【いだてん】「田畑政治を語ろう」ファンスレ【第2部】 at NHKDRAMA
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1:日曜8時の名無しさん
19/06/29 19:58:29.74 RSkU2iH7.net
 『 田畑政治が「競泳王国ニッポン」を作るまで  “諦めなかった男”の生涯 』
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 (田畑政治 日本オリンピック委員会(JOC)委員長(右から2人目)。左端は竹田恒徳 IOC理事。)
 田畑 政治(たばた まさじ、1898年12月1日 - 1984年8月25日)
 日本の教育家、新聞記者、水泳指導者。静岡県浜名郡浜松町成子(現・浜松市中区成子町)出身。
 長きに渡り日本水泳連盟会長を務めた他、1964年東京オリンピックの招致活動におけるキーマン。

「いだてん〜東京オリムピック噺〜 第2部」は、「ロサンゼルス五輪から戦後の東京五輪まで」を描きます!
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私たちは、「田畑たちに過酷な運命が待っている」ことを既に知っています。
「戦争へと向かう日本」、「幻となる東京オリンピック」。「敗戦」。
「重くなりがちな話でも、決して暗くは描かない」のが、宮藤官九郎の巧さ。
「笑いを散りばめながら」、そんな時代でも「たくましく生き抜き、オリンピック開催の夢を実現する人々」を描いてくれるはずです!
そんな人々のドラマを、「来年、東京オリンピックを迎える今」、追わずにはいられないでしょう!
1部で離脱してしまったあなたも、「2部からまた観てみるのもアリ」ですよ。

 『 日本水泳連盟会長  田畑政治氏 』
 URLリンク(bushoojapan.com)
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NHKの大河ドラマ「いだてん」後半の主人公、水泳の田畑政治氏ですが、「誰だろう?」と思う人も多いのではないでしょうか。
田畑氏は、戦前から戦後にかけ世界を席巻した「競泳王国ニッポン」を育て上げた人物であり、1964年の東京オリンピック招致を実現した人物です。
水泳、そしてスポーツへの熱い思いを持ち続けた彼の、85年の生涯。
 田畑政治氏は1898年、静岡県浜松市の造り酒屋「八百庄」の次男として生まれています。
1892年刊行の「日本博覧図」にも「酒類醸造 田畑庄吉」として紹介されるほどの大商家であり、豪壮な屋敷のほかに浜名湖に浮かぶ弁天島にも別邸も所有していました。
 田畑氏の家族は夏にはこの別荘で暮らすのが常であり、田畑氏も夏休みには別荘で暮らし、目の前の海水浴場で泳いでいました。
夏の間、毎日泳ぎ続けていた田畑氏は中学校に進むと自然と水泳部に入り、他校の学生とも合宿するほど水泳にのめり込みます。
しかし、4年生のときに大腸カタルにかかり、「このまま水泳ばかりしていると、腸結核になるぞ」という医師の忠告により、大好きな水泳を止めることになりました。
 当時の日本ではまだ古式泳法が盛んに行われていましたが、明治の半ばから後半にかけて各地でプールがつくられるようになり、次第に西洋式の競泳大会も開催されるようになりました。
田畑氏もいずれは競泳選手として大会に出場することを夢見ていましたが、その夢は病気によって断たれたのです。
以後は、自分が選手として活躍するのではなく、後輩たちを鍛えて浜名湖の水泳を日本一にしたいと考えるようになりました。
 そう考えた田畑氏はすぐに行動を起こします。まず、弁天島の海水浴場を本拠にしているほかの中学校の代表者たちと話し合い、4つの学校と協力して「浜名湾遊泳協会」を設立します。
そして田畑氏は古式泳法の代わりにクロール泳法を導入。1日に何キロも泳がせるスパルタ指導によって後輩を鍛え上げていきました。
 やがて第一高等学校から東京帝国大学、朝日新聞社と進んだ田畑氏。当時としては最高のエリートコースを歩みながらも、水泳の指導にはさらに情熱を傾けていきます。
地元の有力者と折衝し、浜名湖の海水浴場の一角に長さ100メートル、幅30メートルのプールを作ったり、1921年には各地の強豪を招いて全国競泳大会を実施したりしていました。
このとき、田畑氏はまだ20代です。
 田畑氏は若いときから政治力、交渉力にずぬけたものがあった上、後年に「水泳のために実家の資産を食いつぶしたよ」と振り返るほど、資金面でも大きな貢献をしています。
そんな田畑氏の努力もあり、浜名湾遊泳協会は全国水泳大会で日本一となりますが、彼の目は早くも世界へと向けられていました―。
(続きは大河で)


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