関ヶ原合戦の真実 Par ..
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459:人間七七四年
17/09/10 04:10:32.55 Xys5s36m.net
関ケ原とワーテルロー 「姉妹古戦場」協定に調印
URLリンク(www.sankei.com)

460:人間七七四年
17/09/10 06:54:01.45 BC8XaZCR.net
クーデターしたんだからそれが短期間だろうが基盤が弱かろうが2重政権だったことは間違いない

461:人間七七四年
17/09/10 07:20:51.84 H8v4MIPZ.net
クーデターをしたのは三成だろう。

462:人間七七四年
17/09/10 07:25:01.92 H8v4MIPZ.net
天皇家と徳川家の二重公儀制というのなら、まだ分からなくもないが
そこに豊臣なんかが入る隙はないよな。

463:人間七七四年
17/09/10 07:52:16.46 BC8XaZCR.net
>>461
もちろんそうだけど?

464:人間七七四年
17/09/10 07:53:35.51 BC8XaZCR.net
三成がクーデターおこして政権を掌握した
短期間であれそういうことでしょ

465:人間七七四年
17/09/10 07:54:58.45 BC8XaZCR.net
三成グループおよび毛利がって言ったほうが正しいが

466:人間七七四年
17/09/10 07:55:19.00 H8v4MIPZ.net
二重公儀はは関ヶ原の合戦以降のことを言っているから、
合戦中の話は今いらない。

467:人間七七四年
17/09/10 08:15:17.69 zBdzOcix.net
>>457
それを言ったら、秀次死後は政権内に関白がいないから、秀次の死をもって豊臣公儀は終了した、ってことになるけど

468:人間七七四年
17/09/10 08:24:17.80 edY5i+3v.net
秀忠将軍就任までは二重公儀制も成り立つがそれ以降も二重公儀というのはただの過大評価

469:人間七七四年
17/09/10 08:41:59.07 q0DYite9.net
>>467
問題は形式論ではなく実際に権限があったかだからな。
関ヶ原以降秀頼にどういう権限があってそれを実際にどうやって行使したかだな。

470:人間七七四年
17/09/10 08:52:19.49 q0DYite9.net
ただその形式論で考えた場合、秀次失脚のあともまだ豊臣家が関白に就任できる権限を持っていたが、関ヶ原後に公家が就任して秀頼の立場が危うくなったとも考えられるな。

471:人間七七四年
17/09/10 10:03:11.35 zBdzOcix.net
豊臣家が摂関家としての格式を喪失したわけじゃないから、特に立場は変わらないと思うけど。
秀頼成人後の関白就任は朝廷側が約束してたわけじゃなくて、秀吉がごり押ししようとしていただけだし。
豊臣家が存続して、千姫に子供が生まれてれば、幕府にとっての朝廷内の足掛かりとして、
徳川家の血を引く豊臣家の摂政・関白が誕生していた可能性もあるし。

472:人間七七四年
17/09/10 11:01:40.56 1vxq5Kbx.net
もちろん秀頼が関白になる可能性がゼロになった訳ではない。
ただ、摂家側のこの行動は豊臣政権に対する大きな挑戦に感じるけどね。
政権ってのは勿論実力がある事が何より大事だけど、ふさわしい権威を保持する事も当然大事だと思う。
豊臣政権においてはその地位は関白なんだから、その地位に他家の人物が就任する事自体問題だろう。
正直、家康の将軍就任なんてこの出来事に比べたら事件としては大した事ないと思うけどね。

473:人間七七四年
17/09/10 11:07:38.79 JM7WtMbw.net
形式で言うなら秀次の死後は秀吉、秀吉の死後は家康が関白の職務を代行して、関ヶ原の後に家康の将軍就任と関白を藤原五摂家に返上で名実共に徳川が公儀になったという事だろ
確かに秀頼と豊臣家が大人しくしてたら関白に就任出来たかも知れないが、それは公儀云々とは別の話だな

474:人間七七四年
17/09/10 14:01:16.35 qpXz5/wl.net
菅沼の荒らし方はワンパターンすぎるわ

475:人間七七四年
17/09/10 16:54:47.65 vFse5+2q.net
茶々が且元の身代増やしてもらえるように家康に頼んでいるくらいだから、公儀としての権限はほとんどなかったんじゃないかな

476:人間七七四年
17/09/10 17:32:01.78 zBdzOcix.net
>>475
且元は徳川家が豊臣家に付けた付家老だからじゃね?
且元の所領は家康から与えられたもので、豊臣家の直臣じゃない。

477:人間七七四年
17/09/10 18:19:25.94 K0naJw+6.net
長州藩の古老が涙ながらに関ヶ原の話するんだよ


明治維新の頃な()

478:人間七七四年
17/09/11 01:15:43.29 DRNBmDel.net
>>444
関ヶ原だけ部分的に立ち読み。
2016年史学論叢からさらに踏み込んでる。
9月初旬の戦況は、東軍先手が大垣城を包囲し始め、
伊勢路の西軍が南宮山に後詰に来たと解釈。
赤坂着陣後の家康の戦略は大垣は後回しにして先に
南宮山を叩くというもの。南宮山はこれを逃れんと
輝元に無断で降伏した。
根拠にする史料の原文がわからないので信憑性は
何とも言えないが、家康側の戦略構想はしっくりくる。
氏の見解に関わらず、俺は南宮山は東軍の優先目標に
なるのを逃れるために停戦交渉をしたと思ってる。

479:人間七七四年
17/09/11 06:18:55.96 7sX80FxC.net
>>476
付け家老を付けられる公儀()

480:人間七七四年
17/09/11 06:42:13.87 WKxcuh20.net
いま6時30分ころ、東軍の布陣も完了

481:人間七七四年
17/09/11 13:44:10.85 wdg4PnWa.net
歴史群像のやつ
・石田大垣隊2万+毛利弁当隊1万5000で計3万〜四万もない?
・東軍は7万で大垣城包囲、南宮山毛利も殴りにいく
・大垣城は小城
って単純に西軍が不利すぎるな
こりゃ小早川も寝返る罠

482:人間七七四年
17/09/11 18:10:13.33 /yIZ+fV7.net
>>478
大垣城包囲から毛利援軍は『旧記雑録』内の書状から確認できる
家康の戦力は清須辺りから伝わった情報を政宗が記した書状から確認できる
因みに南宮山は家康の手勢で攻撃する予定だった

483:人間七七四年
17/09/11 18:37:35.89 DRNBmDel.net
>>481
大垣の宇喜多・石田隊2万は少なすぎると思う
宇喜多は57万石、石田、小西は各20万石
3人だけで通常の動員でも3万人くらいはいたと思う。
真田昌幸に宛てた手紙の数字ともかけ離れている。

484:人間七七四年
17/09/11 18:41:14.06 DRNBmDel.net
>>482
旧記雑録って素人が簡単に閲覧できるのかな
俺も読んでみたい

485:人間七七四年
17/09/11 18:49:19.53 NI9S8d5p.net
>>483
石田は岐阜城に出した援軍が崩壊してるし、宇喜多は宇喜多騒動のダメージから全く回復しておらず、クーデター直後に京で大慌てで浪人を募集する始末。
さらに岐阜城陥落で西軍では足軽たちの脱走が起こっていたのは当時の記録からも察せられる。

486:人間七七四年
17/09/11 18:55:42.73 ju2qrVE0.net
東軍は大垣城を素通りして関が原に西向きに布陣した
西軍は東軍の脇をすり抜けて追い越してわざわざ東軍の正面に布陣した
なぜ西軍は東軍の後ろにいたのにそのまま後ろから襲わなかったか?
ホント不思議

487:人間七七四年
17/09/11 18:56:51.71 ju2qrVE0.net
そしてなぜ東軍は徳川本隊が西軍から直接襲われないと高を括れたのか?

488:人間七七四年
17/09/11 19:00:38.21 9dqNj2h8.net
松尾山は元々城跡で砦とかあって守ることも出来るし大軍を一気に動かすこともできるけど、
南宮山は大軍を動かすのは難しいみたいだったみたいだな。
山から降りる場合は大軍を一気にというのは難しいみたいだ。
下手に降りたら少しづつ狙い撃ちをされるのではないか。

489:人間七七四年
17/09/11 19:00:46.87 DRNBmDel.net
>>485
基本的に西軍の戦力が弱かったってのはあまり異論は
ないのだが、数字の根拠としては疑問だなってところ
石田勢は岐阜城攻防戦では大して戦ってない。
むしろ兵を小出しにして岐阜城を失ったようなもんだ。
宇喜多は質はともあれ頭数は揃えてたんじゃないのかな。
脱走とはいってもそんな何割も脱走するような事態に
なったらもう軍は崩壊だろう。
大垣勢がもしそんなにボロボロだったら、白峰氏が寄稿文で
推理したように、大垣城を出て関ヶ原方面から家康勢(南宮山攻撃)
を側面攻撃するなんて作戦は成り立たないんじゃないか。
むしろ、素直に「佐和山に逃亡するつもりだった」説の方が
説得力を感じる。

490:人間七七四年
17/09/11 19:27:28.29 9dqNj2h8.net
>>486
だから白峰の説によると広家のほうから停戦交渉をして条約を結んだ。

491:人間七七四年
17/09/11 19:31:10.61 9dqNj2h8.net
白峰の論文は自分も立ち読みで少しあやふやだけど、
三成たちは佐和山に撤退するために関ヶ原の少し後ろの中山に陣を敷いたと
書いてなかったか?
側面攻撃するなんてあったか?

492:人間七七四年
17/09/11 19:34:22.62 ju2qrVE0.net
>>490
広家の話じゃない
大垣城にいた三成その他のこと
三成らが大垣城をでるときには東軍は大垣城を通り越して大垣城に後ろを見せて西に向かってた

493:人間七七四年
17/09/11 19:35:32.92 DRNBmDel.net
>>491
佐和山撤退説は樋口氏の説じゃなかったかな

494:人間七七四年
17/09/11 19:41:54.41 DRNBmDel.net
歴史群像での白峰氏の説は側面攻撃で南宮山を支援するもの。支援対象の毛利勢が降伏して自分が主目標に切り替わったのに気付かず不意討ちを食らったと筋書きしている。

495:人間七七四年
17/09/11 19:44:36.69 ju2qrVE0.net
ここでは陽動とか書いてるけど
普通後ろを見せて行軍中の敵がいたらそれを後ろから襲うことをまず考えるだろ?
しかも黒田ら先鋒は家康より西に行ってるわけで家康を直接襲撃できる
なぜわざわざ全軍強行軍で布陣済みの敵の正面に回って戦う必要がある?
家康とて後ろから襲われない確信がないとこんなことはできないはずでいったいそれは何か?
URLリンク(www.infonet.co.jp)

496:人間七七四年
17/09/11 19:49:58.08 ju2qrVE0.net
上記URLでは西軍が先に動いたように書いてるが、そこまで西軍が間抜けだったとも思えないし
籠城態勢の軍勢が東軍が全く動いてないのに全軍城を出るとは思えない
もし西軍が先に城を出たとしてもそれなら東軍は西軍が大垣城を出終わったところで襲えばいいだけにおもえる

497:人間七七四年
17/09/11 20:29:29.45 ClmzAENT.net
>>489
大垣城は小規模らしいから2万が籠城なら納得できる気がする
石田の大垣軍が有効な兵力なら家康先手衆に包囲されて無力化されないだろうし
京極が西軍に見切りつけて大津籠城するくらいだし、美濃方面西軍は東軍の半分くらいの総力はアリかと

498:人間七七四年
17/09/11 20:32:40.60 KyXtiPKv.net
大垣城から見たら東軍が街道を封鎖して兵糧攻めの準備を始めたように見えたので、完全包囲される前に夜陰に紛れて慌てて脱出。
関ヶ原で陣を整えて取りあえず戦闘可能な状態にはしておいた
東軍の方は同士討ちするとまずいから夜間戦闘は避けたのでは

499:人間七七四年
17/09/11 21:02:45.29 E4gjPWE7.net
大津城攻めの軍勢との合流を考えていたとか

500:人間七七四年
17/09/11 21:10:09.26 /yIZ+fV7.net
>>484
『旧記雑録』は「図書館向けデジタル化資料送信サービス」で閲覧可能
URLリンク(www.ndl.go.jp)

501:人間七七四年
17/09/11 21:18:57.07 6VwNwB9f.net
秀忠「」

502:人間七七四年
17/09/11 21:22:17.65 DRNBmDel.net
>>497
>>498
>>499
それぞれ在り得る解釈だと思う。
ただし、大垣城が包囲されてるのに2週間も放置した西軍てどうよ?
田辺城は籠城500人に1万以上(らしい)
大津城は籠城2000人に1万5千でしょ。
前線が包囲されるほど劣勢だったら田辺も大津も包囲戦力だけ
残して大垣周辺に詰めるんじゃないのかな。
私見としては家康が到着するまでは戦力は拮抗程度じゃなかったのかなぁと。
>>500
ありがとさんです。早速見てみます。

503:人間七七四年
17/09/11 21:23:09.22 /yIZ+fV7.net
>>502
一応言うけど、図書館で無いと見れないから

504:人間七七四年
17/09/11 21:30:08.75 DRNBmDel.net
>>503
そうみたいですね。
デジタルコレクションではないのですね。

505:人間七七四年
17/09/11 21:32:58.76 cMzkO7tw.net
あ、囲まれるだけで落とされることはないんだ。と第二第三の大津城が

506:人間七七四年
17/09/11 21:34:15.48 /yIZ+fV7.net
>>504
著作権保護期間なので仕方がないです

507:人間七七四年
17/09/11 21:50:03.58 KyXtiPKv.net
>>501
三成からしたら、いつ来るかわからない秀忠軍もかなりの脅威では
大垣に留まったまま秀忠軍到着で身動きを封じられたまま西軍諸隊を各個撃破されながら飢えるとか最悪ですし

508:人間七七四年
17/09/11 21:53:16.83 E4gjPWE7.net
小早川の動向が定かではないっていうのも西軍の戦略に影を落としてるような
仮に家康の背後を襲って東軍の西上を足止めできたとして小早川が東軍に付いたら
やはり近江との連絡を遮断されてしまう恐れが大きいから

509:人間七七四年
17/09/11 22:42:22.85 DRNBmDel.net
>>507
>>508
西軍は初動は良くても関東勢が転進して来てからは戦略的に完敗している印象だなぁ。
俺、個人的には白峰教授のアンチ家康の執念が苦手なんだけど、
この人の研究って史料を重ねるほどに家康の完勝像が浮かび上がる
気がしてならない。

510:人間七七四年
17/09/11 23:40:44.45 9dqNj2h8.net
真夜中に大規模な戦闘は行わないものってこのスレの少し前に言っているじゃん。
まだ言っているのかよ。
東軍は西軍が動いたのを聞いてから動いたはそれでいいんじゃないの。
三成はマヌケだったというか、ルートを遮断されるのが怖かったのだろう。
松尾山をもう裏切るのを確定している小早川に取られたし。

511:人間七七四年
17/09/12 00:06:24.65 Oj0RNqep.net
>>507
秀忠軍の存在を知っていればね。
家康軍が目の前に来るまで気づかなかったのだから
秀忠軍の存在なんて知らなかったのではないか。
真田との交信は8月10日で終わっているし。

512:人間七七四年
17/09/12 00:10:34.87 Oj0RNqep.net
>>508
あやふやで悪いけど白峰説によると小早川の裏切りは確定的であの地域の最重要拠点
である松尾山を取られたのが大きいみたいなことを書いてあったな。
三成は松尾山をもっと強力な軍勢で固めておくべきだったんだよな。

513:人間七七四年
17/09/12 00:20:33.43 jrqBmuv0.net
松尾新城は二層三階の天守閣をもち、本丸、西の丸、佐渡丸、石見丸、紀伊丸、越中丸が設営された大規模な要塞である

514:人間七七四年
17/09/12 01:53:38.54 6C62tfm1.net
基本的に徳川史観は強敵○○をブッ倒した神君家康公はネ申!!理論だから
実体を暴くと実は余裕のよっちゃんイカだったというのは想像に難くなかったな

515:人間七七四年
17/09/12 03:50:10.72 Uyb5DszF.net
なんか掘れば掘るほど関ヶ原本戦消化試合説っぽくなってしまうな

516:人間七七四年
17/09/12 12:54:11.88 ajAVKt/+.net
輝元の兵は大坂城に何人くらいいたのかな。

517:人間七七四年
17/09/12 13:05:41.01 TRT+0UJw.net
余裕すぎて秀忠を待つ猶予すらなくなって
結果的に豊臣恩顧の武将らに多くの恩賞を与える羽目になったという

518:人間七七四年
17/09/12 13:31:17.77 6C62tfm1.net
そのばら撒いた恩賞を改易で取り返す将軍秀忠ぐう有能

519:人間七七四年
17/09/12 14:11:26.17 ajAVKt/+.net
豊臣恩顧の武将に手柄を立てさせて所領を与えたから豊臣恩顧はその時は利用されただけということに気付かなかったんじゃん。
関ヶ原で手柄も領土も徳川武将に与えたらあとで揉めるに決まっている。
笠谷とかいう学者もそうだが家康の高等戦略を分かっていないよね。

520:人間七七四年
17/09/12 14:14:14.38 pg+BwzUM.net
ただ公正だっただけやろ

521:人間七七四年
17/09/12 14:17:42.00 ajAVKt/+.net
福島なんて関ヶ原のとき自分の家来が侮辱を受けて切腹したから徳川の旗本を切腹しろと要求して通したんだろう。
あとからだと考えられないけど、この時家康は我慢していたんだろうな。

522:人間七七四年
17/09/12 15:04:45.26 qolPM7bT.net
まだ豊臣体制だった
その時のこともあってか
徹底的にマークされるようになった

523:人間七七四年
17/09/12 17:31:04.68 5H6tJUSN.net
普通に徳川の軍勢も活躍しているから問題ないでしょ
豊臣恩顧「しか」活躍していないなんて根拠ないし
豊臣恩顧「が」活躍したのは外様が先鋒という慣例上当然だし

524:人間七七四年
17/09/12 18:07:08.27 2gXu+m0A.net
東軍としては反乱軍を豊臣正規軍が討つ構図だから恩顧が主力なのは当然なんだよね

525:人間七七四年
17/09/12 18:07:30.96 iu1Y7hwi.net
二重公儀論の笠谷氏は外様の加増率が高いと指摘しているが、
徳川家も譜代と息子の大名を含めると600万石相当にはなっている。
加増率では決して劣ってはいない。その後、金山や貿易港の奉行職も掌握。
これ以上取ると独り占めに対する反発が出かねないんではないか。
論功行賞で家康の気にした点は戦後体制をいかに維持していくかだと思うよ。
現実的には改易処分が決まった途端大名の将兵が消滅するわけでもないし、
徳川系の部将に加増したところで、突然訓練済みの軍隊が湧いてくるわけでもない。
関ケ原の戦役では、上杉や毛利のように兵力を温存したまま改易・減封された
大名が多い。もし豊臣恩顧の大名たちが恩賞に不満をもって元西軍と結託すると
徳川の将兵だけでは抑えきれなくなる。占領地を支配し続けるためには豊臣恩顧
大名の訓練済みの軍隊の力も必要だろう。
加増転封された豊臣大名たちは、敵地の占領軍だから支配基盤が弱い。下手を
すれば一揆がおきるから、支配を軌道に乗せるまでは徳川のバックアップが欲しい。
家康にしては、遠方の敵方の領地などという支配コストのかかる土地に徳川の軍事力
を割くのが惜しい。
家康としては覇権を握るためには当面は江戸から京都までを確保出来れば十分だった
のだと思う。上手い事相互利益が成り立つ論功行賞をしたもんだと思うよ。

526:人間七七四年
17/09/12 18:12:07.18 pg+BwzUM.net
史料上豊臣恩顧を狙い撃ちで改易したなんてことは無いからな
譜代も容赦無くバッサバッサな時代で外様は割と手を尽くして残そうとしてる

527:人間七七四年
17/09/12 18:49:24.52 ePqXIWmz.net
>>526
口が裂けても徳川公儀から
そんなこと言えないからな。
お前は豊臣恩顧だから改易すると。

528:人間七七四年
17/09/12 19:31:55.79 5H6tJUSN.net
>>527
譜代の方がより容赦なく改易されているが

529:人間七七四年
17/09/12 19:48:13.58 yOsPm+1R.net
>>523
関ヶ原の時点では豊臣内部の争いじゃないの?
普通はそう思われてるだろうから豊臣恩顧が外様って表現は違和感がある

530:人間七七四年
17/09/12 19:48:29.28 iu1Y7hwi.net
実際のところ、豊臣恩顧で狙い撃ちで改易された疑いがあるのは福島正則ぐらい
じゃないんか。大坂の陣の時には大坂方の蔵米摂取や、一門の大坂参陣を黙認
したり、それまでの態度でそれなりに失点は重ねてるんだよ。
加藤清正の息子の忠広は豊臣滅亡後16年後だから最早関係ないと思うわ。
忠広は相続時に幼少で幕府にテコ入れしてもらいながらなんとか成人まで家が
回るように後見して貰ってるくらい。家康の外孫の婿だし、むしろ徳川大名と
言っていいほど庇護下にある。幕府にその気があればいつでも改易できた。
あとはだいたい無継嗣断絶。

531:人間七七四年
17/09/12 20:09:53.33 kseKzp1w.net
福島家も大名としては改易されたけど、のちに高級旗本として取り立てられているんだよね

532:人間七七四年
17/09/12 20:10:30.24 5H6tJUSN.net
>>529
そういう理屈だと、譜代大名は当時の基準では徳川陪臣になるけど、

533:人間七七四年
17/09/12 20:31:07.49 ePqXIWmz.net
バランスを取りながら一番厄介なのを潰す賢いやり方だな。

534:人間七七四年
17/09/12 20:39:35.92 jrqBmuv0.net
加藤忠広は、家光と将軍の座を争って命を落とした、駿河大納言忠長卿に近かったとされるうえ、加藤光広が偽造手紙で火遊びをしたため、取り潰しのターゲットになった

535:人間七七四年
17/09/12 21:00:01.26 yOsPm+1R.net
>>532
豊臣からみれば陪臣でいいんじゃない?

536:人間七七四年
17/09/12 22:10:18.44 MuHUW9pU.net
>>531>>534
俗説とかだと徳川の陰謀で改易された豊臣恩顧の大名と言うと
福島と両加藤がよく名前が挙がるけど、加藤嘉明の家系の方は
明治維新まで近江水口の大名として続いているんだよな
三成の息子達だって助命されてるし

537:人間七七四年
17/09/12 22:20:49.59 45HDMU9R.net
両加藤は藤堂高虎が死んで庇ってくれる人が居なくなったからな

538:人間七七四年
17/09/12 22:25:01.46 5H6tJUSN.net
>>535
豊臣からの視点が全国的なのは関ヶ原合戦までで、
加増後はもう違うし

539:人間七七四年
17/09/12 23:02:02.50 iu1Y7hwi.net
加藤嘉明は家康外孫の蒲生忠知と入れ替わりで会津43万石を任されてるしな、
平和な時代には珍しい栄転、幕府が敵視してたらそんな矛盾したことはしない。
息子の明成の改易は家光時代だし、原因は豊臣系とは無関係だと思う。

540:人間七七四年
17/09/13 00:09:15.60 2oeaCXco.net
熊本加藤、福島の跡には細川浅野が加増転封やでな。豊臣恩顧の力をそぐなんてやってないな

541:人間七七四年
17/09/13 00:42:50.06 RlELXajZ.net
豊前小倉37万石の細川家に加増の打診があったが、豊前のまま加増、筑前に転封、長門周防に転封、肥後に転封のいくつかの選択肢があった

542:人間七七四年
17/09/13 03:09:51.22 HVCG2dBe.net
両加藤と福島で約150万石を回収出来たんだろうw
まあ、これだけ回収出来ればあとの雑魚はどうでもいいよな。
3人とも7本か。
まあ、同じ豊臣恩顧と言ってもこいつらと細川は性格が全然違うよな。
浅野も長政が冤罪で隠居してからは家康に近侍していたらしいし。

543:人間七七四年
17/09/13 03:16:41.76 HVCG2dBe.net
まあ、福島は置いとくとして両加藤の後継者は両方とも暗愚だったらしいな。
秀吉の子飼なんてアホが多いから潰されたのは偶然かもしれないけど、
そもそもが大名になる血筋ではなかったのかもしれないな。

544:人間七七四年
17/09/13 20:29:26.45 /Om8WE09.net
>>476
黒田基樹によると片桐家の大坂城での権限は大きく
秀頼の書状の添状発給者など取次者が見える131通の内
片桐家が取次を務めているのが121通(内且元が100通
弟の貞隆が21通)で大坂城門の番所の7カ所の内
6カ所を片桐家が管理(うち5カ所を且元が、1カ所を貞隆が管理
ちなみに残り1カ所は有楽が管理)してる有様で
この片桐家が家康の管理下なら豊臣はとても公儀とは言えないだろう

545:人間七七四年
17/09/13 20:39:13.65 bLgvrIo0.net
父が貴族の細川、腐っても武士階級の黒田と違って
農民の加藤や福島ではね
まともな教育もできてないだろうし改易も仕方ない
土民が一時でも良い夢を見れた・・・というべきか

546:人間七七四年
17/09/13 22:08:31.28 avTxsCrX.net
>>544
そんなパワーバランスなのによく二回も反抗したな
浅間山荘かよ

547:人間七七四年
17/09/13 23:14:14.10 axli7Sqv.net
大坂の陣で江戸留め置きされたのは
福島正則・黒田長政・加藤嘉明だっけか。
特に黒田は何度も誓詞提出させた上での江戸留め置きで
どんだけ警戒されてたんだよって言う

548:人間七七四年
17/09/14 02:07:34.06 D1efsoX1.net
そういう>545の家柄は旧華族様だったりするのかしらん?

549:人間七七四年
17/09/14 06:38:44.65 6dzt0Mmf.net
sageなしから荒らすのは菅沼の手口だと言うのに...

550:人間七七四年
17/09/14 07:42:50.58 hSqk/95k.net
黒田なんか忠臣なのに…

551:人間七七四年
17/09/14 09:41:48.80 UKWN3A4P.net
黒田は黒田騒動の時長政のおかげで改易避けられたし
大坂の陣でも藩としては忠之が代わりに出陣してるしなぁ

552:人間七七四年
17/09/14 10:22:23.79 zxx4eeTQ.net
>>545
貴族
武士
農民
土民
おまえ階級を表す言葉の使い方全部間違えてるぞ

553:人間七七四年
17/09/14 12:09:33.54 0l5orMPC.net
>父が貴族の細川
細川澄之だな…

554:人間七七四年
17/09/14 18:55:34.02 c6aQE1nV.net
加藤清正の息子は熊本城を恐れられてでっち上げで潰されたのだろうな。
熊本城は要塞みたいなものだからな。あんなのを暗愚の武将に住ませたら
怖いよな。
加藤清正は身分不相応の城を作って子孫が没落したということかもしれない。

555:人間七七四年
17/09/14 19:18:55.01 iI4LLE4q.net
加藤嘉明は、関ヶ原の恩賞が10万石から20万石と、パッとしないことに不服を持ち、本多正信に文句を言ったらしいが、貴殿が大禄を食めば必ず禍を招く、といって慰留された
25年経ってから会津若松に石高倍増で40万石にて移転した。正信の危惧が的中したわけでもなかろうが、息子の代で没落してしまった

556:人間七七四年
17/09/14 19:30:38.02 xV+UtLO9.net
>>554
熊本城を恐れるねぇ。
堅城かもしれんけど地勢的にそんなに要地じゃないんだよなぁ。
代々譜代の名門が入った姫路とか大和郡山なんかと比べると
外様の細川に任せっぱなしだったことを考えると、幕府が
そこまで気にしたとは思えないけど。
家光の時代になると豊臣の残滓とかは大した問題じゃなくて
本当の脅威は身内になってくる。徳川忠長とか御三家とか。
忠広の場合は秀忠の死去、忠長の蟄居と同年だから、
自身がターゲットというより忠長の粛清に巻き込まれたんだろう。

557:人間七七四年
17/09/14 20:23:50.03 zxx4eeTQ.net
熊本城はほぼ対薩摩専用で、薩摩方面以外の防御はガバガバ

558:人間七七四年
17/09/14 20:34:26.89 SKGUBDiX.net
清正は島津大嫌いだったみたいだしな。
伊集院支援してるし、関ヶ原後の島津討伐も加藤黒田連合軍だけで実行する気満々だったし。
家康のストップ指示で取り止めたけど、
井伊相手に盛大不満ぶちまけてるしな。

559:人間七七四年
17/09/14 20:52:28.08 cdFbG2hs.net
でも、細川氏の移封後の熊本城は
修理を頻繁にしてような…

560:人間七七四年
17/09/14 21:03:12.60 zxx4eeTQ.net
つーか清正時代の熊本城は、ほぼ今の本丸だけの比較的小規模な城。現在の規模に拡張されたのは細川時代

561:人間七七四年
17/09/14 22:07:37.73 rJ8KBWQS.net
織田上総高ころびの安国寺も自分の未来は予見できなかったが
鬼上官も国許で何やってたんだろうな。 如水ばかり目立ってw

562:人間七七四年
17/09/14 22:24:32.75 xV+UtLO9.net
>>560
本丸というと語弊があるな。
だいたい震災前の有料区間が清正時代。
櫨方門から五連の桝形を連ねた大手通路は清正の傑作。
決して小さな城ではないが、敷地面積をほとんど石垣の起伏と
通路が占めてしまって居住スペースが非常に狭かった。
平和な時代の政庁には全く不向きだったので、細川時代には
平城の二の丸、三の丸が整備された。

563:人間七七四年
17/09/15 01:25:18.12 Reb27X8A.net
西南戦争で燃えてアレしたらしいねw

564:人間七七四年
17/09/15 06:07:12.82 PVUrhvOC.net
sageなしから荒らすのは菅沼の手口だと言うのに...

565:人間七七四年
17/09/15 08:44:53.02 9VUU57ej.net
白川新説で思ったけど、西軍の大垣〜松尾山〜南宮山のラインが防衛線にするには頼りなさすぎない?
もっと他で迎撃すればよかったのに思うけど、近江は守りにくいんですかね

566:人間七七四年
17/09/15 10:47:31.12 vKSxZ6mC.net
三成が自領を荒らされるのを嫌ったんでしょう

567:人間七七四年
17/09/15 12:08:56.43 6j2TuJ3+.net
長浜-佐和山ラインまで下がっても有利になる理由が見当たらん
瀬田まで下がれば大津包囲軍と合流できるし大阪も近くなるがもうただの撤退レベルやし

568:人間七七四年
17/09/15 12:12:39.85 aY7SC4kI.net
東からの敵軍に近江に侵入された畿内の政権は大半が崩壊している

569:人間七七四年
17/09/15 12:31:29.96 /u2lyUEE.net
佐和山まで下がると伊勢伊賀大和方面がカバーできなくなるからじゃないの

570:人間七七四年
17/09/15 12:36:49.91 udyCSoV4.net
関ヶ原は伝統的な要衝

571:人間七七四年
17/09/15 12:41:32.59 1CqQXk+D.net
>>565
どの時点かによるけど、大垣と赤坂で戦力が拮抗している状況で
大垣城を捨てる選択をすると士気・威信にかなり悪影響だと思う。
離反者も出やすくなる。
関ヶ原は古来不破の関があった場所で、東山道を進む敵を迎撃するには
悪くない地形ではある。隘路だから寡兵でも包囲される心配が薄い。
松尾山に信用のできる者が入っていれば固かっただろうね。
できるだけ大垣で粘って各所の西軍の集結を待つつもりだったんだろ。
しかし先に到着したのは家康軍だったと。
家康が着陣した後では、大垣から撤退するつもりだったかもしれんね。
関ケ原の合戦は西軍が意図した決戦ではなくて、繰り引きする西軍を
東軍が補足殲滅したものとする見解もある。

572:人間七七四年
17/09/15 13:27:28.28 KkWSsLUV.net
>>556
熊本が重要拠点でなくてもこんなとこで
謀反お起こしたりキリシタンに奪われたら大変だろう。
それと本丸は居住性を無視した
要塞なみの防御力だつたらしい。

573:人間七七四年
17/09/15 16:03:07.92 zU1tlw9o.net
>>572
>謀反お起こしたりキリシタンに奪われたら大変だろう。
どこでも大変だとおもう

574:人間七七四年
17/09/15 18:15:00.61 1CqQXk+D.net
>>572
>>573
加藤忠広の改易はそもそも島原の乱がおこる前や。
キリシタン対策をして、別のところで起きた。
すげえズレた先見の明だったな。

575:人間七七四年
17/09/15 18:17:03.99 6j2TuJ3+.net
熊本にそんなにキリシタン居るんかい?

576:人間七七四年
17/09/15 18:58:13.68 zU1tlw9o.net
>>575
天草は熊本の対岸で同じ肥後国だからかな?
まあ、どこだろうと謀反おきたりキリシタンに占拠されたら
大変だなあと思っただけで…
加藤家は普通に統治能力不足で改易されただけだとおもうわ

577:人間七七四年
17/09/15 20:47:46.31 FI+VvkX2.net
藤堂高虎は肥後熊本藩加藤家、讃岐高松藩生駒家、会津若松藩蒲生家など、多数の外様大名の政務輔翼の役割を担当したが、高虎が死去すると皆さん改易

578:人間七七四年
17/09/15 20:56:04.78 OQEtQBII.net
>575
小西旧領もあるから細川時代にも影響は当然残ってた模様

579:人間七七四年
17/09/15 21:20:33.78 vze0jST7.net
戦友たちの遺した二世三世を守っていた・・・というのは高虎らしくないな
幕府の命で、自分の死後にまとめて処分できるように暗躍していたんだろう
そういう人間だよ彼は
出世のためなら自分以外の人間を全て売り渡す人非人だ

580:人間七七四年
17/09/15 21:23:27.94 6j2TuJ3+.net
小説かな

581:人間七七四年
17/09/15 22:54:37.81 1CqQXk+D.net
そもそも蒲生家は無継嗣断絶
家康の外孫の家系で池田家並みの扱い。名字だけで判断する奴ぁ勉強が足らん。
蒲生秀行は家康の三女振姫の婿 関ケ原後家康の後ろ盾で旧領会津60万石に復帰
蒲生忠郷、忠知は二人の息子、家康の外孫。秀行は1612年30歳で病死。
忠郷相続時は10歳で60万石の差配は困難だったが、家康の肝煎りで存続。
1627年 忠郷病死 疱瘡と伝わる 継嗣なし 
末期養子の禁の原則に反して弟忠知が継承、会津60万石から松山24万石に
1632年 藤堂高虎死去
1634年 忠知病死 27歳 継嗣なしにつき除封
毒殺だとでもいうのでなければ蒲生家の除封と高虎や幕府の意向は関係ないと思うぞ。

582:人間七七四年
17/09/16 01:06:21.80 g6iQ0YwS.net
sageなしから荒らすのは菅沼の手口だと言うのに...

583:人間七七四年
17/09/16 18:12:05.53 AL4M0uQP.net
結局徳川と信長秀吉の差は譜代家臣の扱いだったような気がするな
バンバンよそから引き抜く、育てていくって改革が死後を考えると結局は上手く回らなかった
個人には従順でも家には仕えてくれない奴等
北條今川武田など滅亡後の人材拾いも怠らなかった。つかそれ自体北條のパクりだよな

584:人間七七四年
17/09/16 18:24:13.34 b0dr/KQI.net
北条もある意味、今川のパクリだし、武田も
全ては今川に通じる

585:人間七七四年
17/09/16 18:40:35.74 J9kwqrSX.net
秀吉の場合、大名の陪臣でこれぞと思った武将を独立の大名にしたり、豊臣姓を乱発したりするのがせいぜいだった
七本槍も実際の活躍の有無より俺にも直臣がいます的な宣伝目当てだったし

586:人間七七四年
17/09/16 18:53:25.18 GRuAJ6Jq.net
豊臣性乱発ってありがたみ全然ないよな
現代の我らもほとんど触れないじゃん?いまひとつだな

587:人間七七四年
17/09/16 18:58:21.11 ZV6/dxJa.net
>>583
徳川だって、井伊とかの今川・武田の旧臣も取り込んでるよ。
全部譜代だけで回してたわけじゃない。

588:人間七七四年
17/09/17 11:56:28.21 RGtcI4lK.net
笠谷の関ヶ原を読んだけど、笠原の二重公儀制説って噴飯ものだったな。
あんなの秀吉厨のアホな関西人でも2chに書かかない代物で突っ込む気にもならないけど、
笠原はあの説をみんなに笑われて撤回したのかね。
笠原は兵庫県出身で京都大らしいけど、関西人は変なバイアスが掛かってこういう作業には
向かないよな。
もしくは歴史学者のレベルが著しく低いのか。
笠原は二重公儀制を唱えるなら公儀というものはどういうものか、ある程度の定義をしない
と話が混乱するだけだよな。笠原自身が公儀とは何かという認識が曖昧で話が二条城で
どっちが上座というかどうでもいい話で空中戦をしているマヌケな感じだよな。
そもそも笠原は権威と権力の違いを分かっていないよな。

589:人間七七四年
17/09/17 12:19:08.67 RGtcI4lK.net
自分は歴史の素人だけど自分の解釈だと関ヶ原以降の豊臣家というのは徳川幕藩体制の初期
にあった特異な存在という感じかな。
笠原が言う豊臣家と他の大名と違い別格の存在だったのは大名でありながら摂関家の
性格も持っていたということだろうな。
秀吉死後はまだ豊臣家に関白就任の優先権があったけど、関ヶ原以降の九条兼孝の
関白就任で豊臣家の優先権は失われて他の摂関家と同列になったと解釈するべきだよな。
それでも大名でありながらも摂関家でもある立場は失っていない。
家康の征夷大将軍任命で武士の棟梁の立場も失われ、秀忠が二代就任ということで
征夷大将軍も徳川家で世襲されるものとなり、結局は家康は豊臣家の持っていた権力ではなく
権威を段階的に落としていってということだよな。
だから大坂の陣では豊臣側に付く大名は誰もいないで徳川家に恨みのある輩衆の集まりで
戦うしかなくなるということだな。
つまり家康は関ヶ原の合戦で権力は手中にしたけど、権威はまだ豊臣家にもあったから、
それを削ぐ動きをしていたということだな。
それを分からずに能天気に二重公儀制とか言っているアホ歴史学者はお目出たいというか
三成なみのアホだな。

590:人間七七四年
17/09/17 12:28:49.56 RGtcI4lK.net
東洋経済の記事で鎌倉幕府の成立は1192年ではないというのが最近の学説で
歴史学は進歩しているみたいな書き方をしていたから読んでいたけど、
単に1192以前に頼朝の政治体制は出来ていたから1192年だはないという論拠らしいけど、
そもそも幕府の定義がされていないから話が曖昧だよな。
何をもって幕府なのかということを書いていねくて、1192年だはないとか言っているマヌケさ。
自分は朝廷から征夷大将軍を任命されたのが幕府の始まりだと思っていたけど、
そうではなければ、そこを突っ込んでもらわないとな。

だけど、一般素人は、鎌倉幕府がいつからというより、鎌倉、室町、江戸を
幕府というけどその共通点と性格の違いとかを知りたいよな。

591:人間七七四年
17/09/17 20:02:57.33 SQZyW1Xo.net
笠谷は福島家改易や肥後加藤家改易の徳川陰謀論を否定したりしたりしているので
豊臣贔屓って訳じゃ無いと思うけど、なんか史料の解釈が偏ってたり、
いまだに古い説を引きずったりしてるところがあるのがなぁ

592:人間七七四年
17/09/17 23:02:35.94 D+PaGkYF.net
笠谷氏は明らかに家康好きだよ。著書のタイトル見ればわかる。
『徳川家康:われ一人腹を切て、万民を助くべし 』(ミネルヴァ日本評伝選)
今年の出版物。
ただ、この方の家康像は仁徳の人なんだよ。
たぶん研究の目標は家康の悪人的イメージを緩和することであって、
その結果家康の武人・政治家としての評価は下がっても良いというスタンス。
笠谷氏の主張する二重公儀論は、家康が一大名になり下がった豊臣家を
イビリ殺したというイメージを覆したくて展開しているように見える。
そのために関ケ原合戦後の徳川家の体制が盤石ではなく、危ういバランスの
上に成り立っていたことを描き出そうとしている。
豊臣家に一定の影響力が残ったことや、関ケ原合戦後の体制が盤石では
なかったことは事実だろうし、納得できる部分もあろうが、二重公儀体制は
豊臣の過大評価であろうし、関ケ原合戦の論功行賞が徳川にとって不本意な
内容であったというのも過小評価だと思う。
実際、後発の研究者たちの提示する一次史料から、関ケ原の合戦の本戦自体は
大して苦戦していないらしいことが分かってきているので、それが論功行賞で
豊臣恩顧有利に働いたとか、200年も続く江戸時代の分権社会を決定づけた
という論理展開には疑義が生じてきている。

593:人間七七四年
17/09/17 23:15:51.18 0LJAT2cV.net
菅沼ポエム劇場だな

594:人間七七四年
17/09/18 08:14:17.58 eHh0hgkW.net
豊臣家を幕藩体制黎明期の例外的な存在として扱うならいいけどな。
この時代に摂関家の大名というのは珍しいからな。
(この時代なのか、どの時代を通じてもか分からないけど)

595:人間七七四年
17/09/18 08:19:35.82 eHh0hgkW.net
自分が思うに江戸時代までの公儀(公権力)の力で大きいのは知行の配分権だよな。
関ヶ原以降家康がそれを掌握したのが大きいよな。
豊臣恩顧に3分の2の領土がいったと言っても、それを配分できるのは
徳川のほぼ独断だからな(まあ、大義とかの理屈はある程度必要だが)。

596:人間七七四年
17/09/18 08:58:34.28 eHh0hgkW.net
3分の1の間違いだなww

597:人間七七四年
17/09/18 10:24:16.35 h0ioN/Wo.net
URLリンク(images-na.ssl-images-amazon.com)
ついにゴップが表紙に!
思えば遠くへ来たもんだ

598:人間七七四年
17/09/18 10:24:47.79 h0ioN/Wo.net
スレチ失礼

599:人間七七四年
17/09/18 22:21:17.52 P5X24paE.net
関ヶ原以降羽柴の苗字をある程度の期間まだ使用していたり「秀」を偏瑋で貰ってたり
祈祷の際豊臣氏の人々を徳川家の人々より優先したりしている大名がいて
それが豊臣の影響がまだあったみたいに言っている人間もいるけど
羽柴の苗字を使用している池田輝政が徳川家の取次をやって近衛信尹がそれはおかしいと
不満を言っているくらいだしなぁ

600:人間七七四年
17/09/18 23:09:58.74 43pK4AT3.net
笠原はちょっと前に自説を集めた本出してたから
二重公儀もそのまま主張してるよね。
あれはあれでまとまってるから読みやすくていいわ。

601:人間七七四年
17/09/19 10:57:05.24 O1Kd/srw.net
>>599
輝政とか家康の婿と福島との先陣争いくらいしか目立った逸話ないのに勝ち組だよね

602:人間七七四年
17/09/22 09:05:07.76 ROqK8qH1.net
家康の関東移封後に秀吉によって東海に配置された大名家の中で、勝ち組は池田と山内くらいか

603:人間七七四年
17/09/22 10:10:26.31 28jNCVD5.net
横須賀の有馬

604:人間七七四年
17/09/24 20:16:35.45 eimyIy9m.net
>>592
家康好きねぇ。なんか作家とか研究者で家康を運が良い
もしくは忍耐が強いだけの凡人にしたがる人が多いからなぁ

605:人間七七四年
17/09/25 10:39:14.49 Yv5QrDSm.net
逆に秀吉死後の政争は一から十まで家康の構想通りっていう、
深謀遠慮の化け物にしたがる人もいるから。
極端な人は何処に出もいる

606:人間七七四年
17/09/25 10:47:50.22 lumtRpD8.net
白峰か

607:人間七七四年
17/09/25 11:37:26.62 ryK1DQ4l.net
家康は戦略慎重、戦術大胆の人だから

608:人間七七四年
17/09/25 22:08:30.97 SVc7IQLl.net
戦場では結構短期らしいからな、家康
爪かじったり、手がボロボロになるまで
鞍叩いたり、前線に顔出したりしたらしいし
それらを考えると、関ヶ原で使番に切りつけたり
旗の竿切ったりしても全然おかしくはないんだよな

609:人間七七四年
17/09/25 23:43:43.93 48uk4Xk/.net
そういうのは大胆の証じゃなく、むしろ逆だな。

610:人間七七四年
17/09/26 12:30:07.31 ekvlaez4.net
黒田家譜のフィクションなのにな

611:人間七七四年
17/09/26 13:05:52.69 GEUUzO/d.net
板坂卜斎覚書が出典だよ、使番や旗竿は

612:人間七七四年
17/09/26 17:51:48.70 MoqyhZHA.net
昨今では家康は、いわゆる関ヶ原の決戦の時はまだ進軍中だった説が出ていて、一次史料から見るとこれが信憑性高く、
ということは「板坂卜斎覚書」はフィクションだという結論に成る

613:人間七七四年
17/09/26 18:43:32.01 GEUUzO/d.net
家康が指揮を執った明確な記述がないから、一次史料に無いというのは、
白峰がよくやる論法
小山評定否定でも同じことした

614:人間七七四年
17/09/26 18:57:36.99 i9IUUtQh.net
実際小山評定はあったかどうかわからないけどな

615:人間七七四年
17/09/26 20:51:48.64 nZiiPfg9.net
>>612
その説は初めて聞いた。
進軍中ってどこを?
さすがに岡山の本陣には到着してるよね
>>613
白峰氏は通説否定までの論証はそれなりに見るべきものがある。
だが、自分の見解を述べる段では論理飛躍が激しい。

616:人間七七四年
17/09/26 21:44:26.76 GEUUzO/d.net
>>614
小山で何らかの軍議があり、結果として会津征伐中止と上洛が決定したのは、
事実と見られこれだけ事実だと、後の逸話が史実が否かは大した問題ではない

617:人間七七四年
17/09/26 22:04:32.88 i9IUUtQh.net
5W1Hがはっきりしない手紙1通でそう結論付けるのこそこじつけ

618:人間七七四年
17/09/26 23:22:37.85 GEUUzO/d.net
>>617
そんな懇切丁寧な史料が常にあるという歴史認識なら、
白峰の大学教授という看板も随分と安くなったものだな

619:人間七七四年
17/09/27 00:50:44.20 oHqeGRVL.net
白峰も地に落ちたものだな

620:人間七七四年
17/09/27 07:15:12.05 DqUUKOTt.net
白峰氏の史料解釈はいつもおかしいからなー。
関ヶ原関連だと発給者の違う書状で地名が統一的であるべきだと前提が異常。
そして言葉遊びに成り下がっていると言うお粗末さ。

621:人間七七四年
17/09/27 07:46:38.79 vQvWn2Cr.net
発想が2ちゃんねる以下なんだよね
分析はいいんで分析専門にしたほうがいい

622:人間七七四年
17/09/27 07:57:59.02 sqTYPIB+.net
ここは白峰って出た瞬間に必死で叩くキチガイがはりついてんからね

623:人間七七四年
17/09/27 08:14:38.43 PoBZAyK0.net
そりゃ、ネット界隈でそんなこと主張したら、即座に袋叩きされる根拠で、
新説を語るんだもん、しかも大学教授が論文で
矢部健太郎も同類だけど

624:人間七七四年
17/09/27 08:26:32.77 DqUUKOTt.net
>>622
むしろ白峰氏の説をネタにして荒らしてやろってケースばかりなのだが

625:人間七七四年
17/09/27 08:31:47.05 sqTYPIB+.net
ほらねw

626:人間七七四年
17/09/27 09:06:09.91 NG+R9rNT.net
教授とは思えない
というか判断能力が低い

627:人間七七四年
17/09/27 09:10:11.66 r6PC5JI+.net
>>625
日本語理解してる?

628:人間七七四年
17/09/27 10:00:16.36 GAh7jTj7.net
白峰は仕方ないだろ
上杉征伐から西上への変更と意思決定がどのように行われたかを何ら明らかにするものではなく、
小山評定の家康がカッコよすぎるから否定したいという動機しか見当たらないから、
2ちゃんねる以下と評されるのは仕方ない

629:人間七七四年
17/09/27 12:40:53.87 Dk1wt+Ts.net
問鉄砲の件とかの通説否定の史料検証は割と良いと思うけどね白峰さん。
ただ小山会議のアレは引っ込みが付かなくなってるだけな気がすw

630:人間七七四年
17/09/27 12:55:27.95 oHqeGRVL.net
小山評定は石田が大谷ら与党を誘って兵をあげたことを前提にした会議で、二大老三奉行が同心したことを前提にしたものでは無かった
それゆえに家康は江戸に留まって清洲の兵が進軍して隔意なきことを示すのを待っていたのである

631:人間七七四年
17/09/27 12:59:09.17 my195MJK.net
白峰説は専用スレがあるからそこでやれ
毎回ぶり返すのも同じ奴なんだろうけど付き合うのもばかばかしい

632:人間七七四年
17/09/27 13:02:44.17 sqTYPIB+.net
いやココが白峰スレだからw
白峰の著作がスレタイじゃんww

633:人間七七四年
17/09/27 14:23:48.44 4yrL+j13.net
白峰氏の関ヶ原に関する主張って
小山評定はなく、東軍の西上は家康の一決で決まった
西軍が官軍
小早川の開戦当初から東軍
問鉄砲はなかった
大谷軍は開戦初期に挟撃され全滅、西軍諸将の中で大谷だけ戦死なのはその為
戦場が移動して西軍も早々に敗北
あたりかな

634:人間七七四年
17/09/27 14:27:57.48 sqTYPIB+.net
注目に値する
 小山評定はない
 小早川の開戦当初から東軍
 問鉄砲はなかった
 大谷軍は開戦初期に挟撃され全滅
 戦場が移動して西軍も早々に敗北
憶測がすぎる
 西軍が官軍
 東軍の西上は家康の一決で決まった

635:人間七七四年
17/09/27 15:20:30.04 XLnJOVji.net
官軍はない
それとも朝廷が討伐命令出したのかな

636:人間七七四年
17/09/27 21:00:32.30 Owu0QUa+.net
>>634
上杉征伐の時家康は増田等の反対を押し切り協議無しで決めたんだから
中止も協議無しで行えるはずって理屈らしいけど、反対を押し切ったって時点で
一応協議はしたんじゃないのかと思うんだけどね

637:人間七七四年
17/09/28 09:38:34.74 ERokUJT/.net
>>633
関ヶ原エリアで大谷隊が正面から来た家康等東軍主力と
開戦早々裏切り背後から来た小早川に挟撃され全滅し
その後戦場が西軍本隊のいる山中エリアに移動し
巳の刻に戦闘が始まり午の刻には終わったって主張だよな
無理はないかなって感じだが、どうだろう

638:人間七七四年
17/09/28 10:18:40.85 wMLCMSJ8.net
通説配置の大本で、翌年に書かれた太田和泉守記をまるっと無視している。

639:人間七七四年
17/09/28 12:06:11.57 lpdfEDMS.net
>>636
協議はあったかもしれないけどどこにだれが集まって何を話したかまったく明確な資料はない

640:人間七七四年
17/09/28 12:09:16.60 lpdfEDMS.net
すくなくとも巷間に流布してるような福島が口火を切って豊臣恩顧の大名がいっせいに同調したなんていう小山評定は全く根拠がない

641:人間七七四年
17/09/28 16:58:04.61 wMLCMSJ8.net
>>639
書状の前後から小山と言え、内容は会津征伐中止と反転上洛となるから、
大筋は通説通り

642:人間七七四年
17/09/29 14:10:21.07 Oy+0d93z.net
本多とか旧説は、勝った、って感じだけど
白峰陣営は、一次史料が出ない限り引き分け、ってふいんきだね。

643:人間七七四年
17/09/29 18:04:25.32 ueExpmmW.net
>>641
こじつけなんだよ

644:人間七七四年
17/09/29 18:26:29.86 BQPh03MH.net
>>643
難癖なんだよ
通説に沿う一次史料があるのだから、通説の大筋は認めろ

645:人間七七四年
17/09/29 18:27:34.65 ukk5EXnD.net
>>642
白峰氏の主張は崩されたままだろうに。

646:人間七七四年
17/09/29 19:46:51.40 ueExpmmW.net
>>644
5W1Hのどれも不明な1次資料を好きなように解釈してるだけ

647:人間七七四年
17/09/29 20:16:35.20 uh2Dg91z.net
>>635
官軍というか公儀として政権を成立させたって主張だな
論拠としては
石田・毛利連合政権成立の論拠
【1】豊臣秀吉の後継者である豊臣秀頼を直接推戴した
【2】毛利輝元が公儀の城郭である大坂城に入城して豊臣秀頼を直接補佐した
【3】自らを「公儀」と称した
【4】政権の所在地である大坂を中心とした上方を完全に掌握していた
【5】大名(細川忠興)を改易にして、近隣の諸大名に城受け取りを命じた
【6】大名に所領(知行)を与えた
主張のソースが
URLリンク(repo.beppu-u.ac.jp)

648:人間七七四年
17/09/29 21:36:28.62 BQPh03MH.net
>>646
そんな都合の良い史料があるかw

649:人間七七四年
17/09/29 21:36:44.42 OgluVtUn.net
戦乱期の公儀論なんて研究者の贔屓陣営を正統化したいだけの詭弁に過ぎんよ。
ふつうは政権成立はある一定期主体的な統治ができなければ認められないだろう。
前政権を打倒したわけでもないし、挙兵依頼3か月も維持できなかった西軍を公儀
と言えるのかね。端的に言って高校教科書に石田・毛利政権が誕生したなんて言える
レベルなのか。

650:人間七七四年
17/09/29 22:33:14.23 NYe+rA4L.net
>>647
官軍ではないという根拠だな
しかも秀頼の承認を得ていないから
反乱軍

651:人間七七四年
17/09/29 23:00:35.56 lMUnoYI8.net
大坂城は家康の西の丸を占拠しただけで本丸には手出し出来なかっただろ

652:人間七七四年
17/09/30 20:01:27.22 xlAD7p47.net
白峰氏の主張ほとんど鵜呑みにして記事書いてる人がいるね
関ヶ原の戦い「よく聞く通説」はウソだらけだ
URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)

653:人間七七四年
17/09/30 20:11:58.07 55/FIpJB.net
実際ウソだらけだろ

654:人間七七四年
17/09/30 20:38:07.93 lOzyOqBP.net
これは酷い

655:人間七七四年
17/09/30 21:52:27.03 +mhmOnGB.net
>>652
三成側が公儀で家康が完全に悪者(反逆者)で秀忠の真田攻めは予定の行動とも言えるが
遅参の理由は秀忠が稚拙せいとか、白峰並みの西軍寄りの史料解釈だな

656:人間七七四年
17/09/30 21:57:09.51 mNcL2Go5.net
東洋経済はけっこう酷い歴史コラムを書いてるよな。
色々読んでる人は失笑する程度だけど、
一般紙に載るってのは妙な拡散をするから嫌な感じだ。

657:人間七七四年
17/09/30 22:26:47.82 Pbll4OZ1.net
>>647
>【3】自らを「公儀」と称した
これは西軍が犯した致命的なミスだな
豊臣の建前としては、秀頼そのものが公儀であり、大老・奉行は公儀たる秀頼をサポートしているだけという形式だ
確かに現実は大老・奉行が公儀を形成し、秀頼など存在しなくてもいい置物でしかないが
それでは秀頼の存在価値に傷がつくから言ってはいけないタブーなのに
西軍は大老・奉行が公儀であり秀頼は単なる道具であるとタブーに踏み込んでしまった
家康に対抗しようとするあまり墓穴を掘り謀反人へと堕落してしまったのが西軍の敗因とも言える


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