スルモノト認ムルトキ」は、新聞紙法を根拠に発売禁止や記事差し止め
ができ(同法第23条)、発行人や編集人に禁錮や罰金などの罰則もあった(同第38条など)。
削られる前の紙面が、朝日新聞大阪本社に残っている。
日の目を見なかった社説には「吾人(ごじん)が平生繰り返し繰り返し当局の悪政を糾弾し、
その反省を求めたるに拘(かかわ)らず、彼等(かれら)は政治道徳を弁(わきま)へず・・・米価を
暴騰せしめ、国民生活を脅かし、以(もっ)て茲(ここ)に騒動を惹起(じゃっき)せしめた」などとある。
米騒動は13日、さらに広がって東京にも飛び火。寺内正毅(まさたけ)内閣は14日夜、米騒動に
関する記事一切の掲載禁止を命令した。15日付朝刊は、1面トップの社説に加え英文欄の一部と
関係談話など、2面は約100行分、3面は約140行余分、5面経済面はコラム二つ、7面社会面は
半分以上が削り取られた。
大阪で夜間外出禁止令が出され、不穏な情勢は続く中、東北代表の一関中(岩手、現一関一)から
九州代表の中学明善(福岡、現明善)まで、代表14校は全国大会に備え、既に関西入り。
抽選も済ませ、各校は宿舎で推移を見守っていた。
大会関係者は打開策を模索。
大阪朝日の本社に近い北野中(大阪、現北野)の校庭を借り、一般来観者を締め出して
試合する案も出て大阪府警察部長の了解も得た。だが結局、中止と決まった。

507:名無しさん@実況は実況板で
18/02/24 14:11:13.77 kajFny+Q.net
(白球の世紀:14)中止、主将集めて告げる 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
米騒動の争乱が続く1918年8月16日午前10時、
宿舎などに待機していた第4回全国中等学校優勝野球大会の参加14校の監督と主将らが、
大阪朝日新聞に集められた。副社長の上野精一が、一同に大会の中止を告げた。
深紅の優勝旗はさらに1年間、前年優勝校でこの年も東海代表だった、愛知一中(現旭丘)が
保管することになった。
この日発行の夕刊(17日付)1面に「第四回全国野球大会中止」とだけ社告が出た。
題字左脇に掲げた論説「朝日評壇」は「非立憲横暴の内閣は如何(いか)にしても退治せねば
ならぬ」と、激越な語調でビリケンこと寺内正毅(まさたけ)内閣を糾弾している。
翌17日付朝刊社会面に「選手諸君及び一般学生諸君に檄(げき)して大会中止の意義を
開陳す」として、異例の長文の社告が掲げられた。筆者は大阪朝日の初代社会部長、
長谷川如是閑(にょぜかん)だった。
―政府が無謀にも一切の新聞雑誌に対して現下の重大なる社会的形勢に就いて平たい
事実をさえ伝ふる事を厳禁した為(た)めに、諸君の父兄は・・・非常の不安状態に陥って居る
のであります・・・。
中止の理由でも、長谷川は強い政府批判を繰り広げた。
前年の雪辱を期し、優勝候補だった兵庫代表の関西学院中(現関西学院)関係者の落胆は
大きかった。同高等学部文科教員で伝道師の村上博輔は16日の日記に「大(おおい)ニ癪
(しゃく)ニ障(さわ)ル」と書いた。「昨年に続いて天魔に魅入られたかの如(ごと)くであった」
と「関西学院スポーツ史話」は記す。
政権を糾弾する記者の集会が相次いだ。最大規模のものが、25日に大阪ホテルで開かれた
関西新聞社通信社大会だった。86社の166人が参加し、寺内内閣に退陣を迫る決議を採択。
それを報じる26日付大阪朝日夕刊社会面に次の一文があった。
「我(わが)大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判(さばき)の日に近づいてゐるのではなからうか。
『白虹(はっこう)日を貫けり』と昔の人が呟(つぶや)いた不吉な兆(しらせ)が・・・」
批判者の隙を権力は見逃さなかった。

508:名無しさん@実況は実況板で
18/02/24 14:20:20.23 kajFny+Q.net
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509:名無しさん@実況は実況板で
18/02/24 14:58:05.07 kajFny+Q.net
(白球の世紀:15)記事に「白虹」、当局動く 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
「白虹(はっこう)日を貫けり」―。米騒動による全国中等学校優勝野球大会の全国大会中止
から9日後、寺内内閣を糾弾する記者の大会を報じた1918年8月26日付夕刊(25日発行)で
大阪朝日新聞が使った表現は、中国の歴史書「史記」が出典とされる。
「白虹」は兵を、「日」は君主を指し、凶事の前兆を意味した。
大阪朝日新聞の社内の記録によれば、社長の村山龍平は日頃から新聞紙法による弾圧を
警戒し、政権を批判する際でも皇室と関連づけられる表現はしないよう、編集幹部に注意して
いたという。問題の原稿は、社会部長の長谷川如是閑(にょぜかん)が途中まで手を入れて
いたが、用事があって外出。続きは別の人が監修したが、「白虹」の意味を解さないまま工場
へ回していた。印刷が始まった後で複数の幹部が「危ない」と指摘。輪転機を止めて「白虹」の
前後4行を鉛版から削ったが、すでに1万部が市中へ発送済みだった。
当局は、これを内乱を促し皇室の尊厳を傷つける言説だと問題視した。当時の新聞紙法は
「安寧秩序ヲ紊(みだ)シ又(また)ハ風俗ヲ害スル事項」を掲載すると、発行人と編集人は
禁錮か罰金が科せられ(第41条)、裁判所は新聞の発行を永久に禁止できた(第43条)。
9月9日、同社発行兼編集人の山口信雄と筆者の大西利夫が、同法第41条違反の罪で
在宅起訴される。
米騒動は44道府県で約100万人が加わったとされる。26府県で軍隊が出動。
2万5千人以上が検挙され、死刑2人、無期懲役12人を含む計8千人超が厳罰を受けた。
9月、様々な組織が、争乱の事後処理や出直しを強いられた。寺内正毅(まさたけ)首相は
9月21日、事件の責任を取って辞表を提出。
29日に本格的な政党内閣、原敬政権が発足する。
大会中止で悲願の優勝が再び遠のいた関西学院中(現関西学院)野球部は、対外試合を
精力的にこなし、3度目の挑戦に向け再出発。一方、大会主催者の大阪朝日は、「白虹」の
記事をめぐって存続の危機に立たされていた。

510:名無しさん@実況は実況板で
18/02/24 15:03:24.25 kajFny+Q.net
(白球の世紀:16)「不偏不党」、発禁免れる 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
「白虹(はっこう)日を貫けり」の表現をめぐる大阪朝日新聞記者、大西利夫と、同発行兼編集人、
山口信雄に対する初公判は1918年9月25日、大阪区裁判所で開かれた。検察側は同社の
法廷担当記者に、新聞紙法第43条に基づいて朝日新聞の発行禁止を論告する方針を明言した。
法廷外でも、朝日新聞への攻撃が広がった。28日、村山龍平社長が暴漢に襲われ、軽傷を
負う。内相だった後藤新平の意向を受けた雑誌「新時代」は反朝日キャンペーンを展開。
10月には同紙を「国賊」と呼ぶ右翼団体が演説会を開き、不買や広告不掲載を働きかけた。
政権側から廃業を突きつけられ、大阪朝日は10月中〜下旬、社長の村山龍平、編集局長の
鳥居素川、社会部長の長谷川如是閑(にょぜかん)ら、幹部の退社を相次いで発表する。
11月15日には、「不偏不党」を初めてうたった編集綱領を公表した。
さらに判決を3日後に控えた12月1日、新しく編集局顧問に就いた西村天囚は「本社の違反
事件を報じ、併せて我(わが)社の本領を宣明す」と題した長文の社告を1面に掲載。近年の
論説が穏健を欠き、偏りがあったことを認めた。全面降伏だった。
これを読んだ大阪控訴院検事長の小林芳郎は「もう追及するには及ばぬ、発行禁止の必要は
ない」と語ったという。4日、山口と大西に禁錮2カ月が言い渡されたが、同紙は発行禁止を
免れた。弁護人の一人だった花井卓蔵は「大阪朝日が、唯一の弱点すなわち皇室の問題に
ついては追及されると頗(すこぶ)る苦しむ、ということを或種(あるしゅ)の思想団体に覚えら
れてしまったのは、かえすがえすも遺憾」と記した。
主張を曲げ、節を折り、かろうじて社の存続を果たした大阪朝日は翌夏、第5回全国中等学校
優勝野球大会を開いた。
悲運の準優勝から3度目の挑戦となった関西学院中(現関西学院)だが、兵庫大会2回戦で
敗退。神戸一中(現神戸)が代表となり県勢初の全国優勝を果たす。
関西学院中は三度(みたび)、雪辱を期した。

511:名無しさん@実況は実況板で
18/02/24 16:09:52.69 kajFny+Q.net
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512:名無しさん@実況は実況板で
18/02/24 16:44:24.97 kajFny+Q.net
(白球の世紀:17)関学初優勝、エース早世 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
米騒動による中止から2年を経て、関西学院中(現関西学院)は1920年8月19日、
第6回全国中等学校優勝野球大会で悲願の全国制覇を果たした。
悲運の準優勝から、3年がかりの大願成就だった。
決勝で東京の慶応普通部(現慶応)に17−0の大差の勝利。
20日付大阪朝日新聞夕刊は「無人の境を行く如(ごと)く」の見出し。
立役者は強力打線に加え、主将で右腕のアンダースロー沢昇。
捕手は米騒動の焼き打ちの折、父親の奔走を眼前にした三輪竹男だった。
「人多ク迚(とて)モ電車ニ乗レザルヲ期シ武庫川マデ歩ク」。
応援に行った関西学院高等学部文科教員で伝道師の村上博輔は、日記にその雑踏ぶりを
記す。選手らは数百人の応援団と共に、特別電車で神戸まで凱旋(がいせん)した。
だが、沢は重い病を抱えていた。同年春ごろから、40度近い発熱や寝汗など、
肋膜(ろくまく)炎の症状に苦しんでいた。大会中は同校OBの医師が付き添った。
大会本部員が心配して「大丈夫ですか」と声をかけると、沢は「大丈夫です」と答えたが、
実は準決勝の後、喀血(かっけつ)していた(「関西学院高中部百年史」など)。
沢は翌春、関西学院高等商業学部へ進学、夏に喉頭(こうとう)結核と診断される。
親が移住していた台湾で療養生活を送ったが、22年1月22日、20歳で死去した。
関西学院には成績欄が空白のままの、進学後の沢の学籍簿が残る。
36年がかりで「関西学院スポーツ史話」を著した同大学名誉教授の米田満は
「本人に病気への無理解があったことは否めない」と残念がった。
100年後も、関西学院の野球部員は練習に励んでいる。
当時の紙面をもとに部員らに尋ねると、社会科が得意という2年の佐藤太紀は「米騒動は
知っていたが、先輩が影響を受けたとは」と話す。現主将で2年の三坂天真は「野球に打ち
込み、すべてをかけていた気持ちは分かる気がする。でもそんなに若く亡くなるなんて、
どれほど無念だっただろう」と語った。

513:名無しさん@実況は実況板で
18/02/24 18:30:48.33 kajFny+Q.net
中高生が部活を楽しむために、練習規制案で思うこと
URLリンク(www.nikkansports.com)

514:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 01:11:18.15 Vi3QVugm.net
(白球の世紀:18)初の連覇、ブーム始まる 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
《第3章》
1923年7月8日、第9回全国中等学校優勝野球大会の開催を知らせる社告と前後して、
2人の文化人が新聞紙面をにぎわしていた。一人は、小説家の有島武郎。もう一人は、
無政府主義者の大杉栄だった。
8〜11日付紙面は、「カインの末裔(まつえい)」「或(あ)る女」などで知られる有島が、
軽井沢の別荘で雑誌記者の愛人・波多野秋子と心中した事件を、遺書の内容も交えて
連日大きく扱っていた。
そして12日付夕刊社会面は、仏・パリ近郊のメーデーに参加して現地当局によって
日本へ強制送還された大杉が、神戸港へ到着した模様を報じた。
「クリーム色のセルの背広に白のヘルメットを被(かぶ)り、ステッキを持って葉巻を
燻(くゆ)らしながら平然たるもの」。妻の伊藤野枝が長女魔子を連れて出迎えたが、
大杉は上陸と同時に警察へ連行される。
2人は翌日再会を果たすが、2カ月足らずのうちに起こる大災害と、それに乗じて
殺される運命は知る由もなかった。
シベリア出兵は長期化。
米国が撤兵し、22年12月のソビエト社会主義共和国連邦成立後も日本軍は
北サハリンの占領を続け、23年7月時点も事態収拾をめぐる交渉が続いていた。
野球人気は高まり、21年ごろから「ブームの第一期」が始まったと「大会40年史」は記す。
第7、8回大会は和歌山中(現桐蔭)が史上初の連覇を遂げ、第9回大会は
松山商(愛媛)も並んで有力視された。23年7月27日付大阪朝日は「今から勝った
気でゐる和中松商」の見出しで、紀和・四国両大会の情勢を概説。紀和大会で3連覇を狙う
和歌山中に海草中(和歌山、現向陽)が挑む模様を、「玉砕を期して真向(まっこう)から
突進しやうといふところに何者にも代へ難き若人の純真さがある」と評した。
実際は和歌山予選初戦で和歌山中に3−9で敗れた海草中が敗者復活戦を勝ち残るも、
決勝で再び同校に2−5で敗れた。
全国大会も和歌山中と松山商が有力視されたが、「伏兵」が現れる。

515:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 01:27:53.31 Vi3QVugm.net
(白球の世紀:19)木の客席、新球場手狭に 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
全国中等学校優勝野球大会で第3回大会から使用された鳴尾球場は、
1916年に阪神電鉄が整備した総合運動場の中にあった。
第2回大会の地方大会が最盛期だった同年7月28日付大阪朝日新聞に、
「東洋一の運動場/鳴尾に新設さる」という記事が載った。
野球場は2面あり、スタンドは木造の移動式で「本塁左右へ組立(くみた)てられる」とある。
だが、その後高まった野球人気で球場は手狭になっていた。
大正の好況期、国内の私鉄各社は、沿線に新興住宅地や行楽施設を相次ぎ開発した。
沿線の宅地分譲と並行して宝塚少女歌劇団の興行を成功させた阪急電鉄が、その代表例だ。
ライバルの阪神は本格的な大規模開発の第1弾として22年10〜11月、兵庫県が手がけた
武庫川改修で生じた河川跡地を買収。車両課長だった丸山繁を米国へ派遣して研究していた、
大規模野球場の計画を本格化させつつあった。
「阪急への対抗心がその背景にあった」と、「阪神電気鉄道百年史」は記す。
そんな矢先の23年8月16日に始まった第9回大会は出場19校のうち半数以上が初出場だった。
なかでも地元兵庫の代表は、鳴尾球場から2キロ足らずの場所に6年前にできたばかりの
甲陽中(現甲陽学院)だった。大会初日、東グラウンド第2試合に登場し、
関東代表の宇都宮商(栃木)と対戦し、相手に先取を許すも逆転で勝利する。
17日付大阪朝日新聞神戸付録(現神戸版)は「先(ま)づ関東勢を一蹴す/
甲陽健児の腕いよいよ冴(さ)ゆ」の見出し。
この日の2回戦は優勝候補の一角、四国代表の松山商(愛媛)が相手だった。
同紙は不利とみたか、「刀折れ矢尽くるも勝たざる可(べ)からざる試合である。
奮へ甲陽!」と記した。
甲陽中は松山商の好投手、藤本定義(後にプロ野球巨人の初代監督)に抑えられ
八回終わって0−2。だが、九回表1死一、二塁から、4番岡田貴一が強振。
打球は左翼席へ突き刺さった。

516:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 02:04:39.32 Vi3QVugm.net
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517:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 02:33:41.30 Vi3QVugm.net
(白球の世紀:20)あふれる観衆、試合中断 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
「大殊勲者岡田君の/痛快な本塁打/美事(みごと)に勝敗の地位を替ゆ」―。
逆転劇で優勝候補の松山商(愛媛)を破った地元兵庫代表・甲陽中(現甲陽学院)の活躍に、
1923年8月18日付大阪朝日新聞神戸付録(現神戸版)の見出しが躍った。
負けた松山商の剛腕、藤本定義はその後、早稲田大でエースとして活躍。
プロ野球巨人の初代監督や阪神の監督も務めた。逆転打を放った岡田貴一は戦後、
「振りおくれないのが精一杯(せいいっぱい)だった」と振り返る。初出場校は大金星で
波に乗った。18日に東京の早稲田実を6−1で破って準決勝へと駒を進めた。
19日は日曜日。4強のうち3校が関西勢で、
午前10時からの第1試合は甲陽中対立命館中(京都、現立命館)、午後2時開始予定の
第2試合は和歌山中(現桐蔭)対松江中(島根、現松江北)だった。
休日の好カードに観衆が殺到した。
徹夜組に加え、歩いて来た人で未明の午前3時に鳴尾球場は満員に。
阪神電鉄は沿線各駅に「もう観(み)る場所はありません」と貼り紙をしたが、さらに人が
押し寄せた。午前5時ごろから球場近くの電柱は人が鈴なりとなり、得点板の上にも
「鳩(はと)のやうにズラリとファンが」(20日付大阪朝日新聞)。
第1試合の開始直後、一塁〜右翼席の群衆があふれ出て内外野へなだれ込み、
試合は1時間半ほど中断。観客を分散させようと第2試合は急きょ西グラウンドに移し、
午後1時の開始となった。
甲陽中は13−5で立命館中に勝利。これを報じた20日付大阪朝日新聞は「未曽有の大観衆を
迎えて一時は殆(ほと)んど人力では整理も不可能の状態となり・・・非常に遺憾に存じます」と、
「おことはり」を出した。
20日の決勝は3連覇を狙う和歌山中が相手。
甲陽中は四回、適時三塁打など4得点し流れをつかみ、5−2で優勝。21日付同紙夕刊は
「常勝軍敗る」の見出しの下に「アサヒ・スポーツ 野球大会号 九月一日発行」の広告。
その発売日に天変地異が起こる。

518:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 06:29:14.30 Vi3QVugm.net
(白球の世紀:21)優勝から12日後、大震災 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
「全国中等学校野球大会号/アサヒ・スポーツ 九月一日発行/再び熱狂的に読者の歓迎を受く」―。
兵庫代表の初出場校、甲陽中(現甲陽学院)の優勝から11日を経た1923年8月31日、
大阪朝日新聞夕刊(9月1日付)は、同社が発行していた月刊スポーツ誌特別号の発売を
3段抜きの社告で報じた。だが、雑誌発行日の午前11時58分、関東地方を大地震が襲った。
昼食前で炊事中だった家が多く、同時多発的に火災が発生。延焼は3日間続いた。
死者・行方不明者は10万5千人を超え、なかでも東京府の同約7万人のうち約4万人は、
旧陸軍本所被服廠(ひふくしょう)跡(墨田区横網)へ避難した人々が馬車までも吹き上げる
巨大な火災旋風に巻き込まれ、焼死や窒息死したものだった。
大蔵省や内務省などの官庁や東京朝日、読売など新聞社の多くも全焼、首都圏の通信は途絶した。
大阪朝日が1日最初に出した号外は「東海道沼津付近を中心として近来稀有(けう)の強震」。
同日の第2号外は「地震と駿河湾の大海嘯(かいしょう)(津波)/富士山爆発の変じたものか/
地震から横浜大火か」だった。午後5時20分までに名古屋運輸事務所へ入った情報が東京の被害に
言及。第4号外で初めて「東京全市に大火起(おこ)る/倒壊家屋多く市中大混乱」と首都の壊滅を報じた。
東京朝日新聞は3年前に新築した社屋が焼け、芝浦の飛行場にあった社有機も全焼。
社内の記録によれば、首都圏の惨状を報道するため独身で「後顧の憂いのない」若い記者9人を
四つの班に分け、「帰ることはならん」と言いつけ中山道や東海道から大阪へ向かわせた。
うち1班は出発直後、出会った軍隊に「朝鮮人の暴動がある」と途中で追い返されてきたため、
「そんな暴動なんかありはしない、もう一度行け」と、荷物を追加して再び出発させたという。
これとは別に浜松や大阪を発った飛行機が、東京の惨状を2日発行夕刊で伝えた。
同日、東京に戒厳令。流言飛語があふれていた。

519:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 07:01:16.80 Vi3QVugm.net
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520:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 07:12:19.79 Vi3QVugm.net
(白球の世紀:22)「転機を」新球場構想 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
1923年9月1日に起きた関東大震災では、デマが乱れ飛んだ。
「社会主義者及(およ)ビ朝鮮人ノ放火多シ」(1日午後3時ごろ)、
「朝鮮人約二百名・・・殺傷、掠奪(りゃくだつ)、放火等ヲ恣(ほしいまま)ニシ、
漸次東京方面ニ襲来シツツアリ」(2日午後2時ごろ)・・・。
警視庁の「大正大震火災誌」(25年)は「流言蜚語(りゅうげんひご)」を記録する。
恐怖にかられた「自警団」らが朝鮮人らを襲った。
政府の中央防災会議は2009年までにまとめた報告書で、
震災の死者10万5千人のうち殺害によるものを1〜数%と推計。
殺害された朝鮮人は、地震直後の在日朝鮮人らによる「6600人」との調査や
「5千人」とする推定があるが、正確な数ははっきりしない。
亀戸では4〜5日未明、警察署で騒いだ社会主義者ら計14人を憲兵らが刺殺した。
社屋が焼失した東京朝日は25日、夕刊発行を再開したが、その日に発売禁止。
無政府主義者大杉栄の災厄を報じたためだった。
大杉と妻の伊藤野枝、おいの橘宗一を麹町憲兵分隊長の甘粕正彦らが16日に虐殺。
27日付夕刊に載せた3人の棺(ひつぎ)の写真も殺した側の当局が問題とした。
首都圏で惨劇と混乱が続くなか、阪神電鉄はある経営判断を迫られていた。
鳴尾球場の後継策だ。専務の三崎省三は、かねて研究していた米国型の大野球場の
建設に踏み切る。取締役会が正式に球場建設を決めたのは11月28日。
「悲観のドン底から楽観への転機を」と三崎は24年1月、震災復興の展望を問う大阪の
調査会社に答えている。
阪神電鉄が米国へ派遣した丸山繁は、当時のニューヨーク・ジャイアンツの本拠地、
ポログラウンドの設計図を入手。さらに「世界一」と称されたヤンキースタジアムが
23年4月に完成。それらを参考に、設計担当の野田誠三(後の阪神電鉄社長)は、
約8万人を収容する東洋最大の球場を構想した。
24年は中国の暦法十干と十二支、それぞれが先頭の「甲子(きのえね)」の年だった。
それにちなみ、巨大球場の名は「甲子園」と決まった。

521:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 07:36:47.96 Vi3QVugm.net
(白球の世紀:23)センバツ、初回は名古屋 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
関東大震災から半年後の1924年3月11日、
阪神電鉄は東洋最大の野球場を兵庫県鳴尾村(現西宮市)で着工した。
「甲子園」の名を、大阪毎日新聞は着工に先立つ3月9日付紙面で報じた。
「米国の粋を集めた/阪神枝川の大運動場」とうたった記事の末尾2行に、
「同運動場は甲子園運動場と名づけ十一日午前十一時地鎮祭を行ふ由」とある。
その地鎮祭と球場の完成予想図を載せた12日付夕刊の3日後、
15日付同紙夕刊に社告が出た。
「全国選抜中等学校野球大会/四月一、二、三日―名古屋市外山本球場/
主催 大阪毎日新聞名古屋支局」。
本文は「・・・名古屋に定めたのは従来大阪付近学校の優勝率が多いのは風土の関係に
ありとの説を試験せんが為(た)めと、及び中京ファンの希望黙止し難き為めである」と述べ、
市岡中(大阪、現市岡)、高松商(香川)、愛知一中(現旭丘)、早稲田実(東京)などの8校を
参加校とした。
「選抜高校野球大会40年史」は「技量、品位ともにすぐれたチームを全国的視野から自由に
選んで戦わせるユニークな方針」は「活躍の場を追い求めていた多くの強チームに、刺激と
希望を与えた」と述べる。メディア史研究家の有山輝雄は「人気が高い中学野球の大会を開き、
しかも全国の優秀チームを一堂に集めてみせた。
大阪毎日の力量を誇示するイベントだった」と分析する。大会は当初、
地方球界に刺激を与えるため、各地を移動して開く計画だったと、大会40年史は記す。
雨で4月5日に延びた決勝は、高松商と早稲田実の対戦だった。早実は震災で
生徒約500人が被災し、10人が死亡。上級生らは被災生徒を支援するため栃木の
納豆の委託販売を手がけ、5万本余を売ったという。痛手を乗り越えての出場だったが、
決勝は0−2で惜敗。紫紺の優勝旗は四国へ渡った。
一方、突貫工事の甲子園の建設現場で、
種々の土を盛っては滑り込みを繰り返す奇妙な男がいた。

522:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 07:44:05.35 Vi3QVugm.net
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523:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 08:00:27.60 Vi3QVugm.net
謎の米国人球児「ジョン君」 芥川龍之介との浅からぬ縁
札幌市南区のエドウィン・ダン記念館には、「北海道の酪農の父」と呼ばれた彼の事跡を
紹介する資料とともに、三男で1916年の第2回全国中等学校優勝野球大会を沸かせた
米国籍球児のジョン・ダンが、ある人物と一緒に撮られた写真が所蔵されている。
日本人らしくない容姿にも見えるその男は、小説家の芥川龍之介だと、写真を提供した
親族は伝え聞いていた。
朝日新聞社はこのほど、顔認証などの画像解析が専門で日本画像認識協会理事の
山内寛紀・立命館大学名誉教授に、本社が所蔵する芥川の複数の肖像写真との比較を
依頼した。
その結果によれば、個人差が出やすい耳や鼻の外形のほか、眉と目の位置関係や顔の
輪郭、髪の生え際、えくぼ、唇の形などがいずれもよく一致。顔写真の鑑定結果では5段階で
最も確度が高い、1万分の一を超える精度で「同一人物」と判断できるという。
エドウィン・ダンの長兄エドウィン・ダン・ジュニアは文学に傾倒し、芥川と親交を結んでいた。
その縁で、「羅生門」や「鼻」で名を知られるようになっていた芥川が訪れた際、弟たちと一緒の
写真が撮影されたとみられる。(敬称略)

524:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 08:16:52.87 Vi3QVugm.net
〜〜〜〜〜〜甲子園〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜甲子園〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜甲子園〜〜〜〜〜〜

525:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 08:26:05.64 Vi3QVugm.net
(白球の世紀:24)土作り全力、甲子園完成 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
阪神甲子園球場は、1924年8月に開かれる第10回全国中等学校優勝野球大会に
間に合わせるため、5カ月足らずの突貫工事で建設された。
真夏の炎天下の野球観戦を想定し、客席の上には大きな屋根(鉄傘)が取りつけられた。
牛が引く巨大ローラーが整地作業に使われ、その周囲で鉄傘の骨組みが組み立てられた。
URLリンク(www.asahi.com)

526:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 08:35:49.37 Vi3QVugm.net
(白球の世紀:25)速報競争、伝書バト舞う 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
《第4章》
高まる野球人気とともに、速報競争が過熱していた。
大阪朝日新聞は1927年7月、第13回全国中等学校優勝野球大会の兵庫大会で、
当時急速に普及していた情報通信手段を試験導入した。伝書バトだ。
8月3日付大阪朝日新聞神戸版は「忠実なものですね」と、「われらが通信の重大な
任務を果(はた)して呉(く)れるあの可愛(かわい)い鳩(はと)君の一人」の活躍ぶりを
紹介する。紀元前のギリシャ古代五輪でも優勝者の速報に使われていたハトが、
大正末〜昭和初期、改めて脚光を浴びていた。
塹壕(ざんごう)戦となった第1次世界大戦。有線通信は敵に寸断され、発明早々の
無線電信は故障続きだったなか、ハトが大活躍した。欧州に追随して旧日本陸軍は19年、
フランスから軍用バト1千羽と、移動鳩舎(きゅうしゃ)などを輸入。
フランス陸軍クレルカン中尉らを指導教官として招請し、旧海軍も彼らからハト通信を学んだ。
23年9月の関東大震災では、地震発生から半月間ほど、他の情報手段が壊滅。
約2千羽のハトによる通信だけが頼りだった。
以後旧日本軍は45年の敗戦まで、他の手段とともにハトを使い続けている。
大会でのハトの利用は、27年5月に大阪朝日新聞へ入社したばかりだった元海軍の
鈴木謙吉が手がけた。横須賀防備隊でクレルカンらから指導を受け、約8年間もハトの
訓練に携わった経歴の持ち主だった。
28年の第14回大会で、ハト通信は本格化。大阪本社屋上の鳩舎には200羽が飼われ、
8月12〜22日の大会期間中、ハトの便が計160回にわたって原稿や写真、イラストを
球場から本社へと運んだ。人だと平均1時間20分かかった原稿便が、ハトは12分だった
という。鈴木は著書「鳩とともに三十六年」で、「ハトのホームランをかっとばして多くの人に
ハトの利用価値を認めてもらわなければならなかった」と振り返る。
この時期、速報をめぐってメディア界に地殻変動が起こっていた。

527:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 08:41:16.27 Vi3QVugm.net
頑張れ乙訓
【第90回選抜高校野球 乙訓高卒業生・元防衛相で衆院議員 稲田朋美さん /京都】
剣道部で毎日練習し、天王山を週2回登山するトレーニングをするなど、在学中は部活ざんまい
でした。穏やかな校風だったので、野球部がセンバツに出場すると聞いて本当に驚きました。
甲子園常連校でもない普通の高校の野球部が、みんなで頑張って夢を実現し、希望を与える
存在になったことをうれしく思います。国会日程が許せば、応援に行きたいと思います。

528:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 08:50:45.22 Vi3QVugm.net
頑張れ乙訓
【第90回選抜高校野球 乙訓高卒業生・参院議員 有田芳生さん /京都】
在学中は食堂建設運動に取り組み、卒業後に食堂ができました。
それが一番懐かしい思い出です。所属したハンドボール部では骨折をしたため、
決まっていた国体に出場できませんでした。
野球部に同級生がいて、京都大会で上位までいったのを覚えています。
念願の甲子園。昨年末の同窓会で「春に甲子園に出るだろう」と話題になりました。
みんなで応援に行くつもりです。

529:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 09:18:12.97 Vi3QVugm.net
(白球の世紀:26)ラジオ登場、実況は幻に 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
ラジオは1920年、米国で正規の放送が始まり、瞬く間に世界へ広がった。
日本では22年ごろから新聞社などによる公開実験放送が相次ぎ、25年、
独立系局が東京(JOAK)、大阪(JOBK)、名古屋(JOCK)で放送を開始した。
当時、ラジオは聴取の届け出と、東京で月1円、大阪で同1円50銭の聴取料が要った。
「ラヂオを盗聴し/罰金三十円に処せらる/J・O・B・K最初の処罰者」と、
26年7月1日付大阪朝日新聞は報じる。
大阪市東淀川区の理髪業の男が大阪逓信局の許可なく「聴取無線電話機」(ラジオ)で
放送を聞き、罰金を科せられたとする。
放送開始から時を経ず、所管官庁の逓信省が動く。同省は26年4月、3局の統合を強力に
要請。同年8月6日、社団法人日本放送協会が発足した。7日付大阪朝日新聞夕刊は
「役員顔ぶれ決定/逓信省の高圧に不満」の見出し。
同協会の「日本放送史」は、逓信省が示した常務理事がすべて同省出身者で
「放送局当事者を驚駭(きょうがい)させ且(か)つ甚だしく憤慨させた」と記録する。
JOBKは早い段階から、甲子園の全国中等学校優勝野球大会に着目し、26年には
実況放送の企画があった。
だが、「甲子園球場の所有者である阪神電鉄が野球を見に来る人がなくなるといって
拒否」(同協会「放送五十年史」)したため、この年は実現しなかったという。
代わりに同局は特別放送を計画した。
試合経過を午前中に10回と午後に11回放送するほか、夕刊発行後の試合は5分間ごとに
経過を告げた。活字では実現不可能な速報性が、すでに発揮されつつあった。
当時、大会人気はますます過熱していた。歌詞を公募して初代の大会歌が作られ、
応募2964編から兵庫県の尼崎中学教諭、福武周夫が1等に。
「青雲のたなびく窮(きわ)み、東ゆ西ゆ」で始まる歌詞には曲がつけられ、JOBKから
放送された。一方でその速報を意識してか、大阪朝日新聞は奇妙な装置を登場させた。

530:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 09:27:18.27 Vi3QVugm.net
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531:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 09:52:35.79 Vi3QVugm.net
「監督に出会ってなかったら」名将最後の傑作 横浜 藤平尚真
URLリンク(www.kanaloco.jp)

532:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 10:18:52.25 Vi3QVugm.net
(白球の世紀:27)速報機、盤上に熱戦再現 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
「真珠のやうなボールが/あれあれ動く動く/京の試合を大阪で見る」―。
ラジオ放送の各局が、逓信省の意向で日本放送協会となる1週間前。
1926年7月30日付大阪朝日新聞夕刊は、同社が考案した「プレヨグラフ」(野球実戦速報機)
の公開を報じた。京都大グラウンドであった旧制高校と専門学校による野球大会で、
五高(熊本)対二高(宮城)の準決勝に合わせ、大阪・中之島公園で同装置が初稼働した。
球場から電話で伝えた試合経過を、盤面のボールが「ストライク、フライ、バントと次(つ)ぎ
次ぎにスコアを残しながら」再現する。変化球や盗塁も表現でき「実況を見るのと少しも変らず
現れる試合の経過に、観衆の熱狂は次第に加は」ったという。
8月13日からの第12回全国中等学校優勝野球大会。日本放送協会の「放送五十年史」は、
阪神電鉄の意向でラジオの実況生中継が実現しなかったとする。
大阪中央放送局(JOBK)は代替策として試合経過を速報。
これを12日付大阪朝日新聞は、大阪時事新報の速報機と合わせ、「朝日プレヨ・グラフ/中之島、
円山両公園に設置/JOBKの特別放送と/同業『時事』の新速報機」と報じた。
18日の3回戦、前橋中(群馬、現前橋)対静岡中(現静岡)は延長十九回裏、静岡が6−5で
サヨナラ勝ちの大熱戦。19日付大阪朝日新聞大阪版は、プレヨグラフの観衆が中之島公園を
埋めた写真を紙面の幅いっぱいに載せた。「川向(むか)ふのビルディングから望遠鏡で見入って
いるファンもある」という。大会は静岡が初優勝を果たした。
翌27年春、第4回全国中等学校選抜野球大会は改元のため日程を遅らせ、決勝は5月1日。
和歌山中(現桐蔭)が8−3で広陵中(広島、現広陵)を破り優勝した。大阪毎日新聞は決勝の
速報に「大毎式野球技板」を広島西練兵場に据え、3万人を集めた(大会35年史)とする。
3カ月後の夏の甲子園。ラジオの初中継に向け、準備が進んでいた。

533:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 10:37:54.47 Vi3QVugm.net
(白球の世紀:28)初の中継、元球児が実況 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
国内初のスポーツ生中継は1927(昭和2)年8月13日、阪神甲子園球場で開かれた
第13回全国中等学校優勝野球大会で始まった。
同10日付大阪朝日新聞夕刊は「つまり野球とラヂオの握手である」と評した。
担当アナウンサーは大阪中央放送局(JOBK)の魚谷忠。
大阪・市岡中(現市岡)野球部出身で、16年の第2回大会に7番三塁手として出場。
決勝戦まで進み、初の外国籍選手のジョン・ダンらがいた東京・慶応普通部(現神奈川・慶応)
に敗れた。26年6月入局の新人だったが、経歴を買われ起用された。
「電波が語る『野球戦』/本邦最初の大会無線中継放送/JOBKの総動員で大成功」と、
14日付大阪朝日夕刊は見出しでうたう。「魚谷アナウンサーは実戦をヂッと見つめながら
『いまピッチャーがボールを投げます、ソラ投げました、バッターが打ちました、アッ大飛球で
す中堅が走ります、受けました受けました』と・・・場内雑観をまぢえてなかなかうまい」と、
その語り口も伝えている。
14日付同紙朝刊によれば、大会委員の佐伯達夫が放送局の臨時嘱託として
戦況の概評を担当。13日のうちに、松山市のファンから「よく聞(きこ)えた。感謝す」
という電報がJOBKに届いたという。
また、大阪・北浜の証券関係者は「非常に面白かった、私は株屋だが、一(いっ)そ
相場放送をやめて野球放送ばかりにしてほしい」と、同局へ電話した。
対外的には好評な中継だったが、元NHK記者の橋本一夫は著書「日本スポーツ放送史」で
別の側面を明かす。当時の放送は全て、監督官庁である逓信省の検閲が義務づけられていた。
同書によれば、台本などの事前提出が不可能な実況中継を認めるにあたり、大阪逓信局は
放送席に電波遮断機を持った係員を同席させた。
「間違い」や「宣伝的な発言」をした際は、即座に放送を中断できたという。
独壇場だった速報部門にラジオという新たなメディアが登場し報道の現場も変容を遂げていく。

534:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 10:44:41.97 Vi3QVugm.net
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535:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 10:55:33.32 Vi3QVugm.net
(白球の世紀:29)「前畑がんばれ」9年前に 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
「昭和」最初の盛夏となった1927年7〜8月、時代の節目を表す事件が続いた。
スイスでのジュネーブ海軍軍縮会議が8月4日、決裂。
第1次大戦後の軍縮条約を補完する交渉は先送りされ、後年の再軍拡競争の伏線になった。
そんな中にも野球人気が姿を見せる。
7月22日付大阪朝日新聞夕刊は「26−8で/日本大勝/日、米軍縮野球」の見出し。
軍縮会議の米国全権代表団と同記者団に日本側が野球の試合を申し入れ、両チームは
20日、ジュネーブ市内のグラウンドで対戦。日本が圧勝したとする。
前後して7月24日、「大正文壇の寵児(ちょうじ)」と呼ばれた小説家、芥川龍之介が
服毒死した。第2回全国中等学校優勝野球大会で優勝した東京の慶応普通部(現神奈川、
現慶応)の選手で、大会初の外国籍選手ジョン・ダンと交流があった芥川は、旧友への手記で、
自殺の動機を「ただボンヤリした不安」と表した。
そして8月13日開幕した第13回大会で、ラジオ実況放送。
19日付社会面は、「大成功で大好評―/甲子園の連絡放送/わが国ラヂオ文化の先駆」
と特集し、「甲子園に行ってるやうな気がします」などとある。
20日の決勝を同日付大阪朝日新聞は「東京でも放送」と報じた一方、アナウンサーは「特に
野球に精通した人」と名前を伏せた。元NHK記者、橋本一夫の著書「日本スポーツ放送史」に
よれば、東京で試合経過を4回にわたり語ったのは、河西三省(みつみ)。
前畑秀子が女子で初の金メダルを取った36年のベルリン五輪競泳で、「前畑がんばれ」の
絶叫が知られる。試合は高松商(香川)が5−1で広陵中(広島、現広陵)に勝った。
28年の夏の甲子園は、東京でもラジオで実況中継された。
同年11月に京都であった昭和天皇の「即位の礼」も加わり、年度末のラジオ加入数は
前年度の約1・4倍に達する56万4600人に。一方、大阪朝日新聞が開発した速報装置
「プレヨグラフ」の記事は、30年ごろ姿を消した。

536:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 11:04:18.01 Vi3QVugm.net
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537:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 11:19:45.08 Vi3QVugm.net
(白球の世紀:30)大正末期、空からボール 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
《第5章》
夏の甲子園では、航空機から開幕試合の始球式用のボールが投下される。
今や恒例となった光景だが、その始まりは阪神甲子園球場より古く、会場が
鳴尾球場だった1923年の第9回全国中等学校優勝野球大会にさかのぼる。
「八機の乱舞/鳴尾の空の大偉観/天来の処女球で試合開始」と、
同8月17日付大阪朝日新聞夕刊は報じた。本社機と、堺市の民間航空会社
「日本航空輸送研究所」などの水上機による混成チームだった。
操縦士の河内一彦と写真班員の長谷川義一が乗った本社機から、ボールが投下された。
「万一観衆の頭上にでも落ちたら大変」と、長谷川はボールを何重にも白布で包んで紅白の
リボンと小型パラシュートを付け、標的の球場を外した場合に備えて「拾得された方は鳴尾
球場野球大会本部に・・・」と書いておいた。投じたボールは横風に流され、場外はるか遠くへ。
拾った人が大会本部へ届けてくれて、なんとか始球式に間に合ったという(大会40年史)。
朝日新聞社は同年1月、東京―大阪間で小型荷物の定期航空路を開設していた。
20世紀初頭に発明された飛行機は第1次世界大戦で実戦に使われ急速に発達したが、
その頃まで、民間では貨客の定期便はなかった。
元日付紙面の社告で「我国(わがくに)交通界破天荒の計画」とうたう。
期間限定で1月11日〜3月末を第1期とし、同社が作った東西定期航空会が運営。
毎週水曜に東京と大阪から離陸、双方が浜松市郊外の飛行場へ着陸し、積み荷を
交換して引き返した。荷物は重さ1貫目(3・75キロ)以内で、東京、横浜、大阪、神戸と、
浜松市内に限って配達。「航空輸送の実質を発揮し、併せてその宣伝普及を目的とする
大奉仕」と「日本航空史」(日本航空協会編)は記す。
野球大会直前の8月14日、第2期の輸送が開始。
大正末〜昭和初期、球児らの熱戦と航空界の挑戦とが同時に人々を沸かせていた。

538:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 12:03:55.16 Vi3QVugm.net
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539:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 13:03:18.04 Vi3QVugm.net
荒木の早実に勝った池田「全国を敵に」 同世代語り合う
URLリンク(www.asahi.com)

540:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 13:19:34.45 Vi3QVugm.net
(白球の世紀:31)9700キロ冒険飛行、世界へ 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
「野球期に入る全日本/年々増し行く各地の予選」―。
1925年7月23日付大阪朝日新聞夕刊は、第11回全国中等学校優勝野球大会の各地方の
展望を紹介。並んで、23日付朝刊は「子供の時から飛行機好き」と、同社の操縦士、河内一彦
の家庭を訪ねる記事を載せた。
朝日新聞社は同年、「訪欧大飛行」に挑んだ。日本の航空界では長距離飛行がせいぜい
朝鮮半島までだった時期。シベリアを横断し、第1目標モスクワまで未到の9775キロを約10地点
を中継して目指す、欧米に比肩する冒険飛行だった。
フランスから新鋭機ブレゲー19A2を2機導入し、日本で整備。逓信省航空局に人選で協力を受け、
河内と陸軍大尉の安辺浩を操縦士に、陸軍航空部の篠原春一郎と片桐庄平を機関士に選んだ。
機名は3万7千通以上の応募から「初風(はつかぜ)」と「東風(こちかぜ)」とした。
「訪欧機/けふ/鵬翼(ほうよく)を万里に張る」。26日付同夕刊は全4面のうち3面が、
東京・代々木練兵場を飛び立つ2機の記事だった。地方大会が佳境の8月5日付朝刊は、
ハルビンを発った2機が「興安嶺(こうあんれい)の山嶮(さんけん)を突破して/無事チタ市に
到着す」と、旧ソ連領入りを報じている。
故障を乗り越え、2機が中間地点イルクーツクに着いたのは8日午後6時半(現地時間)。
10日付朝刊は「すでに東京露都間/全航路の半ばを飛行す/バイカル湖も難なく越えて」
の見出し。同日の紙面は全国大会に出る全21校が決まったと伝える。
第11回大会の甲子園の始球式ボール投下を1面で報じた16日付夕刊は、2面に「訪欧機、
躍進また躍進/ノヴォ・ニコラエフスクに着く/三分の二以上を翔破(しょうは)す」。
大会は23日の決勝で高松商(香川)が早稲田実業(東京)を5−3で破る。
四国勢初の優勝を伝える朝刊の発行後、
「無事露都に入る/破るゝが如(ごと)き大歓迎/勇敢なる四氏元気旺盛」と号外を発行。
到着は同日午後5時5分(現地時間)。
航空史空前の挑戦は、夏の大会と照応し合うかの進展をみせた。

541:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 13:29:59.40 Vi3QVugm.net
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542:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 13:59:19.81 Vi3QVugm.net
(白球の世紀:32)「空の大航海時代」沸く 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
1925年8月23日にモスクワへ着いた訪欧機「初風(はつかぜ)」「東風(こちかぜ)」は、
ベルリン、パリ、ロンドン、ローマなどを訪れ、約1万7400キロを飛んだ。
数々の記録更新に加えて国際親善も果たした搭乗員の安辺浩、河内一彦ら4人は、
海路で翌26年1月6日午前9時過ぎ、数万人が待つ神戸港へ上陸。
東京駅では約10万人が一行を出迎えた。
「国民行事となった訪欧飛行は航空界に自信を与え、『空の大航海時代』というべき
世界情勢のなか、独自開発の機運を静から動へと切り替えた」と、元ジェットエンジン
設計者で「朝日新聞訪欧大飛行」の著書がある前間孝則は語る。
26年の朝日新聞には「飛行界」欄ができた。第12回全国中等学校優勝野球大会の
地方大会が始まる時期、7月15日付同欄は「モスクワ、テヘラン/長距離飛行」と
「来月十日から/大阪大連定期飛行」がある。
甲子園では、優勝候補が次々姿を消す中、静岡中(現静岡)が初優勝を果たす。
東京では7月15日に定礎式があった明治神宮野球場が10月の完成を控え、
前年始まっていた東京六大学のリーグ戦とともに野球人気はさらに高まっていた。
速報装置「プレヨグラフ」が登場し、ラジオが実況中継の前段として試合経過を流し
始めた26年の夏、紙面は甲子園の試合と同時に各国の飛行家の動向も大きく扱った。
焦点は大西洋無着陸横断だった。大会中の8月18日付大阪朝日新聞は「米仏の
名鳥人が/大西洋を一気に飛び/ニューヨーク料理を積み込んで/パリで開宴祝杯を
あげる」の記事。閉幕後の29日付では「大西洋横断/飛行競争/仏三機が参加」。
だが、有名飛行家らの挑戦は失敗に終わる。
翌27年5月20〜21日、米国の郵便飛行士チャールズ・リンドバーグがニューヨーク―パリ間
を33時間半で飛んだ。無名の25歳。無線もなく、空気抵抗を減らすため前方視界もない1人
乗り機「スピリット・オブ・セントルイス」の壮挙に、世界は沸いた。

543:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 14:11:03.43 Vi3QVugm.net
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544:名無しさん@実況は実況板で
18/02/25 14:41:41.74 Vi3QVugm.net
(白球の世紀:33)ツェッペリン号、茨城着 高校野球
■ありがとう 夏100回 これからも
1928(昭和3)年の第14回全国中等学校優勝野球大会は8月22日、
松本商(長野、現松商学園)が平安中(京都、現龍谷大平安)を3−1で破り初優勝。
優勝旗を受け取る松本商に本社機が祝福の花束を投げた。
その2日後、大阪朝日新聞は1面に特大の社告を出した。
「大阪=東京=仙台/旅客貨物の空中輸送/本月廿七(にじゅうしち)日より開始=東京大阪間三時間」
小荷物で23年に始めた定期航空を、国内初の定期旅客便に発展させた。
東京―大阪が週3便で1人35円、東京―仙台が週1便で同30円。
当時、国鉄の特急燕(つばめ)東京―大阪の一等車が24円余(30年、特急料金含む)。
8月27日午前8時半発東京行きと、同9時40分発大阪行きは満員(定員4〜6人)だった。
27日(28日付)同夕刊によれば、別の社機が東京から大阪の式典にそばを出前してみせた。
だが、世相は暗転していた。
6月29日には、国会で審議未了の改正治安維持法が緊急勅令で公布され、
罰則に死刑と無期懲役刑が加わる。
航空業界では10月20日、国策会社の「日本航空輸送会社」が設立された。
既存の民間輸送会社は権利を譲渡したが、「その実は強制的に解消を迫られた」
と「日本航空史」(日本航空協会編)は記す。
翌夏、第15回大会の地方大会開幕を告げる29年7月16日付大阪朝日新聞の同じ夕刊が、
日本航空輸送の初就航も報じた。
この年、甲子園にはアルプススタンドが増設された。
複数の説があるが、「大会70年史」は、登山家で朝日新聞記者、藤木九三を名付け親とする。
航空界は飛行船で初の世界一周に挑む全長235メートルのグラーフ・ツェッペリン号が話題で、
7月23日付同紙は「近く飛来する空の巨船/ツェッペリン伯号/我(わが)社の北野特派員同乗」
とある。同号は8月15日にドイツを出発、19日に茨城・霞ケ浦飛行場へ到着した。
一方の大会は、広島商が20日、3−0で海草中(和歌山、現向陽)を破り2度目の優勝を果たす。


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