戦国ちょっと悪い話44 ..
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400:人間七七四年
16/12/10 00:02:16.10 mqM9v91Y.net
道灌「この城どうかんならねえか?」
家康「家、やすいなら買おう」
と庶民には思われてた説

401:人間七七四年
16/12/10 00:18:49.26 6eJna+f9.net
>>400
        シャカ
      [二] シャカ
  ロ=== (´・ω・)
  (::) ( >on o θ
日[二二] と_){三}

        ス...
      [二]
  ロ=== (´・ω・)(
  (::) ( >oy>o )
日[二二] と_)_){三}

402:人間七七四年
16/12/10 10:55:42.83 BHAJeKED.net
世紀末荒野だった戦国の関東平野で
歌詠みまくって風流も競い合ってたってのがまた不思議

403:人間七七四年
16/12/10 11:27:41.74 EzzOhga2.net
西太后て清末以外にもいたのか

404:人間七七四年
16/12/10 12:20:56.46 gEo18Caq.net
>>403
西王母の事ちゃうか

405:人間七七四年
16/12/10 12:53:25.64 EzzOhga2.net
時代的におかしいから東と西でいろいろいるのかとおもいきや
西王母のこととは思わなかった

406:人間七七四年
16/12/10 19:47:48.65 J3N68zoo.net
北条家も風流なイメージ持ってる

407:人間七七四年
16/12/11 12:19:38.64 wrFBh8rX.net
斎藤道三と織田信秀が合戦したとき、
千秋季光という武将が討ち死にした
季光は平景清が所持していたという「あざ丸」なる刀を差していたが、
後に陰山一景の手に渡った
その後、この刀を持って出陣した一景は、
牛屋山大日寺の寺内に陣を構え床机に腰を掛けていたところ、
敵方の城内から矢が飛んできて、
その矢が一景の左眼に深く突き刺さったという
一景はすぐさまこれを引き抜いたが、
また鋭い矢がまた飛んできて、今度は右眼を射潰されてしまった
この後、あざ丸は丹羽長秀の所持するところとなったが、
間もなく丹羽長秀は眼病を煩ってしまった
そのため、『あざ丸を所持すれば必ず目を煩う』という風聞が流布し、
丹羽長秀は周囲の勧めもあって、
この刀を熱田神宮に進納したところ間もなく眼病は回復へ向かったという
実はこの刀の最初の持ち主である平景清は、
源平合戦において『悪七兵衛』と呼ばれた男であったが、
源平合戦に敗北した後は怨みのあまりに
自ら両目を繰り抜いて盲になってしまったのだという
この痣丸は今も熱田神宮に奉納されているという

408:人間七七四年
16/12/11 12:28:15.11 HWGYWPFm.net
千秋家って熱田神宮の宮司だな
神主武将

409:人間七七四年
16/12/11 15:29:21.03 L8TjvmB6.net
千秋さんの痣丸に因る死は以前出たと思ってたけどまだだったか
ついでに千秋家は桶狭間の前哨戦で佐々と一緒に突撃かまして全滅してるね

410:人間七七四年
16/12/12 18:46:41.12 vfphFEwK.net
今年の漢字をやってた清水の観音様のところに百日参りすれば
悪七兵衛景清の奉納した両眼をもらって眼を治すことができたのに

411:人間七七四年
16/12/15 02:05:42.36 Da97V1+q.net
相馬家の分家、相馬堀内氏の当主・左衛門には娘が一人だけで、嗣子無く、このため
娘に、相馬一族である藤田齊庵の弟、掛田兵庫という人物を迎え、堀内家を継がせようとした。
ところがこの娘が兵庫を嫌ったため、兵庫は堀内家から去り、その後柏寄村に居住して生涯を終えた。
兵庫が去った後、次に中津川家の二男、大膳亮を娘の婿として迎えたのだが、彼もまた嫌われたため、
仙道へと帰った。
ある夜、男二人が顔を隠し、誰ともわからぬようにして堀内の屋敷に忍び入った。
時間は宵の口で、召し使われている女房たちは自分の仕事をしており、堀内の娘は屏風の陰から
何とも無く外を見ていた。
するとそこに、先の男のうち一人が不意に走りより、この娘を一太刀切って逃げた。
召し使う女房の中には、この事態を見て一人、この暴漢に飛びかかり組み留めようとしたが、
男たちは二人で右や左に蹴り転ばした。女の事とて力なく、彼女はそこから逃げた。
この二人の男たちが誰だったのか、後までわからなかった。
娘は耳の下から頬にかけて傷が残ったという。
彼女は後に、二本松安房守義秀の嫡子、右馬頭国秀の妻となった。
しかしこの国秀は、叔父の義国に討たれた。
この時妊娠していた彼女は、相馬に帰って出産をしたという。
(奧相茶話記)
誰が彼女を襲撃したんですかねえ。

412:人間七七四年
16/12/15 02:41:51.33 Sv/EWd5r.net
犯人はヤス

413:人間七七四年
16/12/15 05:59:58.19 pzCQt+x1.net
加藤清正と人柱1 横手五郎と修験者
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
で既出になるかも知れないけど
その昔、横手五郎と言う15人の人を一度に抱え上げる程の大力の男が居た。ある時、加藤清正公の行列が道を塞いだ牛の為に立往生して居たところに通りかかった五郎は牛を持ち上げどかして行列を通してやりました。
その後、熊本城を築いている最中、五郎の大力を見込んだ清正公は五郎に石垣を築かせたり井戸掘りの仕事を任せ、五郎はその大力を活かして他の誰より早くそれらの仕事をこなしました。
しかし、ある日清正公に五郎はかつて清正公が討った天草の木山弾正の息子であると耳打ちした者が居ました。
それを聞いた清正公は五郎は父親の仇討ちに来たのか、それにあの大力は石垣や抜け穴など城の秘密も知っとるしいつか城を乗っ取られるかも知れん。
と、疑いを抱き五郎を殺す事にしました。
そしてある日、五郎が井戸を掘っている所を狙って上から大石を落とさせ五郎を殺そうとしますが、それを知らない五郎は大石を何度も井戸から投げ返します。
しかし、何度も投げ込まれる石に五郎も遂に自分が殺されようとして居る事に気付き、覚悟を決めて大声で叫びました。
ワシを殺すなら石じゃダメじゃ、砂利ば投げ込め!
そして五郎は井戸に生き埋めにされて死んでしまったそうだ。
その後、城の基礎が出来上がりその後の工事の無事を祈る為に修験者が京より呼ばれ、祈祷をしたのだが、修験者は五郎が生き埋めにされた井戸の秘密を見抜き、
「この地には二つの呪いがかかっております。井戸に生き埋めにされた人足とその父親の呪いが」
と言いました。怒った清正公は
「ならばお前が人柱となり、呪いを解いてみせよ」
と、その場で修験者を手打ちにしました。しかし、修験者は今際の際に
「私を人柱にしても呪いは解けません。加藤様の家は呪いのせいで絶えてしまうでしょう。」
と言い残して亡くなったそうです。
熊本城内にはこの大力の横手五郎が運んだとされる五郎の首掛け石が宇土櫓の側に今も残っており、
また玄海町には太閤秀吉が名護屋城築城の頃に築城奉行だった清正公に従い築城に従事し、当地では無双(みそ)五郎と呼ばれた大力の若者が投げ落とした船繋ぎ石と言われる直径6mの巨石が有浦川に残っています。

414:人間七七四年
16/12/15 06:22:27.82 pzCQt+x1.net
ちなみにこの修験者に関しては別に、京から呼んだ龍蔵院と言う山伏であり、築城の際に清正公が地鎮祭を行わせ教示を受けたが、
城の完成祝いの宴で城の縄張りの事をうっかり喋ってしまい、清正公の命を受けた家臣に帰途殺害されたと言い、熊本市北区にある山伏塚はその墓(処刑場とも)であると言われ、熊本の心霊スポットでもある。

415:人間七七四年
16/12/15 07:13:08.77 pzCQt+x1.net
加藤清正と人柱2
加藤清正公は肥後に入国した翌年から菊池川河口に広がる遠浅と島に目をつけ干拓事業に取りかかりました。
この干拓で最も困難だったのが「石塘」の築堤工事であった。
横島−久島山間(400m)は底が深く潮の流れが速くこの瀬戸に渦巻き、遠い昔から「丹倍ヶ淵」の名で舟人等を恐れさせた場所でした。
この築堤には大勢の人員と多くの石材、木竹、土むしろ、更に墓石に至るまで大量の資材を用いましたがことごとく流されました。
もはや堤の完成の為には人力だけでは覚束ない、古例にならって人柱を立てたらとの提案があり人選をして人柱を立てる事になりました。
その人柱になる人物の条件として、
「横布を当てて袴をつくろっている者」
が選ばれる事となり、その条件を満たす者がただ一人だけ見つかり、慶長十年(一六〇五)十一月二十五日、いよいよ潮止めを迎えると、その人は村人たちの見守る中、水中に立ちました。
横島山の頂上では大勢の僧侶たちがその冥福と工事の成功を祈って法華経を読経し、その人は土石の下に姿を消しました。
これにより難工事も見事に成功し石塘が完成しました。この石塘築堤工事により古来海上の一孤島であった横島が玉名の陸地と接続詞広大な新地が完成し、
最初の鍬入れの天正十七年一月から石塘築堤17年の歳月をかけ小田牟田新地干拓が終わりました。
 横島の伝説によると人柱に立ったのは大園村の庄屋伝作であったとされており、別に「藤公遺業記」によると中富手永(郷)千田村(鹿本郡)の者人柱に沈むとなっています。
また、鹿本郡植木町のとあるお宅には先祖が横島で人柱に立ったと言い伝えられています。
いずれが事実かはハッキリしないものの、人柱の歴史は事実であり石塘の人柱が立ったところには
「鎮魂慰霊」と刻んだ小さい祠が建てられ、現在では「人柱之碑」が建てられています。
これらの事から当地には昔から「横布を使うと人柱に立たされる」という言い伝えがあるそうです。
また、一番大掛かりだった石塘の築堤工事に基づき読経した経本を埋めたところを経塚と言い、この築堤工事に当たり多くの犠牲者と人柱に立った人の霊を祀ったのが大園にある本田大明神であり、
深夜にこの場所の近くを通ると、小石が転がってきたり・・カチカチと音が鳴ったりするなどの、怪奇現象の報告例が後をたたないという。

416:人間七七四年
16/12/15 13:04:34.58 qYLg94CZ.net
>>415追記
同じ熊本県の南部に位置する相良氏が藩主を務めた人吉藩で17世紀後半に現在の熊本県球磨郡多良木町に造られた百太郎溝にて人柱となった、百太郎と言う者も庄屋の夢に出た水神の御告げで
はかまに横縞のツギを当てた男を堰をつくる時の人柱にすればよい。
と言う神託に寄って人柱として選ばれたと言う。

417:人間七七四年
16/12/15 14:43:37.25 VnJLJLbL.net
>>414
URLリンク(www.chugainippoh.co.jp)
震災復興の祈願とは言え、殺された坊さんの行った法要や祈りを再現しようと言うのはちょっと理解に苦しむ…

418:人間七七四年
16/12/15 19:42:38.77 ynzlC0ov.net
なんか来年の大河がもめてるそうだから、井伊直虎関連本から抜き出してみた
大石泰史「井伊氏サバイバル五○○年」
p146〜(正徳元年(1711年)に井伊家の始祖の誕生した井戸の帰属を巡って正楽寺と井伊氏の菩提寺である龍潭寺が争った際、
龍潭寺の住職であった祖山が井伊氏と龍潭寺のつながりを証明しようと「井伊家伝記」を書くにあたって)
(中略)ここからは想像の域を出ないが、次郎法師登場の背景を探ってみよう。
祖山は龍潭寺で、位牌・過去帳等から「次郎」が中世井伊氏の家督も使用した仮名・通称であることを認識した。
そのため永禄八年の寄進状を書いた「次郎法師」は当主に近い人物と考えた。
しかし、中興開山である直盛は同三年に、後嗣直親も同五年に死没している。彼らよりも没年が遅い人物を探す必要がある。
そうしたとき、龍潭寺内に残されている位牌等に、天正十年に亡くなった人物がいた。
法名は「妙雲院殿月船祐円大姉」だが、没年は直盛・直親以降の人物であることは間違いない。
「大姉」とあるので女性である。しかし、その位牌等以外に確認できないのであるならば、次郎法師は妙雲院殿だった。祖山はこう考えたのではないだろうか。
その傍証となるかもしれないが、祖山は次郎法師=直盛息女=妙雲院殿と認識はしているものの、
次郎法師=直虎、もしくは直盛息女=直虎、という表現はまったくしていない。
つまり、女性であることは認識していても、男性名である「直虎」を名乗ったとはどこにも記載がないのだ。
このことから、直虎が次郎法師もしくは直盛息女と指摘したのは、後世の研究者たちであったとすることができる。

419:人間七七四年
16/12/15 19:47:32.44 ynzlC0ov.net
小和田哲男「井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史」
p101〜
『寛政重修諸家譜』は「女子 直親に婚を約すといへども、直満害せられ、直親信濃国にはしり、
数年にしてかへらざりしかば、尼となり、次郎法師と号す」と簡単な記述で終わっている。
(中略)『寛政重修諸家譜』の記述だけだと、尼となったのに尼の名でよばず、なぜ「次郎法師」という名前なのかの説明がなく、わからない。
そのあたり、「井伊家伝記」を書いた祖山も注目したものと思われる。一つの解釈を披露している。(中略)
亀之丞が信濃に落ちていってしまったため、彼女は菩提の心深く、南渓和尚の弟子になって、剃髪し、出家してしまった。
両親は嘆き、「一度は亀之丞と夫婦にと思っていたのに、このようになってしまって」と、
尼の名はつけさせたくないと南渓に申し出た。
一方、彼女のほうは、「出家したのだから、是非、尼の名をつけてほしい」と、親子の意見が分かれてしまった。
そこで南渓和尚が考えたのが次郎法師という名前であった。
備中次郎という名は井伊家惣領の名である。次郎法師は女ではあるが、井伊家惣領に生まれたので、
相続の名をかねて次郎法師はふさわしい。南渓和尚がつけた名である。
この次郎法師は、井伊直親が誅殺されたあと、直政が幼年だったため、井伊家の家督となり、地頭職をつとめた。
(中略)
(父親の直盛の出生年から考えて判断力のあった年齢であるとするのは難しい、という野田浩子氏の説を紹介した後)
娘も自分の意志で行動できる年齢だったと見ている。(中略)ただ、野田氏の指摘のように、「彼女の私的な
感情により出家が認められるはずがない」というのはその通りで、あとでふれるが、亀之丞がもどってきたとき、
還俗すれば結婚が可能だったはずなのに還俗しなかったこととあわせ、このあたり謎が多いことはたしかである。

420:人間七七四年
16/12/15 19:52:19.56 ynzlC0ov.net
ニュースでは次郎法師は直盛の娘で、次郎直虎は別人、という主張が紹介されてたけど
単に龍潭寺に箔をつけるために祖山が次郎法師=直盛娘として南渓、次郎法師命名の話をでっち上げただけで
1812年に完成したの『寛政重修諸家譜』もその次郎法師=直盛娘説に乗っかっただけだったりして

421:人間七七四年
16/12/15 19:55:32.03 Da97V1+q.net
あのニュース、「発見」されたって『守安公書記』が新発見でも何でもない史料の上に、しかも編纂されたのが享保20年(1735)で、
享保15年成立の『井伊家伝記』より新しいものだからなあ。
『守安公書記』の史料評価もきちんとできてないみたいだし、あのニュースは正直勇み足過ぎる

422:人間七七四年
16/12/15 23:51:47.04 CukiuDjr.net
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

423:人間七七四年
16/12/16 06:13:05.59 cGxjSaEe.net
松江城のギリギリ井戸
堀尾吉晴が松江城を築かせている最中、表鬼門に位置する石垣だけは何度石を積んでも崩れてしまい、工事が終わらなかった。
吉晴がその場所を掘り返させ徹底的に調べた所、そこから一つの頭蓋骨とそれを貫く錆びた槍の穂先が見つかった。
吉晴はすぐさま神主を招いて二夜三日に渡る大祈祷を行って頭蓋骨を供養した所、以後障りなく石垣造りが進んだと言う。
また、頭蓋骨を掘り当てた場所からは澄んだ水がこんこんと湧き出し井戸となり、この時掘った形が頭のつむじの形に似ていた為、当地の方言でつむじを意味するギリギリからギリギリ井戸と呼ばれる事になった。

424:人間七七四年
16/12/16 07:00:23.69 cGxjSaEe.net
松江大橋の人柱
松江城築城にまつわるもう一つの人柱伝説。
関ヶ原の功で雲州に入った堀尾吉晴は月山富田城に入ったものの、城下町形成の為平地にある亀田山の末次城(現松江城)へ本拠地を移城する事を決意。
月山富田城を解体して資材を運ぶには大橋川を通らねばならなかったが、当時はカラカラ橋と呼ばれる竹造りの小さな橋しか無かったので、木造の大きな橋を架ける事になった。
が、洪水や事故などの為工事は難航し、例によって人柱を立てる事に。
人選はこの翌日、一番に橋を渡る者でマチの無い袴をはいた男(横縞の継ぎをした袴という説も)を人柱にすることと決め、その日の朝に運悪くその姿で橋を渡ったのが、足軽の源助だった。
源助は捕まり橋脚の下に埋められ、その甲斐あってか橋は完成、その後、大橋の中央の橋脚を「源助柱」と呼ぶようになったという。
また異聞もあり、人柱を立てる事が決まり人選について皆が悩んでいた際、源助と言う足軽が
「明日、下駄を履いて橋を一番に渡る者を人柱としよう」
と提案。翌日、その姿で真っ先に橋を渡ったのがこの源助当人で、彼は誰もがなりたがらない人柱の役を自ら引き受けたとも言われる。

425:人間七七四年
16/12/16 07:11:56.86 cGxjSaEe.net
ちなみに、このマチの無い袴と言うのは
「まち」がない袴を「行灯袴」と呼びおもに下級武士や足軽が用いたもので、現在は女子が用いる袴はすべて行灯袴であることから「女袴」ともよばれる。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
万一偉いさんが通っても人柱にならない様に配慮したってはっきりわかんだね

426:人間七七四年
16/12/16 11:31:37.47 C91lbPBf.net
現代では色々な武将が女体化してるから
井伊直虎の性別なんてどっちでもいい・・・って石田三成が言ってた

427:人間七七四年
16/12/16 13:11:17.64 VCcNHMdd.net
武将名でイメージ検索するとひどい事になるのが最近は普通になってるな。あと刀も

428:人間七七四年
16/12/16 13:40:32.34 3OMI3D+q.net
つか女でも法師てよばれるんだな

429:人間七七四年
16/12/16 16:49:21.36 CiQBUj3m.net
>>425
>万一偉いさんが通っても人柱にならない様に配慮した
リアルで恐いわ

430:人間七七四年
16/12/16 21:09:51.60 E3VsNxRe.net
とりあえずだが、井伊達夫氏は甲冑業界では名の知れた山師であることを指摘しておこう
井伊とは言っても、井伊家(越後与板藩主家)とは近年養子縁組したひとだしね
まあ個人攻撃ととられるかもしれないが、いわくつきの人だってことさ

431:人間七七四年
16/12/16 22:41:19.20 NI228Pl1.net
ところでその話の流れで、付箋がどうこうとネット上で一部の話題になってるの
例えば国宝「上杉家文書」の場合なんか、ボールペンの書き込みが残ってたりする
昔の地元の郷土史家の先生たちの仕業なんだけれど
今の修復技術で消すことも可能だが、後世の戒めとして残してあるそうな

ふと思い出した

432:人間七七四年
16/12/17 13:08:32.96 edoflzSk.net
吉川広家(中村一忠)と人柱 人柱久米と河童の怪
1591年に太閤秀吉の命で叔父、末次元康の代わりに出雲伯耆隠岐の支配を任された吉川広家は、城下町を作るのに不便な月山富田城に代わる本拠地として米子の飯山城に目を付けた。
隣接する湊山に天守閣を建てる計画を立て、米子城の築城が始まり二の丸三の丸の建造は順調だったものの、天守閣の石垣を組もうとすると、その度豪雨に見舞われ石垣は崩れてしまい工事は進まなかった。
この事態に人夫達から人柱を立てねば祟りが続いて工事はままならないと声が上がり、吉川広家は普請奉行の祖式九右衛門らと相談して人柱を立てて地鎮を行う事にした。
そして、町で開かれていた盆踊りの場から久米という名前の美しい娘を無理やり、または口車に乗せ連れ去り人柱にしてしまった。
この後、吉川広家は関ヶ原の敗戦で岩国へ転封となり後に入った中村一忠の代に米子城は完成したものの、天守の石垣付近では人柱にされた久米の幽霊が度々現れ人々を恐れさせたと言う。
また、米子の人々は人柱にされた久米を偲んで米子城の事を久米城と呼ぶとともに、盆踊りを開くと人攫いが現れ人柱にされてしまうと噂し、近世まで米子では盆踊りが開かれる事がなくなった。
久米が人柱として埋められてから暫くして、米子の町では夜に厠へ入ると毛むくじゃらの腕が現れ尻を撫でられると言う事件が多発した。
そこで一人の力自慢の侍が退治してやろうと夜に厠へ入るとやはり毛むくじゃらの手がにゅっと出て来て侍の尻を撫で回す。
侍は手を掴むと一刀の元にその腕を切り落とし、家に持ち帰った。
すると、河童が侍の前に姿を現しもう悪戯しないから腕を返してくれと頼むので、腕を返すと河童はそのお礼として侍にどんな傷も治すと言う薬を渡して米子を去り、日野町の黒坂へ移りそこで悪戯をする様になったと言う。
米子の人々はこの河童を久米の生まれ変わりではないかと噂したそうな。

433:人間七七四年
16/12/17 13:45:45.24 gUr9WE8G.net
美少女に生まれたけど人柱にされて河童に生まれ変わっておっさんのケツ撫で回す人生とかどんな罰ゲームだよ

434:人間七七四年
16/12/17 13:50:28.31 FgX/RKrK.net
人柱にされた美少女は実は痴女で、イケメン侍の尻を撫で回していたと思おう。

435:人間七七四年
16/12/17 14:12:34.44 edoflzSk.net
URLリンク(i.imgur.com)
黄桜河童なら…

436:人間七七四年
16/12/17 16:56:51.14 LFsLigeo.net
>>432
話が混じりすぎてカオスw

437:人間七七四年
16/12/17 18:19:31.85 afG/R5Jc.net
笄の井戸
岡山の柾木城(正木)は天正年間に宇喜多直家の兵2000に囲まれ落城寸前であった。
城主正木大膳正康の妻、玉尾の方は落城の前日
「私達が居ては満足な戦が出来ないでしょう。先に行って待っております」
と言うと、姫君初瀬を抱いて馬で柾木山を駆け降り、城の東南に位置する井戸へ二人で身を投げ命を絶った。
その後井戸へ身を投げた二人を供養した所、笄が浮かんで来た為この井戸を笄の井戸と呼ぶ様になったと言い、今も当地にて毎年供養が続けられている。
ちなみに正木大膳正康の入城は1589年だったと言う話もあり、城を攻めたのも宇喜多秀家だったり何故か姫路城主の本多忠政だったりする場合もある少し腑に落ちない逸話である。

438:人間七七四年
16/12/17 22:39:57.96 PNeVf9DM.net
>>430
酷い山師だったのは事実だが、その古文書自体は捏造ってわけでもないだろう。検証と解釈は別として。
目立ちたがりなのは間違いない。

439:人間七七四年
16/12/17 23:16:22.05 afG/R5Jc.net
笄の井戸動画
URLリンク(youtu.be)

440:人間七七四年
16/12/17 23:40:02.02 FQR9CdkD.net
>>432
松江城のコノシロの話と似てるね
河童の前までだけど

441:人間七七四年
16/12/18 06:19:17.29 ljNawsFS.net
 尼子義久は伯耆国をも手に入れて大身であったが、その気がすわらない人なので物事にとらわれやすかった。
毛利元就が口寄せの市子と申す者に金銀をとらせて、
「尼子の家は先祖の祟り、外からの恨みもあるので久しくは無いだろう。」等と色々誠らしい事を作って凶を告げさせた。
すると、尼子は気にかけて甚だくじけてしまい、その弱みを突かれて遂に亡んでしまった。
 物事の道理をよく考え、迷ってはならない。
巫女山伏に神が乗りうつられるという事は合点のいかぬ事である。
合点のいかぬ事に悩まされるのもなお合点がいかない。
とにかく手前に無理がなければ外よりよこしまな事があろうことはない。
道理を尽くしても悪事となって邪な事が来ても、天命であるとして是非はないと思え。
 自分の弱みを突かれ気が虚けていたら、たぶらかされる事は必定である。
(武士としては)
尼子氏の先祖の祟り、外からの祟り…
思い当たりがありすぎる…

442:人間七七四年
16/12/18 07:30:24.35 Ze9a2Qhj.net
>>440
隣の安来市にある月山富田城にも人柱の話があって、松江城、米子城と共に城の修築が上手く行かずに盆踊りから人柱となる人を拐って埋める所までは共通なんよ。
また米子城にもこの城は我の物〜とのたまう妖女が現れ退治された話があって、そちらの正体は人柱ではなく別のモノだったりします。
>>423のギリギリ井戸と松江城の人柱にも異聞があり、井戸の場所から見つかった頭蓋骨を弔うのに堀尾吉晴の知り合いの修験者が呼ばれて供養した。
が、修験者はまだこの供養だけでは地鎮は終わらず城造りの災いは済まぬ。私の子を仕官ないし、面倒を見てくれるなら私が人柱となりましょう。と、修験者が進んで人柱となった話も有ります。
尼子経久と人柱 米原太鼓
尼子経久が山陰の覇者となった頃、月山富田城の修築を始めたものの事故や災難が続き工事が難航した。困った尼子経久が巫女に相談すると
「月の紋が染め抜かれた着物を着た娘を人柱にしたら工事は成功する。」
と神託が降り、盆踊りの場から月の紋が入った着物を着た娘を連れ去り修築場所で人柱にした所、以後の工事が無事終わった。
この人柱の儀式の時、娘の霊を慰める為に太鼓を叩きながら儀式が行われたのだが、娘を人柱にした日が近づくと山頂から城へ太鼓の音が聞こえて来るようになり、人々はこれを米原太鼓と呼んだ。
米原太鼓には米子市にも伝説があり、水に苦労した市内の弓ヶ浜へ水路を引く際、米原まで来た所で工事が難航。
当地の盆太鼓が上手な青年が人柱になり、青年は太鼓を打ち鳴らしながら人柱となった。
また、盆太鼓が上手な娘が居たがある年、仕事の後に盆踊りを教えてくたくたになって帰った所、翌朝起きる事が出来なかった。
意地悪な継母が焼き火箸で娘を撃ち殺してしまい、これらの事件の後盆が近づくと地面から悲しげな太鼓の音が聞こえる様になり、米子の人々はこれを米原太鼓と呼んだと言う。
(書籍:本当は怖い日本の城と米子の伝承より)
これにて人ばしRushは一旦おしまい

443:人間七七四年
16/12/18 07:42:42.76 Ze9a2Qhj.net
>>442
×盆太鼓が上手な娘
○盆踊りが上手な娘

444:人間七七四年
16/12/18 07:53:42.56 0J/EbjXH.net
人ばしrush

445:人間七七四年
16/12/18 07:59:45.06 Ze9a2Qhj.net
>>444
ここ毎日人柱の逸話上げてたもんだからつい…

446:人間七七四年
16/12/18 08:28:12.44 sfFYV6q2.net
盆太鼓が上手なむす… 娘…
URLリンク(i.imgur.com)

447:人間七七四年
16/12/20 23:24:58.34 hzpAUNNI.net
薩隅の戦国食べ物? ねったぼ
ねったぼは蒸した唐芋(サツマイモ)と餅、砂糖などで作る餅で、ぼったぼったと練ってつくことから
その名がついたといわれる、鹿児島県や宮崎県の都城地方などで食べられている郷土料理です。
(砂糖の入ったきな粉をまぶして食べます。餡子が入っている場合もあります)
地域により、からいもんねったぼ、からいものねったぼ、からいもねったぼ、ねったんぼ、ねったくり、
からいも餅、ねりくりとも呼ばれます。
サツマイモの食べ物の話だと、スレ違いではと思われるかもしれませんが、
徳田大兵衛(侏儒どん)のことを書いている文で気になるものがありましたので・・・
「大兵衛殿は五十歳余りの時、都之城なる北郷殿宅にて年かさの餅を喰はせられ、咽喉に引き懸かり、
即ち相果てられし人にて候由」(薩藩舊傳集)
侏儒どんが現在の宮崎県都城市の北郷殿の屋敷で出された「年かさの餅」を咽喉につまらせて
なくなったとありますが、鹿児島で「年かさの餅」(鹿児島弁では「とっかさ」)とは
正月の餅を搗くとき、最後の一くぼ(餅米一臼分)に、煮たさつまいもを入れて搗きあげたもので、
ねったぼと同じものなのです。昔と今とでは違うのではと思われるかもしれませんが、
侏儒どんの話がまとめられている「日当山侏儒戯言」にも、
「年かさの餅とは薩摩独特の唐芋と餅とを搗きまぜたものだという説もあり」と書かれています。
(侏儒どんがなくなったのが、寛永十一年正月十六日(1634年2月13日))
前に鹿児島大学の焼酎学の先生から、
1611年に琉球征伐の後始末に残っていた薩摩の兵が薩摩芋を土産に持ち帰った。
1615年には琉球から種子島家に薩摩芋が送られた。
と聞いたことがあるので、栽培は出来てなくても手に入れることは出来たようなので、
貴重なものとして、正月用の祝いの餅にまぜこんだのかもしれません。
「日当山侏儒戯言」では、
「侏儒が正月北郷殿へ行って餅か出た時、ナニ此の位のなら唯一口で喰はれるとか何とか言って
喰ったところが、ソレが咽喉に閊へて遂に命を落としたのではあるまいか、若し予の想像通りとすれば、
彼は遂に滑稽の為に死んだのである」と書いてあって切ない。

448:人間七七四年
16/12/21 06:47:03.33 Ex3Uxlra.net
>>447
餅は古来よりの殺人食ってはっきりわかんだね

449:人間七七四年
16/12/22 00:23:23.28 qpvz8I6l.net
同月(慶長20年5月)、真田左衛門佐幸村〈又云ふ信為〉の妻女が紀州
伊都郡に忍んでいたのを、浅野但馬守(長晟)の家人が召し捕って来た。
闕所(没収)の黄金57枚、並びに秀頼から真田に与えられた来国俊の
脇差を添えて進上した。件の2品は即座に但馬守へ下しなさったという。
―『関難間記』

450:人間七七四年
16/12/23 19:45:13.14 uDiWfu+v.net
中村家廃絶の話 〜正室、於さめの方側室の子を嗣子と認めず〜
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
にも少し書いてある話になるが、
中村一忠は11歳で家督を継ぎ、伯父で執政家老の横田内膳が政務を取り仕切っていた。独裁的であったようだが、米子城を完成し、新たに城下町をつくり、現在の米子の基礎固めを行っている。
重臣の安井清一郎や、茶道の師である天野宗把など、内膳のやりかたに不満のある者たちが、一忠にそろそろ政務をご自分の手に、とそそのかした。
これにのった一忠は、慶長八年(一六〇三)十一月十四日に、一忠と於さめ姫との許婚の儀が米子城で盛大に行われたあとで内膳にいきなり斬りつけた。
しかし、一忠は仕損じてしまい、次の間に控えていた家臣がようやく斬り伏せ殺害した。
直後、横田内膳の息子や柳生但馬守宗矩の兄、五郎右衛門らによる米子騒動が起き、隣国出雲月山富田城城主、
堀尾吉晴の助けもあって事態は一忠側の勝利で収集したものの幕府は、安井、天野の両人に切腹を命じた。
また江戸へ呼び出された一忠はさまざまに弁明したものの、品川宿で謹慎を命じられた後許されている。
一忠の叔父中村一栄(かずよし)は、家臣の梅里伯清の娘を一忠の側室にと推挙し慶長九年(一六〇四)、梅里の娘は十四歳で米子城へお国御前として上がる。
正室於さめ姫は江戸屋敷に常住した為お国御前は正室に次ぐ格があった。
一忠には京にも京屋敷があり、これは豊臣時代からの屋敷で一忠の生まれ育った所であった。
京屋敷の家老矢野正倫(まさとも)も京の側室を推挙した。庄屋の娘であったが、美人で物腰やわらかな、明るい娘であったようだ。
余談だが家康は大名たちの側室の人数について、大名は八人という目安をもうけている。一忠も江戸、京、米子と、上屋敷、下屋敷に八人くらいの側室はいたのかもしれない。
元服の際一忠は、松平の称号を許され、将軍秀忠の諱名を賜り、忠一と名乗りを改めた。
於さめ姫には、姫つきの女中があまた随ってきたが、それとは別に忠一付きの側女中が二人、どこからか配置されてきた。この二人はこまめに忠一の身の回りの世話をした。周囲の者に明かすことのできない、重要な任務を帯びて中村家に乗り込んできていた。
側女中の二人がきてより、忠一の体調はしだいに悪くなり、疲労感が色濃くなっていった。
江戸屋敷にいる於さめ姫は、忠一が江戸にあっても、別棟の御主殿にいて、昼間は忠一と会うことはなかったが、輝姫という女の子を産んでいる。ついで、京の側室も出産し、こちらは男子で小武と名づけられた。
慶長十四年(一六〇九)五月、江戸、京、とまわって米子へ帰国した忠一は、だれの目にもわかるほど衰弱していた。
旅の道中に例の側女中もつき従い、十二分に忠一の面倒をみたが、お国御前の側室が側女中をあやしんで、見張り役を派遣したが、確証は得られなかった。
川狩りに行くと気分もよく元気が出るような気がして、忠一は最後の川狩りに出かけた。だがほどなく帰ってきた忠一は、すぐ寝所に入った。近習がかけつけた時、忠一はすでに死んでいた。いまだ二十歳の若い藩主の死去であった。
忠一の顔には薄く斑点が浮き、それを消すためにか、側女中は顔や身体中をなでさすっていた。これをとがめられた側女中は逃げ出して再びその姿を見た者はいなかった。
この後藩主の亡くなった米子城に幕府の裁定が下り、中村家は子なき故断絶と決まった。
京の側室には、男子の小武がありながら、また米子の御国御前も当時忠一の子を妊娠していたのにである。
これは正室である於さめ姫が「おおかた、どこからか連れてきた子であろう。けしからぬことだ」
と、柳眉をさかだてた鶴の一声の為であり、この為十八万石の米子中村家は、お取り潰しになってしまった。
中村忠一の死後、妊娠していた米子の御国御前も隠棲して男子を産んだがこれらの子らのその後に関しては九州方面の大名の家臣となったり、京都で出家したり、
また中村一氏の正室は池田信輝の子で あった事から池田家と親籍となり、鳥取池田家に迎えられたと言う。
正室、於さめの方に関してはこの四年後の慶長十八年(1613年)に毛利秀元の継室(浄明院)として嫁いだとされる。
(因伯戦国時代の女性たち、鳥取県史より)

451:人間七七四年
16/12/23 19:58:11.05 uDiWfu+v.net
>>450
追記として、米子騒動の横田内膳は既出の話にある通り藩主を蔑ろにした奸臣と言う風に中村記などの中村家側の資料に書かれているが、
実録が伝える村詮専横を忠臣が藩主とともに絶つという筋からは、到底こういう処分にはなるはずがない。幕府では実録が伝えるのとは、まったく違う見方をしていたのだった。
「徳川実紀」では、忠一(一忠ではない)15歳、その行いは凶暴であり、横田内膳(村詮)が何度も諌めたが、これに怒った忠一が宴にことよせて自ら殺害、
更に居城飯山に立て籠もった一党を隣国堀尾の軍勢を得て鎮圧した、と記すという。
新井白石の「藩翰譜」もほぼ同様であるといい、この騒動を聞いた家康は、幼弱な藩主一忠を諌めるべき家臣が、その責を果たさずに迎合し、騒動を引き起こしたことを厳しく咎め、安井らに腹を切らせたとされている。

452:人間七七四年
16/12/23 20:56:32.91 iLzbCdiU.net
自分が任命した補佐役の村詮を殺されたから家康は怒ったんでしょ?

453:人間七七四年
16/12/23 21:06:02.20 TmvAbk2q.net
よくあることとはいえまるっきり話が違うw

454:人間七七四年
16/12/23 21:14:22.59 uDiWfu+v.net
>>452
それも有るし、養女とは言え娘の婚礼の宴を利用して功臣の排斥行ったらそりゃあもう味噌様だって怒りが有頂天でしょうよ

455:人間七七四年
16/12/24 00:09:06.06 vAaOz2Je.net
池田輝政の死因
      ある日、姫路城の池田輝政に
       手紙が届きますた・・・
          _____
         / ヽ____//
         /   /   /
        /   /   /
        /   /   /
       / 刑 /   /
       / 部 /   /
      /   /   /
       ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
         | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
         |                    |
         |   前略 池田輝政 様   |
       /    ̄ ̄ ̄ ̄     /____
       / 呪いを掛けました /ヽ__//
.     /        殺すぞ   /   /    /
.     / 死にたくなかったら/   /    /
    / 大八天神を祀れ___   ./   /    /
   /        刑部   /  ./    /
 /             /   /    /
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/   /    /

スルーした池田輝政は徐々に体調がおかしくなり、慌てて言う通りにしましたが時すでにお寿司。そのまま悶死したそうな。めでたしめでたし。
      r ‐、
      | ○ |         r‐‐、     
     _,;ト - イ、      ∧l☆│∧  良い子の諸君!
   (⌒`    ⌒ヽ   /,、,,ト.-イ/,、 l  困った時の神頼み!
    |ヽ  ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒) 
   │ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /| とよく言うが、
   │  〉    |│  |`ー^ー― r' | 困った時に神頼みしても
   │ /──| |  |/ |  l  ト、 |  手遅れな場合もあるから気をつけるんだぞ!
   |  irー-、 ー ,} |    /     i      
   | /   `X´ ヽ    /   入  | 普段から神様祭事慶弔行事は大事にするんだぞ!

本当は怖い日本の城より

456:人間七七四年
16/12/24 00:35:11.91 vAaOz2Je.net
>姫路城の怪異と輝政の死・天守の五層目に、夜な夜な怪しい灯火がともされたり、真夜中に突然大きな太鼓の音とともに悪鬼が現れて人々をとり殺したり、
あるいは夜半に大勢の女子供の泣きわめく声が突如として、湧き起こったりした。さらに若い女中がさらわれたり、白昼傘をさしたまま侍が空中に吊り上げられるなど、
不気味な事件が昼夜の別なく城内のあちこちでありました。
ついに怪異は、輝政本人をも襲いました。輝政の枕元に現れた美しい上臈が、近日中に病気になるだろうと予言した。天守閣が完成した直後の慶長十四年には、実際に奇妙な書状が届けられた。
『播磨主大天神東禅坊・都の主千松』なる人物から輝政・督姫・輝政の母に宛てた文で、『此九月にもな、物にくるいつるおな、きつねよなとかつてん(合点)しつるかな、
これもとうとみのくに(遠江国)の天神そや、すなわちくわん(願)あかりてな、三りんほうが、はやはやよりんほうになりたるそや伝々』
と言う様な呪いの言葉が、書き連ねられていた。その要旨は、『遠江の四りん坊なる天神(天狗)が三りん坊なる天神を誘って姫路城の鬼門から侵入し、輝政らの命を奪おうとしている』
この呪いから逃れる為には、城の鬼門に『八天塔』すなわち『八天大塔護摩堂』を建立し、大八天神を祀って護摩の秘法で祈祷を納めなければならない。
と言う様な意味でした。この怪文書は、現在、小野市浄土寺と多可郡円満寺に所蔵されていると言います。
剛毅な輝政が打ち捨てていたところ、城内で怪異がつづき、とうとう輝政自身も病の床についた。さすがに気味悪く、輝政は八天堂を建立、
円満寺の僧を招いて悪魔調伏の護摩修法を行った。だが時すでに遅し、輝政は外出中、にわかに苦しみだし、急ぎ帰城する途中、輿にカラスが次々にぶち当たって来た。
この後、輝政は一時的に回復したが、病室の障子や壁に群れをなしたカラスが突き当たってはバタバタと、地上に落ちて死ぬなど不吉な現象が続き、慶長十八、ついに帰らぬ人となった。
おそらくは中気の再発だろうが、ただ、吐血して突然死を遂げた事から、毒殺の噂が立ちました。
URLリンク(m.chiebukuro.yahoo.co.jp)
後、祥伝社文庫の『江戸の怪』中江克己 著
にも少し内容が異なるけど池田輝政怪死の話が載ってる模様

457:人間七七四年
16/12/24 07:18:59.17 dgj9qo97.net
どうせなら鴉じゃなくて蝙蝠にすりゃええのに

458:人間七七四年
16/12/24 08:23:15.36 vAaOz2Je.net
>>457
    (\_/)
  /( (゚(M)゚) ハ 日中仕事するとか眠たい
 / | Y (゚Д゚)Y|
`| |  (ノミミミ|)||
 \(⌒Yミミミノ⌒)/
     ∪∪

459:人間七七四年
16/12/24 08:36:03.66 dgj9qo97.net
いや、石燕は蝙蝠と一緒に長壁姫を描いてるからさ
てか、知恵袋から引っ張ってきたのか

460:人間七七四年
16/12/24 09:23:19.51 aP1ZLklG.net
根岸鎮衛「知恵袋とは耳嚢(みみぶくろ)のようなものですか?」

461:人間七七四年
16/12/24 09:27:49.94 vAaOz2Je.net
>>459
知恵袋は書き込んだ後で見つけた。
祥伝社文庫の本に載ってるのとでまた若干細部が違うし、池田輝政 死因 呪い とか、姫路城 呪い でggってみるとよろしよ

462:人間七七四年
16/12/24 11:47:20.54 vAaOz2Je.net
>>460
左様ですな、現代に於ける様々な人々の言葉が詰まったさながら塵袋、芥袋と呼ぶに相応しき物かと存じます

463:人間七七四年
16/12/24 14:37:00.84 TsTbPz9n.net
結城秀康の死去/家康怒りの改葬

結城秀康は慶長12年には父家康により伏見城番に任じられたものの病が重くなり
3月1日に伏見から越前に帰国したものの、同年閏4月8日に34歳で死去した。
嫡男の忠直が江戸にいたため葬儀は大幅に遅れてしまい、わざわざ北庄まで
弔問にきた毛利輝元も痺れを切らして帰国してしまったという(『毛利家文書』)。
秀康は結城家菩提所の曹洞宗の寺、福井孝顕寺(結城氏は代々禅宗だった)に葬送され
孝顕寺殿吹毛月珊大居士と称したものの、それを聞いた家康が
「我が家の者は浄土宗である、結城を名乗っているのならともかく
 既に復姓し松平となっているのに、このたび禅宗に改めるとは何事か!」
と激怒した為家康の意向により、知恩院から満誉大僧正を導師として下向させ
満誉を開基とした浄光院(のち運正寺)を同年中に建立し、浄土宗へ改葬させて、
法号も浄光院殿と改められたという(『知恩院古記録』)。

―『福井県史』など

464:人間七七四年
16/12/24 16:11:14.91 tyQB9IgX.net
増上寺は浄土宗だけど寛永寺は天台宗なんだが...

465:人間七七四年
16/12/24 16:53:28.04 +Oh64i4Z.net
>>454
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

466:人間七七四年
16/12/24 19:43:17.14 RwZ7R4NO.net
>>454
まてまて「怒りが有頂天」は無いだろう。
「怒り心頭」とか「怒髪天を衝く」がごっちゃになってるよ

467:人間七七四年
16/12/24 20:17:22.79 B+sxctzO.net
>>466
ネットスラングだよ。こういうスレで使うのもどうかと思うがw

468:人間七七四年
16/12/25 06:35:18.93 DQ39pmTE.net
怒りが頂点に達した時に使用するネットスラング。

元ネタはブロントさんと呼ばれる2chネトゲ実況版に書き込みを行っていたユーザーの書き込みから。

75 名前:既にその名前は使われています投稿日:03/10/30 16:38 ID:QcBxXqoc
お前らは一級廃人のおれの足元にも及ばない貧弱一般人
その一般人どもが一級廃人のおれに対してナメタ言葉を使うことでおれの怒りが有頂天になった
この怒りはしばらくおさまる事を知らない


76 名前:既にその名前は使われています 投稿日:03/10/30 16:39 xu+t+yG6
有頂天になるんか。

URLリンク(d.hatena.ne.jp)



ブロントさんが初めて使ってから13年か…
知らない人も出て来る時期なんだなぁ…

469:人間七七四年
16/12/25 13:59:44.19 M0CotmXw.net
仙谷由人 - 菅直人政権で官房長官として辣腕を振るい、九州征伐における秀久の見事な采配をなぞらえて、昔仙石、今仙谷と称えられている。

470:人間七七四年
16/12/25 16:42:45.52 Q7BnC5SF.net
>>469
マジでwikipediaに書いてあって吹いた

471:人間七七四年
16/12/25 18:03:02.11 C10c0Kmk.net
徳島から出てるなら
引田の戦いの方がよくないか

472:人間七七四年
16/12/25 21:09:54.49 SyPr8TpB.net
きたない忍者とかはいい悪いスレにも登場してた貴ガス

473:人間七七四年
16/12/26 00:23:43.07 foN7RzHZ.net
仙石被害者の会会長十河存保「三好は仙谷の選挙区じゃないからそれはそれ。我々は今後も仙石を許しません」

474:人間七七四年
16/12/26 02:48:27.59 zP/1P0kc.net
さのばびっちは讃岐にカエレ

475:人間七七四年
16/12/26 07:21:34.34 4gAKK4SP.net
全ての水は讃岐につながる

      ∧_∧           瀬戸内海放送   ∧_∧ 
      (´;ω;`)  _              _   (`・ω・´) 岡山
       伯方   |\ \ 塩         /  /
           恫喝\  \         /  /
                \  \|     /  |/ 
           電気      ̄        OHK    恫喝
   ∧_∧    ―→    ∧_∧        ―→   (⌒)豪(⌒)
   (´;ω;`)          ( ´・ω・) 香川             (´;●;`)
    愛媛    ←―   (っ=|||o)        ←―  オーストラリア
            恫喝 _         _        小麦
               /|     \  |\
           鰹 /     恫喝.\   \ 水
            /            \|  \
          /  無視          ̄
     ∧_∧                  ∧_∧
    (´;ω;`)                 (`;ω;´)
      高知                    徳島

476:人間七七四年
16/12/27 04:54:42.37 M9KwdTmq.net
さきの土井大炊頭(利勝)は、

権現様(徳川家康)の御乳人の召使いに“松”という女がおり、これを
榊原の家来・土井氏と出合わせて持った子である。

一説には大方様(於大の方)の女房たちの子であるという。であれば、
水野下野守(信元)の落胤だろうか。

この両説は、確かには分からない。

―『武功雑記』

477:人間七七四年
16/12/28 19:42:25.71 m8Fp3flN.net
>>474
仙石被害者の会副会長「弟の名はまざーふぁっかーだが親ではなく姪に盛る(泣)。それもこれも仙石のせいだ」

478:人間七七四年
16/12/29 23:56:25.95 KzpI/vYO.net
唐入り戦間期の頃、李舜臣が失脚し元均が統制使(朝鮮水軍の司令官)になった時の話。

私(安邦俊)の叔父である東巌公の妻が元均の親族だったので
統制使となった元均が私の家を訪ねてきてこう言った。

「何がうれしいってをこの肩書になったことで栄華を極めたことなどではなく
李舜臣に対する恥辱を雪ぐことになったことが何より嬉しい」

これを聞いた東巌公はこう答えた。

「あなたが充分に忠節を尽くして敵を打ち破りその功績が李舜臣を上回った時こそ恥辱を雪いだと言える。
ただ李舜臣の肩書になり替わっただけで嬉しいとは…。恥を知れ!」

(隠峰全書)

479:人間七七四年
16/12/30 00:16:58.55 vzqPZiwu.net
誤った文で送信してしまったので再投稿

唐入り戦間期の頃、李舜臣が失脚し元均が統制使(朝鮮水軍の司令官)になった時の話。
私(安邦俊)の叔父である東巌公の妻が元均の親族だったので
統制使となった元均が私の家を訪ねてきてこう言った。
「何がうれしいってをこの肩書になったことで栄華を極めたことなどではなく
李舜臣に対する恥辱を雪ぐことになったことが何より嬉しい」
これを聞いた東巌公はこう答えた。
「あなたが充分に忠節を尽くして敵を打ち破りその功績が李舜臣を上回った時こそ恥辱を雪いだと言える。
ただ李舜臣の肩書になり替わっただけで嬉しいとは…。恥を知れ!」

すると元均は
「私が敵と戦う時は遠ければ片箭(弓)を使い近ければ長箭(槍か?)を使い
ぶつかり合う時は剣と気合を使うので勝てないわけがないだろう」
といった。
東巌公は笑って
「隊長なのに刀を振るわねばならないのか?」
と答えた。
元均が帰った後、東巌公が私に
「元均の人柄を見るに将来は立身すると思っていたが間違っていた。
 元均は趙括や騎劫と言った古の武将と似たような男ではないだろうか」
としばらく嘆いたという。

(隠峰全書)

480:人間七七四年
16/12/30 01:35:34.08 n4CSvgAi.net
 大坂で井伊掃部(直孝)の先駆けを務めた庵原介右衛門の嫡子主税之介は、
一番乗りに進んで雌雄を争っていると敵に組み伏せられてしまった。
そこへ介右衛門が来たが、あえて子を救わなかった。
主税之介はやっとのことで勝利を得て敵の首を獲った。
 後で傍らの人がどうして子の難を救わなかったのかと尋ねると、
介右衛門は「私も子を不憫に思っていた」とだけ答えたという。
『武士としては』

481:人間七七四年
16/12/30 07:43:55.43 WLioW0wL.net
>>469
「九州征伐における秀久の見事な采配」ってなんだよww
長宗我部信親らを殺したってことは、
仙谷も見事に殺しまくったってかww

482:人間七七四年
16/12/30 11:45:35.74 tEa8f4gc.net
>>481
なんだ皮肉程度も解せないバカがこのスレにいるのか(笑)

483:人間七七四年
16/12/30 17:55:46.04 YNI+lkj3.net
はい草

484:人間七七四年
16/12/30 20:33:02.40 T9EaeWR+.net
まじかー
URLリンク(twitter.com)
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485:人間七七四年
16/12/30 20:56:44.53 BImuGQqE.net
たびたびこういうの見かけるけど寺ってどんだけいい加減なんだ

486:人間七七四年
16/12/30 21:39:30.18 GyTo8wUi.net
親族だし
源頼朝→足利直義
足利尊氏→高師直
武田信玄→畠山義続
とかの説よりはマシな気が

487:人間七七四年
17/01/02 11:15:43.31 /Gyz7fw9.net
水手(かこ)切りと厚藤四郎

URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
↑に纏わるお話

天正20年(1592年)7月、母大政所が危篤という報を受けた秀吉が、肥前名護屋城から水路上洛中、舟が豊前の沖(関門海峡)で浅瀬に乗り上げ、転覆しそうになり秀吉は海中へ投げ出された。
この浅瀬は、地元では「篠瀬(しのせ)」と呼ばれ、満潮時には波の下に見え隠れするために恐れられており、別名「死ノ瀬」とも呼んでいたという。これに加え、この地域独特の「戸ノ上下ろし」と呼ばれる激しい突風が合わさり、古来難所として知られていた。
秀吉は危うく遭難する所であったが、護衛にあたっていた後続の毛利秀元の船に救い出されて難を逃れ、この功により秀元は名物「厚藤四郎」を拝領した。

太閤肥前名護屋より帰洛の節赤間ヶ関にて乗船座礁したる時秀元僅かに十四歳小船を漕寄せ太閤を救ひまへらせしにより海岸の砂原にて秀元に賜りし由物語にあり

この時秀吉は、海難と大政所の臨終に間に合わなくなるという怒りから、水手の頭明石与次兵衛をこの時佩刀していた、備前三郎国宗で手討にしようとしたと伝わる。

その為、この備前三郎国宗に水手(かこ=船頭または船乗りの意)切りの名が付いたと言う。

488:人間七七四年
17/01/02 11:21:21.59 /Gyz7fw9.net
異説として、この際毛利秀元の懇願により、明石与次兵衛は打首ではなく切腹(当時の武士としては名誉の死)に処されたという。
明石与次兵衛は柳ヶ浦の浜で自害するが、地元では与次兵衛の不運を哀れんで遺体を浜に手厚く葬り、目印に一本の松の木を植え、
後に「明石松」と呼ばれたという。また篠瀬も同様に「与次兵衛ヶ瀬」と呼ばれるようになったという。
のち、慶長5年(1600年)に黒田孝高の後に細川忠興が豊前に入部する際、この明石与次兵衛が事故当時に細川家の組下であったことから、
与次兵衛の死を悼みまた航海の安全を祈願して、船が座礁した暗礁に明石与次兵衛の塔を建てさせている。
その後この石塔は何度も流されるが、そのたびに建てなおされている。しかし文政11年(1828年)の嵐の際に大波にあおられ、ついに海中に流されてしまったという。
文政年間に柳ヶ浦一帯の民の手により再建されるが、大正年間に旧日本海軍が航路を確保する目的で暗礁を爆破する際に、石塔は海中投棄されてしまった。しかし戦後、昭和29年3月に門司郷土会の有志によって海中から引き上げられ、現在は和布刈めかり公園に建っている。

水手切りはこの明石与次兵衛切腹の際、解釈に使われたとも言われる。

与次兵衛は元は明石(石井)与次兵衛といい、播磨国明石を拠点としていた海賊衆。
その後豊臣秀吉の水軍の将となり、石井の姓を与えられ、四国攻めや九州攻め、小田原攻めなどにおいて活躍したという。

489:人間七七四年
17/01/02 11:22:09.89 /Gyz7fw9.net
>>488
解釈×
介錯○

490:人間七七四年
17/01/02 11:35:13.41 /Gyz7fw9.net
>>487の追記として、毛利秀元は秀吉を自らの舟で救助した際、家臣共々秀吉に逆心無き事を示す為、
この時佩いていた自分達の刀を海に投げ捨て、その気遣いや手際の良さから秀吉からその器量を認められ、
後に秀吉養女の大善院(秀長娘)を妻として迎える事になったり慶長の役で若輩にも関わらず病身の輝元の代わりに右軍総大将を任されたと言う。

491:人間七七四年
17/01/03 14:12:08.99 NcThKzBi.net
関が原が始まろうとする頃、伊達政宗は自領への帰還を急ぎ、相馬領を通過する。
ここで政宗の家臣である片倉小十郎景綱は、政宗を迎えるためと、鹿島町に先行してそこの宿泊した。
この鹿島町は田中城の近辺であり、田中城には相馬家当主・相馬義胤の父、盛胤の居城であった。

片倉小十郎は草野左馬充、鈴木掃部左衛門を案内として、盛胤の家老である佐藤左近を呼び出し対面した。
左近を通して盛胤に刀、次郎郷胤に脇差しを進上し、その上で左近にこう語った

「今度、政宗は領地への下向につきこう命じました。

『冨塚近江は上下1500の人数にて岩城領に向かえ。我々片倉父子は上下1000人にて御領内の鹿島に
向かえ、矢田勘解由兵衛は上下3000の人数にて駒ヶ嶺領に向かうべし。』

これについて考えるに、世上の浮説ににおいて、佐竹、岩城、相馬、那須の面々が、長尾景勝に同意され、
石田治部少輔に与して家康公に敵対されると言われています。
これに対し我が主君政宗は無二の家康公の御方ですので、これらを警戒する必要があるのです。

憚り多きことですが、相馬と伊達は代々の縁類ですから、私ごときでもそのお為良かれと考え、
全く粗略にすることはありません。

もしも、一旦治部少輔にお志があったとしても、それはお諌めになるべきです。
何故ならば、今天下に、家康公に比するような大将は誰も居ないからです。
治部少や景勝が時の威勢に誇ってとやかく申されようとも、彼らが末まで全う出来る事はありえません。
それに与した人々の家は、滅亡するでしょう。

家にとって大切なのは社稷であり、主人は一代のものですから、時に至っては義を失っても
それは仕方のない事です。ただ期して末の所をよく吟味して頂きたいのです。」

左近はこれに
「底意を残さぬ懇切なお話、委細承りました。これについて先ず、盛胤に聞いてまいります。」
そう答えて退出し、田中城の盛胤に、片倉小十郎の語ったことを逐一申し上げた。
盛胤はこれを聴くと

「世上の浮説について、そういうものも有るだろう。だが我々は全く治部少輔に与していないし、佐竹や
景勝にも与していない。我々の内実は、小十郎も推察しているだろうが、累年の合戦のため諸士はおおかた死に、
今漸く、その子供たちを養育している段階であり、人数を持っていないのだ。なので家康公のお為といっても、
一体何が出来るだろうか?万一、家康公より御催促があれば、その時は50,30であっても召し連れて
参ずるつもりである。

政宗が家康公の御方に参るのならば、伊達との国境に番士を置くべきではない。また伊達家の人数の往来の自由も
認めよう。もし伊達方が相馬に対して隔意を持たれてはどうにも出来ない。内々にこの旨を伝えるように。」
そう語り、佐藤左近は立ち戻りこれを小十郎に詳しく申し聞かせた。

小十郎は
「そういう御心入であれば御家長久、珍重であります。しかし返す返すも、お諌め申し上げるべきです。
義胤公へのお諌めこそ第一です。」
そう申し、政宗に対しても盛胤の考えを伝えた。

片倉小十郎はこの地に1日滞留して、2日目に政宗のお供をして帰っていった。
その後程なく、景勝領であった白石を、政宗が攻め取った。

(奧相茶話記)


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