ノモンハン事件を検証する at WAR
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1:名無しさん@お腹いっぱい。
14/11/13 16:56:58.09 gfM84pvs.net
 モスクワは間一髪のところで陥落を免れた。一二月第一週にはドイツ軍がクレムリンから三五キロの
地点に迫っていた。ドイツ軍将校の双眼鏡でモスクワの主要な建造物を確認できる距離だった。先導し
ていたのは装甲部隊である。一二月五日から六日にかけて、ジューコフは集中攻勢を仕掛けた。主力は
「シベリア兵」からなる部隊。ソ連極東部から送り出されてた新来の予備兵力で、そのなかにはノモンハ
ンで彼自身が指揮した部隊も多数含まれていた。ノモンハンよりも危機的な状況に陥っていたが、ジュ
ーコフは当時と同様の諸兵科連合戦術を、今回はもっと積極的に採用した。その結果ドイツ軍を約一六
〇キロ後退させることに成功し、冬季の間、ドイツ軍をその地点に釘付けにしたのである。まさに食う
か食われるかの戦いだったが、完全な冬季装備の予備兵を東部から送り込んだことが決定打となった。
一九四一年一二月にソ連を訪問したイギリス外相のアンソニー・イーデンによれば、スターリンはこの
とき彼に、「最近の戦局好転は、新たな援軍を導入できたためだ」と語ったという。
 ジューコフが大反抗を開始した翌日、日本は真珠湾を攻撃した。ドイツはアメリカに、アメリカはド
イツに宣戦布告し、アメリカは太平洋とヨーロッパの戦争に巻き込まれることとなった。この週は第二
次世界大戦の転機を画す、枢軸国の運命を決する一週間であった。
 だが日本の軍首脳部が一九四一年の段階で、ノモンハン事件以前と変わらず赤軍を過小評価していた
とすると、事態はまったく違う方向へ進んでいたことだろう。もし一九四一年七月または八月に北進が
決定されていたなら、おそらくソ連は崩れ去っていたと思われる。日本軍はソ連軍を撃破する必要すら
なかったのではあるまいか。アジアに長大な戦線が存在することだけでもソ連には重荷になったろう。
一八個もの師団に加え、戦車一七〇〇両、軍用機一五〇〇機をヨーロッパの戦場に移動させるなどとい
うことは不可能だったはずである。それだけではない。戦争を遂行するうえで、ソ連極東部は貴重な経
済的貢献を果たしていた。独ソ開戦の初年に西部の産業が壊滅的な被害を受けたことに鑑みれば、その
重要さのほどがうかがわれよう。一九四一年のモスクワ攻防戦も、また四二年のスターリングラードの
戦いも、ソ連にとっては薄氷の勝利だったのである。難敵の日本が極東で猛攻を加えたなら、戦局はき
っとソ連軍の不利に傾いたであろう。一九四一年から四二年の段階で二正面作戦を強いられたとすれば、
ソ連は存亡の危機にさらされたはずである。ソ連軍の将官を含め、そのように考える軍事研究家は少なくない
<ノモンハン1939 スチュアート・D・ゴールドマン みすず書房>

 加えて「ソ連がドイツと不可侵条約を結ばねばならなかったのは、英仏がドイツに譲歩してドイツ軍が
ロシアを攻めるように誘導したことに、ソ連としてやむを得ず対抗する必要があったからだ。ソ連はアジア
で日本とも対峙せねばならず、ドイツと戦争する余裕がなかった」とも主張した。プーチンはまた「英国が、
ドイツが攻めてきたら英国が対独宣戦布告してやるから頑張ってドイツに対抗せよとポーランドをそそのか
したのが大戦の一因だ」とも示唆した。
URLリンク(tanakanews.com)

長期的にはソ連指導部の読みが当たる
 常識的には実にもっともで、長期的にはその読みが当たることになる。ヒトラーは、十分な冬支度もせず、
ソ連の工業力と国土の広大さ、補給の困難を軽視し、無理な二正面作戦に踏み切るが、結果は周知の通りだ。
 連戦連勝だった独軍は、自信過剰に陥っていた。当時、ソ連機甲師団の実力をいちばんよく知っていたのは、
ノモンハンで手痛い目にあった日本軍だったかもしれない。
URLリンク(jp.rbth.com)

実はこのルート、米英からソ連に渡った補給物資の半分以上が使ったとも言われているそうだ。
太平洋にはドイツ海軍がいなかったので、安全だったのだろう。
URLリンク(ameblo.jp)

邦訳者後書きには、ノモンハン停戦協定が締結された後も1941年、その7月1日現在のロシア側戦力は、
対独戦に振り向けられていた戦力より大きく、723119名の兵力、戦車4638両、航空機4777機、自動車6万余台、
トラクター1万余台、砲14062門などと、やたら記録をとる民族だけに詳しいのだが、
URLリンク(yhsvtex.blogspot.jp)


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