戦国ちょっと悪い話44 ..
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369:人間七七四年
16/11/30 14:19:54.78 tdjKy2vi.net
>>368
正純乙

370:人間七七四年
16/11/30 14:48:46.68 dEO+eURb.net
>>365
日本の鏃の真ん中の画像、上から4番目〜7番目のような
返しのある鏃を腸繰(わたくり)型と呼ぶ。
抜くときにハラワタが引っかかってえぐれるから。

371:人間七七四年
16/11/30 22:18:33.80 unEa3OAl.net
>>370
なにそれ恐ろしい
形ってただの飾りではなくて意味があるのか

372:人間七七四年
16/11/30 22:41:32.80 RfqGlZIR.net
信玄はさらに鏃を弛くして抜くときに体内に残るようにしていたと言われてる

373:人間七七四年
16/11/30 23:06:42.86 JUi9u7yG.net
>>369
無能乙

374:人間七七四年
16/11/30 23:15:10.70 uiJMe/8Y.net
武田の緩めた鏃って、そんなもの使っちゃいけないと咎めた神君称揚の逸話だと思われていたのが、
武田の古戦場後から本当に鏃が体に残った遺体が発見されて、どうも武田はガチでああいう事やってたらしいって
今はなっているな

375:人間七七四年
16/11/30 23:32:49.95 2Pwp47rE.net
武田を称揚する話はないのか
信廉あたりの逸話で

376:人間七七四年
16/12/01 04:29:29.58 tN7pLp6l.net
信長は9月11日(元亀2年)、勢多の山岡玉林斎(景猶)の所に
止宿しなさった。
「明日、叡山を攻め崩すべし」との旨を言うので、佐久間右衛門
(信盛)並びに、夕庵入道(武井夕庵)が達て諫言に及んだ。
信長は曰く、「去年、汝らをもって懇意の言葉を尽くしたが、承諾
の無い以上は、力及ばず」と、理を尽くして言うため、
彼らの考えは及ばず、各々は未明に出発致した。
―『当代記』

377:人間七七四年
16/12/01 22:59:04.45 IyntWyyL.net
>>375
>武田を称揚する話はないのか
>信廉あたりの逸話で
これがホントの逍遙軒?

378:人間七七四年
16/12/02 02:41:54.64 eDwPX00e.net
この頃(慶長15年5月)、京都の町人で米屋の“りうせい”という者は、
大御所(徳川家康)のご命令によって、ノビスバン(メキシコ)に渡海し、
売買を思うがままにして帰国した。
猩々の皮を多く持って来たが、金銀は聞き及んでいたほどではなかった。
とはいえ、他の国や他の島よりは多かった。
しかし、「かさねての日本人の渡海は無用」との旨を、ノビスバンの者は、
かたく日本人へ示した。
―『当代記』

379:人間七七四年
16/12/02 19:13:10.64 vLLxwyfB.net
歌舞伎の「盛綱陣屋」という作品のあらすじ読んだら(歌舞伎なので登場人物の名前を含め、本来は鎌倉時代が舞台)
大坂の陣で真田信之の息子が真田大助を生け捕ったため、信之が大助を家康に見せると家康は大喜び。
そこへ後藤又兵衛が乗り込んできて「大助はまだ子供なのだから返せ!」と言ってきたため
信之は又兵衛をとりあえず家康のところに送る。
思案した信之は、このまま大助がこちらにいたのでは弟信繁の戦闘意欲がそがれる、いっそ切腹させようということに。
信之は信之・信繁の母親の山手殿を呼んできて、大助に切腹をすすめさせるが大助は泣いて切腹を嫌がる。
そこへ大坂城から信繁の妻が息子を思って兵に変装して駆けつけるが、その光景を見てあせる。
そうこうしているうちに信繁戦死の報告。家康は信繁の首を持ってきて信之に首実検をさせる。
心中悲嘆に暮れる信之だったが、首桶のなかの首はなんと偽首。
しかし次の瞬間、大助が「ととさまのところに行く!」と切腹。
実は後藤又兵衛も幸村の母親も、大助がちゃんと計略どおりに切腹するかの監視役だった。
信之も大助の心中を察し、家康に「まさしく弟・信繁の首です」と報告。家康もすっかり騙される。
信繁ってこんな計略を使う武将だと思われていたのか・・・

380:人間七七四年
16/12/02 19:21:35.57 vLLxwyfB.net
訂正
実は後藤又兵衛も幸村の母親も

実は後藤又兵衛も信繁の妻も

381:人間七七四年
16/12/03 01:54:55.08 6W60OM/7.net
同月13日(慶長19年9月)、囚人の原主水正(胤信)が駿府へ来着した。
天主教の宗門に傾倒し、その災いを恐れて去々年に逐電、東国に隠れて
いたのを、(徳川家康の)御下知によって捜索して搦め捕ったものである。
すなわち町司の彦坂九兵衛(光正)にお命じになり、主水正の額に火印を
当てて両手の指を切り、「この者を挙用する輩は曲事である」との旨の
胸札を掲げさせて、追却しなさった。
ところが、岡越前守貞綱が主水正を介抱したとの旨がお耳に入り、
御糾明になったところ、倅の平内が良友の好みにより、
領地に抱え置いたのだが、越前守は存じていないとの旨を陳謝したので、
同19日に平内は改易なされ、貞綱は無事であった。
また、駿府の耕雲寺に主水正が寄宿したのを訴え出た者がおり、住僧を
放逐なさった。
―『関難間記』

382:人間七七四年
16/12/04 07:02:14.27 sRqYOh7K.net
槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子
>>345の続き
毛利隆元率いる吉田勢と吉川元春率いる新庄勢は仕寄をつけ井楼を組み上げ間断なく城を攻め立てた。
城中はたまりかねて、平賀新四郎隆保・大林和泉守が切腹することで
諸卒の命に替わりたいと申し入れてきたので、それを許可した。
平賀はいよいよ自害するときになって、介錯の者に向かい、
「私が合図するまで打つな。もし合図よりも前に打ったならば、悪霊になって憑り殺してやるぞ。そのときになって私を恨むでない」
と介錯の者に言った。
隆保は刀を抜いて西へ向かい、八識田中に阿字の一刀を下し、
「生死又截、涅槃又截」と唱えて腹を十文字に掻き切ると、臓物をつかんで手繰り出し、何度も切り刻んで捨てたけれども、まったく弱る様子がない。
新四郎は槌山城主の菅田たちに向かって、
「腹を掻き破ったらもう死ぬしかない。どうすれば私は死なないでいられるだろう。
硯と料紙をくれ。最後に歌を詠もう」と言い、
すぐに硯と料紙が整えられた。
隆保は硯を引き寄せ筆を浸して、歌を一首詠んだそうだ。
筆の勢いや墨の乗り方は、平常のときとまったく変わらなかったという。
「昔の物語でならこのようなことを聞いたことがあるが、
今目の前でこのような勇士を目にするとは」と、人々は皆舌を巻いた。
その後、新四郎は「さあ、首を打て」と言ったので、介錯の者は首を打ち落とし、隆保は漸く果てた。
大林はこれを見届けた後、腹を一文字に掻き切り介錯を受け隆保に続いた。
槌山開城の後、尾和秀義ら大内義隆から派遣されていた者らは皆帰され、これを受け志和の米山城に籠る天野隆綱は元就に従い大内義長に属する事となった。

383:人間七七四年
16/12/05 02:37:06.96 7mzLMEnB.net
この頃(慶長13年9月)、駿府にて毎夜、人を切ること甚だしかった。
金が掛けられ、申し出るようにとの旨が下知されたけれども、未だに
その沙汰もなかった。
また、日々喧嘩があって、互いに死傷に及んだ。
―『当代記』

384:人間七七四年
16/12/06 16:38:17.05 wFpqOVTa.net
ある時、伊達稙宗は飯尾尾張という武士を、相馬家への使者として遣わした。
この飯尾というのは伊達家において武勇の名があり、燐郡に隠れ無き者であった。
しかし相馬に到着すると、当主の相馬盛胤は病に伏しており、このため飯尾は、盛胤の嫡子であり
稙宗の娘婿である相馬顕胤の御前に召された。
この時、顕胤は味噌を調える下屋にいたため、その場所にて飯尾と対面した。
相馬家の家臣たちがあえて飯尾をこの場所に通したのは、こう考えたためだった
『飯尾は伊達にて武勇の名を得たること、燐郡にまで隠れ無き名誉の者である。
であれば彼は、相馬の大将は未だ幼いが早くも弓箭の心懸けがあり、味噌等にまで御心を
付けておられる、と感心するであろう。合戦を心がけるには、味噌は第一の物だからであり、
丁度ここに居られたのは幸いである。』
そうして対面は無事終わり、飯尾は伊達に帰ると、稙宗にこう報告した
「殿は姫様をお捨てになられましたぞ!今度婿殿を見てまいりましたが、自身で味噌の奉行を
していました。あのような体では、相馬の大将としていかがかと思います。」
そう尽く悪口をして、顕胤を貶めたのである。
(茶話記異?改選集)

385:人間七七四年
16/12/06 16:42:39.41 bJFgmhKY.net
>>384
ワロタw

386:人間七七四年
16/12/06 22:13:59.13 LSKo+3bE.net
>>384
まあ味噌のところで面会させたら普通そうなるわなw

387:人間七七四年
16/12/07 00:52:02.81 GpgXSUb1.net
副業:味噌屋の大将とか弱そうだもんな

388:人間七七四年
16/12/07 02:08:34.37 YRvVvTmk.net
顕胤の体格を見て、自分が顕胤に及ばないのを悟ったとき、貶める他ないと決めたんだろうね

389:人間七七四年
16/12/07 04:17:46.73 al9iUwlI.net
政宗「お味噌は大事なんやぞ」

390:人間七七四年
16/12/07 17:04:18.71 T1fueiDr.net
家康「せやな」

391:人間七七四年
16/12/08 08:50:13.30 1Y7hC+6p.net
相馬義胤13歳の時、小高城において能を催した。これは伊達稙宗が居城である丸森より
小高を訪問したので、その歓迎の為である。
稙宗はこの趣向に殊の外喜び、そのあまり即座にこう提案した
「私には秘蔵の娘がある。義胤殿をその婿にしたい。」
父親の相馬盛胤はこれを承諾し、その年、永禄2年にこの姫を迎え取った。この時姫は15歳であったという。
ところで、伊達稙宗の長女は、相馬顕胤の妻であり、すなわち盛胤の母であった。
その妹が義胤と結婚するということは、盛胤にとってこの嫁は叔母である。
昔はそういった義別が無い世の中だったという。
この本文には永禄2年で義胤13歳とあるが、正確にはこの年では12歳である。
但しこの嫁取りは永禄3年だったのではないか。
(茶話記異説改選集)

392:人間七七四年
16/12/08 22:25:27.26 J91C5wri.net
江戸御城は、道灌のみに非ず。高虎縄張の事併道灌風流、桜楓の事
 ある人が語るには、
江戸の御城は、初めは太田道灌が興したというので今は何事も道灌に帰しているようだが、
道灌が築いたのは今の西の丸で、御本丸は藤堂高虎と諮られて御新築されたという。
よって『駿府政事録』には、"新城"とあるのだそうだ。
 また道灌も流石は風流人であって、
今の桜田という辺りには多く桜を、今の紅葉山という地には楓樹を植えて、
春秋の詠を専らとしていたという。
今増上寺の門前に流れている小川を桜川と呼ぶのも、その源泉は桜田から出ているので、
その年からこう言っているのだという。
 この事を林老(述斎)が聞くと
「桜楓のことは同意しない。桜田はもとから村の名で桜を植えたからではない。
御城外の桜田から今の桜田町まで行程はかなりある。
その年にどうして一年間で花木を植えることができようか。
また紅葉山は駿府に有った名を移されたものである。」
と話された。
(甲子夜話続編)
松浦静山の頃には、かなりの誤伝が広まっているのだと思われます

393:人間七七四年
16/12/09 17:31:50.90 GsXykw4v.net
塩冶興久の化け物退治
尼子経久の三男で塩冶氏に養子入りした塩冶宮内太輔興久は不孝・不義の人ではあったが、心栄えは大変勇敢で、
戦えば勝ち、攻めれば落ちないことはなかった。その勇猛さを示すエピソードにこの様な話がある。
月山富田城の甲の丸には桜の間、柳の間という部屋があり、そこは狩野小法眼による柳桜の絵で埋め尽くされていた。
鬼神もその絵に深く魅せられたようで、その部屋はいつしか魔物の出る部屋となった。
何百人もの人が、そこで化け物にたぶらかされ、あるいは気違いになりまたは行方知れずとなってしまい、次第にそこに近づく者はいなくなった。
興久はこの話を聞くと、
「なに、そんなことがあるものか。見る人間が怯えるからこそ、見えるはずのないものが見えたり視界を遮るような気がするのだろう。
一翳眼に在れば空華乱墜す(そうかもしれないと思ってしまえば、眼の中の翳りのように妄想が次から次へとわいてくる)と言うではないか。
吹毛剣について珊瑚枝上の月光を愛でるような心持ちであれば、化け物などどうして現れることがあろうか。
吹毛剣は怜悧な霊光を放って外道天魔といえども手出しができないのではなかったか。私がその変化の者をこらしめてやろう。きっと古狐か古狸が化けているのだろうよ」
と、たった一人でその部屋に向かった。
上座に胡坐をかいてあかあかと明かりを灯して待ち受けたが、宵のうちはとりたてておかしなことも起こらず、
ようやく午前三時くらい(丑三つ時)になって、風がそよそよと吹いた。風は気持ちの悪い冷たさで、しきりに胸騒ぎがするので興久が「これは不思議なことだ」と思っていると、
庭に散り積もった木の葉をハラハラと踏みしだく足音がした。垂木の上にドスンと上がった音がしたと思うと、すぐに妻戸がキリキリと押し開かれる。
「さあ、例の古狸めが、人をたぶらかしに来おったな。ほかの者はどうあれ、この興久は化かされないぞ」
と、外のほうをじっと睨みつけていると、歳は八十を越すかと思われる老婆が二人の童子を伴い姿を現した。
老婆は曲がりくねった茨が雪に埋まっているかのような頭髪を上のほうで結ってカッと乱し、
目は一つだけ鏡を額にかけたようにあって、太陽や月よりもなお明るく光っていた。
鼻は長く垂れ、歯は黄色く上下に長く生え違い、ことさらに両脇の牙は鋭く、剣樹のようであった。
唇は血の池のような赤であり、口は左右の耳まで裂けて、息をするたびにすさまじい煙が風にほとばしる。
両腕に猪のような毛がびっしりと生え、爪は鷹のように長く曲がっている。
破れた衣を着て、大きな竹の杖をつき、十一、二歳くらいの童子二人に手を引かれて、
興久に近寄ってくるのだ。
「ああ苦しい。老いて衰えることほどつらいものはない。これでも十六歳になるまでは、華のかんばせと評判で、
楊貴妃の眉よりも西大后の紅顔よりも美しかったというのに。朝には鏡に向かい眉を書いて容貌を磨き、暮には鳳のかんざしを取って
蝉翼(蝉の羽のように美しく曲げ整えた髪)に仕上げて優美な容色に整えたものじゃ。
いつのころからか老いが日々重なってゆき、容貌が衰え体がだるくなっていくばかりでなく、
孤独で貧しい身の上じゃ。肌を隠す衣もなく、朝晩食べるものにも事欠く有様で、
砂を噛んで水をあおるほかに、飢えを紛らわす方法もありはしない。ああ苦しい。めまいがする。胸も苦しいぞえ」と、
しわがれ声を震わせて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と老婆が呟く声が聞こえた。
さしものつわもの興久も、身の毛もよだつほど恐ろしく感じたが、少しも騒がずにいた。
この老婆は興久をキッと見て、「おやおや、こんなところに殿御がいらっしゃる」と、かしずいた。
「さてさて、お若い御大将、ようこそここにいらっしゃいました。ここにはこの老婆が折りにつけて参っておりますので、人は皆、
『老いさらばえた老女の顔の醜いことよ、聞き苦しい言葉つきよ』などと言って、私を怒らせたものです。
それだけでなく、このごろは一人としてこの座敷に近づきません。この老婆も、年老いて心細くなってまいりましたので、いっそう人恋しく、
昔話の一つも誰かに語って聞かせたいと思っておりました。よくここにいらっしゃいましたなぁ。昔の迦葉仏のときのことまでよく知っている老婆でございますよ。朝まで昔語りをして差し上げましょう」と
老女が言っても、興久は返事もせず、大きく開いた目でじっと老女を睨みつけていた。

394:人間七七四年
16/12/09 17:47:35.87 GsXykw4v.net
老女は「この殿御もこの老婆の面相が醜いと思っているのじゃろう。声をかけても返事すら返さぬとは。おまえたち、行ってあの方の御足を揉んで差し上げなさい」と、傍らにいた童子に命じた。
一人の童子が「かしこまりました」と老女のそばを離れ、興久の足元に座った。
興久はこの童子を斬ろうと思ったが、「待てよ、どんな化生の者といっても、
私の力なら、殴るだけでも眩暈がすることだろう」と思いとどまり、
拳を堅く握って童子の頭をしたたかに打った。
すると童子は老女の元に走り帰って、「ばばさま、あの方が殴ってきました」と泣きつく。
老女はもう一方の童子に「ならばおまえが行ってまいれ」と命じ、この童子も興久に近寄ってくる。
興久は少しも怯えていないところを見せてやろうと思ったのか、「童よ、ここに来い」と声をかけた。
ソロソロと寄ってくる童子を引き寄せ、膝の上に抱きかかえると、大きな石のように重い。
たまらず童子の頭を続けざまに二度打って、乱暴につかむと「えいやっ」と放り投げた。
老女はこれを見て「こんなにいたいけな子供たちに、なんと思いやりのないことをするのですか。お恨みいたしますぞえ」と怒ってつかみかかってくる。
「これはかの有名な三途の川の脱衣婆か、安達が原の黒塚に棲むという鬼が現れたのに違いない。そうでなければ山姥というものだろう」と、興久は魂が抜けそうなほど仰天した。
真っ黒な手を伸ばして頭をつかもうと飛び掛ってくるところを、それでも少しも声を上げずに、腰に挿していた初桜という刀を抜いて、
眉間と思しきところを、二度続けて斬りつける。
「アッー!」という声がしたと思うと、辺りが雷のように光って、老女と童子たちは虚空へと姿を消した。
「どんな妖狐や古狸の類であろうと、あれだけ思う存分斬りつけてやれば、
そう遠くには逃げられまい。早く夜が明けぬものか」と興久が待っていると、
東の空が白々と明るくなってきた。
早速若党たちを招集して、「昨夜、妖怪変化を斬ったぞ。跡をつけてみろ」と命じるが、
目印など何もないので、若党たちもどこを探していいかわからない。
興久が言うには、縁の下に入ったように思うとのことだったので、
縁の下にもぐってみると、大きな穴が見つかった。
そこでその穴を広げ、三間(5.4メートル)ほど掘り進むと、
底から高さ九尺(2.7m)くらいの五輪塔と、二つの三尺(90cm)程度の五輪塔が掘り出された。
その三尺の五輪の頭には血がついている。
これは、興久が拳で殴った際に、指の皮が破れて出た血が付いたものだろう。
また、九尺の五輪には頭に刀傷が二つあった。

395:人間七七四年
16/12/09 17:47:50.04 GsXykw4v.net
塩冶は言う。
「その昔、唐の国に王伯通という人があった。屋敷を一軒建てたが、そこに泊まった人は必ず死んだという。
伯通はしかたなく門戸を閉ざして誰も泊まらせないようにしていた。
嵆康という人がやってきて、どうしてもそこに泊まらせてくれというので屋敷の中に入れたところ、
嵆康は夜になってもずっと琴を掻き鳴らしていて、
真夜中(午後十一時ごろ)になると嵆康の前に八人の鬼が現れたそうな。
嵆康は最初こそ怯えて乾元亨利貞(法呪のようなもの)を唱えていたが、数度唱えた後で鬼に問いかけた。
『王伯通がこの屋敷を建て、人が泊まることがあると必ずその人は死んでしまうという。おまえたちが殺したのか』
すると鬼は、『まさか、私が人を殺すなんて、とんでもない。
我らは舜(中国神話に登場する賢帝)の時代に、楽をつかさどる官吏だった。
兄弟が八人いて、伶倫という者だ。
舜は、邪な佞臣の注進を受けて、我ら兄弟を無実の罪で殺してここに埋めたのだ。
王伯通が我らの塚の上に屋敷を建てたので、重くてかなわない。
だから、人が来て泊まってゆくのを見ると、その人にこのことを伝えようとしたのだが、
人は皆我らを見て肝を潰して死んでしまう。殺そうと思って殺したわけではないのだ。
先生にお願いしたいのは、伯通にこのことを伝えて我らの骸骨を掘り起こし、
よそに葬りなおしてほしい。そうすれば、半年後に伯通は本国の太守となるだろう。
先生には、広陵の一曲を教えて進ぜよう。訴えを聞いてくれたお礼だ』と言った。
嵆康は大変喜んで、持っていた琴を鬼に与えた。鬼が一度弾いただけで嵆康はすっかり覚えてしまったという。
さて、夜が深まり、心配になった伯通が屋敷に様子を見に行くと、
嵆康が掻き鳴らしている美しい琴の音を聞いて、どうしたことかと嵆康に尋ねた。
嵆康から先ほど起こったことを詳細に聞き出すと、伯通は翌日すぐに人夫を手配して地中を掘らせる。
果たして、ついに骸骨を見つけた。
別に棺を作らせて、清浄な場所に葬ったそうだ。
後晋の文帝が即位すると、伯通は鬼の予言の通りに太守となり、嵆康は中散大夫に昇進したとな。
私が思うに、この骸骨も伶倫と同じようにこの家に押し潰されて、苦しくなって姿を現したのだろう。
よそに移して手厚く葬れば、私も末は一国の守護ともなろうよ」
興久はそう決めて、通安寺の墓所に埋葬した。
その五輪塔の下に埋められていた者は、生前の宿業が深く四生六道に迷うだろうと、
如形の供養までしてやったという。
(陰徳記より)
長文スマソ

396:人間七七四年
16/12/09 18:36:01.08 GsXykw4v.net
追記
本堂平四郎、東雅夫著・怪談と名刀/1の富田城怪異の間、初桜 光忠の話として、同じ話が載っています。
そちらによると柳桜の絵の作者は狩野小(古?)法眼ではなく、雪舟ともただの貧僧とも
また、興久が退治する以前の妖怪の為した祟りが生々しく描かれています。

397:人間七七四年
16/12/09 19:00:50.99 4pniS/q8.net
>>393-396
そのまま日本昔話で放送してもおかしくないクォリティ

398:人間七七四年
16/12/09 22:52:45.81 8ZfVzv1H.net
>>392
昔から道灌すげーと思われていたんだな

399:人間七七四年
16/12/09 23:07:39.78 rmBYu3Ob.net
>>393-395
結局このババアと童の正体は何だ?
城の人柱にしちゃあ、迦葉仏のときまでよく知っているって言うし、神代の人間か国津神の類かよ

400:人間七七四年
16/12/10 00:02:16.10 mqM9v91Y.net
道灌「この城どうかんならねえか?」
家康「家、やすいなら買おう」
と庶民には思われてた説

401:人間七七四年
16/12/10 00:18:49.26 6eJna+f9.net
>>400
        シャカ
      [二] シャカ
  ロ=== (´・ω・)
  (::) ( >on o θ
日[二二] と_){三}

        ス...
      [二]
  ロ=== (´・ω・)(
  (::) ( >oy>o )
日[二二] と_)_){三}

402:人間七七四年
16/12/10 10:55:42.83 BHAJeKED.net
世紀末荒野だった戦国の関東平野で
歌詠みまくって風流も競い合ってたってのがまた不思議

403:人間七七四年
16/12/10 11:27:41.74 EzzOhga2.net
西太后て清末以外にもいたのか

404:人間七七四年
16/12/10 12:20:56.46 gEo18Caq.net
>>403
西王母の事ちゃうか

405:人間七七四年
16/12/10 12:53:25.64 EzzOhga2.net
時代的におかしいから東と西でいろいろいるのかとおもいきや
西王母のこととは思わなかった

406:人間七七四年
16/12/10 19:47:48.65 J3N68zoo.net
北条家も風流なイメージ持ってる

407:人間七七四年
16/12/11 12:19:38.64 wrFBh8rX.net
斎藤道三と織田信秀が合戦したとき、
千秋季光という武将が討ち死にした
季光は平景清が所持していたという「あざ丸」なる刀を差していたが、
後に陰山一景の手に渡った
その後、この刀を持って出陣した一景は、
牛屋山大日寺の寺内に陣を構え床机に腰を掛けていたところ、
敵方の城内から矢が飛んできて、
その矢が一景の左眼に深く突き刺さったという
一景はすぐさまこれを引き抜いたが、
また鋭い矢がまた飛んできて、今度は右眼を射潰されてしまった
この後、あざ丸は丹羽長秀の所持するところとなったが、
間もなく丹羽長秀は眼病を煩ってしまった
そのため、『あざ丸を所持すれば必ず目を煩う』という風聞が流布し、
丹羽長秀は周囲の勧めもあって、
この刀を熱田神宮に進納したところ間もなく眼病は回復へ向かったという
実はこの刀の最初の持ち主である平景清は、
源平合戦において『悪七兵衛』と呼ばれた男であったが、
源平合戦に敗北した後は怨みのあまりに
自ら両目を繰り抜いて盲になってしまったのだという
この痣丸は今も熱田神宮に奉納されているという

408:人間七七四年
16/12/11 12:28:15.11 HWGYWPFm.net
千秋家って熱田神宮の宮司だな
神主武将

409:人間七七四年
16/12/11 15:29:21.03 L8TjvmB6.net
千秋さんの痣丸に因る死は以前出たと思ってたけどまだだったか
ついでに千秋家は桶狭間の前哨戦で佐々と一緒に突撃かまして全滅してるね

410:人間七七四年
16/12/12 18:46:41.12 vfphFEwK.net
今年の漢字をやってた清水の観音様のところに百日参りすれば
悪七兵衛景清の奉納した両眼をもらって眼を治すことができたのに

411:人間七七四年
16/12/15 02:05:42.36 Da97V1+q.net
相馬家の分家、相馬堀内氏の当主・左衛門には娘が一人だけで、嗣子無く、このため
娘に、相馬一族である藤田齊庵の弟、掛田兵庫という人物を迎え、堀内家を継がせようとした。
ところがこの娘が兵庫を嫌ったため、兵庫は堀内家から去り、その後柏寄村に居住して生涯を終えた。
兵庫が去った後、次に中津川家の二男、大膳亮を娘の婿として迎えたのだが、彼もまた嫌われたため、
仙道へと帰った。
ある夜、男二人が顔を隠し、誰ともわからぬようにして堀内の屋敷に忍び入った。
時間は宵の口で、召し使われている女房たちは自分の仕事をしており、堀内の娘は屏風の陰から
何とも無く外を見ていた。
するとそこに、先の男のうち一人が不意に走りより、この娘を一太刀切って逃げた。
召し使う女房の中には、この事態を見て一人、この暴漢に飛びかかり組み留めようとしたが、
男たちは二人で右や左に蹴り転ばした。女の事とて力なく、彼女はそこから逃げた。
この二人の男たちが誰だったのか、後までわからなかった。
娘は耳の下から頬にかけて傷が残ったという。
彼女は後に、二本松安房守義秀の嫡子、右馬頭国秀の妻となった。
しかしこの国秀は、叔父の義国に討たれた。
この時妊娠していた彼女は、相馬に帰って出産をしたという。
(奧相茶話記)
誰が彼女を襲撃したんですかねえ。

412:人間七七四年
16/12/15 02:41:51.33 Sv/EWd5r.net
犯人はヤス

413:人間七七四年
16/12/15 05:59:58.19 pzCQt+x1.net
加藤清正と人柱1 横手五郎と修験者
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
で既出になるかも知れないけど
その昔、横手五郎と言う15人の人を一度に抱え上げる程の大力の男が居た。ある時、加藤清正公の行列が道を塞いだ牛の為に立往生して居たところに通りかかった五郎は牛を持ち上げどかして行列を通してやりました。
その後、熊本城を築いている最中、五郎の大力を見込んだ清正公は五郎に石垣を築かせたり井戸掘りの仕事を任せ、五郎はその大力を活かして他の誰より早くそれらの仕事をこなしました。
しかし、ある日清正公に五郎はかつて清正公が討った天草の木山弾正の息子であると耳打ちした者が居ました。
それを聞いた清正公は五郎は父親の仇討ちに来たのか、それにあの大力は石垣や抜け穴など城の秘密も知っとるしいつか城を乗っ取られるかも知れん。
と、疑いを抱き五郎を殺す事にしました。
そしてある日、五郎が井戸を掘っている所を狙って上から大石を落とさせ五郎を殺そうとしますが、それを知らない五郎は大石を何度も井戸から投げ返します。
しかし、何度も投げ込まれる石に五郎も遂に自分が殺されようとして居る事に気付き、覚悟を決めて大声で叫びました。
ワシを殺すなら石じゃダメじゃ、砂利ば投げ込め!
そして五郎は井戸に生き埋めにされて死んでしまったそうだ。
その後、城の基礎が出来上がりその後の工事の無事を祈る為に修験者が京より呼ばれ、祈祷をしたのだが、修験者は五郎が生き埋めにされた井戸の秘密を見抜き、
「この地には二つの呪いがかかっております。井戸に生き埋めにされた人足とその父親の呪いが」
と言いました。怒った清正公は
「ならばお前が人柱となり、呪いを解いてみせよ」
と、その場で修験者を手打ちにしました。しかし、修験者は今際の際に
「私を人柱にしても呪いは解けません。加藤様の家は呪いのせいで絶えてしまうでしょう。」
と言い残して亡くなったそうです。
熊本城内にはこの大力の横手五郎が運んだとされる五郎の首掛け石が宇土櫓の側に今も残っており、
また玄海町には太閤秀吉が名護屋城築城の頃に築城奉行だった清正公に従い築城に従事し、当地では無双(みそ)五郎と呼ばれた大力の若者が投げ落とした船繋ぎ石と言われる直径6mの巨石が有浦川に残っています。

414:人間七七四年
16/12/15 06:22:27.82 pzCQt+x1.net
ちなみにこの修験者に関しては別に、京から呼んだ龍蔵院と言う山伏であり、築城の際に清正公が地鎮祭を行わせ教示を受けたが、
城の完成祝いの宴で城の縄張りの事をうっかり喋ってしまい、清正公の命を受けた家臣に帰途殺害されたと言い、熊本市北区にある山伏塚はその墓(処刑場とも)であると言われ、熊本の心霊スポットでもある。

415:人間七七四年
16/12/15 07:13:08.77 pzCQt+x1.net
加藤清正と人柱2
加藤清正公は肥後に入国した翌年から菊池川河口に広がる遠浅と島に目をつけ干拓事業に取りかかりました。
この干拓で最も困難だったのが「石塘」の築堤工事であった。
横島−久島山間(400m)は底が深く潮の流れが速くこの瀬戸に渦巻き、遠い昔から「丹倍ヶ淵」の名で舟人等を恐れさせた場所でした。
この築堤には大勢の人員と多くの石材、木竹、土むしろ、更に墓石に至るまで大量の資材を用いましたがことごとく流されました。
もはや堤の完成の為には人力だけでは覚束ない、古例にならって人柱を立てたらとの提案があり人選をして人柱を立てる事になりました。
その人柱になる人物の条件として、
「横布を当てて袴をつくろっている者」
が選ばれる事となり、その条件を満たす者がただ一人だけ見つかり、慶長十年(一六〇五)十一月二十五日、いよいよ潮止めを迎えると、その人は村人たちの見守る中、水中に立ちました。
横島山の頂上では大勢の僧侶たちがその冥福と工事の成功を祈って法華経を読経し、その人は土石の下に姿を消しました。
これにより難工事も見事に成功し石塘が完成しました。この石塘築堤工事により古来海上の一孤島であった横島が玉名の陸地と接続詞広大な新地が完成し、
最初の鍬入れの天正十七年一月から石塘築堤17年の歳月をかけ小田牟田新地干拓が終わりました。
 横島の伝説によると人柱に立ったのは大園村の庄屋伝作であったとされており、別に「藤公遺業記」によると中富手永(郷)千田村(鹿本郡)の者人柱に沈むとなっています。
また、鹿本郡植木町のとあるお宅には先祖が横島で人柱に立ったと言い伝えられています。
いずれが事実かはハッキリしないものの、人柱の歴史は事実であり石塘の人柱が立ったところには
「鎮魂慰霊」と刻んだ小さい祠が建てられ、現在では「人柱之碑」が建てられています。
これらの事から当地には昔から「横布を使うと人柱に立たされる」という言い伝えがあるそうです。
また、一番大掛かりだった石塘の築堤工事に基づき読経した経本を埋めたところを経塚と言い、この築堤工事に当たり多くの犠牲者と人柱に立った人の霊を祀ったのが大園にある本田大明神であり、
深夜にこの場所の近くを通ると、小石が転がってきたり・・カチカチと音が鳴ったりするなどの、怪奇現象の報告例が後をたたないという。

416:人間七七四年
16/12/15 13:04:34.58 qYLg94CZ.net
>>415追記
同じ熊本県の南部に位置する相良氏が藩主を務めた人吉藩で17世紀後半に現在の熊本県球磨郡多良木町に造られた百太郎溝にて人柱となった、百太郎と言う者も庄屋の夢に出た水神の御告げで
はかまに横縞のツギを当てた男を堰をつくる時の人柱にすればよい。
と言う神託に寄って人柱として選ばれたと言う。

417:人間七七四年
16/12/15 14:43:37.25 VnJLJLbL.net
>>414
URLリンク(www.chugainippoh.co.jp)
震災復興の祈願とは言え、殺された坊さんの行った法要や祈りを再現しようと言うのはちょっと理解に苦しむ…

418:人間七七四年
16/12/15 19:42:38.77 ynzlC0ov.net
なんか来年の大河がもめてるそうだから、井伊直虎関連本から抜き出してみた
大石泰史「井伊氏サバイバル五○○年」
p146〜(正徳元年(1711年)に井伊家の始祖の誕生した井戸の帰属を巡って正楽寺と井伊氏の菩提寺である龍潭寺が争った際、
龍潭寺の住職であった祖山が井伊氏と龍潭寺のつながりを証明しようと「井伊家伝記」を書くにあたって)
(中略)ここからは想像の域を出ないが、次郎法師登場の背景を探ってみよう。
祖山は龍潭寺で、位牌・過去帳等から「次郎」が中世井伊氏の家督も使用した仮名・通称であることを認識した。
そのため永禄八年の寄進状を書いた「次郎法師」は当主に近い人物と考えた。
しかし、中興開山である直盛は同三年に、後嗣直親も同五年に死没している。彼らよりも没年が遅い人物を探す必要がある。
そうしたとき、龍潭寺内に残されている位牌等に、天正十年に亡くなった人物がいた。
法名は「妙雲院殿月船祐円大姉」だが、没年は直盛・直親以降の人物であることは間違いない。
「大姉」とあるので女性である。しかし、その位牌等以外に確認できないのであるならば、次郎法師は妙雲院殿だった。祖山はこう考えたのではないだろうか。
その傍証となるかもしれないが、祖山は次郎法師=直盛息女=妙雲院殿と認識はしているものの、
次郎法師=直虎、もしくは直盛息女=直虎、という表現はまったくしていない。
つまり、女性であることは認識していても、男性名である「直虎」を名乗ったとはどこにも記載がないのだ。
このことから、直虎が次郎法師もしくは直盛息女と指摘したのは、後世の研究者たちであったとすることができる。

419:人間七七四年
16/12/15 19:47:32.44 ynzlC0ov.net
小和田哲男「井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史」
p101〜
『寛政重修諸家譜』は「女子 直親に婚を約すといへども、直満害せられ、直親信濃国にはしり、
数年にしてかへらざりしかば、尼となり、次郎法師と号す」と簡単な記述で終わっている。
(中略)『寛政重修諸家譜』の記述だけだと、尼となったのに尼の名でよばず、なぜ「次郎法師」という名前なのかの説明がなく、わからない。
そのあたり、「井伊家伝記」を書いた祖山も注目したものと思われる。一つの解釈を披露している。(中略)
亀之丞が信濃に落ちていってしまったため、彼女は菩提の心深く、南渓和尚の弟子になって、剃髪し、出家してしまった。
両親は嘆き、「一度は亀之丞と夫婦にと思っていたのに、このようになってしまって」と、
尼の名はつけさせたくないと南渓に申し出た。
一方、彼女のほうは、「出家したのだから、是非、尼の名をつけてほしい」と、親子の意見が分かれてしまった。
そこで南渓和尚が考えたのが次郎法師という名前であった。
備中次郎という名は井伊家惣領の名である。次郎法師は女ではあるが、井伊家惣領に生まれたので、
相続の名をかねて次郎法師はふさわしい。南渓和尚がつけた名である。
この次郎法師は、井伊直親が誅殺されたあと、直政が幼年だったため、井伊家の家督となり、地頭職をつとめた。
(中略)
(父親の直盛の出生年から考えて判断力のあった年齢であるとするのは難しい、という野田浩子氏の説を紹介した後)
娘も自分の意志で行動できる年齢だったと見ている。(中略)ただ、野田氏の指摘のように、「彼女の私的な
感情により出家が認められるはずがない」というのはその通りで、あとでふれるが、亀之丞がもどってきたとき、
還俗すれば結婚が可能だったはずなのに還俗しなかったこととあわせ、このあたり謎が多いことはたしかである。

420:人間七七四年
16/12/15 19:52:19.56 ynzlC0ov.net
ニュースでは次郎法師は直盛の娘で、次郎直虎は別人、という主張が紹介されてたけど
単に龍潭寺に箔をつけるために祖山が次郎法師=直盛娘として南渓、次郎法師命名の話をでっち上げただけで
1812年に完成したの『寛政重修諸家譜』もその次郎法師=直盛娘説に乗っかっただけだったりして

421:人間七七四年
16/12/15 19:55:32.03 Da97V1+q.net
あのニュース、「発見」されたって『守安公書記』が新発見でも何でもない史料の上に、しかも編纂されたのが享保20年(1735)で、
享保15年成立の『井伊家伝記』より新しいものだからなあ。
『守安公書記』の史料評価もきちんとできてないみたいだし、あのニュースは正直勇み足過ぎる

422:人間七七四年
16/12/15 23:51:47.04 CukiuDjr.net
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

423:人間七七四年
16/12/16 06:13:05.59 cGxjSaEe.net
松江城のギリギリ井戸
堀尾吉晴が松江城を築かせている最中、表鬼門に位置する石垣だけは何度石を積んでも崩れてしまい、工事が終わらなかった。
吉晴がその場所を掘り返させ徹底的に調べた所、そこから一つの頭蓋骨とそれを貫く錆びた槍の穂先が見つかった。
吉晴はすぐさま神主を招いて二夜三日に渡る大祈祷を行って頭蓋骨を供養した所、以後障りなく石垣造りが進んだと言う。
また、頭蓋骨を掘り当てた場所からは澄んだ水がこんこんと湧き出し井戸となり、この時掘った形が頭のつむじの形に似ていた為、当地の方言でつむじを意味するギリギリからギリギリ井戸と呼ばれる事になった。

424:人間七七四年
16/12/16 07:00:23.69 cGxjSaEe.net
松江大橋の人柱
松江城築城にまつわるもう一つの人柱伝説。
関ヶ原の功で雲州に入った堀尾吉晴は月山富田城に入ったものの、城下町形成の為平地にある亀田山の末次城(現松江城)へ本拠地を移城する事を決意。
月山富田城を解体して資材を運ぶには大橋川を通らねばならなかったが、当時はカラカラ橋と呼ばれる竹造りの小さな橋しか無かったので、木造の大きな橋を架ける事になった。
が、洪水や事故などの為工事は難航し、例によって人柱を立てる事に。
人選はこの翌日、一番に橋を渡る者でマチの無い袴をはいた男(横縞の継ぎをした袴という説も)を人柱にすることと決め、その日の朝に運悪くその姿で橋を渡ったのが、足軽の源助だった。
源助は捕まり橋脚の下に埋められ、その甲斐あってか橋は完成、その後、大橋の中央の橋脚を「源助柱」と呼ぶようになったという。
また異聞もあり、人柱を立てる事が決まり人選について皆が悩んでいた際、源助と言う足軽が
「明日、下駄を履いて橋を一番に渡る者を人柱としよう」
と提案。翌日、その姿で真っ先に橋を渡ったのがこの源助当人で、彼は誰もがなりたがらない人柱の役を自ら引き受けたとも言われる。

425:人間七七四年
16/12/16 07:11:56.86 cGxjSaEe.net
ちなみに、このマチの無い袴と言うのは
「まち」がない袴を「行灯袴」と呼びおもに下級武士や足軽が用いたもので、現在は女子が用いる袴はすべて行灯袴であることから「女袴」ともよばれる。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
万一偉いさんが通っても人柱にならない様に配慮したってはっきりわかんだね

426:人間七七四年
16/12/16 11:31:37.47 C91lbPBf.net
現代では色々な武将が女体化してるから
井伊直虎の性別なんてどっちでもいい・・・って石田三成が言ってた

427:人間七七四年
16/12/16 13:11:17.64 VCcNHMdd.net
武将名でイメージ検索するとひどい事になるのが最近は普通になってるな。あと刀も

428:人間七七四年
16/12/16 13:40:32.34 3OMI3D+q.net
つか女でも法師てよばれるんだな

429:人間七七四年
16/12/16 16:49:21.36 CiQBUj3m.net
>>425
>万一偉いさんが通っても人柱にならない様に配慮した
リアルで恐いわ

430:人間七七四年
16/12/16 21:09:51.60 E3VsNxRe.net
とりあえずだが、井伊達夫氏は甲冑業界では名の知れた山師であることを指摘しておこう
井伊とは言っても、井伊家(越後与板藩主家)とは近年養子縁組したひとだしね
まあ個人攻撃ととられるかもしれないが、いわくつきの人だってことさ

431:人間七七四年
16/12/16 22:41:19.20 NI228Pl1.net
ところでその話の流れで、付箋がどうこうとネット上で一部の話題になってるの
例えば国宝「上杉家文書」の場合なんか、ボールペンの書き込みが残ってたりする
昔の地元の郷土史家の先生たちの仕業なんだけれど
今の修復技術で消すことも可能だが、後世の戒めとして残してあるそうな

ふと思い出した

432:人間七七四年
16/12/17 13:08:32.96 edoflzSk.net
吉川広家(中村一忠)と人柱 人柱久米と河童の怪
1591年に太閤秀吉の命で叔父、末次元康の代わりに出雲伯耆隠岐の支配を任された吉川広家は、城下町を作るのに不便な月山富田城に代わる本拠地として米子の飯山城に目を付けた。
隣接する湊山に天守閣を建てる計画を立て、米子城の築城が始まり二の丸三の丸の建造は順調だったものの、天守閣の石垣を組もうとすると、その度豪雨に見舞われ石垣は崩れてしまい工事は進まなかった。
この事態に人夫達から人柱を立てねば祟りが続いて工事はままならないと声が上がり、吉川広家は普請奉行の祖式九右衛門らと相談して人柱を立てて地鎮を行う事にした。
そして、町で開かれていた盆踊りの場から久米という名前の美しい娘を無理やり、または口車に乗せ連れ去り人柱にしてしまった。
この後、吉川広家は関ヶ原の敗戦で岩国へ転封となり後に入った中村一忠の代に米子城は完成したものの、天守の石垣付近では人柱にされた久米の幽霊が度々現れ人々を恐れさせたと言う。
また、米子の人々は人柱にされた久米を偲んで米子城の事を久米城と呼ぶとともに、盆踊りを開くと人攫いが現れ人柱にされてしまうと噂し、近世まで米子では盆踊りが開かれる事がなくなった。
久米が人柱として埋められてから暫くして、米子の町では夜に厠へ入ると毛むくじゃらの腕が現れ尻を撫でられると言う事件が多発した。
そこで一人の力自慢の侍が退治してやろうと夜に厠へ入るとやはり毛むくじゃらの手がにゅっと出て来て侍の尻を撫で回す。
侍は手を掴むと一刀の元にその腕を切り落とし、家に持ち帰った。
すると、河童が侍の前に姿を現しもう悪戯しないから腕を返してくれと頼むので、腕を返すと河童はそのお礼として侍にどんな傷も治すと言う薬を渡して米子を去り、日野町の黒坂へ移りそこで悪戯をする様になったと言う。
米子の人々はこの河童を久米の生まれ変わりではないかと噂したそうな。

433:人間七七四年
16/12/17 13:45:45.24 gUr9WE8G.net
美少女に生まれたけど人柱にされて河童に生まれ変わっておっさんのケツ撫で回す人生とかどんな罰ゲームだよ

434:人間七七四年
16/12/17 13:50:28.31 FgX/RKrK.net
人柱にされた美少女は実は痴女で、イケメン侍の尻を撫で回していたと思おう。

435:人間七七四年
16/12/17 14:12:34.44 edoflzSk.net
URLリンク(i.imgur.com)
黄桜河童なら…

436:人間七七四年
16/12/17 16:56:51.14 LFsLigeo.net
>>432
話が混じりすぎてカオスw

437:人間七七四年
16/12/17 18:19:31.85 afG/R5Jc.net
笄の井戸
岡山の柾木城(正木)は天正年間に宇喜多直家の兵2000に囲まれ落城寸前であった。
城主正木大膳正康の妻、玉尾の方は落城の前日
「私達が居ては満足な戦が出来ないでしょう。先に行って待っております」
と言うと、姫君初瀬を抱いて馬で柾木山を駆け降り、城の東南に位置する井戸へ二人で身を投げ命を絶った。
その後井戸へ身を投げた二人を供養した所、笄が浮かんで来た為この井戸を笄の井戸と呼ぶ様になったと言い、今も当地にて毎年供養が続けられている。
ちなみに正木大膳正康の入城は1589年だったと言う話もあり、城を攻めたのも宇喜多秀家だったり何故か姫路城主の本多忠政だったりする場合もある少し腑に落ちない逸話である。

438:人間七七四年
16/12/17 22:39:57.96 PNeVf9DM.net
>>430
酷い山師だったのは事実だが、その古文書自体は捏造ってわけでもないだろう。検証と解釈は別として。
目立ちたがりなのは間違いない。

439:人間七七四年
16/12/17 23:16:22.05 afG/R5Jc.net
笄の井戸動画
URLリンク(youtu.be)

440:人間七七四年
16/12/17 23:40:02.02 FQR9CdkD.net
>>432
松江城のコノシロの話と似てるね
河童の前までだけど

441:人間七七四年
16/12/18 06:19:17.29 ljNawsFS.net
 尼子義久は伯耆国をも手に入れて大身であったが、その気がすわらない人なので物事にとらわれやすかった。
毛利元就が口寄せの市子と申す者に金銀をとらせて、
「尼子の家は先祖の祟り、外からの恨みもあるので久しくは無いだろう。」等と色々誠らしい事を作って凶を告げさせた。
すると、尼子は気にかけて甚だくじけてしまい、その弱みを突かれて遂に亡んでしまった。
 物事の道理をよく考え、迷ってはならない。
巫女山伏に神が乗りうつられるという事は合点のいかぬ事である。
合点のいかぬ事に悩まされるのもなお合点がいかない。
とにかく手前に無理がなければ外よりよこしまな事があろうことはない。
道理を尽くしても悪事となって邪な事が来ても、天命であるとして是非はないと思え。
 自分の弱みを突かれ気が虚けていたら、たぶらかされる事は必定である。
(武士としては)
尼子氏の先祖の祟り、外からの祟り…
思い当たりがありすぎる…

442:人間七七四年
16/12/18 07:30:24.35 Ze9a2Qhj.net
>>440
隣の安来市にある月山富田城にも人柱の話があって、松江城、米子城と共に城の修築が上手く行かずに盆踊りから人柱となる人を拐って埋める所までは共通なんよ。
また米子城にもこの城は我の物〜とのたまう妖女が現れ退治された話があって、そちらの正体は人柱ではなく別のモノだったりします。
>>423のギリギリ井戸と松江城の人柱にも異聞があり、井戸の場所から見つかった頭蓋骨を弔うのに堀尾吉晴の知り合いの修験者が呼ばれて供養した。
が、修験者はまだこの供養だけでは地鎮は終わらず城造りの災いは済まぬ。私の子を仕官ないし、面倒を見てくれるなら私が人柱となりましょう。と、修験者が進んで人柱となった話も有ります。
尼子経久と人柱 米原太鼓
尼子経久が山陰の覇者となった頃、月山富田城の修築を始めたものの事故や災難が続き工事が難航した。困った尼子経久が巫女に相談すると
「月の紋が染め抜かれた着物を着た娘を人柱にしたら工事は成功する。」
と神託が降り、盆踊りの場から月の紋が入った着物を着た娘を連れ去り修築場所で人柱にした所、以後の工事が無事終わった。
この人柱の儀式の時、娘の霊を慰める為に太鼓を叩きながら儀式が行われたのだが、娘を人柱にした日が近づくと山頂から城へ太鼓の音が聞こえて来るようになり、人々はこれを米原太鼓と呼んだ。
米原太鼓には米子市にも伝説があり、水に苦労した市内の弓ヶ浜へ水路を引く際、米原まで来た所で工事が難航。
当地の盆太鼓が上手な青年が人柱になり、青年は太鼓を打ち鳴らしながら人柱となった。
また、盆太鼓が上手な娘が居たがある年、仕事の後に盆踊りを教えてくたくたになって帰った所、翌朝起きる事が出来なかった。
意地悪な継母が焼き火箸で娘を撃ち殺してしまい、これらの事件の後盆が近づくと地面から悲しげな太鼓の音が聞こえる様になり、米子の人々はこれを米原太鼓と呼んだと言う。
(書籍:本当は怖い日本の城と米子の伝承より)
これにて人ばしRushは一旦おしまい

443:人間七七四年
16/12/18 07:42:42.76 Ze9a2Qhj.net
>>442
×盆太鼓が上手な娘
○盆踊りが上手な娘

444:人間七七四年
16/12/18 07:53:42.56 0J/EbjXH.net
人ばしrush

445:人間七七四年
16/12/18 07:59:45.06 Ze9a2Qhj.net
>>444
ここ毎日人柱の逸話上げてたもんだからつい…

446:人間七七四年
16/12/18 08:28:12.44 sfFYV6q2.net
盆太鼓が上手なむす… 娘…
URLリンク(i.imgur.com)

447:人間七七四年
16/12/20 23:24:58.34 hzpAUNNI.net
薩隅の戦国食べ物? ねったぼ
ねったぼは蒸した唐芋(サツマイモ)と餅、砂糖などで作る餅で、ぼったぼったと練ってつくことから
その名がついたといわれる、鹿児島県や宮崎県の都城地方などで食べられている郷土料理です。
(砂糖の入ったきな粉をまぶして食べます。餡子が入っている場合もあります)
地域により、からいもんねったぼ、からいものねったぼ、からいもねったぼ、ねったんぼ、ねったくり、
からいも餅、ねりくりとも呼ばれます。
サツマイモの食べ物の話だと、スレ違いではと思われるかもしれませんが、
徳田大兵衛(侏儒どん)のことを書いている文で気になるものがありましたので・・・
「大兵衛殿は五十歳余りの時、都之城なる北郷殿宅にて年かさの餅を喰はせられ、咽喉に引き懸かり、
即ち相果てられし人にて候由」(薩藩舊傳集)
侏儒どんが現在の宮崎県都城市の北郷殿の屋敷で出された「年かさの餅」を咽喉につまらせて
なくなったとありますが、鹿児島で「年かさの餅」(鹿児島弁では「とっかさ」)とは
正月の餅を搗くとき、最後の一くぼ(餅米一臼分)に、煮たさつまいもを入れて搗きあげたもので、
ねったぼと同じものなのです。昔と今とでは違うのではと思われるかもしれませんが、
侏儒どんの話がまとめられている「日当山侏儒戯言」にも、
「年かさの餅とは薩摩独特の唐芋と餅とを搗きまぜたものだという説もあり」と書かれています。
(侏儒どんがなくなったのが、寛永十一年正月十六日(1634年2月13日))
前に鹿児島大学の焼酎学の先生から、
1611年に琉球征伐の後始末に残っていた薩摩の兵が薩摩芋を土産に持ち帰った。
1615年には琉球から種子島家に薩摩芋が送られた。
と聞いたことがあるので、栽培は出来てなくても手に入れることは出来たようなので、
貴重なものとして、正月用の祝いの餅にまぜこんだのかもしれません。
「日当山侏儒戯言」では、
「侏儒が正月北郷殿へ行って餅か出た時、ナニ此の位のなら唯一口で喰はれるとか何とか言って
喰ったところが、ソレが咽喉に閊へて遂に命を落としたのではあるまいか、若し予の想像通りとすれば、
彼は遂に滑稽の為に死んだのである」と書いてあって切ない。

448:人間七七四年
16/12/21 06:47:03.33 Ex3Uxlra.net
>>447
餅は古来よりの殺人食ってはっきりわかんだね

449:人間七七四年
16/12/22 00:23:23.28 qpvz8I6l.net
同月(慶長20年5月)、真田左衛門佐幸村〈又云ふ信為〉の妻女が紀州
伊都郡に忍んでいたのを、浅野但馬守(長晟)の家人が召し捕って来た。
闕所(没収)の黄金57枚、並びに秀頼から真田に与えられた来国俊の
脇差を添えて進上した。件の2品は即座に但馬守へ下しなさったという。
―『関難間記』

450:人間七七四年
16/12/23 19:45:13.14 uDiWfu+v.net
中村家廃絶の話 〜正室、於さめの方側室の子を嗣子と認めず〜
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
にも少し書いてある話になるが、
中村一忠は11歳で家督を継ぎ、伯父で執政家老の横田内膳が政務を取り仕切っていた。独裁的であったようだが、米子城を完成し、新たに城下町をつくり、現在の米子の基礎固めを行っている。
重臣の安井清一郎や、茶道の師である天野宗把など、内膳のやりかたに不満のある者たちが、一忠にそろそろ政務をご自分の手に、とそそのかした。
これにのった一忠は、慶長八年(一六〇三)十一月十四日に、一忠と於さめ姫との許婚の儀が米子城で盛大に行われたあとで内膳にいきなり斬りつけた。
しかし、一忠は仕損じてしまい、次の間に控えていた家臣がようやく斬り伏せ殺害した。
直後、横田内膳の息子や柳生但馬守宗矩の兄、五郎右衛門らによる米子騒動が起き、隣国出雲月山富田城城主、
堀尾吉晴の助けもあって事態は一忠側の勝利で収集したものの幕府は、安井、天野の両人に切腹を命じた。
また江戸へ呼び出された一忠はさまざまに弁明したものの、品川宿で謹慎を命じられた後許されている。
一忠の叔父中村一栄(かずよし)は、家臣の梅里伯清の娘を一忠の側室にと推挙し慶長九年(一六〇四)、梅里の娘は十四歳で米子城へお国御前として上がる。
正室於さめ姫は江戸屋敷に常住した為お国御前は正室に次ぐ格があった。
一忠には京にも京屋敷があり、これは豊臣時代からの屋敷で一忠の生まれ育った所であった。
京屋敷の家老矢野正倫(まさとも)も京の側室を推挙した。庄屋の娘であったが、美人で物腰やわらかな、明るい娘であったようだ。
余談だが家康は大名たちの側室の人数について、大名は八人という目安をもうけている。一忠も江戸、京、米子と、上屋敷、下屋敷に八人くらいの側室はいたのかもしれない。
元服の際一忠は、松平の称号を許され、将軍秀忠の諱名を賜り、忠一と名乗りを改めた。
於さめ姫には、姫つきの女中があまた随ってきたが、それとは別に忠一付きの側女中が二人、どこからか配置されてきた。この二人はこまめに忠一の身の回りの世話をした。周囲の者に明かすことのできない、重要な任務を帯びて中村家に乗り込んできていた。
側女中の二人がきてより、忠一の体調はしだいに悪くなり、疲労感が色濃くなっていった。
江戸屋敷にいる於さめ姫は、忠一が江戸にあっても、別棟の御主殿にいて、昼間は忠一と会うことはなかったが、輝姫という女の子を産んでいる。ついで、京の側室も出産し、こちらは男子で小武と名づけられた。
慶長十四年(一六〇九)五月、江戸、京、とまわって米子へ帰国した忠一は、だれの目にもわかるほど衰弱していた。
旅の道中に例の側女中もつき従い、十二分に忠一の面倒をみたが、お国御前の側室が側女中をあやしんで、見張り役を派遣したが、確証は得られなかった。
川狩りに行くと気分もよく元気が出るような気がして、忠一は最後の川狩りに出かけた。だがほどなく帰ってきた忠一は、すぐ寝所に入った。近習がかけつけた時、忠一はすでに死んでいた。いまだ二十歳の若い藩主の死去であった。
忠一の顔には薄く斑点が浮き、それを消すためにか、側女中は顔や身体中をなでさすっていた。これをとがめられた側女中は逃げ出して再びその姿を見た者はいなかった。
この後藩主の亡くなった米子城に幕府の裁定が下り、中村家は子なき故断絶と決まった。
京の側室には、男子の小武がありながら、また米子の御国御前も当時忠一の子を妊娠していたのにである。
これは正室である於さめ姫が「おおかた、どこからか連れてきた子であろう。けしからぬことだ」
と、柳眉をさかだてた鶴の一声の為であり、この為十八万石の米子中村家は、お取り潰しになってしまった。
中村忠一の死後、妊娠していた米子の御国御前も隠棲して男子を産んだがこれらの子らのその後に関しては九州方面の大名の家臣となったり、京都で出家したり、
また中村一氏の正室は池田信輝の子で あった事から池田家と親籍となり、鳥取池田家に迎えられたと言う。
正室、於さめの方に関してはこの四年後の慶長十八年(1613年)に毛利秀元の継室(浄明院)として嫁いだとされる。
(因伯戦国時代の女性たち、鳥取県史より)

451:人間七七四年
16/12/23 19:58:11.05 uDiWfu+v.net
>>450
追記として、米子騒動の横田内膳は既出の話にある通り藩主を蔑ろにした奸臣と言う風に中村記などの中村家側の資料に書かれているが、
実録が伝える村詮専横を忠臣が藩主とともに絶つという筋からは、到底こういう処分にはなるはずがない。幕府では実録が伝えるのとは、まったく違う見方をしていたのだった。
「徳川実紀」では、忠一(一忠ではない)15歳、その行いは凶暴であり、横田内膳(村詮)が何度も諌めたが、これに怒った忠一が宴にことよせて自ら殺害、
更に居城飯山に立て籠もった一党を隣国堀尾の軍勢を得て鎮圧した、と記すという。
新井白石の「藩翰譜」もほぼ同様であるといい、この騒動を聞いた家康は、幼弱な藩主一忠を諌めるべき家臣が、その責を果たさずに迎合し、騒動を引き起こしたことを厳しく咎め、安井らに腹を切らせたとされている。


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