. 【】決着【】大河民 ..
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2:日曜8時の名無しさん
13/03/21 21:53:11.09 YZR3dCKt
真実の幕末史。ここに決着?ってとこで

3:日曜8時の名無しさん
13/03/21 22:58:07.64 7yEF7h0g
ドラマから離れた歴史議論はここでやってもらえるといいかもね

4:日曜8時の名無しさん
13/03/22 00:26:00.30 AkhVqmIp
八重の桜
前の回で長州は 「 非の打ち所のない朝敵 」 に確定しましたが、

その天皇の意志と
真逆の事をしながら天皇愛を叫ぶ長州って
正に逝っちゃってるストーカー其の者なんだけど、、 キティ体質なの?

5:日曜8時の名無しさん
13/03/22 03:36:17.94 zXOZGuf8
いや、会津の殿様がキティなのだ

6:日曜8時の名無しさん
13/03/22 10:54:03.38 lTyyD9wg
池田屋事件が新撰組の独断暴走になってたけどそうだったの?

7:日曜8時の名無しさん
13/03/22 11:11:49.87 3KpSOD6O
>>6
ハエのあの描き方だと、史実において会津藩が新選組に感謝状や
褒賞金を出した事実が、逆にイミフになるわな。
実際には、幕府からも感謝状と褒賞金が下賜されている。
朝廷からも感謝状の下賜があった。
独断暴走なら、むしろ処罰されるはずなのにねww

8:日曜8時の名無しさん
13/03/22 12:46:26.22 2HI+8gfL
都合の悪いことは全て新撰組のせいにする脚本かw
その度に会津の責任者が「わしの失敗だ」とか言ってw

9:日曜8時の名無しさん
13/03/22 14:33:36.22 Bf2+sgRp
新選組オタ隔離スレも必要?
ここでやってればいい?

10:日曜8時の名無しさん
13/03/22 17:15:56.34 kkV8NJl+
本スレ大人しいと思ったら隔離スレできたのか有り難い
新撰組もここでいいんじゃね?(適当)

>>4
天皇と直接面会なんて藩主クラスでもまず出来ない時代だったから
天皇→公家→藩
     ↑
  攘夷過激派とかの運動
命令系統はこんな状態
文久の京訪問のときも、攘夷が本当に孝明天皇の御意思なのかしつこいぐらい公家に確認してる
そんなだから八一八の政変も、長州藩から見れば薩摩と会津にやられた!としか見えない
この状態を解決するために、天皇と政府の間から公家を排除する大坂遷都案が出ることになる
個人的には、長州は攘夷による藩の滅亡を覚悟してたって点でマジキチだと思うけど

ちなみに、攘夷って点では孝明天皇は相変わらずだよ
今後も孝明天皇の攘夷主義者っぷりが、大いに慶喜や幕府を困らせることになる

11:日曜8時の名無しさん
13/03/22 20:32:09.68 gvKnaaFo
>>10
つまり長州には、攘夷 (長州都合で勝手な朝敵認定するための便利思想) があっても
尊王は無かったということなの?

12:日曜8時の名無しさん
13/03/22 21:08:06.27 pdTOVN/f
長州藩の領民は幕府の命令で攘夷を実行しているのだと信じ込んでいた。
アーネスト・サトウが「大君は板挟みにあって攘夷を命令したんだよ」と解説すると、
領民は口々に「ほんまだ」と叫んで納得したとある。

つまり幕府の命令だから攘夷をして、攘夷の対象だった外人のサトウの説明を聞いて納得する程度の攘夷熱だったw

13:日曜8時の名無しさん
13/03/22 21:13:12.59 pdTOVN/f
>>11
幕府公認だった長井雅楽の航路遠略策をひっくり返して藩内で揉めてるうちに、
薩摩の久光の率兵上京で薩摩が一気にリードしたばかりか、長州藩の信用がガタ落ち

さらに孝明天皇が一橋・会津と言う手足を得て、意志を実行に移すことが可能になり、
当の天皇の意思で叩かれた。

14:日曜8時の名無しさん
13/03/22 22:12:19.77 gvKnaaFo
>>13
「蛤御門の変」で、長州は御所(現在でいう皇居)に軍事攻撃を実行したけど、

その暴挙も
攘夷とさえ唱えていればOK
という長州の考えは、理解できないよ。 それ、なんて魔法の呪文?

15:日曜8時の名無しさん
13/03/22 23:26:21.11 1HW7yK32
大陸から齎された呪術も貪欲に取り入れその奥義は正統なる陰陽師のそれを遥かに凌ぐ
程の力を手に入れた

16:日曜8時の名無しさん
13/03/23 00:19:56.87 gig+oJ9a
だから長州藩内部でも藩の施策に反発した打ちこわし、一揆、諸隊の脱走騒動、
通敵行為を名目にした粛清や強制解散と言った事例が確認されている。

長州藩指導者も攘夷戦争して勝てるとは思ってないんだ。

17:日曜8時の名無しさん
13/03/23 00:27:02.13 wGCtEsuZ
>>16
つまり長州にとって「蛤御門の変」というのはただの我欲で、正義も何も無いということ?

18:日曜8時の名無しさん
13/03/23 01:26:27.25 vf+iifA8


19:日曜8時の名無しさん
13/03/23 01:45:59.14 zIx8G+S1
なじょして?

20:日曜8時の名無しさん
13/03/23 12:27:04.20 wGCtEsuZ
>19 → >>10>>11>>13>>14>>16>>17

蛤御門での長州に正義など無いって事でしょ?

21:日曜8時の名無しさん
13/03/23 16:59:40.22 gig+oJ9a
まあ長州にしてみれば色々言い分はあったのだろうが、
結果的に藩兵の出立を許した以上は、結果についての責任を免れがたい
桂や久坂はそれでも何とか交渉解決に持ち込もうと思っていたのだが

計画殺人犯ではなくて、傷害致死だと思えばいいよ。ただし過失致死ではない。
最初からあんなにするつもりは、たぶんなかったのね。

22:日曜8時の名無しさん
13/03/24 00:17:11.89 JOnOVjlo
まぁ長州は敗者だから語る資格はないね

23:日曜8時の名無しさん
13/03/24 00:56:37.61 ok4NM2tZ
クズなレスばかりだなあw
外国にビビって不平等条約を結び反対したものを皆殺し。
長州はそんな奴らを叩きのめしただけ。
京の町衆に人気の長州
京の町衆に嫌われた会津
民衆はよくわかっている。

24:日曜8時の名無しさん
13/03/24 07:27:41.22 eCWHtm1K
>>23
長州が人気だったのは豪商をゆすったりして攘夷ポピュリズムを煽ったのと、
禁門の変の時の放火が防御側からなされたりとかいろんな事情がある

25:日曜8時の名無しさん
13/03/24 15:01:23.14 8Rt+tKrI
当時の京都人は今の韓国人や中国人同様、洗脳されていたんだよ。
孝明天皇が長州嫌いだなんて知らなかった。
京にいる浪士達が言っている通り、孝明天皇は長州支持だと思っていたのだ。
町衆は浪士達と接触する機会が多く、脅されたり金策されたりすることも
あるが、基本、浪士達は彼等のお得意さんだった。
だから、その浪士達を養っている長州は町衆にとってはカネの出所なんだ。

26:日曜8時の名無しさん
13/03/24 17:31:19.94 eCWHtm1K
18世紀末には江戸一極集中が今日に近い状態になってたから、関東への嫉妬反感もあったんだろうな。
何しろ勝利者である薩摩藩士からして京は閉鎖的な都市に映ったらしいから

27:日曜8時の名無しさん
13/03/24 18:10:42.49 9DZ1mivX
>>25
まあイっちゃってても孝明天皇の主張する攘夷に一番近かったのが長州だったからな
元より孝明天皇に御簾越しでも会える身分じゃないから、願望込みでそう思ってたんだろうな
んだから政変の後も横浜鎖港やらで慶喜が苦労する羽目になる

28:日曜8時の名無しさん
13/03/25 17:27:26.75 YKpDhcVl
>>21>>23 あららズレてんね

そもそも長州が、京都に軍事攻撃などしなければ、京都が燃える事は無かった。
これが「現実」。

29:日曜8時の名無しさん
13/03/25 20:06:37.01 CCC0T5OX
つまり
長州の我欲が 日本を内乱の戦渦に巻き込むのだけど
実際問題、長州って迷惑だよ。

30:日曜8時の名無しさん
13/03/25 21:54:29.67 KwbU22j8
別に長州なんて好きじゃ無いけど…
当時はそうなの?

31:日曜8時の名無しさん
13/03/25 21:57:45.17 8WY83U/e
29の人っていつもいて
いつも同じ事言ってるねw
そういう人が排斥排除路線を取って失敗するんだろうなって思う

32:日曜8時の名無しさん
13/03/25 22:04:07.28 zY9eV6vE
ここって質問してもよいのでしょうか?

久坂玄瑞というひとは、吉田松陰の弟子で義弟で、高杉晋作の友達で、
ある意味長州藩の若手エリートで、会津で言うなら梶原平馬ポジション
という理解で良いのですか。1人だけ飛び抜けて若い気が。

33:日曜8時の名無しさん
13/03/25 22:37:15.15 CCC0T5OX
>>32
なるほど。おれは2人とも詳しく知らないけれど、
2人とも生真面目な性格が被っているかもと、言われて思った。

34:日曜8時の名無しさん
13/03/25 22:48:08.90 CCC0T5OX
>>31 とりあえず、おまえにマトモな反論が出来無いほど、長州が酷いのは判った。

長州のせいで京都が火の海になり、そこから日本が内乱の戦火に見舞われ、国民が迷惑した。 で OKって事だね?

35:日曜8時の名無しさん
13/03/25 23:18:33.59 h1mgHSMW
>>28
原因である長州よりも実行犯である会津が憎まれた
これが現実

36:日曜8時の名無しさん
13/03/25 23:45:31.58 8v2RQYlI
勝敗は既に決しており、砲撃しなくとも勝てた戦なのに会津が大砲ぶっ放したから火事になったんじゃね?

37:日曜8時の名無しさん
13/03/26 00:17:52.62 ViZvj4FE
大砲じゃあそんなに燃え広がらないっしょ

長州の残党狩りで会津兵と新選組が火をかけた説がウィキペディアにも書かれてるけど、立て篭もって防戦してる訳じゃないんで、敗走してる側が火をかけたって考えるべきかな

38:日曜8時の名無しさん
13/03/26 00:23:01.57 ew7IdNVd
>>32
以前梶原役の人が久坂役やってたんだよw

39:日曜8時の名無しさん
13/03/26 00:35:40.82 dUeYHb6b
>>37
ウィキは全く信用出来ない。
歴史学関係では、ウィキを少しでも参考にしたレポート類は
認めてくれないはず。

40:日曜8時の名無しさん
13/03/26 08:47:55.66 BQ/D7NV3
>>39
Wikiには結構一次資料もあるんだけどな
その事柄の体験者や当事者、もしくはその子孫や親類に当たる人が聞き及んだことなどもある
ま、どこの学会も権威を維持したいのでそういうものは認めたくないんだろうけど勿体無いだけでしょ

41:日曜8時の名無しさん
13/03/26 09:38:32.21 dUeYHb6b
>>41
いや、ウィキは匿名だから、基本、2chと同じ扱いなんだよ。
2chだって、貴重な情報は出ているしwww

42:日曜8時の名無しさん
13/03/26 09:52:30.45 NL9/C+KP
>>37
一橋の下知なりしかば……町家所々へも
放火せしかば、其火次第に焼広がり、
何時鎮るべき様も見へざりけり。
『元治夢物語』馬場文英
中売御門外ニ紅屋と申大家有之、右ノ内ヘ
会津焼玉ヲカケル、夫より市中大方焼払ウ
『浪士文久報国記事』永倉新八


幕府方の史料でも会津が放火したとあるのに
長州が火をつけたとする。それどこの妄想よ

43:日曜8時の名無しさん
13/03/26 10:02:27.07 qYaapNo8
>>39
せっかく引用箇所には出典明記してあるんだから、そっちの信憑性を評価したらw
もちろんその引用元が信用ならないというケースは往々としてある
あと学術論文書くなら、Wikiじゃなくその引用元の資料の方から引用しろw

44:日曜8時の名無しさん
13/03/26 10:38:00.99 0E86rkNw


45:日曜8時の名無しさん
13/03/26 11:09:18.17 dUeYHb6b
>>43
結局、43は>>39と同じ趣旨じゃないかw

46:日曜8時の名無しさん
13/03/26 11:15:01.21 dUeYHb6b
馬場文英が幕府方の史料とか言ってる時点で全く信用ならんだろ。
尾木ママの言ってることは文科省の通達とか言ってるのと同じレベルw

47:日曜8時の名無しさん
13/03/26 11:21:02.75 pKqsPVf+
>>42
額面通りに受け取ると慶喜が主犯か

48:日曜8時の名無しさん
13/03/26 14:13:02.46 NL9/C+KP
>>46
幕府方の史料『でも』とあるだろう。
妄想を開陳する前に日本語『も』勉強しろw

49:日曜8時の名無しさん
13/03/26 14:17:07.54 dUeYHb6b
>>48
では、

>幕府方の史料『でも』

…の、幕府方の史料とは?

50:日曜8時の名無しさん
13/03/26 16:26:15.87 Xm6UfMlg


51:日曜8時の名無しさん
13/03/26 18:37:31.56 mB7dttsC
司馬原プロ中のプロ

52:日曜8時の名無しさん
13/03/26 23:59:08.79 NL9/C+KP
>>49
下の浪士文久報国記事は見えないのか?
慶喜公伝にも
火を鷹司以下の諸邸にかけしむるに、
折柄の風力に諸邸見る見る炎上し
とある

53:日曜8時の名無しさん
13/03/27 02:09:53.70 r20FjFHW
>>52
おまえ、新撰組の言うことは信用出来ないと普段は言っているじゃないかw
こっちは信用しないけど、こっちは信用するとか、恣意的過ぎるだろw
だから、おまえ自体が信用されないんだよ!

54:日曜8時の名無しさん
13/03/27 10:40:09.49 ifwQBqSA
>>53
は?何時俺がそんなこと言ったんだよ?
妄想か?

55:日曜8時の名無しさん
13/03/27 15:27:25.83 rGeQG3W4


56:日曜8時の名無しさん
13/03/27 22:36:47.72 XbNkCwzk
ま、
長州が本来の朝敵である史実は変わらんけどな

57:日曜8時の名無しさん
13/03/28 06:07:35.53 q51vqajW
禁門の変での長州は最後まで孝明天皇を舐めていたんだろうな。
そうでなければ御所に発砲するなんてあり得ない。日本史上でも近世以降では空前絶後のご乱行
逆に慶喜や容保は孝明天皇個人の意思の強さを充分知り得る立場にあったから意向を公然と無視することは少なかったのだろう

囲んで脅せばそのうち内応者が出ると言うのは桂から真木和泉まで抱いていた希望なんだろうけど、
現実には天皇自身が最も強硬な長州討伐論者だった。
でも、おそらくその後もそれを知らないか、認められなかったのだろうね。
あくまで「会賊」が獅子身中の虫としてたぶらかしたんだと言うことにしないと辻褄が合わなくなるからw

58:日曜8時の名無しさん
13/03/28 16:30:08.30 wHYKulgi
会津観光史学宣伝スレ

59:日曜8時の名無しさん
13/03/28 17:30:03.45 B2TCtWAS
>>58
そんな脳内のラスボスに依存するしか無いんだろうな。
長州に都合が悪い時は、会津をスケープゴートにする法則。

幕末の昔から成長なさ杉w

60:日曜8時の名無しさん
13/03/28 21:21:06.45 B2TCtWAS
>>57
>でも、おそらくその後もそれを知らないか、認められなかったのだろうね。

長州の思考パターンは
自分に都合のいい花畑ワールドに閉じこもり、現実を見ようとしない(認められない)んだよ

61:日曜8時の名無しさん
13/03/28 22:08:51.83 B2TCtWAS
>>57 >囲んで脅せばそのうち内応者が出ると言うのは桂から真木和泉まで抱いていた希望なんだろうけど、

長州の行動パターンは
勝手な敵認定で自分を正当化し、ヒステリックな(回りの事を考え無い)暴力に訴える。 ヤクザのような迷惑さだね

62:日曜8時の名無しさん
13/03/28 23:38:38.80 B2TCtWAS
>>日本史上でも近世以降では空前絶後のご乱行

長州の本質が出ちゃってるよね
自分のためなら、日本の大事な歴史的建造物(京都御所)も破壊する。 有り得ない程の無教養さ

63:日曜8時の名無しさん
13/03/29 21:00:35.43 hLahFEJR
蛤御門の変は
陛下の事を道具としか思っていない長州だから出来た愚行。

64:日曜8時の名無しさん
13/03/30 08:58:50.26 5i0w078T
いざとなったら玉をかっさらうのは当然だろ
平家だってそうした

65:日曜8時の名無しさん
13/03/30 17:33:37.48 goKCJSCp
>>64
うん。
長州の「尊皇」ってそんなかんじ

66:日曜8時の名無しさん
13/03/30 21:20:45.51 t009AQyd
「長州の」っていう考え方が浅はかだから
会津は1人負けしたんだと思う
良くも悪くも、考え方も藩論も柔軟性がない

あらゆる考え方が交錯する幕末において「長州の中の一部」が正解

67:日曜8時の名無しさん
13/03/30 22:06:04.49 DmR1RA4u
本スレで歴史談義やってる奴らはこっちでやれ

68:日曜8時の名無しさん
13/03/31 12:02:51.50 ksjSDHIa
>>66
会津藩は開国近代化路線の幕臣より、長州とのパイプは太いよ。
何と言っても在京時代の人脈があるから。

むしろ文久から慶応にかけては幕府と会津藩がいちばん対立していたかも知れない。

69:日曜8時の名無しさん
13/03/31 16:05:14.59 lB1BOH7b
>>64
ソレは長州の壇ノ浦で滅んだ平家の呪い。

平家蟹の猿蟹合戦である。
最期は「臼どん(薩摩/西郷)」と手を組み
会津の猿を退治する。

70:日曜8時の名無しさん
13/04/01 19:01:03.17 PPnsDLdW
>>66
凶悪犯罪者にも良いところがあった
と言いたいのだろうが、それが長州藩の犯した大罪のフォローになるという勘違いは痛いよ

71:日曜8時の名無しさん
13/04/02 18:51:31.45 YL3wHc8T
実際に、
蛤御門の変なんて狂った事を
実行した(止める事が出来なかった)のが
長州の実体だし、現実なんだな。

72:日曜8時の名無しさん
13/04/02 18:58:21.03 bNdCbOcl
やっぱり高杉につきるな
高杉がいなかったら長州は滅んだだろう

73:日曜8時の名無しさん
13/04/02 21:12:25.82 /DTUuRX5
本スレ>>644

この論争中に「このたびの新封地、南部三郡、北海道四郡は〜」云々と出てくるんだそうだ。
南部三郡(斗南)が決まったのが明治2年11月、
北海道四郡が決まったのが明治3年1月5日だから、この激論は
北海道が決まった後、即ち明治3年1月以降だろう→既に斗南に決まった後だろう

と筆者は述べている。
加えて
「藩祖の墓所があったことから猪苗代説が出現したものと思われる。
ただその出典は未だ見出せない」
とも。

74:日曜8時の名無しさん
13/04/02 23:51:56.25 YL3wHc8T
開国という
時代の流れさえ理解できて無かったのは痛いよな、長州さん家って

75:日曜8時の名無しさん
13/04/03 12:51:54.89 uZPCyZfO
長州藩正義党のトップ周布政之助は
開国に向けて粛々と準備してたよ
長州ファイブの派遣(5人以外にも数名派遣、現地で病死)
高杉の欧米派遣計画(失敗により上海に変更)

また、長州が都落ちする前から薩摩藩との連携に重要性を感じ
模索していた周布は
大久保利通と度々アポイントを取り薩摩との仲を深めようとした
(彼は有名な酒乱なので、この時も酒の席で取り乱して大失敗する)

若手(特に松陰一派)を思い切って藩の要職に登用し
開国後まで視野に入れて日本を俯瞰していた周布は
禁門の変後に、その責任を取ったのか、はたまた長州も終わったと思ったのか
静かに自刀しその生を閉じる

こういう歴史の表舞台にあまり出てこない人を
いつか描いて欲しい

76:日曜8時の名無しさん
13/04/03 13:20:31.51 RtA3KYY+
>>75
日テレの奇兵隊で津川雅彦が演じてたよね
けっこうキツ目の自害シーンだったからはっきり覚えてる
まあこのスレで大半の人にとっては噴飯物の作品だとは思うけど

77:日曜8時の名無しさん
13/04/03 13:25:28.95 Z7auCZPP
『春日局』   89年=NHK大河 第三回「母子無情」 〜縦書き表示クレ〜 演出=富沢正幸

78:日曜8時の名無しさん
13/04/03 16:00:09.38 /GeVAHtC
武家に生まれた人間が自分の家族だけが大事ってのも違和感あるなぁ

79:日曜8時の名無しさん
13/04/03 17:56:55.87 PlxyKs9F
歴史ドラマとしてはどうなのって部分は確かに多い

80:日曜8時の名無しさん
13/04/03 22:01:46.44 uIHaCI7O
>>75
君が力説している事は
「長州の尊王攘夷はインチキだ」って事で良いんだな?

81:日曜8時の名無しさん
13/04/03 23:45:27.61 39oZuO1l
勝は無役の最下級武士の子として生まれた。内職で暮らしを立て、正月の餅にも不自由する家だったという。
彼が出世したのは、蘭学の知識と語学力のおかげだった

82:日曜8時の名無しさん
13/04/04 00:18:08.16 sc+p+xeo
>>80
周布は攘夷を利用して挙藩体制を整えようとしていたから、まあそうだね。
誰も民間船砲撃を重大視した連合艦隊が報復に来て瞬時に長州の諸隊を蹴散らすなんて思ってなかった。

もしそれを予想してたら、禁門の変の出兵どころじゃない

83:日曜8時の名無しさん
13/04/04 00:20:06.02 sc+p+xeo
>>75
ただ、加徳丸事件を引き起こして両藩の関係を決定的に悪化させた久坂をかばってたのも周布でしょ?
薩摩から見たら攘夷を唱えながらひそかに外国と通じてる裏切り者扱いされたんだからさ

84:日曜8時の名無しさん
13/04/04 02:17:35.42 lpUKS0Rp
吉田松陰の攘夷論は「開国的攘夷論」

85:日曜8時の名無しさん
13/04/04 08:19:55.91 clmU9otl
松陰は最初から大攘夷だもんな
高杉や伊藤をはじめ、その影響下の松陰弟子たちもそう

周布は松陰の弟子たちをとにかく可愛がって守った
結果的にそれが維新に繋がったけど、自身は悩み事が増えて体調を壊し
酒の量も増え、長州藩がどん底の時にその責任を取るかのように自決してしまう
だからある意味悲劇の人なんだよな・・・

86:日曜8時の名無しさん
13/04/04 11:30:03.06 FDI23qwN
藩主一族の墓、倒される…訪れた子孫が発見
URLリンク(www.yomiuri.co.jp)
後ろ側に倒された「徳山毛利家墓所」の墓石

3日午前、山口県周南市徳山にある市指定文化財「徳山毛利家墓所」の墓2基が倒されるなどしているのを、訪れた子孫の男性(40)(東京都在住)が見つけ、県警周南署に届けた。
同署は器物損壊容疑で調べている。

同署や市によると、2基のうち1基は、5代藩主広豊の三男で、1742年(寛保2年)に8歳で亡くなったとされる「三助」の墓で、高さ約1・5メートル。
上部の笠や墓標などが後ろ側に倒されていた。

もう1基は、誰の墓かは不明で、石の一部にひびが入っていた。男性が前回墓参した3月17日には被害はなかったため、それ以降に倒されたとみられる。
墓所は初代徳山藩主毛利就隆ら歴代藩主やその妻、子ら約100基の墓がある。市は、2009年10月に文化財に指定した。

URLリンク(www.yomiuri.co.jp)



早く自首しろ

87:日曜8時の名無しさん
13/04/04 20:15:12.68 picZCewc
結局、
長州は尊王攘夷という「嘘をスローガンして」軍事クーデターを起こした。

この事については
みんな納得してるモンなんだなぁ

88:日曜8時の名無しさん
13/04/04 22:19:56.63 picZCewc
尊王攘夷などと嘘をかかげ
暴力で政権奪取した長州。

民主党のようだよな、長州。
つーか、共産主義者かよ、長州w

89:日曜8時の名無しさん
13/04/04 23:13:49.17 v43Ap2I9
>>75
周布って花神で高杉が入れられてる牢屋に
酔っぱらって押しかけて抜刀して暴れながらエールを送った人だよねw
田村正和のお兄さんが男前だった

90:日曜8時の名無しさん
13/04/05 00:03:11.73 picZCewc
ま、
長州に正義が無いのは周知のとおりだけどな

91:日曜8時の名無しさん
13/04/05 10:26:46.70 tdynVQf9
幕末大河は佐幕派→倒幕派の繰り返し

92:日曜8時の名無しさん
13/04/05 11:47:35.64 ZZIW1Bfw
>>91
「獅子の時代」はどっちになる?
W主人公で会津&薩摩だが

93:日曜8時の名無しさん
13/04/05 20:51:35.11 ibZPdwOu
とりあえず

会津藩のトップが着用してた緋色の陣羽織は
天皇陛下が実際に愛用されていた「御衣」を、直接陛下から恩賜された本物。

それに比べ長州の錦旗は
公家(岩倉)と薩長が、京都薩摩藩邸で密かに造った紛い物。

一緒にするとか
アホすぎだから

94:日曜8時の名無しさん
13/04/06 02:02:48.93 Jy+lQ98b
いわゆる天皇の御旗を偽造・量産するほど
天皇を道具として扱ったのが、テロ組織・長州 。

本来の朝敵なわけだよ

95:日曜8時の名無しさん
13/04/06 02:24:02.99 w9K1pxxn
菊の御紋で現れたには薩摩だった?
俺達のパスポートも菊の御紋で天皇家と同じ

96:日曜8時の名無しさん
13/04/06 02:51:50.68 Jy+lQ98b
ん?
>>95が、偽造パスポートを量産してたら、ガッツリ犯罪者・確定 。

97:日曜8時の名無しさん
13/04/06 14:04:30.87 dINKkqMk
>>94
というか、事前準備、用意してたのは大久保と岩倉だよ
長州藩がそこまで回転よかったら、幕末滅ぶ寸前までいってないよw

98:日曜8時の名無しさん
13/04/06 19:41:40.77 /afZsB3i
猪突猛進の長州、異様に立ち回りの上手い薩摩
この二つが良い具合にミックスされればそりゃ最強だわw

99:日曜8時の名無しさん
13/04/07 02:06:23.47 +0gyO+pM
薩長は家康がした事と同じ
卑怯でも勝てば官軍なのです(キリッ

100:日曜8時の名無しさん
13/04/07 02:56:09.02 FSKd1RqB
>>97
捏造錦旗 は、

「長州」 品川弥二郎、「薩摩」 大久保利通、「岩倉具視」が中心となって偽造された。

そして捏造錦旗の量産は、長州と薩摩が半数づつ密造した。

101:日曜8時の名無しさん
13/04/07 03:16:28.40 FSKd1RqB
問題は
いいかげん長州の愚行を何時までも肯定してたら
又いつか、 長州のような変な人達に、 日本が混乱させられてしまう。 ということ。

単純に
皇居をテロ集団が攻撃することを肯定しちゃダメ
陛下の印を勝手に偽造することを肯定しちゃダメ

102:日曜8時の名無しさん
13/04/07 03:33:08.86 ki/OOIfW
にっぽんごがかいけけない

103:日曜8時の名無しさん
13/04/07 08:07:48.74 VvGcinBW
特亜か極左だろ相手を全否定する洗脳カルト的不自由な日本語
書き込みといい薩長は明治大帝の元老だよ
会津だって後に容保の子が皇族になってる
会津厨と薩長厨を対立させてなにがしたいんだか
日本分断弱体化を狙って人の国の教科書まで文句
つけてきたり歴史捏造したりやることがいやらしいから
特亜は無視するにかぎる

104:日曜8時の名無しさん
13/04/07 11:04:02.00 kFSreWFR
いつも同じ人が張り付いてるよね
いろんな所に同じ文体で張り付けてる

105:日曜8時の名無しさん
13/04/07 11:34:28.80 E6xyxTPi
まあここは会津マンセースレだから仕方がない

106:日曜8時の名無しさん
13/04/07 20:59:17.67 C0cXt999
だから

107:日曜8時の名無しさん
13/04/08 05:02:47.84 4KkA5JXz
お役料差止めのような江戸の幕閣との対立や、秋月の左遷を描いているのは面白い。
今まで幕末の政局では会津と幕府は一体として扱われるのがテンプレだったが、
実際は家茂の上洛まで慶喜や容保を悩ませた最大の抵抗勢力は江戸の幕閣。
まあ江戸の幕閣から見たら慶喜たちこそ馬鹿じゃねーの的な存在だったが

思想的バックボーンも、人脈的な系譜も、京都組とはまったく違う。

108:日曜8時の名無しさん
13/04/08 05:05:18.58 4KkA5JXz
>>98
実際は鳥羽伏見が起きる直前まで慶喜が完全勝利ペースだったけどね
政局で慶喜の復活が避けられないと見て強引に戦争に持って行ったのが鳥羽伏見

負けたら1日目でアウト。

109:日曜8時の名無しさん
13/04/08 20:39:27.78 88T4UUxn
>>103
妄想だけで、よくそんな物語を造れるもんだな
大丈夫か?

110:日曜8時の名無しさん
13/04/08 20:53:01.58 88T4UUxn
>>104
そんな空っぽなレスを止めて、もう少し中身のあるものを書いてください

111:日曜8時の名無しさん
13/04/08 21:45:06.07 88T4UUxn
>>105
長州を擁護したい人達に
マトモな反論材料が無いからでしょ?

幕末長州の話ゆえ
仕方が無い事だとは思うけど、、

112:日曜8時の名無しさん
13/04/08 22:00:32.86 Ob/CHs0+
でも普通に貶すも褒めるも
長州の話の方が面白いよなぁ
昨日の八重で写真で処理された高杉や伊藤
この時期の動きってかなり面白い
長州は良くも悪くも若者が大胆に動く
それゆえの突破力、若さ故の拙さ
両面あって面白い

113:日曜8時の名無しさん
13/04/08 23:09:35.40 OiYi9juv
会津マンセーは潔癖症になりすぎた

後ろめたさの無い光を主張しても共感は得にくいし
自分たちの影から目を背けていては目的も見えないし変化も望めない
あんこを作るときに砂糖しか入ってないと不味くなるのと同じ

役人は侍の形をしていても志が無い
けっきょくは新撰組にも見劣りする

114:日曜8時の名無しさん
13/04/08 23:36:41.98 88T4UUxn
>>113 隠し味についてどうこうと言う微細な話とは違うんだよな

天皇陛下を道具扱いしてOK
それをネタにして内乱クーデターしてもOK

こんな酷い考えを21世紀の人が肯定してたら進歩が無いでしょ?

115:日曜8時の名無しさん
13/04/09 00:27:36.17 4ddnc3VT
やっぱりこのスレの人にとって「花神」や日テレの「奇兵隊」って唾棄すべき作品なの?
そもそも歴史を善悪二元論で分けるほどくだらないことも無いと思うのだが

116:日曜8時の名無しさん
13/04/09 01:59:05.73 DOgsLg0F
>>73
遅レスだけど

広沢安宅『幕末會津志士傳稿本』によると(句読点は追加)

「初め封土の未だ定まらざるや、士族の封土論二派に分る。
一は斗南の地を可とし、一は旧会津藩領土の内一部を可とて
互いに論争して譲らず。久茂は斗南説を主張す。
而して反対派は墳墓の地を去るは不可なりとて
他に移転するを欲せざるなり。
久茂曰く、今日の急は糊口の路を開くにあり。
故郷に恋する時にあらずと。
彼等言塞がる。然れども激怒甚しく、
其首領某は遂に剣を抜いて久茂に迫る。
久茂、徒手を払ひ、悠然自若懇論益々力め、
僅かに事なきを得たり。」

著者の広沢安宅は広沢安任の甥で、京都の覚馬の塾生となった後、
佐川官兵衛の下で働き、戊辰戦争後は東京で蟄居となった。
問題の論争は、東京蟄居の会津藩士の間で起こったもので、
まさにその場にいたはずの広沢安宅によれば、
封土が決まる前に論争が起こったとしている。

117:日曜8時の名無しさん
13/04/09 02:35:08.71 DOgsLg0F
ついでに『史談会速記録』の合本4巻収録の
明治27年1月22日速記による岡谷繁実氏
(明治2年当時は若松県大参事で、明治政府に会津松平家再興を建言した人)
の語る内容によると

「(大庭恭平は明治2年10月の)
十四日に東京に着致し太政官に出頭し、
猪苗代五万石に社稷を御建下度旨建議仕りしが、
会津に置きては後々心配があるからと云ふ事で、
終に斗南にて三万石下し賜りました。」

大庭恭平は足利三代の首を切った騒動の人で有名で、
本来なら高田に謹慎の身だったが、各地に会津藩救済を訴るために
勝手に謹慎地を離れていた。その内に明治2年9月11日付けで
家名存続が許されたので、東京に出頭し、
猪苗代に5万石を下さるよう願い出た。

もっともこの後の「会津に置きては後々心配があるから」の主語が、
明治政府にとってなのか、会津士族にとってなのかは、どっちとも取れる

ただ、>>116の広沢安宅の文章と照らし合わせると、猪苗代5万石の建議は、
大庭恭平の独断で、それとは別に東京で会津藩士の論争が起こっていた。

一方>>73の「このたびの新封地、南部三郡、北海道四郡は〜」云々と出てくる
(この史料は何?)と矛盾するが、葛西富夫の「ある会津藩士の生涯」には、
この論争に関する史料はかなりあると書かれている。
その割に元文献をいちいち書いてくれてないんだが、
上の『史談会速記録』の文章は、先日たまたま図書館で読んでいたら見つけた。
少なくとも「猪苗代」の話は出典のない話じゃないし、
その著者も複数の文献を照らし合わせて個々の史料の矛盾をまとめた上で
議論してないんだったら、結論が早すぎる。

118:日曜8時の名無しさん
13/04/09 02:54:18.69 rMWOf4zU
真面目な話食事は終わらせてから見ることをお勧めする

119:日曜8時の名無しさん
13/04/09 08:51:39.18 P2IGzMIZ
>>115
とんでもないよ、日テレ版奇兵隊はこの正月に時専で放送していたけど、
とくに前半の禁門の変までの流れは、長州藩の文久年間までの政治を理解するうえですごく役立つと思う。
後半はやや脚色が入ってしまうんだけど、前半の桂・久坂・高杉・周布の心理に関しては、
ドラマとしてはかなり役立つと思うよ。ただ久坂に関しては禁門の変の判断に関してちょっと惜しい。

八重ではその点、久坂の進発支持を単なる暴挙として描いてない所がいいと思うんだよね。
桂は慎重派だから最初から反対したけど、久坂に関しては「かりに進発を許しても政治的な落とし所がある」と判断していたのが凄いと思う。
会津スキーが長州嫌いだと思ったら大間違い。

120:日曜8時の名無しさん
13/04/09 09:00:56.59 P2IGzMIZ
>>112
ただ、高杉は元治内戦の時に諸隊が意のままに動かなくてかなり苦労してるのだよね。
彼は挙兵を呼びかける1カ月前に、冷泉が決起してくれと言ったのに対して、自重を促したから、
九州遊説が失敗して、この上は決起のほかなしと説いた時も「おめえ今ごろになって何言ってんだ?」と冷淡な反応なんだよ
おそらく功山寺決起も成算のある挙兵ではなく切羽詰った高杉自身の「義挙」の色彩が強かったと思われる。

諸隊が高杉の義挙に参加したのもかなり遅い時期で、時山赤根と反政府の交渉が高杉の挙兵などで結果的に決裂したのが原因だろうし。
しかしその後、山口で合流してからの萩への進撃に関しては、井上られっきとした士分と山県ら軽輩の意見が対立して、
心情としては「毛利家恩顧の臣」であった高杉にはかなりの心労だっただろうことは想像がつく。

高杉に関しては、「とにかく真面目な人」と言う印象。

121:日曜8時の名無しさん
13/04/09 11:50:31.93 M+s5ZXvh
吉田松陰の攘夷論は「開国的攘夷論」

122:日曜8時の名無しさん
13/04/09 14:45:56.82 KmjY5aIy
>>116
>まさにその場にいたはずの広沢安宅によれば、
>封土が決まる前に論争が起こったとしている。

その根拠(例えば論争の日付とか)はわかる?
自分が読んだのは野口信一「会津えりすぐりの歴史」というコラム集なんだけど
その中で「これはこの激論の場面に立ち会った水島純が、47年後の大正6年に
東京の会津会において講演した内容である」と書かれている。
野口氏によれば、当時会津藩士は東京・越後・若松に分かれていて
新領地が斗南と知った若松組の主水は、会津を絶対に離れないと怒り心頭だったが
東京組の山川・広沢・永岡久茂らは、新政府から疑いを持たれないよう、会津を離れて晴天白日の身で藩を営むことを第一に考えていたと。
(事実当時の若松県知事も、早く斗南への移住を実行してくれなければ、鎮撫の自信がなく免職していただきたいとまで申し出ていた)
で、主水らは決死の覚悟で上京して、山川・広沢・久茂らと先の論争になった。

と言っている。
「猪苗代説の出典がない」の注釈は、私見だけど
「新政府から猪苗代か南部かの問いにどちらを選ぶかの論争とする記述も多い」
の文章中についてるから、その出典(「新政府からの問い」)がないってことではなかろうか?わからないけど。

123:116
13/04/09 16:49:35.06 DArgk8r0
>>122
>>117に示した『史談会速記録』、19号、183-202頁 (明治27年)の
岡谷繁実「会津城落城後処置に関する事実十六話」によると、
(今手元にコピーが無いので正確には書けないけど)
会津の地に潜入していた大庭恭平は、ほか二名の代表(多分一人は町野主水だったと思う)と共に
明治2年9月16日に会津の地を出立し、>>117の文章に繋がる

>>116>>117のどっちの記述も正しいのなら、
陸奥への封土が決まる11月3日より前の、明治2年10月14日以降に、
東京で論争が起きるだけの時間はある。

あと『史談会速記録』、304号、141-148頁(大正9年)にも
「故岡谷繁実君による戦争後の会津に関する実歴談」というのが掲載されている。
それによると、岡谷繁実は、猪苗代五万石を与えて立藩させれば会津の
不平士族をなだめることができますよと上申したのに、
いつの間にか難しい議論の末、陸奥三万石になってしまった。
色々な理由があったんだけど、
例えば明治元年の猪苗代は水害のせいで大飢饉の状態で、
とてもやってけないと思われたみたいだが、
これは実に会津の「大凡の成行」だ、
とかで、岡谷繁実は会津を批判している。

なお葛西富夫の『ある会津藩士の生涯』は、一応広沢安宅『幕末會津志士傳稿本』
以外の文献として相田泰三『維新前後の会津の人々』(1967年)を挙げている
(自分は未見)けど、出版時期からみて史料じゃなさそう。

124:116
13/04/09 17:04:56.80 DArgk8r0
とりあえず、史談会速記録に当時若松県大参事の岡谷繁実が投稿したり
口述させたりした内容と、広沢安宅の本の内容を繋げると:

9月11日、家名存続が許される
9月16日、大庭恭平らが会津を出発(岡谷繁実の記述)
10月14日、大庭恭平らが東京に到着(岡谷繁実の記述)
封地決定前に猪苗代派と陸奥派で論争(広沢安宅の記述)
「むつかしい議論で斗南三万石になった」「大変なやり損ない」(岡谷繁実の記述)
11月3日、封地は陸奥に決定

ただ、ここに挙げた自分が目を通した文献だと、
「東京にて会津藩士族内で猪苗代か陸奥かで論争したあげく陸奥を選んだ」
ということにはなるが、
「猪苗代と陸奥の二つの内から選ばせた」に該当するソースはない。

125:日曜8時の名無しさん
13/04/09 17:14:50.75 KmjY5aIy
>>123
116と117がともに正しいのなら、野口氏の言うとおり
大庭が新政府に猪苗代を訴えた>>117はは明治2年10月
東京で論争が起こった>>116は明治3年1月
とも言える。
>>116にある「刀を抜いて」というのは
>>122の水島純が語った内容と一致するから。
そしてその中に「北海道4郡」の言葉が出てくる。
てことは>>116の論争は、明治3年1月以降のものだというのが野口氏の見立て。
猪苗代は新政府から問われたのではなく、新政府に訴えたのでは?

猪苗代は5万石ではなく、3万石弱じゃなかったかな?
確かに色々な理由はあったけど、新政府にあらぬ疑いをかけられないようにというのも
その中にあったようだ。

126:日曜8時の名無しさん
13/04/09 17:17:45.26 KmjY5aIy
>>124
>10月14日、大庭恭平らが東京に到着(岡谷繁実の記述)
>封地決定前に猪苗代派と陸奥派で論争(広沢安宅の記述)

このことを野口氏は
「従来新政府から猪苗代か南部かの問いにどちらを選ぶかの論争とする記述も多い。
かくいう筆者も以前「猪苗代か南部か云々」と書いたこともあるが
実際は南部域の決定に対しての論争であったと訂正する」
とコラムで書いている。

127:116
13/04/09 17:32:10.45 DArgk8r0
いや、だから>>116の広沢安宅の文章では、
この議論は封地が決まる前に起こったことと書いてある。

自分は水島純の文章を読んでいないが、つまり議論が起こった時期については、
水島純の文章と広沢安宅の文章の文章で矛盾することになる。

というか、ググったら水島純の文章がみつかった。

URLリンク(aidu.s293.xrea.com)

これだと、東京の其余波町野氏の宿所で刀を抜くの喧嘩になったのは、
封地が決まった後(広沢安宅の勘違い)と読みとれる。
でもその前の文章から読んでいくと、東京の連中が会津の猪苗代案を上申せず、
気を利かせて強引に陸奥で話を進めたことになっている。

而して若松表の説は東京では行われず、
其の次第は其当時廟堂の当路者は会津の群臣を会津に据居ては
後来禍根を一掃する事が出来ないと云う疑心を飽まで抱て居りまして、
会津の群臣の丹心は其疑心の為めに蔽われて居りますから
若松の説の先祖以来墳墓の地云々の説を主張しますと
当路者の疑心は益々増長する計り也、

故に東京では旧藩の群臣は早く新封地の斗南に移住して納りを附け、
而して御両公(容保公、喜徳公)の御幽閉が解け青天白日の御身とならせられ
御帰藩になるのが臣子の情諠に於て重大問題、
是れが第一の目的にて其他如何なる辛苦艱難も顧るに遑あらずと
云うのが東京の意見なり、

而して若松表よりは若松の意見を主張する為め、
有志の士が陸続上京しまして東京に来て見ると意の如く行われず、
空く帰ると云う有様、其中には東京の意見を至極尤もとして
其儘東京に滞在した人もあり、何分にも若松表の説は到頭行われざる形勢なり。

128:116
13/04/09 17:36:31.46 DArgk8r0
だから、確かに刀を抜くの喧嘩になったのは、陸奥領決定の後
でも封地に関しては東京の連中が勝手に猪苗代案を潰して陸奥案を進めてしまった。

刀を抜いての大激論の事件は、野口氏が言うように封地決定の後の出来事の可能性が高いが、
封地決定前に猪苗代案と陸奥案の衝突があったという話を否定するまでではない。

129:日曜8時の名無しさん
13/04/09 17:54:02.56 DArgk8r0
五万石云々に関しては、若松県大参事の上申案であって、
明治政府がそれを三万石に削ったと思われる。
というか五万という数字は岡谷繁実の文章にしか登場せず、
ほかでは猪苗代三万石と斗南三万石との間の議論ということになっている。

とりあえず、斗南への移住は強制だったと書き残している人がいる一方で、
猪苗代で士族の族籍のままで残り続けた人
(もしかしたら秩禄給与を断っても士族の地位を継続できた?)もいるみたいだから、
なんとなく上司の意向次第で移住もばらばらだった感じな気がする。

130:日曜8時の名無しさん
13/04/09 18:21:47.98 KmjY5aIy
>>128
うん、東京組が斗南案を勧めたのはそのとおり。
水島も言っているように、いつまでも会津に残っていては新政府に疑われるという懸念もあった。
ということは猪苗代は、新政府とそれほど行き来していず会津を離れたくない若松組が言い出したことなのでは?とも考えられる。
斗南などという、会津とは縁もゆかりもない選択肢を会津が思いつくとは考えにくいから
これは新政府から勧められたのだと思うが、猪苗代は会津在住側が勝手に候補地として言い出したのでは?と。
新政府から出された選択肢には、斗南と猪苗代湖の2つがあった、という従来の説の根拠が
この論争によるものならば、だけどね。
新天地についていくいかないの選択は、ある程度認められてたんじゃないか?
斗南へ強制的に連れて行くほど、藩としての力も残ってなかっただろうし。

131:114
13/04/09 21:17:49.27 2gZGa31P
>>115
>>119
先人が象徴する歴史(文化)に感謝しているつもりはあるでしょ、それぞれで。
その有り難さの一つは、
先人の経験値や具体化された結果が示してくれる現代人の指針だと思っている。

そうする事が、感謝を元にした歴史の活かし方の一つかなと。

そして、近代史のように現在に近い歴史は、
より直接的な指南を与えてくれる、有り難い経験値だと思う。

132:114
13/04/09 21:19:01.42 2gZGa31P
>>115
>>119
昨今、またもや外国からの圧力によって不穏な空気も漂う中、
毅然とした態度が求められている我が国ですが、

その毅然さを支え、又、粉飾もしてしまう、正義という概念を、
ここらで整理しなおすきっかけがタイミング良く登場しましたね。

我々の大河に。

時には失望さえしてしまう程、
我々が想い続ける大河ドラマですが(笑)

133:114
13/04/09 21:21:15.02 2gZGa31P
今年の大河は、歴史の流れを結構丁寧に追っていて、その追う目線(カメラワーク)に
ある種の肉眼視感的な実感もあって、

面白く幕末を語るに相応しい「ドラマ」と思う。

134:日曜8時の名無しさん
13/04/09 21:54:53.28 4ddnc3VT
「全部長州が悪い、死ね」 まで読んだ

135:日曜8時の名無しさん
13/04/09 22:56:14.98 2gZGa31P
>134 は、ずいぶんと長州に否定的なんだなぁ

136:日曜8時の名無しさん
13/04/09 23:14:59.73 cZT5nQvo
会津か長州か、なんて単純なドラマじゃない所がいいね
会津、長州、薩摩、越前、岩倉、一橋、幕閣、海舟、天皇、中川宮など
それぞれの立場や離合集散を複合的に示すことで立体感のある描写になっている

ちゃんと見ていればすごく面白いに
単に会津と長州の戦争をやってるだけでしょ、みたいなバカな事の言う人もいるんだよね

137:日曜8時の名無しさん
13/04/10 00:19:28.47 92r365hY
しかし、幕末の混乱って、ある程度、孝明帝が引き起こしてるよね。
政策的には長州寄りなんだけど、感情論で佐幕派が好き。
その好きという感情を政策にまでしてしまう。

138:日曜8時の名無しさん
13/04/10 00:50:50.68 /9+/5kXg
時宗のときにはもう御家人制度そのものががたがきてたから
どっちにしてもどうしようもないのだが

139:日曜8時の名無しさん
13/04/10 01:29:05.86 RR+NY/3x
>>136
うん、ほんと面白い。
B作の「わしらは誰と戦ってるんだべな?」って言葉に出ているね、その複雑さが。

140:日曜8時の名無しさん
13/04/10 02:30:35.82 Cx/Z0hAv
在地名にしたもので、
武士としての初代からの受け継がれた
大事なものだったんだろう

141:日曜8時の名無しさん
13/04/10 08:12:02.30 MFhoMwzv
>>137
そうだね。毒殺されてもしかたがないか。
毒殺説は史実かどうか疑わしいのは承知の上

142:日曜8時の名無しさん
13/04/10 15:42:43.55 Gf0ACqd6
新政府に疑われてると言うのはその通りだったんだろうが、永岡の判断は不味かったな。
なぜ山川や広沢まで賛成したのか。蝦夷地が近いからと言うこともあったのかね。

143:日曜8時の名無しさん
13/04/10 20:04:27.67 yLD0I3Er
知らない

144:日曜8時の名無しさん
13/04/10 23:41:34.49 ghfrdhBc
「やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪ぐまでは生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ」と、父に厳しく叱責され、嘔吐を催しつつ犬肉の塩煮を飲みこみたること忘れず。

「死ぬな、死んではならぬぞ、堪えてあらば、いつかは春も来たるものぞ。堪えぬけ、生きてあれよ、薩長の下郎どもに、一矢を報いるまでは」と、自ら叱咤すれど、少年にとりては空腹まことに堪えがたきことなり。」

(石光真人編著『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』中公新書)

145:日曜8時の名無しさん
13/04/11 02:01:23.70 HWXqKs3u
>>126
猪苗代・斗南関係論争に関する元文献と呼ぶべきものがあるとするなら、
おそらく青森県立図書館の書庫や、
青森県内の各地に分散している日記・古文書に記述があると思われる。

『弘前大学国史研究』50号39〜59頁(1967年)掲載の
小笠原二郎「官省指令留等からみた青森県の斗南藩対策の実態」
に紹介されている史料(但しきっちりとした引用がなされていないが、
小笠原氏によると、昭和11年に秩父宮が下北半島を訪ねたときの説明と思われる)
によると:

「明治維新となりまして、明治二年十一月悉くも会津松平氏の御家名を
御取立被下、此年六月誕生されました慶三郎氏、後の容大氏へ対し、
会津の猪苗代か陸奥の北郡に於て三万石御下賜の御内意を拝しました。
旧臣共協議の結果、猪苗代にては、土地狭くして、
旧家臣一統を養ふことは容易ではない。
陸奥の北部ならば土地広漠にして、如何にも賄う事も出来ようとの事にて、
此の地方に於て三万石を頂戴する事に御願い致したと申します。」

上の文書がどこに所蔵されているのかきっちり書いてないけど、
小笠原二郎氏の論文は青森県立図書館に所蔵されている「青森県官省指令留」、
「滝屋文書」、「万日記」などを紹介している。ちなみに小笠原二郎氏の結論では、

「斗南藩は為政者(政府、青森県)からは厄介視され、地元住民からは嫌われ(万日記)、
商業経済の面では喜ばれ(滝屋文書)たというのがいつわりのない実感ではなかろうか。」

『斗南藩史』等々をまとめた葛西富夫にせよ、元文献をきっちりまとめてくれないという欠点があるが、
明治政府からの内示を事実として書いているのは会津系作家ではなくて、青森県系の作家であることから、
多分青森県立図書館か、旧斗南藩域に分散している日記・古文書の類に、
それを示唆する元文献があると思われる。

146:日曜8時の名無しさん
13/04/11 02:26:33.91 HWXqKs3u
>>129
国立公文書館所蔵の太政類典・第一編・慶応三年〜明治四年・第百八十六巻・民法・継嗣に、明治2年9月28日付けで
URLリンク(www.digital.archives.go.jp)

「松平容保城地ヲ没シ実子慶三郎ニ高三万石ヲ賜ヒ華族ニ列ス」とあるので、
家名存続が許された段階で、3万石は決定していたと思われる

この後、封地決定までは約5週間の時間がある

147:日曜8時の名無しさん
13/04/11 02:34:23.74 Eeo6z3Eg
薩摩や長州は藩政改革によって経済を立て直したとされていたが、半藤氏は半ばは密貿易によって財政を立て直したのだ

148:日曜8時の名無しさん
13/04/11 03:37:22.68 HWXqKs3u
追記

笹澤魯羊編『田名部町誌』(1935年)、『下北半嶋史』(1952年)に、
政府から猪苗代か陸奥かの内示があった旨のことが書かれていた。
以下は『下北半嶋史』からの引用(『田名部町誌』もほぼ同じ文章)

「是より前、朝廷にては慶三郎に松平家の祭祀を保持さする思召にて、
猪苗代又は陸奥の北郡にて三万石を賜る旨の内意があった。
重臣等が協議して、猪苗代では旧家臣一統を扶養する事が出来ぬが、
陸奥の北郡ならば土地は広漠だから開墾牧畜によって、旧家臣一統を
扶養する事が出来ようと、内申して御沙汰が出たという。
又文久二年広沢安任は、粕谷筑後守に随うて北郡を通過し、
大間から箱館に渡って、露国の使臣と折衝した事があるので、北郡の
土地風俗等を知悉し居り、専ら広沢の主張に基くともいう。」

困ったことにこれも何からの引用か書かれていない。ただ内容的には
>>145で挙げられている史料とそっくりな文体が登場する。
また広沢の名前が登場するが、どうも内示の話のソースは、
広沢安任の甥の広沢安宅が記述した孤忠録の気がする。

>>116で紹介した『幕末會津志士傳稿本』は、広沢安宅の遺稿を、
死後に莊田三平という人がピックアップしてまとめて出版したもので、
広沢安宅本人が書き残した文章に手が加わっている。
原資料となる広沢安宅の遺稿があるとするなら、子孫の家か、
三沢か青森の記念館、図書館あたりにありそう。

149:日曜8時の名無しさん
13/04/11 08:04:08.69 dAFYawdP
先に3万石が決まってたのか、それじゃ猪苗代でも南部でも厳しいだろう
いちかばちかで林産のある南部に賭けても不思議ではないか


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