【韓国】1965年 韓日国交正常化(今日の経済小史)[06/21] [ハニィみるく(17歳)★] at NEWS4PLUS
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1:ハニィみるく(17歳) ★
20/06/21 21:24:40.16 CAP_USER.net
┃『完全かつ最終的な』協定の束縛
(写真)
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1965年6月22日午後5時、東京の首相官邸。小雨に濡れた両国の国旗の下、韓日両国の外相が調印式に現れた。自衛隊の軍楽隊が※ヘンデルの凱旋行進曲(※補足=凱旋行進曲はヴェルディ)を演奏する中、イ・ドンウォン(李東元)韓国外務部長官と日本の椎名悦三郎外務大臣は、基本条約(7か条)と漁業、請求権、在日僑胞の法的地位、文化財返還など、4つの付属文書の韓日協定に署名した。敗亡した日本が朝鮮から退いて以降、20年ぶりに両国がお互いを認める公式関係を結んだのである。韓日国交正常化のための第1回会談から14年8か月ぶりとなる。
韓日両国が関係正常化のために、初めて対面したのは1951年10月。双方の立場は大きな違いを見せた。交渉の場に双方を巻き込んだ米国は、東アジアで日本を中心とした親米陣営の団結を願っていたが、近付くことはできなかった。韓国は日本の殖民地支配の謝罪と賠償の原則を述べ、日本は韓国に多くの財産を残したとし、対日請求権と交換する戦略に出た。1952年に入って韓国政府は李承晩(イ・スンマン)ラインを宣言し、日本の漁船を大挙拿捕して両国の関係はより一層悪化した。1953年の第3回会談では、日本側の首席代表である久保田貫一郎の妄言により、すぐに物別れとなった。
「日本は36年間でハゲ山を緑に変え、鉄道を敷き、水田を増やし、多くの利益を韓国人に与えた。日本が進出しなければロシアや中国に占領され、もっと悲惨な状態になっていただろう」という妄言に対し、韓国国民の怒りが爆発した。日本は久保田の発言を取り消す声明を発表し、第4回会談を再開したが、4・19義挙(4月革命)で中断となった。その後、チャン・ミョン(張勉)内閣が発足した1960年10月に第5回会談が開かれ、請求権委員会も32回開催された。韓日国交正常化はクーデターで権力を握った軍部政権と、1961年10月から長期間交渉した末の産物だったが、韓国人の大部分は喜ばなかった。
大学街では連日反政府および反日デモが起き、条約に署名したイ・ドンウォン外務部長官は特別警護を受けた。当時国内で最高部数を記録していた新聞は、「倭色文化の浸透を警戒する」という社説を掲載した。韓日協定の最も大きな問題は、李承晩政権から韓国が固守してきた『先に謝罪、賠償後に交渉』の原則が破られたという点。謝罪と賠償という文言も入らなかった。文言上で韓国は、無条件で請求権を無くしたのと同じである。韓日協定55周年、経済開発の対価として支払った対日累積貿易赤字が6,000億ドルを超えていても、日本は韓国に対して露骨に制裁を行う。久保田の妄言は国内学者の植民地近代化論に化け、倭色文化が横行している。韓国は果たして、どれ位良くなったのだろうか。
クォン・ホンオ専任記者
ソース:ソウル経済(韓国語)
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