戦国ちょっと悪い話46 ..
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51:人間七七四年
18/08/24 10:44:03.08 uwltokou.net
まとめブログの8605
草が風になびくような
>家康は
>「お前のような地位の低いものは、草が風になびくようなものであるから、深く責める必要はない。
>本領安堵はこれまでと変わらない」
>とおっしゃったので、元綱も家康の寛容さに感動し、涙を流しながら退いたそうだ。
「朽木越えの時は助かった」とでも言えば家康の株はもっと上がっただろうに

52:人間七七四年
18/08/24 21:26:17.80 R8yzVX6v.net
赤座、小川「…」

53:人間七七四年
18/08/25 12:09:54.01 wY6mtzYB.net
>>51
王者は誰にも頭を下げないし、例え黒であっても白と言い切り白と認めさせねばならないのだよ

54:人間七七四年
18/08/25 20:59:44.46 lVWyYuvh.net
>>47
あの上杉謙信が私は別人の下郎ですよとかしれっと虚言で誤魔化そうとするとか
話として面白すぎる
まぁ11対1を1対1に持ち込んだ上に勝って悠々退却したといえば武略ではあるのだが
…あるのだが草生える

55:人間七七四年
18/08/26 09:32:55.76 Ak7DzSzb.net
>>51
家康は取り残されてたから朽木越えしてねえよ。
秀吉と一緒に普通に撤退だ。

56:人間七七四年
18/08/26 18:32:10.13 23LKJVS7.net
天正も5年(1577)丁丑にうつり、織田信長卿は去年の11月に大納言より内大臣に登られ、
威勢はますます盛んとなった。このため甲斐武田方では、いよいよ北条を頼まんと、
一昨年の結縁の後、常々小田原に使者を送り氏政を尊敬することは大方ならず、とにかく妹君と
一日も早く婚儀を行うことを急いだ。氏政も縁組のことを約束しながら織田家を憚ったのか、
今年まで延滞していたのだが武田方よりしきりに催促もしがたく、今年正月下旬に至って小田原
より輿入れとなった。早野内匠助・清水又八郎・剣持与左衛門が輿添として参った。
勝頼は婚儀を滞りなく行い、両家合体の盟約は定まったため甲斐でも相模でも喜ぶこと限りなし。
その中でも高坂弾正(昌信)は「長篠より3年この方、今夜初めて心安く寝入ったのは小田原より
御輿入りとなったゆえぞ」と喜んだ。弾正は「とにかく武田家の長久を思えば、このうえは謙信
とも和睦して御入魂あらば、いよいよ頼もしく安心でありましょう」と諫めたのだが、勝頼は血気
の猛将で人に遜順することを好まず、長坂・跡部両奸臣は弾正の諫めが行われれば我々の身の上が
危ういと思い、とかく高坂のことを讒言し妨げたので高坂の忠言も空しく用いられなかった。国中
の士民は一同に長坂・跡部を憎まぬ者はいなかった。
―『改正三河後風土記(甲陽軍鑑・武徳編年集成)』

57:人間七七四年
18/08/26 19:32:21.87 Z2N5Ltql.net
軍鑑は嘘っぱちだからなあ

58:人間七七四年
18/08/27 01:35:48.43 J6YW16a4.net
大上段に嘘っぱちと切り捨てるのももはや古い見方だけどな
とはいえ勝頼跡部長坂辺りの事績は大概信用度低い記述だけど

59:人間七七四年
18/08/27 18:26:37.59 FERgEUgq.net
甲陽軍鑑の史料としての評価について詳しく出ているので読んでおくといい
創られた“軍師”山本勘助 丸島 和洋
第2回 見直された『甲陽軍鑑』
URLリンク(kaze.shinshomap.info)

60:人間七七四年
18/08/27 19:15:57.07 R3lRzHIU.net
>>59
>『甲陽軍鑑』同士の比較検討が重要となるのだが、信頼できないという色眼鏡が存在したために、
>このような地道で手間のかかる作業には手がつけられていなかった。
ほー、まだまだ研究の余地がありそうだな、国がやってくれれば…ってそんな金はないか。

61:人間七七四年
18/08/28 07:01:04.62 GowozpsS.net
じゃあお前が独りでやっとけよ

62:人間七七四年
18/08/28 08:09:16.13 8OTbo6hr.net
なにをすねてるんだ?

63:人間七七四年
18/08/28 10:12:49.07 67sGtWik.net
>>62
色眼鏡おつ

64:人間七七四年
18/08/28 13:59:54.23 JVmjndk4.net
袋叩きから再評価は歴史学のお約束
目立ちたい学者や作家が無責任に変なこと言い出すのが困る

65:人間七七四年
18/08/28 15:10:45.17 xpYgg4E/.net
なので武功夜話が一級資料に返り咲く日も近いわけだ

66:人間七七四年
18/08/28 15:17:44.99 AIzY42hF.net
>>65
ありゃ明らかな創作やん…。
まあ、世の中には東日流外三郡誌を真書と認めないと迫害した史学会の重鎮とか
いたりしたから、あからさまな偽書・創作でも評価する輩は出るけどさ。

67:人間七七四年
18/08/30 20:28:08.07 fWfpQ1LT.net
甲陽軍鑑は創作だこれって10年前にいい悪いスレで見たぞ

68:人間七七四年
18/08/30 20:53:07.73 ItPA1KAf.net
>>67
その10年間で研究が進んだ

69:人間七七四年
18/08/30 21:26:13.55 vtjT338y.net
評価してもいい部分もあるんじゃってのが近年の流れだっけ?

70:人間七七四年
18/08/30 23:45:46.02 3ekIDmZ7.net
信頼できる史料だからとすべて信用するのが間違い
逆もまた然り

71:人間七七四年
18/08/31 00:35:09.34 uGdurO6l.net
江源武鑑「せやせや」

72:人間七七四年
18/08/31 17:31:47.56 v6XsZjyq.net
>>66
>東日流外三郡誌
だってあからさまな偽書だもん

73:人間七七四年
18/08/31 22:38:32.64 yRAEZnKq.net
>>72
さてはお前、古田一派だな…

74:人間七七四年
18/09/01 00:48:48.81 e1VXTpUJ.net
偽書って言ってるから違うんじゃ

75:人間七七四年
18/09/01 02:23:17.54 raZtNnU0.net
秀吉の義兵は3万余騎と聞こえ、光秀の狼狽は大変なものであった。丹波亀山の居城を一子・十兵衛光慶に
守らせ安土は明智左馬助に、佐和山は荒木山城(氏綱)に守らせて淀城は修築半ばにして洞ヶ峠まで出張し、
二男の阿古丸といって12歳の者を2度大和の筒井へ送り援兵を請うもやって来ないため、光秀は大いに
恨み嘆いた。味方に来たらずして叶わぬ長岡与一(細川藤孝)も筒井順慶も心を変じてやっては来ない。
織田七兵衛(津田信澄)は討たれ、徳川殿は伊賀路を経て帰りなさると推量しなにとぞ徳川殿を討って来た
者には士農工商の差別なく恩賞をその望みに任せるとその道々へ触れ流し、きっと一揆が取り籠めて
討ち止めるだろうと思ったが、思いのほか討ちもらして捨て置いても害にもならぬ穴山梅雪を討ち殺した。
よもや急には打って上るまいと思った羽柴は大軍、しかも食い止めるか討って上るかと思う毛利も加勢して
羽柴は早くも摂津を打ち立ったと聞こえた。イスカの嘴、このようにまで物事に齟齬が生じたことを光秀は
「ああ天なるかな!」と空を仰いで嘆息し、悔やんで泣きに泣いた。
―『改正三河後風土記』

76:人間七七四年
18/09/01 13:55:32.52 EcywMg4w.net
イスカの嘴
「ああ天なるかな!」
ラノベでありそう(小並感)

77:人間七七四年
18/09/02 10:07:52.81 QJT0qNQx.net
長篠の合戦の時、徳川家康勢が多田新蔵を生け捕った。下帯が赤地の唐錦であったため、
「お主は只者ではないな、名を名乗るべし」と問うたが名乗らず、
「ならば雑人の手にかけ殺す。名を名乗るならば切腹を許す。」
そう申した所
「父は若き時分は多田三八郎、この頃では淡路守と云う者の倅である。」
と、答えた。これは只者ではないとのことで、身柄を織田信長の元へと遣わせた。
信長は彼を直に召し出し
「淡路守の子に久蔵新蔵という両人があると聞いた。汝は何れぞ」
「新蔵也」
「名のある武士であるから命を助ける」
「既に縄目の恥の及び候へば、ただ速やかに頸を刎ねられることこそ辱し」
しかし信長は「縄を解け」と、信長の前で小手から縄を切り落とした。
新蔵はそのまま門の外に出たが、そこに長柄の鑓が立てかけてあったのを取ると、
そのあたりの雑人二人ばかりを突き殺し、これによって近くに居た兵士たちが集まり
取り囲んで、新蔵を斬り殺した。
信長はこれを聞くと
「惜しき事をした。そのまま雑人を4,5人も突き殺させておけばよかったのだ。
あたら侍をおのれらが不功者故に失ってしまった」と言ったという。
多田淡路守は信玄の時75人の足軽を預かり、足軽大将の内では、「小幡山城・多田淡路・山本菅助」と
並び称されたという。
久蔵は武田滅亡の折、勝頼に従い田野にて討ち死にした。
(士談)

78:人間七七四年
18/09/02 12:56:20.72 YioYpOEF.net
>>77
主家が滅んでる以上どうしようもなかったろうな…。巻き添えの雑人カワイソス(´・ω・`)

79:人間七七四年
18/09/02 13:03:08.47 MbPSOSiK.net
>>77
花の慶次にこんな場面あったな

80:人間七七四年
18/09/02 18:41:25.70 qGog6piQ.net
>>77
山本菅助は原文ママ?

81:人間七七四年
18/09/02 21:45:03.64 lJxe7x5m.net
>新蔵はそのまま門の外に出たが、そこに長柄の鑓が立てかけてあったのを取ると、
>そのあたりの雑人二人ばかりを突き殺し、
雑人って門番かな?

82:人間七七四年
18/09/03 01:12:39.68 FdLkwMdD.net
いきなり下帯ってことは捕まった時に全部脱いでたんだな

83:人間七七四年
18/09/03 11:32:09.16 r4ov/e1/.net
>そのまま雑人を4,5人も突き殺させておけばよかったのだ。

雑人の命軽すぎて泣いた

84:人間七七四年
18/09/03 14:34:26.79 XvPMkh4u.net
御当家(徳川家)三河岡崎御居城の贈大納言広忠卿(松平広忠)の御時より、正月2日に御一族と国士衆の
御礼次第を定めて左右に着座を分けた。着座の一番は鵜殿八郎三郎康定、二番は西郷孫九郎家員、
三番は形原の紀伊守家忠、四番は大給の松平和泉守親乗、五番は桜井の松平内膳正信定と東条の松平右京亮
義春の両人が隔年で1人ずつ着座した。先年信定・義春は兄弟なので信定の次に
義春が着座したのだが、信定が度々御敵となった後は降参しても兄弟はとかく不快の仲だったので毎度座班
を争うため、それより日を変えて出仕することとなったのである。(原注:大久保物語)
義春の病死後、甚太郎家忠(忠茂)の時その家老・松平右近忠次は「桜井と東条は兄弟の家筋といえど桜井
は度々叛逆し、一方で東条は二代に渡り忠義を怠らず。この事情もあるので桜井の座席を東条に下さるべし」
と願い出た。広忠卿は「その願いは道理である」と聞こし召し御許容になったので、甚太郎家忠は五番の座
と定まった。一両年が過ぎて信定は降参しその翌年正月早朝より出仕して東条家にも断らず五番座に着した。
甚太郎が出仕してみれば信定は早くも五番の座に着していた。甚太郎は気量ある者なれば何も言わず信定の
上の座に着いた。信定はこれを見て「この座は我が座なり! 甚太郎は庶子の筋でしかも私の甥ではないか!
叔父を越えて上座に着くべきではなかろう! そこ退け!」と罵った。甚太郎はからからと打ち笑い、
「不義不忠の働きをして叛逆し、ようやく只今降参した桜井と、二代まで忠勤を尽くした東条がなぜ座席を
争えようか!」と言えば、信定はいよいよ憤り「これは我が本座なり! いいから罷り立て!」と罵った。
すると東条の家老・松井左近(忠次。のち松平康親)が進み出て、「信定の仰ることはまったく心得ませぬ。
この座席は東条二代の忠義によって広忠卿が下された甚太郎の座席であります。それほどこの席が欲しくば、
どうして度々叛逆不義の働きを振舞われたのか! 降参した不義者が忠義無二の東条家の席を奪うなど叶い
ませぬぞ!」と罵った。信定は言葉に詰まってますます怒り、刀に手をかけ松井左近を討ち果たそうとした。
甚太郎と左近も一緒になって信定を討とうとし双方闘争に及ばんとした。ここに至り一座の面々はようやく
双方を抑留し、信定を追い返して甚太郎が本座で御礼した。その後、御一族の面々も様々に甚太郎を
申し宥めて、広忠卿も御内意ありそれ以来、両人は隔年で出座すべしと定まった。六番は長沢の松平上野介
康高。この康高は初め竹谷の松平・御油の松平より下座だったが、広忠卿の妹君と夫婦だったのでその上に
座することと定められた。康高が亡くなった後にこの妹君は酒井忠次に嫁ぎなさった。
七番は竹谷の松平玄蕃頭親善、八番は御油の松平外記景忠、九番は深溝松平主殿助家忠、十番は二連木の
松平丹波守康長。これは元来戸田氏だが、忠勤によって松平を賜ったものである。
これより以下の群参の御礼衆は数多なれば漏らした。
―『改正三河後風土記』

85:人間七七四年
18/09/04 06:42:27.78 NGVt5dhV.net
天正2年、織田信長による長島の凶徒退治の時、貴族(信長の一族)多く討ち死にした。
その中に津田市助信成(織田信成)もあった。
信成の乳母人に小瀬三郎次郎清長という者が居たが、彼はこの時体調を崩し、陣屋に伏して
治療養生を受けていたが、信成討死と聞くと、物の具を着けて打ち出ようとした。
彼の郎従たちは「このように所労甚だしいのです、どうかお止めください!」と止めたが
「幾程命伸びた所で!」
そう言い捨て「何れの軍勢が信成を討ったのか」と問うと、振り返りもせずそこへ駆け入り、
馬を乗り放ちて敵5,6人を切り伏せ、自身もずたずたに成って討ち死にした。(我身もずたずたになりて打死す)
この小瀬は織田造酒丞の嫡男であったが、小瀬三右衛門尉の養子として家を継ぎ、尾張春日井郡小幡郷にて
五百貫を領していたが、極めて貧しかった。
その頃、柴田勝家が江州蒲生郡を領しており、「三千貫を参らせるほどに柴田をたのまれよ」と
彼の寄騎になることを誘われたが、
「代々市助家の家臣であり、どうして禄が豊かだからといって他に忠を成すでしょうか」
そう固く断り義を失わず、ついに戦死の功を顕した。
(士談)

86:人間七七四年
18/09/04 16:18:14.14 yCWOoY3D.net
信長の弟が生きてたらまた違った歴史になってたな
特に信與は有能だった、一番信長に愛された弟だった

87:人間七七四年
18/09/04 19:58:09.57 x9YLxTBS.net
一番信長を苦しめたのが一揆勢というのが面白い。

88:人間七七四年
18/09/04 23:29:30.08 NGVt5dhV.net
天正2年の長島攻めの事、織田軍の荒川新八郎は度々駆け合い、何度も敵を突き退けたため、
非常に疲労しある堤に腰を掛け休息した。そして喉が渇いたため堤より下りて水を手で汲んで
飲んだ所、彼の兜の前立てに付けられていた『運は天に在り、生死は定まる』という文字が
水鏡に鮮やかに映った。
これを見て新八郎は一際心も励み、気も猛くなりて、また取って返し敵陣に駆け入り、比類なき
働きをして討ち死にした。
この時、休息してそのまま引いていれば、命に別状無かっただろう。しかし日頃の志を印として
付けていたため、これを感じこのように剛操な行為を行ったのである。
そして彼のような勇猛な働きが有ったが故に、長島は陥落し、北伊勢五郡を副えて滝川一益へ「
与えられたのだ。
(士談)

89:人間七七四年
18/09/05 05:04:27.82 NdrGecMC.net
最後が消えてる

90:人間七七四年
18/09/05 14:25:45.77 FXDdffr9.net
>>88
投稿者です。下から2行目の「 は入力ミスです。申し訳ない

91:人間七七四年
18/09/05 15:57:05.24 u9h/GRwu.net
信長の弟、一向一揆とのだから戦いで死にまくってるよな。
なのに信長は顕如が降伏してきたら、あっさり許してるし。
信長ってイケメンキャラだよな。

92:人間七七四年
18/09/05 20:56:23.57 MWzlI9b3.net
信長に家族愛とか一族愛とかあったのだろうか。
家臣や領民を労わったり情を示す話はいくらかあるが、一族に対しては聞いたことがない。
息子にすら、思いつきで変な名前つけるくらいだし。

93:人間七七四年
18/09/05 21:07:21.63 VF4CIbvP.net
長島一向一揆で弟殺した一向勢皆殺しとか?

94:人間七七四年
18/09/05 21:10:53.91 G228q1j6.net
>>92
なんだかんだ、一族をそれなりには重用したよ。

95:人間七七四年
18/09/05 22:34:52.10 1WbwG0Kh.net
>>92
反抗した義兄と弟は一度は許してるね

96:人間七七四年
18/09/05 23:24:33.42 V05fc2qi.net
あの時代武士の子なんて親兄弟とは大して会わないからそんなに親愛の情もないだろ
恒興とかの方が関係深そう

97:人間七七四年
18/09/06 07:40:35.46 4nhJDA70.net
織田有楽の子、河内守(長孝)の所へ出入りする浪人に鈴木道休という者があり、彼は以前には
侍の役も勤めた者にして、大名貴人であっても侮らせないものがあった。
或る時、河内守の所にて人々寄り合い咄の有った時、河内守弟の左門(頼長)が鼓を鳴らした。
道休はそれを褒めたのだが、その褒め方が気に入らなかったのか、左門は鼓を道休に投げつけた。
道休もさしもの者故、その場にて左門を討ち果たそうとしたが、大勢が押し留めあつかいとなり、
その場は治められた。
道休はこの時不首尾に終わったため、返報の機会を待っていたが、その冬、大阪冬の陣が起こった。
織田左門は大阪城へ向かい、道休はこれをつけた。しかし左門は大名故に、道中で襲撃すること
叶わなかった。ここに於いて道休は思い究めた
「私は既に年老いている。もはや左門を討つ機会はないだろう。明日は左門が城中に入ってしまう
以上、一生の期はここにあり!」
そう言って、枚方において切腹した。
その後、織田左門はどう思ったのか、無頼漢と成り、冬の間城中に於いて戯け者となって、牛の角に
金銀の箔を貼り、自身はその牛に乗り、遊女にその牛を引かせるなどした。故に城より追い出され、
左門は入道して雲生寺と号して、武士を止めたという。
(士談)

98:人間七七四年
18/09/06 10:15:29.07 Ww/zjHKh.net
かぶいてるな

99:人間七七四年
18/09/06 18:07:05.93 iW3ksRbv.net
誠に愁嘆止む時無く

小牧・長久手の戦いで、池田恒興と嫡男の元助を始め家臣二十余人が戦死した。
(『池田家履歴略記』では親子の討死をうけ、周囲にいた家臣が切腹したとする。)
家督を継いだ輝政は、戦死した臼井藤丸の父親に書状を送っている。

去る四月九日、尾州合戦の節に父子始め家人二十余人が戦死し
藤丸もその中にあったこと、愁傷お察し致します。
私も父子の最期の次第がありましたので、察して下さいますように。
(後略)
五月三日      照政
               臼井一心老人

以上の書状は、池田輝政の確認されている発給文書の中で最古のもの。
父親の臼井一心は59歳、藤丸は一心の次男で25歳だった。
一心は同年の夏に、藤丸の肖像画と共にその上部に書付を残している。

池田勝入公・元助公に随い、尾陽において天正十二年甲申四月九日戦死。
御両君はじめ廿余人の討死を聞き及び、誠に愁嘆止む時無く、かなしみの余り
愚息が幼像を画して忌日に懸け、香華を手向け、法華を読誦し畢んぬ。

臼井家の子孫は後に鳥取藩士となったため、この書状と肖像画は
臼井家に伝来する資料として、現在は鳥取県立博物館に所蔵されている。

100:人間七七四年
18/09/08 07:58:29.66 2tdKSWZ8.net
>>92
息子の名前についてはありきたりな名前で無い所に
信長なりの愛情を感じないでも無いかな
信雄の伊賀のやらかしで思いっきりブチキレこそしたけど
実際に縁切りや処罰までは至ってないし

101:人間七七四年
18/09/08 10:03:17.08 P3EW1Rpx.net
>>92
家族親族に甘々で有名なんですが?

102:人間七七四年
18/09/08 21:09:29.99 1AT/Wywy.net
安中重繁
上野国安中城主。当初山内上杉家、後に甲斐武田氏に仕える。
…とこれだけだと一見ただの戦国武将だが、よく見てほしい。
この武将の名前、読みは『しげしげ』である。

103:人間七七四年
18/09/08 22:02:42.28 WGJWmIHs.net
>>102
マジやん
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(ja.wikipedia.org)

104:人間七七四年
18/09/09 06:54:02.22 ecWFEVIE.net
織田殿の命を受けて甲信の諸城を守った諸士は皆々城を捨てて上洛すればその昔信玄に滅ぼされた諏訪頼重
の伯父・新太郎満隣の子・小太郎頼忠は旧好の家人を催して諏訪郡に押し入り高島城を乗っ取って20余年
の蟄懐を開いた。
信玄のため追い出された小笠原長時の弟・洞雪斎も上杉景勝の助けを得て深志城に還入し、川中島の旧領主・
村上信濃守義清の子・源吾国清(山浦国清)も越後より勢を催して、景勝の扶助で川中島を領略した。
(中略)
一揆の首長・大村三右衛門は誅に伏すといえども甲斐は未だ穏やかならず、所々に悪徒蜂起の聞こえあり。
これを静謐ならしめよとの仰せを蒙り、大久保七郎衛門忠世は甲斐に赴き上口に陣した。
石川長門守康通・本多豊後守広孝とその子の彦次郎康重・岡部次郎右衛門正綱らも同じく赴く。忠世は康通・
正綱らと議して佐久郡諏訪に赴き、諏訪小太郎頼忠を説諭して御味方となす。また大草左近知久・大和頼元、
同じく式部頼氏・下条らも同じく帰順せしめたのであった。
(中略)
14日に酒井左衛門尉忠次に信濃一円を賜り、忠次は東三河の勢を引き連れて伊奈口より諏訪に至り、諏訪
小太郎頼忠方へ使者を立てて「信州一円は某が拝領したので、これからは我が下知に従うべし」との由を
申し送った。頼忠は大いに怒って、「私は大久保忠世の勧めによってこそ徳川殿に従ったのだ。どうして
忠次の下知を守ろうか!」とたちまち敵の色をあらわし、高島に籠城して矢石を飛ばし忠次らを拒んだ。
忠次は高島城を取り囲んで東三河勢をもって攻めるも頼忠はまったく雌伏せず、その国人も多くが忠次の
下知に従わずに北条へ内通せんと見える由が聞こえたので、
忠次の信濃所領のことは停廃なされ(原注:武徳編年集成)、なおも忠次ならびに東三河勢をもって高島城
を囲ませ攻めさせられた。24日、城兵が松平又七郎家信の陣に夜討した。家信はわずかに13歳。
武田の家人が多かったのでよく戦って敵を退けた。26日、松平主殿助家忠は兵を偽って引き出し伏兵を
設けて多くの者を討ち取った。(原注:家忠日記・武徳編年集成)
(中略)
8月朔日(1582年)、北条氏直は甲斐を攻め取るために、4万余の人数で信濃海野口より甲斐若御子へ
発向せんと信濃役行者に出て梶ヶ原まで着陣した。この由が徳川家御本陣に聞こえて、高島城攻めに参った
酒井忠次以下の輩は皆白須まで引き返しせしめた。
3日、忠次ならびに大久保忠世・本多広孝・大須賀康高・石川康通・岡部正綱らは、乙骨(原注:武徳編年
集成に音骨)まで着陣した。この時までも氏直の大軍が間近の梶ヶ原にいるとはまったく知らなかった。
大久保の家人・石上兎角之助という者が6日夕に佐久郡蘆田小屋八ヶ嶽の方より来たり、この由を告げた。
諸将は大いに驚き、この地の庄司太郎左衛門は忠世が常に諸事用達をさせた者だったので、この者を見に
遣したところ、向かいの草木茂る中に敵が充満していた。「追い付けてここへ来ます!」との報告を受けた
諸将は、「この小勢ではどうして合戦叶おうか。しかし、夜中に引き取っては追い討たれて良くないだろう。
夜明けに早々に引き取ろう」と、その夜の将卒は用意して夜明けを待った。明けて7日(原注:柏崎物語・
武徳編年集成)、すでに打ち立たんとするに及び、忠世は、「私がせっかく諏訪小太郎を味方に引き入れた
というのに、忠次がいわれざる無礼を振舞ったせいで諏訪を北条方にしてしまった。だからこのような大事
に及んでしまったのだ!」と言った。忠次は大いに怒って口論し、今日の後殿を争ったために時刻
は移って巳の刻に及んだ。敵は早くも向かいの原に押し寄せてきた。諸将はいろいろと講和して一番は酒井、
二番は大須賀、三番は石川、四番は大久保、五番は本多、六番は穴山、七番は岡部と定まった。
―『改正三河後風土記』

105:人間七七四年
18/09/09 15:48:09.13 Iume/PEe.net
松平康安さんの立場は

106:人間七七四年
18/09/09 16:07:34.25 CLIK4ATt.net
覇王伝の一字拝領を思い出した。

107:人間七七四年
18/09/09 18:04:43.89 jrybM0LQ.net
これまで天下のことは権現様(家康)が骨を折られて、矛先において天下を納められ、
沈毅である台徳院殿(秀忠)が御跡を継がれられここまで天下を治められてきた。
このことは唐にも日本にも稀なことであり、
その後を不肖の身であるこの私が継いだことは冥利の程にも恐ろしいことである。
これまでどうにか天下が治まるようにと朝に夕にと工夫してきたが、
あまつさえ近年は病気がちで天下の政事もうまく務められてはいない。
このことについて両御所(家康・秀忠)はどのように御思いになっているだろうかと心配になっている
だから昨日も其方(酒井忠勝)へこの思いを詳しく語って聞かせたのだ。
(小浜酒井家文書)
寛永18年(1641年)8月5日付酒井忠勝宛徳川家光御内書

108:人間七七四年
18/09/09 18:58:05.54 Iume/PEe.net
ちなみに康安さんの祖父は三光(みつみつ)

109:人間七七四年
18/09/09 19:28:33.87 CLIK4ATt.net
芳賀高孝(はが たかたか) 下野宇都宮氏の家臣。
探せばもっとあるかも。

110:人間七七四年
18/09/09 19:46:58.93 HVrjQLTb.net
でも、有職読みしていたことが多かったんだろうなぁ。

111:人間七七四年
18/09/09 19:54:49.70 wCzcxmWK.net
苗字からの名前への連続もあるぞー
三好義興、三好義継、松永長頼、三好吉房とか。
今回は関係ないが

112:人間七七四年
18/09/09 21:03:53.91 v+y1rya+.net
伊賀伊賀守(安藤守就)を思い出した

113:人間七七四年
18/09/09 21:37:18.49 UjsyPQ9G.net
秀吉「佐久間信信殿は誠に果報者でござるな。」

114:人間七七四年
18/09/10 01:09:34.52 4DrALfPI.net
>>110
芳賀高孝「よし、これから儂のことも有職読みで呼べい!」
はが たかたか → はが こうこう

115:人間七七四年
18/09/10 07:49:48.21 Qy5/blWy.net
なに有識読みしてるんだよと思ってたら普通に出家だったと言うオチもありがち

116:人間七七四年
18/09/10 09:46:44.12 DXJY70FD.net
天正四年(1576年)、那須家中の重臣大関高増は、大関氏の居城であった白旗城を出ると、那須宗家の居城烏山城の北方に黒羽城を築きここに入った。
この時期の那須氏は白河氏を支援して佐竹と戦う構えを見せていたが、高増は長男の晴増を白河義親の婿養子として送り込むなど
那須氏の対外政策の主導権を握っていた。
その高増が築いた黒羽城は東西を那珂川・松葉川に囲まれた丘陵の上にあり、本丸を中の丸・北の丸・三の丸にぐるりと守られた鉄壁の構えを見せており、
家中における大関氏の存在感を存分に見せつける威容を誇った…と言うか、主家の居城を遥かに凌ぐ那須最大の縄張りを持つ堅城であった。
後に大関氏は主家を出し抜いて近世大名として名を残すことになるのは周知の通りだが、
居城を見るとこの頃には既にどっちが那須の支配者なんだか分からない状態となっていた。
大関と佐竹という内患・外患に挟まれた那須資晴もたまったものではなかっただろう、という意味で悪い話。
なお黒羽藩は関東では数少ない外様大名による支配が明治まで続き、黒羽城は大関氏のシンボルとして廃藩置県まで鎮座し続けた。
一方の烏山城は天保元年(1681年)に那須氏の旧領復帰がなされたが、わずか6年後に改易されて以降二度と那須氏の手に戻ることはなかった。

117:人間七七四年
18/09/10 10:42:39.65 5szqQKC0.net
那須って大名に復帰できたのか…
そして改易されたのか…

118:人間七七四年
18/09/10 21:04:15.45 v1E6D+e4.net
>>116
大関高増の名前が出た時点中身見る前にこりゃ酷い話なんだろうな
と思ったら思ったより酷くない?と思ったのは毒されてるのかな
しかし1576時点でコレじゃ関東仕置きより前に秀吉に謁見した時の
大関一党は独立領主ですよって説明にも説得力ありすぎだな

119:人間七七四年
18/09/11 03:45:31.02 nRue5DhT.net
大関家って高増の息子たちの歴代当主がことごとく短命なんだよなぁ。
その下の代でも、嫡男がいなかったり幼少だったりして兄弟で家督継承する例も多いし。

120:人間七七四年
18/09/11 06:37:35.62 sJg15PM7.net
呪いだよ

121:人間七七四年
18/09/11 07:41:58.05 l2BXtzEA.net
大関さんくらいで呪われるならもっと呪われてそうな家系いくらでもありそう

122:人間七七四年
18/09/11 11:28:39.24 oZ7p8Ouo.net
近世大名なんて江戸時代に血筋絶えてる家は幾らでもあるだろ
養子で家が存続してる方が多いんじゃね?

123:人間七七四年
18/09/11 15:25:01.66 LBisfZrC.net
女系でも分家でも血が繋がってるとこはいいよ
完全に他家の養子の血筋になってる有力大名もよくあるじゃん
家老や家臣の方が本来の家系の血筋だったりとか

124:人間七七四年
18/09/11 16:23:30.26 ucgBqjD7.net
繋がっていたら繋がっていたで伊達順之助のような、らしい子孫も出てくるし
たしか繋がってるよね

125:人間七七四年
18/09/11 23:26:22.73 CQSDdH6X.net
血筋を守るために近親相姦を繰り返してると子供が障害児ばかりになって血筋絶えるってのは生物学的によくあること。
ホモ接合型が増えて劣性遺伝(昨今では潜性遺伝と言うらしいが)の遺伝病が顕在化しやすくなる。
まあ江戸期の大名達がそうだったかは知らんが。

126:人間七七四年
18/09/12 01:19:48.46 wTVa8PRY.net
>>121
広域はともかく那須地方での呪われ度は高そうだがな>大関家
まぁ大関さん那須家中で好き放題してるけど外敵に対しては心強いから
単に排除すればいいかって訳にもいかないのが困りどころか
ただ大関にとって邪魔者扱いされると外敵との戦闘中に謀殺されそうなのが怖いが

127:人間七七四年
18/09/12 10:52:54.88 8Kk8cxb6.net
それにしても、上杉景勝って先代を意識しすぎてつまらない武将になったよな。
無口で笑わない、アレどっかの奥方も似た人いたな

128:人間七七四年
18/09/12 11:21:01.69 2tH6ChET.net
むしろ笑わない、喋らないが景勝の個性では

129:人間七七四年
18/09/12 15:11:08.10 76TCJBE1.net
武田に煽てられてちーと浮かれただけで直江が軒猿放ってきて謀殺だもんな
そらあんな仮面みたいな顔になるわ

130:人間七七四年
18/09/12 20:36:28.67 UQjlPd0i.net
事態がこれほどまでの状況に立ち至ろうとは(神よ、救いたまえ)
全く思いも寄らなかったことである。
会社の業務はキリスト教徒の名のために、殆ど足蹴にされてしまった上、
さらに、会社の職員は、(今まで常に行われてきた)勤勉な勤務によって任務を充分に果たすことも、
この傲慢で残忍な国民に満足を与えることもできずにいるが、
それというのも、彼ら(日本人)が(キリスト教に対する憎悪)には事闕かないからであり、
とりわけ、彼らが我々はポルトガル人が崇拝しているのと同じ神と
その子キリストの存在を信じているのを知っているからである。
『オランダ商館長日記』附録「1641年2月10日付けマークシミリアーン・ル・メール宛フランソワ・カロン訓令」

131:人間七七四年
18/09/12 20:39:37.54 OVJRMD8l.net
景勝ってなにが凄いのか良くわからんよな。
上杉の家督取ったのはまあ、凄いけど、それ以降の活躍がさっぱり。関ヶ原の逸話も直江関係ばかりだし。
毛利輝元は凡庸とされてたのが、最近見直されたり、と動きはあるが、景勝については特に毀誉褒貶もなく、
実体がよくわからん。

132:人間七七四年
18/09/12 20:49:10.45 wTVa8PRY.net
謙信以来の武張った上杉家のイメージを貫き通した事じゃないかな
まず極めて無口ってだけじゃなく家臣の前で笑ったの1回って時点で
尋常じゃない精神力の持ち主
関ヶ原で負けて家康に降伏したとはいえ夏の陣で家康に評価されてたり
本人は先代コンプレックスで必死に虚勢張っただけなのかも知れないが
結果的には家のイメージを保って一目置かれた訳だし

133:人間七七四年
18/09/12 21:23:53.83 qWWCnxkC.net
菅小左衛門、島津家臣に報復した咎により切腹する

慶長12年6月、駿府城の修築のため江戸から神君(家康)の荷物が送られていた。
国清公(池田輝政)は、船奉行の菅小左衛門に荷物の運送を命じた。
駿州清水で島津家の士が池田家の加子(船夫)に狼藉をして、加子四、五人に
怪我を負わせた後、江尻まで逃げていくということがあった。
そのとき小左衛門は陸にいたが後からこの由を聞くと、たった一人駆け出し
跡を追いかけて、島津家の家来が乗っている船に飛び込んだ。
奉行二人の内の一人と、下っ端を四、五人切り殺し、残った奉行を船の梁に
縛り付けて、自分の姓名をしっかり名乗ってから帰った。
当然このことは問題になってしまったが、(池田家臣の中では)
「小左衛門から仕掛けた喧嘩じゃないし、向こうが狼藉をしたんだから
 やむを得ないことなので、小左衛門は助命されるだろう」
という声もあったが、(幕府直参の)三浦志摩守が国清公の方へ参って
「喧嘩両成敗は天下の御法ですので、お助けすることは出来ないでしょう」
と言ったので、国清公もどうにも出来ず、小左衛門に腹を切らせることになった。
小左衛門はこのとき三十一歳だった。
死に臨み友人の安宅次郎左衛門に、遺言状を書き送った。
遺言状(『菅文書』)で小左衛門は父の惣兵衛について
「惣兵衛は年寄りなので、そちらの家に呼んで毎日慰めてあげて下さい。
 一、二年の間だけでもいいのでお願いします」
と、後事を託している。
小左衛門の子の九郎太郎は三歳だったが、父の知行四百石を与えられた。
九郎太郎が五歳のとき、(国清公は)家臣の石丸雲哲に
「あの九郎太郎は成長しただろうか、お城へ連れてくるように」
と仰せられたので、九郎太郎が登城すると国清公は膝元に呼ばれて
懇ろに仰せられたあと、菅若狭に守り立てるように命じられたという。
国清公が亡くなり興国公(池田利隆)が播磨に入ったとき、新参の者は暇を賜ったが
まだ十六歳で無役だった九郎太郎はそのまま仕えることが許されたという。

―『池田家履歴略記』

134:人間七七四年
18/09/13 20:31:03.63 a5yC5vEo.net
こんなんどうしたら正解だったんや

135:人間七七四年
18/09/13 20:38:59.57 oPuUvg4k.net
>>133
>加子四、五人に怪我を負わせた
これで五人も殺したのか…と引いてしまうのは現代の価値観かねぇ。

136:人間七七四年
18/09/13 20:57:17.33 1fmrxVb6.net
>>134
黙っていたら腰抜けとして処罰
反撃したら両成敗で処罰
詰みである
…仕掛けられないようにつねに警戒してろって事かな
でも向こう見ずな奴はこっちの警戒とかお構いなしだろうしな
>>135
やられたらやりかえせな精神だなぁ…
こういうの見るとハムラビ法典ってなるほど穏健な方なんだなと思わされる

137:人間七七四年
18/09/13 22:03:12.47 MdIF2uXQ.net
やられたらやり返してよい、ただしそれ以上はやり返すなの精神と
やった方も応じた方も罰なの精神は割りと似ている気がする

138:人間七七四年
18/09/13 22:25:24.85 uGl7Zatq.net
長崎喧嘩みたいに徹底的に報復した後、先行して死ぬのが精神衛生上良さそう
どんなに精神強い人間でも沙汰待つ時は辛いだろうし

139:人間七七四年
18/09/13 22:27:15.75 pFVibWI+.net
ある時、織田信長の元へ、村井長門守(貞勝)が、鏡屋宗白という者を召し連れ、
彼は手鏡を信長に献上し、御礼申し上げた。
信長はこれを取り上げて眺め
「非常に明白な鏡だ。願わくば心の善悪も見ることの出来る鏡であればなあ。
世の癖として、諸侯大夫、寵臣たちの為したことは、良いことも悪いことも、
人は皆極端に語るために、却って心を暗ませるという事が、日々月々に悪化している。
しかし行いの悪さを諌めるという事はしない。
そういう事に左右されない諫臣を求め得なければ、政道の実態を聞くことは出来ないのだ…」
などと物思いにふけりながら、ふと鏡の裏を見るとそこには『天下一』と銘があった。
これを見て信長たたちまち気色が変わった
「去る春、どこかの鏡屋が献上してきた鏡にも、裏に『天下一』と銘があった!
『天下一』はただ一人であってこその、一號にてあるべきなのに、二人あるというのは
猥りというものではないか!
これ偏に長門守、お前の不明より起こったことだ。そして汝の不明は私の不明なのだぞ!」
そう、殊の外悔やむ様子であった。
(甫庵信長記)

140:人間七七四年
18/09/14 05:13:36.68 joeuWfgB.net
>>135
綱吉による教化は本当に重要だったんだなぁ…

141:人間七七四年
18/09/14 10:10:59.23 A3TosaDU.net
>>134
損害賠償を請求すれば良い。断られたら暴れる。

142:人間七七四年
18/09/14 12:04:56.52 ErgQINDx.net
武士の場合、損害より面目の問題なんだよなあ

143:人間七七四年
18/09/14 12:28:59.19 7tKdY49C.net
鉄砲玉の身分はそうだろうね

144:人間七七四年
18/09/14 12:30:33.38 uzG3c2Dm.net
室町時代から「故戦・防戦法」で理由の如何にかかわらず先に手出ししたほうを罪に問う、とやっても
ちっとも紛争を予防できなかった挙げ句の「喧嘩両成敗」なわけでな。
ちなみに江戸期を通じて「喧嘩両成敗」を適応した事例は、実は殆どないらしい。
法執行の側も、これが極めて理不尽な法であることを重々承知していた模様。

145:人間七七四年
18/09/14 16:39:09.53 LoLm7Buv.net
赤穂事件も喧嘩両成敗の対象にならなかったしなぁ
あれは浅野が罰せられるのは当然とも思うが

146:人間七七四年
18/09/14 17:35:28.33 gJvnQJNT.net
(山崎の戦いの時)
光秀の先手・斎藤内蔵助(利三)は狐川の向こう岸より使者を立てて、光秀を諫めた。
「今日の合戦は御延期然るべし。筒井の加勢も見えず、只今より坂本へ引き取られて要害に
拠って一戦されれば、安土に左馬助(明智秀満)がおりますので後詰の便りもあります。
そうでなければ、すぐにこれから安土に籠城されて然るべし。以前から申すように山崎の地
は味方にとってよろしからず。大軍を引き受けて防ぐにはもっとも難しい地です。
合戦の雌雄は只今にて候。時刻が移れば、その方策もなおさら難しくなります。」
このように申し送ると光秀はこれを聞いて、
「主君を弑逆するほどの光秀、天命の帰するところ何の恐れかあらん! 汝そこまで恐れる
のならばそこを引き取って当手に来るべし! 先手は他人に申し付けん!」
と罵ったため、使者は大いに恐れて立ち返りその旨を申した。内蔵助はこれを聞いて、
「光秀天罰逃れ難く、敗軍の兆しあらわれたり」
と言って嘆息した。
―『改正三河後風土記(柏崎物語・続武家閑談)』

147:人間七七四年
18/09/14 23:41:16.22 w7XezzrT.net
>>146
斉藤さんって謀反にノリノリだった説と諌めた説があるけど
これは諌めた説を下敷きにしてるのかな

148:人間七七四年
18/09/15 01:01:04.50 gFHjX2xk.net
今日もこの糞塗れ全身無毛の格好(水中長靴とゴム手)
で深夜の散歩。まずお酢を体に満遍なく塗ってから
糞を頭から全身に塗りつる。酸っぱさと糞の匂いで凄まじいことに。
外出寸前で500mlのグリセリンと小便を混ぜたものを
浣腸し巨大エイナスストッパー10を挿入。
ビニール袋には牛丼を入れ、バケツとジャンボウナギ持って写真の格好で外へ・・・
歩きながらも糞と酸っぱい体臭で大興奮。外灯の下で見たら
永久脱毛したチンポはフル勃起で糸をだらだらたらしまくり
人に遭遇しないように気をつけながら、家から10分ほどの公園に到着。
まず誰も来ない公衆便所に入る。
それから持ってきたバケツに跨りストッパーを
抜いて大量の排便をしました。
夕方に食べた白滝や未消化のネギが混じっていているものを
正座し既に糞塗れになっている体に、頭から全部被りました。
ここで持ってきた牛丼を糞で汚れていない床にばら撒き四つんばいで豚のように食べました。
食事後は1時間ばかり便所の床に寝転んで、ジャンボウナギでアナニー
をして帰宅しました。
誰かにこの一連の流れを、動画撮影してもらいたいんですが。
それか自分と同じような格好になってプレイ出来る方がいたらな・・・・
長文すいませんでした。

149:人間七七四年
18/09/15 18:44:15.78 mmlOQRDZ.net
水野家と松平家の狂った血ってある意味すごいな
あの両家ともまともに長生きした人物が少なすぎる
両方の血を受け継いだ人物が天下を取ったと考えるとすごいわ

150:人間七七四年
18/09/15 19:50:09.81 gWloQ7tz.net
今川のじっちゃんの教育が素晴らしかったと思う

151:人間七七四年
18/09/16 14:19:10.26 BFVsBUOo.net
天正10年の甲州征伐を終えた織田信長は富士遊覧の後駿河へと回り、駿府に到着すると
そこでは徳川家康が假屋を宜しく立ち置き、一献を進められた。
その頃は卯月の十日あまりであったが、今川義元が植えさせたという千本の桜も、花はすっかり
散り去っており、信長は「植え置きし主の栄えも、このようになってしまったな。」とつぶやき、
続けて思い浮かんだ一首を詠んだ
『今川の ながれの末も絶えはてて 千本の桜ちりすぎにけり』
(甫庵信長記)
ここから信長の「桜」が散るまで、4ヶ月あまりであった

152:人間七七四年
18/09/17 07:34:05.39 fSDtPYjS.net
どちらに理があるとか先に手を出したとか理非究明に時間がかかりすぎて評定が滞ったので家中の争いについては喧嘩両成敗にしたと言うのが実情だな
喧嘩両成敗を採用した大名も国衆の争いなんかは相変わらず理非究明をうたってるしね

153:人間七七四年
18/09/17 12:34:03.11 c3AbbcRr.net
天正10年6月朔日、惟任日向守(明智)光秀は亀山城において、明智左馬助(秀満)、同次郎右衛門尉、
藤田伝五、斎藤内蔵助(利三)、溝尾勝兵衛らを呼び寄せ、密かに語った
「各々の命を申し請けたい。それに同心するのなら評議をしよう。そうでないのなら、この光秀の頸を
刎ねるように。」
これを何の前触れもなく語ったので、五人の者達は「これは如何に」と驚き、呼吸も詰まりそうで、
互いに目を合わせるばかりであった。
そのような中、明智左馬助が進み出て
「今日まで殿を主と頼み奉る者共が、一大事に当たって、誰が見放すでしょうか。
何事であっても左馬助に於いては、御請け申し候」
そう頼もしげに言うと、残る4人も皆その儀に応じた。
光秀はこれを聞くと
「さては嬉しくも請けられたり。この儀、別の仔細に非ず。私の身の上に於いて、信長公が私を
誅されるという証拠がいくつか有る。既に事急であると考える。どう有っても逃れられぬ道が
迫っているのであれば、むしろ逆心を企てんと思う。各々同心に於いては、この牛王(牛王符)の裏に
霊社の起請文を!」
そう当座にこれを書かせ、その上で人質を取り固めた。
(甫庵信長記)
光秀が信長を討つことを告白するシーンですが、この時光秀が「信長に殺されそうに成ってるから
逆に信長を殺す」と言っているのが、スロイスが「日本では主人が下僕を罰しようとするのを知ると、
下僕が先に主人を討つ(だから日本で主人は下僕の前で感情を表に出さない)」と記録しているのと
ぴったり一致していて、同時代的にはリアリティの有るものだったのでしょうね。

154:人間七七四年
18/09/18 01:12:50.18 3a6RWHwE.net
「見恋」 いかにせむ心ひとつに月日へて つゐにあはての浦のみるめを 氏政
「蚊遣火」 ながめるつる月日のひかりに影そへて 草の庵りに蚊遣たくらむ 氏直
世の中にあらぬ草木を求めても 法のみちにふみもまよはじ 氏規
「契空恋」 知らせばや契し事ももしほ草 そをだに絶て思ふ心を 氏堯
逢坂のせきのひかしに武の 名やはかくるゝ十五の駒 氏照
色ゝのさかなはあれど今夜しも わきてさゞいのめづらしきかな 氏光
都路をかけていた鳴駒の音 新月夜にや今や別らむ 氏忠
月もはやさ夜ふけがたになりぬれば かれヽになるむしの声かな 氏邦
「月前雲」 やまかぜの吹よはるより久方の 月のな□□の秋のうき雲 氏能
「通書恋」 かばかりやさきの世くやし玉章の むすぶちぎりはあはじ物かな 氏親
冬のうみの時雨るゝ波のはげしきに 身もはづかしのさゞいなるらん 氏冬
見ぬ花やおもふばかりにかきつばた ふかき色香を面影にして 範冬
(喜連川文書)
足利義氏、北条氏康とともに当時の北条一門が読んだ和歌を氏照が記したとされている
また、範冬とは今川範以のこととされている
問題は現在北条関係で発見されている史料において唯一の所見になる氏能、氏親、氏冬とは誰のことなのか
悪い話というか北条研究で未だ解決されない謎の1つ

155:人間七七四年
18/09/18 08:16:59.64 SFBIDdSW.net
夭逝した氏政の兄貴が氏親とかいわれてなかったっけ?

156:人間七七四年
18/09/18 10:16:28.04 kAdBeT5C.net
早死したんなら和歌が読めない年齢のはず
母親の身分が低過ぎて虫けら扱いだったんだろうな

157:人間七七四年
18/09/18 12:59:53.16 d3+CY0nG.net
>>155
読んだ順番ではなく一門でも家格順じゃないかなあこれ
氏政が上の時点で氏政が家督継承したか次期家督継承者になってるんじゃないかなあ

158:人間七七四年
18/09/18 17:15:20.78 rWqd47zb.net
今川範以だって?妄言も大概にしろ
可能性があるとしたら氏真だろうな

159:人間七七四年
18/09/18 18:04:26.15 J62I4Vu1.net
崩し過ぎて読めなくなったんかな

160:人間七七四年
18/09/18 18:05:50.75 HApGphN1.net
>>156
いや最近の黒田基樹先生あたりの北条研究の本を読めよ。「北条氏親」は氏康の嫡男で
しかも氏康の正妻である瑞渓院(今川氏親娘)の子であり、氏政の同母兄だ。夭折と言っても
氏親の名乗りからも解るように既に元服していて、16歳で亡くなったと考えられているので、
このくらいの歌は詠める。

161:人間七七四年
18/09/19 03:48:27.63 dbRFW9CO.net
>>160
これくらいの歌が読めるだとw
そりゃお前の妄想だろ
ファンタジーで歴史を語るな

162:人間七七四年
18/09/19 08:29:48.27 UvppMgh5.net
荒らす前に勉強しろよ
草を生やしてわめき散らすなんて馬鹿にされるだけだぞ

163:人間七七四年
18/09/19 12:23:12.67 sOPW/iWx.net
ファンタジーくん勉強は捗ってる?
妄想ばっか書き込んでると馬鹿にされちゃうよ〜

164:人間七七四年
18/09/19 13:36:41.86 MDyPNUBo.net
烏帽子前から漢文読んだり古典読んだりしてた教養人の家なら十六歳で和歌詠むのなんてそれほどファンタジーとも思えんけどどうなんだろうな
江戸時代だと幕臣の子が元服前に四書五経習ってたり十歳に満たない子が辞世書いてたりするけど

165:人間七七四年
18/09/19 13:42:29.78 8tucQ05r.net
『玉露童女行状』の松平露ちゃんなんて五歳であんな詩残して亡くなってるしな
戦国どころか江戸も末期の話だけど

166:人間七七四年
18/09/19 15:29:01.14 CoHnNsGO.net
へー で、お前らの最終学歴は?w
教養も千差万別なのにな
アホの妄想話には付き合いきれんわ

167:人間七七四年
18/09/19 16:51:07.89 8tucQ05r.net
教養も千差万別ならなおのこと十六歳=歌なんて詠めるわけないっていう発想にならないと思うんだが…

168:人間七七四年
18/09/19 17:32:48.83 +qz+8mHV.net
教養人の家なら誰でも年少でも歌が詠める!

はいはい、寝言は寝てから言いましょうね。

169:人間七七四年
18/09/19 17:52:50.70 6ykGUsYr.net
なんだこいつ

170:人間七七四年
18/09/19 17:54:46.92 UvppMgh5.net
だから馬鹿にされると言ってやったのに…

171:人間七七四年
18/09/19 18:40:30.90 9YaWm/t0.net
(山崎の戦いの時)
寄手の先陣・高山南坊(右近)は味方が天王山を取り敷いたのを見て、そのまま山崎の大総門を押し開き、
打って出た。柴田源左衛門の備は総門の間際なので一番にこれを受けて鉄砲を撃ちかけ撃ちかけ防ぐとも、
池田父子(恒興・元助)と中川(清秀)の勢も追々雲の湧く如く競い掛かり、柴田源左衛門は散々に追い
崩され、それより段々と先手を追い立て厳しく厳しく攻め戦った。
中川は山を登って光秀の右備の諏訪飛騨守(盛直)・御牧三左衛門(量重)と弟の勘兵衛(御牧量則)の
左から打って掛かる。池田父子は川を越えて左備の伊勢与三郎(貞興)・津田与三郎(重久)の備の右を
突いて互いに箕の手形になって左右より挟んで引き包み討たんとす。斎藤(利三)の備に組みする先手の
近江勢は三方の敵を見て大いに恐れ、裏崩れして四方に敗走した。阿閉・後藤・多賀・久能・小川らは
取って返して諏訪・御牧を救わんと備も立てず専らに中川と池田に打って掛かり、一戦に追いまくられて
四方へさっと逃げ散った。高山・中川・池田の輩は逃げる近江侍どもは追い捨てて、また津田・伊勢・
諏訪・御牧らを討ち取らんと競い掛かる。伊勢が諏訪と御牧に向かって「さても申す甲斐もなき近江勢の
臆病者! 足手纏いが何になろうか、落ち失せたことは幸いなり! いざや花々しく討死して骸の恥辱を
すすぐべし!」と言えば御牧兄弟も同意して残兵千余騎は魚鱗に備え、勝ち誇る池田父子・中川・高山の
9千5,6百の大勢の中へ遠慮会釈もなく馳せ入り、敵を数多討ち取って伊勢も諏訪も同じ枕に討死した。
―『改正三河後風土記(柏崎物語)』

172:人間七七四年
18/09/19 19:19:24.76 Fn+lTAQ/.net
>>166
自殺まだ〜

173:人間七七四年
18/09/19 20:58:57.62 dbRFW9CO.net
ファンタジーくん、お勉強は捗ってる?
あんまり妄想ばかり話してると周りから馬鹿にされちゃうぞ!笑

174:人間七七四年
18/09/19 23:07:08.09 Fn+lTAQ/.net
>>173
だから、自殺はまだなの?

175:人間七七四年
18/09/19 23:32:40.63 /EtKXUqe.net
まぁまぁ、「教養の無い>>173は歌が詠めない」でいいじゃないか

176:人間七七四年
18/09/19 23:49:01.99 b06l2sfQ.net
荒らしにかまふ者も又荒らしなりけり

177:人間七七四年
18/09/20 00:03:17.03 zcn4VUlO.net
だから馬鹿にされると言ってやったのに… ファンタジーくん笑

178:人間七七四年
18/09/20 00:42:42.87 fZMi3yzc.net
まぁまぁ、必死に考えたファンタジーなんだろ
自閉症だろうけど温かい目で見守ってやろうぜ!笑

179:人間七七四年
18/09/20 10:17:44.68 GzuFkm+G.net
ファンタジーくん、お勉強は捗ってる?
お菓子な学説ばかり取り上げてると敗退しちゃうぞ!笑


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