戦国ちょっと悪い話44 at SENGOKU
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600:人間七七四年
17/02/12 14:06:35.43 doLJSv2v.net
>>594
御伽噺の世界だw

601:人間七七四年
17/02/12 14:51:03.57 b1Rp+1Iz.net
>>599
胃の中を見たいからね、しかたないね

602:人間七七四年
17/02/15 20:08:35.82 0fvy8vfu.net
慶長5年、関ヶ原の役において、九鬼長門守守隆は家康の会津征伐に従い、小山の陣に伺候していたが、
父大隅守嘉隆は、隠居の身として石田三成に与し、海賊を集めているという情報がもたらされた。

これにより「九鬼守隆を幽閉すべし」との声が上がったが、成瀬隼人正正成は反対した

「長門守が謀反を謀ることはありません。そもそも今回御供つかまつった上方衆のうち、
父子・兄弟別れているものは多くおります。その中で長門守一人を押込めるというのは
如何でありましょうか?

先ずは長門守に今度の旨を仰せ聞かせられ、その上で九鬼の領地に遣わし、彼の様子を
ご覧になった上で、必要な時は踏み潰す。そうしたほうが簡単であると存じます。」

そこで家康は守隆を召し、委細を聞かせ、「早々に志摩へ馳せ上がるべし。」と命じた。
守隆畏まって鳥羽へと赴いたが、考える所あって父。嘉隆とは対面せず、自分は関東に
御味方仕る旨を申し送った。

息子守隆が合流しないことで、嘉隆の勢力は広がらず籠城も難しくなり、伊勢神官の内に知人があり、
それを頼って城を開き退いた。ところが嘉隆の家臣である豊田五左衛門という男が、あえなく
主人嘉隆を害してしまった。

これを知った守隆の口惜しさは如何程であっただろうか。
流石に父に対しては敵し難いと考え、勿論関東に背く心もなかったため、直ぐには父子対面せず、
引き別れて立てた忠孝をどうにかして申し上げ、父の命を救うという計画が果たされるのは
目前であったのに、家臣豊田の大逆にて害されてしまった嘉隆の運命のほど。
是非もないことである。

(武野燭談)

603:人間七七四年
17/02/16 20:56:20.04 ytr5iFmx.net
幕府老中であった井上主計頭正就の父は、井上半右衛門(清秀)という、知行僅かに150石の子であると
されているが、実はそうではない。

井上半右衛門には長男があり、太左衛門といった。この太左衛門も母が身罷った後、故あって
阿部定吉の妾が懐妊していたのを、井上半右衛門の妻として、程なく出産したが、これが
井上正就であった。この妻は続いて筑後守政重を産んだ。
つまり正就と政重は、同腹別種の兄弟である。しかし正就は異父の苗字を称し、実父の阿部を
名乗らなかった。これには以下のような理由がある。

阿部定吉は徳川家における老功の人であり、松平清康に仕えていた。ところがその子・弥七郎(正豊)が
率爾の行動によって清康を殺してしまった。(森山崩れ)
しかしこの事に、父・定吉は全く関わっていなかったため、彼はその後も恙無く松平家に仕えた。

だが定吉は、我が子が主君を弑した逆罪を悔い嘆き、一生養子もせず、妊娠した妾すら、
他人に遣わし、清康・広忠・家康三代の老臣として、あえてその名字を断絶させたのである。

後に井上正就が半九郎と称していた時、大相国(徳川秀忠)が彼を召し出し、この仔細を
教えたという。

そして段々と登用され、奉書・連判の席に加わり、顕職の人となったが、彼は居間に
『井上半右衛門子半九郎』
と書き付け、朝暮れにこれを見るようにしており、この事を、心易い人にはこう言っていた

「私は(徳川の老臣・阿部定吉の子ではなく)150石の微臣である井上半右衛門の子、半九郎に過ぎない
ということを忘れないように心がけているのです。こうすることで御奉公にも、また
家の祈祷にもなると考えています。
かつて石田治部少輔は、そもそもが石田佐吉であったことを忘れ、諸侯に奢り、大志を志して滅びました。
我が願いはただただ、この御恩を無にせぬようにと、そういう心がけなのです。」

そんな彼であったが、寛永年中に殿中で豊島信満に討たれた。これもまた時の運であろうか。

(武野燭談)

604:人間七七四年
17/02/16 21:25:00.04 op0NtBCx.net
>>603
オチが・・・・・・

605:人間七七四年
17/02/17 00:53:42.57 29qev1l+.net
宇喜多秀家流罪に及びしこと

 ある人が曰く、
宇喜多秀家は関ヶ原では毛利上杉佐竹と同じである。
他は皆今の領土となったが、
秀家ただ一人が遠流に処されたのは神祖に憎まれることがあったためだとか。
 秀家は法華宗を信仰していて、その時領していた備前備中備後から諸宗を追い立てて悉く日蓮宗の寺とした。
もちろん浄土宗の寺院も押し退けられており、そのため
浄土宗である神祖から憎み怒られていた。
関ヶ原後に、もはや極刑にもなるべきところを島津氏の御歎きから流罪となったという。
 またかの国の諸寺でもその事実を裏付けることを聞いたが、
皆忘れてしまったので、ここではそれを書くことができない。

(甲子夜話三篇)

なぜ島津が、それも家康に意見を言う立場で出てくるのか?

606:人間七七四年
17/02/17 00:57:21.76 7heINWbt.net
島津が宇喜多を匿っていて
家康に許された時にそれを申し出たから
島津の顔を立てるためでしょ

607:人間七七四年
17/02/21 21:11:47.83 CscOQyRT.net
森川出羽守重俊が、徳川秀忠の薨去に付き殉死する時、息子伊賀守重友以下、親類を招き集めて
庭訓した

「弓矢の臆れは少しでも大事になってしまうものだ。先年、大相国(秀忠)が独座されていた時、
ため息をされたのを御次の間にて承り、「これは天下の大事でも起こったのか」と胸騒ぎしたが、
その後御機嫌を伺った所、先のため息について「真田表のことは…」と仰られた。
あれ式の事さえ、相国様は御身の臆れのように思われていたのだ。

汝ら、構えて自余の事は愚かであっても、武士道の規範を外れ、軍法を破ることなどは、殊に
不忠の第一であるぞ!」

そう遺言して、秀忠の御供をした、

この時、徳川家光は側の者達に「出羽守はどうした?」と尋ねた。殉死した旨を申し上げると
「とても生きては居ないだろう。もし存えていればいいのだが。」と言った。

これを承った人々「これは興味深い御言葉である。どういう理由であのように言われたのだろう?」
そう不思議に思っていると、古くから仕える人が言った

「その事だが、かの出羽守は昔、新将軍(家光)が未だ幼少の頃、いたずら遊ばされた時に、
拳で殴りつけたことがあったのだ(拳の障りし事ありし)。その時家光公は
『これを覚えていろよ!』とのお言葉を発せられた。それは御幼少ながら甚だ鋭いものであった。
もしかすると、その事について言われたのではないだろうか。」
そう推測した。

(武野燭談)

608:人間七七四年
17/02/22 04:00:20.62 LKwAbEd0.net
この年(天正2年)、近江国鎌刃の城主・堀次郎(秀村)と、同じく樋口(堀氏家臣)
が御改易となる。

その詳細は、木下筑前守秀吉と協力していたが、小谷落城以前の秀吉は5万石、
堀次郎は10万石の領主だったので、秀吉の意見に服さず、関係が悪かった。

近年、浅井へ内通した旨が秀吉より言上されたので、このような事になった。

(其子細木下筑前守秀吉同心たりしが、小谷落去以前は、秀吉は五万石、
堀二郎は十万石の領主たるに依て、不服秀吉異見条、間柄不快。近年浅井へ
内通仕候由、秀吉依言上如此)

―『当代記』

609:人間七七四年
17/02/22 09:46:36.86 3POQtBKt.net
手取川の戦い(小声

610:人間七七四年
17/02/23 07:41:29.69 NtmEGZmh.net
獄司所用の鑓之事

 概して人へ刑罰をおこなうとき、獄司が用いる槍は柄が朱黒の段塗である。
予も引廻し晒し者に行きかかったときに度々見た。
宗耕が言うには、磔罪のときもこの槍で突くという。
 さて、この槍は初めは福島左衛門(正則)の家の槍であったが、
故あって何者かの物となり、それより獄司に転じたという。
その次第は聞いたが忘れた。
福島は違っていないはずだ。

(甲子夜話三篇)

611:人間七七四年
17/02/24 00:20:47.23 rjLhinUl.net
秀吉公の御時、「ならかし」と言う事があった。金を貸し出した金融業者は、元金を失った上に、
なお放埒な営業の罪が軽くないとして、罰金として再び黄金を提出させられた。
そこでこのような落首が出た

 奈良かしや この天下殿二重取り とにもかくにもねだれ人かな
 (奈良貸しで秀吉公は黄金を二重取りされた。なんという狡猾な人であろうか)

  ※ねだれ人:色々な計略、策を用いて人に損害を与えようと他人を欺く人、狡猾な人【日葡辞書】
(醒睡笑)

この「ならかし」、はじまりはこういうものであった

『奈良中へは大納言殿(豊臣秀長)より金子一枚を代米四石ずつにして、一万石ばかり町々へ借用。
押してかくのごとし、金は来年の春に取るべきよしなり』
(奈良において豊臣秀長は金子一枚を代米四石とした上で、米一万石を奈良の町々に貸し付けた。
その利息を来年春に「金」で支払うようにとした。」
(多聞院日記天正十七年十月五日条)

つまり秀長が、奈良の金融業者を通じて人々に米を貸し付け、その利息を金で受け取っていた、
という事である。
しかしその結果、天正二〇年九月二日付「奈良惣中」より秀吉側近、木下半助(吉隆)、
山中橘内(長俊)にあてた直訴状の第四条によると

『一、大光院様(豊臣秀長)は御金五百枚あまりに利息をつけて奈良に御貸しなされました。
しかし、毎月利子を銀子にて、奈良奉行の井上源五殿は過分に徴収されました。
しかも井上源五殿は私的な金二百枚あまりも、これも大光院様の御金であるとして、奈良中に
貸し付けられ、ここからも過分の利息を取られました。』
(庁中漫録)

奈良においてはこの借金のため、殺人事件や一家心中が起こるなど、社会問題化していたという。
そしてこの直訴の結果は

『直訴のさまは、ことごとく地下人の勝ち』
(多聞院日記天正二〇年九月八日条)

となり、これにかかわる奈良の金商人(金融業者)が尽く牢に入れられた。
しかし訴訟した者達も一時的に牢に入れられ、また奈良奉行の井上源五には何の処分もなかった。

ところでこの「ならかし」で、何のために資金が集められたのか。
天正二〇年十月十日、豊臣秀吉より、豊臣秀次宛の朱印状にこうある

『一,今度奈良借について出だしそうろう金銀、これらをも右の船(安宅船)の用に入ること
そうらわば、あい渡すべきこと』
(今度の奈良借しで得られた金銀について、安宅船の建造に必要であればそちらに流用するように)

「ならかし」で集めた金銀を、秀吉の「唐入り」のための、軍船建造費に使うように、との内容である。
ここで「ならかし」が、秀吉の政権による施策であったことが判明するのである。
金融業者たちを牢に入れたのは、責任を彼らに転嫁するためであったのだろう。

以上、醒睡笑の「ならかし」の逸話と、それについて、河内将芳 著「落日の豊臣政権」のより、解説を抜粋。

612:1/2
17/02/25 22:54:33.58 ORS48Def.net
山名禅高があるとき、所々破れたいかにも古い、黒き羽織を着て御所に出たのを、大御所徳川家康が見て
「禅高、その羽織は?」と尋ねられた。禅高は袖をかき合わせて
「これは満松院殿(足利)義晴公より拝領したものです。」と申し上げた。
家康はこれを聞くと
「流石は山名殿である。返す返すも殊勝なり。」
そう御感賞された。

これは岩淵夜話に有る話であるが、有る人が言うには、羽織はことさら近年のものである。
初めは中元以上の者達が、ばさら事の伊達に、稀に着たものであったという。
それがこの頃に至っては、上下ともに礼服のように揃って着るように成り、公の場においての
時服拝領などでも、羽織が添えられるようになったが、それはここ百年ほどの事であるそうだ。

613:2/2
17/02/25 22:54:53.32 ORS48Def.net
私の記憶では、七十余年以前の私が幼かった頃までは、武家において子供に羽織を着せることはなかった。
ただし町家などでは振り袖の羽織を着せていて、私もこれを羨ましく思い、親にせがんだ所
「士の子は袴だけでよろしい」と、古風であった私の父母は、どちらもこれを許さなかった。

その当時の老人たちはこう言っていた
「我らの若き時分までは、羽織を持っている人は稀でれあったし、普段から着ている人もおらず、
花見遊山と言った時に着ていただけであった。今のように成ったのは常憲院殿(徳川綱吉)の御代よりの
風俗である。」

このように見ていけば、羽織という物が世に現れたのは全く近年のことと見えるが、またこの逸話の内容が
真実であると見た場合、二百余年以前より羽織という服は存在したが、民間には広まっていなかった、
そう考えるべきであろうか。

(翁草)

言外にすげー言いたいことを感じる翁草の記事

614:人間七七四年
17/02/26 00:15:40.67 Lr6URigv.net
翁草の作者って割とこういう分析コメント好きだよな

615:人間七七四年
17/02/26 04:34:54.64 5ya2q+nv.net
褌みたいなもんか

616:人間七七四年
17/02/26 08:11:04.60 yHclo49x.net
庶民なんか普段は褌してなかったりするからな

617:人間七七四年
17/02/26 20:47:37.65 izwNANYm.net
今川義元は足が短く、胴は長く、片端であるとして臨済寺の喝食に致し
置かれたけれども、大将の器量ありとして取り立てられたという。

(今川義元。足みじかく。胴ながく片輪なりとて。臨濟寺の喝食にいたし
置かれたれども。大將の器量ありとて。取立られし由。)

―『武功雑記』

618:人間七七四年
17/02/26 20:53:26.09 j+Q6XpeV.net
胴長短足のほうが馬上では見栄えが良かったんじゃなかったっけ

たぶん輿に乗っててもカッコついたんだろう

619:人間七七四年
17/02/26 21:29:21.37 lnr7vVWg.net
義元公が輿に乗っていたのは足が短いからじゃない
駿河遠江三河の太守としての格式から乗っていただけ
肥満で馬に乗れなかったのは肥前のクマもん

620:人間七七四年
17/02/26 22:18:04.90 qZOgaZXR.net
雷神さん「輿に乗って戦場往来とか名将ぽくね?」

621:人間七七四年
17/02/26 22:29:28.79 lnr7vVWg.net
輿に乗って采配をふるい戦場を縦横無尽に駆け巡るとか実際に見てみたいわ
男塾の民明書房に騎馬戦の起源であるとか書かれてそうw

622:人間七七四年
17/02/27 03:06:00.05 1AOZFTBW.net
「ワシは輿を大っぴらに使うことを許されてる身分なのだ。格下ども控えおろう」
というデモンストレーションなんだろうけど、小回りが利かなかったから緊急脱出できなかったんだろうな

623:人間七七四年
17/02/27 04:41:45.64 cCpF6CPC.net
>>620
瘡頭「ですよねー」

624:人間七七四年
17/02/27 07:32:58.92 JdNMgBd3.net
>>618
短足だと馬の腹が蹴れないのでは?

625:人間七七四年
17/02/27 20:29:57.84 EACPwTQf.net
豊臣秀頼の最期については、異説が非常に多くて事実を分明できない。
おおよそ世の説を以ってすると、秀頼は大阪落城のあと薩摩へ退いたとされる。
薩州において客分として安居し、しかもかなりの長寿を得て、延宝か天和の頃(1673〜83)
90歳あまりで亡くなられたという。

その頃、薩摩の太守が参勤の御挨拶の砌に、将軍家に対し御人払いをして言上する、という事が
あったそうだ。この時薬研藤四郎の短刀が献上されたそうだが、それ以外に何が語られたのか、
全く知られていない。(この説虚実を知らず)

また、この時の随員のなかに真田を名乗る武士がいたそうだが、彼は世を憚って「マナ田」と
称していたという。真田大助の子孫だろうか。(この説も虚実を知らず)

(翁草)

626:人間七七四年
17/02/28 01:26:27.42 QzRy6CAa.net
昔読んだ小説に真田大助が主人公の話があったけど
武者修行中にチン子切り落とされてそれを哀れんだ実母とセクロスするとかって内容だったから
ずっと架空の人物だと思ってた

627:人間七七四年
17/03/01 10:04:22.29 L7mnKgnz.net
加藤家断絶前兆の事

蒲生秀行に仕えて一万石を領した神田清左衛門という武士は、後に加藤肥後守忠広に仕え五千石を領し、
肥後加藤家断絶の後は阿州松平安房守家(蜂須賀家)に抱えられ、三千石を賜い、その子孫は今も
かの家に仕えている。

この清左衛門の物語によると、肥後加藤家において寛永8年に不思議な事があったという。

熊本城内の桐の木に、冬瓜のようは果物が数多生えた。人々見て、
「これは珍しき事である、末はどのようになるのだろう。そのまま置いて、熟するのを見よう」
そう言って待っていた所、ようやく熟する頃に至って、その果物の中よりネズミが実を食い破って
出てきた。人々更に怪しみ、この果物を尽く取って切り割ってみると、全ての実の中にネズミがあった。
そのネズミは尽く打ち殺し捨てたが、その実のなかに一つだけ、鉈があった。
人々は「不思議、奇怪」と言うばかりであった。

然るにその翌寛永9年6月、肥後守忠広および嫡子豊後守光正父子は配流となり、領国を改易された。
「さては、あれはこの前兆であったか。」人々はそう囁きあった。

そのときに見つかった鉈は、仔細あって某氏の子孫が今も所持しているという。
これは清左衛門が物語したことを、阿州家中の士が語ったものである。

(翁草)

628:人間七七四年
17/03/01 12:24:35.35 GR/xBTE0.net
>>627
既出。しかもソースもいっしょ
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

629:人間七七四年
17/03/01 13:58:25.95 IhN9hwwZ.net
阿波の安房守か

630:人間七七四年
17/03/01 23:11:11.96 kLBlArxO.net
 ある人、紹巴の所へ行き

「我はあまりに無能でしたので、何か心掛けたいと存じています。
医者か連歌を望んでいます。
御相談の上、あなたの御意見次第にいたすつもりです。」

と言った。紹巴は聞き、

「それはよい心掛けでございます。二つの内では、連歌がましでありましょうか」

と言われた。それから、かの者は連歌を好むようになった。
 その後に、ある人が紹巴の所へ行き、

「さてさて、井原屋の無心は貴老と御相談して連歌をするようになったと申していましたが、
どういった理由からそうおっしゃられたのですか?」

と尋ねた。紹巴が言うに

「そのことでございますか。
あれほど出来が悪いのに医者になりましたら、
人の種がなくなってしまうでしょう。
せめて連歌ならば、人を殺すまいと思ったからです。」

(昨日は今日の物語)

631:人間七七四年
17/03/01 23:29:52.99 ahPZfOIy.net
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
曲直瀬道三を相手に紹巴で似たような話があったな

632:人間七七四年
17/03/02 20:54:21.55 gsMc9xf7.net
西国の、大村五島の類の外様大名について、彼らは元来国人にて、鯨突きの類であった。
戦国の頃、恣に近隣を略奪、横領し、後治世となって公儀より御改の節には、よき程に
石高を書いて提出し、その後検地の御沙汰も無く、その提出した石高の通りに、格式軍役を
仰せ付けられている。これを「差出高の衆」と言う。辺境の国にこの類は多い。
東国では津軽氏なども同じような存在である。表向きの差出高に対し、実高はその10倍であるとか。

(翁草)

肥前五島藩の五島家(宇久氏)のことか。

633:人間七七四年
17/03/03 09:52:22.65 2e2kntZ0.net
南部さんとか、島津さんとか

634:人間七七四年
17/03/03 11:26:44.27 zUVujDMJ.net
島津は表高を上げ過ぎて四苦八苦してるけどね。
津軽も江戸時代の高直しで苦境に陥ったし

635:人間七七四年
17/03/03 14:18:07.22 41HyJ93c.net
対馬の宗氏と蝦夷の松前氏は1万石扱いなんだっけかそんなにないのに

636:人間七七四年
17/03/03 14:26:17.89 9X2ZeKxt.net
一万ねえと大名じゃねえ

637:人間七七四年
17/03/03 22:12:12.36 JhVX3B9d.net
ろくに米とれない所は海産物やら木材なんかを石高換算するんだっけ?

1万石で大名ってのはいつからそう決まったの?

638:人間七七四年
17/03/03 22:51:18.23 H7v176AZ.net
江戸時代から。
米が単価ベースだったから米が基準、で海産物なんかは別換算だったはず。南部家は米が少ないから広い割に30万石くらいだったけど実際は海産物含めてもっとあったような文献を読んだ。

639:人間七七四年
17/03/04 02:29:30.81 CyHrUAAx.net
3月11日(慶長17年)、小笠原権之丞、榊原加兵衛以下、御旗本の輩
5,6人を改易なさった。伴天連の宗門に帰依している族である。

原主水正(胤信)も同罪の者であったが、逐電して行方知れずになった。

この時、大神君(徳川家康)の上意あって、今後旗本の面々は各10人組
とし、相互に吟味を遂げて、もし、その中にかの宗の徒がいれば、言上す
べしとの旨を、仰せ渡しなさったという。

―『関難間記』


岡本大八事件を受けての処罰と処置という話。

640:人間七七四年
17/03/04 21:22:06.58 x2xTiC3w.net
まとめサイトの管理人さんオススメの平山優「武田氏滅亡」の甲州征伐の箇所読んでたら
「甲乱記」では
飯田城の武田方は、馬糞が燃えているのを織田軍の鉄砲の火だと思い夜間に一目散に逃げ出した
まるで富士川の合戦で水鳥の音に逃げ出した平家のようだ
(平山優によれば、実際は浅間山が48年ぶりに噴火したのを見た武田方が戦意を無くしたからかも、としている)

と書かれてるとか、

勝頼の新府城からの逃亡を木曽義仲の没落や平家の都落ちになぞらえている、

そうだ。
富士川の合戦の大将が武田信義で
自称木曽義仲の子孫の木曽義昌がいち早く裏切ったことを考えると歴史の皮肉というかなんというか

641:人間七七四年
17/03/04 22:25:04.51 O+aWJb3p.net
鳥居家改易顛末

寛永12年、山形藩主・鳥居忠恒は嗣子を定めずに早世する
忠恒には同母弟で戸沢政盛の養嗣子になっていた定盛と部屋住みの異母弟・忠春がいた
本来なら忠春が後嗣になるのが筋だが忠恒はあえて不仲の継母・内藤氏の腹である忠春に継がせずわざわざ定盛に継がせようとした
これが末期養子の禁令に触れ幕府の嫌疑を招くことになる
この時、井伊直孝はこう発言したとされる
「世嗣の事をも望み請ひ申さざる条、憲法を背きて、上をなみし奉るに似たり」
「斯くの如き輩は懲らされずんば、向後、不義不忠の御家人等、何を以て戒めんや」(いずれも『寛政重修諸家譜』)
直孝発言は対立関係にあった鳥居家を追い込むためとの説もある
鳥居家と井伊家は元忠や直政の子世代の忠政や直勝(直孝兄)の頃から対立を深めていた
直孝の発言を受け幕府は「末期に及び不法のこと申請せし」(『寛政重修諸家譜』)とし山形24万石を没収し高遠3万石に転封させた
しかし忠春は忠恒以上の絵にかいたような暴君かつバカ殿でその子・忠則の不始末で鳥居家は二度目の改易に遭うのは先の話

642:人間七七四年
17/03/05 02:53:36.53 yOjylQgb.net
永禄3年の夏の頃、今川治部大輔源義元は駿河・三河・遠江の大軍を引き連れ、
天下一統のために東海道を上洛するので、まず尾張を攻め平らげて攻め上らん
と企てなさった。

(中略)

さて信長公の御軍謀は、敵の先手の大軍を皆本道へやり過して、当方の御人数
はひそかに山の陰を隠れて廻り行き、義元の本陣へ一同にどっと突き掛かって、
切り崩さんとの御謀であった。

義元はこれを知らずに赤地の錦の鎧直垂、胸白の具足を身に着け、松倉郷の刀、
大左文字の太刀を帯びて、先手の者どもが鷲津・丸根の両城を攻め落としたのを
大いに喜び、桶狭間の山下の芝原に敷皮をしかせ、義元はそれに座し休んで、

勇み誇っていたところへ、近郷の寺社の僧社人などが喜びの樽を進上したので、
すぐにそれで酒宴を初め、謡をうたい、 興に入っておられた。

熱田表には織田方の先陣、佐々隼人(政次)、千秋四郎(季忠)などが人数2百
ばかりで信長公の御旗を待ち受けて、山際に控えていた駿河勢へ打って掛かり、
佐々、千秋は小勢なので取り囲まれて50余人が討ち取られ、

駿河勢は勝ち誇って隼人、四郎両将の首を取って槍の先に高く持ち上げ、一度に
どっと鬨を作った。そればかりでなく、信長公の寵臣・岩室長門守も抜け駆けして
討ち取られた。佐々、千秋、岩室3人の首を本陣へ遣わし、

義元に見せ奉ると、義元はますます勇み誇り、「それがしの矛先には、いかなる
天魔鬼神であろうとも、溜まるまい!」とのたまい、なおも勝ち戦に驕りを極めて、
酒宴にふけっておられた。

―『織田軍記(総見記)』

643:人間七七四年
17/03/05 05:13:29.81 q0qI5IAz.net
長門が死んでるw

644:人間七七四年
17/03/05 09:11:26.90 xAM+rR9g.net
ザルすぎる防衛網

645:人間七七四年
17/03/05 14:02:31.44 HSagfeNr.net
 織田信長殿、内裏様を殊の外大切に思われ、村井春長(貞勝)を奉行に任命し禁中を尽く御修理をなされた。

 このことであるうつけ者が言った。

「内裏様の御念者は村井殿じゃ。」
「なぜに。」
「今日も『内裏様のみしりをしに行く』と、日に日に御出かけされるのでそうだと思ったのだ。」

※みしり 御修理 御尻

(昨日は今日の物語)

646:人間七七四年
17/03/07 00:36:04.14 sUTcU+gp.net
寛永14年、肥前島原にて切支丹宗門の一揆が起こった時。江戸より総軍令を遣わされることと成り、
将軍家光のお側に伺候していた板倉内膳正重昌が選ばれた。
ところが、その頃内膳正は病を患っており、老臣以下このことを聞くと

「別にこの役儀に相応しい器量のものを選ばれ、内膳正は御免あるべきではないだろうか。」

そう内々に相談し、何れも尤もであると賛同し、この趣を将軍家に申し上げることに定まった。
そこで大老である酒井讃岐守忠勝まで話を上げると、忠勝は聞くやいなや

「あなた方は内膳正という人間を解っていない。彼がこの度の御使を承りながら、病気のため
御免となったと仰せになれば、忝しとはよもや思わないだろう。
殊に、別人に代わりの軍監を仰せ付けられたと承れば、忽ち自害するような人物である。
ただそのままに、島原に遣わされるべきである。
仮に道中にて病死したなら、その時こそ代わりの人を使わさせるべきだ。」


「そのような事になれば、何かと日数を経る内に、一揆の蜂起はますます広がって
しまうのではないだろうか?そのことをどう思われるのか?」

この反論に讃岐守は笑って
「あれは土民の一気に過ぎない。一体誰が彼らに味方するというのだろう。
もしまた、この混乱を幸いに、幕府に対して反抗の色を立てる者が居れば、それこそ
我々にとって良き対応を試みる、良い機会となるだろう。
尚以て、板倉こそ遣わされるべきだ。」

内膳はこのことを聞き伝え、大いに喜んで早速準備をし、嫡子である後の内膳正重矩、
当時16歳であったのを同行させ、命を受けた即日出陣した。


しかしその冬の軍は思いの外手間取り、その事は将軍家まで聞き及び、重ねて松平伊豆守信綱を
差し向けられるべしとの事となった。

これを大久保彦左衛門忠教が聞いて、心易い同輩にこう囁いた
「あたら内膳正は討ち死にするだろう。不憫な事だ。」

彦左衛門察しの如く、松平伊豆守が発向したとの情報を聞くと同時に、板倉内膳正は一揆に猛攻を
仕掛け、深入りして討ち死にをし、息子重矩も深手を負った。

内膳正はこの日を討ち死にと覚悟し、出立の時、息子重矩に向かい
「私は今回、酒井讃州の一言によって、忝なくも総軍の支配を承った。
お前は相構えて、讃岐守の子孫に対し、無沙汰をしてはならない。」

そう重矩に、くれぐれもと言い含め打ち出たのだという。
人にとっては、一言であっても大事になる事もあるのだ。

(武野燭談)

647:人間七七四年
17/03/07 02:24:25.85 f/PBwvWV.net
信長公はもともと上戸である。浅井殿を妹婿に取って後、浅井殿を
何とかして、打ち潰そうとの謀ばかりを心がけなさったことによって、
大酒を止めなさったという。

―『武功雑記』

648:人間七七四年
17/03/09 03:40:45.70 3YZkEmVw.net
坂田五郎左衛門、穴沢左近と勝負之こと〔『校合雑記』〕付異聞

 世に『校合雑記』と題す書がある。実録と見える。
その書には、大坂信貴野での上杉景勝の兵である坂田五郎左衛門と穴沢左近〔世にいう薙刀の名人である〕の勝負が書かれてある。

 穴沢は隠れもない薙刀の上手であった。
坂田と槍を合わせると互角であり、
穴沢が手元まで入って来ると坂田は槍を捨てて穴沢を押し付けて引き組んだ。
穴沢は大力であったので、手もなく小高い所に坂田を組み敷いた。
しかし坂田は老武者で武功があったので、騒がず九寸五分を抜いて、
【根付の所より繰(クリ)かへし】〔根付以下十字はまだその事が分からない。よって原本に従った〕穴沢の首を取った。

「総じて自分の器量より他人をみくびりおごっている者は仕損じがあるものだ。
穴沢は器量を自慢していたと見えて、長刀ゆえに自分が生き残ると思っていた。」

と坂田が話していたと、上杉衆の話を書き付けてある。
〔長刀ゆえの言葉は、穴沢が長刀の能を誇っていたからかえって坂田は勝つことが出来て生存し、今日に至るとの事であった。〕

 ある夜話のとき、剣の師がいつもの稽古の話として言い伝わっているものを話してくれた。
穴沢のこの最後のとき相手は素槍であった。
しかし槍を合わせると穴沢はすぐに入ってきたので、相手は槍を投げ刀で袈裟に斬った。穴沢はここで負けたという。
師曰く、

「このようなので、太刀槍薙刀、その勝負の場は剣刃上である。」
(剣刃上※剣の刃の上を歩くように、自由自在なこと。)

『雑記』の文と異なっている。しかし両者とも心得るべきことだ。

(甲子夜話三篇)

649:人間七七四年
17/03/09 23:55:41.28 RVhtdrtc.net
或る説によると、豊臣秀吉が、実は神皇百六代後奈良帝の御落胤であるという。
母はこの朝廷に仕えていた所、禁裏衰微の故から御妊娠のあと故郷に帰り、上中村の何寺
とやらに居た叔父の僧の世話に寄って木下弥右衛門の所に嫁いだのだとか。

この説によると天瑞院殿(大政所)は弥右衛門の継室であり、瑞龍院殿(秀吉姉日秀尼)とは
別腹ということになるが、この説を豊臣秀吉は非常に喜び、後に朝鮮より素性を尋ねられた時、

「父は知らず。母は官女」

と書かせたという。

(翁草)

650:人間七七四年
17/03/10 00:18:49.42 CuKbDLlq.net
大村由己「天正記」を真に受ける人がいたとは

なお朝鮮の宰相・柳成龍「懲録」によれば
「秀吉については、ある者は『彼はもともと中国人で、倭国に流れ込んで薪を売って生計をたてていた。
ある日、国王が外出中に道ばたで出会い、その人となりの尋常でないのを見て、軍列に加えた。
勇敢で、力があり、戦上手であったので、功績をあげて大官に出世し、権力も握るようになって、
ついに源氏(足利氏)を奪ってこれに代わったのだ』と言い、またある者は、『源氏が、ある人に殺され、
秀吉がまたその人を殺して国を奪ったのだ』とも言う。」
(中略)
その国では、天皇を尊び、秀吉以下は、すべて臣下の礼をもって対処している。秀吉は、国内にあっては王を称えず、
ただ関白とか、博陸侯とか称している。いわゆる関白とは、霍光の言った『凡そ事は皆まず関わり白(もう)せ』という
語からとって、そのように称えているのである。」
となってるので落胤とは思われてなかった模様

651:人間七七四年
17/03/10 00:39:46.61 CuKbDLlq.net
ついでに↓でも触れられているけど柳成龍による巨済島の海戦
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

賊(日本)軍の平(小西)行長から要時羅(よしろう)という人物が金応瑞に派遣されて
「自分は講和交渉を台無しにした加藤清正を甚だ憎んでいる。
これこれの日に、清正の倭船が渡海してくるので朝鮮の水軍は迎え撃つべきだ」と言った。
権慄はこれを信じたが、李舜臣は賊の罠だと疑い、前進せずに遅延してしまった。
とうとう清正が上陸してしまったため、朝廷は李舜臣を咎め立てし獄舎に投ぜられた。
するとまた要時羅が派遣されて「これこれの日に倭船が来援します」と伝えてきたため、
李舜臣と仲の悪かった元均は、あるだけの船を全速力で向かったところ、
強風が吹いて散り散りになり、疲れたところを賊軍に襲われてわが水軍は壊滅してしまった。
思えば、賊軍は水軍にだけは敗北を喫していたため、秀吉がそれを憤って行長に撃破を命じ、
行長は応瑞を騙し、李舜臣を罪に落とし、元均を海上におびき寄せて襲撃したのだった。
その計略は至って巧妙で、わが方は、ことごとくその計略にはまり込んでしまった。
哀しいことである!

友軍を売ろうとしたら大戦果を収めてしまった小西行長であった

652:人間七七四年
17/03/10 00:57:59.00 B06BHJSI.net
平戸広前院、壱岐覚音寺、田平弥勒寺、城下正安寺、誓願寺等鐘之事

 天保甲午に侍臣の父が古談を言ったとして話した。
〔以下の文は他人が聞きやすいように記してある。〕

城下の町中にある七郎権現という祠は大きな宇である。
その祠前に道を隔てて海辺に船着きの石段がある。
法印公(松浦鎮信)が朝鮮へ御出陣の時はここから御船を出された。
この時祠の傍らにある別当広前院の門を顧みると、撞鐘が懸けてある。
公は軍吏に命じて
「かの鐘を銃丸とすべし」
とおっしゃられた。
〔予が思うにこの銃丸はいわゆる唐金丸(からかねだま)であろう。
堅物を貫ける利点がある。朝鮮着岸のとき、兵達の利となるように慮られたのであろう。〕

 これから公の鋭志を見ることができた。
この話を聞き、近頃かの侍臣が広前院の門を視たがその門は今日の物ではなく、
甚だしく古色であった。しかし懸鐘の鉤はなお衡門に存在していた。
鐘を取った後からまた年月を経てそこにある。この門の安否は知らないと。

 また不動院〔この僧は平戸の生まれで、久しく壱岐の某寺に住んでいた〕が話では
今壱岐の覚音寺〔立石村〕にある鐘は、法印公は朝鮮に持っていかれた広前院の物だという。
なぜ壱岐にあるのかというと御帰陣のとき混雑だったためだという。ならば銃丸の話はまた一説であろうか。
 少年の時に広前院に仮住まいしていた者に聞いても、前説のようであった。
これはかの寺で言い伝えだという。
また、懸鉤はかの古門を修造するときに取り離したときに、
そのころの住僧がよく心得ていて古い例によってもとのように打たせたという。

 またある者の話では領内の田平村の弥勒寺という寺には、領内の数里隔てた相神浦真法寺という寺の鐘があり、これも朝鮮帰陣の時のことと言い伝わっている。皆の混雑の有様が想われる。

 城下の正安寺という寺は古き祖先公が開基の寺である。
この鐘も朝鮮に持って行かれたが、この寺の銘がある鐘は今日向国にあると聞いたので、
そこの島津淡州に頼んでかの国に問うた。
何八幡とかいう社頭馬場がある辺りの寺に、
正しく平戸島正安寺と銘がある鐘があると答えた。
これらは元の場所と違い所に行き、島津氏が手に入れる結果となった。

 また城下誓願寺という浄土宗も古い寺である。
この寺に今ある鐘は大きな物であるが、長州吉田郷何々の鐘とか銘がある。
また誓願寺の鐘はいずれかにあると。
『扶桑鐘銘集』かに書いてあると思われる。
これは暗記なので定かではない。
この寺の鐘も古寺のことゆえ、朝鮮の役に持って行ったものの一つであろう。

(甲子夜話三篇)

653:人間七七四年
17/03/10 11:40:36.45 gLZd/NjL.net
メチャクチャですがな w

654:人間七七四年
17/03/10 13:55:56.55 c5Zdyy3A.net
>>650
>『源氏が、ある人に殺され、秀吉がまたその人を殺して国を奪ったのだ』

爆弾正「よし、途中が抜けてるからセーフだな」

655:人間七七四年
17/03/10 21:36:32.50 I2lYKaTf.net
大河ドラマのおんな城主直虎が不発なので応援エピソードを送る

1983年の大河ドラマ徳川家康でのエピソードだが
(NHKオンデマンドで見れるシーンだが)
徳川家康の幼年時代に今川家に人質になった年の正月に
今川義元から屠蘇をもらう時、竹千代のそばに美しい姫が二人並んだ
1人は鶴姫といいもう1人は亀姫という
義元は竹千代に将来、鶴姫を嫁にしないか?と言われる。
竹千代は殿の命令ならいただきますと答えた。
すると義元は竹千代にでは亀姫はどうか?と尋ねられ
竹千代は即答で亀姫を嫁にしたいと答えた。
数年後、竹千代の嫁になったのは鶴姫だった。
それから数年後、亀姫は竹千代事、徳川家康の敵としてはばかり
悲劇の最後を遂げるのである。
亀姫が亡き後、家康は亀姫にそっくりな姫を側室にして
その側室が2代将軍秀忠を生むのである。

ちなみに亀姫が死んだ後に鶴姫は亀姫の墓前に
椿の花を数百本植えて弔った弔ったいうエピソードがある。

656:人間七七四年
17/03/10 22:01:22.78 SqWqwXvN.net
それって大河以前の出典のあるエピソード?

657:人間七七四年
17/03/10 22:13:40.76 I2lYKaTf.net
原作読んでないからわからん
脚本家の創作かも知れないけど

658:人間七七四年
17/03/10 22:39:44.07 I2lYKaTf.net
これからの「おんな城主直虎」は田鶴との血を血で洗う攻防戦になるから
これをどのように描くのかシナリオに興味があるな
この田鶴との攻防戦のできによっては面白くなるか
オニギリ以下の大河ドラマになるかの瀬戸際だから注目しといていいよ

659:人間七七四年
17/03/10 22:51:14.59 I2lYKaTf.net
ネタバレになるのだが
大河ドラマの徳川家康の亀姫=おんな城主直虎の田鶴なんだよな

徳川家康では竹千代の初恋の姫で、直虎では直虎の最大の天敵というのも面白いですと思う

660:人間七七四年
17/03/10 23:24:00.65 TbL3G2rO.net
10年くらい前にいい悪いスレに上がってた話をドラマで見れるとか胸が熱くなるよな

661:人間七七四年
17/03/11 10:28:41.06 NRxTn7fG.net
鶴姫=瀬名
亀姫=田鶴

662:人間七七四年
17/03/11 12:42:16.66 3jYWWDyx.net
鶴がついてる方がつるひめじゃーないのか

663:人間七七四年
17/03/12 03:54:09.75 Ea6rH+3d.net
 関白秀次公の御咄衆に、曽呂利と申す者がいた。
あまりによく話をしますので、ある時話をつまらせてやろうと思し召された。
彼が朝の寝起きで未だ顔も洗わず目をこすって取り乱している体であったときに、

「何か話を一つせよ」

と仰せられた。すぐの話なのでつまりかけたが、ふと昨夜の夢を語りだした。

「さても、今宵夢を見ておりましたのか。
ある所へ行きまして、道に小金が夥しく落ちておりました。
さても嬉しい事かなと存じ、思う存分に拾い持ち帰るところに、
落とした主が来て取り返そうと追いかけてきました。
汗水をかきながら逃げましたが追いつかれそうになり、
もはやというところで余りの苦しさに、大便を垂れてしましました。
そこで目が醒め、かの金を探ってみましたが金は跡形もなく、
大便はたくさん垂れてありました。」

(昨日は今日の物語)

664:人間七七四年
17/03/12 14:38:42.96 lFS0FxH5.net
日本人は本当食い物を粗末にするよな

665:人間七七四年
17/03/14 17:34:44.98 T6KbAzrH.net
ある年のこと、尾張大納言徳川義直の元に酒井讃岐守忠勝が訪問した時、馳走にと
嫡男五郎太殿(後の徳川光友)による能興行があった。
この時、五郎太の手の舞い、足の踏む所、自らの拍子を、『讃岐守はきっと感賞するであろう』と、
義直は自慢げに見せるのを、忠勝は一切褒めず

「勿体なき大事の御身でございます。どうぞ余人に仰せ付けてください。すでにご器用なのはよく解りました」
(勿体なき大事の御身にて候。只余人に仰せ付けられ候へ。最早御器用の程は見え申したり)

と、しきりに止めようとした。立ち返ってから

「武家は何度も武を賞賛されることこそ本意である。大人・公子の御身として、幽霊女の真似など、
全く益がないではないか。」
故に全く感心できなかったのでやめるよう言ったのだと、成瀬隼人正正成に語ったそうである。

(武野燭談)

666:人間七七四年
17/03/14 21:27:44.11 BQ1j7HGy.net
でも武を見せつけると謀叛の疑いをかけらるんだろ

667:人間七七四年
17/03/15 17:53:08.67 FwIHOceO.net
ある人が言った
「大久保相模守忠隣、本多上野介正純などは、父祖代々御当家に仕えて大功のある人々の子です。
であるのにその一身が修まらざるによりて、最期には辱められ、彼らに縁のあった大名たちもまた、
名家、あるいは数代の武臣であったのに、多くがこの事によって改易されました。
これは非常に荒い御政務ではないでしょうか。」

これを土井大炊頭利勝が聞いた
「愚かなることを申す者かな。私などは今、武家(将軍家)執事職を兼ね勤めていると言っても、
子孫が君命に背くなら、他の者よりも罪を糾明されてこそ本意である。
またその上で、折が有れば、大久保・本多といった罪を問われた人々に存命の子孫が有れば、
宜しく召し仕わされる事、これが仁政である。

今は、天下創業の御政務である。
だからこそ、先ず御譜代より厳しく戒め置かれているのは天下に恐れられている。
御譜代の者が別してその罪を深くしてこそ、上の後威光が増すのである。

忠隣、正純の父である、大久保忠世、本多正純も、息子に対して泉下で憎んでいるだろう。
仮に存命していれば、共に子を勘当したであろう。
彼らはそういう人物であった。」

そう申されたという。

(武野燭談)

668:人間七七四年
17/03/15 19:41:25.77 jC7m6Npx.net
>>667
いい話じゃない?

669:人間七七四年
17/03/15 21:45:02.10 kjNWxgyd.net
正純の父が正純

670:人間七七四年
17/03/15 22:44:16.45 ccF9VRfj.net
Oh!マサズミホンダJrのコトダネー

671:人間七七四年
17/03/16 00:57:14.93 ESpxuFY9.net
 天正の末のことである。
関白秀次の家臣の人々が新しい諸大夫になった時、
その若造どもは聚楽の番所のわきに集って居た。

「我が主殿は、今度”かみ”になられたか。
社参してくる衆も『めでたくございます』と樽酒を持って参る。
が、まだ賽銭などは見えませんな。」
「何の”かみ”におなりになられたのか?」
「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」
「それは少し生臭いかみじゃ。しかしながら、これは御意であろうのでどうしようもない。
うちの主殿も昔から、”なまこの寿千寺”といってきている。」

 評して云う。
万民を憂う心は弱く利を思う心が強い人を宰相の職に挙用したら、
雀部淡路守をあはびのかみ、尼子寿千寺をなまこと聞き違える害がでたのだろう。
善悪が生じる原因は、智に明るいかどうかではないだろうか。

(戯言養気集)

672:人間七七四年
17/03/16 10:10:26.13 9pvTh3BL.net
落語の「松竹梅」を思い出した
長屋の松さん、竹さん、梅さんが名前が縁起がいいってので若旦那の婚礼の座興をすることになったが
松「なったあ、なったあ、じゃになったあ、当家の婿殿じゃになったあ」
竹「なんのじゃになられた?」
梅「長者になられた」
というところを梅さんが間違って
「大蛇になられた」「風邪になられた」
最終的には「亡者になられた」
と言ってしまい、あわてて逃げ帰るという

673:人間七七四年
17/03/16 21:35:54.42 +0jck8rG.net
おんな城主田鶴
井伊直虎の最大ライバルなのになぜ出て来ないの?
武田信玄に上杉謙信
武蔵に小次郎
みたいな存在なのに
そもそも田鶴が直虎の曽祖父を毒殺して
直虎がおんな城主になったのに

674:人間七七四年
17/03/17 01:49:54.67 3F32zGZe.net
 太閤秀吉公が名護屋に御在陣の時加部島で鹿狩りを催し、
狩った鹿を田島大明神の社壇の前に集められた。
多くの臣下が神明の咎が蒙るかもしれずいかがなものかと思い、外へ持ち出すべきだと言ったが、
秀吉公は少しも恐れられず、

「どうしてそのような事が起ころうか」

と悠然とおられた所に、たちまち風波起こって集まっていた鹿を残らず吹き飛ばし穢土を清めた。
秀吉公はすぐに宮司に仰せられて、神鎮めの神楽を奏上された。
 その後祈祷祈念を怠られず、奉納寄付等があった。
既に朝鮮渡海の先鋒小西摂津守・加藤主計頭の軍勢が出船していたので、敵国調伏の祈祷をさせられた。
 御社の後ろの森の中に大石がある。この前に壇を築き注連縄を引いて、宮司は丹誠を尽くして祈る。
数百騎の精兵は弓矢を帯びて朝鮮の方に向かって矢を放ち鯨波を揚げると、大石が中から縦に割れた。
その石は割れたままで今も宮殿の後ろにある。
秀吉公は御感ひととおりでなく神明を仰がれられて、軍勢海陸無難、敵国調伏の祈願をこめられた。
 その後一艘の船を献じ朝鮮の梅と奈良の八重桜の苗を社内に植えさせられた。今もその樹が残っている。

 松浦郡の神社は皆田島大明神の末社であったという。
境内の末社に佐用姫の神社がある。縁起にもあることである。
秀吉公は、往昔に神功皇后が御祈願をこめられた例により、田島大明神を尊崇された。
また大伴狭手彦の因縁があるので、朝鮮征伐の時から、百石高、山林で相違ないと御朱印を与えられた。
今なお御代々の将軍から賜っており、宮司は従五位下を任官し昇殿を許されている。

『松浦古事記 寛政元年(1789年)成立 著者不詳』

・「往昔に神功皇后が御祈願をこめられた例」というのは、多分「神集島」のことで「加部島」ではない
・秀吉が佐用姫神社に百石寄進した朱印状は実存し名護屋城博物館に収蔵されているらしい
・佐用姫と大伴狭手彦というのはさよ姫伝説の事

「宣化天皇の頃、任那を新羅から救済する為大伴狭手彦が唐津に駐屯した。
そこで狭手彦は現地の豪族の娘の佐用姫と夫婦になるも、
狭手彦は朝鮮への出征により佐用姫を置いていくことにする。
佐用姫は夫を慕い、乗っている船を追いかけて加部島までたどり着くも、
結局夫と離れ離れになってしまう。
嘆き悲しんだ末、佐用姫は石になってしまった。」

というもの。(諸説ある)
元ネタは『肥前国風土記』の弟日姫子と大伴狭手彦だが、
出征して離れ離れになるとこまでは同じだが、加部島には行かないし石にもならない。

675:人間七七四年
17/03/17 18:45:26.29 MF2YxTVe.net
万葉集で大伴旅人に歌われるような伝説にたいして風土記が元ネタというのは違和感が

676:人間七七四年
17/03/18 15:20:21.58 L6OBA41M.net
>>675
正確には、奈良時代には広まっていた肥前国であったとされた伝説が元ネタですね。
万葉集では別れを惜しんで山に登って領巾を振る光景を主に詠っていますね。
どちらでも、佐用姫は加部島に行かないし石にもならない。

ついでに、佐用姫と秀吉の逸話をもう一つ投下


豊太閤が名護屋の御城におられた時、加部島を逍遥された。
浜辺に一つの石があったので、しばし休もうと腰をかけられると、
この石が温かくなってむくむくと動いた。
太閤は驚き、

「これは怪しい石である。きっと由縁があるに違いない。」

と古老を呼んで尋ねられた。

「あれは佐用姫の御形石です」

との答えがあったが、太閤は

「どうしてそのようなことがあろうか」

と尿をかけられるた。
すると沖の方からにわかに大波が来てこの石を洗い流した。
さすがの太閤も大変感じ入り、自らの無礼を詫びられて、
古人平野某を召して神司とし、
その場で百石の証文を授けて佐用姫の霊に仕えさせるよう
大谷吉隆(吉継)に仰せられた。

今もその例により、徳川家から代々百石の朱印を授けられている。

『松浦の家つと 安政六年(1859年)序 明治三十一年(1898年)刊  著者 岡 吉胤』

677:人間七七四年
17/03/18 15:59:59.61 TyxkKzHL.net
>>676
なんなの秀吉のテンプレでもあるのw
秀吉がおごり高ぶったことをする(しかも下品なこと)
→自然現象が起こる
→神意をみた秀吉が反省して色々奉ってみたりする

678:人間七七四年
17/03/18 16:13:56.51 lNAyAxB5.net
あるいは太閤の小便には超自然現象を起こす能力があるのやも知れん

679:人間七七四年
17/03/18 22:54:13.84 /FtvZE1I.net
>>677
あるんだろうね
秀吉が家臣の妻に手を出そうとしてしっぺ返しをくらう、みたいに

680:人間七七四年
17/03/19 03:49:08.21 WspcWOTG.net
(今川義元の討死により、)残る敵どもはどうして少しでも溜まることであろうか、総軍一度に敗北して、
四角八方へ崩れ立ち、後から逃げる味方をも敵が追ってくるぞと見損じて逃げ散るところを、

ここに押し詰め、あそこに追い詰め、思うままに討ち取った。さてもこの合戦の場“桶狭間”というところ
は山の狭間、深田の辺りで高み低みも打ち茂り、足場はどこも難所なので、逃げ行く者どもはいっそうに
途方を失い、ことごとく討ち取られた。

味方の若者ども(織田勢)は追いつき追いつき、首を2つ3つずつ討ち取って、信長公の御前へ参った
ところ、首はみな清洲で御実検なさるとして義元の首だけを御一覧なさり、御馬の先にその首をもたせ、
勝鬨を作り、これより敵を追い捨てて、早々にその日の申の刻に清洲を目指して御凱陣なさった。

山田新右衛門という者は本国駿河の者で、義元懇志の侍であるが、はるばる後陣にいたところで義元の
討死と聞き、馬を速めて桶狭間に馳せ来たり、「まことに命は義によって軽し!」と言い捨てて、義元の
討死の跡で一足も引かずに討死した。

この他、遠江二俣の城主・松井五郎八郎宗信を始め一党2百余人、伊井肥後守、笠原等が一所で討死
した。三河勢は松平善兵衛が棒山で討死した。松平摂津守、同兵部、同次右衛門は所々での討死である。
松平上野介は大高の城から元康の使いに来て本陣にいたが、義元と一所で討死した。

駿河勢には、江馬左京助、由比美作、石河新左衛門、関口越中、斎藤掃部、庵原右近、同勝次郎、
朝比奈主計、西江、内藤、富塚修理進、温井蔵人、富永伯耆守、牟礼主水、四宮右衛門、伊井信濃を
始めとして、駿遠参州の兵どもは数を尽くして討死した。

清洲の城で首帳が記されたところ、その数は2千5百であったということである。また3千ともいう説もある。
これよりしてこそ、信長公の名誉は天下に聞こえたのである。

―『織田軍記(総見記)』

681:人間七七四年
17/03/19 03:51:10.05 gSypgfin.net
なんとなく秀吉=将軍さま 自然現象=一休さんの構図が見えた

682:人間七七四年
17/03/19 19:39:01.77 ZMAWX+2P.net
1567年(永禄10年)、豊後の王(大友宗麟)より支那滞在中のニセア司教ドン・ベルショー・カルネイロに送りし書簡

『最も尊敬すべき君

我らは貴方が本年、当地に来られることを大いに期待している。そして貴方の渡海を妨げる原因が小さくないことを
憂いているが、近く相まみえる事の希望を失っていない。

私が常に耶蘇教を庇護したいと欲していることは、既に貴方の耳に達していると信ずる。
私が山口の王(毛利氏)に対して勝利を望むのは、第一に彼の地にパードレ等を帰住せしめ、彼らが受けていたよりも
大いなる庇護を与える為である。
そして、我が希望を実現するため貴方の援助を必要とするのは、日本に硝石の来ることを一切禁止し、
ただ我が領国防御のため、カピタン・モール(官船の司令官)をして毎年品質良好な硝石ニ百斤をもたらす事である。

私はこれに対し百タイス(銀一貫目)、又は貴方の命ずるところの額を支払うであろう。
この方法によれば、山口の暴君は領国を失い、私の元にある正当なる領主(大内輝弘)がその国に入ること
可能になるだろう。私は貴方の手に接吻しよう。

本日陰暦第九月の十五日』

(異国叢書)

大友宗麟が、宣教師に硝石の禁輸を持ちかけていた書状である。

683:人間七七四年
17/03/20 01:39:50.91 dH4ZvUEi.net
>>682
この頃から毛利の九州への再侵攻に備えて輝弘を山口に送る計画してたんだな
対毛利戦の時はほんと色んな手を打ってて有能なんだけどな宗麟

684:人間七七四年
17/03/20 12:45:26.50 ajCmN+xp.net
家光が最後に上洛した時の事かな
URLリンク(i.imgur.com)

サウジの国王が来日で混乱どころの話じゃないレベルで迷惑だなw

685:人間七七四年
17/03/20 18:42:19.69 ccqVKeS4.net
>>684
示威とはいえ、かなりの金がかかったんだろうなあ

686:人間七七四年
17/03/20 23:36:41.03 Xngeiluy.net
鎌倉もそうだが遠国に本拠地があると天皇権威が復活するよね

687:人間七七四年
17/03/21 21:56:50.71 3jA4Kuzq.net
1562年(永禄4年)、鹿児島の王(島津貴久)よりインド総督に贈りし書簡

『コンパニヤのイルマン2人が、昨年私の鹿児島の領国に来たり、私の領内を巡って説教をしたが、
私は一つの戦役のため救援の準備に従事していた故に、私の希望のように彼らが当然受けるべき境遇を
与えることができなかった。

また、私の領国の一港であるマンゴー(Mangoo)にポルトガル人の船一艘が来ていたが、上記の戦役に
巡り合わせた故に、彼らに相当なる礼遇を与えることが出来なかっただけでなく、国内に外国より
略奪のために来た剽盗があったために、ポルトガル人が来ているのを知らず、彼らを剽盗と誤認し戦ってしまい、
アフォンソ・バズ(Affonso Vaz)という人物一人を殺してしまった。
私はこれを遺憾とする。

私は毎年書簡を送るべきである故に、閣下がもし書簡を送ってくれば私はこれを大いなる名誉と思うだろう。
ポルトガル人、又はパードレ等を当地に派遣しようとする時、閣下の書簡、又は口上を持参すれば、私は彼らに
相当する、一切の歓待礼遇を与えるであろう。

(永禄)四年薩摩より』

(異国叢書)

島津貴久による「合戦騒ぎでついうっかりポルトガル人殺しちゃったわテヘペロ」という書簡である

688:人間七七四年
17/03/21 21:58:52.95 Kls3i0zw.net
お詫びに軍旗に大きく十字を書けば許してくれただろうな

689:人間七七四年
17/03/22 11:18:06.25 XIT09IlA.net
戦国も後半になると海外と外交したり秀吉のゴマすったり中間管理職めいて大変だな
毛利元就くらいがいいな。領国内で成り上がって国人衆を統一して自国領を広げてハッピーエンドみたいな

690:人間七七四年
17/03/22 11:29:14.25 nTvcLbOj.net
守護大名がか?

691:人間七七四年
17/03/22 12:46:46.90 mQ1Lf/Wi.net
元就は元就で苦労の連続じゃん

692:人間七七四年
17/03/22 22:39:46.44 fDcqyXCX.net
元就は書状で愚痴りまくりの戦国苦労人。しっかり苦労人の血を受け継いじゃった長男。そしてなぜか孫がアレ

693:人間七七四年
17/03/22 22:52:19.62 tvp724bG.net
あれ呼ばわりされてるが大友家一条家朝倉家のアレ等よりよっぽどマシだろう

694:人間七七四年
17/03/22 23:52:54.86 qPwsY8gI.net
結構アレな息子は多いな、今川とか。黒田もそうか。

695:人間七七四年
17/03/23 13:14:43.44 lIeg49m7.net
1568年(永禄11年)、豊後の王よりニセアの司教ドン・ベルショール・カルネイロに贈りし書簡

『私はジョゴ・バズ・ダラガンより貴方が支那に渡来されたこと、並びに貴方の病気について聞き、
甚だこれを悲しんでいる。そして更に悲しみが強くなるのは。このために貴方が日本に来ることが
不可能に成ってしまうと思ってしまう故である。

私は貴方がいかなる人かを聞き、また貴方の請求により総督が大砲(espera)を私に贈られたことを
聞きたるにより、貴方が私の領国に来ることを大いに希望していた。
この大砲はマラッカよりの船中にて(船の沈没により)失われたことは私の不運ではあるが、
安全に到着したのと等しくこれを感謝し、貴方に恩を負うと考えている。

私は大砲を得ることの希望を捨てていない。
私が(ポルトガル)国王の僕にして、またその友人であることは、デウスの事について、また私の領国に在る
キリシタン等、及びポルトガル人一同に対し庇護を加え、好遇を与えることで示し、またデウスが私に
生命を与え給う間は、常にこれを継続し、また貴方の要求されることをなすべきを以て、貴方が総督に
書簡を送り、私が大砲の贈与を受ける資格の有ることを通知されることを希望する。

私が再び大砲を求めるのは、私が海岸に住み、敵と境を接し、私の防御のためこれを必要とする事
大なるが為である。

私がもし領国を防衛し、これを繁栄ならしむ時は、領内のデウスの会堂、パードレ及びキリシタンたち、
並びに当地に来るポルトガル人一同もまた同様に繁栄するだろう。

先年、私はポルトガル王妃の書簡を接受したが、大いにこれを尊重し、宝物としてこれを首から下げている。
当地には王妃の如き方に贈るべき物は無いと雖も、私の領国に有るものは喜んで殿下に献ずるだろう。

この他述べたいことは多いが、長きに失するがゆえにこれを書簡に綴らない。
ジョゴ・バズ・ダラガンがその地に赴いた時に陳述するであろう。

1568年9月13日(永禄11年8月22日)』

(異国叢書)


とにかく大砲を早くよこせ、という大友宗麟の書簡である。


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