戦国ちょっと悪い話44 at SENGOKU
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850:人間七七四年
17/06/08 12:23:37.17 R5hVJ1jy.net
>>843
それ2ちゃん発信じゃねえかw

851:人間七七四年
17/06/08 13:11:42.08 dyN/USPU.net
正宗の包丁なかったかな?
刀鍛冶が嫌になったころに作ったやつ
昔話か何かにあったような

852:人間七七四年
17/06/08 14:16:02.57 qsXeTEam.net
>>851
包丁正宗じゃなくて、ほんとに正宗作の包丁ってことかい?

853:人間七七四年
17/06/09 10:42:45.49 McYISloz.net
日本昔話に村正のナタって話があったな

854:人間七七四年
17/06/09 12:15:26.84 eAHh5iIP.net
政宗なら正宗の刀でも包丁にしそう

855:人間七七四年
17/06/09 13:24:50.81 sVQGeu1h.net
>>854
包丁で指切ったら包丁を手打ちにしそう

856:人間七七四年
17/06/09 19:55:42.49 WLD6xBxc.net
たまたま近くにいただけの小姓を包丁もって追い回すんじゃないかな

857:人間七七四年
17/06/09 22:44:26.17 Oz51GCCN.net
市松なら、その小姓の嫁さんに怒鳴られて包丁を下賜するハメになるところが目に浮かぶ。

858:人間七七四年
17/06/10 04:47:37.43 OWDQQE2A.net
この掃部頭殿(井伊直孝)は大坂の御陣の時、家来の者が槍を合わせている
に付き、高い場所に上り、馬から下り立って槍を杖について見物しておられた。

そこへ本多安房守(政重)が足軽2百人ばかりを召し連れてやって来て挨拶を
致したところ、掃部頭殿は目の前に気を取られたのか挨拶を返さなかった。

すると安房守は、「掃部は腰が抜けたのか? 人の挨拶も聞き付けぬとは!」と
大声で憚りも無く申して、罷り帰った。

その後、対面の折に挨拶したとの旨、癸巳正月11日の夜に(松雲公前田綱紀
より)拝聴仕る。それ以後も度々この話を仰せでござった。

―『松雲公御夜話』

859:「南蛮寺興廃記」3
17/06/12 20:13:59.55 NCJxUsnF.net
「南蛮寺興廃記」より、キリスト教布教の様子

是を伝聞して五畿内は勿論、四国・中国・京近国来集すること夥し。
南蛮寺は日々群衆を成すと雖も宗に帰伏せざる者には本尊を拝することなし
南蛮寺には此の群衆の人にはいささかも構わず洛中洛外へ人を出し或いは
山野の辻堂橋の下などに至るまで非人・乞食等の大病難病等の者を尋ね捜し
召し連れ来たらしめ風呂に入れて五体を清め、衣服を与えて之を暖め、
療養しける程に昨日の乞食、今日は唐織の衣服を身に纏い病も自らこころよく
快復せるたぐい多し。なかんずく癩・瘡等の難病、南蛮流の外療を受け
数月をへずして全快し誠の仏菩薩今世に出現し救世済度したまうなりと
近国貧賤にて我が力に叶わざる者、或いは諸医の療養に治すこと能わざる者
貴賤ともに南蛮寺に群衆すること斜めならざりけり。
両イルマン悉く是を南蛮寺に留めて良薬を施し医療半ばに快復する病人共を率い
是等に説いて曰く、「そもそも我が本国は四十二箇国といえども此の国の類に非ず。大国なり。
然れども天に帝釈を敬うが故に貧賤の者なく難病に侵さるる者なし。
我が国王仁慈にて国民を憐れみ恵む。其れ世界の諸国此の天帝を崇敬して貧苦病難の
患を逃れ現安後楽の宗法を知らず。今生の苦患のみならず未来永劫の罪に陥ることを
憐れみて今我等の如き者を世界に渡して此の天帝の法を弘通せしたまう所なり。
此の日本等の如きは天帝を敬うことを知らざるが故に貧賤なる者多し。
是より起きて邪欲深く盗賊悪党をなし、或いは難病等の患いに沈みて未来善所の願も
叶わざれば、貧なる時は邪起こる。邪起こる故に難病又身を責む。
されば今生の病は我等の療養を以て治するも未来の難病は治する能わず。
身の不浄は洗えども心の不浄は大海の潮にもさらし尽きず。
然るに今世に邪なる事をなさずと雖も悪病貧苦に責めらるる者は前生の悪業のしからしむる所なり。
しかれば其の前生を果たさずるは永劫の罪遁るること能わず、各々心を清浄にしめ
未来の悪縁遁るるや遁れざるや此の鏡を拝せらるべし」とて三世鏡と号する宝鏡を恭しく
掛けて拝せしむ。此の者共心に信心を起こし未来の仏を見ること誠に有り難きことなり。

860:「南蛮寺興廃記」3
17/06/12 20:16:10.07 NCJxUsnF.net
是を拝みけるに或いは牛馬鳥獣の形、或いは醜偏形の類、鏡に映りて顕れければ
此の者も驚き怖れ泣き悲しみ天帝の大慈悲を垂れて未来の罪を助けさせたまえと両イルマンに
嘆きければ両イルマン曰く「各々嘆き悲しむ所、最もなり。天帝を崇敬する所の真言を授け
与うべし。心を清浄にしめ他念なく此の数珠を以て真言を一遍唱えて一粒ごとに繰るべし」と云い
四十二粒ある数珠を与う。陀羅尼文

配後生天破羅韋 増有前生摩呂

七日の間、昼夜悪念を生ぜず此の真言を唱えて両破天連へ拝謁し天帝の宗経を戴き
天帝の御影を拝せば今日の鏡にうつる所の未来の罪業消滅しめ天帝の大慈悲を蒙るべし、と
教化しければ皆同音に真言を唱えて七日信心を凝し昼夜に真言を唱う。
両破天連両イルマン愚蒙を誑かして邪法に陥るること是等の方便なり。
(此の後寛永十五年天草原城攻めの時既に城中同音に唱えたる真言あり)
サンタマリヤ、サンタマリヤ、斯くて七日勤行をいたせば、両イルマン此の者共を
率いて仏殿に至るに美麗荘厳金銀をちりばめ金襴錦の幡翻り。各香薫し渡り光り輝き
真に極楽の七宝荘厳もかくやあらんと思うところに、両破天連、金襴の衣を纏い
仏殿に出、又真言を授けて天帝の宗法を説き畢りて両破天連を拝せしむ。
両イルマン又其の者共を率いて三世の宝鏡を拝せしむるに前度の像に引き換えて
天子の容貌四十二相を具え我が身知らず天土に至る心地にて愚蒙の者共声を放ちて
悦び泣き、両破天連曰く「汝ら七日真言を唱えると雖も心既に改めて天帝を尊敬するが
故に今世にて天上に通達しめ天帝の恵みを得たり。面々決して天帝の尊恩を忘れ奉らず。
たとい今世は火・水・磔・牛裂き・車裂きの苦しみを受けるも其れを以て未来永劫の苦に
替え、今拝し奉る所の天上に至らんと思うべし。
しからば天帝本尊を拝せしめん。
クルスという物を取り出す。此のクルスという者は黄金を以て先二寸四分程にして針を植えたる如く
にして(今の山葵卸という物の如く)二尺計りの柄を付けたる物。
彼の者共の肌を脱がせ彼のクルスを以て脊を抓むしる。骨痛み血流れ出る所の血を以て
左右の手に塗りて両手を合わせて帝釈天の画像を拝せしむ。
(此の南蛮の礼を行うがゆえに日本にて仏を拝する礼と異なりと云えり。生涯の悪を悦ぶ
と云わば未来永劫の苦にかわると云う心なるべし)。
金襴の戸帳を巻き揚げれば容顔美麗なる女体の尊容、懐中に小児を抱き乳を含めたる本尊なり。
玉の冠を戴き、身に七宝の衣を穿きたり。両破天連示して曰く「此の帝釈天は智慧を世界に
降し汝らの悲苦を以て母の子を懐に抱入れ、乳を飲する如く憐れみ恵み給う。
必ず今世を顧みることなかれ、未来永劫をたのみ奉るべしといいければ
多くの者共血まみれの手を合わせて拝して退去す。
また追々集まる所の病人快復を得、難治の者共死する(死せざる?)も数多なり。
大難病にて諸医の力に及ばざる者快復を得たるも三十人に及べる。斯くの如くの方便を
以て追々此の門徒に起伏する者夥し。

新興宗教セミナーのような書かれ方(セミナリオだと学校だ)
※国会図書館デジタルコレクションからの転載なのでコピペではありません。

861:人間七七四年
17/06/12 23:53:28.88 HBYm4LkC.net
寺沢志摩守(広高)曰く
「武士たらん者は一戦の時に、人より勝れた稼ぎをするのは珍しくない事だ。
平常に畳の上の忠功をしようと思ったら各々の『好き』を止めよ。
物に『好き』が過ぎると必ず奉公も疎くなる。
私は秀頼公の御時まで、茶の湯を好いていたが、考えてこれを止めてしまった。
このように言うと武士は武道の方を止めよと聞こえるかもしれないが、そうではない。
常に武を好いていなかったら、戦国ではあまり役に立てない。
ただ自分の業より他の道を求めてすごしてはならないという事だ。」
とのことである。
乱舞・囲碁・双六・俳諧・茶の湯の類を知り過ぎて、
上手になって何の益があろうか。

『武士としては』


賛否両論ありそうな、御説ですがとりあえずこっちに投下

862:人間七七四年
17/06/13 00:52:33.15 96j7pvDR.net
おまえが言うな、とまず思うわな

863:人間七七四年
17/06/13 02:35:53.01 hBpLduh/.net
好きと数奇

864:人間七七四年
17/06/13 14:48:57.43 Ii2xjhyZ.net
キリシタン話の後に寺沢ネタ
因縁深いような

865:人間七七四年
17/06/13 22:36:25.38 VBnBI38R.net
曜変天目とか馬蝗絆はお宝感が半端ない

井戸茶碗とか伊賀焼きとかはゴミ感が半端ない

866:人間七七四年
17/06/13 22:55:11.09 1fDn7Mkq.net
なぜ中国で曜変天目が残らなかったんだろうね

867:人間七七四年
17/06/13 23:38:39.48 fVSM+6Nu.net
トーハクの茶の湯展は素晴らしかったねぇ…

868:人間七七四年
17/06/14 00:15:38.16 7NaUQXst.net
>>865
秀吉乙

869:人間七七四年
17/06/14 04:41:13.13 X0DuNaUp.net
伊賀焼って信長が発見したんだってなあ

870:人間七七四年
17/06/14 10:32:33.42 jpDlM1/L.net
ちょっと何言ってるか分からない

871:人間七七四年
17/06/14 10:48:29.56 wXic2RaU.net
信雄じゃないの?>伊賀焼き(討ち)

872:人間七七四年
17/06/14 18:44:48.75 qrjRLL6v.net
信長は伊賀伊賀守を召し抱えていたからな

873:人間七七四年
17/06/14 20:14:58.28 Tf2AVY7x.net
カッペだった若き信長は畿内の三好家や堺の豪商たちがはまってる
茶の湯に憧れてたのかな

東山御物を収集して自らが将軍義政公と同レベルにある事を
宣伝したいだけだった気もするが

874:人間七七四年
17/06/14 20:51:40.30 QZEctICq.net
茶の湯は親父の影響じゃないのかな

875:「南蛮寺興廃記」4
17/06/15 18:31:46.74 vOUcUOZp.net
「南蛮寺興廃記」より、日本人キリシタンのハビアン、コスモ、ジュモンについて

智慧才覚あって破天連の門弟子と成り愚蒙の者を教化する者三人あり。
一人は生国加賀国の者にして禅家の僧、名を慧春と号す。
此の僧、癩瘡を病み身体破れ膿血溢腫、僧家の交わり叶わず。
其の親、貧賤にして保養することも叶わざりければ乞食となり京都に至り
真葛ヶ原の辺に倒れ臥して在りしを南蛮寺より引取り両イルマン施薬して
数月を歴ける所に癩病漸くに平癒して、遂に全体快復することを得たり。
此の僧大きに悦び誠に不思議の因縁を以て天帝広大の恩恵を蒙り難病忽ちに
全快を得て再び人界の生をまぬがる、此の高恩を報ぜんには縦い粉骨砕身すも
宗門の為にせんこと本望たるべしとて、信心に帰伏す。
(この後に、もともと富豪であったが没落し梅毒にかかった呉服屋安右衛門、
口唇裂のあった百姓善五郎の話があって、同様に信心を起こしている)
両破天連(計理故離(ケリコリ)=グレゴリオ・デ・セスペデスと弥理居須(ヤリイス)=ルイス・フロイス?)、
是等三人が智慧さとく、ことさら博識にして教えに通達せるを大きに悦び、
慧春を梅庵(ハビアン)と号し安右衛門を告須蒙(コスモ)と名付け、善五郎を寿問(ジュモン)と
号して天帝の宗意を伝え追々帰伏の人をして此の三人を以て説法教化して説得せしむるに
和語を以て教諭する故、弁理能通して大いに利益ありければ南蛮寺の法器を得たり。
破天連イルマン悦びあえり。両伴天連、感悦の余り密かに内殿にて奇術を教えるに
此の三人、流水に棹をさすが如くに砲術を伝授して、手拭いを以て馬と見せ、
塵を虚空に投げて鳥となし、枯れ木に花を咲かせ、塊を宝珠とし、虚空に坐し、地に隠れ、
俄に黒雲を出し、雨雪を降す等の術、得ずということなし。
(此の後、南蛮寺で治療してもらった人々が報恩のため全国に布教を進めたことが書かれている)

※ハビアンは不干斎ハビアンで、当初はキリスト教の優秀さを仏教・儒教と比較して書いた「妙貞問答」を著述したが
後に修道女と駆け落ちし破門されたため、反キリスト教の「破提宇子(破・デウス)」を著述。
コスモとジュモンの話の話は過去に果心居士めいた話が出ていた。
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

876:人間七七四年
17/06/15 22:09:35.65 FnLuyGVB.net
バテレンは奇術師だったのか!

877:人間七七四年
17/06/16 01:10:33.75 OT8kP4lS.net
当時ですら魔法使いだの人肉を喰らうだの噂が立ってたくらいだから
江戸時代になればまあこんなもんだろう

878:人間七七四年
17/06/16 14:50:47.22 f8eZnz2g.net
梅毒を持ち込んだ奴等がそれを治療して信心を起こさせる…うーん

879:人間七七四年
17/06/17 01:13:46.04 Utr99RBV.net
伴天連が梅毒を持ち込んだわけじゃない

880:人間七七四年
17/06/17 10:20:45.13 egWO6U9Y.net
>>873
足利義政は意識していたと思う。
蘭奢待も義政が切り取った隣を同じ大きさで切り取ってたし

881:人間七七四年
17/06/17 20:23:17.59 5HyAQoSz.net
中山勘解由が

「後藤又兵衛が”大軍”で籠城しています」

と申し上げると、権現様は

「”大軍”と言うことはふさわしくない。
城中が残らず出てきてもおよそ七万ほどであろう。
そのような考えでは将軍の使番はつとまらん。」

と言われたという。

 味方より多勢であることを指して、”大軍”と言うべきとのことだ。
つまるところ、武士は詞が大事である。


『武士としては』

882:人間七七四年
17/06/17 22:30:12.13 egWO6U9Y.net
北条遺臣の中山兄弟の兄
鬼勘解由の祖父

883:人間七七四年
17/06/18 02:55:43.38 FU0BLAHt.net
>>881
家康も家康で面倒くせーな
事務的な報告なんだから素直に聞いとけ

884:人間七七四年
17/06/18 10:39:22.75 tmlaj5Mn.net
 [上杉]景勝なる者がいる。今は、越後[中]納言と称している。代々、越前・[越]中・[越]後の三州の地に居[城]した。
賊魁(秀吉)が信長に代わるに及び、景勝は、戦いに敗れ、服従を請うた。
秀吉は、出羽、佐渡に景勝を移して[その地を]授け、越後の地を奪って掘里久太郎(堀久太郎)に与えた。
景勝の心は平らかではあり得ず、越後の民もやはり景勝が主であることを望んだ。
 家康が秀吉に代わるに及んで、肥前守(前田利長)と家康が不仲になった。
景勝は、勝手に自分の領地に帰り、肥前守と兵を連ね越後の地を攻奪しようとした。
久太郎は大いに懼れ、数(しばしば)家康に報告した。
家康も根本[の関東]を景勝が襲うかと気にし、数手紙を送って京にもどるように勧めたが、景勝は従わなかった。

<倭人は、みなこう言ったという。
「景勝が、本当に肥前守と兵を連ねて、直ちに家康の根本を擣くとしよう。
家康が戻って[根本である関東を]救援しようとすれば、多分、清正等がいっせいに立ち上がるであろうから、
西京(である大坂)は、自分の所有では無くなるであろう。帰って救わなければ根本がまず敗れ、腹背に敵を受けることになろう。
景勝らが動けば成功しないはずはないが、惜しいかな、景勝らは[愚]鈍・懦[劣]である。必ずや、自ら奮発しようとしないであろう」>
(看羊録)

姜(カンハン、きょうこう)の上杉景勝評

885:人間七七四年
17/06/18 12:46:08.13 chYKDCHe.net
イギリスの歴史研究家ジョン・セルデン(国際法の父グロティウスの「自由海論」に対して
「閉鎖海論」を著し、両者の論争が海洋法誕生のきっかけを作った)所蔵の17世紀前半?に作成された中国地図
URLリンク(seldenmap.bodleian.ox.ac.uk)
南シナ海を中心に書かれているが日本の地名の漢字表記がいろいろツッコミどころあり
(地図をクリックすると拡大した地図が読める)
以下、ティモシー・ブルック「セルデンの中国地図」より適宜抜粋
・兵庫:神戸を表しているのだろう
※本州と九州がつながっている
・亜里馬王:有馬氏の治める肥前
・殺身湾子:「殺」が「穀」の誤字と考えれば「鹿児島湾」だろう
・殺子馬:薩摩の音写だろう
・籠仔沙机:長崎→ランガサク(ポルトガル語)の音写だろう
・魚鱗島:平戸の音写?

本に載っていない地名で解読を試みると
対馬:水剰馬?
沙階王:堺?
管東:関東?
大王城:京都?
闇夸勝:尼子?
温子米:出雲?和泉?
後は伊勢、越、上野、下野などはちゃんと漢字表記されている。その他興味があれば各自で解読試みて欲しい

しかし島津=鬼石曼子の出典は怪しいそうだけど、薩摩=殺子馬、鹿児島=殺身と、物騒な表記はされてたようだ

886:人間七七四年
17/06/18 13:13:12.86 REd6DLSF.net
>味方より多勢であることを指して、”大軍”と言うべきとのことだ。

三方ヶ原では2万の大軍にウンコ漏らしてたのに偉くなったよな

887:人間七七四年
17/06/18 13:43:07.08 d2goG1rz.net
うんこも本当ではないそうだ

888:人間七七四年
17/06/18 17:08:59.08 B08xYYKR.net
偉そうにイキってて笑えるよな
ただのクソ漏らしなのに

889:人間七七四年
17/06/18 17:10:17.73 chYKDCHe.net
ついでに此の頃の中国の日本に関する地理誌
福建省出身の張燮によって書かれた万暦45年(1617年)発刊の「東西洋考」によれば
URLリンク(zh.wikisource.org)東西洋考/卷六
邪馬台国、日本への国号改、倭寇、懐良親王(良懐)、足利将軍の勘合貿易、王直についての記事の後

倭は平清盛が政権を取って以来、国が乱れ、万暦14年に平信長が関白となり、その義子の平秀吉というものは、
母親が婢ではあったが妊娠中、異徴があった。幼いときから下賤で魚を売っていたが酔って木下に眠っていた。
その時猟に出ていた信長に出会い、驚き寝覚めて衝突。
(以下「明史日本伝」と同じため略)
万暦39年、倭は琉球を破り、中山王を捕虜とし、二年倭に留め置いた後帰還させた。琉球は明に倭に入貢したことを謝罪し
明への入貢を申し出たが、すでに倭に入貢した以上、スパイの疑いがあるため入貢させなかった。
万暦44年夏、倭が東番(台湾)に侵略しようとしたため、董伯起が倭を偵察に行ったが、倭の村山等安に捕らえられ、小舟で返された。

倭は東海中にあり五畿、七道、三島、又附庸国百余ありその首魁と称している。唐宋の世は中華を慕い、外国を侵略しようとせず、
宋の時代に来朝した滕木吉に矢を射させても遠く飛ばず、理由を聴けば「国内で戦がないためです」と答えたほどのものだった。
ところが元に入り驕慢の心が出てきて、殺気立ち、華人が諭しても「盗みを喜び、生を軽んず。殺を好むのが天性だ」と答えるまでになった。

倭の地は北は朝鮮を海で隔て、南は閩、浙と隔てている。朝鮮へは対馬から大洋に出て二晩で着く。
閩、浙へは順風で旬月かかる。

其の主は山城にいるため山城君と呼ばれる。山城の南は和泉、その南は沙界(堺)。沙界の盗難は紀伊、紀伊の西は伊勢。
山城の西は丹波、左に摂津、左の西は播磨、右は但馬、右の西は因幡、丹波の西は美作、左は備前、左の西は備中、右は因幡、右の西は伯耆。
美作の西は安芸。出雲の西は石見、安芸、石見の西は山口で古の周防州である。山口の西は長門、ここで海を渡る。
渡って西は豊前、南は豊後、其の南は日向、豊前の西は築前、西南は後築。後築の南は大隅、大隅の西は薩摩。
豊後から東南に渡ると、土佐、伊予、阿波があり、阿波は海を隔てて淡路と近い。土佐、豊後の間は佐加関。薩摩の北は肥後、
又其の北は肥前。肥前から西に渡ると平戸、平戸の西は五島、北は多褻島、伊岐、一番北は対馬、それぞれの島は酋長あり。

山城君は弱く、名前のみ。倭はその号令を聞かず、互いに争い、強ければ従わせる。
豊後国が最大で、博多経由で五島を歴てやってきて、帰りは長門を通って帰る。
毎年清明後から五月まで、重陽後から10月まで常に東北風が吹くため倭寇に有利となる。
そのため海防のときは三四五月を大汛、九十月を小汛として警戒せねばならない。
倭寇が多いのは薩摩、肥後、長門の三州で、次に大隅、築前、築後、博多、日向、豊前・豊後、和泉となる。
男子の首領は頭を剃り、黥面文身。婦人は髪を結っている。皆素足で、時々履をはく。勇猛で死を恐れず、戦う時は赤裸で三尺の刀を舞わせる。

名跡形勝としては、「邪摩堆」「阿蘇山」「東奥州(黄金の産地)」「五龍山」「平戸島」「一岐島」「八角島(蒙古、高麗を日本が滅ぼした所)」
「聚快楽院」「相坂関」「赤門関」「千丈渓」
物産としては、金、銀、如意珠、青玉、瑪瑙、琥珀、水晶、水銀、螺鈿、石硫黄、銅、鉄、錦、細絹、花布、刀、屏風、扇、硯、漆、
犀象、黒雉、山鼠(牛のようなけもので、大蛇に呑み込まれても穴を開けてしまう)

890:人間七七四年
17/06/18 17:17:53.08 chYKDCHe.net
この張燮、「なぜ日本人やオランダ人(日本の記事の後に紅毛蕃(オランダ人)がある)を美化するんだ?」
と言われた時、「事実を書いたまでだ」と答えたそうだが、
美化したような記述あるかな

891:人間七七四年
17/06/18 17:22:56.47 5kXMhSIL.net
>>890
当時の日本の評判がもっとショボかったのでは

892:人間七七四年
17/06/18 18:29:14.95 lzSjY9GA.net
野蛮人の土地に名勝や希少な鉱石物産などあるはずがないのである
と思っていたりして

893:人間七七四年
17/06/18 21:59:33.09 I1Yy+r3R.net
薩摩人が鬼畜ってことは外国人も分かってたんだな

894:人間七七四年
17/06/19 18:32:41.24 uEDirrNW.net
地理の記述で西の左のってのは違和感あるな統一しろよと

895:人間七七四年
17/06/19 19:29:35.39 gTXWMnPN.net
「左」遷ていうくらいだからこの時代の士大夫にとっては基礎教養なのでは

896:人間七七四年
17/06/20 01:38:54.99 Xbr5DYuZ.net
こんなことを言わずに謀叛すればいい


家康が諸大名を集めて名古屋城を築かせたときの話。

皆々が寄り合いしていたとき、福島正則が池田輝政にささやいて
「近ごろ江戸や駿府の築城続きで人夫もみな苦労して働いた。しかしながら
 天下の押さえとなる城なのでみな苦労と思う者はいなかった。
 今度は子の居城を築くようにと命じられる為ではないのだ。
 貴殿は大御所の親戚である、我一人の為に言上しろという訳ではない」
と申せば輝政は答えなかったが、加藤清正が奮然として正則を戒めて
「ああ粗忽なことをのたまう人だな、貴殿が普請に苦労することが
 不興ならばこんなことを言わずに謀叛すればいい。謀叛が
 出来ないのなら、命を違え斯様なことを申すべきではなかったな」
と荒々しく言ったので、正則はそれを恥じて何も言わなかった。
輝政は笑って戯言ということにした。

その後神君(家康)がお聞きになってみなの心を推察し
ある日輝政を呼ばれ諸大名に対して
「お前たちが普請を頼まれたくないと言うのを度々聞くが、それならば
 国に帰り城を堅く堀を深くして私が行くのを待つがいい」
と仰せがあったので、輝政がこれを諸大名へ申せばみな大いに恐れ
急に人夫を雇って名古屋城の石垣を築き、土地を四面に開いて
二十万人の人夫でもって西海南海の大名共を伊勢三河の大船で運送し
石垣を築き堀を掘れば不日の間に名古屋の城普請は成就した。


―『武徳大成記』

897:人間七七四年
17/06/20 07:31:40.10 DKMfXt+W.net
これ、面白いな。
有名な福島と加藤だけのバージョンを元にこれができたのか、これを簡略化したのが有名なバージョンなのか、気になる。

898:人間七七四年
17/06/20 18:39:34.42 kl2FAQ/4.net
イライラ清正

899:人間七七四年
17/06/20 19:41:24.04 D+B63afb.net
大阪夏の陣、5月7日に、大野修理は茶臼山の近くまで進出していたが、秀頼の出馬あるよう申し上げるとして
城中に引き返したが、その時大纏を持たせて城中に急ぎ退くのを、他の味方から見ると敗北して城に
逃げ帰るように見え、七手組の人数その他城外に出て戦っていた秀頼方は、悉く気後れし敗北の機が出来、
共に城に入る者も多かった。
寄せ手はこれに気を得て、いよいよ勢い強くなり、これによって豊臣勢は総敗軍となりたちまちに城中周章し、
程なく落城に及んだ。そう語る人がいる。

しかし、大阪の落城の原因はこれではない。ただ秀頼の謀の不足、群臣の異議不全によるものである。
さらに推して言えば、太閤秀吉は一旦の勢いに乗じて天下を従え、道の道たる理由を知らず、
己の私智に任せた事の余映に寄ることである。
また、この時についても、大野が不功者にて事理を糾明し得なかったため、こういうことも起きたのである。

その日、速やかに破れたのはその日の謀により、終始の勝敗はまた、終始の政によるべき事である。

(士談)

大河の真田丸なんかでも豊臣敗北の原因とされた大野の行動ですが、それは真の敗因じゃないよと
山鹿素行がすでに批判していたというお話。

900:人間七七四年
17/06/20 21:16:56.75 i1njUqXZ.net
夏の陣は仕方ない

901:人間七七四年
17/06/20 21:23:17.42 w64DAeEm.net
>>896
これで名古屋城に立て篭もれば面白いのに

902:人間七七四年
17/06/21 14:21:42.70 x88AXbB6.net
>>889
山鼠ってなんだと思ってググったらめっちゃ可愛い(*´ω`*)
こんなのが大蛇に呑み込まれても穴を開けてしまうのか…

他にも犀象?動物園かな?

903:人間七七四年
17/06/21 16:05:30.59 ixj2rUIK.net
古代ローマ人にはごちそうです

904:人間七七四年
17/06/21 16:55:52.35 XjfB0FTi.net
ダンジョウ飯

905:人間七七四年
17/06/21 22:43:33.42 TW/7yCGd.net
>>902
>他にも犀象?動物園かな?

ボス「センゴクパークには沢山の鬼や天魔が暮らしているよ、君は何が見たい?」

906:人間七七四年
17/06/22 17:15:32.89 m1VewLuy.net
蘆名氏の重臣に松本氏という一族がいるのだが何度も主家に反抗して
まさに蘆名にとって目の上の瘤だった。

・松本備前
反乱により1495年に追放。

・松本豊前、同丹後守、同右馬允
1498年に討伐。

・松本源三、同勘解由
蘆名盛滋を奉じて蘆名盛高に反抗。

・松本大学、同藤左衛門
1521年に大学誅殺、藤左衛門生害。

・松本行輔
蘆名盛隆に宿老職を取り上げられ男色相手の粟村下総とともに反乱。

907:人間七七四年
17/06/22 18:40:43.37 BwLDWajZ.net
逸話でも書くのかなと期待したのに

908:人間七七四年
17/06/22 23:17:26.15 jLYbwD9e.net
松本図書助

909:人間七七四年
17/06/22 23:20:58.04 aOCxZgvt.net
図書助の一族かな

910:人間七七四年
17/06/23 02:07:16.89 /IPKuLm8.net
松本伊代

911:人間七七四年
17/06/23 16:58:40.29 1fIamTRA.net
松本伊予ならいそうだけど聞いたことないな

912:人間七七四年
17/06/23 20:23:50.25 AGvrvAQW.net
>>911
暴れ坊将軍になら登場してる

913:人間七七四年
17/06/24 00:46:47.28 sOU5suPq.net
徳川氏の重臣に三河武士という一族がいるのだが何度も主家に反抗して
まさに徳川にとって目の上の瘤だった。

914:人間七七四年
17/06/24 13:31:35.78 D++bK00K.net
>>902>>905
アンガールズぅ...ですかねぇ...
田中「やーまーねー(山鼠)」

915:人間七七四年
17/06/28 18:13:45.68 c8upfVr0.net
関ヶ原の時、島津は西軍に味方し、しかも国元まで引き上げた。そのため「島津征伐を行うべきではないか」
との議論があったが、この時黒田如水が言った

「島津のこと、それがしに征伐を命じられれば、島津領国を占領すること、上下の別なく心やすく思うであろう。
何故ならば、薩摩口は鍋島が先陣を仕る事になっているので、鍋島に先陣を仕るよう命じても、それを迷惑だ
などとは言わないであろう。必ず、先手を仕るだろう。

彼らの領国である肥前は大国であり、鍋島の軍勢は大軍であるから、必ず島津との間で開戦するだろう。


だが、彼らは弓矢の作法を知らず、戦の有り様に不案内な者達なので、島津と戦って必ず敗北するだろう。
これは証拠もないことを言っているのではない。かつて高麗において軍勢を動かしかね、致しようもなく
我が方へ頼みに来たため、蝶之介という我が方の足軽大将を遣わして、ようやく立ち直らせたほどなのだ。
鍋島の兵は至って弱兵であると理解すべきだ。

そしてそのあとを、加藤清正に任せる。清正は格別の器量の者であるから、島津が勝ち誇って来る所へ
一文字に掛かれば。何の仔細もなく必ず勝利するだろう。

その後に我々の備は、袴をつけたまま薩摩に入国するであろう。

(士談)

916:人間七七四年
17/06/28 18:20:56.68 AGoXx4dW.net
これが出典なのか

917:人間七七四年
17/06/28 18:33:33.43 JTWyAlyF.net
チョウノスケが気になる

918:人間七七四年
17/06/28 18:41:58.01 biNEgbmZ.net
こえれは鍋島を餌にした誘引戦術

919:人間七七四年
17/06/28 19:57:31.67 ZsT2vZR/.net
同じ役のことで清正が鍋島さんちを戦しやすくてよかったって褒めてんのはなんなんだろね

920:人間七七四年
17/06/28 21:16:22.21 vqmgz3k8.net
我の外孫なれば我が子に准ずべし


慶長8年、神君(家康)は池田輝政に備前国を賜い輝政の次男忠継を封じた。
封国が決まると輝政は忠継[このとき5歳]を伏見に連れていき拝謝した。
神君は
「この子は我の外孫なれば我が子に准ずべし」
と言って、吉光の名刀をお与えになった。

輝政は初めに娶った中川清秀の娘からは長男の利隆が生まれ
後に娶った神君の娘(督姫)からは忠継、忠雄などが生まれていたが
関ヶ原の軍功で賜った播磨国は忠継を嫡嗣とし継がせようとしていた。
しかしながら神君はこれを許さず利隆に継がせることにしたため
国主がいなくなった備前を輝政に賜い忠継を封じたという。

このとき一説の言うところでは
関ヶ原の戦いで戦功がなく遺恨があった榊原康政が
「天下は既に定まった、しかし秀頼は天下を取ろうと必ず戦を起こす。
 備前は大坂に近いのでもしものことがあれば輝政と力を合わせるはずだ。
 大坂で功を立てたいので(自分の方を)備前に封じて欲しい」
と言ったので、大久保忠隣らもこれを推していた。
台徳(秀忠)もまたその通りとした。神君はこれを許さず輝政に授けた。

恐らく(家康は)舅親であるので、輝政が二心を抱くことはありえない。
輝政は武勇で知られているので、播磨備前を合わせて治めさせれば
その力をもってして大坂の敵になるだろう。輝政もまたその微意を察し
大坂のことを己の任としたのだ。これにより康政は神君に不満を持った。


―『続本朝通鑑』

後半与太ってるので悪い話に。
鍋島とか家康の娘(養女)をもらって前室の子を廃嫡した例は一応あるにはある。

921:人間七七四年
17/06/28 21:32:00.37 JDhJx46R.net
池田は結局、姫路城の普請だけさせられて転封だから

922:人間七七四年
17/06/30 02:37:58.72 k++An8Gf.net
松平肥後守正之(保科正之)の家士に、田中三郎兵衛(正玄)という人がいた。
この人四代の祖は寺沢広高の浪人である。

会津公は聞き及びなさって三郎兵衛を3千石で招きなさり、老臣となさった。
三郎兵衛は常に申して、

「先主・広高の行状を思えば、まことに感涙に堪えることなどが多いのである。
12万石の身分で奥方までも木綿の衣服であった。年始などの規式といえども、

塩魚、または干し魚を用いた。このように倹約かと思えば、千石取りの士が
40人いた。平素ともに万一の変事がある時にとして建てられた家法である。

それにもかかわらず、その子・兵庫頭殿(堅高)は父とは大いに違った人故に、
あの如く身の上を果たした。広高には少しも悪しきことはなかった」

と語った。

―『明良洪範続編』

923:人間七七四年
17/07/01 22:30:01.06 or08M729.net
大阪冬の陣勃発の時、黒田長政、福島正則も大阪攻めの御供を望んだ。
その頃は未だ太閤秀吉取り立ての大名が多かったが、その中でもこの両名はとりわけ武功の勇将で
あったため、人々も様々に気遣いしていた。

そこで本多佐渡守(正信)が両将を茶の湯に事寄せ饗応し、談じた

「まことの事かどうか知りませんが、今度の大阪のことで、御供の望みがあると承りました。
これが本当であるとすれば、心得がたい事です。
何故なら、あなた方が秀吉卿莫大の恩顧・御取り立ての身であると言っても、当家において関ヶ原の時分、
まさしく御忠節を申し上げた故に、大国を下され、以降誠に二心無く御奉公の御志をなされていると
見ています。

さりながら、大阪の城には秀頼が立て籠もられております。先主秀吉の息男が在城しているのを、時に従う
習いであるからと寄せ手に加わり攻められても、人は良いようには思わないでしょう。
また、だからといって寄せ手に加わりながら成すこともなく居るのも後ろめたいではありませんか。

ここを以て察するに、今度の御供の願い、非常に愚案であると言えるでしょう。
しかし各々に、特別なご存分もあるのでしょうか?」

この言葉に両人屈服し
「さあれば、御辺を以って、御留守に任じて頂けるよう申し上げていただきたい」
そう申したという。

(士談)

924:人間七七四年
17/07/05 06:40:34.79 EcUAn0qX.net
「心得がたい」ってのはどう解釈すべきか

925:人間七七四年
17/07/05 07:12:03.53 PA608L7X.net
心得が鯛

926:人間七七四年
17/07/05 07:43:58.18 OVzA0S6z.net
納得しかねる、みたいな

927:人間七七四年
17/07/05 17:03:01.00 3uj3Pd4f.net
>>110
まず宗茂は天下を狙わないだろう
戦に強いし義も人望もあるが政治に関しては興味がないだろう

928:人間七七四年
17/07/05 17:38:50.37 YxoXjZLJ.net
竹中半兵衛が斎藤龍興に奉公して稲葉山にあった時、半兵衛と同じように使われた者があり、
ある時、半兵衛には巣鷹の仔が与えられ、このもう一人にはコノリ(ハイタカの小型の雄)が与えられた。
ところが、龍興は一旦半兵衛に与えた巣鷹の仔を取り返して相手に与え、コノリの方を再度
半兵衛に与えた、

この事に半兵衛は強く憤り、稲葉山から出奔すべく計画を立てた。
彼は同士の侍18人と語らい、番つづらにそれぞれ具足を入れさせ、当番として場内に入ると
切って廻り、そのまま出奔した。

この時、稲葉山城内の一人が半兵衛に切りかかったが、半兵衛も刀を抜いて切り込み、向こうの刀を
柄で受け止めた。そこで刀に打たれたために半兵衛の刀が抜けたが、この抜けた刃が相手を
仕留めた。
彼も幼少より剣術を習っていたが、実戦を行ったのはこの時が初めてであったという。半兵衛19才の
時の事だそうだ。

彼が若輩の頃、人々から『鼻たらし』と嘲られていたが、この時自ら手鼻をかんで

「今迄の鼻は、ここにてかむべき為であった。」

と言ったという。

半兵衛は一生の間、常に数珠をつまぐり、「美濃の国には誰もない。誰もない。」とばかり
言っていたそうだ。

この半兵衛、元は美濃赤坂の商人、あかねやの子であり、龍興の元から出奔する頃までは父も存命し、
至って裕福な者であったという。

(士談)

929:人間七七四年
17/07/05 22:18:54.21 QCAwnrGS.net
美濃では商人の出でなければ身の立てようがないんか

930:人間七七四年
17/07/05 23:10:53.92 HAtZa1yb.net
>>872
遅レスだが伊賀伊賀守って安藤守就のことだったんだ
(斎藤義龍が一色氏に改姓した時に、以下の六人衆の面々も一色氏の家臣の姓に改姓させたみたい
安藤日向守守就→伊賀伊賀守守就
桑原三河守直元→氏家常陸介直元
竹腰新介尚光→成吉摂津守尚光
日根野備中守弘就→延永備中守弘就)
信長が明智光秀→惟任、丹羽長秀→惟住、塙直政→原田、と九州の姓を与えたようなもんか

ところで信長を裏切った安藤や氏家はともかく、龍興に従って信長と戦った弘就は
一色への忠義を示すため延永(のぶなが)を使い続けなかったんだろうか

931:人間七七四年
17/07/05 23:17:10.92 QCAwnrGS.net
安藤氏は伊賀氏の流れ
それどころか守就から安藤になったとも言うし

932:人間七七四年
17/07/05 23:27:32.33 HAtZa1yb.net
なるほど、守就の弟の子孫が明治に入ってまた伊賀氏に復姓しているようだし
伊賀氏のほうが由緒正しいわけね

>>930訂正
龍興を裏切って信長についた安藤や氏家

933:人間七七四年
17/07/06 02:48:56.85 I7m6iQir.net
のぶながっていう読みが合ってるし忌み嫌って日野根で通したのかもね

934:人間七七四年
17/07/06 06:12:42.94 LKwEnJ+9.net
氏家がいつ裏切ったんです?

935:人間七七四年
17/07/06 11:00:41.67 shzTRTJ6.net
 鳥取の城は六月下旬頃から固く取り囲まれ外への出入りはできない状態で籠城し、
頼みの西国の後詰を待っているけれどその気配さえなく徒に日数を過ごしていた。
夏も過ぎ秋も暮れ行く十月の声を聞く頃になると、城中上下関係無く、気遣い窮屈で精魂疲れ果て弱り果てていた。
第一に諸人兵糧に乏しいので生気がない。下々の者は、山中をうろつき食べられる木草蔦等の葉をむしり、
皮を剥ぎ、根を掘っていた。諸人毎日こうやって咽を潤し辛い毎日に命を長らえたが、
早々食べられる草木は無くなり。飢えるばかりなので、口に入るものは、犬、猫、狐、狼、虫けらまで掘り出して食べた
最後には、死人の遺体の肉をすき取って食べれば、味が良かったのだろう、これを見て我も我もと食べたので死体が出ると肉を
切って食べれば骨だけが残る。
(中略)
十月下旬になると城中の兵糧尽き果て餓死する者も続出、身分に関係なく、今は飢死する者も続出、
身分に関係なく、今は餓死するのを待つだけの状態になった。
城の大将吉川式部少輔(吉川経家)は、芸州より後詰有ると待っていたが今日までその沙汰はなく、
城は固く取り囲まれて兵糧もなくなった。頼む者は他になく、今はただ死を待つ状態になってしまったが、
命のあるうちに降参して、自分の命と引き換えに、憐憫を得て今まで苦労困窮させた城内の諸人の命を
助け城を出そうと、心に決め、そのことを城中諸卒にも言い聞かせた。
(因幡民談記)

936:人間七七四年
17/07/07 10:57:24.12 18PP1XD/.net
何宗であっても松を立てよ


ある年の十二月晦日に興国公(池田利隆)が櫓に上り
家臣の高木内記の家をご覧になったが門松がなかった。
「どうして門松を立てないのか」
と(利隆が)尋ねたので、内記は
「それがしの宗旨は一向宗であるので、いつも松かざりもいたしません」
と答えたが、興国公は
「何宗であっても松を立てよ」
と仰せられたので、すぐに御厨から人が来て門松を立てたという。


―『池田家履歴略記』

浄土真宗の門徒が神道由来の門松を避けていたというお話。

937:人間七七四年
17/07/07 15:29:45.75 uVcwbxIo.net
浄土真宗の人が自分のこと一向宗っていうんです???

938:人間七七四年
17/07/07 20:37:56.91 PrBVm7dg.net
城巡りをしている鹿児島の親戚が「鹿児島には夫を殺した怖い姫様がいる」と言ってたので調べたらこんな話があった。
薩摩藩の「本藩人物誌 国賊伝」より
祁答院(けどういん)河内守良重、妻に殺されること

祁答院氏は渋谷氏の一族であり、良重は13代当主で妻は島津薩摩守(島津家の分家)義虎の姉。
「人となり驍勇にして能く強弓を引く」
入来院、東郷、蒲生等と徒党をなして数年島津貴久公に叛いていた。
蒲生氏が島津の加治木城を攻め、島津貴久が良重の籠もる岩剣城を攻めたところ、
良重の嫡子重経が蒲生軍とともに2千人を引き連れて、貴久と戦うが戦死。
岩剣城が陥落したため良重は逃亡、帖佐城、祁答院と落ち延び、蒲生や東郷とともに再起を図るが
島津貴久軍に敗北。

永禄九年正月十五日、良重夫人の為に殺せらる。
良重、生来放逸荒淫。夫人、その所業を諌めれども用いず。
ここにおいて、この夜酒を勧め酔い伏したるを夫人、手ずから良重を刺殺す。
この時良重が小姓、村尾亀三、左右に宿直す。
則ち屏風を以て夫人を押さえ、また刺殺す。
ここに至りて祁答院氏滅ぶ。享年四十一。祁答院の所領悉く入来院重嗣の有となる。

939:人間七七四年
17/07/08 21:00:33.50 s4VGcAwR.net
>>930
伊賀伊賀守って野比のび太とかオレンジレンジみたい

940:人間七七四年
17/07/08 23:27:44.34 PtOrjCfS.net
 関ヶ原の時、三河岡崎の田中兵部大輔吉政の子民部少輔長胤(吉次)は、
父大坂に同心したりといふを聞きて、宇都の小山を忍び出で、居城岡崎に帰りけるを国清公(池田輝政)聞し召し、
竹村半兵衛を召され、「我吉田に帰るまで民部を牛窪に押へとどめ置け」と仰せらる。
竹村、「これは安き事には候はねども、いかさま計ひて見候はん」とて道に出迎へ、
鉄砲の者を百姓の家に隠し置き、具に支度を言ひ含め、其の身は山のせばみに出で出で待つ所に、長胤来られり。
竹村、「池田三左衛門ひそかに申せと申すことの候てこれに出で候」といへば、
長胤馬廻りの人を遠ざけられしかば、竹村静かに歩み寄り、
「別の子細も候はず、押留め申せと三左衛門下知したるよ」といひもあへず、
左の手に長胤をひしとらへ、一尺ばかりの脇差を抽いて長胤に押し当てたり。
従者ども、「こは口惜しや」と怒れどもせんかたなし。
竹村言葉をかけ、「近く寄られなばわれは殺さるるとも民部殿をば刺貫き申さん。
唯押留め申すのみにて、別の事は候はず」と呼ばりける処に、
百姓の家に伏せ置きたる鉄砲の者ども駆集り、鉄砲を長胤に差しあてて、
「竹村を討たんならば忽ち民部殿を打落とさん」と声々に呼ばはりけり。
長胤力無く竹村に従ひて百姓の家に入れば、押止めて四方を堅く守りけり、
かくて東照宮聞し召し、「父は既に味方になれる上は許し候へ」と仰せられしかば、
長胤則ち出でられけり。
(常山紀談)

941:人間七七四年
17/07/09 07:58:19.55 2VY1cRSN.net
筑後守(田中吉政)嫡子民部少輔吉次は、岐阜城攻め等の節軍功もあって公儀との関係も良く父子の仲も良かった。
しかしいかなる心が出たかはわからないが、父・吉政に対して不義の行いがあったので
吉政は激怒し、公儀へ願い出て廃嫡をし勘当し追放すれば京都へ退き寂しく住んでおられた。
(田中興廃記)

942:人間七七四年
17/07/09 15:56:30.04 OLx2PEl6.net
「田中興廃記」ってなんか笑ってしまう

943:人間七七四年
17/07/09 22:20:50.89 1EgqCX8r.net
>>938
小姓の村尾亀三は後に義久公に召し上げられ、元服後は村尾源左衛門と名乗る。
(祁答院記)
元服後、村尾源左衛門と名乗り、入道の後は笑清と名乗る。義弘公の下高名
を得る。(宮之城記)
祁答院良重についてこんなサイトを見かけました。
秋津島舞(アケスメロ)(鹿児島県さつま町)
URLリンク(www.senjudou.com)

944:人間七七四年
17/07/09 22:32:02.21 XNinJIxW.net
貴久、義久に通じていた村尾が二人を殺して
「夫人が良重様を殺したから自分が夫人を討ちました」
と偽装工作した、てことだったりして

945:人間七七四年
17/07/11 18:03:36.07 aeyCj/OX.net
 前田肥前守利長なる者がいる。加賀大納言の子である。前田はその姓である。
大納言は、もともと、家康と官爵勢力ともに相等しかった。
秀吉が死に臨んで、秀頼を肥前守に依託して、「そこもとは、備前中納言秀家とともに、秀頼を奉じて大坂に居られよ。
諸事を調護するのは、そこもとにこれを一任する」と言った。
秀吉がすでに死んで、大納言も戊戌年冬に死んだ。
肥前守が、越中・加賀・能登の三州の地を襲ぎ、秀頼を奉じて、大坂に居し、その威勢は家康に劣らなかった。
高く門楼を建て、それが大坂内城と斉しいほど高かった。
彼はひそかに、上杉景勝・伊達政宗・佐竹義宣・宇喜多秀家・加藤清正・越中守らと、
家康を殺してその土地を分けようと謀り、血を啜って同盟し、盟約がすでに定まってから越中に帰った。
石田治部少輔が、たまたま家康にとがめられて、その領地である近江州に退いていた時に、
その謀を知り、ひそかに書面で家康に告げた。
家康は、己亥年9月9日、秀頼に挨拶するとかこつけて虚に乗じて大坂城に入って拠りどころとし、
肥前の家来を呼んで、その門楼を毀たせようとした。
家臣たちはみな、「わが主君は外におられ、まだ何の命令も聞いてはおらぬ。
死はただ一度のこと。内府の[命]令に違って死ぬとしても、
我が主君の命に違って死ぬことはない」
と言ってその命令に従わなかった。家康の怒りはますます激しくなった。
肥前の妻の甥であった秀家が行って肥前の家臣を喩し、撤去させ、
「そち達の主が私に言いおいた言葉がある。私が責任を取ってやろう」
と言った。
家康は、遂に関東の諸将に[命]令して、肥前が倭京に上ってくる道を塞ぎ、
又、石田治部少輔[三成]に[命]令して、近江州の要害を防備させた。
肥前守も城や隍を修理改築して固守の計を取り、
ひまひまには、狩猟にかこつけて、精兵数万を率いて越中・越後などの地に出没し、
景勝などともひそかに相互援助の盟約を結んだ。
群倭が家康に和解を勧めているが、家康は多分聞き入れないであろう。
思うに、この勢いでは、戦わなければすなわち和解するであろうし、和解しなければすなわち戦うしかない。
和解を、幸いにして、成立させないですませたならば、醜奴[倭]の方城はまさに一つの戦場になるであろうから、
わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない。

(看羊録)
※前田利家が死んだのは己亥

946:人間七七四年
17/07/14 21:21:52.34 cbMwyOMP.net
小田原の陣の時、秀吉が三島に陣を据えていた折、堀尾帯刀(吉晴)が、山中城の出丸を乗っ取りたいとの
望みを申し上げたが、秀吉は許可しなかった。それでも堀尾は是非にと申し立てたが、やはり許さなかった。

秀吉が堀尾に許可しなかったのは、たとえ出丸を取ったとしても、結局は本丸を直に攻めなければ山中城を
攻略できないと見きったためであり、またもし許したとしても、堀尾が出丸の攻略に失敗すれば、それは
秀吉の構想が狂うことに成る故であった、という。

(士談)

947:人間七七四年
17/07/15 08:38:23.91 NrgiGGBk.net
清州会議の後、羽柴秀吉と柴田勝家の対立が深まる中、勝家の家臣・毛受荘助(勝照)が請い受けて
秀吉への遣いとして向かった。これは、秀吉のこれまでの動向は心得がたいものであり、
対面すれば押して刺し違えんと考えたのである。

こうして毛受が到着すると、秀吉は察した
「あの毛受は心早く勝れた勇士である。今度の使節としての来訪も、何らかの心持ちがあるのだろう。」

彼は毛受を招き入れ、毛受が出て来るや、脇差も差さず色代まで不意に現れ

「遠方よりのこの度の使節、浅からぬ思いであるぞ。」


そう言って毛受の手を取り、限りなく懇ろに連れ立って奥の席に招き、先ず勝家の安否、
そして今の互いの考えなどを語り、それから料理を出して饗した。

毛受は秀吉と刺し違えることを決心していたのだが、不意に傍に引き添えられ、様々な懇情を受けたため、
先ずはそれへの謝礼に及んだ。
そしてその後、再び秀吉が近づいてくる事を待っていたのだが、以降秀吉が近づくことは全く無く、
毛受は本意を失って帰っていったという。

この話は事実かどうかは解らないが、秀吉の才用は、かくこそと思われる。

(士談)

948:人間七七四年
18/02/11 20:57:49.65 x76gX88Jj
>>1
文章で読んでも具体的にイメージは湧いてこないだろうから、
実録物の漫画を読んだ方が良いかもしれない。
作者は原資料を歴史家以上に徹底的に読み込んでいるから。

雪の峠・剣の舞
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949:人間七七四年
18/09/07 11:30:21.17 sbxzu2h+F
天正四年(1576年)、那須家中の重臣大関高増は、大関氏の居城であった白旗城を出ると、那須宗家の居城烏山城の北方に黒羽城を築きここに入った。
この時期の那須氏は白河氏を支援して佐竹と戦う構えを見せていたが、高増は長男の晴増を白河義親の婿養子として送り込むなど那須氏の対外政策の主導権を握っていた。
その高増が築いた黒羽城は東西を那珂川・松葉川に囲まれた丘陵の上にあり、本丸を中の丸・北の丸・三の丸にぐるりと守られた鉄壁の構えを見せており、
家中における大関氏の存在感を存分に見せつける威容を誇った…と言うか、主家の居城を遥かに凌ぐ那須最大の縄張りを持つ堅城であった。

関東戦国史に詳しい諸兄にはご存知の通りその後大関氏は主家を出し抜いて近世大名として名を残すわけだが、居城を見ると既にどっちが那須の支配者なんだか分からない状態となっていた。
大関と佐竹という内外の敵に挟まれた那須資晴もたまったものではなかっただろう、という意味で悪い話。

なお黒羽藩は関東では数少ない外様大名による支配が明治まで続き、黒羽城は大関氏のシンボルとして廃藩置県まで鎮座し続けた。
一方の烏山城は天保元年(1681年)に那須氏の旧領復帰がなされたが、わずか6年後に改易され、以降二度と那須氏の手に戻ることはなかった。

950:人間七七四年
18/10/23 14:59:55.58 9bYKkABv/
白兵武者シリーズ
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▼第1話/但馬の山の鬼▼第2話/最強の鎧組み討ち▼第3話/小天狗▼第4話/力道禅真仁智寺▼第5話/白兵の山、風雲急▼第6話/白兵の使命▼第7話/正之進と凛姫と狼▼第8話/白兵出陣!!▼第9話/戦乱の風▼第10話/氷之山の山賊▼スペシャル企画 蝶野正洋緊急特別インタビュー
●主な登場人物/蝶野正之進(最強の白兵武者を目指す若者)
●あらすじ/1550年、安芸・厳島に、戦で焼け出された母子がやって来た。けれども食べるものがなく、母はすぐに亡くなってしまう。独りぼっちになってしまった少年・正之進。だが、親切な島の漁師・嘉平と妻・おたえに引き取られ、彼はすくすくと育っていく。
5年後の弘治元年。この地方の統治者・毛利元就を倒そうとする、周防の陶晴賢(すえ・はるかた)の軍が島に攻めてきた。そして嘉平とおたえは、陶軍の者に殺されてしまう。
言葉を失う正之進の前に、坂口征順という一人の僧が現れた。征順は居並ぶ陶軍の兵士たちを、組み討ち技だけで立ちどころに粉砕してしまう。彼の正体は一体…!?(第1話)
●本巻の特徴/鎧ひとつに身を包み、骨をへし折り刀を砕く。正義感にあふれ民のためにのみ戦う、その体すべてが武器の如き男たち。それが「白兵武者」である。征順は、その白兵武者の一人だった。
正之進は戦国の時代を生き抜き、強い男になるために、征順と共に彼らの故郷・但馬にある力道禅真仁智寺(りきどうぜん・しんにちじ)へ。そこで立派な白兵武者になるための厳しい修行を始める。

951:人間七七四年
18/10/23 15:10:26.43 9bYKkABv/
age

952:人間七七四年
18/11/04 04:20:03.73 yVrf4OcCG
真実は救済されるべきだ。
人の気持ちを考えよう。
人の嫌がる事をやめよう。

953:人間七七四年
18/11/15 23:09:36.48 yng+zzg5h
>>950
ある意味で真実を突いている。

954:人間七七四年
18/11/20 13:07:27.93 0oOgLI+sE
真実の救済は為されるべきだ。

955:人間七七四年
18/12/13 15:15:17.35 n9Ko5AJ7u
age

956:人間七七四年
19/02/25 05:56:06.04 KC7pL2XzO
>>950
全巻買って読んだ。
感激した。

957:人間七七四年
19/02/25 06:02:50.99 KC7pL2XzO
生き方が変わる・・・

958:人間七七四年
19/03/05 16:18:00.57 0wmUxlMec
感動した。

959:人間七七四年
19/04/23 02:50:32.49 5XE4K9OPe
白兵武者シリーズ
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▼第1話/但馬の山の鬼▼第2話/最強の鎧組み討ち▼第3話/小天狗▼第4話/力道禅真仁智寺▼第5話/白兵の山、風雲急▼第6話/白兵の使命▼第7話/正之進と凛姫と狼▼第8話/白兵出陣!!▼第9話/戦乱の風▼第10話/氷之山の山賊▼スペシャル企画 蝶野正洋緊急特別インタビュー
●主な登場人物/蝶野正之進(最強の白兵武者を目指す若者)
●あらすじ/1550年、安芸・厳島に、戦で焼け出された母子がやって来た。けれども食べるものがなく、母はすぐに亡くなってしまう。独りぼっちになってしまった少年・正之進。だが、親切な島の漁師・嘉平と妻・おたえに引き取られ、彼はすくすくと育っていく。
5年後の弘治元年。この地方の統治者・毛利元就を倒そうとする、周防の陶晴賢(すえ・はるかた)の軍が島に攻めてきた。そして嘉平とおたえは、陶軍の者に殺されてしまう。
言葉を失う正之進の前に、坂口征順という一人の僧が現れた。征順は居並ぶ陶軍の兵士たちを、組み討ち技だけで立ちどころに粉砕してしまう。彼の正体は一体…!?(第1話)
●本巻の特徴/鎧ひとつに身を包み、骨をへし折り刀を砕く。正義感にあふれ民のためにのみ戦う、その体すべてが武器の如き男たち。それが「白兵武者」である。征順は、その白兵武者の一人だった。
正之進は戦国の時代を生き抜き、強い男になるために、征順と共に彼らの故郷・但馬にある力道禅真仁智寺(りきどうぜん・しんにちじ)へ。そこで立派な白兵武者になるための厳しい修行を始める。

960:人間七七四年
19/05/11 10:04:25.48 fKHtJGlFA
age

961:人間七七四年
19/06/16 23:46:38.90 kWqW619rN
桜井誠の軍勢(公称15万、徳川、豊臣クラス!)


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