遼史に日本国王府が出る Part2 at HISTORY
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1:日本@名無史さん
20/08/12 18:34:45 .net
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遼は南面官と北面官という政治組織を持っている。日本国王府は北面官に属している。日本に、北面の武士という軍事組織名がある。この驚くべき名前の一致は、白河が日本国王府の長であったことを示している。

遼史大安7年の朝貢を密貿易事件として処罰した事件は白河と朝廷の二重権力構造をしめした。白河が上だった。後世、院政と名付けられた。
 
白河は京の外で活動拠点を持った。岡崎の法勝寺、鳥羽離宮である。院の近臣をはじめとする貴族から雑人に至るまで,鳥羽殿周辺に宅地が与えられ,「あたかも都遷の如し」といわれた。朝廷を干上がらせようとしたのだろう。

北面の武士は、日本国王府が日本国を統治するための軍事組織。各地に配置され、源氏・平家になった。日本が急に武家社会に移行していった原因である。

遼の日本国王府設置は日本列島を制圧する意図があった。地政学的に、日本列島の北部は豆満江を通じて支配する方がたやすい。豆満江の女真大王府の下部組織として、奥州藤原があったと思われる。奥州藤原の十七万騎は遼の女真族の王府の北面官の国民皆兵制によるものだろう。

日本を遼の異なる府が分割して支配していたことになろう。王府間の争いは遼王朝が許さないだろうから、奥州藤原は日本国王府に軍事的な介入はしない。奥州藤原が独自に北方貿易(北宋)をしていたことも、平泉が平安京に次ぐ人口を抱えていたことも二つの王府で説明できる。

遼が亡び(1125)、取り残された日本国王府の武士団が、保元平治の乱、源平合戦を起こした。勝った源氏はすでに金王朝に属していた奥州藤原を滅ぼしたことになる。奥州藤原が逃げた先は十三湊で金王朝に頼ろうとした可能性がある。

詳しくは「国際的視点からの古代史考」の「付録」を参照。
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