【2021】東京五輪代表 part78【U-23】 at ELEVEN
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104:名無しさん@お腹いっぱい。
20/08/15 22:56:45.85 HfLsNri5M.net
>>99
志摩リン青髭と入れ替わりでのび太さん登場w
相変わらず頭悪いねw
臭の件で、最近紀子周辺への批判が大きくなってきている最悪の場合は、(秋miya)家の廃嫡も(過去に廃嫡事例あり)
「宮内庁もさすがに秋miya家には手の施しようがなく」「今後いつ大きな動きがあってもおかしくない」
(通信社や新聞社は)紀子妃殿下の実家・川島家の周辺にまで取材が及んでいるのだ。
「投資はアングラ勢力系の裏金融や株の仕手筋投資家と組んでいるようだ。
彼らが川嶋家や秋家の名前を本人以上に使うので、今では川嶋臭の名前は
ブラックリストに載っているとか。それでも本人は全く関係ない素振りでいまだに
皇室の信用を使い続けている。まあ臭氏を見ていれば、川島家の周辺には
皇室の信用を金に換える人、小室圭のような人が近づくのもよくわかる気がする」(皇室を取材しているジャーナリスト)
臭の悪行が姉一族にトドメを刺すどんでん返しの展開を同誌は想定している記事でした。
【川島家の黒歴史@ 中韓が手ぐすね引いて待ち構える強制連行への関与 廃鉱山に隠された因縁のルーツとは?】
<戦時中、杉本嘉助の勤務先だった西伊豆明礬鉱山と中国朝鮮からの労働者への暴力的労務管理問題>
部分引用だけど、昭和二〇年当時伊豆半島には二箇所、明礬鉱山があって、どちらにも
>「中国人以外では日本人の囚人300人、徴用の朝鮮人500人、
1カ月ぐらいしかいなかったが浜松高専(現静岡大工学部)と
拓殖大の学徒動員各200人、宇久須から雲見まで近在近郷の人たち500人が働いた。
杉本嘉助が勤務していたのは宇須久の方だけど、「強制連行」があったのか否かをめぐる日中日韓の
歴史問題云々以前に昭和20年代から、遺骨送還事業で事の詳細は明らかになっていたこととわかる
>■死亡率52%は国内最高 宇久須でも14人亡くなる
西伊豆町にあった戦線鉱業仁科鉱山での中国人の死者は、船舶などの移動中も含め104人で、
死亡率は52%(鉱山のみ死亡率46・1%)に上った。
戦争終盤、日本に連行され各地の鉱山や土建事業、荷役などに従事させられた中国人は全国135カ所・約3万9千人、
死者は6817人(死亡率17・5%)とされる(「中国人強制連行」明石書店刊など)。
仁科鉱山の死亡率50%超は国内トップで、それだけ食料事情が悪く、過酷な労働だったようだ。
 1953(昭和28)年には中国人俘虜[ふりょ]殉難者慰霊実行委員会により、
人道・平和・友好の精神のもと、日本各地に眠る中国人の遺骨を収集して本国に送り届ける事業がスタートした。
本県では殉難者慰霊県東部実行委員会が任務に当たり、翌年には白川の人たちも全面協力し、
仁科鉱山関係84人(うち2人は汽車で移動中死亡)の遺骨を収集。
一色の法雲寺に集められ慰霊祭を盛大に行った後、秋に本国に送還された。
この事業に長く携わってきた熱海市議の○○○さん(90)によると、
本県の中国人の強制労働は仁科鉱山以外にもあり、次のような状況だ。(つづく)
▽西伊豆町宇久須(宇久須鉱業、ミョウバン石採掘、200人のうち14人死亡、遺骨は生存者が持ち帰る)
(杉本嘉助はここで「勤労課長」だったが、結婚時には一切公表されていなかった)
▽浜松市(旧龍山村の日本鉱業峰の沢鉱山、銅の採掘、200人のうち81人死亡、遺骨は53年送還)
▽富士市(熊谷組、富士川河川敷の陸軍用飛行場建設、500人のうち52人死亡、遺骨は仁科鉱山の殉難者と一緒に送還)
▽静岡市(清水港の荷役作業、200人のうち36人死亡、遺骨は生存者が持ち帰る)
1954(昭和29)年にまとめられた県中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会の資料によれば、
仁科鉱山で亡くなった中国人は全員が河北省の出身で、年齢は18〜51歳。
死亡原因は栄養不良や大腸炎、強度の神経衰弱、心臓性水腫、脚部凍傷などと記されている。
1日に3人亡くなることも珍しくなかった。
東京華僑総会から○○さんが資料提供を受けた仁科鉱山連行者名簿には200人全員の名前、
年齢、出身地、生死などが明記されている。
20〜30代の若者が多く、労働力となり得る若い人を選んで連れて来たとみられる。
最も若い人は17歳だった。<【川島家の黒歴史C ついに辿り着いた杉本嘉助の「戦時中」】
久明簿 「杉本嘉助」に注目>「山本階関係資料」のなかに四枚
中国人の送還帰国に関する「事業場の附表とみられ事業場ですなあ


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