【慰安婦問題】 豊臣秀吉から始まった根の深い慰安婦の歴史〜日本中に「平和の少女像」が立てば堂々とした国際社会の一員に★2[01/18] at NEWS4PLUS
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1:蚯蚓φ ★
18/01/18 21:14:55.20 CAP_USER.net
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▲壬辰倭乱当時、蔚山(ウルサン)城戦闘図。朝明聨合軍が倭城を包囲し攻撃しているが、難攻不落の要塞で占領は容易ではなかった。
日本軍慰安婦被害者の名誉と人権回復のために作られた「平和の少女像」が最近、世界的な関心事になっている。現代に至って世界史的に類例がない国際的人権蹂躙事態という点を勘案すればむしろ問題化が遅れた感がある。
この問題は私たちが知っているよりはるかに歴史的根元が深い。日本軍慰安婦は豊臣秀吉から始まった。秀吉は1582年、織田信長の急死で突然に権力を拾ったが、彼が徳川家康をはじめとする他の実力者らを抜いて権力を占めたのは当時の首都だった京都が自身の根拠地の大阪と近かったためだ。
しかし、支持勢力がない彼は拾うように得た権力を守るため必死の努力をしなければならなかった。そのため彼は京都市内に大規模な遊郭団地を造成して商業を奨励し、全国各地の商人が駆せ参じることによって宮廷都市を商業および金融都市に脱皮させた。しかし、それだけでは足らず100余りを越える地方小国の耳目を集中させるために大陸侵略を公言した。
はじめ、日本の官民は秀吉の公言を鼻でせせら笑った。ところが武力を使っても島国の窮屈さと疎外感から脱しようとする軍国主義者や国粋主義的過激仏教分派の日蓮宗が命がけで呼応したうえ、権力にたかるハエなどが合わさり口先だけの言葉と見られた秀吉の公言は現実に変わった。
遊郭団地で京都を繁華な都市にして利益を得た秀吉は九州島の北側に兵たん基地として使う城を築く時も一番最初に京都の大規模遊郭施設を移した。そのおかげで肥前名護屋城は1年余りの短い建設期間にもかかわらず、歓楽と金儲けのために出た労務者と兵士たちが不夜城を作り上げた。
壬辰倭乱初期、秀吉は日本軍に厳正な軍規とともに朝鮮での略奪を禁じた。名分ある戦争で民の支持を受けて、地方領主から難なく戦費を得るためであった。ところが開戦4カ月、閑山島海戦で日本海軍が壊滅すると、それ以上の戦争遂行が不可能になった。海軍の壊滅で遠征に必要な大規模兵たん支援が滞ったからだ。
ところがそれから4年後の1596年、伏見城と大阪城が大地震で崩れるとすぐに彼は崩れた城(当時の日本で城はすなわち権力だった)を積む費用のためにまた戦争を行う。しかし、一度の勝利もなしに壊滅した海軍を見た日本人は戦争再開に否定的だった。すると秀吉は朝鮮での略奪、強姦、拉致を無制限保障するという詔書を下して無理に国民を戦場に追いたてた。その結果、数十万の朝鮮人が拉致され女は貞操を蹂躙され男は西洋に奴隷として売られた。
このような日本軍国主義の亡霊は300年の歳月の間、消えずに20世紀に入って復活する。権力欲に捕われた日本の軍国主義者は国力と世界史の流れを無視して、日本国民を嘘でだまし、無謀なことこの上ない戦争に追い込む。そして戦場でだまされた事実を知った兵士たちを口止めし、抗命と暴動(数十万の市民が日本軍によって無差別殺戮にあった上海事変がその例)を防ぐために隣国の女性らを軍隊慰安婦にする蛮行を犯すに至る。
本来、侵略戦は防御戦に比べて途方もなく多くの費用がかかる。先に国民に勝利の幻想を植えなければならず、遠征に向かう軍隊の不満解消は基本で、家族の生計まで責任を負わなければならない。そうでなければ遠征軍兵士たちは抗命や暴動に至るのが常であって、国民の支持を得られない戦争はより一層そうなる。
これを見れば、日本軍慰安婦の直接的被害者は韓国、中国、フィリピンなどをはじめとするアジアの国民だが究極的には日本の国民も被害者であった。このため軍隊慰安婦を恥ずかしく思う日本人が、そうではない人よりはるかに多い。それで日本の現政権は最初から実体を隠してしまおうとあらゆる努力をしてきた。
>>2-5あたりに続く
文|ムン・ソングン法務法人キルのメンバー弁護士
<このコラムはコラムニスト個人の見解であることを明らかにします。>
ソース:朝鮮日報(韓国語) 壬辰倭乱の時、豊臣秀吉から始まった日本の根強い慰安婦歴史
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