光文社古典新訳文庫 5 at BOOK
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350:( ̄^ ̄)
08/03/01 00:25:46
>>344
全て反対ですけれどもねぇ(笑)


351:吾輩は名無しである
08/03/01 00:43:37
どーして公式ページで

 「消費者をだまして悪質な商品を売ってますた。
 ごめんなさい。
 当然ながら着払いにて無料交換します。
 ささやかですが図書カード一万円分つけますです。。。」

って謝罪しないんですかー

352:吾輩は名無しである
08/03/01 00:49:18
このスレ、カラマーゾフ批判が盛んになってから妙に伸びるなぁ。

むやみと批判してる人達って相当カラマーゾフ読み込んでるんだろうね(笑)

353:吾輩は名無しである
08/03/01 01:02:02
誤訳がありましたといえばいいのにね

354:吾輩は名無しである
08/03/01 12:41:18
肉体の悪魔と宝島を買おうか迷ってます。
参考にしたいので
誰か感想をお願いします!

355:吾輩は名無しである
08/03/01 18:04:46
マンセーが欲しくて帰郷ですか。ブログ非情に笑えた

356:吾輩は名無しである
08/03/01 19:22:05
これだけ粘着な安置がいるということは、
亀山という人はたいした人物なのだろうな。

357:ぶたごろう
08/03/01 20:44:54
だれだかがほざくのが事実だとしよう。
それが何なんだよ。
たとえ誤訳が山ほどあったとしたって、
そんなことは屁でもねえ。どころか、どうでもいいじゃん。
その欠点すら美点にすりかわってるといえるほどの、個性と力がある。
二流の出版社から飛び出した、革新的革命的画期的訳業というべきだろう。

野崎歓(これは正当派、というより、流麗・あこがれ派だが)とともに、おれは亀山郁夫を高く買う。

>>356
「これだけ粘着な安置がいるということは、
亀山という人はたいした人物なのだろうな。 」
おまえ、このスレの住民にしてはいいこというねえ。唾つけて、撫で撫でしてやるよ。

とにかく、新訳・「カラマ」と「赤と黒」、読も。

358:( ̄ω ̄)みちるの友 ◆nCkADzKG8Q
08/03/01 21:23:51
おやおや(笑)光文社が二流の出版社とは(笑)歴史を勉強していない証拠ですよ(笑)

359:吾輩は名無しである
08/03/01 23:20:59
>>358
おい、みちるの友、
やっぱ、どうでもいいことに喰らいついてきたな。
おもったとおり。
てめえのいおうとすることぐらい、すべて、こちとら、お見通しなんだよ。
ちったあ、意想外な何かを表現しようと、努力してみいや。
みんな、規格内、想定内に収まる、しかも陳腐な言葉の羅列。
語る意味のない言葉ばかり。
頼みとするのは、あやふやな知識だけ。
おい、面白くないんだよ。おまえ。
おまえの発言で面白かったこと、見事に一つもなかった……
ほんと脳みその質も悪そうだな…
てめえはてめえのでけえケツでも曝け出して肛門からクソでも噴射させてろ…
消えろ。

360:吾輩は名無しである
08/03/01 23:57:04
これから誤訳だけではなく違うことでも叩かれますからお楽しみに

361:吾輩は名無しである
08/03/01 23:57:58
「日本一安い」のキャッチコピーで財を成した一流出版社、大日本雄辯會講談社w

362:吾輩は名無しである
08/03/02 00:01:15
わからないので、これ、誰のことか教えてください。

35 名前: ロシア語やってた 投稿日: 2000/08/24(木) 01:48

K先生のスケベはチョー有名。言葉の発音はチョーへた。出演者の女の子に収録のたびに酒のましてスカートに手ぇ入れるんだってさ。そのコに聞いたから間違いないよ。


URLリンク(mentai.2ch.net)

363:吾輩は名無しである
08/03/02 00:14:28
ぶたごろうってどうして固ハンなのかさっぱりわからない。

>だれだかがほざくのが事実だとしよう。

こういうのは事実を認めれるということですね。
だから叩かれて当然なのです。

364:吾輩は名無しである
08/03/02 00:15:24
>>362
わかんねーから他のスレで聞けば?

365:( ̄^ ̄)
08/03/02 00:34:51
おやおや(笑)無残とはこの事で消化(笑)

366:吾輩は名無しである
08/03/02 00:38:49
( ̄^ ̄)とみちるって同一人物?

367:吾輩は名無しである
08/03/02 00:39:56
光文社って下請けだろ。んでもってゴシップ雑誌で世に出たそれだけ。

NHKも軽薄だよな。頭も薄いが中身も薄い

368:吾輩は名無しである
08/03/02 00:46:14
テレビに出る暇があるなら英語の勉強したり原センセイの本を読めるようになったらイイのに

369:吾輩は名無しである
08/03/02 00:48:11
ぶたごろうよそんなに好きならカフェ(笑)にコメントしてみろよ。
皆が誤訳って言うけど僕は支持しますってね。即消されるよw

370:( ̄ω ̄)みちるの友 ◆nCkADzKG8Q
08/03/02 01:17:58
おやおや、下品極まりないレスには返す言葉も無いですねぇ(笑)
>>366
全くの別人ですねぇ(笑)気の利いたことも言えなくて残念ですけれど(笑)

371:吾輩は名無しである
08/03/02 01:37:30
>>370
同一だと思ってたゴメンw

372:吾輩は名無しである
08/03/02 08:11:17
岩波に代わっておしおきよ!

373:吾輩は名無しである
08/03/02 10:27:02
>>357
ま、「たいした人物」といっても、中身はいろいろだわな。

374:ぶたごろう
08/03/02 18:54:00
>>362
このあほんだらが。
ドストは欲望の文学だろうが。
だから、だからこそ、亀山のような、欲望ぎらぎらのやつが訳すと、
本物になるのさ。ばーろ

おまえも、ちったあ、若い女のくさい足のにおいでもくんくん嗅いで興奮してみろ
おまえは人間が微塵もできてない、まるでプラスティックのようだよ

375:ぶたごろう
08/03/02 18:58:30
>>362
それと、みちるの友よ、
おまえらも、ちったあ、新訳批判なんていう痔爺くせえことしてねえで、
亀山を見習って欲望に生きなさい(逝きなさい)

376:ぶたごろう
08/03/02 19:27:20
362やみちるの友に、おもう。

いやね、
こういった
動物的欲望の稀薄であろう輩たちには
ほんとのところ
文学なんてものはわからないんだし、
ずばり、文学を語る資格なし。

377:( ̄ω ̄)みちるの友 ◆nCkADzKG8Q
08/03/02 19:45:52
おやおや(笑)私は動物的欲望旺盛ですよ(笑)亀山さんこそもう老人ではありませんかねぇ(笑)

378:吾輩は名無しである
08/03/02 20:49:02
今晩 NHK ETV特集 亀山学長 出演

379:吾輩は名無しである
08/03/02 21:03:41
なんかカラマーゾフはもう飽き飽き。
そろそろ、『赤と黒』(野崎歓・訳)をとことん語り合おう。読んで、今までで一番
感動した本になった。せっかく光文社のスレなんだから語り合おう。

380:吾輩は名無しである
08/03/02 21:07:54
なんかハゲ山にはもう飽き飽き
宇都宮に帰れよ

381:吾輩は名無しである
08/03/02 21:13:59
>>362って誰?

382:ぶたごろう
08/03/02 21:33:30
>>381
ごめん、
まちがったよ。

おれの文章の名宛人は、
「K先生のスケベはチョー有名。言葉の発音はチョーへた。出演者の女の子に収録のたびに酒のましてスカートに手ぇ入れるんだってさ。そのコに聞いたから間違いないよ。」
と書いた人だった。訂正し、お詫び申し上げます。




383:吾輩は名無しである
08/03/02 21:37:08
>>382
そういうレスたくさんみかけるんだよ。いったい誰なんだろうね?
きっと間違いないんだろうねw

384:吾輩は名無しである
08/03/02 21:52:51
K先生っていうだけで同定しちゃうぶたごろうってすごいねw
未だに誰だかぜんぜんわかんないよwwwwwwwwwwww

385:ぶたごろう
08/03/02 22:55:27
>>377
しかし、みちるの友よ、
おまえさんは、ほんと、見かけ同様、プラスチックだねえ、
人間的味わいってものが、限りなく淡いのよ、
(悪いけど)艶(色気)がない、っていうか、魅力がない、っていうのか…

「亀山さんこそもう老人ではありませんかねぇ」だって?
実に人間を、ちみ、知らんねえ。(ないしは、紋切り型な見かたしか、案の定、できんのねえ)
好色と年齢は関係がないのよ。もし、あるとしたならば、むしろ、爺であるほどに好色度は増すのよ。
まさに、カラマのフョードル(兄弟の父親)がそうじゃねえかよ〜
おめえ、ほんとに、カラマ、通読したことあんのかい。
全く、いろんな点で、おまえさん、深みの欠片もなく、
う〜ん、呆れるばかりだよ。
だからさあ、
センスも脳髄も欠如してるやろうは、
発言してはならない!!!

386:( ̄^ ̄)
08/03/02 23:03:08
おやおや(笑) 無残ですねぇ(笑)

387:吾輩は名無しである
08/03/02 23:33:38
ぶたごろう、お前訴えられるぞw

388:吾輩は名無しである
08/03/02 23:34:17
マジお前おもしろい。もっとやれよ。

389:吾輩は名無しである
08/03/03 00:00:01
>>382のぶたごろうのように光文社も誤訳がありましたって謝罪すればいいのにな

390:( ̄ω ̄)みちるの友 ◆nCkADzKG8Q
08/03/03 20:17:28
さて、野崎の譯のほうにも誤訳して気が出たようですねぇ(笑)これは日本語としてもおかしい、という表現をされているようですねぇ(笑)
URLリンク(www.amazon.co.jp)

391:吾輩は名無しである
08/03/03 20:29:19
436 名前:( ̄ω ̄)みちるの友 ◆nCkADzKG8Q :2008/03/03(月) 20:18:01
さて、野崎の譯のほうにも誤訳して気が出たようですねぇ(笑)これは日本語としてもおかしい、という表現をされているようですねぇ(笑)
URLリンク(www.amazon.co.jp)


野崎、亀山、どちらも誤訳満載か

392:吾輩は名無しである
08/03/03 20:51:13
これは訳者はもとより、出版社のチェック機能の問題もあるだろうな。


393:ちち垂れの友(股の名をぶたごろう)
08/03/03 21:30:04
亀山郁夫さんと野崎歓さんのこんな会があるようよ。
何か人気もののお二人でとっても悔しいけど、行かないわけにいかないわ。
だって、枯れた乳首が燃えるんですもの。
行きたくないのに行かなくちゃ。
ああ、やだわ……

URLリンク(mainichi.jp)
URLリンク(mainichi.jp)

394:ちち垂れの友(股の名をぶたごろう)
08/03/03 21:45:08
>>391
おい、面白えことの一つも語る能力がないみちるの友よ。

こんな、アマゾンの書評なんか基に、「誤訳」といってみてもしょうがねえだろ。
あいかわらず、ほんと、バカね。
いいか、アマゾンの書評なんてのは、おめえさんみたいに悪意もってりゃ、
誰だって、匿名で、何とでも書けんだよ。
名を名乗っての誤訳指摘なら、まだ、検討に値するものもあろうけど。……
ほんと、おまえさん、バカね。あいもかわらず。

あとね、
もうひとこといっとくよ。
あんたらあほんだらが云う意味での誤訳ということであれば、
誤訳のない翻訳なんてないから。
むしろ、誤訳を含んでこその名訳ということになるのかもしれんな。




395:吾輩は名無しである
08/03/03 22:59:47
誤訳がないものはないというが、バフチン論の誤解はどうだろう?
ああいう解説を載せるのはいかがなものか。

で、K先生って誰?

396:吾輩は名無しである
08/03/04 00:48:37
みんな静かにしたほうがいいよ。
まともな発言がカラマーゾフ批判によってかき消されてる。
俺の発言も含めてな・・・

397:吾輩は名無しである
08/03/04 12:18:54
カラマーゾフ批判はまともな発言だよ。
実際に誤訳なんでしょ?

398:( ̄^ ̄)
08/03/04 14:22:05
おやおや(笑)失禁老人はアマゾン批評にさえ権威を与えているようでして(笑)

399:吾輩は名無しである
08/03/04 17:53:50
カラマーゾフマンセーの方が根拠がないよな。
批判は誤訳・恣意・解説不備(バフチン論の誤解)いわれて当然だろう。

400:吾輩は名無しである
08/03/04 17:55:17
老人がエロを語るとエロ杉

ぶたごろうK先生って誰?

401:吾輩は名無しである
08/03/04 18:03:16
>>362のK先生って誰?

402:吾輩は名無しである
08/03/04 20:41:23
皆真実を語ろうよ。誤訳間違い恣意訳だって

403:吾輩は名無しである
08/03/04 20:43:46
みんな静かに聴いたほうがいいよ。
まともな既存の翻訳が誤訳によってかき消されてる。
セールスも含めてな・・・

404:吾輩は名無しである
08/03/04 21:34:41
>>398
お前には何一つの権威も無いわけだが

405:( ̄^ ̄)
08/03/05 00:01:26
わたくし率的非権威主義ですからねぇ(笑)

406:吾輩は名無しである
08/03/05 08:53:37
誤訳の伝道師

407:吾輩は名無しである
08/03/05 09:45:18
ここって 粘着ヲタしかいないの?

408:吾輩は名無しである
08/03/05 09:47:17
>>405
2ちゃんねるにすがってるだけじゃん
ここでしか発言できないアホ

409:吾輩は名無しである
08/03/05 12:43:17
そろそろ3月新刊の話題に切り替えてねw

410:( ̄^ ̄)
08/03/05 15:08:32
408
おやおや(笑) ここでの発言でできないと断言するアホがおりますねぇ(笑)書き込みをすがるとはいやはや(笑)

411:( ̄ω ̄)みちるの友 ◆nCkADzKG8Q
08/03/05 15:27:01
さて、野崎の誤訳はどうでしょうかねぇ(笑)

412:吾輩は名無しである
08/03/05 16:00:03
神を見た犬の1980年の教訓という話、
終わり方がよくわからない。
最後に死んだ男はボンジョルノ伯爵なの?
そうだとしたらなぜ?

というか、全体的にオチがよくわからないなこの短編集は
誰かオチをまとめてくれないかな?分かる人いれば

413:吾輩は名無しである
08/03/05 22:43:53
短編文学のオチをまとめろ。わかる人がいれば。

以下、そういったレスです↓


414:吾輩は名無しである
08/03/06 00:06:57
はげが誤訳を出してお金を若い衆からもぎ取った。
世間ははげが素晴らしい伝道師と思い込んでいる悲劇

415:吾輩は名無しである
08/03/06 07:42:10
hage

416:吾輩は名無しである
08/03/06 11:03:39
読まずに書きこむガキしかいないんですか?

417:吾輩は名無しである
08/03/06 16:59:02
叩きたいだけのオッサンもいるよ

418:吾輩は名無しである
08/03/06 17:47:51
はげたたき いい音するかな

419:吾輩は名無しである
08/03/06 21:43:35
パーンと誤訳の音がする

420:( ̄^ ̄)
08/03/07 19:56:56
416
読むもなにも買ってもないです氏ねぇ(笑)

しかし亀老人訳はひどいですねぇ(笑)奇妙な声の「声」は「声」で賞に(笑)わたくしの出番で消化ねぇ(笑)
URLリンク(www.ne.jp)
亀老人訳=「マトリョーシャの鞭打ちにも声をあげなかったが、打たれるたびになにか奇妙な声をあげて泣いていた。それからまる一時間まるまる大声で泣きじゃくるのだった」

( ̄^ ̄)訳=「マトリョーシャはしばかれても声をあげなかった。たぶん私が傍にいたからだろう。だがしばかれるたびに奇妙にしゃくった。そのあとでまる一時間も、はげしくしゃくり泣きつづけた」

421:吾輩は名無しである
08/03/07 22:36:13
世に誤訳を広めてマスコミにしらっと出る厚顔無恥。
人様に偽りの品を売りつけ金儲け。印税を留学生の為の奨学金にでもしろよ。



422:吾輩は名無しである
08/03/08 00:37:16
明日どんなツラで出てくるかみてやるよ

423:吾輩は名無しである
08/03/08 01:04:52
13 :吾輩は名無しである:2007/07/20(金) 23:27:58

訳は悪いとは思わないけど、亀山某がバフチンを理解しているかどうかはきわめて疑わしい。

初めて読む人は『カラマーゾフの兄弟5』(光文社古典新訳文庫)の解題にポリフォニー云々と書いてあるけど出鱈目なので信用しないように。
亀山は解題(p200)に自分で書いている「第一義的なポリフォニー性の意味」さえ理解していないのではないか?
(昔から文庫本の解説ほど当てにならないものはないと世間でいうのは本当のことなんですね...)

亀山が「ポリフォニー精神」とか「ポリフォニーの原理」と呼ぶのは登場人物がそれぞれの思想を持ち互いの視点を相対化してみせるというだけのこと。
そんなものなら、わざわざ「ポリフォニー精神」とか「ポリフォニーの原理」などと大げさに書く必要もない。
解題(p210p217p236p243p245p247p248)などで亀山がポリフォニー(ポリフォニック)と書いていることは単に「多様的」「多元的」「相対的」「相対化」「複数化」などの
言葉を当てはめれば事足りる。ただし、(p309)の「ポリフォニー的読み」は意味不明。(多元的くらいの意味か?)

おそらく亀山は「モノローグ的対話」をポリフォニーなのだと思い違いをしているように思われる。
そのために、「このセリフは(省略)登場人物の独立を保証すべきポリフォニーの原理にさからうセリフ、といえるかもしれない」(解題p281)などと頓珍漢なことを書いてしまう。
ここは、まさにバフチンが『ドストエフスキーの詩学』で「ポリフォニー」の際立った例として詳しく考察している場面であるにもかかわらず。
もちろん「ポリフォニー精神」とか「登場人物の独立を保証すべきポリフォニーの原理」というものは存在しない。
それは、バフチンのいう「モノローグ的世界」に過ぎない。話は全くの逆で「精神はポリフォニックである」といわなければならない。
(「ポリフォニーの原理」という言葉はバフチンも使っているが、亀山のいうのとは全く違う意味でである)

424:吾輩は名無しである
08/03/08 01:05:17
14 :吾輩は名無しである:2007/07/20(金) 23:29:42
想像するに亀山はバフチンを引用しこそすれ、その実ほんの数ページを読んだことがあるだけで、まともに読んだことさえないのだろう。
バフチンをちゃんと読んでいるのなら「ミクロの対話」や「アクセントの移動」「言葉の対話的な分裂」「意識の分裂」を知らないはずはないのだから。
そして、それが「ポリフォニー」の根幹に関わる概念であることも。
おそらく亀山は様々なレベルがあるといいつつ(p200)、ポリフォニーを「多くの声=登場人物たちのそれぞれの思想」と単純に理解しているために間違った解釈をしてしまったのだろう。
(「多くの声=登場人物たちのそれぞれの思想」はポリフォニーのほんの一部にすぎない)
だから、せいぜいが「ポリフォニー精神あるいはポリフォニーの原理=複数の視点による相対化」というくらいのことしか言えない。

しかし一方で、亀山は解題(p253)で「登場人物は、真実のいくつもの層をそれぞれの役割に即して語っている。ポリフォニー性とは、真実のさまざまな層同士の対話ということになる」
という記述もしているのだが、ポリフォニーを「多くの声=登場人物たちのそれぞれの思想(真実)」と解釈しているために、やはり本来のポリフォニー概念を捉え損なっている。
解題(p264)の記述も惜しいがここでも的を外してしまっているように見える。



425:( ̄^ ̄)
08/03/08 01:16:15
おやおや(笑) 亀老人は去年の夏2007/07/20(金)からすでに叩かれておるようですねぇ(笑)

426:吾輩は名無しである
08/03/08 01:18:07
>>425
2CHが出来た頃からだよ。その頃は違う事でですがwwwww

427:吾輩は名無しである
08/03/08 01:18:55
14 :吾輩は名無しである:2007/07/20(金) 23:29:42
想像するに亀山はバフチンを引用しこそすれ、その実ほんの数ページを読んだことがあるだけで、まともに読んだことさえないのだろう。
バフチンをちゃんと読んでいるのなら「ミクロの対話」や「アクセントの移動」「言葉の対話的な分裂」「意識の分裂」を知らないはずはないのだから。
そして、それが「ポリフォニー」の根幹に関わる概念であることも。
おそらく亀山は様々なレベルがあるといいつつ(p200)、ポリフォニーを「多くの声=登場人物たちのそれぞれの思想」と単純に理解しているために間違った解釈をしてしまったのだろう。
(「多くの声=登場人物たちのそれぞれの思想」はポリフォニーのほんの一部にすぎない)
だから、せいぜいが「ポリフォニー精神あるいはポリフォニーの原理=複数の視点による相対化」というくらいのことしか言えない。

しかし一方で、亀山は解題(p253)で「登場人物は、真実のいくつもの層をそれぞれの役割に即して語っている。ポリフォニー性とは、真実のさまざまな層同士の対話ということになる」
という記述もしているのだが、ポリフォニーを「多くの声=登場人物たちのそれぞれの思想(真実)」と解釈しているために、やはり本来のポリフォニー概念を捉え損なっている。
解題(p264)の記述も惜しいがここでも的を外してしまっているように見える。

428:吾輩は名無しである
08/03/08 06:52:26
よく思うんだが、
英語は出来る人がいっぱいいるし、帰国子女も多いだろうから、
ほぼ正確に翻訳できると思うけど、

ロシア語とかイタリア語とかそういうマイナーな言語の翻訳家は本当に最高峰の文学が読めるほどに外国語を理解しているの?
英語以外の言語だと学習環境もあまり良くはないでしょう?
電子辞書もあまり役に立たないし

それとも、英語への翻訳版を読みながら翻訳していたりするんだろうか。

429:吾輩は名無しである
08/03/08 10:11:35
対象言語への精通度と翻訳の質は必ずしも比例するとは限らん。
と、完璧なバイリンガルで院まで行って挫折した人が言ってた。

430:吾輩は名無しである
08/03/08 10:21:22
>>428
はげは中学英語以上は出来ません。それすらも危うい。

431:吾輩は名無しである
08/03/08 10:22:10
15 :吾輩は名無しである:2007/07/20(金) 23:32:35
とはいっても、亀山が誤解するのも無理はない記述をバフチンが『ドストエフスキーの詩学』の初めにしていることも事実ではある。
「それぞれに独立して互いに溶け合うことのないあまたの声と意識。それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、
ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである(省略)それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま、
何らかの事件というまとまりの中におりこまれてゆくのである」(『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン(ちくま学芸文庫p015)
亀山は、おそらくこの「互いに溶け合うことのないあまたの声と意識」「複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま」という言葉に引きずられてしまい
「ポリフォニー」の意味を捉え損なったのだろう。これは「あまたの声と意識が」」ある特定の真理に「単一化=モノローグ化」されることは決してないという意味であり、
独立が保証されているのは登場人物なのではなく、あくまでも「あまたの声と意識」の方なのだ。
そしてそれは「あまたの声と意識」が他の「あまたの声と意識」と対話を始めることを何ら妨げるものではない。


432:吾輩は名無しである
08/03/08 10:23:52

16 :吾輩は名無しである:2007/07/20(金) 23:33:26
ポリフォニーを大雑把に要約してみると... (オレも人に講釈を足れるほどバフチンを理解しているというわけではないが)

多くの登場人物たちが、それぞれの思想をもって論争するのだが、それぞれの思想は首尾一貫した「モノローグ的な声」なのではなく絶えず個人の内部で論争をしている。
思想は常に他の思想への応答としてあるからだ。また論争(他人や自分自身との)での言葉の反復は、同じ言葉のままであるにも関わらず元の話者による言葉の意味に
不可避的に別の意味を付け加えたり欠落させたりせずにはいない。同じ言葉に「新しい我々の理解、我々の評価を引き込んでしまう」(バフチン)からだ。
そして、それが自分自身による言葉の反復であってさえ。このような「アクセントの移動」は「言葉の対話的な分裂」「意味の変化=複数化」「意識の分裂」を引き起こす。
(「イデエ=思想」の「複数化=多声性化」)
そして分裂したそれぞれの断片が絡み合い遮り合い交じり合って様々なレベルを飛び超え「あべこべ」になり「ちぐはぐな組み合わせ」になり互いに「無遠慮な接触」をして
結びつき複数の重層的な対話を始める。(カーニバル化)
イデエ=思想は、それらの間を通りアクセントを変え様々に変形し意味を変える。イデエ=思想とは、そのような様々に交じり合いアクセントを変え意味を変えた断片の集まりである。
またイデエ=思想は個人の内部にあるのではないし個人を離れてイデエ=思想があるのでもない。
「複数の声と複数の意識の接点において、イデエは生まれ、生きる」「その生息圏は個人の意識ではなく、意識同士の間の対話的な交流の場なのである」(バフチン)。
しかも個人の内部においてもイデエ=思想は分裂し絶えず論争し合っていて果てることがないし、常に「新しい言葉=応答」を待っている。
絶え間なく果てしない未来に開かれた様々な対話の集合=ポリフォニー。そして我々読者もまた、ある一つのあるいは複数の声として、この対話に加わるだろう。
外と内とで論争をしつつ、さらなる「新しい言葉=応答」の到来を待ち受けながら。

こんなかんじ。

433:吾輩は名無しである
08/03/08 10:24:13
17 :吾輩は名無しである:2007/07/20(金) 23:34:27
ここから『カラマーゾフの兄弟5』(p193)の階層化された図を見ると「ポリフォニー」とはこの図全体を含むものであることがわかるし、
階層を無効化するバフチンのいう「カーニバル化」という概念も、「声の自立性」という言葉の意味も亀山が理解できていないことがわかる。
階層化しているのであれば様々な声が対等ではないことになるのだから。また亀山の解釈がバフチンのいうモノローグ的な解釈だということもわかる。
そもそも問題なのは、亀山が意味もよくわからず、こんなところに「ポリフォニー」という言葉を使ってしまうことなのだ。全く意味が違うのだから。

亀山が理解していないのは「多くの声=登場人物たちのそれぞれの思想」が「単一=モノローグ的」なものなのではなくて、
またそれぞれの思想が「分裂=複数化=多声性化」して自分勝手に他の「分裂=複数化=多声性化」した思想と自立した対話を始めてしまうということなのである。
亀山が『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン(ちくま学芸文庫)の解説(p579)の最後のほんの数行でも読んでさえいたらこのような誤解はなかっただろう。
最初に、亀山は解題(p200)に自分で書いている「第一義的なポリフォニー性の意味」さえ理解していないのではないか?と書いたが、その答えはもはや明白だろう。
そして「あまたの声と意識」が他の「あまたの声と意識」と対話を始めることを何ら妨げるものではないということの意味も。

結局のところ、亀山がいうポリフォニーとはバフチンとは何の関係もないし、亀山がいうカーニバルとは単に「ドンちゃん騒ぎ」という意味でしかない。
亀山の解釈に「ポリフォニー」という概念は全くの不要だし使うべきではない。ドストエフスキーの読者にとっては百害あって一理なし。
特に今回、初めて『カラマーゾフの兄弟』を読もうと思っている中高生にとって。


434:吾輩は名無しである
08/03/08 10:29:11
そんなに長々と説明しなくてはわからないようなことなんてどうでもいいー。

中高生がポリフォニーどうのなんて意味ない。よしんばあったとしても、
新訳を得て読む機会が増えたことをメリットとすべし。
出版ってそんなもんだろ。学者うぜー。

435:吾輩は名無しである
08/03/08 10:30:01
翻訳はひとつの試みにすぎないってことさ。場過度もが。

436:吾輩は名無しである
08/03/08 12:23:38
というか>>433みたいなのは大して認められていない学者気取りの
落伍者なんだろ。そんな人間の書き込みを本気で受け取っているのはおかしいぜ。

437:吾輩は名無しである
08/03/08 12:37:05
434の負け

アンチは説明できる。
信者は説明できない。

これが事実

438:吾輩は名無しである
08/03/08 12:38:47
誰も本気で受け取ってないから安心しろw
あんなもの 当人しか読んでいねえよ

439:( ̄ω ̄)みちるの友 ◆nCkADzKG8Q
08/03/08 12:51:06
おやおや(笑)読書不精な私ですが、「ドストエフスキーの詩学」は読んでおりますが、>>433の方のバフチン読解は正確なのではないでしょうかねぇ(笑)
先ず出来るだけ頭の悪い方にも分かるように申しますと、バフチンがカーニヴァルと規定したのは聖と俗の混交でしょう(笑)
古来祭の日には亀山さんを代表するような支配者階級が権力から引き摺りおろされ、( ̄^ ̄)を代表するような普段は下劣な庶民が国王として君臨するという言わば奪冠が行われてきましたねぇ(笑)
愚者とされてきた者が権力側を茶化し、愚者に落ちた権力側もまた愚者と戯れるというような情景、と言う訳です(笑)
バフチンはグリンメルスハウゼン、オイレンシュピーゲル伝説、スカロンやホフマン、シェークスピアなどからこのような傾向は見られると書いておりますが、それを完成させたのがドストエフスキーであると(笑)
早い話が、ポリフォニック云々は其処が分からないと解釈出来ないわけです(笑)意見と意見がぶつかり合い、溶け合い、馴れ合い、絡み合う事こそが本当の多声性という訳です(笑)その方がリアリスティック、現実の様相だ、と言う訳なのですよ(笑)

440:(o^v^o)
08/03/08 12:53:56
(*`ε´){お祭りって晴れだよ。けっ

441:( ̄ω ̄)みちるの友 ◆nCkADzKG8Q
08/03/08 12:59:47
捕捉しておきますと、仮に一人の人間の語りであっても、複数に分裂しないものはない、ということなのですよ(笑)
先ほどとはまったく違う事を語り手が述べていたとしても、それを間違いだの傷だの論理の一貫性に欠けるだのと呼ぶ事こそが失笑モノ、と言う訳です(笑)
これは「意識の流れ」をさらに越えたものです(笑)
モノローグと言うのはそれと反対で、対話であっても一人語りであっても結局は一つの意見を位置引き出す、大雑把に申せばプロパガンダ的と言う訳です(笑)
例えばナバコフなどという人の小説嗜好は存外古典的でこちらの方こそが真の小説であると思っている節もある訳です(笑)勿論、本人の小説はそうではない訳ですけれどもねぇ(笑)

442:吾輩は名無しである
08/03/08 13:13:13
18 :吾輩は名無しである:2007/07/20(金) 23:37:12
蛇足だけど、ジラールの解釈も間違っていると思う。主体や心理が先行しているように読めるから。解題(p233 p314)
(この人は「欲望の模倣」の模倣の意味を、主体が「他者の欲望」を主体的に真似ようとすることだと思っているのか?)
この人は何でもかんでも、ドストエフスキーが嫌っていた「心理主義的解釈」をする人なんだなと思った。
最初に書いたけど訳は悪くないと思うし(といっても、別にどれでもいいと思うけど)、亀山や江川卓の雑学は、それはそれで面白いし参考になる
ところもあるのでポリフォニー云々なんて書かなければよかったのにと思う。もったいない。
(賛否は別にして、亀山がポリフォニー概念の最低限の理解をして、それに対して新たに自分の解釈を提供するというのなら話はわかる)

興味のある人は『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン(ちくま学芸文庫)の(p534 L1-p539 L1)(p542 L9-p546 L11)と
『カラマーゾフの兄弟5』(光文社古典新訳文庫)p278からの亀山の解題を読み比べてみてほしい。
(誤解のないように言っておくが、バフチンの解釈がすべてだといっているのではないし、くどいようだが、ポリフォニーの解説をちゃんとするか、
全く言及せずに自分の解釈だけを書くというのなら別に文句をつけるつもりはない。また解釈の是非をいっているのでもない)

ついでだから書くと、初めて『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)を読もうと思ってる人にはp527の「ドストエフスキーの対話」から読み始
めることを勧める。その方がわかりやすいと思うので。

そして、「バフチンバフチンって、うるせぇーよ!」と思った、そこのあなた!バフチンバフチンって、亀山某が書いてるもんだからつい...
でも読まず嫌いは感心しない。読んで損はないと思うので、読まず嫌いの人は意地を張らないで読んだ方がいいと思うよ。
それから嫌いになっても遅くはないでしょう?21世紀になった今でもやはり「卓越したドストエフスキー論」だと思うから。
というか、日本に紹介されてから40年近く経っているんだから、もはや必読の基本文献の一冊だというのは常識だというのは、わざわざ書くまでもないことか... 


443:吾輩は名無しである
08/03/08 13:14:03
19 :吾輩は名無しである:2007/07/20(金) 23:50:33

『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)から少し引用してみる。(下手な講釈を読むよりずっといいと思うので)


「ポリフォニーの本質は、まさに個々の声が自立したものとしてあり、しかもそれらが組み合わされることによってホモフォニー(単声楽)よりも高度な統一性を実現することにある。
個人の意志に関して言えば、まさにポリフォニーにおいてこそいくつかの個人の意志の結合が生じ、単一の意志の枠が本質的に乗り越えられるという現象が起こるのである」(p045)

「ドストエフスキーの主人公たち(省略)のそれぞれの思想は、そもそもの初めから自らをある未完の対話における応答の言葉だと意識している思想である。
(省略)それは他者の思想、他者の意識との間の境界線上に、緊張した生を生きている思想である。それはきわめて事件に満ちた、人間と切り離しがたい思想である」(p065)

「実際ドストエフスキーの本質的な対話性は、けっして彼の主人公たちの外面的な、構成的に表現された対話に尽きるものではない。
ポリフォニー小説は全体がまるごと対話的なのである。小説を構成するすべての要素の間に対話的関係が存在する」(p082)

「ドストエフスキーは(省略)人間の内部にあってけっして完結しない何ものかを示そうとした」(p121)
「生きている限り、人間はいまだ完結しないもの、いまだ最後の言葉を言い終わっていないものとして生きているのである」(p122)

「作者の意識が他者の意識(つまり主人公たちの意識)を客体と化してしまうこともなく、また彼ら抜きで彼らに総括的な定義を下すこともない。
作者の意識は、自分と同列に、すぐ目の前に、自分と対等の権利を持った、そして自分と同じく無限で完結することのない他者の意識を感じているのである。
作者の意識は客体たちの世界をではなく、それぞれの世界を持った他者の意識を反映し、再現する。しかもその本来の完結不能性(そこにこそ他者の意識の本質があるのだ)
の相において再現するのである。(省略)可能なのはただそれと対話的につきあうことだけである。他者の意識について考えるとは、すなわちそれらと語り合うことである」(p140)


444:吾輩は名無しである
08/03/08 13:14:27
20 :吾輩は名無しである:2007/07/20(金) 23:53:51
『ドストエフスキーの詩学』つづき2

「イデエの生きる場所は人間の孤立した個人的意識の中ではない。孤立した意識の中にのみ取り残されると、イデエは退化し、死んでしまう。
イデエが生活し始める、つまりそれがある形をとり、発展し、自らの言語表現を見出し、それを更新し、さらに新たなるイデエを生み出すという
活動を開始するのは、それが別の、他者のイデエたちとの間で本物の対話的関係に入ったときしかない。人間の思想が本当の思想つまり
イエデとなるための条件は、それが他者の声に具現化された他者の思想、つまり言葉に表された他者の意識と、生き生きとした接触をすること
である。この複数の声と複数の意識の接点において、イデエは生まれ、生きるのである」(p179-180)

「イデエとは間個人的、間主観的なものであり、その生息圏は個人の意識ではなく、意識同士の間の対話的な交流の場なのである。
イデエとは二つもしくはいくつかの意識が対話的に出会う一点で展開される、生々しい出来事である」(p180)

「常軌の逸脱こそカーニバル的世界感覚に特有なカテゴリーであり、それは無遠慮な接触というカテゴリーと有機的に結びついている。(省略)
同じく無遠慮な接触と結びついているのが(省略)カーニバルにおけるちぐはぐな組み合わせである。自由で無遠慮な関係は価値、思想、
現象、事物のすべてに及ぶ。カーニバル外のヒエラルヒー的世界観の中で閉ざされ、孤立し、引き離されていたもののすべてが、カーニバル的接触や結合に突入する」(p249-250)

「世界ではまだ何一つ最終的なことは起こっておらず、世界の、あるいは世界についての最終的な言葉はいまだ語られておらず、
世界は開かれていて自由であり、いっさいは未来に控えており、かつまた永遠に未来に控え続けるだろう」(p333)

「ドストエフスキーの長編ではすべてが、いまだ語られざる、あらかじめ決定されることのない《新しい言葉》を目指すとともに、すべてが固唾を
飲んでその言葉の到来を待ち受けて」いる。(p334)


445:吾輩は名無しである
08/03/08 13:14:53
21 :吾輩は名無しである:2007/07/20(金) 23:56:00
『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)からの引用3

「自分自身とのみ取り残された人間は、自らの精神生活のもっとも深奥の内面的な領域においてさえ、ものごとに決着をつけるということが
できず、他人の意識なしにはにっちもさっちもいかないのだ。人間は自分自身の内側だけでは、けっして完全な充足を見出すことができない
のである。」(p356)」

「我々が自分の対話者の言表のほんの一部でも自分の発話によって再現しようとすると、話す主体が交替したというだけで、もはや不可避的に語調は変化してしまわざるを得ない。
つまり、「相手」の言葉が我々の口にのぼると、自分とは無縁な言葉として響き、非常にしばしば嘲笑、誇張、愚弄のイントネーションを伴ってしまうのである」
(p392 ただし、これはレオ・シュッピッツアー『イタリアの話し言葉』からの引用)

「我々の発話の中に導入された他者の言葉は、否応なくその体内に新しい我々の理解、我々の評価を引き込んでしまう。つまり、複声的な言葉になってしまうのである」(p393)

「いくつかの言葉が何度も反復されるのは、話し相手の予想される反応を計算に入れながら、それらの言葉のアクセントを強調しようとするか、
それらの言葉に新しいニュアンスをつけ加えようとするからである」(p417-418 『貧しき人々』のデーヴシキンの言葉の分析)


446:吾輩は名無しである
08/03/08 13:15:55
22 :吾輩は名無しである:2007/07/20(金) 23:59:08
『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)からの引用4

「このように言葉を、内容的にはまったくもとのまま、ただその調子と最終的な意味合いを変えて、一方の口から他方の口へと移動させるというのは、
ドストエフスキーの基本的な方法の一つである」(p442)

「イワンの言葉と悪魔の応答とを差異づけているのは、内容ではなく、ただその調子、ただそのアクセントだけである。しかしそうしたアクセントの移行は、
イワンの言葉と悪魔の応答の最終的な意味の全体を変化させているのである」(p454)

「他者の声によってアクセントを変えられた主人公自身の言葉が彼の耳にささやかれ、その結果一つの言葉、一つの発話の中で様々な方向性を
持った言葉と声がきわめて独特な形で絡み合い、一つの意識の中で二つの意識が切り結ぶという現象は、その形式、程度、イデオロギー傾向の差はあれ、
ドストエフスキーの作品すべてに固有の現象である」(p456)

「ドストエフスキーの長編の地平で展開されるのは(省略)闘争する声たち、内部で分裂した声たちのポリフォニーなのである」(p522)

447:吾輩は名無しである
08/03/08 13:43:13
はじめて『カラマーゾフの兄弟』を読む中高生に誤訳・誤解・抜け落ち本を売りつけるのって
とんでもない悪事じゃありませんかー?

なのにどーして新聞やホームページで謝罪広告すら打たないんですかー?

ウソの翻訳まがい本を売りつけて庶民から金をだまし取ることが
悪事だと思ってもないんですかー?

448:吾輩は名無しである
08/03/08 17:46:27
>>447 それが学長という身分ならなおさらだな。けしからん。

23 :吾輩は名無しである:2007/07/21(土) 00:03:28
『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)からの引用5

「ドストエフスキーの対話において衝突し、論争しているのは、二つの首尾一貫したモノローグ的な声ではなく、二つの分裂した声(少なくとも一つの声は分裂している)なのだ。
一方の声の開かれた応答が、他方の声の隠された応答に答えているのである。
一人の主人公に対して、それぞれがその第一の主人公の内的対話の正反対の応答に結びついているような二人の主人公を対置させること。
これがドストエフスキーにとってもっとも典型的な組み合わせなのである」(p538)

例:イワンの同じ言葉を、スメルジャコフは父の殺害依頼という真理とイワンのアリバイ作りの言葉として解釈し、アリョーシャはイワンの隠された願望(父の死)を知りつつ、
  イワンの「いつだって親父を守ってやる」という言葉の方を真理だと解釈する。
  「神がないならすべてが許される」という(自分の理性に対して誠実であろうとするが故の)イワンの半信半疑の言葉(イワンとゾシマの対話参照)を
  スメルジャコフはイワンの自信満々のこの世の真理として受け取る。(p538のバフチン考察参照)

  補足説明:現代に置き換えると、死ねば多額の遺産や保険金が入ってくるという理由から自分の父の死を内心では願っているという人間は現実にも大勢いるだろうが、
  だからといって実際に殺したり殺害を依頼する人間はずっと少ないだろうし、この二つは同じではない。
  イワンの場合も同様で、イワンは父の死を願ってはいるが(自分が関わる)殺人を願っているわけではない。
  バフチンの言い方だと「イワンは自分の意志に反して父の殺人が起こるのを願っている」。何ら自分の良心を責めずにすむから。(p543のバフチンの考察参照)
  (偉そうに書いているけどオレはバフチンが本で書いてることを書いてるだけ)


449:吾輩は名無しである
08/03/08 17:47:44
24 :吾輩は名無しである:2007/07/21(土) 00:06:24
『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)からの引用6

「いずれの対話にも、公然とした対話の応答と主人公たちの内的対話の応答との交錯、共鳴、あるいは遮り合いがあり、いずれの対話においても、
一定のまとまったイデエ、思想、言葉の総体が、いくつかの融合することのない声たちを介して、それぞれに異なった響きの中に実現されているのである(省略)
作者が目指しているのは、テーマを多くの多種多様な声を介して実現させること、つまりテーマの原理的な、いわば取り消し無効の多声性、声の多様性ということに他ならない。
ドストエフスキーにとって重要なのは、声たちの配置法そのもの、声たちの相互作用そのものなのである」(p558-559)

「構成的に表現された表面的な対話は、内的対話、すなわちミクロの対話と不可分に結びついているだけではなく、ある程度はそれに依存してもいる。
そしてこれら二つの対話はまた、それらを包含する長編全体の大きな対話と不可分に結びついている。ドストエフスキーの長編は、どれもみな例外なく対話的なのである」(p559)
筑摩書房さん、ごめんなさい。 m(_ _)m


450:吾輩は名無しである
08/03/08 17:48:13
25 :吾輩は名無しである:2007/07/23(月) 02:00:07
訂正:

バフチンを引用しこそすれ→バフチンに言及しこそすれ

まともに読んだことさえないのだろう。→ろくに読んだこともないのだろう。
訂正と追加

全く意味が違うのだから。 →全く意味が違うのだから。登場人物の多様性をいいたいのなら、ここは「多様性」とでもしておけばいいだけ。
亀山の解釈は古典的解釈に作者の心理(お遊び)をプラスした古典的解釈の一ヴァリエーションだということがわかる。

「これらの研究者たちは、ドストエフスキーが開示した複数の意識の世界を、単一の世界観のモノローグ的体系の枠に押し込めようとして
あるいは二律背反原理に、あるいは弁証法に依拠せざるを得なかったのだ。主人公たちの(そして作者自身の)具体的で全一的な意識の中から、
いくつかの哲学的なテーゼが切り取られ、それらがあるいはダイナミックな弁証法のスタイルに配列され、あるいはまったく解消不能な二律背反として
相互に対置されてきた。互いに溶け合うことのないいくつかの意識の相互作用としてあるものが、単一の意識を充足させるべき複数のイデエ、
思考、仮説同士の相関関係に置き換えられてきたのである」 『ドストエフスキー詩学』ミハイル・バフチン(ちくま学芸文庫 p020)

451:吾輩は名無しである
08/03/08 17:48:46
26 :吾輩は名無しである:2007/07/23(月) 02:01:10
追加:

『カラマーゾフの兄弟3』(光文社古典新訳文庫)の読書ガイド(p539)で亀山は『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン(ちくま学芸文庫 p249)の
「カーニバル」について触れた部分を引用して次のように書いている。(『ドストエフスキーの詩学』からの引用部分は省略)

「雑多な出自の人間が集合し、どんちゃん騒ぎを繰り広げる。そこには、少し難しくいえば、ありとあらゆる「平準化」のモメントが見出され、
主客の転倒が、自由で無遠慮な人間の出会いが生まれる」 『カラマーゾフの兄弟』(光文社古典新訳文庫 読者ガイドp538-539)
「世界をつねに流動的なものとして見つめ、人間の意義をどこまでも解放していこうとする精神、そこにドストエフスキー文学の、もっとも大きな力が
あると考えてよいのではないか」」(同 p539-540)

亀山は、ここまで書いていながら、やはりポリフォニーを「登場人物の多様性による相対化」と「作者の謙虚さ」という意味でしか理解していないため、
引用している部分の意味を十分理解しているとは言い難い。亀山には、ポリフォニーの「対話性」の概念が全く抜け落ちてしまっている。
また、「ドストエフスキーの詩学」「ドストエフスキーの創作の方法」の意味が理解できていない。(小説の内容に還元してしまっている)


さすがに面倒くさくなってきたので、興味のある人は、どちらの言い分が当たっているか、それともどちらも外れなのか、
『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン(ちくま学芸文庫)を読んで自分で判断してほしい?の!

(何度もいうようだが『カラマーゾフの兄弟』(光文社古典新訳文庫)の亀山の解釈の是非をいっているのではなく、
 『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン(ちくま学芸文庫)の「ポリフォニー」の概念の使用の当否について書いている)

452:吾輩は名無しである
08/03/08 17:49:22
185 :吾輩は名無しである:2007/08/11(土) 00:13:08

昭和49年(1974年)刊の筑摩世界文学大系39の『ドストエフスキーU・カラマーゾフ兄弟』上巻の末に新谷敬三郎訳のバフチンの
『ドストエフスキー論 創作方法の諸問題』(冬樹社)=『ドストエフスキーの詩学』からの「ドストエフスキーの対話」の抜粋が収録されている。
収録されているのは主にアクセントの移動とミクロの対話について書かれた部分。下記の引用は訳者(小沼文彦)付記。
ここからみても亀山のバフチン理解が当時よりも後退していることがわかる。

バフチンの「ドストエフスキー論の発想は」(省略)「主人公たちのたがいに対立矛盾する声の対話を核として成立しているドストエフスキーの
創作方法を明らかにしようとした点にある」(省略)「そこでは表現(言葉)は作者直接のモノローグではなくて、人物たちそれぞれの声を持ち、
それが対話しあっている。そればかりでなく、一人の主人公の内部で他の人物たちの声がたがいに言い争っている。ドストエフスキーは、
自分がつくり出した人物たちのそれらの声に耳を傾け、それを言葉に再現し、近代小説の方法を革新した作家である。
これがバフチンの基本の見解である」『世界文学大系39 ドストエフスキーU』(筑摩書房 p420)

453:吾輩は名無しである
08/03/08 20:00:12
226 :吾輩は名無しである:2007/08/16(木) 02:35:33
「新発見」(だかなんだか知らないが)を見つけて有頂天になってしまい、うれしくてうれしくて堪らないのか、頭の中が
それだけでいっぱいになって他のことには目が届かなくなり、つい短絡した結論を出してしまうというのが亀山の解釈の特徴か?
亀山の強引で粗雑な解釈の多くは、亀山のこの単細胞的性格からきているものと思われる。

例:
イワンを単純にコントラに分類していること。イワンがびっこを引いていることが『ファウスト』のメフィストフェレスの隠喩だと知って余程うれしかったのだろう。
何度もうれしそうに書いているから。しかし、これはイワンが悪魔であることの隠喩というより、イワンが悪魔に憑かれていることの隠喩ではないのか?
イワンがプロとコントラとに引き裂かれている人間だということは、イワンとゾシマの会話をちょっと読むだけでもわかる。
「あなたは、魂の不死も自分の主張のどちらも信じておられない。問題は解決されておらず、そこに、あなたの大きな悲しみがあるのです」
「私の問題は肯定の方向で解決されるでしょうか?」
「肯定の方向で解決されないなら、否定的な方向にも解決されないでしょう。そういう、あなたの心の本質は自分でもよくおわかりのはずです。
そして、そこに、あなたの大きな苦しみがあるのです。そのような高き心を持ったことを神に感謝なさい」。
イワンが単にコントラでしかないのなら、イワンの苦悩など存在しないだろう。また、イワンが自分の発した言葉の意味を執拗にアリョーシャやスメルジャコフに問い質す
こともないに違いない。それに、イワンが悪魔なら、イワンが、その悪魔と口論することなどあり得ないだろう。そもそも、『カラマーゾフの兄弟』というのは多かれ少なかれ
プロとコントラとの間で揺れ動く人間の物語ではなかったか?(というかこれ、常識レベルの話じゃないの?)
『カラマーゾフの兄弟』で、はっきりとプロとコントラとに分けられるのはキリストと悪魔くらいのものだろう。アリョーシャや大審問官でさえ躊躇している。

注:イワンとゾシマの会話は簡略化した。

454:吾輩は名無しである
08/03/08 20:01:16
227 :吾輩は名無しである:2007/08/16(木) 02:40:33
亀山は専門家なので当然細かい知識はあるのだろうが、その細かい知識に引きずられて、全体から見ると常識レベル以下の解釈になっているように思う。
逆に言えば、そうでもして無理な解釈を打ち出して耳目を驚かさないと名前が売れないということなんだろう。
ちょうど背伸びをした発言をしてアリョーシャの苦笑を誘うコーリャ・クラソートキンみたいに。


455:吾輩は名無しである
08/03/08 20:02:34

354 :吾輩は名無しである:2007/08/29(水) 00:22:04
加賀乙彦の『小説家が読むドストエフスキー』(集英社新書)を読んだんだけど「スタヴローギンとシャートフの議論は、絶えずずれます」(p136)
とは書いてはいるが加賀もバフチンを全く理解していない。
それなのに「バフチンの大著を簡単に要約してしまったので、私はすこし罪の意識を持っておりますが」(p187)だって。頭、大丈夫か?
それに加賀は「ソクラテスの対話」系の小説の典型はゲーテで、「ドストエフスキーはメニッペア系の小説家だとバフチンは言います」(p189)と書いているが、
バフチンは、そんなことは全く全然一言も一切書いていない。

「ここから我々はこのジャンル(ソクラテスの対話)が、ヨーロッパの芸術的な散文および小説の発展史の内の、ドストエフスキーの創作に通ずる系列の、
一つの源泉となったと判断することができる」(『ドストエフスキーの詩学』ちくま学芸文庫p230-231)

「《ソクラテスの対話》とメニッペアに端を発するこうした伝統のすべてが、ドストエフスキーにおいて、そのポリフォニー小説という余人の
追随を許さぬ独創的で革新的な形式の中に、面目を一新して蘇ったのである」(「ドストエフスキーの詩学」ちくま学芸文庫p358)

要するに、「ソクラテスの対話」と「メニッペア」という二つのジャンルの伝統がドストエフスキーのポリフォニー小説を準備したと書いている。

456:吾輩は名無しである
08/03/08 20:03:37
355 :吾輩は名無しである:2007/08/29(水) 00:23:01
後の方の文章は、『ドストエフスキーの詩学』の第四章の一番最後の文章なんだけど、これを読み落とすというのは、ちょっと考えられないんだけど。
いい加減な奴が多いな。加賀といい亀山といい30年以上も前の標準的な理解にも達していないというのはどういうわけだ?
加賀は小説家だし別冊で書いてるからどうでもいいと言えばどうでもいいんだが、日本のドストエフスキー研究って、大丈夫なのか?といらぬ心配もしたくなる。
加賀は100冊以上ドストエフスキー論を読んだと豪語しているわけだけれども、これじゃ全然信用するに足りない。それよりも「一冊でもいいからもっとちゃんと読めよ」と言いたくなる。
教科書的な理解とか一般に流布されている説に基づいて書いている場合には「誤解」というのはよくあることだけれども
(それは全ての本を読むことができない以上仕方ないことだし、許容範囲内のことではあると思うけれど)、一応自分で読んだことになってるわけだろ?
もっと、ちゃんとしてくれ!

注:メニッペア(メニッポスの風刺。正確には「メニッポス風の風刺」)とは下世話な話や空想や宗教や哲学的議論などが聖俗交じり合った風刺話のこと。
『ドストエフスキーの詩学』(p231参照)(偉そうに書いてるけどオレもバフチンの本で初めて知った)

余談だけども、たまたま部屋を片付けているときに見たサドの『恋の罪』(岩波文庫)の解説にもポリフォニー云々と書いてあるが、
これもご多分に漏れずに間違って理解していて単なる多様性のことだと勘違いしている。
一時の流行で意味もわからずに「ポリフォニーポリフォニー」と猫も杓子も書くから、それに反発してまた意味もわからずに、
バフチンというと毛嫌いする人もいる。不毛というかなんというか。しょうもない...


457:吾輩は名無しである
08/03/08 20:10:38
読んだこともない論文を解説で紹介するなどあるまじき行為だな

458:吾輩は名無しである
08/03/08 20:55:44
普通の読解力があり普通に読めば(人によって解釈のレベルの高い低いは当然あるだろうが)
バフチンを亀山のように「誤解」することなどあり得ない。ここから三つのことがいえる。

1:ドストエフスキー研究の理論水準の驚くべき低下。草稿段階で誰も亀山の誤りに気付かなかったということは、亀山の周囲では
誰一人としてバフチンを読んでいないことを意味する。バフチンをどう評価するかはともかくロシア文学が専門だったら必読書だろう。

2:ろくに読んでもいない本の解説を自慢げに書いてしまうという恐るべき倫理観の欠如。そして、それで通ると思っている鈍感さ。
こんなことは理系では考えられない。こんなことしたら一発でアウト。その人の学者生命は終わる。それくらいひどい。

3:あんな粗雑でレベルの低い解説をいくら文庫本の解説とはいえ「傑出したすばらしいガイド=指針」などと宣伝する出版社の良識と能力の欠如。 
亀山の詐術的で虚仮威しでしかない記述に気が付かないということは基本的な読解力がないか、そうでないなら原稿をチェックをしていないかのどちらか。

まさか21世紀にもなって、あんなデタラメな解説付きの『カラマーゾフの兄弟』の翻訳が出るとは夢にも思わなかった。魂消たね。


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