戦国ちょっといい話49 ..
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115:人間七七四年
21/04/15 03:03:46.35 ZkfH8mK0.net
>十万石(千石)
これもうわかんねぇな

116:人間七七四年
21/04/15 05:42:07.28 XA8Tx6K8.net
士業、公務員、医者などは、AIに駆逐される職業の代表格に挙げられます。
このような枠組みに守られた、定型的な仕事というのはAIに代替しやすいからです。
AIは人間に比べて、休憩時間を必要とせず、ミスを犯さず、給与も不要というメリットがあります。
例外的に看護師は安泰じゃないかとされますが、議論と関係がないのでやめておきましょう。
今後は英語の重要性が更に高まるでしょう。
現在、世界には約200か国あり、言語は約6,000存在しますが、グローバル化とインターネットにより英語とスペイン語が支配的になっています。
半数の言語は話者がいなくなり、英語を話せるのは最低限の条件になります。
「英語が出来ない人」というだけで、一段低い人間だと見られる傾向は既にビジネスの世界ではありますが、今後は社会通念になる可能性もあると思います。
そもそも、世界的な学術誌は英語中心になっており(英語力が低い人=学問と無縁な人という価値観の加速)、プログラミング言語も英語であり、ビジネスでは英語の重要性が高まっています。
AI翻訳により、ごく簡単なやり取りは日本語で事足りるようになっても、「AI翻訳が必要な相手」と見なされるでしょうし、文書を読み解くリーディング力や、言語を介した高度な感情の伝達まで補うものではありません。
もちろん、英語が出来ること、というのは最低条件に過ぎず、英語が出来るからといって成功するということではありません。

117:人間七七四年
21/04/15 15:04:01.21 0RxHiCDI.net
天草一揆と時、松平伊豆守(信綱)を上使として遣わされた。寛永十五年二月二十七日、
一揆勢が籠城した原城は落城した。
これにより江戸に早飛脚を下されたのだが、その文箱の中の書状の上書のすみに、石筆にて
『落城申し候』と伊豆守が書き、これを差し上げた。
江戸の将軍家光は文箱を開くとこれを御覧になり、そのまま御機嫌残る所無かったという。
さすが才知有る御老中であり、頼朝の時代の梶原平三景時であってもこれ程は有るまじき、と言われた。
(信綱記)

118:人間七七四年
21/04/15 16:13:56.75 7irQv36e.net
梶原景時にたとえる、て褒めてるんだよな

119:人間七七四年
21/04/15 18:25:25.83 ZbxHSxZB.net
現代の価値観に当てはめるアホウ

120:人間七七四年
21/04/15 18:39:50.57 6h1dReAZ.net
静岡県焼津市にある井伊直孝産湯の井戸に行く機会があったので
(前略)あるとき、井伊直政は東海道を通った折、岡部宿本陣へ泊りました。そこで中里(焼津市の地名)出身の美しい娘が、身の回りのお世話をすることになりました。
直政は娘をたいそう気に入りました。その後、天正18年(1590)、娘は男の子を産みました。
この子が後の井伊直孝で、出産の時の産湯を汲んだのが「井伊直孝産湯の井」として、中里で大切に伝えられてきました。(後略)
※井伊直孝の出生には諸説あります。
(「井伊直孝産湯の井」の立て看板)
直孝の出生には諸説あるとしつつ出生地?では地元の娘が母親だと伝わってるらしい

121:人間七七四年
21/04/16 10:30:07.58 Ze7+E5nx.net
>>120
これ貼っといた方がいいんじゃね?
URLリンク(www.city.yaizu.lg.jp)

122:人間七七四年
21/04/17 10:41:30.49 syCTQh44.net
>>115
多分、投稿者は国会図書館デジタルの史籍集覧から引用してると思うんだが
該当箇所の解説で、底本はこうだが別本の「卜斎覚書」ではこう書いてあるから()書きで注してあります
と書いてあるよ
10万石よりは1千石の方が正しいんだろうね

123:人間七七四年
21/04/17 10:47:16.93 g/ao+BFa.net
孫引きをさも引用っぽくロンダリングしてるわけだな

124:人間七七四年
21/04/17 13:03:15.82 3ZdxbqK5.net
ある人が、豆州(松平信綱)に疑問を述べた
「大名は国を拝領し、常に安楽のみを致しているのに、彼らの参勤の時も将軍家より上使など遣わされ、
御暇を申し付けられた時も、時服、金銀等に至るまで下されます。
一方で御旗本は常に御奉公により頻繁に労苦をも致しております。又何事かあったとしても、
御用に立つのは御旗本に過ぎるものは有りません。
然るに大名への御馳走強く、御旗本へはさほどでもないというのは、これは逆ではないかと思うのです。
どうしてこのような事になっているのでしょうか。」
そのように戯言を申すと、豆州は取り敢えずこのように答えた
「そうであるからこそ、大名に成ることを人は殊に願うのだろう。
さりながら、大名衆をあのように常に御懇に成されているのも、その代に大きな役が当てられ、
或いは御普請の労力など殊の外の御使となり、又御軍があれば、これも誰であっても一口に大きな
御用が仰せ付けられる。そういう事であるから、普段大名衆は御馳走されているのだ。
ただ、人の幸不幸というものであろう。人には生まれつき、こう言ったものが有ると思っている。
身の回りに例えると、人々の腰に指す刀脇差は、一代一度の用のために指しているのであるが、
十人の内九人は、その用無く過ぎていく。しかれどもそれらを秘蔵する事大方成らず。
また、小刀は日夜の用に立つが、あえてそれを馳走する事はない。それと同じものであろう。」
このように申された、兎角仮初の事にも理屈で人に負けられない人であると、諸人舌を震わせたという。
(信綱記)

125:人間七七四年
21/04/17 19:27:12.17 Du5k2f2j.net
>>122
スレ継続のために延々と書き込んでくれるのはいいが
元ネタコピペするだけの弊害が表れたな

126:人間七七四年
21/04/19 14:59:21.84 GCe/x5AD.net
加藤清正は常陸守殿(徳川頼宣)の御縁者を仰せ付けられた。
東照宮(家康)の仰せに(駿府に於いての事也)
「常陸守の事、清正の婿に申し合わせた上は、諸事子息同然に心得給え。」
清正が退出し御次間へ出た時、彼に御当家(徳川家)の家臣衆が申した。
「只今の仰せについては、定めてご満足であったでしょう。」
清正は云った
「尤も、忝なく存じています。さりながら、昔の秀吉公の御厚恩は忘れ奉りません。」
御当家の老臣達は返答の仕様もなく居た所に、成瀬隼人正(正成)が間に入り
「その思し召し、御尤も至極であります。又家康公の御恩を蒙った者も、またその通りに
家康公の恩を重く存ずるのです。」
と申した。名誉の返答であった。
「烈公間話」

127:人間七七四年
21/04/20 12:22:01.33 i7v8Tmbp.net
>>125
アフィカスの足掻き

128:人間七七四年
21/04/21 16:01:16.20 sY+axhzY.net
千利休、同道庵(道安)、古田織部についての事、
細川三斎(忠興)が利休に問うた
「貴老が五百八十年後にあい果てるとして、それ以後に天下の茶湯指南は、誰にて有るべきでしょうか」
利休答えて曰く
「倅の道庵については、彼はハタラキタル茶湯であります。しかしながら人柄が悪く、天下の指南は
成らないでしょう。古田織部がそう有るべきでしょう。」
と申した、その後、果たしてその様になった。
「烈公間話」

129:人間七七四年
21/04/22 00:58:17.21 Tox4w0bR.net
>>126
なんで徳川の縁者になったら秀吉の御恩を忘れるということになるの?
秀頼自体が徳川の縁者なのに

130:人間七七四年
21/04/22 07:34:02.37 ard2cif5.net
表面しかモノが見れないのね

131:人間七七四年
21/04/22 08:16:09.72 0Qbsx+fU.net
そもそも秀頼なんて秀吉の種じゃないだろって当時の人も思ってそう

132:人間七七四年
21/04/22 15:29:59.99 /XbN5Ghq.net
千利休が大徳寺の山門を建立し、自分の人形を木を以て作り、ヘントツ(羽織のような僧衣)を着て
頭巾に杖をつかせ、雪踏を履かせ(雪踏は利休が初めて作ったと云う)、高所に置いた。
秀吉公はこれをご覧に成って、「公家衆を始め礼儀ある門に、推参至極の仕形である!」とて
大いに怒り給われ、その罪にて利休は切腹した。
その時、脇差が包まれているものを取り、巻き直し両端を揃え、能く見て切腹仕った。
「日頃の数寄が出たのだ」と、当時の数寄者たちは感じ入ったという。
「烈公間話」

133:人間七七四年
21/04/24 12:14:21.18 cbP7yFL3.net
千道安方へ、ある人が茶湯に行くと、庭に朝顔多く、花の盛りで、路地も見事であった。
この人はその見た通りを、利休に語った。利休は「申された事、未だ知らない。」と、
日を定めて道安に茶湯を所望した。
その日、行って路地を見ると、朝顔は一葉も無かった。「これは」と思っていると、
床の間の花入に、朝顔一輪が入れ置かれていた。
「既に数人に見古させた花を、庭にて父に見せ奉っては賞翫と成らない」との事であった。
このようなものが、ハタラキタル茶湯である。総じて、茶湯の心とはこういった事であるという。
「烈公間話」

134:人間七七四年
21/04/24 12:17:35.26 okynbCIm.net
利休自身の逸話ではなかったのか

135:人間七七四年
21/04/24 20:42:27.57 zfA73aqp.net
しかるに一鉄斎(稲葉良通)は勇猛の剛将たる故に、生涯の内には不義不仁の事が多かったのだという。
傍友の安藤伊賀守(守就)が信長の意に違えて居城の鏡島を改易せられ、濃州を追放された時に稲葉が
郎等を鏡島に遣わして狼藉をさせたなどの事は、もってのほかの不道である。
それ故にその臣・斎藤内蔵助利三や那波和泉守(直治)などがこれを憎んで稲葉の家を出て、明智光秀
に仕えた事などがあった。その他に斎藤に背いて織田家に身を寄せた事も、天下国家のためといえども
実際は非義の振る舞いである。
しかして天正9年(1581)の正月元日に揖斐光親を攻め落とし、これより発心したという。三代相
恩の主君の連枝を追い落したことは本意にあらずと思い、入道して一鉄斎と号しける。さればその後か
らは善道を行ったといわれている。
それ故なのか、天正10年の夏であったが当国の先の太守・土岐頼芸は斎藤道三のために国を奪われ、
零落の身となってその頃は上総の国の海喜という所に蟄居しておられたが、この人は先年より眼病を受
けて悩み煩い、後には盲人となり、剃髪して宗芸と号し、世を頼みなく暮らしておられた。
稲葉一鉄斎は情を思い出し、君臣の義を重んじて痛ましく思い、なにとぞ宗芸入道を美濃国に帰し迎え
参らせんと欲した。しかしながら一鉄斎は先年に揖斐五郎を攻め出した頃のことなれば、これを聞かれ
たら自分を恨まれて来向なさるまいと思い、それより思慮をめぐらせた。
厚見郡江崎村に住む江崎六郎というのは頼芸の末子なる故に、すなわちこれをもって迎えのために遣わ
そうと六郎を尋ね出して、その事を申し含めた。しかし六郎は幼少で頼芸と別れて長らく父子の対面も
していない事ゆえ、心許なく思った。そこで乳父の十八条村の住人・林七郎右衛門を差し添えて、天正
10年7月、上総の国へ遣わし、宗芸を呼び迎えた。これによって頼芸入道は再び当国に来向せられた。
すなわち一鉄斎はこれを請じて大野郡岐礼村に新館を構えて頼芸を住せしめ、米2百石を参らせ、侍女
5,6人を付けて労わった。もっともこの岐礼の里は稲葉がしばらく住んだ所である。
しかるに頼芸は同年12月4日、仮初に病に伏してついにこの所で逝去なり。法名・東春院殿前濃州大
守左京大夫文閣宗藝大居士、年齢82歳なり。すなわち一鉄斎より南化玄奥和尚を招き、導師とせり。
―『美濃国諸旧記』

136:人間七七四年
21/04/25 19:44:32.71 XU/4bKMy.net
>>135
地元の史書で不義不仁言われちゃうのがなんとも

137:人間七七四年
21/04/26 12:47:05.64 +AWW44bc.net
>>133
花の慶次で風評被害きっつい息子かー

138:人間七七四年
21/04/26 18:07:56.24 rhtGunLN.net
管理人氏のツイートちょっと気になったが、慶喜に嫌われた伊達宗城
明治後は宇和島藩の人脈が渋沢家周辺の婚姻相手にがっちり食い込むんだよなあ・・

139:人間七七四年
21/04/27 12:07:19.98 z3GAQqvl.net
アフィカス就職まだ?

140:人間七七四年
21/04/27 14:20:54.68 EBmutGnO.net
南部越後につて、彼は滝川殿(一益)の侍であり、滝川縫殿(当家番頭家次)の父出雲(辰政)の
父である。武勇有る能人であった。
かつて信長公が「小田原その他の敵を押さえるように。」と仰せに成られたが、南部越後は
滝川家に従っての初合戦に参加しなかった。その時滝川は、使者を以て「どうして合戦に参加
しないのか」と、厳しく尋ねた。南部は答えて曰く
「御家中の士、この戦で皆武功をなされており、私ごときがここで働いても目に立たないためです。」
と答えた。そして重ねての軍で大きな手柄をしたのだという。
またある時、敵の城を攻める時に、柵際へ味方が大勢付いたが、ここで南部越後は「この柵をくぐって
行き、敵城に乗ろう」と考え、兜をくぐらせて見た所で、敵は門を叩き鬨の声をあげた。
その大音に驚き、味方はどっと逃げた。ところが越後は、大きな前立てを打った兜を着け、
その前立てを傾けて柵を潜ろうとしていた時であったので、前立てが柵にひっかかり、味方の勢が
敗走した中、南部越後一人がこらえて留まっていると見えた。
これを見た味方の勢は引き返した。これも大いなる功名となった。
後で南部は云った「私は勇気があってこらえていたのではない。先に言った通り、やむを得ず
ああなったのだ。」
しかしこの言葉によって、猶々手柄と成った。日頃武功が多かった故である。
この越後は、武蔵様(池田利隆)御家に罷り在り、大阪御陣の時、片桐市正(且元)の
大阪よりの退き口において、大阪方がこれへの追尾を行った。
尼崎には建部内匠(政長)が居り(当時十二歳)、武蔵様よりその補佐として南部越後が
遣わされ、彼も尼崎に居た。
この時、尼崎勢は市正を助けず、この事を市正は東照宮(徳川家康)へ
『武蔵守は大阪に内通しているのではないか』
と申し上げた。
そのため、これに対して番大膳が東照宮の元に罷り出て、申し訳を仕った。
東照宮の仰せに曰く
「武蔵守の手に南部有り。しかも彼は尼崎の城に在って、なにか理由も無く片桐且元を
助けないということは有るまじきと思ったのだ。」と仰せになった。
「烈公間話」

141:人間七七四年
21/04/27 19:04:23.09 fKzeA+2Y.net
南部越後は北勢四十八家の一つ、富田城主南部家の人物とされ
蒲生氏郷の配下の時代にキリシタンになったといいます
浪人後に輝政に三千石で召しだされたと
鳥取藩のキリシタン史で名前の出てくる医師森元交(もりげんこう)も南部越後の子だとか

142:人間七七四年
21/04/28 16:44:31.88 zJjq0Haf.net
松永弾正(久秀)は、世智に悪しき、賢き者であった。
彼は鍛冶屋、紺屋を見て、「三年の間、この両職を勤めるという気持ちで奉公すれば、
立身致すだろう。」と言ったという。
夏に鍛冶屋を仕って暑さを堪忍し、冬は又、紺屋での水使いを堪忍する、という事である。
また串柿の竹を三尺に極める法を定め、「一間の半分の所の塀の小舞(屋根や壁の下地で、
竹や貫を縦・横に組んだもの)に使うのに良い」、と申したのだという。
「烈公間話」

143:人間七七四年
21/04/29 17:42:00.63 RwG8RhcE.net
関ヶ原合戦の後、稲葉右京亮(貞通)は豊後国臼杵の城、太田飛騨守(一吉)没落
の地を賜り、ここに移って以後は臼杵の城主となるなり。
一鉄斎(稲葉良通)は濃州に止まり、旧領清水の北なる長良村の釣月庵に住しける。
右の釣月庵の西の面に1つの額をかけて、一鉄斎の自筆で辞世の一首あり。
「幾度か かくすみ捨てて 出でぬらん 定めなき世の ささのかり庵」
その翌年慶長6年丑11月24日、逝去なり。墳墓は長良月桂庵の境内にあり。
(中略)
稲葉両家(宗家と正成系)ともに徳川家に仕えて、武運長久たり。
―『美濃国諸旧記』

144:人間七七四年
21/05/01 17:32:56.21 9P2krZ2J.net
可児郡池田の城主 池田織部正輝家
当家も明智の一家にして、元祖は明智遠江守光朝の三男・三郎左衛門尉輝継が
初めてここに住し、それより以来、輝家まで当城主なり。
右の織部正は光秀に属し、後に城州伏見の城を守り、天正10年6月14日、
羽柴の大軍を引き受けて討死しける。
右の他にも明智の一家にして、隠岐・溝尾・奥田・三宅・藤田・肥田・池田・
瀬田・柿田・妻木などと申し、数代血脈の一門多くして皆ことごとく嫡家光秀
に属し、後には天正10年、山崎の戦にて滅びたりぬ。
明智光秀は信長に仕えて、わずか15ヶ年にして60万石余の大名となりぬ。
按ずるにかくの如く良き家臣等が皆もって一門たる故、身命を捨てて働きある
ために、自然と武功も優れてありしと見えたりという。
―『美濃国諸旧記』

145:人間七七四年
21/05/02 15:34:35.17 wBTwM86N.net
加茂郡加治田の城主は  斎藤新五郎長龍 同子斎宮龍幸
新五郎(斎藤利治)は龍興(道三の誤り)の子なり。信長に仕えて天正13年6月2
日、京都二条の城で、明智の家来・内藤内蔵助利一(斎藤利三)のために討死す。
その子・斎宮は岐阜中納言秀信(織田秀信)の小姓だったが、慶長5子年(1600)
8月23日、岐阜落去の際、信友・足立中務・武藤助十郎とともに、白昼に女の姿で
出立ち、長良川を越えて北山に落ちて行った。
その子孫は松平大和守道基(直基)に仕える。また池田三郎左衛門(輝政)の家にも
いるという。
―『美濃国諸旧記』

146:人間七七四年
21/05/03 16:53:05.12 xtvZpTjR.net
池田輝政様の御逝去の時、武蔵様(池田利隆)は江戸に在った。
帰国のための御暇を得る時分であったため、武蔵様にはこの事を申し上げず、お聞き無きように、と
御老中の内意であったため、御暇が出あ後にお聞きになり、これへの御愁傷は大方成らないものであった。
直ぐに帰国の途につき、成宮にて尾張大納言殿(徳川義直)より、成瀬隼人正が御使として出られ、
その他にも御家来衆が武蔵様を迎えるために御出になった。
武蔵様の御愁傷の様子を隼人正は見て
「左様に御愁傷されていては、幼少の御舎弟たちを、今後お取り立てなさることも出来ません。
御酒を参らせられますように。」
と、御酒を乞い、先ず自分が中椀にて二つばかり呑み、武蔵様へ進上した。武蔵様が無理に呑まれた時、
「そろそろ潮時が良いでしょう。早く御船に召してください。」
と言って、実は未だ潮時の前であったのだが、御船を召された。しかし潮時前であったので
船が出されぬままであったのを、隼人正は股立を高く取り自身海に飛び込み、武蔵様が召した船を
押し出した。隼人正がこのような体であったので、他の尾張家の諸士も各々海に飛び込み船を押した。
これにより船は浮き出た。
池田輝政公の御妹は浅野紀伊守(幸長)の室であり、また尾張殿は紀伊守の聟君であった。
然れば、尾張殿の御内室は武州様の姪子である。それ故に、尾張家はこのように、武蔵様に対して
御入魂であったのである。
「烈公間話」

147:人間七七四年
21/05/04 01:10:47.30 ME61kjQd.net
(岐阜城の戦いの時)
時に池田三郎左衛門尉輝政は当城の案内者なので、城山の後ろ水手口から攻め上った。
さてこの輝政は案内者たること理なり。この頃“岐阜城主十代衆”と言い伝える事がある。
その衆は、斎藤山城守秀龍入道道三、一色左京大夫義龍、斎藤右兵衛大夫龍興、織田弾正忠
平信長、同三位中将信忠、同三七郎蔵人侍従信孝、池田勝三郎信輝(恒興)、同三郎左衛門
輝政、羽柴少将秀勝、中納言秀信なり。
輝政は右の十人衆の内なれば、よく案内を知る故についに攻め落とした。
―『美濃国諸旧記』

148:人間七七四年
21/05/04 17:49:08.99 xJbwI1WL.net
どうしても腕を組みながら高速で走り抜けるジャイアントな絵柄しか思い浮かばないのであった

149:人間七七四年
21/05/06 00:24:03.94 VLdNf4zT.net
厳密に言えば
信孝没落後、恒興は大垣城に入って嫡男の庄九郎元助が岐阜城に入ったわけだが
1年程の話だから誤解、もしくは忘れ去られてるんだろうな

150:人間七七四年
21/05/06 15:12:03.47 3pTNnCr4.net
岡野紅雪(板部岡江雪斎)という人が有り、彼は現在の、岡野孫九郎の先祖である。
この江雪斎は小田原北条家の旗下であり、小田原落城の時、彼は生け捕り縛められ、
秀吉公の御陣に連行された。
これを聞いて秀吉公は仰せになった、「真田御陣の時(名胡桃城事件の事か)、この岡野は
表裏第一の不届き者であった。磔にも致したい者である。様子、委細を尋ねよ。」
そこで使いを以て尋ねると、江雪斎は
「この事は人伝えではなかなか申し上げられる事ではない。直に申し上げる。」
と、縄を取って引き立てるよう要求した。
この事を秀吉公はお聞きに成り、「苦からず」と、彼を御前に召し出した。
そして一々にお尋ねになったが、江雪斎はそれら一々に申し訳を仕り、そのため一命は
お助けと成り、秀吉公の御咄衆と成った。
ある時、京都に於いて能の御興行の時、秀吉公に家康公が仰せに成った。
「小田原北条は、関八州の大将なれども、久しく城で堪える事が出来ず、わずか百日ばかりにて
落城し降参しました。本来ならこのような時の御物語の相手にも成るべき者であったのに、
籠城したにもかかわらず、不甲斐なく百日ばかりにて落城したのは、非常に残り多きことです。」
この時、かの江雪斎がその末座に有り、罷り出て申した
「天下の人数を引き受け、北条であればこそ、百日も持ちこたえたのです。その上あの時は、
北条が第一に頼みにしていた家康公にも見放されており、そうであった以上、仕様も無かったのです。」
と申した。
これに秀吉公からの返答もなく、家康公も言葉もなかった、という。
「烈公間話」

151:人間七七四年
21/05/06 18:22:57.84 e/D2hHJL.net
うわぁこいつくうきよめよ

152:人間七七四年
21/05/06 20:42:16.07 K6sXGfC5.net
いかにも弁舌の人

153:人間七七四年
21/05/07 10:55:01.07 a2A2XpA5.net
信長の野望でなんか名前長くて政治に使える人だ

154:人間七七四年
21/05/07 14:25:21.65 s81hAZ4r.net
豊臣徳川側の史料ばかり残るから
家康は巻き込まれてはたまらんと必死に氏政・氏直上洛交渉してたように見えるけど
交渉の過程では北条(江雪)側に、家康は結構ムシのいいこといってのかもしれんな
「第一に頼みにしてたんだけど土壇場で見放された」とわざわざ一言言いたくなるぐらいには

155:人間七七四年
21/05/07 15:12:10.04 C4fPMGID.net
これだけ骨のある人は口説の徒とは呼べないな

156:人間七七四年
21/05/08 01:05:46.45 9hD7S84G.net
「秀吉に直接言うわ」って返答に対し、秀吉が激怒して江雪を詰問、
江雪はあくまで主君氏直を辱めない返答をして感心された
って流れの本もあるしな
「北条雑魚でしたね」って家康の話の振り方がまずい
こうなると江雪としては黙っちゃいられない

157:人間七七四年
21/05/08 15:07:58.15 xqDxwrce.net
見放したって言うけど散々上洛を勧めたのに応ぜず面目を失わせた雑魚が悪い

158:人間七七四年
21/05/08 16:45:50.16 1sAr4HI5.net
姉川合戦の時、家康公に従い奉る青木民部(一重)が、真柄というつわものの首を取った。
去る人(能勢小十郎也)が民部に尋ねた
「あなたが討ち取ったのは真柄(直隆)とも云われ、又真柄の子(隆基)であったとも云われますが、
如何なのでしょうか」
青木、答えて
「非常な大兵と競り合いをし、後ろが片岸にて、後ろに落ちた所を押し付け首を取りました。
非常な大兵であったので、人の子であるとは申しがたき者でありました。」と申されたという。
(子か親かは知らず、子とは申しがたき者であったと申されたという)
真柄という者は、隠れ無き大兵の功の者であった。
「烈公間話」

159:人間七七四年
21/05/08 17:03:20.85 DMf9X1nm.net
一尺八寸の大太刀を振るうだけあって人の子とは思えなかったと

160:人間七七四年
21/05/08 23:03:17.69 MhUssHkc.net
化け物過ぎてミスった所を討ち取ったとちゃんと申告しててえらい

161:人間七七四年
21/05/09 04:00:47.57 2V8oYE+e.net
神子田のように自分を貶めてまた主人も貶めるくらい豪傑じゃないとね

162:人間七七四年
21/05/10 14:47:01.42 PHXB85F7.net
長篠の合戦に於いて、徳川軍の青木(一重)は勝頼敗軍の時、数人と船に乗って川を越え、
敵船へ飛び乗ろうとしたが、これに敵も気付いて船より突き落とされた。
しかし青木は川中をくぐり、時々顔を出して呼吸しつつ、その敵船に遅れず付いていき、
向かいの岸際にて浮き上がり、彼を突き落とした兵を見つけると、再び水中に潜って
その兵の前で浮き上がり水中に引きずり込み、水中に於いて首を取ったという。
「烈公間話」

163:人間七七四年
21/05/10 20:43:14.65 HUiFwWsz.net
何その水陸両用武将はw

164:人間七七四年
21/05/12 14:31:04.74 H+XpSd11.net
未の年の正月、岡山に於いて物語された事である。
加藤左馬助(嘉明)殿は、常に動じない人であった。
(秀吉公が伏見に御座の時)殿中に於いて地震があった時も動じず、
また虎が朝鮮国より進上の時、虎の置かれていた大書院の縁を通る諸大名は、虎を恐れて
皆少し退くといった体であった。
山崎甲州(山崎家治カ)も気味悪く思われ、引き退こうとした時、左馬助殿を見ると、
彼は柱にもたれ、嘘眠りをして居られた。(柱ニモタレウソ子ムリテ被居)
これを見て、歯を食いしばって甲州も退かなかったと、甲州が光政様に物語されたという。
「烈公間話」

165:人間七七四年
21/05/12 15:40:33.86 qwZOPA/Q.net
嘘眠り見抜かれてちょっと恥ずかしい

166:人間七七四年
21/05/12 23:41:50.58 ipb/lOQ8.net
他人の失態を見るのは失礼だから眠ったフリをしたんだよ

167:人間七七四年
21/05/14 06:40:52.21 Ra1/CEvj.net
この逸話、かれこれ4回くらいこのスレで出てるけど登場人物が加藤清正と加藤嘉明のバージョンもあったりするけど、出典によって内容が違うんだろうか?

168:人間七七四年
21/05/14 16:02:37.63 mTE2p1tD.net
呉服所の大森三郎兵衛は、平九流の小唄の上手であると(前田利常が)お聞き召され、彼が
小松に参った時分に、御聞きに成りたい旨を内々にお尋ねになられたところ、彼は近年は年も寄り、
唄うことも無くなっていたのだが、御意故に年寄ながら唄った。
これに利常公はご満足遊ばされ、
「この頃はそのように年も寄っているのだから、茶湯なども立て慰みとするように。」
と、定家の文の、見事なる御掛物を下された。これは現在も大森家が所持している。
三郎兵衛は大変に有難がり、「私の小唄は高直なる唄である」と言って自慢したという。
当代の大森三郎兵衛よりこの咄を承った。
(微妙公御夜話)

169:人間七七四年
21/05/14 18:35:31.47 yCyt20/p.net
利常の戒名、微妙院殿から微妙公ですが、「みみょうこう」なんでご注意ください

170:人間七七四年
21/05/14 19:47:53.30 DINF7vmf.net
まあ武将、藩主としての評価も微妙だもんな

171:人間七七四年
21/05/14 19:56:10.36 KjqNR5qp.net
従兄弟:慶次郎利益
鼻毛を伸ばした微妙公:毛いじろうとしません

172:人間七七四年
21/05/14 20:44:47.61 1BKN4a4M.net
ツマンネ

173:人間七七四年
21/05/15 03:45:08.86 HUfxYiBs.net
>>169
こんな魔物居たよね
  _____
 / ̄ /三/ ̄ /⌒i
 L__LO_L_L/|
 |二二二二二|/|
 |二二二二二|/

なんと、 宝箱はハゲだった!!
   _____
  ∠_∠∠_/ \
  VVVVV.\  |
   彡 ⌒ ミ \|
 /ヽ(´・ω・`)ノ/|
 |二二二二二|/|
 |二二二二二|/

174:人間七七四年
21/05/15 17:02:28.92 DpWJqXT/.net
城州公略伝には、兼続の五撰の戒を挙げてある。
「武士の心掛け多しといえども、五撰を専要とすべし。
五撰の道たる甲冑は籠手に念を入るべし。胴は片ひけなきように威し、美麗を禁ずること可なり。
太刀は、精神釣り合うて骨を徹すを要とす。作を好むことなかれ。仮に業良しとしても、釣り合
わざるを好むことなかれ。槍は勢つまりたるは良し。大身横手物は伸の研を専とす。馬はかんと
爪を許すべからず。皆具は波を切るを要とす。弓は七分の業を高々仕懸け、根を改むべし。
総じて槍・太刀・具足に金銀をちりばめ奇麗を好むこと、士の本意にあらず。君に仕える者は継
信が矢先に立つが如しといわれる。武士の境界平生万端の動作、この直体を取り失うべからず。
少しでも余念にひかれたならば、よし一旦の功をなすとも、ことごとく虚妄とならん」
―『直江兼続伝(直江城州公略伝)』

175:人間七七四年
21/05/15 18:03:05.93 yUEfZCGF.net
愛の兜は「金銀をちりばめ奇麗」じゃないのかって言われそうなんですが(愛の字は黄銅らしいが台座の雲形は銀です)
あれは上杉家当主の格式で作られているので、謙信か景勝の持ち物を下賜された可能性が高いと考察されています
自分で選んだわけじゃないのよ

176:人間七七四年
21/05/16 06:02:17.20 5uCHED81.net
戦国から江戸前期のカブト見て思うけど、何事もシンプルなのが1番だと思う。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

177:人間七七四年
21/05/16 07:05:33.88 4heFy8lv.net
ジャギw

178:人間七七四年
21/05/16 11:37:21.79 ISloAcGX.net

   ̄ヽ、   _ノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     `'ー '´
      ○
       O 
          __,.....--‐――--..、  
       ,/    l      ヽ      \ 
      /      /            ヽ  
     l       l              ! 
     ヽ     /   ●       ● |   
     ! ヽ     l           ヽノ   と思うわんわんであった
      ,!   \ │           _ヽ
      ,!     `´           (:::::::)l
    |         `---、       ̄ l
    !               `ー 、.._./⌒iノ 
    !              ヽ 

179:人間七七四年
21/05/16 12:15:52.77 HBh/r16f.net
コッソリ混ぜてもバレへんやろの精神
URLリンク(i.imgur.com)
家紋が旧き者どもの目に見えてSAN値下がりそう

180:人間七七四年
21/05/16 22:19:23.41 JXQO+P+t.net
ところで前から気になってるんだが
このいい話や悪い話のまとめサイトの管理人って何者…?
何やらツイッターもやっててあれこれ語ってるが…
まとめ管理人ということ以外の本人の情報載せてなくて
何というか掴みどころがないというか

181:人間七七四年
21/05/17 00:12:18.42 TY6ivZem.net
>>180
ツイッター見てるんならそこで本人に聞けばいいのでは?

182:人間七七四年
21/05/17 00:23:12.62 HLMKGlGM.net
残ってないほど、秀吉や信長に不都合過ぎた
本能寺の理由って、徳川暗殺阻止(イイ話)くらいしか無さそうだけど、
どうして同時に包囲・護衛して助勢を頼まなかったのだろう?
そもそも「秀吉が謀反起こしたんで護りに来ました!!」
ってすれば生身の信長囲めると思わないか?

183:人間七七四年
21/05/17 07:38:15.39 j5hiwjLa.net
URLリンク(i.imgur.com)
この兜を作らせた人は長い友達が少なかったのかなぁと邪推してしまう

184:人間七七四年
21/05/17 14:10:07.64 nZe32d2p.net
>>180
のうのうと生きてる無職のアフィカス

185:180
21/05/17 23:38:19.30 6OEgG1XJ.net
なるほど…色々察した
まとめサイト、今日も更新されてたが都合の悪い書き込みは全てスルーと
俺も以前いくつか話を投稿したことがあるが、どうにもモヤモヤするんで投下するのは辞めていたのだが
ようやく腹落ちしたわ
まあ今後も話を書き込みたい奴は好きにすればいいけど
俺は管理人の売名行為の片棒担ぎはまっぴらごめんなので、今後も投下することはないだろう
それでは失敬

186:人間七七四年
21/05/18 00:16:03.82 lzB+YcA5.net
秀吉公御功宮(御香宮神社)にて御首途の事
高麗国、その他諸方への手配りが定まったため、秀吉公は肥前国名護屋へ御出陣あるべき吉日を、
若杉金ノ太夫に仰せ付けられると、文禄元年三月朔日が最上の吉日と申すに寄って、その前日に
太閤は、伏見御功の宮にて、御首途あるべしとて、諸臣を御供にて御参詣された。
その威儀まことに厳重であり、神主もかねて承っていたため、神前を飾り座席を設け、御前に
伺候した。
太閤は神前の向かわせられ、御立願の事ども、信心肝心に徹している様子であった。
その後仰せられたことには「一は当社の神主なるか」、
そうでございますと申すと
「私は本朝の武将として、四海静謐の功を立て、万民無事の政法をまもる志のみならず、
高域(高麗)を退治して本朝の威を一天にかかげんと思うのだ。
しかれば、当社は往時、三韓を罰し給い、今に至るまで我が朝は無為である。
その旧例を引いて、当社にて首途をなり、心のままに従えるにおいては、帰陣の後一門造営いたす
べきぞや」と仰せられた。
一殿は承って、「御諚の如く、神功皇后の高麗、新羅、百済国まで威を輝かし給い、その後、御功の
神社と顕れ、長く本朝の守護神たるべしとの御誓いであれば、どうして功が無いという事があるでしょうか。
人の国より我が国、他の人よりも我が人を守らんとの御宣託なれば、この度の弓箭、御利運疑いあるべからず。
御頼もしく思し召し候へ」
と申されると、太閤大いに御感悦あって、打鮑にて三木を三々九と祝わせ給いて、その後諸臣へ
下された、かくて御盃も収まられると、一殿御前をつっと立たれて、神前に立てた金帛を持って、
秀吉公を三度祓い奉ると、太閤は如何思し召されたのか、笑われながら
「一は心も賢く見目よき女房かな。我帰陣の後、いよいよ見目をよくして取らすだろう。
丹誠を一層励むように。」と仰せに成られると、人々興し奉り、御機嫌よく還御された。
その後、住吉大明神へも御立願の旨、並びに高域追罰の擁護丹誠を一層励むようにと仰せになられた
ために、神主承って、「今度三韓御退治の事、そのかみ、当社大明神は神功皇后より左将軍を賜らせられ、
夷狄を御心のままに滅ぼし、今に至って国土安全であります。御祈念深重においては、どうして加護が
虚しいということがあるでしょうか。一心誠を励み、丹誠油断あるべからず。」との内容を
返答申し上げた。
『義残後覚』

187:人間七七四年
21/05/18 09:43:57.98 c9p6z/SW.net
>>185
しかもちょっと貶すと必ず”管理人本人じゃない”擁護が湧いてくるからねw

188:人間七七四年
21/05/18 10:23:26.88 G3iXXCFJ.net
>>180
本人の情報を載せていない、掴みどころがない
>>185(名前欄に180と書いている)
管理人の売名行為の片棒担ぎはまっぴら
本人の情報満載の方が売名行為になるのでは

189:人間七七四年
21/05/18 10:58:55.90 c9p6z/SW.net
イッライラしてるやんw

190:人間七七四年
21/05/18 12:31:35.66 Tl4hP23H.net
(何やってだコイツ?)

191:人間七七四年
21/05/18 14:11:45.80 c9p6z/SW.net
(わざわざ半角カッコとか使うからID変えてるのが無意味)

192:人間七七四年
21/05/18 14:16:22.10 k+xu9+lW.net
ヒント:スマホ

193:人間七七四年
21/05/18 14:41:37.76 c9p6z/SW.net
いちいち飛行機飛ばして擁護してんのか
熱心だな

194:人間七七四年
21/05/18 21:09:33.83 xlnw7fgG.net
建付け君自演中心の芸風に変えたんだな
なんとか相手してもらおうという心意気は買うがその努力は就活に向けた方がいいぞ

195:人間七七四年
21/05/18 21:15:49.72 mCKEM9rE.net
管理人でも別人でもどうでもいいけど、良い話でも悪い話でもない話を書きまくるのはスレ違いだからやめてほしいな〜

196:人間七七四年
21/05/18 21:40:20.24 c9p6z/SW.net
ネタが無くなっても書き続けるのがアフィリエイターの鑑いや性

197:人間七七四年
21/05/18 22:41:29.38 ws3lyQQg.net
悪いスレもそうだけど自分が面白いと思ったネタを取捨して書いてる訳じゃなくて
適当に見繕った資料からやたらめったら書き写してるだけだからな
書く方に熱意が無いから書いた事への反応も薄い
スレは死んでないだけで活力的な意味ではほぼ死に体みたいなスレだ

198:人間七七四年
21/05/19 00:26:23.08 G4EtUhpx.net
インチキ商品掴まされたんでも無いのなら
まとめ業者のが存在価値あるわなw

199:人間七七四年
21/05/19 04:26:29.69 EJCTj0Lj.net
>>197
正直、語り尽くされた感はあるからなぁ
最近なんかでも既出の話が続いてたし。

200:人間七七四年
21/05/19 06:25:11.63 EwEdQDDr.net
スレが伸びてると思ったらw
で自殺まだ?

201:人間七七四年
21/05/19 14:57:09.20 JDqvmj6u.net
薩摩の琉球侵攻を描いた軍記物として「薩琉軍記」という一大ジャンル的がある
内容はというと、主人公で軍師の新納武蔵守一氏(新納忠元がモデル)や武蔵守と軍内で対立する佐野帯刀はじめ、
架空人物ばかりで史実とはかけ離れた話ばかりだが
(中には真田幸村が戦死した新納武蔵守に代わって琉球を征服する「薩州内乱記」というものまである)
「薩琉軍記」群の一つ、「琉球静謐記」のラストは少し変わっているので紹介する。
琉球征伐後、龍伯公(※琉球征伐の時期なら忠恒のはずだが「琉球静謐記」では龍伯を顕彰しているため)が論功行賞を行ったところ
「朝鮮征伐の時は万死に一生の苦労をしても褒美を得なかったのに、今回の琉球征伐では国内巡視程度の労力で子孫への宝を得ることになった」
と薩摩勢は喜んだ。(軍記内ではけっこう苦戦していた)
これが江戸まで聞こえ、琉球は武を備えていないと評判となった。
琉球国王が江戸に参勤した時、松平伊豆守が国王に尋ねたことには
「なぜ琉球国は戦の方法を知らないのか?兵法の書はないのか?」
琉球国王「我が国ではむかしより戦争なし。
親が死ねば子供が、兄が死ねば弟が継いできたため、跡目争いなどなかった。ゆえに戦に詳しくないのだ」
これを聞いた伊豆守は顔を赤くし退出した。
このことが将軍の耳に入り、誠に優美であるとおぼしめしたため、
それ以来琉球国王を御老中列の次に座し、十万石以上の大名の格として尊重した。
武より文を尊重する時代に入ったためか、知恵伊豆を持ってきて武力発動を戒めるオチが付け加えられたようだ

202:人間七七四年
21/05/19 15:59:17.30 WB9S/bbY.net
過去のまとめにも「「薩琉軍記」について」で取り上げられてるね

203:人間七七四年
21/05/19 22:39:19.85 0fQUuNKu.net
>>197
読みにくい原文のまま書き込んでるのは
自分の文章で要約すると文の癖から同一人物が書いてるってバレるからだろうねえ

204:人間七七四年
21/05/20 05:59:26.60 EQFi7qXY.net
>>203
既出の逸話を何度も続けて書かれたりするのも、出典が違えばまた内容が違うこともあるから色々楽しめるけど、ほぼほぼ同じ内容持ってこられてものぅ…

205:人間七七四年
21/05/20 06:17:37.83 a3LEDFxk.net
投稿前にまとめ検索してもいいんだろうにね

206:人間七七四年
21/05/20 06:30:04.49 JBit94z0.net
アフィカスのスレ流しだろjk

207:人間七七四年
21/05/20 06:45:00.71 EQFi7qXY.net
>>205
最近、自分は投稿お休みしてるけど以前Rom専だった頃、既出の話はソース違いでなければ指摘されるの見てたから初めて見る逸話があったら一応調べてから投稿はしてたなぁ。
入れ替わって新しく覗く様になった人も増えたのかねぇ?

208:人間七七四年
21/05/20 18:27:00.01 RsIthutx.net
悪い話スレの743で投稿されてる「伝説研究・歴史之謎」って、明治大正期の実業家・著作家、高瀬羽皐の本なんだけど
学問的な面ではどっちかというと、今の井沢、百田、八幡といった方々の著作の系列よね
刀剣研究では有名なんだが
やはりコピペしまくるだけじゃなくて、投稿者本人の解説も必要と思うのよ

209:人間七七四年
21/05/20 18:54:20.85 oFN5xToV.net
5ちゃんらしく、aa入れたりスラング入れたりアレンジかます遊び心もあった昔のスレの雰囲気すこ

210:人間七七四年
21/05/20 18:59:30.56 0eBjFrI2.net
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
明智光秀と千草姫『武士の嘘は武略』
こういうでかいAAはやめて欲しい

211:人間七七四年
21/05/20 19:12:47.73 oFN5xToV.net
>>210
まぁ程々が一番よね

212:人間七七四年
21/05/20 19:58:12.14 rdRyb8/C.net
>>208
ごちゃごちゃ言ってないで君がそういう投稿をすればいいだけの話では

213:人間七七四年
21/05/20 20:25:28.37 6+8XOYiS.net
やってたけど君は?

214:人間七七四年
21/05/20 20:26:02.37 a3LEDFxk.net
さあやってみてくれ
俺はやってたよ?

215:人間七七四年
21/05/20 20:28:18.27 t33eDUCj.net
俺もやってたぜ!

216:人間七七四年
21/05/21 21:03:16.35 xny851Vj.net
まとめという名の私物化で面白みがなくなったね

217:人間七七四年
21/05/21 21:51:51.51 NLDool4c.net
過去スレ見れない人もいるんだしそんなに厳しくしなくても

218:人間七七四年
21/05/21 21:57:13.98 zS3+CtWL.net
管理人のツイートの内容もどれもwikiに書いてあるようなことばかりで
他人の受け売りばっか
人のふんどしで取る相撲は楽しいか?

219:人間七七四年
21/05/21 22:45:19.09 ZuSEJof4.net
まとめの武田信玄・勝頼、徳川家康のカテゴリ見たけど意外や多分まだ出てないと思われる逸話だったので
信玄の門松と家康の門松with歌合戦
三方ヶ原の戦いで武田信玄率いる甲州軍に大敗を喫した徳川・織田連合軍。
この戦いで例の味噌の件や茶屋の婆に食い逃げ犯扱いされた上に追われて
銭の徴収を受けるなどの様々な屈辱的逸話を残した徳川家康であるが、
合戦後10日ほどして年が明け、先日戦ったばかりの武田信玄から家康宛てに門松と一首の句が届けられた。句の内容は
まつかれて たけたぐひなき あしたかな
(松枯れて 竹類いなき   明日かな)
松(平)は滅亡、竹(武田)は類ないまでに栄える未来が待ってるぜ!ざまぁ
m9(^Д^)プギャーwwwwww(意訳)
という挑発のお手紙と贈り物であった。
これを聞いた家康の家臣の反応は憤る者、不安に駆られる者、先日の復讐を誓う者など様々であったという。
そんな家臣達の様子を見た家康は慌てることなく周囲の者に筆を持って来させると、信玄の句に濁点を付けたし書き直した。
まつかれで たけだくびなき あしたかな
(松枯れで 武田首なき 明日かな)
 
松(平)は枯れず、武田(信玄)の首はなくなり 明日には滅ぶだろう!ざまぁ
m9(^Д^)プギャーwwwwww(意訳)
という変句であった。家康がこの句を詠むと、家臣達は歓声を上げ先日の敗戦への復讐を心新たに誓ったという。
それを見た家康は信玄が贈った門松を信玄の首に見立てて斜めに切り落とさせると先に詠んだ句と併せて信玄に贈り返したという。
これ以後、浜松や家康に縁のある地域では門松の竹を寸胴ではなく斜めに切るようになったとさ。
加藤友康『年中行事大辞典』
実は既出だったらすまん。個人的には勉強になった。

220:人間七七四年
21/05/21 22:47:20.15 EJLGTotB.net
>>218
ツイートストーキングしてるくらいなら、ここじゃなくてツイッターで本人に言えばいいのに。

221:人間七七四年
21/05/22 06:05:16.62 Y1tEqeiq.net
>>219
そぎの門松
URLリンク(i.imgur.com)
寸胴の門松
URLリンク(i.imgur.com)
門松といえばそぎが当たり前だと思ってたけど、そぎ方にも節のところで切ると笑顔みたいになるから料亭など客商売の所で中を良く見せると言う意味で好まれるとか、節の所で真横に切る寸胴は金が詰まって貯まる様にと金融機関で好んで使われたりすることもあるそうで

222:人間七七四年
21/05/22 10:17:00.11 eMGk+O9Z.net
濁点付けて変句したのな酒井忠次と言う話もある様ですな。
いずれにせよ徳川家ではこの時を境に縁起を担いで門松を斜め切りにする様にしたと言うことみたいだけど

223:人間七七四年
21/05/22 10:37:54.87 eMGk+O9Z.net
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
酒井忠次で調べたら既出だったorz

224:人間七七四年
21/05/22 11:19:50.84 m7ZYLk2v.net
俺は35歳の時に1年間、家なしホームレスしてたけど、社会復帰出来たぞ。
今43歳だけど。
35歳で派遣切りになり寮を追い出されて、路上や公園で生活してたよ。
最初の1年間はゴミ漁ったり、雑誌拾ってホームレス仲間に売ったり、空き缶拾いしてたよ。
ネカフェとか利用したこと無い。
なんで金少ないのに、金が減るような行動しなくちゃならないんだよ
で、1年路上生活してて、日雇いとかの仕事に応募しても不採用。
ある日、新聞販売店に応募したら面接して採用してもらえた。
住所不定なのに雇ってもらえて感謝してる。
住み込みだけど、月に168時間労働して、給料は手取りで7万だった
でも家賃と女はタダ。今おもえば、カモられたと思うが、住む場所と処女もらったのは感謝してる。
ここで2年働いて80万円貯めて退職。
家賃18000円の3畳アパート借りて、無資格未経験で特別養護老人ホームにバイト就職。時給1010円。
で、初任者研修とって正社員にしてもらったのが、今から4年前。
今は43歳で、上級介護福祉士として都内の有料老人ホームで勤務している。
年収640万円。
住まいも家賃95000円のマンションにパワーアップした。

225:人間七七四年
21/05/22 11:36:17.83 eMGk+O9Z.net
なっ なんだあっ
戦国ちょっといい話それ民に悲しい過去

226:人間七七四年
21/05/22 17:00:50.04 QYAc2Tbk.net
鳥居忠政に取り壊される前の最上義光時代の山形城本丸御殿復元CG
URLリンク(www.city.yamagata-yamagata.lg.jp)
30年以上霞城公園(山形城跡)は発掘や工事を続けているけれど、生きている間にどこまで建物群は復元されるのだろう

227:人間七七四年
21/05/22 20:13:45.91 /PHcjahT.net
>>225
怒らないで下さいね
女を食ってる時点でクソみたいな話じゃないですか

228:人間七七四年
21/05/22 22:07:54.42 Y1tEqeiq.net
うぁぁぁ
蘆名盛隆がスレを練り歩いてる

229:人間七七四年
21/05/23 12:45:12.50 LB7x6Tpm.net
悪い話スレで本多重次の話題が出てたけど、仏高力が秀吉を歓待した際の話が出てなかった?ぽいので
小田原城を落とした秀吉はさらに宇都宮、会津と移動することで天下統一を完成させた。
小田原城の落城直前から東北への旅路の順路を決めた秀吉は自身が宿泊する御座所の設営や道の整備まで細かく指示し、
多少の遅れはありながらも鎌倉、江戸、岩槻、古河を通って宇都宮に入るとそこで天下の仕置をし、更に会津へ入ると再び京への旅路についた秀吉は途中、高力清長の岩槻城へ再び立ち寄りそこで歓待を受け、咲き誇る萩の花を見て一句詠んで高力清長に授けたと言う。
なごりをば つきる枝にや 残すらん
花の盛りを 捨つる都路
春から秋にかけて行われた秀吉の東征の旅の感慨の深さを表す歌とされている。
URLリンク(www.city.saitama.jp)
(太閤さま軍記のうち)
しかしまぁ、急ピッチで河越城バラして帰り道の御在所整備をする様に指示された方はたまらんかったのではないかと思う今日この頃。

230:人間七七四年
21/05/24 15:33:06.98 bGi8+lek.net
大岡弥四郎(大賀弥四郎)と申す者は家康公の御馬取であったが、(家康が)境目
よりある時に長瀬へ御出になり、ただちに川を越して大樹寺へ御入りの時、折しも
川は出て、鹿が渡しの瀬踏みすべき者なし。川は赤く濁り、あは高し。
この時、大岡弥四郎が一番に川に飛び込むと殊の外川は浅く、(家康は)難無く越
し給い、この褒美に初めて2百石を下され、後に5百石に増す。
岡崎能見という所に屋敷を拝領仕り、中根肥後守と聟になり、岡崎3人の町奉行と
なった。一に大岡弥四郎、松平新右衛門、江戸右衛門八と承る。
―『三河東泉記』

231:人間七七四年
21/05/24 16:01:04.42 F8+HT1i+.net
自分の知っている大賀弥四郎なら、その後を考えるといい話とは思えないが

232:1/2
21/05/25 15:57:25.60 0lkDvxNO.net
早川弥三座衛門の先見
小牧山対陣の時、秀吉が『中入り』の策を立てて失敗し、池田(恒興)、森(長可)を戦死させたことは
前に記したため、大略ご承知であろうが、この時、徳川家康の内部に関する異聞がある。
この事は山鹿(素行)先生の物語として、山鹿流に伝わった口授であるから、世上では知らぬ話である。
先生曰く、大軍を引き廻すこと至って難しいものであるが、羽柴(秀吉)殿は五万六万の人数を自由に
引き廻される大将である。小牧山に東照公(家康)御籠もりになられた時、秀吉は五万ばかりの人数を
七、八段に立て小牧を引き包むように人数を勧められた。これに東照公は大いに急かれて
「平八!平八!」と本多忠勝を頻りにお呼びに成り、
「秀吉のやりようは我等を踏みつけにした仕形である。我等がこの城にあるのを知りながら、
かの体は何事ぞ。平八、出て蹴散らすように。」
との上意であった。この時、酒井忠次は脇目も振らず秀吉の人数の進退を見ていたが、
「平八出るな!」と、忠勝を制した。東照公は「平八早く出て追い散らすように!」とひたすら
仰せに成る。平八郎も如何すべきか途方に暮れた体であった。
その内に秀吉の旗本より黄母衣の使武者が七、八騎乗り出し、先手に命を伝えた様子が見えた。
すると忽ち、貝の音高くあがり、一の備えは左に押し廻して退く、その次へ二の備え入れ替わると
見る中に、これも左に押し廻す。その跡へ三の手また押し出す。斯く段々に進みて繰り引きに引く
様子は、あたかも糸を付けて引いているようで、この人数の遣い方には、徳川方の人々も感心して
鳴りを鎮めて見物していた。
東照公は忠次に尋ねた、「その方は敵の人数が引き取ることをどうして存じていたのか。」
本多忠勝を制していたのは、それ故だったのだ。忠次は云った
「(早川)弥三座衛門が申したのです。あの人数は必ず引き取ります、と。
彼は甲州の言葉で『隠れ遊び』という軍法によく似ていると見切りました。それ故に平八を止めたのです。」
東照公はその弥三座衛門を呼ぶようにと云い、彼を召した。この早川弥三座衛門は甲州武士にて、
馬場美濃守の部下であり、長年教訓を受け、軍事にかけては最も老巧の人であった。

233:2/2
21/05/25 15:57:50.30 0lkDvxNO.net
東照公は彼に命じた
「只今、敵の人数は引き取ったが今後の様子は覚束ない。楽田、羽黒辺りへ言って見て参れ。」
早川畏まって、一騎敵陣近くまで乗り寄せ、篤と見届けて立ち返り、
「敵は味方を兼ねたる体にて候」
と云う。東照公「味方を兼ねたる敵とは何事を言っているのか。」とお尋ねになると、
「されば、敵は土手を築き柵を結い廻し厳しく備えを固めております。これを『陰の敵』と申します。」
東照公これを聞かれ
「ということは、敵は我等を柵際に引き寄せ、鉄砲にて撃ちすくめんとする手立てをしていると
いうことか、思いもよらぬことだ。」と仰せになった。これに早川
「いやいや、信長公が長篠にて柵を付けて甲州勢に打ち勝ったのは近年のことであり、天下の人、
皆知る所ですから、今更その故智を真似て勝利を得ようとは致さないでしょう。
これはおそらく、我々を憚っての用心でありますから、『味方を兼ねたる敵』と申すのです。
楽田、羽黒辺りにて合戦は無いでしょう。この小牧山を攻めることも勿論無いでしょう。」
「では今度は戦は起こらないのか、又は何方にて始まるか、その方はどのように考えるか。」
「長久手山辺りにて、御合戦になるでしょう。その仔細は、池田の聟の森武蔵は、先日八幡林にて
打ち負けたため、是非にもこの遺恨を晴らさんと考えているでしょうし、また池田は賤ヶ岳にて、
秀吉に疑われた事があり、なにか一手柄現して秀吉の機嫌を取りたいと考えています。池田、森が
このように張り切っている以上、殿様(家康)がここに居られるのを幸いに、岡崎の御城下へ押し込み、
焼き働きなど仕るでしょう。秀吉としては、他に手段もありません。」
そう述べると、東照公「これは能き心付なり」とて、篠木。柏井辺りの重立ちたる百姓に金銀を遣わして
内通を頼み、森の陣に間者を入れ、近辺に巧者の物見を出し置いたところ、池田、森が忍びやかに
篠木、柏井に一泊し長久手の方に押し通ったのを。百姓たちが直ちに小牧山に内通した。ここにおいて、
小牧より先手、旗本の二備えの人数を密かに出して、池田、森を追跡して大勝利を得たのである。
全く早川の巧者の見地によって無類の御勝利となる云々、とある。
この事、徳川家の歴史には無き所である。
(伝説研究・歴史之謎 )
真偽不明ながら、小牧・長久手の戦いに関する伝承。


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