消えた赤線放浪記 2 at TRAVEL
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323:列島縦断名無しさん
22/09/11 12:20:08.05 G16iq6e8.net
>>322
続き
「これに対して、東西両入船町を中心とする地域は、売春すらも生活のためのヒモつき個人売春であり、ここでは貧困がはっきりと表面に出ているとされる。南海本線下附近を歩いて見ればスラム的な家並が続いている。現在百を越える家族が密集して生活し、狭い路地が同時に炊事場ともなり洗濯物の干し場ともなっている。このあたりは貧しい街娼の居住区であり、表札をのぞいて見ると女性の名前が二つ三つ並んでいる。阿倍野橋より十六号線につらなる道路には、彼女達の客を引く手頃の広場もあり、附近のドヤは警察等の記録の上では名染み深い名前が多いのである。売春代償は花三百円、泊り千五百円といわれている。これらの地区の売春婦の総数は約千百名前後と推定されている。」

「線後」になっても、集娼地域の周辺に別の形態の集娼地域が存在し続けていたということですね…

324:列島縦断名無しさん
22/09/11 22:48:48.38 Gbo1BHOt.net
築年数が長く、所々風化した元旅館の解体 大阪市西成区 URLリンク(agawa-c.co.jp)

325:列島縦断名無しさん
[ここ壊れてます] .net
橋爪紳也・上諸尚美『写真が語る「百番」と飛田新地』(2019年)には「百番」の、
『百年の色街 飛田新地』(2020年)には「梅ヶ枝」の、
主人と従業員一同の写真が掲載されていますが、両方とも昭和25年の正月に店の前で撮影されたものですね
このような写真を他の店でも撮影していたとすると、当時の貴重な史料となるわけですから、組合には人脈を活用して収集し、公開していただきたいものです

326:列島縦断名無しさん
[ここ壊れてます] .net
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327:列島縦断名無しさん
22/09/25 13:54:17.83 rq7X6L4v.net
『岐阜市史 通史編 現代』(1981年)には
「元来柳ヶ瀬の街は、北方の古い岐阜町と、南方の新しい国鉄岐阜駅前との、中間郊外地に設けられた遊廓の門前町が基礎となって成長発展したものと見られる。そこには戦前においても、全市の映画館の大半が集中し、専門店・飲食店・バー・カフェー・各種遊技場など各種の商店が格子状に連結し合って、地方都市としてはまれにみる盛り場を現出していた。」
しかし、「昭和二〇年七月九〜一〇日の空襲には、一瞬にしてこの繁華街も焦土と化してしまったのであった。」と述べられています

328:列島縦断名無しさん
22/10/02 12:38:36.63 qo1JNgvT.net
>>327
続き
この盛り場の夜を照らす「スズラン灯は昭和3年に設置され、夜更けまで客が訪れる『柳ブラ』のきっかけとなったが、戦時中の同18年に金属回収でなくなった。復興が進むとネオン付きの二代目スズラン灯がつくられ、20年代半ばには柳ヶ瀬は元の姿を取り戻した。」(『写真アルバム 岐阜市の昭和』2019年)
『柳ヶ瀬百年誌』(1988年)にも「25年ごろともなると、柳ヶ瀬はすっかり元の姿に戻り活気を帯びてきた。」とあります

329:列島縦断名無しさん
22/10/09 12:37:40.89 8UFNjBC0.net
>>328
続き
『週刊文春』(1961・4・10)は
「柳ヶ瀬の歓楽街が、急速に膨れ上ったのは昭和廿七、八年ごろから。バー、キャバレーの密集している西の柳ヶ瀬通り附近は、戦前、遊廓のあったところ。戦後、遊廓は駅の南に移転したため、一大バー街となった」と紹介しています
「駅の南」の「遊廓」とは、赤線・金津園を指すようです
そして、売防法の施行によって赤線・青線の営業が認められなくなった時代の柳ヶ瀬の現状が語られています
「最近の名古屋では、『岐阜に行く』と誰かが云えば、〈遊びに行く〉という意味に解釈される。社用や私用で、岐阜に出かける人々にとっては、大変メイワクな話だが、それほど“岐阜”は“遊び場所”として、鳴りひびいているのである。」

330:列島縦断名無しさん
22/10/16 12:49:31.32 pHNx1cUL.net
>>329
続き
梅田晴夫『全調査 東海道 酒・女・女の店』(1967年)にも
「岐阜は、東海道線では浜松と並んで、もっとも夜の遊びの華やかな街である。名鉄の特急で三十分という近さもあって、もっぱら名古屋から遠征にくる。車賃を払っても、岐阜で遊んだ方がひきあうというわけ。一般観光客向きには鵜飼いの長良川か、金華山だろうが、夜のお遊びにまず柳ヶ瀬だろう。他の大都市のように盛り場の数も多くはなくここ一ヵ所だから、商店から、映画館、パチンコ、飲食店、バーとあらゆるものがここに密集、一大歓楽街を形づくっている。」とあります

331:列島縦断名無しさん
22/10/23 11:56:43.42 X/3dgzzt.net
>>330
続き
さらに『週刊文春』(1961・4・10)は
「柳ヶ瀬の本領は、太陽が沈み、ネオンが瞬きはじめる夕刻から発揮される。なにしろ、岐阜を訪れた旅行者は、必らずといってよい位、そのバーや、キャバレーの数に目をまるくして驚く。つまり柳ヶ瀬は、夜の町なのである。
キャバレーは、アルサロを含めて十一軒、バーとなると、一体どれだけあるのか。
一説には、八百軒あるそうである。話半分の四百軒としても人口三十万の都市としては、やたらと多すぎる。キャバレー、バー、飲み屋の軒数からすれば人口は百万あっても、少ないぐらいだろう。」

332:列島縦断名無しさん
22/10/30 12:37:24.62 eqzPHX4R.net
>>331
続き

「─では、名古屋あたりの人々は、バーの数が多いという理由だけで、わざわざ岐阜へ遊びにくるのだろうか?
─答は、ノウである。
多いから、競争も激しいことも事実だが、人々が夜の岐阜を訪れるのは、文句なしに安いという点である。特殊なオサワリバーをのぞいてみると、料金はたしかに安い。
『名古屋から、往復三千円のタクシー代を払っても、岐阜へ来た方が安い。キャバレーなんか、浴衣がけで遊びに行ける気楽さがある』」

333:列島縦断名無しさん
22/11/06 12:26:47.61 yJmkbzLm.net
>>332
続き

そういう当時の実態は
「柳ヶ瀬の歓楽街に働く夜の蝶たちは、三千人から五千人あると云われている。その夜の蝶たちの九割までが東北、九州から働きにやってきた織物工場の女工上りだ。」
「バーの数が多いことよりも、もっとも意外なのは、芸者の数と、旅館の数が多いことだろう。電話帳に載っているだけで、旅館・ホテルの数は三四〇軒。芸者屋が七二軒。」

334:列島縦断名無しさん
22/11/13 12:17:45.25 ttIuNghe.net
>>333
続き

「むかしから岐阜は、芸者が多いので有名だったが、第一検番の百五十五名のほか、実数のつかめない第二検番というシロモノがある。これを土地の人は、俗に“青線”と呼んでいるが、いわゆるマクラ芸者が多いのだそうだ。
コール・ガールはいない。しかし、旅館にいって女中に頼むと、電話をかけて、好みの女性を呼んでくれる。
警察の調べだと、六つの組合があって、その人数も百二十人くらいとなっているが、通いの芸者も含めると、三百人を越すのではないかと云われている。
むろん、宴席でのサービスもするが、夜伽ぎもする。オール・ナイトは二千円から。」

335:列島縦断名無しさん
22/11/20 12:23:07.58 RNLz8eGO.net
>>334
続き

「格式のある第一検番の方は、そんな点は固いというが、土地の人の話では、矢張りカネ次第ということであった。それで旅館の代金はといえば素泊り五百円から、最高三千円ぐらいまで。ただ、ぶらッと旅館に行き、女を呼んでくれと言えば、大抵のところは直ぐ応じてくれる。」
「市民会館の裏には、五十軒ばかりの屋台店があって、公園のちかくに街娼が屯している。その数は六、七十人。ショート五百円だという話である。」

336:列島縦断名無しさん
22/11/27 12:28:56.80 7qpDWBYz.net
>>335
続き

「なにも枕芸者や、街娼を相手にしなくても、キャバレーに行って、女給にきくと、寝てくれる子を教えてくれる。赤線くずれが、一割ぐらい店にいるからである。」


ちなみに、森義一 編『岐阜花街案内』(1936年)には、金津遊廓は「一時は娼妓四百五十名内外であつたのが、本年三月現在では藝妓三百五十六名、娼妓三百五十四名 合計七百十名に激?してゐる」と芸娼併置の発展ぶりが紹介されていますが、
「線後」の柳ヶ瀬は、実質的に遊廓時代の盛り場を超えていたのかもしれません…

337:列島縦断名無しさん
22/12/04 14:00:50.83 SAOSx6Tc.net
大阪市民生局福祉課『大阪と売春』(1957年)には、戦時中の売春事情として
「もつとも商売女が海外に進出したのは、何も今次の大戦に始まつた事でなく、満州事変以来満州は勿論、中華大陸の占領地には至るところ大和撫子の姿がみられたが、太平洋戦争ともなると、舞台が一廻り大きく、満州や上海へ渡るような訳にはいかなかつたので、軍の要請に基いて、軍属待遇の慰安婦の部隊が海外へ進出していつた。これは特要員の名で呼ばれたもので、軍機保持、風紀、衛生管理上より陸海軍の命令で、御用商人、売春業者が狩り集めた慰安部隊である。然し軍の要請と云つた面は勿論あるが、其の多くは、売春業者自体が金儲けのため、国策に便乗したと云うべきで、自然大資本を擁する業者は都会地の大根拠地へ、一旗組は、軍の移動につれて行動を共にすると云う形態をとつた。」と説明されています

338:列島縦断名無しさん
22/12/11 13:38:17.48 izsVT9tF.net
>>337
続き

この箇所について、加藤政洋『敗戦と赤線』(2009年)は「地方かつ官からの史観」として「『大阪と売春』は、大阪市民生局という一都市の行政組織による報告書であるとはいえ、政府が公に認めることのない〈軍の要請〉を指摘している点は興味ぶかい。」と解説しています


ところが、『大阪と売春』の戦時中の売春事情に関する記述には、文脈が非常に類似していて内容的に引用元であろうと指摘できる資料が存在します
それは『特集文藝春秋』(1955・12・5)に掲載された重村實「特要員と言う名の部隊」です

339:列島縦断名無しさん
22/12/18 13:29:13.88 6KXO26KS.net
>>338
続き
『大阪と売春』の記述に該当する箇所を引用すると
「特要員と言う名稱がある。
特要員と言う名の部隊があつた。無論、内地の事では無い。太平洋戰爭中、日本軍が占領し、進駐して居た南の涯の島々の基地の話である。
では特要員とは何であろう。
あつさり言うと女─娘子軍─の事である。戰地に進出する娘子軍の事をこう言う名前で呼んだ。」
「もつとも商賣女が進出するのは、何も太平洋戰爭になつてからの事では無く、其の以前から滿洲は勿論、支那大陸の各地、凡そ小部隊でも駐屯する町や村々、當時の言葉で言えば皇威の及ぶ涯々までも、大和なでしこの姿を見ない土地は無かつたと言つて過言では無い。」

340:列島縦断名無しさん
22/12/25 13:16:47.72 ovKWajl+.net
>>339
続き
「當時滿洲や上海へは隣へ行くように氣輕に渡れたが、太平洋戰爭で占領した各地ともなると、そう簡單には行かない。」
「此の娘子軍達がどんな風にして進出するのかと言うと先ず現地からの要求で行く場合がある。例えば、作戰や補給の基地になつたような町や港へは前線や後方からの往來や宿泊が多い。從つて前線から歸つて來た將兵達の息ぬき、又是から前線へ出ようとする連中のお名殘りの別宴と言つたような事がくり返される譯だ。」
「現地のパンパンとよろしくやるのも結構だが、たとえマタハリ程の女が居なくても軍機上にもまずい點があるし、又南方の現地人の中には蠟燭病などと言つて物凄い性病を持つたのも居て衞生管理上も工合が惡い。從つて野放しにして置くより大和なでしこ軍を輸入した方が氣分も落ちつくし、軍機上も風紀上も衞生上にも良いと言う結論になる譯だ。こうした土地には現地からの要求が無くても後方の司令部から現地の事情を考慮して送ると言う場合もある。」

341:列島縦断名無しさん
23/01/01 13:20:33.52 a0vH9Y68.net
>>340
続き

「その次の場合は業者自體が國策便乘のバスに乘り遲れまいとする遠大な計畫の下に當局に運動して進出したのも相當多い。が是は勿論金儲けが唯一の目的だから大體大根據地たる都會地に限られるようだ。」
「こうして何處かの基地に娘子軍の進出が決められると内地に於ける軍駐屯地や軍港の料亭は、或ひは御用商人顏役等が肝煎りで必要人員を集めるのが常だ。内地の料理屋をそつくり移動したのもあるようだし、新たに募集したのもある。」

342:列島縦断名無しさん
23/01/08 13:53:15.67 mUHicjEx.net
>>341
続き
続いて『大阪と売春』には、
「其の編成も陸海軍により、又稼ぎの場所によつて、大小さまざまであつたが、大体士官用、下士官用、軍属用、徴用工員用に分れ、慰安婦も〈大和撫子〉から〈トラジの花〉は勿論現地調達の〈ジヤスミンの花〉と色とりどりであつた。」とあります
重村氏の文章では、
「其の編成も行く場所、其の要求等でピンからキリまである。士官專用のものから、下士官兵用、軍屬用、或いは飛行場作りの徴傭工員用と言つた工合に分れて居て、其の營業所、營業狀況もさまざまである。ニッパ椰子で葺いた屋根にベニヤ板一枚と言つた家からシュミーズ一枚のお姐さんが顏を出すと言う赤線區域そこのけの店もあれば、現地の家を徴發した洋造りの家で營業して居る所もある。其の又洋の中を疊敷きに改裝した家もあれば、或は幽邃な山蔭に數寄屋造りを忽然と建てゝ、島田に裾をひいた美人が現われる所もあると言つた工合であつた。」
「こうした娘子軍を私は先に やまとなでしこの名で呼んだが、此の女達の中には相當多數の〈トラジの花〉や〈ジャスミンの花〉も混つて居た。徴傭工員や下士官兵對手にはむしろ半島出身の女性の方が多かつたであろう。」と記されています

343:列島縦断名無しさん
23/01/15 12:41:54.55 TozkapOO.net
>>342
続き

さらに『大阪と売春』には、
「契約期間は大体一ヶ年であり、前借も当時の金で四、五千円が普通であつたが、過重な労働をもいとわず、期間内に返済して帰還する者が多かつたと云われている。然しなかには米軍の進攻が意外に早く、戦局の悪化と共に、引揚の機を逸して、終戦後内地の土を踏んだ者もあつた。」とあります

重村氏の文章では、
「彼女達は大體當時四、五千圓の前借金によつて前線に赴いたが、契約期間の標準は一ヵ年位であつた。これを早い者は僅か三ヵ月 普通六ヵ月位で返濟したということであるから、その過重な勞苦は到底われわれには想像出來ない。米軍の反撃が豫想以上に早かつたので、空襲や雷撃の危險に曝される機會が想像以上に多かつた。契約期間が切れても、適當な便船がないため、前線で終戰を迎えた者も少くなかつた。彼女達の貯金高は相當なものだつた。當時五、六千圓から一萬位のものが普通だつたし、中には三萬圓も貯金していた者があつたと聞いて、誰も驚く處である。當時の金であるから、今の金に直せば、相當な額となる筈である。これによつていかに彼女達が、前線基地の衆目の對象だつたかが判るのである。」
「特要員の撤退も行われたが、この引揚は大陸と違つて容易なものではなかつた。相當の犠牲者を出したのである。」
「彼女達の中には、遂に内地歸還の機を逸し、特志看護婦に轉身した例もあるが、敵の空襲により戰死したものもあつた。」
「特要員の大部分は責任者の班長に引率されて、無事内地へ歸還した。」と記されています


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