【日韓】 「日本人は出て行け!」「倭人はみな殺しだ!」敗戦後の大邱にあふれる声〜三中井百貨店と日本崩壊[07/01] at NEWS4PLUS
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1:蚯蚓φ ★
11/07/02 22:38:46.13

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「日本人は出て行け」「おまえらの国に帰れ!」天皇が敗戦を知らせる放送から一日が過ぎるとすぐ
に大邱北城路はあふれ出た朝鮮人で込み合った。昨日まで北城路の主人だった日本人たちは門
戸を閉ざして家に縮こまり座して状況を見回した。

「玄海灘を泳いで渡れ!」「出て行け!」朝鮮人たちの叫びは地獄の火の穴から出てくる夜叉の声
も同然だった。北城路三中井百貨店(現北城路現大宇駐車場の場所にあった朝鮮の3大百貨店
の一つ)社長の中江勝治郎はソファに身体をぞうきんのように詰め込んだまま朝鮮人たちの万歳
の声を聞いた。万歳合唱はいつのまにか扇動に変わっていた。

「倭人たちをぶっ殺そう!」「みんな殺してしまおう!」敗戦わずか一日でこのありさまか。離れるほ
かないのか。血と汗で築いた百貨店をここでたたまなければならないということか。死んで百貨店
を守ることができるだろうか。死んで守ることができるなら死ぬだろう。いったい世の中はどのよう
に変わっているのか。

中江はこの状況を理解できなかった。慶北道庁も憲兵隊もひとまず待機というだけで、どうしろと
の指示はなかった。大邱警察署も上部の命令を待つだけの表情だった。朝鮮人巡査は最初から
出勤しなかったり故郷へ逃げてしまったという。治安を維持しなければならない巡査は警察署を守
るのに汲々としていた。一日に何回も電話で話を交わす日本人事業家はどうしても離れるべきだ
と予想する様子だった。

「離れるって!離れたら百貨店はどうなる?」中江は初めて朝鮮人を経営専門家に育てなかった
ことを後悔した。朝鮮人を専門家にしなくても経営に問題はなかった。敗戦しなかったら今後も問
題はなかっただろう。いや、朝鮮人を専門家に育てるのは危険だったり、費用に比べて収益が少
なかった。間違った判断ではなかった。朝鮮人は目を伏せるが本当には服従しなかった。彼らは
羊のように柔順だが、決して服従したり従わないという点でオオカミのような種族だった。
(中略)
1945年、日本が太平洋戦争で敗れた後、満州とサハリン、韓国など植民地にいた日本人たちは
全財産を没収され手ぶらで帰国の途についた。彼らの大部分は日本本土で貧しい者であったし、
植民地に行けば金持ちになれるという日本政府の呼び掛けと後援を信じて植民地に移住した。し
かし、崩壊と共に彼らは全てのものを失った。結局、日本帝国主義は植民地被支配民だけでなく
自国の貧しい人々にもぬぐえない傷を残したのだ。

敗戦と共に日本に発った人々の中には植民地で生まれて、ただ一度も日本本土を踏んだことが
ない日本人2世も多かった。彼らは自分が生まれ育った故郷をなくした世代であった。大邱市中区
北城路現大宇駐車ビルの場所にあった三中井百貨店の社長、中江勝治郎もやはり金持ちになる
という夢を抱いて朝鮮に来た貧しい商人だった。滋賀県金堂で半農半商の息子に生まれた彼は
幼い時、家を出て様々な商店を転々として店員の仕事をした。彼は1903年弟らと朝鮮の土地を踏
んだ。

彼ら3兄弟は1905年1月大邱に雑貨と生活用品を販売する三中反物店を開き、常勝疾走して
次々と支店を建てた。1945年日本の敗戦直前まで三中は朝鮮全国と満州、中国に18地点、従業
員4千人、年間売り上げ1億円を誇る百貨店グループに成長した。しかし日本崩壊と共に三中井
百貨店の全財産は没収され、跡形もなく消え去った。

ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [大邱の昔の街、話で生き返る]<27.終わり>三中井百貨店と日本崩壊
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