戦国ちょっと悪い話44 at SENGOKU
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450:人間七七四年
16/12/23 19:45:13.14 uDiWfu+v.net
中村家廃絶の話 〜正室、於さめの方側室の子を嗣子と認めず〜
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
にも少し書いてある話になるが、
中村一忠は11歳で家督を継ぎ、伯父で執政家老の横田内膳が政務を取り仕切っていた。独裁的であったようだが、米子城を完成し、新たに城下町をつくり、現在の米子の基礎固めを行っている。
重臣の安井清一郎や、茶道の師である天野宗把など、内膳のやりかたに不満のある者たちが、一忠にそろそろ政務をご自分の手に、とそそのかした。
これにのった一忠は、慶長八年(一六〇三)十一月十四日に、一忠と於さめ姫との許婚の儀が米子城で盛大に行われたあとで内膳にいきなり斬りつけた。
しかし、一忠は仕損じてしまい、次の間に控えていた家臣がようやく斬り伏せ殺害した。
直後、横田内膳の息子や柳生但馬守宗矩の兄、五郎右衛門らによる米子騒動が起き、隣国出雲月山富田城城主、
堀尾吉晴の助けもあって事態は一忠側の勝利で収集したものの幕府は、安井、天野の両人に切腹を命じた。
また江戸へ呼び出された一忠はさまざまに弁明したものの、品川宿で謹慎を命じられた後許されている。
一忠の叔父中村一栄(かずよし)は、家臣の梅里伯清の娘を一忠の側室にと推挙し慶長九年(一六〇四)、梅里の娘は十四歳で米子城へお国御前として上がる。
正室於さめ姫は江戸屋敷に常住した為お国御前は正室に次ぐ格があった。
一忠には京にも京屋敷があり、これは豊臣時代からの屋敷で一忠の生まれ育った所であった。
京屋敷の家老矢野正倫(まさとも)も京の側室を推挙した。庄屋の娘であったが、美人で物腰やわらかな、明るい娘であったようだ。
余談だが家康は大名たちの側室の人数について、大名は八人という目安をもうけている。一忠も江戸、京、米子と、上屋敷、下屋敷に八人くらいの側室はいたのかもしれない。
元服の際一忠は、松平の称号を許され、将軍秀忠の諱名を賜り、忠一と名乗りを改めた。
於さめ姫には、姫つきの女中があまた随ってきたが、それとは別に忠一付きの側女中が二人、どこからか配置されてきた。この二人はこまめに忠一の身の回りの世話をした。周囲の者に明かすことのできない、重要な任務を帯びて中村家に乗り込んできていた。
側女中の二人がきてより、忠一の体調はしだいに悪くなり、疲労感が色濃くなっていった。
江戸屋敷にいる於さめ姫は、忠一が江戸にあっても、別棟の御主殿にいて、昼間は忠一と会うことはなかったが、輝姫という女の子を産んでいる。ついで、京の側室も出産し、こちらは男子で小武と名づけられた。
慶長十四年(一六〇九)五月、江戸、京、とまわって米子へ帰国した忠一は、だれの目にもわかるほど衰弱していた。
旅の道中に例の側女中もつき従い、十二分に忠一の面倒をみたが、お国御前の側室が側女中をあやしんで、見張り役を派遣したが、確証は得られなかった。
川狩りに行くと気分もよく元気が出るような気がして、忠一は最後の川狩りに出かけた。だがほどなく帰ってきた忠一は、すぐ寝所に入った。近習がかけつけた時、忠一はすでに死んでいた。いまだ二十歳の若い藩主の死去であった。
忠一の顔には薄く斑点が浮き、それを消すためにか、側女中は顔や身体中をなでさすっていた。これをとがめられた側女中は逃げ出して再びその姿を見た者はいなかった。
この後藩主の亡くなった米子城に幕府の裁定が下り、中村家は子なき故断絶と決まった。
京の側室には、男子の小武がありながら、また米子の御国御前も当時忠一の子を妊娠していたのにである。
これは正室である於さめ姫が「おおかた、どこからか連れてきた子であろう。けしからぬことだ」
と、柳眉をさかだてた鶴の一声の為であり、この為十八万石の米子中村家は、お取り潰しになってしまった。
中村忠一の死後、妊娠していた米子の御国御前も隠棲して男子を産んだがこれらの子らのその後に関しては九州方面の大名の家臣となったり、京都で出家したり、
また中村一氏の正室は池田信輝の子で あった事から池田家と親籍となり、鳥取池田家に迎えられたと言う。
正室、於さめの方に関してはこの四年後の慶長十八年(1613年)に毛利秀元の継室(浄明院)として嫁いだとされる。
(因伯戦国時代の女性たち、鳥取県史より)

451:人間七七四年
16/12/23 19:58:11.05 uDiWfu+v.net
>>450
追記として、米子騒動の横田内膳は既出の話にある通り藩主を蔑ろにした奸臣と言う風に中村記などの中村家側の資料に書かれているが、
実録が伝える村詮専横を忠臣が藩主とともに絶つという筋からは、到底こういう処分にはなるはずがない。幕府では実録が伝えるのとは、まったく違う見方をしていたのだった。
「徳川実紀」では、忠一(一忠ではない)15歳、その行いは凶暴であり、横田内膳(村詮)が何度も諌めたが、これに怒った忠一が宴にことよせて自ら殺害、
更に居城飯山に立て籠もった一党を隣国堀尾の軍勢を得て鎮圧した、と記すという。
新井白石の「藩翰譜」もほぼ同様であるといい、この騒動を聞いた家康は、幼弱な藩主一忠を諌めるべき家臣が、その責を果たさずに迎合し、騒動を引き起こしたことを厳しく咎め、安井らに腹を切らせたとされている。

452:人間七七四年
16/12/23 20:56:32.91 iLzbCdiU.net
自分が任命した補佐役の村詮を殺されたから家康は怒ったんでしょ?

453:人間七七四年
16/12/23 21:06:02.20 TmvAbk2q.net
よくあることとはいえまるっきり話が違うw

454:人間七七四年
16/12/23 21:14:22.59 uDiWfu+v.net
>>452
それも有るし、養女とは言え娘の婚礼の宴を利用して功臣の排斥行ったらそりゃあもう味噌様だって怒りが有頂天でしょうよ

455:人間七七四年
16/12/24 00:09:06.06 vAaOz2Je.net
池田輝政の死因
      ある日、姫路城の池田輝政に
       手紙が届きますた・・・
          _____
         / ヽ____//
         /   /   /
        /   /   /
        /   /   /
       / 刑 /   /
       / 部 /   /
      /   /   /
       ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
         | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
         |                    |
         |   前略 池田輝政 様   |
       /    ̄ ̄ ̄ ̄     /____
       / 呪いを掛けました /ヽ__//
.     /        殺すぞ   /   /    /
.     / 死にたくなかったら/   /    /
    / 大八天神を祀れ___   ./   /    /
   /        刑部   /  ./    /
 /             /   /    /
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/   /    /

スルーした池田輝政は徐々に体調がおかしくなり、慌てて言う通りにしましたが時すでにお寿司。そのまま悶死したそうな。めでたしめでたし。
      r ‐、
      | ○ |         r‐‐、     
     _,;ト - イ、      ∧l☆│∧  良い子の諸君!
   (⌒`    ⌒ヽ   /,、,,ト.-イ/,、 l  困った時の神頼み!
    |ヽ  ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒) 
   │ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /| とよく言うが、
   │  〉    |│  |`ー^ー― r' | 困った時に神頼みしても
   │ /──| |  |/ |  l  ト、 |  手遅れな場合もあるから気をつけるんだぞ!
   |  irー-、 ー ,} |    /     i      
   | /   `X´ ヽ    /   入  | 普段から神様祭事慶弔行事は大事にするんだぞ!

本当は怖い日本の城より

456:人間七七四年
16/12/24 00:35:11.91 vAaOz2Je.net
>姫路城の怪異と輝政の死・天守の五層目に、夜な夜な怪しい灯火がともされたり、真夜中に突然大きな太鼓の音とともに悪鬼が現れて人々をとり殺したり、
あるいは夜半に大勢の女子供の泣きわめく声が突如として、湧き起こったりした。さらに若い女中がさらわれたり、白昼傘をさしたまま侍が空中に吊り上げられるなど、
不気味な事件が昼夜の別なく城内のあちこちでありました。
ついに怪異は、輝政本人をも襲いました。輝政の枕元に現れた美しい上臈が、近日中に病気になるだろうと予言した。天守閣が完成した直後の慶長十四年には、実際に奇妙な書状が届けられた。
『播磨主大天神東禅坊・都の主千松』なる人物から輝政・督姫・輝政の母に宛てた文で、『此九月にもな、物にくるいつるおな、きつねよなとかつてん(合点)しつるかな、
これもとうとみのくに(遠江国)の天神そや、すなわちくわん(願)あかりてな、三りんほうが、はやはやよりんほうになりたるそや伝々』
と言う様な呪いの言葉が、書き連ねられていた。その要旨は、『遠江の四りん坊なる天神(天狗)が三りん坊なる天神を誘って姫路城の鬼門から侵入し、輝政らの命を奪おうとしている』
この呪いから逃れる為には、城の鬼門に『八天塔』すなわち『八天大塔護摩堂』を建立し、大八天神を祀って護摩の秘法で祈祷を納めなければならない。
と言う様な意味でした。この怪文書は、現在、小野市浄土寺と多可郡円満寺に所蔵されていると言います。
剛毅な輝政が打ち捨てていたところ、城内で怪異がつづき、とうとう輝政自身も病の床についた。さすがに気味悪く、輝政は八天堂を建立、
円満寺の僧を招いて悪魔調伏の護摩修法を行った。だが時すでに遅し、輝政は外出中、にわかに苦しみだし、急ぎ帰城する途中、輿にカラスが次々にぶち当たって来た。
この後、輝政は一時的に回復したが、病室の障子や壁に群れをなしたカラスが突き当たってはバタバタと、地上に落ちて死ぬなど不吉な現象が続き、慶長十八、ついに帰らぬ人となった。
おそらくは中気の再発だろうが、ただ、吐血して突然死を遂げた事から、毒殺の噂が立ちました。
URLリンク(m.chiebukuro.yahoo.co.jp)
後、祥伝社文庫の『江戸の怪』中江克己 著
にも少し内容が異なるけど池田輝政怪死の話が載ってる模様

457:人間七七四年
16/12/24 07:18:59.17 dgj9qo97.net
どうせなら鴉じゃなくて蝙蝠にすりゃええのに

458:人間七七四年
16/12/24 08:23:15.36 vAaOz2Je.net
>>457
    (\_/)
  /( (゚(M)゚) ハ 日中仕事するとか眠たい
 / | Y (゚Д゚)Y|
`| |  (ノミミミ|)||
 \(⌒Yミミミノ⌒)/
     ∪∪

459:人間七七四年
16/12/24 08:36:03.66 dgj9qo97.net
いや、石燕は蝙蝠と一緒に長壁姫を描いてるからさ
てか、知恵袋から引っ張ってきたのか

460:人間七七四年
16/12/24 09:23:19.51 aP1ZLklG.net
根岸鎮衛「知恵袋とは耳嚢(みみぶくろ)のようなものですか?」

461:人間七七四年
16/12/24 09:27:49.94 vAaOz2Je.net
>>459
知恵袋は書き込んだ後で見つけた。
祥伝社文庫の本に載ってるのとでまた若干細部が違うし、池田輝政 死因 呪い とか、姫路城 呪い でggってみるとよろしよ

462:人間七七四年
16/12/24 11:47:20.54 vAaOz2Je.net
>>460
左様ですな、現代に於ける様々な人々の言葉が詰まったさながら塵袋、芥袋と呼ぶに相応しき物かと存じます

463:人間七七四年
16/12/24 14:37:00.84 TsTbPz9n.net
結城秀康の死去/家康怒りの改葬

結城秀康は慶長12年には父家康により伏見城番に任じられたものの病が重くなり
3月1日に伏見から越前に帰国したものの、同年閏4月8日に34歳で死去した。
嫡男の忠直が江戸にいたため葬儀は大幅に遅れてしまい、わざわざ北庄まで
弔問にきた毛利輝元も痺れを切らして帰国してしまったという(『毛利家文書』)。
秀康は結城家菩提所の曹洞宗の寺、福井孝顕寺(結城氏は代々禅宗だった)に葬送され
孝顕寺殿吹毛月珊大居士と称したものの、それを聞いた家康が
「我が家の者は浄土宗である、結城を名乗っているのならともかく
 既に復姓し松平となっているのに、このたび禅宗に改めるとは何事か!」
と激怒した為家康の意向により、知恩院から満誉大僧正を導師として下向させ
満誉を開基とした浄光院(のち運正寺)を同年中に建立し、浄土宗へ改葬させて、
法号も浄光院殿と改められたという(『知恩院古記録』)。

―『福井県史』など

464:人間七七四年
16/12/24 16:11:14.91 tyQB9IgX.net
増上寺は浄土宗だけど寛永寺は天台宗なんだが...

465:人間七七四年
16/12/24 16:53:28.04 +Oh64i4Z.net
>>454
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

466:人間七七四年
16/12/24 19:43:17.14 RwZ7R4NO.net
>>454
まてまて「怒りが有頂天」は無いだろう。
「怒り心頭」とか「怒髪天を衝く」がごっちゃになってるよ

467:人間七七四年
16/12/24 20:17:22.79 B+sxctzO.net
>>466
ネットスラングだよ。こういうスレで使うのもどうかと思うがw

468:人間七七四年
16/12/25 06:35:18.93 DQ39pmTE.net
怒りが頂点に達した時に使用するネットスラング。

元ネタはブロントさんと呼ばれる2chネトゲ実況版に書き込みを行っていたユーザーの書き込みから。

75 名前:既にその名前は使われています投稿日:03/10/30 16:38 ID:QcBxXqoc
お前らは一級廃人のおれの足元にも及ばない貧弱一般人
その一般人どもが一級廃人のおれに対してナメタ言葉を使うことでおれの怒りが有頂天になった
この怒りはしばらくおさまる事を知らない


76 名前:既にその名前は使われています 投稿日:03/10/30 16:39 xu+t+yG6
有頂天になるんか。

URLリンク(d.hatena.ne.jp)



ブロントさんが初めて使ってから13年か…
知らない人も出て来る時期なんだなぁ…

469:人間七七四年
16/12/25 13:59:44.19 M0CotmXw.net
仙谷由人 - 菅直人政権で官房長官として辣腕を振るい、九州征伐における秀久の見事な采配をなぞらえて、昔仙石、今仙谷と称えられている。

470:人間七七四年
16/12/25 16:42:45.52 Q7BnC5SF.net
>>469
マジでwikipediaに書いてあって吹いた

471:人間七七四年
16/12/25 18:03:02.11 C10c0Kmk.net
徳島から出てるなら
引田の戦いの方がよくないか

472:人間七七四年
16/12/25 21:09:54.49 SyPr8TpB.net
きたない忍者とかはいい悪いスレにも登場してた貴ガス

473:人間七七四年
16/12/26 00:23:43.07 foN7RzHZ.net
仙石被害者の会会長十河存保「三好は仙谷の選挙区じゃないからそれはそれ。我々は今後も仙石を許しません」

474:人間七七四年
16/12/26 02:48:27.59 zP/1P0kc.net
さのばびっちは讃岐にカエレ

475:人間七七四年
16/12/26 07:21:34.34 4gAKK4SP.net
全ての水は讃岐につながる

      ∧_∧           瀬戸内海放送   ∧_∧ 
      (´;ω;`)  _              _   (`・ω・´) 岡山
       伯方   |\ \ 塩         /  /
           恫喝\  \         /  /
                \  \|     /  |/ 
           電気      ̄        OHK    恫喝
   ∧_∧    ―→    ∧_∧        ―→   (⌒)豪(⌒)
   (´;ω;`)          ( ´・ω・) 香川             (´;●;`)
    愛媛    ←―   (っ=|||o)        ←―  オーストラリア
            恫喝 _         _        小麦
               /|     \  |\
           鰹 /     恫喝.\   \ 水
            /            \|  \
          /  無視          ̄
     ∧_∧                  ∧_∧
    (´;ω;`)                 (`;ω;´)
      高知                    徳島

476:人間七七四年
16/12/27 04:54:42.37 M9KwdTmq.net
さきの土井大炊頭(利勝)は、

権現様(徳川家康)の御乳人の召使いに“松”という女がおり、これを
榊原の家来・土井氏と出合わせて持った子である。

一説には大方様(於大の方)の女房たちの子であるという。であれば、
水野下野守(信元)の落胤だろうか。

この両説は、確かには分からない。

―『武功雑記』

477:人間七七四年
16/12/28 19:42:25.71 m8Fp3flN.net
>>474
仙石被害者の会副会長「弟の名はまざーふぁっかーだが親ではなく姪に盛る(泣)。それもこれも仙石のせいだ」

478:人間七七四年
16/12/29 23:56:25.95 KzpI/vYO.net
唐入り戦間期の頃、李舜臣が失脚し元均が統制使(朝鮮水軍の司令官)になった時の話。

私(安邦俊)の叔父である東巌公の妻が元均の親族だったので
統制使となった元均が私の家を訪ねてきてこう言った。

「何がうれしいってをこの肩書になったことで栄華を極めたことなどではなく
李舜臣に対する恥辱を雪ぐことになったことが何より嬉しい」

これを聞いた東巌公はこう答えた。

「あなたが充分に忠節を尽くして敵を打ち破りその功績が李舜臣を上回った時こそ恥辱を雪いだと言える。
ただ李舜臣の肩書になり替わっただけで嬉しいとは…。恥を知れ!」

(隠峰全書)

479:人間七七四年
16/12/30 00:16:58.55 vzqPZiwu.net
誤った文で送信してしまったので再投稿

唐入り戦間期の頃、李舜臣が失脚し元均が統制使(朝鮮水軍の司令官)になった時の話。
私(安邦俊)の叔父である東巌公の妻が元均の親族だったので
統制使となった元均が私の家を訪ねてきてこう言った。
「何がうれしいってをこの肩書になったことで栄華を極めたことなどではなく
李舜臣に対する恥辱を雪ぐことになったことが何より嬉しい」
これを聞いた東巌公はこう答えた。
「あなたが充分に忠節を尽くして敵を打ち破りその功績が李舜臣を上回った時こそ恥辱を雪いだと言える。
ただ李舜臣の肩書になり替わっただけで嬉しいとは…。恥を知れ!」

すると元均は
「私が敵と戦う時は遠ければ片箭(弓)を使い近ければ長箭(槍か?)を使い
ぶつかり合う時は剣と気合を使うので勝てないわけがないだろう」
といった。
東巌公は笑って
「隊長なのに刀を振るわねばならないのか?」
と答えた。
元均が帰った後、東巌公が私に
「元均の人柄を見るに将来は立身すると思っていたが間違っていた。
 元均は趙括や騎劫と言った古の武将と似たような男ではないだろうか」
としばらく嘆いたという。

(隠峰全書)

480:人間七七四年
16/12/30 01:35:34.08 n4CSvgAi.net
 大坂で井伊掃部(直孝)の先駆けを務めた庵原介右衛門の嫡子主税之介は、
一番乗りに進んで雌雄を争っていると敵に組み伏せられてしまった。
そこへ介右衛門が来たが、あえて子を救わなかった。
主税之介はやっとのことで勝利を得て敵の首を獲った。
 後で傍らの人がどうして子の難を救わなかったのかと尋ねると、
介右衛門は「私も子を不憫に思っていた」とだけ答えたという。
『武士としては』

481:人間七七四年
16/12/30 07:43:55.43 WLioW0wL.net
>>469
「九州征伐における秀久の見事な采配」ってなんだよww
長宗我部信親らを殺したってことは、
仙谷も見事に殺しまくったってかww

482:人間七七四年
16/12/30 11:45:35.74 tEa8f4gc.net
>>481
なんだ皮肉程度も解せないバカがこのスレにいるのか(笑)

483:人間七七四年
16/12/30 17:55:46.04 YNI+lkj3.net
はい草

484:人間七七四年
16/12/30 20:33:02.40 T9EaeWR+.net
まじかー
URLリンク(twitter.com)
URLリンク(pbs.twimg.com)

485:人間七七四年
16/12/30 20:56:44.53 BImuGQqE.net
たびたびこういうの見かけるけど寺ってどんだけいい加減なんだ

486:人間七七四年
16/12/30 21:39:30.18 GyTo8wUi.net
親族だし
源頼朝→足利直義
足利尊氏→高師直
武田信玄→畠山義続
とかの説よりはマシな気が

487:人間七七四年
17/01/02 11:15:43.31 /Gyz7fw9.net
水手(かこ)切りと厚藤四郎

URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
↑に纏わるお話

天正20年(1592年)7月、母大政所が危篤という報を受けた秀吉が、肥前名護屋城から水路上洛中、舟が豊前の沖(関門海峡)で浅瀬に乗り上げ、転覆しそうになり秀吉は海中へ投げ出された。
この浅瀬は、地元では「篠瀬(しのせ)」と呼ばれ、満潮時には波の下に見え隠れするために恐れられており、別名「死ノ瀬」とも呼んでいたという。これに加え、この地域独特の「戸ノ上下ろし」と呼ばれる激しい突風が合わさり、古来難所として知られていた。
秀吉は危うく遭難する所であったが、護衛にあたっていた後続の毛利秀元の船に救い出されて難を逃れ、この功により秀元は名物「厚藤四郎」を拝領した。

太閤肥前名護屋より帰洛の節赤間ヶ関にて乗船座礁したる時秀元僅かに十四歳小船を漕寄せ太閤を救ひまへらせしにより海岸の砂原にて秀元に賜りし由物語にあり

この時秀吉は、海難と大政所の臨終に間に合わなくなるという怒りから、水手の頭明石与次兵衛をこの時佩刀していた、備前三郎国宗で手討にしようとしたと伝わる。

その為、この備前三郎国宗に水手(かこ=船頭または船乗りの意)切りの名が付いたと言う。

488:人間七七四年
17/01/02 11:21:21.59 /Gyz7fw9.net
異説として、この際毛利秀元の懇願により、明石与次兵衛は打首ではなく切腹(当時の武士としては名誉の死)に処されたという。
明石与次兵衛は柳ヶ浦の浜で自害するが、地元では与次兵衛の不運を哀れんで遺体を浜に手厚く葬り、目印に一本の松の木を植え、
後に「明石松」と呼ばれたという。また篠瀬も同様に「与次兵衛ヶ瀬」と呼ばれるようになったという。
のち、慶長5年(1600年)に黒田孝高の後に細川忠興が豊前に入部する際、この明石与次兵衛が事故当時に細川家の組下であったことから、
与次兵衛の死を悼みまた航海の安全を祈願して、船が座礁した暗礁に明石与次兵衛の塔を建てさせている。
その後この石塔は何度も流されるが、そのたびに建てなおされている。しかし文政11年(1828年)の嵐の際に大波にあおられ、ついに海中に流されてしまったという。
文政年間に柳ヶ浦一帯の民の手により再建されるが、大正年間に旧日本海軍が航路を確保する目的で暗礁を爆破する際に、石塔は海中投棄されてしまった。しかし戦後、昭和29年3月に門司郷土会の有志によって海中から引き上げられ、現在は和布刈めかり公園に建っている。

水手切りはこの明石与次兵衛切腹の際、解釈に使われたとも言われる。

与次兵衛は元は明石(石井)与次兵衛といい、播磨国明石を拠点としていた海賊衆。
その後豊臣秀吉の水軍の将となり、石井の姓を与えられ、四国攻めや九州攻め、小田原攻めなどにおいて活躍したという。

489:人間七七四年
17/01/02 11:22:09.89 /Gyz7fw9.net
>>488
解釈×
介錯○

490:人間七七四年
17/01/02 11:35:13.41 /Gyz7fw9.net
>>487の追記として、毛利秀元は秀吉を自らの舟で救助した際、家臣共々秀吉に逆心無き事を示す為、
この時佩いていた自分達の刀を海に投げ捨て、その気遣いや手際の良さから秀吉からその器量を認められ、
後に秀吉養女の大善院(秀長娘)を妻として迎える事になったり慶長の役で若輩にも関わらず病身の輝元の代わりに右軍総大将を任されたと言う。

491:人間七七四年
17/01/03 14:12:08.99 NcThKzBi.net
関が原が始まろうとする頃、伊達政宗は自領への帰還を急ぎ、相馬領を通過する。
ここで政宗の家臣である片倉小十郎景綱は、政宗を迎えるためと、鹿島町に先行してそこの宿泊した。
この鹿島町は田中城の近辺であり、田中城には相馬家当主・相馬義胤の父、盛胤の居城であった。

片倉小十郎は草野左馬充、鈴木掃部左衛門を案内として、盛胤の家老である佐藤左近を呼び出し対面した。
左近を通して盛胤に刀、次郎郷胤に脇差しを進上し、その上で左近にこう語った

「今度、政宗は領地への下向につきこう命じました。

『冨塚近江は上下1500の人数にて岩城領に向かえ。我々片倉父子は上下1000人にて御領内の鹿島に
向かえ、矢田勘解由兵衛は上下3000の人数にて駒ヶ嶺領に向かうべし。』

これについて考えるに、世上の浮説ににおいて、佐竹、岩城、相馬、那須の面々が、長尾景勝に同意され、
石田治部少輔に与して家康公に敵対されると言われています。
これに対し我が主君政宗は無二の家康公の御方ですので、これらを警戒する必要があるのです。

憚り多きことですが、相馬と伊達は代々の縁類ですから、私ごときでもそのお為良かれと考え、
全く粗略にすることはありません。

もしも、一旦治部少輔にお志があったとしても、それはお諌めになるべきです。
何故ならば、今天下に、家康公に比するような大将は誰も居ないからです。
治部少や景勝が時の威勢に誇ってとやかく申されようとも、彼らが末まで全う出来る事はありえません。
それに与した人々の家は、滅亡するでしょう。

家にとって大切なのは社稷であり、主人は一代のものですから、時に至っては義を失っても
それは仕方のない事です。ただ期して末の所をよく吟味して頂きたいのです。」

左近はこれに
「底意を残さぬ懇切なお話、委細承りました。これについて先ず、盛胤に聞いてまいります。」
そう答えて退出し、田中城の盛胤に、片倉小十郎の語ったことを逐一申し上げた。
盛胤はこれを聴くと

「世上の浮説について、そういうものも有るだろう。だが我々は全く治部少輔に与していないし、佐竹や
景勝にも与していない。我々の内実は、小十郎も推察しているだろうが、累年の合戦のため諸士はおおかた死に、
今漸く、その子供たちを養育している段階であり、人数を持っていないのだ。なので家康公のお為といっても、
一体何が出来るだろうか?万一、家康公より御催促があれば、その時は50,30であっても召し連れて
参ずるつもりである。

政宗が家康公の御方に参るのならば、伊達との国境に番士を置くべきではない。また伊達家の人数の往来の自由も
認めよう。もし伊達方が相馬に対して隔意を持たれてはどうにも出来ない。内々にこの旨を伝えるように。」
そう語り、佐藤左近は立ち戻りこれを小十郎に詳しく申し聞かせた。

小十郎は
「そういう御心入であれば御家長久、珍重であります。しかし返す返すも、お諌め申し上げるべきです。
義胤公へのお諌めこそ第一です。」
そう申し、政宗に対しても盛胤の考えを伝えた。

片倉小十郎はこの地に1日滞留して、2日目に政宗のお供をして帰っていった。
その後程なく、景勝領であった白石を、政宗が攻め取った。

(奧相茶話記)

492:人間七七四年
17/01/03 18:06:49.71 ri5zkNb1.net
太刀「瀬上がり」

永禄12年(1569年)正月、本圀寺の変の際、
相馬家の堀内俊胤は三好義継の軍勢に加わり、
三好長慶、松永久秀、岩成友通らと戦い敗死した。

家来が俊胤の首を抱えて桂川を渡る際に、
俊胤の佩刀が流れてきたために「瀬上がり」と名付けられた。

堀内俊胤の跡は、奥州三春城主の田村氏の一族である中津川大膳が堀内氏の養子となり、
名跡を継いでいたが後に離縁されて国元へ帰る際、この「瀬上がり」を持って帰ってしまう。
ところが国元で凶事が起こったため、この「瀬上がり」を堀内氏へ返して寄越した。

その後伊達家に近い藤田四郎宗知が堀内氏を継いでいたのだが、
離縁され国元へ帰る際に「瀬上がり」を持って帰るが、
これも同様に奇怪なことが起こったために、
やはり「瀬上がり」を堀内家へ返して寄越したという。

その後は堀内家に伝来した。

493:人間七七四年
17/01/05 09:07:42.57 dqYqzxuP.net
慶長3年7月に、太閤秀吉は、西国の侍は伏見、東国の侍は大阪に詰め秀頼を守り立てるべし、との遺言
を定め、これについて諸大名は徳川家康の屋敷に集まった。
徳川家康が現れると、日本の諸大名はこの日初めて、家康を半ば主人のように敬った。

この人々の中では特に、増田長盛と徳善院の両使は「御意のとおりに致します」と、家康に手を付き、
主人であるかのように敬い申し上げたのである。

五大老五奉行もこの日に定まった。この日の上座は毛利宰相(秀元)であり、彼の振り回しで酒宴となった。
上杉景勝、佐竹義宣、伊達政宗3人の仲直しもこの日であった。
徳川秀忠は勝手に座っていた。

一日間を置いてこの人々は前田利家の屋敷に集まり、霊社上巻の起請文を書いた。

(慶長年中卜斎記)

秀吉死後を見据えて、諸大名の家康への認識が変わった瞬間について。

494:1/2
17/01/06 00:27:05.74 HHUrws03.net
備前国福岡城合戦福井小次郎歌を遺して討死の事
 備前はもとは赤松氏が代々領していたが、嘉吉元年の赤松満祐滅亡の後は山名相模守教之が賜り、
教之は代官の小鴨大和守を備前に住ませた。
応仁の乱の後、備前津高郡金川村の玉松城主松田左近将監元成と細川勝元が語り合い、元成は兵を集めて小鴨を攻めようとした。
そこで散り散りになっていた赤松の家人が元成と組んで小鴨を攻め落とした。
赤松兵部少輔政則(満佑の孫)は元成を賞して伊福の郷に置いた。
 山名宗全と細川勝元が共に病死の後、京都は少し静かとなったが諸国はいよいよ大いに乱れ、
松田の一族どもも備前西郡のうちの多くを押領していた。
政則は将軍家から功を賞せられ、播磨・備前・美作を返してもらったが、
山名右衛門督政豊(宗全の孫)はこれを怒り、文明十一年九月に京都を出て但馬の国に馳せ下った。
 これから政則も播磨に馳せ着いて、ついでに備前の松田がほしいままに攻め取った所を取り戻そうとした。
元成はこのことを聞き
「兵粮の用意のために押領した所は返せるが、伊福の郷は軍功により賜った所なので返す気はない。
これは事にかこつけて我を打ち亡ぼそうという謀であろう。」

と金川に城を構えた。この城は麓に大川が流れ、峰高く、四方が峻険なので要害としてよい地であった。
しかしながら後巻の手だても図り、備後国の山名俊豊(政豊の次男)へ
「備前を切り取って参りましょう」と報告したら俊豊は喜んだ。
政則は備前に赴き、松田が押領して自分の地にした所を取り返していった。

 文明十五年九月、山名も備後の尾道を出て同国国分寺に着き、三千余を駆り集め、
十一月七日に備前の国に打ち入ったら、松田の一族が集まり邑久郡福岡の城の西北の山に陣を取った。
福岡の城は東西に大川が流れていて、その中の島に山があったのでそこに城を築いた。
そこへ政則の守護代喜三郎則国を始めとして二千余人が立て籠もった。
川上の瀬には長船右京亮等が野伏を従えて陣取っていた。
 十一月二十一日に押し寄せて合戦した。
浦上の家人に楢村與三兵衛、同又四郎という兄弟がいた。前に元成に奉公していたが因縁をもっていた。
彼らは密に語らって十一月二十三日の夜半に激しい風に便りとして陣屋に火をかけた。
寄手は内通に力を得てすぐに攻め寄せたが、城中の者が厳しく支えて追い返した。
その後に事が発覚して、楢村兄弟を搦め捕られて誅された。
寄手はその後に図り合って、十二月十三日にまた富岡という小山に兵を出した。
城からも打って出て散々に戦いあい、寄せ手も城兵も討たれた者が多かったという。

495:1/2
17/01/06 00:27:38.47 HHUrws03.net
 この文明十五年十二月十三日備前福岡の戦に、福井小次郎も参加していた。
もとは京都の人であったが、四歳の頃に父の源左衛門が当国の在番の時に連れ下り、
この時には城中にいて二十一歳であった。
 その日の戦では父子の間が敵味方で混雑しおし隔られてしまった。
小次郎は父は城中に入ったと思い、走り帰って探したが見えなかったので、
また城外に打って出て、寄手に向って『福井小次郎!!』と名乗り、縦横に斬って回った。
しかし彼はあまりに戦い疲れていた。結局父を見つけることができず家人が肩にかけて城中へ引き入れた。
浅手深手二十六所も傷を負っていたから、小次郎はとうとう死んでしまった。
 後で父が城に帰って小次郎がの手箱を開いて見ると、多くの書き置きがあった。
その中には母への置き紙もあった。

「幼少から別れていましたので、このまま討死したらお母さまがお嘆きになられるだろう事が心懸かりです。
しばしこの世に残られることになったとしても、終いにはあの世で逢うことができます。
このことをよくお分かりになって、慰めてください。」

と細々と書いてあり、奥に

生れこし親子の契りいかなれば 同じ世にだに隔はつらむ

と書いてあった。「彼は思ひ定めていた討ち死にであったのだな。」と
人は皆、惜しんだという。


(常山紀談)

若干二十一でも、侍は戦場で討ち死にする覚悟を持っている

496:人間七七四年
17/01/06 18:23:25.52 DMsbktqS.net
浅野幸長が早逝したのは


慶長18年8月25日、紀伊国主の浅野幸長が死去した。
近年唐瘡にかかってしまったので、今年は夏中在京した後に
養生のため紀伊に下国されたが、そのまま亡くなられた。
おととしは加藤清正、浅野長政、今年は池田輝政、大久保長安と死んだのは
ひとえに好色ゆえの虚の病という話である。

この浅野幸長も五年前に葛城という遊女を買い、無右衛門尉という傾城を買って
そばに置いて慰まれていたので、その果てに早逝されたとのことだ。
跡を継ぐ息子がいないので、紀伊国は誰が拝領するのだろうかと噂になった。


―『当代記』

大身が相次いで死ぬと、雑にまとめられてしまう悪い例。

497:人間七七四年
17/01/06 23:48:38.51 01a7hoED.net
梅の毒ですね

498:人間七七四年
17/01/07 07:29:16.21 fjqhmX6S.net
再福岡合戦薬師寺額田片岡三士討死の事

 文明十六年正月六日に又福岡で戦があった。
城兵が敗北する所に薬師寺四郎左衛門という者が薙刀を取って返し合せ、
「ここで討死する」と防戦した。
同弥四郎らが四郎左衛門を討たせまいと取って返し、
津坂の山の麓から城際まで僅かの兵で多勢を防いで払い退けた。
寄手の中にも福屋九郎右衛門という剛の者がおり、
鍬形を打った兜をかぶり、隙もなく四郎左衛門に切ってかかった。
ここで、四郎左衛門の家の士が返し合わせて福屋を討つことができた。
 しかし寄手がいよいよ追い詰めてきたので、
薬師寺四郎左衛門、額田十郎左衛門、片岡孫左衛門の三人は
引き返し枕を並べて切り死にした。
これは三人が必ず死を約束したためだという。


 これより前に三人が話した時、次郎左衛門が、

「今回の戦は必ず味方は負けるにちがいない。
松田は元々当国の者なので、後巻を味方から申しても播州の加勢もが来ないだろう。
政則は真弓峠の戦に負けて姫路に引き退いたと聞こえるので、味方は力を失っている。
なので討死すべき身である。人の後れて生きながらえるのは本意ではない。
もう一度戦があったら必ず討死しよう。」

と語った。二人は聞いて、

「我々も皆同じ所存ですぞ。互いに同じ所で討死しましょう。」

と約束した。
 その日、四郎左衛門が打ち出る時に、

「ただ今、敵の手に渡るはずの首である。最後の対面しよう。」

と鏡に向かってニコっと笑って出たとか。
 額田は岡本筑後守に向って、

「子であります又三郎は私のたった一人の子なので、とりわけ不憫であります。
私と一緒にいたら必ず死を逃れられないでしょう。よろしく計らってください。」

と言ってきたので岡本は、「心得た。」と親子引き離したのでこの日には討死しなかった。
 片岡は自分の家来に向って、

「わが首は必ず敵に取られるだろう。これをしるしに死骸を探せ。」

とこよりを左の二の腕に二重に結ばせていたので、
案の定、これをしるしに死骸を求め得たとか。


(常山紀談)

生に執着しないのが武士

499:人間七七四年
17/01/07 07:41:37.26 9Z8Rx85u.net
強姦や強盗など悪逆の限りを尽くしてきたのだから当然ですよね

500:人間七七四年
17/01/10 04:28:01.89 XIXVpzdu.net
 人の禍福は決まっているという事は、珍しくない事である。
が、江口石見(正吉)という者は、さしたる場も聞き及んでもなく、徳が有る人でもない。
されども、幸運な生まれつきなので丹羽五郎左衛門(長重)について万石を領した。
朝倉能登は首供養を三回もした武功の者であるが、北条氏康のもとで五百石を領したとか。

 茶臼と石臼の替わりがあるように、世間で言う福耳というものがあるのだろうか。
これを見て必ず羨ましがってはならない。
自分は自分で生まれ持ったものがあり、ふさわしくない事を願い無理に利を得れば滅亡することも早くなるのである。


『武士としては』

江口さんにやたら厳しい

501:1/2
17/01/11 19:41:29.26 JXo5ixzE.net
豊臣秀次は高野山に上り、木喰上人の坊へと案内された。木喰上人は秀次の来訪を大いに驚き、
急ぎ招き入れ「只今の御登山は思いもよらぬことです。」と涙を流した。秀次は何も言わず、
袖を顔に当てて涙にむせんでいたが、
「私はこのような事が起こるとは思いもよらず、世にあった頃、気をつけることもなかった。
今更浅ましいことであるが、今にも伏見より検使がくれば、私は自害する事になるだろう。
そうなった跡の事は、一体誰に頼めばいいだろうか。」
そう、涙ぐんで尋ねた。

「御諚ではありますが、当山の衆徒一同に訴えれば、太閤殿下がどれほど憤り深くあられようと、
どうしてその御命令を承知するでしょうか?」
木喰上人はそう頼もしく答えた。

秀次はそこで法体と成り、道意居士と名乗った。供の者達も皆髻を切って、ひとえに来世を祈り、
上使を今か今かと待っていた所、福島左衛門大夫正則、福原左馬助長堯、池田伊予守景雄を大将として、
都合1万余騎、7月13日の申の刻(午後4時頃)伏見を立ち、14日の暮れ方に高野山に到着した。
3人の上使は、木喰上人の庵室に入った。この時秀次は大師の御廟所に詣でるため、奥院に居たが、
これを知らされ戻り、3人と対面した。

福島正則は畏まり、法体姿に変わった秀次を見て涙を流した。秀次は言った
「汝らは、私を討ちに来たのだな。この法師一人を討とうとして、由々しき振る舞いではないか。」

福原が畏まって申し上げた
「その通りです。御介錯仕れとの上意にて候。」

「さては我が首を討とうと思ったか。しかしお前はいかなる剣を持っているのか?
私も腹を切れば、その首を討たせるために、形のごとく太刀を持っているぞ。さあ、汝たちに
見せてやろう。」

そう言って3尺5寸ある金造の帯刀をするりと抜き、「これを見よ」と言った。
秀次は福原左馬助が若輩であり、推参を申したと思い、重ねて物申せば斬って捨てると考えているようであった。
秀次の3人の小姓は秀次の気色を見て、少しでも動けば、秀次が手にかけるまでもなく自分たちで
斬り捨てるのだと、互いに目と目を合わせて刀の柄に手をかけていた。その有様はいかなる天魔鬼神も退くように思えた。

秀次は刀を鞘に収めると、
「お前たちは私が今まで存命しているのを、さぞや臆したためだと思っているだろう。
私も伏見を出た時に、どうとでも慣れと切腹を思ったが、上意を待たずに切腹すれば
『はやり自身に誤りがあったからこそ自害を急いだのだ』と言われ、これにより責任の無い者たちまで
多く命を失うことになるとの懸念から、今まで生きていたのだ。

今は最期の用意をしよう。故なき讒言によって私はこうなってしまったが、私に仕える者に一人も
罪有る者は居ない。良きように言上し、申し扶けて、私への饗応にしてほしい。
この事、相構えて汝らに、頼むぞ。」
一座の者たちはこれを聞き、有り難き御志と感じ入った。

そうして座を立つと、最後の用意を初めた。しかしここに木喰上人はじめ一山の衆徒が集まり、
3人の上使に対して抗議をした
「当山は七百余年このかた、この山に登った人の命を害したこと、その例ありません。
一旦この旨を太閤殿下に言上していただきたい!」

3人はしかし「そうではあろうが、とても叶うことではない。」と説得した。それでも衆徒の抗議は
止まなかった。ここで福島正則が進み出て
「衆徒の言うこと、尤もである。だがこれ以上時刻を費やせば、お前たちまで太閤殿下の勘気を蒙り、
腹切れと言われるだろう。それでも言上したいと言うなら、先ずここに居る我々3人を衆徒の者達が
手に懸けよ。その後はお前たちの心次第だ。」
そう、膝を立てて言うと、所詮は出家の事ゆえ、上人はじめ一山の衆徒も、力及ばず立ち去った。

その夜はこのような評議に時遷り、漸く曙になると、巳の刻(午前9時頃)に秀次の御最後となり、その有様は非常に神妙に見え聞こえた。
彼は付き従った人々を召して、
「汝らこれまでの志こそ、返す返すも浅からぬ。多くの者達のその中で、数人が最後の供をするというのも、前世の宿縁というものだろう。」

502:2/2
17/01/11 19:42:20.88 JXo5ixzE.net
そう涙を流した。そして3人の小姓たちに
「若き者達だから、最後の程も心もとない。その上自ら腹切ると聞けば、それを妨害しようと雑兵共が
乱れ入って、事騒がしくなるのも見苦しい。」
そう考え、山本主膳に国吉の脇差を与え、「これにて腹切れ」というと、主膳承り、
「私は御介錯仕り、その後にこそと思っていましたが、先に参り死出三途にて、道を清めておきましょう。」
そう言ってニッコリと笑い戯れた姿は優美ですらあった。
彼は脇差を押しいただくと、西に向かい十念して、腹十文字に掻っ切って、五臓を腹から繰り出した所を、
秀次が手にかけて討った。この時19歳。

次に岡三十郎を召して「汝もこれにて腹切るべし」と、厚藤四郎の9寸8分を与えた。
「承り候」とこれも19歳であったが、さも神妙に腹を切り、また秀次が手にかけて討った。

3番目の不破万作には、しのぎ藤四郎を与え、「汝も我が手にかかれ。」というと、「辱し」と脇差を頂戴した。
彼はこの時17歳。日本に隠れなき美少年であり、雪よりも白い肌を押し開き、初花がやや綻ぶ風情なのを、
嵐の風に吹き散らされるように、弓手の乳の上に突き立て、目手の細腰まで引き下げた。
秀次はこれを見て「いみじくも仕りたり!」と太刀を振り上げると、首は前に落ちた。
誠に彼らを人手に掛けたくないと思われた、その寵愛のほどこそ浅からぬものであった。

その後、秀次は僧侶の立西堂を呼んで伝えた
「その方は出家であるから、誰も咎めるものは居ない。ここから急ぎ都に上り、私の後世を弔うように。」
しかし
「これまで供奉仕ったというのに、今更都に上って何の楽しみがあるでしょうか?
私も厚恩深き者ですから、出家であるからと言って逃げることなど出来るでしょうか?
僅かに命を永らえるために都に上り、人手に掛かるなど考えもできません。」そう言い切った。
この僧は博学多才、和漢の書に詳しく当檀那の弁を持っていたのに、秀次の酒宴遊興の伽僧となった事で、
多くの人々から宜しからぬ人物と思われていた。それが最後の供まで仕るのも不思議な事である。

次に秀次は篠部淡路守を召して
「この度私の後を慕い、ここまで参った志、生々世々まで報じ難いものである。汝は特に、私を介錯した後、供をせよ。」

淡路は畏まり、大いに悦んだ。
「今度、その跡を慕い参らんと思っている者達はどれほど居ることでしょうか。その中でそれがしは
武運にかない、御最後の供を申し付けられただけでなく、御介錯まで仰せ付けられました。今生の望み、何事かこれに過ぎるでしょう。」

これを聞いて秀次は心地よさげに静かに笑い、両目を閉じ、「迷故三界城悟故十方空」と観念して後、
「ならば、腰の物を」と申し付けた。
篠部は1尺4寸の正宗の脇差の中巻きしたものを差し上げた。
秀次はこれを右手にとり、左手で心元を押し下げ、弓手の脇に突き立てると、目手にキッと引き回し、
腰骨に少しかかったと見えた所で、篠部淡路守が刀を構えた。しかし秀次は「暫く待て!」と、
さらに取り直して胸先から押し下げた。ここで篠部は秀次の首を討った。

惜しむべきかな。御年31を一期として、南山千秋の露と消えられたのだ。哀れと言うにも余りあるではないか。
そして立西堂は死骸を収めると、これも秀次の供をした。

篠部淡路守は関白秀次の死骸を拝して後、3人の検使に対し
「それがしは不肖ですが、この度秀次様の後を慕った恩分に、介錯を仰せ付けられました。誠に弓矢都っての面目です。」

そう言うやいなや1尺3寸平作の脇差を腹に二回刺したが、切っ先が五寸ばかり背に貫いた。
更に刀を取り直し、首に押し当て、左右の手をかけて、前へと押し落とすと、頸は膝に抱かれ、身体はその上に重なった。
これを見た人は目を驚かし、諸人一同に「嗚呼」と感じ入った。

木村常陸も摂津茨木にて腹を斬った。その子木村志摩助は北山に隠れていたが、父の最期を聞いて、その日寺町正行寺にて自害して果てた。
熊谷大膳は嵯峨の二尊院にて腹を斬り、白井備後は四條大雲院、阿波木工は東山にて腹を斬った。
有為転変は世の習い、盛者必滅の理とはいいながら、昨日まで聚楽の花の春の宴も、今は野山の秋の露と、皆散り果てられた事も哀れである。

(石田軍記)

503:人間七七四年
17/01/11 20:07:35.12 dM5tBKtA.net
グロ、と書きたくなるわ

504:人間七七四年
17/01/11 20:13:45.93 BSUyfD/D.net
そんなこと言ってたら戦国時代行けないぞ

505:人間七七四年
17/01/12 04:42:22.31 fItAvr7B.net
信長の御前へ武者修行を致しているという武功の者がまみえた。

冑に白熊の引きまわし(引き回し合羽)をつけて、甲立に立てて
出たのだが、公は見なさって、

「この者は手酷き合戦に、いままで合わなかったものだと見える。
白熊の引きまわしなどでは、なかなか戦の急な時には、叶わない
ものである」

と、仰せになったということである。

―『山鹿素行先生精神訓』

506:人間七七四年
17/01/12 10:43:58.52 6QVQ91xf.net
秀次事件て秀次はどうでもいいけど連座させられた人たちがかわいそうで仕方がない

507:人間七七四年
17/01/12 15:55:20.00 SCP5Kk/o.net
女性陣が悲惨すぎて草も生えない
当時女性への極刑は珍しかったのになんやあれ(ドン引き
秀吉ぐう畜過ぎ

508:人間七七四年
17/01/12 17:46:30.88 ApKa+Wr8.net
畜生塚、て呼ばれたってことは当時の人から見たら秀次たちがぐう畜扱いされてたのでは

509:人間七七四年
17/01/12 23:06:38.30 hQcVxIgQ.net
この間行った松阪城の歴代城主に服部一忠ってのが居た
URLリンク(i.imgur.com)


誰かと思って調べたら今川義元に槍をつけた服部小平太だった
すげー出世したんだなと思ってたが最期は秀次事件で連座切腹...

510:人間七七四年
17/01/13 09:26:45.98 79vl6XnC.net
その人信長の小説で桶狭間の場面で毎度出てくる有名人じゃん
最後そんなことになってたんだ

511:人間七七四年
17/01/13 12:21:26.02 cnMSw6Qs.net
そして毛利新助は本能寺の変で信忠と一緒に討ち死に
三人まとめると赤穂浪士の毛利小平太元義になってしまうな

512:人間七七四年
17/01/13 18:25:00.95 ALhyLUvV.net
吉良義央−吉良義冬−女−今川範以−今川氏真−今川義元
討ち入り前日に脱盟した毛利小平太が吉良義央を討ってたら
吉良義央は祖先同様、毛利と小平太に討たれた、と話題になったのに

513:1/3
17/01/14 12:19:11.80 rE+exn0h.net
文禄4年(1595)7月15日、豊臣秀次が切腹。
そして8月2日、秀次の若君、上臈、婦人たちを誅すべきとの上使が立ち、いやが上にも悲しみは増した。
検使には石田治部少輔、増田右衛門尉をはじめ、橋より西の片原に、布皮敷いて並び居た。
彼らは若君達を車に乗せ、上臈達を警護して、上京を引き下り、一条二条を引き下り、三条の河原へと懸った。

橋のあたりまで着くと、検使たちが車の前後に立ち「先ず若君達を害し奉れ」と下知した。
青侍・雑兵共が走り寄り、玉のような若君達を車から抱き下ろし、変わり果てた父秀次の首を見せた。

仙千代丸は冷静にこれを見て、「こは何と成らせられるや」と呟き、嗚呼と嘆いた。
その姿に母上たちだけでなく、見物の貴賎男女、警護の武士に至るまで前後を忘れともに涙に咽んだ。
しかし太刀取りの武士は「心弱くては叶うまじ」と目を塞ぎ、心を太刀だけに集中して仙千代丸達を害した。
この時彼らの母上たちは、人目も恥ずかしさも忘れ声を上げた

「どうして私を先に殺さないのか!急ぎ我を殺せ!我を害せよ!」
(こは何とて、我をば先に害せぬぞ。急ぎ我を殺せ我を害せよ)

そう、仙千代丸の死骸に抱きついて伏し嘆いた。
それより夫以下の目録に合わせ、順に座らせた。
一番に上臈、一の台の御局、前大納言殿の息女にて、三十路余りであった。これを今わのすさみとて
『存へて ありつる程を浮世ぞと 思へば残る言の葉もなし』

二番は小上臈、於妻御前であった。三位中将殿の息女にて、16歳になられていた。紫に柳色の薄絹の重ねに
白袴を引き、練貫の一重絹うちかけ、緑の髪を半切り、肩の周りにゆらゆらと振り下げて、秀次の首に三度拝し、
こう詠んだ
 『槿の日 影まつ間の花に置く 露より脆き身をば惜まじ』

三番は、姫君の母上、中納言の局於亀の前であった。摂津小浜の寺の御坊の娘で、歳は33。栄に少し
過ぎていたが、西に向かい「南無極楽世界の教主弥陀仏」と観念し
 『頼みつる 弥陀の教の違わずば 導きたまへ愚かなる身を』

四番には仙千代丸の母上、於和子の前であった。尾張日比野下野守が娘にて、18歳になられていた。
練絹に経帷子を重ね、白綾の袴を着て水晶の数珠を持ち、若君の死骸を抱きつつ、泣きながら大雲院の上人に
十念を授かり、心静かに回向して、こう詠じた
 『後の世を 掛けし縁の栄えなく 跡慕ひ行く死出の山路』

五番には百丸の母上であった。尾張国の住人山口将監の娘。19歳になられていた。
白装束に墨染の衣を掛け、若君の死骸を抱きつつ、紅の房の付いた数珠を持って、これも大雲院の十念を受け心静かに回向して
 『夫や子に 誘はれて行く道なれば 何をか跡に思残さん』

六番には土丸の母上、於ちゃの前であった。美濃国竹中与右衛門が娘にして、18歳。
白装束に墨染めの衣着て、物毎に軽々しい出で立ちであった。かねてから禅の知識に参学し、飛華落葉を観じ、
世理無常を悟って、少しも騒ぐ気色無く、本来無一物の心と
 『現とは 更に思わぬ世の中を 一夜の夢や今覚めぬらん』

七番には十丸の母上於佐子の前であった。北野の松梅院の娘で、19歳になられていた。
白綾に練絹の単衣の重に、白袴を引き、戻の衣を掛け、左には経を持ち右には数珠。西に向かって法華普門品を
心静かに読んで、秀次、若君、そして我が身の菩提を回向して
 『一筋に 大慈大慈の影たのむ こころの月のいかでか曇らん』

八番には於万の方であった。近江国の住人多羅尾彦七が娘。23になられていた。練絹に白袴引き、
紫に秋の花が刺繍された小袖をかけておられた。その頃病中であったので、見た目にもいと悲しく、
心も消え入るように思えた。これも大雲院の十念を受け掌を合わせ
 『何處とも 知らぬ闇路に迷ふ身を 導き給へ南無阿弥陀佛』

九番には、於与免の前であった。尾張国の住人堀田次郎右衛門が娘で、これも白装束に数珠と扇子を持ち添え、
西に向かい十念して
 『説置ける 法の教の路なれば 弧り行くとも迷ふべきかは』

十番に、於阿子の前であった。容姿よりも尚勝る心にて、情け深く聞こえた。毎日法華読誦怠らず、最後にもこの心であった
 『妙なれや 法の蓮の花の縁に 引かれ行く身は頼もしき哉』

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十一番には於伊満の前であった。出羽最上殿の息女であり、十五歳になられた。東国第一の美人であると
伝え聞かれ、秀次より様々に仰せになり、去る7月上旬に上洛したが、旅の疲れにて未だ見参のない内に、
この難儀が勃発し、淀の方より「いかにもして申し請け参らん」と心を砕かれたため、太閤秀吉も黙し難く、
「命を助け鎌倉に遣わし尼にせよ」と言った。これにより伏見から大至急早馬が出たが、あと一町という所で
処刑された。哀れと言うにも余りある、最後の際、やさしくも
 『つみを切る 弥陀の剣に掛かる身の 何か五つの障あるべき』

十二番には阿世智の前であった。上京の住人秋葉の娘であり、30あまり、月の前、花の宴、事に触れて
歌の名人であったとか。最後の時も先を争ったが、目録どおりとのことで仕方なく、辞世に
 『迷途にして君や待つらん 現とも夢とも分かず面影に立つ
  彌陀たのむ 心の月を知べにて 行けば何地に迷あるべき』

十三番には小少将の前であった。備前国本郷主膳が娘にて、24歳になられた。彼女こそ関白の御装束を
賜った人である。
 『存へば 猶もうき目を三瀬川 渡るを急げ君や待つらん』

十四番には左衛門の後殿であった。岡本某の後室で、38歳であったという。琵琶、琴の名人で、歌の師匠も
されていた。是ぞ今わの気色にて
 『暫くの 浮世の夢の覚め果てて 是ぞまことの仏なりけり』

十五番には右衛門の後殿であった。村瀬何某の妻であったとか。村井善右衛門の娘にて、35歳になられていた。
21歳で父の村瀬と生き別れ、今また重きが上のさよ衣、重ね重ねの憂いの涙。よその袖さえ乾く間もない
 『火の家に 何か心の留まるべき すずしき道にいざやいそがん』

十六番は妙心老尼であった、同坊の普心の妻であったが、夫に先立たれた時も自害しようとしたのを
無理に止めて、尼と成られたのである、最後の供を悦んで
 『先達ちし 人をしるべじ行く路の 迷を照らせ山の端のつき』

十七番は於宮の前であった、これは一の台の娘であり、父は尾張の何某にて13になられた。
母子を寵愛されたこと、ただ畜生の有様であると、太閤は深く嫉み思われたとか、最後の体、おとなしやかに念仏して
『秋といへば まだ色ならぬ裏葉迄 誘ひ行くらん死出の山路』

十八番には於菊の前であった。摂津国伊丹兵庫の娘で、14歳になられていた。大雲院の上人に十念授かり、
心静かに取り直り
 『秋風に 促はれて散る露よりも 脆きいのちを惜しみやはせじ』

十九番には於喝食の前であった、尾張国の住人、坪内右衛門の娘で、15歳であったとか、武士の心で
男子の姿をし、器量類なかったため、稚児の名を付けられた、萌黄に練絹の単衣衣の重ねに白袴を引き、
秀次の首を拝して残る人に向い「急がれよ。三瀬川に待ち連れて参りましょう。」と語りかけ、検使にも
暇乞いをして、西に向かって声高に、こう2,3回吟じた
 『闇路をも 迷わで行かん死出の山 清る心の月をしるべに』

二十番には於松の前であった。右衛門の後殿の娘にて、12歳であったとか。未だ幼く、唐紅に秋の花を
刺繍した薄衣に、練絹をかけ、袴の裾を握りながら、母親の死骸を拝しつつ
 『残るとも 存へ果てん浮世かは 終には越ゆる死出の山路』

二十一番には於佐伊の前であった。別所豊後守の身内の客人、という者の娘で、15の夏の頃初めて見参し、
新枕のあと絶えて召されず、拙き身を恨んでいたが。ある酒宴の折に「君やこじ我や行きなん」と謡ったことで
他に勝って寵愛されるようになった。しかしその後何があったか、事情があり久しく出仕しなかったが、
最後の御後を慕い参られた事こそやさしくも哀れである、法華経を読誦してこれだけを言った
 『末のつゆ 本の雫や消え返り 同じ流れの波のうたかた』

二十二番には於古保の前であった。近江国の住人鯰江権之介が娘にてこれも15の春の頃より寵愛深く、
閨の袖の香浅からず成り染めて、花月の戯れに、後の事は思いもよらなかったであろう。
そしてこの期は大雲院の十念を受け回向して
 『悟れるも 迷いある身も隔てなき 弥陀の教を深くたのまん』

二十三番には於仮名の前であった。越前国より木村常陸守が呼んだ上臈とか。17歳であった。
非常に賢く、浮世を泡のように観念して
 『夢とのみ 思ふが内に幻の 身は消えて行く哀れ世の中』


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