戦国ちょっといい話49 at SENGOKU
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228:人間七七四年
21/05/22 22:07:54.42 Y1tEqeiq.net
うぁぁぁ
蘆名盛隆がスレを練り歩いてる

229:人間七七四年
21/05/23 12:45:12.50 LB7x6Tpm.net
悪い話スレで本多重次の話題が出てたけど、仏高力が秀吉を歓待した際の話が出てなかった?ぽいので
小田原城を落とした秀吉はさらに宇都宮、会津と移動することで天下統一を完成させた。
小田原城の落城直前から東北への旅路の順路を決めた秀吉は自身が宿泊する御座所の設営や道の整備まで細かく指示し、
多少の遅れはありながらも鎌倉、江戸、岩槻、古河を通って宇都宮に入るとそこで天下の仕置をし、更に会津へ入ると再び京への旅路についた秀吉は途中、高力清長の岩槻城へ再び立ち寄りそこで歓待を受け、咲き誇る萩の花を見て一句詠んで高力清長に授けたと言う。
なごりをば つきる枝にや 残すらん
花の盛りを 捨つる都路
春から秋にかけて行われた秀吉の東征の旅の感慨の深さを表す歌とされている。
URLリンク(www.city.saitama.jp)
(太閤さま軍記のうち)
しかしまぁ、急ピッチで河越城バラして帰り道の御在所整備をする様に指示された方はたまらんかったのではないかと思う今日この頃。

230:人間七七四年
21/05/24 15:33:06.98 bGi8+lek.net
大岡弥四郎(大賀弥四郎)と申す者は家康公の御馬取であったが、(家康が)境目
よりある時に長瀬へ御出になり、ただちに川を越して大樹寺へ御入りの時、折しも
川は出て、鹿が渡しの瀬踏みすべき者なし。川は赤く濁り、あは高し。
この時、大岡弥四郎が一番に川に飛び込むと殊の外川は浅く、(家康は)難無く越
し給い、この褒美に初めて2百石を下され、後に5百石に増す。
岡崎能見という所に屋敷を拝領仕り、中根肥後守と聟になり、岡崎3人の町奉行と
なった。一に大岡弥四郎、松平新右衛門、江戸右衛門八と承る。
―『三河東泉記』

231:人間七七四年
21/05/24 16:01:04.42 F8+HT1i+.net
自分の知っている大賀弥四郎なら、その後を考えるといい話とは思えないが

232:1/2
21/05/25 15:57:25.60 0lkDvxNO.net
早川弥三座衛門の先見
小牧山対陣の時、秀吉が『中入り』の策を立てて失敗し、池田(恒興)、森(長可)を戦死させたことは
前に記したため、大略ご承知であろうが、この時、徳川家康の内部に関する異聞がある。
この事は山鹿(素行)先生の物語として、山鹿流に伝わった口授であるから、世上では知らぬ話である。
先生曰く、大軍を引き廻すこと至って難しいものであるが、羽柴(秀吉)殿は五万六万の人数を自由に
引き廻される大将である。小牧山に東照公(家康)御籠もりになられた時、秀吉は五万ばかりの人数を
七、八段に立て小牧を引き包むように人数を勧められた。これに東照公は大いに急かれて
「平八!平八!」と本多忠勝を頻りにお呼びに成り、
「秀吉のやりようは我等を踏みつけにした仕形である。我等がこの城にあるのを知りながら、
かの体は何事ぞ。平八、出て蹴散らすように。」
との上意であった。この時、酒井忠次は脇目も振らず秀吉の人数の進退を見ていたが、
「平八出るな!」と、忠勝を制した。東照公は「平八早く出て追い散らすように!」とひたすら
仰せに成る。平八郎も如何すべきか途方に暮れた体であった。
その内に秀吉の旗本より黄母衣の使武者が七、八騎乗り出し、先手に命を伝えた様子が見えた。
すると忽ち、貝の音高くあがり、一の備えは左に押し廻して退く、その次へ二の備え入れ替わると
見る中に、これも左に押し廻す。その跡へ三の手また押し出す。斯く段々に進みて繰り引きに引く
様子は、あたかも糸を付けて引いているようで、この人数の遣い方には、徳川方の人々も感心して
鳴りを鎮めて見物していた。
東照公は忠次に尋ねた、「その方は敵の人数が引き取ることをどうして存じていたのか。」
本多忠勝を制していたのは、それ故だったのだ。忠次は云った
「(早川)弥三座衛門が申したのです。あの人数は必ず引き取ります、と。
彼は甲州の言葉で『隠れ遊び』という軍法によく似ていると見切りました。それ故に平八を止めたのです。」
東照公はその弥三座衛門を呼ぶようにと云い、彼を召した。この早川弥三座衛門は甲州武士にて、
馬場美濃守の部下であり、長年教訓を受け、軍事にかけては最も老巧の人であった。

233:2/2
21/05/25 15:57:50.30 0lkDvxNO.net
東照公は彼に命じた
「只今、敵の人数は引き取ったが今後の様子は覚束ない。楽田、羽黒辺りへ言って見て参れ。」
早川畏まって、一騎敵陣近くまで乗り寄せ、篤と見届けて立ち返り、
「敵は味方を兼ねたる体にて候」
と云う。東照公「味方を兼ねたる敵とは何事を言っているのか。」とお尋ねになると、
「されば、敵は土手を築き柵を結い廻し厳しく備えを固めております。これを『陰の敵』と申します。」
東照公これを聞かれ
「ということは、敵は我等を柵際に引き寄せ、鉄砲にて撃ちすくめんとする手立てをしていると
いうことか、思いもよらぬことだ。」と仰せになった。これに早川
「いやいや、信長公が長篠にて柵を付けて甲州勢に打ち勝ったのは近年のことであり、天下の人、
皆知る所ですから、今更その故智を真似て勝利を得ようとは致さないでしょう。
これはおそらく、我々を憚っての用心でありますから、『味方を兼ねたる敵』と申すのです。
楽田、羽黒辺りにて合戦は無いでしょう。この小牧山を攻めることも勿論無いでしょう。」
「では今度は戦は起こらないのか、又は何方にて始まるか、その方はどのように考えるか。」
「長久手山辺りにて、御合戦になるでしょう。その仔細は、池田の聟の森武蔵は、先日八幡林にて
打ち負けたため、是非にもこの遺恨を晴らさんと考えているでしょうし、また池田は賤ヶ岳にて、
秀吉に疑われた事があり、なにか一手柄現して秀吉の機嫌を取りたいと考えています。池田、森が
このように張り切っている以上、殿様(家康)がここに居られるのを幸いに、岡崎の御城下へ押し込み、
焼き働きなど仕るでしょう。秀吉としては、他に手段もありません。」
そう述べると、東照公「これは能き心付なり」とて、篠木。柏井辺りの重立ちたる百姓に金銀を遣わして
内通を頼み、森の陣に間者を入れ、近辺に巧者の物見を出し置いたところ、池田、森が忍びやかに
篠木、柏井に一泊し長久手の方に押し通ったのを。百姓たちが直ちに小牧山に内通した。ここにおいて、
小牧より先手、旗本の二備えの人数を密かに出して、池田、森を追跡して大勝利を得たのである。
全く早川の巧者の見地によって無類の御勝利となる云々、とある。
この事、徳川家の歴史には無き所である。
(伝説研究・歴史之謎 )
真偽不明ながら、小牧・長久手の戦いに関する伝承。

234:人間七七四年
21/05/26 18:26:29.28 ggHkqOzq.net
ある時上杉輝虎(謙信)公が、侍大将、或いは心安き侍衆を召し寄せて茶の会をなされ、その後に仰せに成った
「信玄、氏康、信長の三将は、坂東に於いて名のある大将である、この三人の政道、或いは軍の執行は
同じ色であろうか、またはそれぞれ、色々違っているか、何れも思う所、一人づつ申すように。」
これに対し、甘粕近江(景持)がこのように申し上げた
「私のような者が推参ではありますが、朝暮にこの三将について推量し、また私が相模牢人、甲州牢人、
尾張牢人に政道の道々を相尋ね申した所、三将三色であると考えます。」
輝虎公はこれを聞かれ
「三色であるという謂れは如何に」と尋ねられた
「智・策・武の三略と言われるものが、軍法の眼目であると承っております。
であればこの三将には一略ずつ得られた道が有ります。」
「その一略ずつ得ているとはどういうことか。」
「北条氏康公は、智略十分にして策五分、武三分の大将であります。
また武田信玄公は、策略十分にして、智略は五分です。武については信玄公と打ち合いを
したことが一度もない故、計りかねます。ただし承り及んでいる限りでは、氏康公と
同程度だと思われます。
しかしながら織田信長公については、弱敵とばかり迫合をしているので、委細については
述べ難いと考えます。」と申し上げた。
輝虎曰く、
「然らば、三将それぞれ、ニ略に叶い、一略が欠けていると見えるが、如何か」
「尤も、御諚の通りであります。推参ではありますが私が申し上げた意趣は、屋形様(謙信)は
これらを合わせて、智策武の略を分別なされる事が尤もであるという事です。
智略は氏康公、策略は信長公、武略は信玄公の、この三将の要を御胸中に納められる事こそ、
尤もであると考えます。」と申し上げた。
輝虎公聞かれて、打ちうなずき、何れへも酒を下された。
(謙信家記)

235:人間七七四年
21/05/27 03:46:47.32 9al/gcVO.net
信玄は策略十分で武略は氏康と同程度って言ってるのに
なんで策略は信長で武略は信玄って言ってるんだ?

236:人間七七四年
21/05/27 08:46:38.24 azca3Em1.net
信玄の武は分からんけど三分の氏康レベルって推論から急に信玄の武は要と言われても困るわ

237:人間七七四年
21/05/27 15:30:27.01 JHjlPZpJ.net
(豊臣秀吉の時代)有馬の温泉は、湯山善福寺、池坊佐吉、中坊左進右衛門という三人が支配を
していた。太閤(秀吉)は、百五十石収納の領地をこの三人に託しておいて、湯治に行った時の
入用にさせた。また湯の山の上に御殿があって、太閤はここに滞在したのである。
天正八年三月に湯治に行った時は、池田輝政、福島正則が供をしていた。
それより、文禄三年に行った時は、木下大膳大夫という名で、以下のような達しが出た
『太閤様湯治の時、当所地下人が、酒肴等、何であってもそれを買って(秀吉に)進上する事、
堅く御停止とされる。その他のものも無用に思し召されているが、まことに献上したいと
考えているのであれば、大根、ゴボウ、また餅などといった手作りの類は、理由次第で
進上してもよい、と仰せに成られている。』
とあり、この時太閤より有馬が賜った物は、八幡太郎義家の鎧の袖、太閤の旅櫛に、函鏡を
二面添え、黒塗り金紋の杖、茶湯道具一式、であった。今も存在しているのだろうか。
二度目の湯治には小早川隆景、有馬法印も供をしている。
わずか百五十石の米を年々収納させ、それを湯治の時の入用に供させるなど、太閤が経済の上手なること、
以て知るべし。
(伝説研究・歴史之謎 )

238:人間七七四年
21/05/27 18:38:04.45 X0+FupZm.net
>>234
謙信家記は原典の後書きに書いてあるけど、春日山八幡宮に宇佐美勝正が納めたという文書を
享保元年(1716)に源忠寛が書写したもの
信憑性はまあ考えてみよう

239:人間七七四年
21/05/27 22:44:35.85 8rHOi5Ox.net
>>238
ここは史料を上げるスレじゃないんだから信憑性にこだわっても意味なくない?
それを言い出したら信長公記だって全面的に信用していい内容じゃないし。

240:人間七七四年
21/05/28 10:50:11.05 yYcJ36ve.net
神主に就任したらすごいの見つけちゃったからこりゃ広めないとなあ(棒
って後書きなんだけど
まあ、当時の雰囲気と一般認識はわかるよな

241:人間七七四年
21/05/28 11:02:39.30 3QU4AlIO.net
宇佐美勝正
宇佐美勝興(越後流軍学の祖、宇佐美定満の孫を自称)と関係が?

242:人間七七四年
21/05/28 15:34:09.94 tPN35S3f.net
では江戸中期頃の成立ということを把握した上で読んでください。
ある時、上杉輝虎公は家老衆を召し寄せられ、仰せに成った
「私が諸国の大将の心底、或いは政道、或いはその国の勢の多少、又は城郭、山川の剣難について、
今も詳細には知らざる事、偏に智の足らぬ所である。
これを知るための方法を考えるに、頼もしき侍を商人と成して諸国に遣わし、商いを催す様にして、
その国の絵図を記させ、勢の多少迄を聞き極めて、胸中に治めるべきだと思っている。
そもそも一国に、人数がいかほど有るか無いか、また政道は仕置の在り方などは大方知れるものでは
あるが、正確な情報を知らなければ、危ぶむべきところであっても、悪しく判断してしまう。
また人が唱えている事であっても、間違っている事もあり、また正しい事も有るものなのだから、
これも正確な情報を知らなければ、心もとなきものである。いかがであろうか。」
これに家老共、「尤もに御座候」とて、譜代の頼もしき侍十二人に仰せ付けられ、諸国を巡見し、
諸大将の政道、或いは勢の多少、或いは国の剣難、城郭まで、委細に書き付けて、その年中に
罷り帰った、これは輝虎が三十歳以前の事である。
(謙信家記)

243:人間七七四年
21/05/29 13:17:48.48 KQ/mVigI.net
末尾O くっさww

244:人間七七四年
21/05/30 16:17:55.41 K7e2Q0fr.net
武州岩槻の住人である太田三楽斎(資正)は、幼少の頃より犬が好きでこれを飼っていた。
そして三楽斎は、同国松山城を保持しており、己の守護を据え置いてこれを守らせていた。
ある時三楽斎は、松山城に行って城代にこのように申し付けた
「我が居城岩槻よりこの城までは路次はるばるである。もし俄の事が起きて人馬が通る道が
封鎖された場合は、この犬の首に文を付けて、追い放つべし。」
そう言って、岩槻に於いて飼い慣らしていた犬を五十匹、松山城に置いた。また松山城で
飼っていた犬を岩槻に置いた。
そしてある時、松山城に一揆殊の外に起こり、北条氏康公もこれに連携して出馬したとの情報があった。
しかし松山城より岩槻に使いを立てようとするにも、すでに道路は封鎖されており叶わず、難儀に及ぶ時、
件の犬の首に、竹の筒を手一束に切ってその中に書状を入れ口を包んだものを結びつけると、
それを追い放った。
かの犬どもは片時の間に岩槻にたどり着いた。三楽斎は怪しんで犬を見ると、首に件の文があった。
これにて三楽斎は直ぐに武士たちを引き連れて松山城の後詰をした。
一揆の者共はこれを見ると、
「この事が早くも岩槻に聞こえたというのか、不思議である。誠に三楽斎は離れた場所の状況を悟る
名将である。」
そう感嘆し、一揆は治まった、その後、松山に於いて終に一揆が起こることはなかった。
三楽斎は武略の達人である。
(謙信家記)
太田三楽斎の犬について

245:人間七七四年
21/05/30 16:43:28.07 3uG9iojF.net
「いい話」でもなんでもなくただの武将の逸話になってるやないかい

246:人間七七四年
21/05/30 17:30:56.66 jCIlmxFq.net
過去にも出典なしだけどいい話として扱われてる話なのに
何が不満なんだ

247:人間七七四年
21/05/30 19:37:59.40 9gJgo1NZ.net
犬がめちゃくちゃ役に立ったいい話じゃねえか

248:人間七七四年
21/05/30 19:47:10.70 0qgyHZh2.net
がいしゅつ


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