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1:昆虫図鑑 ★
22/05/12 09:20:08.27 CAP_USER.net
[ペ・ジョンドクの歴史紀行]「任那日本府説」
任那日本府説は、倭が4世紀中頃に伽耶地域を軍事的に征伐して「任那日本府」という統治機関を設置して、6世紀中頃まで韓半島南部を運営したという話にもならない学説だ。
その始まりはシンゴン(神功、ジングウ)皇后だったという。そして、『日本書紀』に出てくる神功皇后は3世紀の人物だ。神功皇后の頃には、合間に韓地百済の王歴を挟み入れた。次は『日本書紀』『神功皇后記』に出てくる百済の王歴と『三国史記』に出てくる百済の王歴を比較したものである。
『日本書紀』神功55年(CE255)百済のチョゴ(肖古)王が死んだ。 / 『三国史記』クンチョゴワン(近肖古王):CE375年王が死んだ。
『日本書紀』神功56年(CE256)百済の王子キス(貴須)が王位についた。 / 『三国史記』クングスワン(近仇首王):CE375年王位についた。
『日本書紀』神功64年(CE264)百済の貴須王が死んだ。王子枕流が王位についた.。/ 『三国史記』チムリュワン(枕流王):CE384年に即位した。
『日本書紀』神功65年(CE265)百済チムリュワン(枕流王)が死んだ。叔父の辰斯が王位を奪って王になった。 / 『三国史記』チンサワン(辰斯王):枕流王の弟で、枕流王が死んだ時、太子が幼かったので叔父の辰斯が王位についた。(CE385年)
百済の肖古王(在位CE165~214)と近肖古王(在位CE346~375)は全く別の人物だ。王子貴須(在位CE214~234)と近仇首王(在位CE375~384)も別の人物だ。枕流王(CE384)が即位したが、1年後に死んで、弟の辰斯王(在位CE385~392)が即位した事実だけが一致する。これも『日本書紀』と『三国史記』の該当年度は120年の差異がある。
日本の学者たちは、肖古王と近肖古王、王子貴須と近仇首王を同様の人物と断定する。ここには何ら適当な根拠もない。名前が似ているから、同じ人物とみなすべきということだ。そして、神功皇后の頃に起こった出来事を、どれも120年ずつ遅らせて適用しなければならないと



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