戦国ちょっと悪い話44 at SENGOKU
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300:人間七七四年
16/11/15 16:37:19.62 746nQs1x.net
>>297
その一揆が契機となって大規模な物へと発展することはあっても二人で鎮圧できた一揆なんて大したことないよ
そんなんで褒美与えてたら急所を敵に知らせるようなものです

301:人間七七四年
16/11/15 23:04:18.80 02+9kijt.net
甲州伝目つぶし之法?活薬

 会談で、小幡勘兵衛景憲かた伝わる目つぶしの法として聞いた。
『蛍火 山蔭のたにし 青とかげ ムカデ 馬の目〔馬の目をほりとったもの〕
各等分にして卵の中皮?に入れる』
 これは大いに験がある。投げて胸や四肢に当たればそのところはたちまちしびれて、
手は揺らすことができず、胸は気が塞がって身を動かせない。
また鼻口に当ればすぐに絶倒するという。
聞いた話だが、これも甲州の伝で基本信玄から出たものだという。
信玄は毒矢を用いたことはこれと似ている。
またこれに遭った者のための活薬がある。
『塩 ひき茶』
この二物をといてその当った所に塗れば、すぐにその毒気が散って動揺が生じる。
また絶倒したら湯を加えて服させたら回復するという。
(甲子夜話)

信玄がなぜ塩を断たれたら困るのかが分かりますね〜

302:人間七七四年
16/11/16 08:38:58.73 GV3HsWUU.net
気持ち悪いものを投げて当たったら塩と茶を塗れとか
小学生かっ

303:人間七七四年
16/11/16 11:16:58.83 LWmC7QHM.net
        ::::::::::::::::∧口∧   そうやってなんでも
        ::::::::: ( ::;;;;;;;;:)      信玄の発明にしてりゃいいさ…
          _..  /⌒:::;;;;;ヽ
-― ―'ー'-''―-''/ / ::;;;;;;;;:| |―'''ー'-''―'`'
 ,,  '''' .  ''''' と./ゝ_;_;_ノヽつ   、、, ''"        
    ,,, ''  ,,,    ::;;;;;;;;;::: ,,  '''''  ,,,,  

304:人間七七四年
16/11/16 16:34:37.11 WRGo2PvK.net
いい話の方で軍記物の話が出てましたが、やっちゃった感について一例を。
1609年の薩摩の琉球攻略についての軍記物を「薩琉軍記」と総称して研究が進められていますが、
そのうち、目黒将史「架蔵『島津琉球合戦記』解題と翻刻」から。(PDFで閲覧できます)
某板某スレで火葬戦記と評されていましたけれども、これは酷いw
琉球は基本的に異国・異世界扱いで、三国志演義の南蛮討伐と世界観が同じようなものですね。
実情はともかく、日本でイメージされていた講談での中国世界そのまま。
島津勢の総数が10万5873、これがまた一々武将名と軍役を挙げてディテールに妙にこだわってる。
対する琉球は高さ34丈の城門など、4里四方の王都に3万騎の軍勢で守備し、もちろんその他にも
相当数の軍勢です。
戦の展開はもうどうでもいいようなもんだけど、戦後の論功行賞で、薩軍が討ち取った首級が2万9307、
損害が1843とか。
数のインフレも異世界だとあんま難しいこと考えないでいいのかなあ。
立教大学学術リポジトリ  目黒将史 架蔵『島津琉球合戦記』解題と翻刻
URLリンク(rikkyo.repo.nii.ac.jp)

305:人間七七四年
16/11/16 16:36:05.72 WRGo2PvK.net
実際の薩摩の琉球攻略の研究では、沖縄の研究者によって最近いろいろと本になったり、歴史雑誌に載せられたりとありましたが、
実のところ史料の扱いに疑義が呈されていたりしますんで難しいものですね。

306:人間七七四年
16/11/16 18:04:58.30 1rlij8XH.net
>>304
ちょうど今、沖縄に住んでるので興味深いです。
薩摩藩の琉球侵攻についての入門書的なものご存知でしたら、ご教授いただけませんか?

307:人間七七四年
16/11/16 19:20:28.25 cznpWbrV.net
いまの沖縄の人の研究話はそれこそフロイスと同じで話し半分で聞く程度でしかないんじゃ

308:人間七七四年
16/11/16 20:17:46.41 LDUIBqx2.net
>>306
とりあえずこれが一番いいと思う
琉球王国と戦国大名 島津侵入までの半世紀
URLリンク(www.yoshikawa-k.co.jp)

309:人間七七四年
16/11/16 20:19:47.78 Iqooltxr.net
>>306
まず読むならばこれでしょうか。
上里隆史『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』
著者の出世作で、島津の琉球侵攻が注目される嚆矢ともなりました。
ところが、戦時の当事者の書いた一次史料だけではなく、後になって政治的思惑や顕彰目的で書かれた文書まで
無批判で取り入れているんじゃないかとの批判が出てきました。
琉球王国〜その真実の歴史
URLリンク(blog.livedoor.jp)
それを検証したのがこちらのサイトですが、管理人はかなり基地外入った人(本人が自称してるから構わんでしょう)
ですけれども、その論考は確かな説得力があるので評価を得ています。
上記の本を読んでから、サイトに目を通して見ればいいと思います。
それに補足して、>>308も目を通しておけばいいんじゃないでしょうか

310:人間七七四年
16/11/16 23:35:16.70 7/SL5c8d.net
島津の琉球侵攻って
琉球王朝が元亀年間に奄美に侵攻した逆襲じゃないの?

311:人間七七四年
16/11/17 07:51:37.39 GDJQT7/A.net
>>310
そりゃ反応遅すぎだろ

312:人間七七四年
16/11/18 00:02:23.28 gKlDuncp.net
天吹(テンプク)という薩摩で伝承された縦笛があり、薩摩の武士の間で大いに愛され、吹かれていた。
名称の由来は、大祓いの祝詞「天の八重雲吹き放つことの如く」からきているとも言われている。
一番盛んだったのは、戦国の頃といわれ、戦国ちょっといい話・悪い話まとめ にも
島津の退き口と北原掃部 URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
天吹についての話が載っております。今回は細部が少し違うバージョンを紹介します。
関ヶ原の合戦に島津方として参加した武士に北原嘉門助をいう者がいた。
島津の退き口の際に、家に代々伝わる天吹を陣中に置いてきた事に気付き、
「このまま置いていっては先祖に申し訳がたたぬ」と彼は天吹を取りに戻りますが、
東軍の兵に捕らえられてしまいます。
「何故、戻ってきたのか?」と問われ「笛を取りに戻ってきた」と答えると
「薩摩にもお主のような軟弱な者がおるのか」などといわれ、首をはねられることと
なってしまいましたが、
「この笛を取りに戻ってこのようなことになったのだ、せめて最後に一曲吹かせて欲しい」と言い
天吹を吹くと、その音色と北原嘉門助の堂々とした態度に東軍の者たちは感嘆し、
首を刎ねる事もあるまいとの意見が出てきました。
このことを知った徳川家康の側近の山口直友は「このような者を死なせるには惜しい、薩摩に戻して
やってもいいのでは」と考え、家康に進言しその結果、北原嘉門助は薩摩に戻ることが出来、
彼の命を救った天吹は「助命器」と銘打たれて大切に保管されたという。
・・・これで話が終われば好かったのだが、薩摩に戻った北原嘉門助は
「自分は首を刎ねられるはずだったから」と切腹して果ててしまいました。
一方「助命器」の方は江戸末期までは大切に保管されていましたが、明治になり北原家に
嫁いで来た若奥さんが、ごみと間違え燃やしてしまうという悲しいことになっていました。
※鹿児島市の城山にある西郷隆盛像と忠犬ハチ公像(初代)を手がけた安藤照氏の母方の実家が
北原家になります。(忠犬ハチ公像(2代目)を手がけたのは息子の安藤士氏)
(「明治維新150周年まであと2年!薩摩アフタヌーンティーパーティ」というイベント内で
あった「薩摩の楽器「天吹」700年で知る島津の歴史シンポジウム」での話より)

313:人間七七四年
16/11/18 01:20:52.31 43f1UwnJ.net
島津の琉球侵攻と関係ないけど小説の琉球処分は面白かった
著者が琉球政府、沖縄県庁の経済や歴史編集役人を経て沖縄県立博物館長だったので
太政官政府より琉球寄りかもしれないが冒頭は寺田屋事件生麦事件に関係した
奈良原繁が琉球へ赴いたことも書かれており面白かった
もっとも幕末の奈良原繁のことは触れず官吏としてしか書かれているに過ぎないが

314:人間七七四年
16/11/18 09:14:27.63 JKeteUbK.net
>>312
なんというまさにちょっと悪い話
やっぱお宝というものはものものしい器に収めとかないと駄目ってことね

315:人間七七四年
16/11/18 17:02:34.45 865MJPbR.net
>>312
せっかく拾った命を捨てた過ちを燃やして浄化されたのだ

316:306
16/11/18 18:22:17.68 iAUdVKIa.net
皆様、情報提供いただきありがとうございました。
ご紹介いただいた書籍やウェブサイトに目を通していきたいと思います。

317:人間七七四年
16/11/18 19:46:27.75 7E1FHg/r.net
宇喜多殿というのは、元来備前の武士であった、当時は浦上という者が備前美作領国の主人であり、
宇喜多直家は浦上の家臣であった。しかしこの直家は悪性の人物で、国郡を持つ人と縁者などに成り、
後に殺して奪い取ることを度々した。浦上も殺して、遂には備前美作の主となった。
八郎殿(秀家)はこの宇喜多直家の子である。太閤秀吉と親密な関係に成ったのは、秀吉が備中高松の
城を攻めていた時、明智反逆の事が知らされたが、引き取りたいと思っても自由にならない状況であった。
この時、八郎殿が秀吉に一味して力を合わせた事で、秀吉は高松の城主に腹を斬らせ、その上で
巻き返して上京出来たのである。
この忠功により両者の関係は良く、秀吉は彼を聟に取った。しかし秀吉に娘はなかったので、
前田筑前守(利家)の息女を養子にして、八郎殿を聟に取った。
但しこの時分、八郎殿はまだ10歳ばかりであった。直家も当時まだ生きていたと言うが、瘡毒のため
人前に出ることも出来ず、八郎殿を国主分としていた。
そしてその下には、五万石、三万石といった大きな所領を有する家老たちがあり、彼らが談合して
高松の時も秀吉に味方する方針を決定したのだという。
八郎殿は太閤秀吉の聟と成り、また官位も上がり、宇喜多中納言殿と呼ばれた。
しかし治部少輔乱(関ヶ原の役)に至り、彼は治部方であったため、東照宮(家康)の勝利にて
この乱が終結すると、八丈島へと流された。そして今もまだ生きていると聞いている。
これは老人(江村専斎)が癸卯の年(1663)、九十九歳の時に語られた話である。
(老人雑話)
宇喜多秀家は1655年に亡くなっているので、その部分は正確ではないのですが、
当時の江戸でも「宇喜多中納言ってまだ生きてるらしいよ」「すげー」みたいな話題のネタに
なっていたのでしょうね。

318:人間七七四年
16/11/18 21:03:28.64 865MJPbR.net
>>317
どこのアーサー王だw

319:人間七七四年
16/11/18 21:06:53.08 Limq/1QQ.net
さっきまでやっていたヒストリアが「戦国一のワル」の回だった
このタイトルで松永や宇喜多じゃなく、最上義光回だったけど
目新しいネタはなかったな

320:人間七七四年
16/11/18 21:58:59.29 gql9sLLB.net
>>317
泳いで参った!の伝説もあったんだろうか

321:人間七七四年
16/11/18 23:33:46.68 Ad/x7wny.net
2ch発祥ネタじゃねえか

322:人間七七四年
16/11/19 00:10:42.32 QQzb0Sra.net
(慶長19年12月、大坂冬の陣の時、)14日卯辰刻より、また雨。晩から
風は激しく、寒さは甚だしかった。
藤堂和泉守(高虎)を敵も味方も憎んだのであろうか。色々な悪口をある時
は言い掛け、ある時は矢文を射ていた。件の矢文は他の陣に来たとしても、
藤堂の陣へとこれを送ったという。
(藤堂和泉守を敵味方惡之歟、色々の惡口を或時呼、或時矢文を射ける、
件矢文餘陣に来とも、藤堂陣に送之と云々)
―『当代記』

323:人間七七四年
16/11/19 04:38:09.49 EgHEZ3Hh.net
裏切りものだからかな?

324:人間七七四年
16/11/19 17:54:19.84 Qu1Fqqy3.net
>件の矢文は他の陣に来たとしても、藤堂の陣へとこれを送ったという。
ちょw

325:人間七七四年
16/11/19 18:22:16.97 yU1LQAy1.net
>>322
冬の陣の時で藤堂家の付近の陣だと伊達家と松平忠直かな

326:人間七七四年
16/11/20 00:16:12.28 u73Z9G9W.net
城地革変甲冑論

 林子(述斎)曰く、
城地はその時代により移り行くものなので、作り替えねばならぬ物であるという。
山城などは水地と違い地勢もかわらないが、その時の敵のある所で用不用がある。
例えば、照祖(家康)が三遠におわしました時は、
金谷駅の上にある諏訪原(牧野原とも言う)の城は真の要害であった。
これは甲州の押さえの為であった。
甲州が亡んだ後はこの城は用が無くなったので廃城となった。
世人はこのような訳も知らず、深い考えもなく、
「あの所の古城跡は天険の地なのに、なぜ廃したのか?」などと言い出すのは笑ってしまいそうだ。
 また慶長中、伏見の城を淀に移されたのは、その頃淀川の水道が今と違い、
城からの川の水位は低く、水車で城内へ水を汲み入れていた。
百余年を経て川床が高くなり、水車は景色ばかりとなって実用すること無くなり、
出水ごとに、淀城はいつも氾濫の患を被らないことはなかった。
これは河道の変化によるもので、城築の時の地勢によるものではない。
 古今の変化に通じなくて、城の利不利などを評する人が往々にしている。嘆くべきことだ。
その他に海を要害にした城だったが、今は海があせていつのまにか田となったものもある。
また、城門の前の間地も、後に間近くに家を建て列ねているものも多い。
これらは事に臨むときに身を滅ぼす元ととして成る程便利であろう、と林子は言われた。
西方への旅行の時、諸国の城地を目撃して意中に心得がたいことが多かったのだろう。
 そもそも城のみでなく、着具なども同じことである。
先祖の具足と貴び所蔵するのはいい。
それを自分も着るものだと思う輩がまた多い。
そもそも人に大小肥痩があるので、今に当たって自分が用いる乳縄(※胴の乳の辺りの寸尺)
で製作しなかったものは用に立たないものだ。
 私は若いときは痩せて、中年から肥えた。年少の時の乳縄は今とはかなり違う。
一人のものでさえこのようなのだ。
これらは分かりきっていることなのに心にも付かず、着具を作り変えることも知らないまま、
いたずらに月日を過ぎる武家は実に太平の余沢に豊かに過ごしているといえよう。
(甲子夜話)

こういう「当時と地形が全然違うだろ」って突っ込みが頭の中にあるから
あんまり古城めぐりには乗り気ではないんですよね

327:人間七七四年
16/11/20 09:56:03.54 sN07tgQU.net
郷里で再会した同窓生の嫁をみて、伴侶とした理由を聞くようなものですねw

328:人間七七四年
16/11/20 14:25:06.85 FttclQe/.net
>>326
クラウドファンディング「そんな貴殿にVR、当時の地形も再現致しますぞ」

329:人間七七四年
16/11/21 02:57:40.45 BF3y+tQK.net
この夏(慶長13年)、麦は豊年だった。ただし、関東の麦は凶年だった。
奥州南部に金があるということで、金掘りたちが、その山に佐渡国から下って来た。
初めは際限無く金が出たのだが、そのうちに出なくなった。
再び金堀りたちは松前に下った。松前の主(松前慶広)は、かの地は兵糧が乏しい
ため、それ以来「飢饉の兆しである」として、「(金掘りは)許容できない」としたという。
―『当代記』

330:人間七七四年
16/11/22 02:53:22.29 eiEjYzgS.net
この春(慶長13年)、小人島の者であるとして、京都にて
鼠戸を結び(見世物小屋)、代金を取って人に見せていた。
たとえば日本人であれば、5,6歳の童ほどの身長だった。
―『当代記』

331:人間七七四年
16/11/22 04:09:59.97 3KIFCoH1.net
近親相姦してたらおかしなのが生まれるよね
天皇家が最たるものだし

332:人間七七四年
16/11/23 08:51:29.00 RkWuuHXG.net
隆元と元春(1) 槌山攻めにて隆元激怒の事

天文20年(1551年)、陶隆房が大内義隆に謀反し大寧寺の変が勃発。安芸の国では陶の依頼を受けた毛利元就が義隆派の平賀隆保が籠る頭崎城を落とし、更に隆保が逃げ込んだ菅田氏の槌山城を息子の隆元と吉川元春率いる4000の軍に攻めさせた。
隆元は抜け駆け禁止令を出し、これを破る者は例え抜群の戦功を上げても厳罰に処すと固く命じた。
隆元麾下の吉田勢はこれを守り抜け駆けをする者は居なかったのだが、元春率いる新庄勢の若者達はこっそり抜け出すと敵城の切岸を登り矢戦を始めた。
敵も応じて矢を散々に射かけ、新庄勢は怪我人が続出して寄手はたちまち劣勢となる。
隆元は坂新五左衛門を元春の元へ遣わし、
「お前の兵が抜け駆け禁止令を破って戦を始めている。まったくどうしようもない。
残らず捕らえて首を刎ねよ」と殊の外に激怒した。
元春は新庄勢に「早く引き上げるように」と何度も下知したが、
新庄勢は敵と真っ向から取り結んでいるので、引き返しようがなかった。

333:人間七七四年
16/11/23 08:55:15.20 RkWuuHXG.net
この時、元春は陶から贈られた近江黒と言う馬に跨り矢戦を見物していたが、戦気に当てられたか、近江黒が逸るので二宮杢助(俊実)に近江黒の口を抑えさせていた。
元春は二宮杢助に「お前行って味方を引き上げさせて来い」と命じ、二宮は「かしこまりました」と、鑓を持った小者一人連れ駆け出して行くと、途中60ほどの兵と率いた味方の安国紀伊守とすれ違った。安国は
「これは二宮殿。我らも一競り合いしたく思って駆けつけましたが、
敵が猛勢で合戦を待ち望んで待ち受けておりますので、この少人数で不利な戦を仕掛け、
敵に利するよりはと、引き退いておりました。
二宮殿も小勢のようですな。早々にお引き取りください」と言った。
二宮はこれを聞いて、
「吉川の手の者は、敵が大勢であっても引き返すことはありません。
好機を見計らって一合戦してきます」
と言い捨てて味方のもとに駆けつけていった。
二宮は味方を引き上げさせることなど念頭にはなく、逆に
「皆よく狙って鑓の者の脇を射抜け。一合戦してやろう」と味方を勇気付けて、
後に続く勢を今か今かと待ち受けた。
すると藪の中から粟屋弥七郎がつっと走り出てきて、
「来たな杢助。私も先ほどから一競り合いしようと味方が続いてくるのを待っていたのだ。
よく来てくれた。嬉しいぞ。
さあ、勇気を出して心を合わせ、一合戦しよう」と言う。
二宮も「それがいい」と、真っ先に立って攻め上った。
そこへ抜け駆け禁止令を守っていた吉田勢から楢崎市允・波多野源兵衛尉・尾崎新五兵衛尉・赤川源左衛門・桂善左衛門・福原左京などがこっそりと駆けつけてきて、後に続いた。
忽ち乱戦となり、二宮・粟屋ら抜け駆け毛利勢は奮闘の末に傷付きながらも城方の菅田三郎左衛門を討死させる功を上げる。

なお、この矢戦では槌山城は落ちず、隆元の怒りは止まなかった。

334:人間七七四年
16/11/23 10:20:45.99 l4Jdq11w.net
お兄ちゃんの面子丸潰れ

335:人間七七四年
16/11/23 10:38:14.04 TQklu1C2.net
抜け駆けはギャンブルだからね〜成否が士気にかかわるのよ

336:人間七七四年
16/11/23 14:33:01.39 h9ZIC5Bw.net
受け流せればいいけど隆元のストレスが凄そうだ

337:人間七七四年
16/11/23 15:17:04.05 88DTlVBL.net
>>336
先にバラしておくと、この抜け駆け禁止令違反者の処分で意外なところから追い打ちが来る

338:人間七七四年
16/11/23 15:51:33.76 crbvyM3Z.net
てか、大内攻めじゃん
お兄ちゃんのストレスはそれだけでヤバイだろ

339:人間七七四年
16/11/23 15:56:49.00 4exxIwvo.net
ボスの鶴の一声でフィニッシュ

340:人間七七四年
16/11/23 19:41:46.65 88DTlVBL.net
>>338
ひょっとすると、隆元は無理攻めせずに降伏させて助命する気だったのかもね
入れ違いだけど平賀隆保はYSTK様の寵童仲間だし

341:人間七七四年
16/11/23 22:10:29.64 gNTnZHYo.net
またホモか…

342:人間七七四年
16/11/23 22:26:26.85 88DTlVBL.net
>>341
そりゃあもう、中国北九州界隈で義隆の元に人質でいた上に名前に隆の字貰ってる辺りの武将は大体…

343:人間七七四年
16/11/23 23:09:07.43 gNTnZHYo.net
大崎義隆 蘆名盛隆 「俺たちはセーフだな!」

344:人間七七四年
16/11/23 23:46:02.15 fRWdHM4A.net
そりゃそうだろとしか

345:人間七七四年
16/11/24 14:09:02.66 BJS/7tYa.net
隆元と元春(2) 抜け駆け禁止令違反者の処分の事
>>332-333の軍令違反者による合戦は毛利方に大勢の手負いを出したものの、二宮・粟屋らの奮戦により敵方も城主、菅田一族の者が討死するなど両軍とも進退極まり兵を収めた。
普段ならば隆元や元春が士卒の功を称し、負傷した者の元を訪れ涙ながらに傷を撫でてくれるのであるが、今回は固く定めた軍法を破ったが為、労いの使者すら送られてこなかった。
一方、元春は隆元の元へ宮庄次郎三郎元正を使者として遣わし、この度の軍令違反者についてこう述べさせた。
「今回、我が手の者どもが軍法を破り、一戦を遂げました。
これにより味方は九十六人も手負いが出て、
そのうちの綿貫兵庫助と申す者が討ち死にしました。
このくだらない合戦を仕掛け、味方に多数の負傷者を出したのは、
粟屋・二宮の責任が大きいので、即刻首を刎ねなければなりません。
しかし、一歩引いて愚案を巡らせるに今回は陶と一味して初の戦となります。陶にその証を立てる為にも一戦交えるのが良かったのではないでしょうか?
そのうえ、元就公のご出馬がなく、隆元公と元春の二人が出てきています。
若い隆元公に私のような者がお供して、大将を名乗って打って出ていますので、
一戦しないのもいかがかと思います。
ですから今回は、どうかお許し願えないでしょうか」と再三申し入れた。
しかし隆元は
「そのように聞くと、確かにそのとおりだと心を緩めたくもなる。
だが固く制定した軍法に背いたのだから、これからの諸卒への見せしめのためにも、許すことはできない」と返答した。
これもまた道理なので、元春もどうにもできず、その後は何も言わなかった。
また、隆元と元春は武永四郎兵衛尉を父元就の元へ遣わしこの日の戦を報告させた。
元就は武永と対面すると、「詳しく様子を報告してくれ」と言い、武永は粟屋・二宮の鑓働きの様子やそのほかの諸卒の働きを細々と語った。
元就はすっかり上機嫌になって「お前たちはその戦場には行かなかったのか」と尋ねると、
武永は「私も及ばずながらそこに駆けつけ、鑓の者の脇で弓を使って補佐していましたが、
軍法を破る行為でしたので、隆元様・元春様のご機嫌を損ねてしまいました」と答えた。
元就様は愉快そうに笑うと、「軍法を破ったことは不義の至りだが今回は陶に一味してから初めての出陣だ。
陶との同盟の証拠として一合戦しなければならないところだ。
その若者たちは、よくそこに気がついて一戦してくれた。
粟屋の怪我は深いのか。二宮はどうだ」などと詳しく尋ね聞き、
武永にも盃を与えて褒美を取らせた。
元春への返事にも「今回は陶に一味した証拠に、それらしい合戦をしなければならかなった。
そこに御手の衆が比類なき働きをしてくれたのは、
今に始まったことではないとはいえ神妙の至りである。
戦功の軽重をただし、勧賞を行ってやりなさい」と送った。
これで、昨日合戦をしでかした者たちも胸を撫で下ろしたということだ。
この時、総大将の隆元が何を思ったかは誰も知らない。

346:人間七七四年
16/11/24 14:14:06.21 8D69oZrn.net
自殺したくもなるね

347:人間七七四年
16/11/24 14:52:23.92 sw+eGJaZ.net
>>345
元春と元就の言い分が全く同じとか、お兄ちゃんの立つ瀬がねえw

348:人間七七四年
16/11/25 03:24:07.43 TdsZYUS0.net
(慶長13年12月)三河国足助山家代官・三宅辰介親子3人を生害なさった。
知行の年貢の使い込みがあったことにより、さる夏中から押し込めなさった
のだが、いまこのようなことになった。
嫡男は近年、大御所(徳川家康)の小姓をした近習であった。美男であり、
とりわけ心を選んで神妙な者であった。上下の輩とも、彼を惜しんだ。
―『当代記』

349:人間七七四年
16/11/25 08:13:50.14 MC95tTf0.net
寵童どもの争い

350:人間七七四年
16/11/25 20:57:09.54 r/GIlCri.net
山形市 最上義光歴史館
大崎夫人の五輪塔
URLリンク(mogamiyoshiaki.jp)
平成26年7月、神奈川県川崎市にお住まいの女性から一通の封書が届きました。
封書には巨大な五輪塔と地輪に刻まれた銘文の写真、そしてそれに係る様々な資料が同封されていました。
巨大な五輪塔の写真は山形県寒河江市の正覚寺にあるもので、最上義光の正室大崎夫人の供養墓という
伝承が広まっているものでした。
寒河江市史をはじめ、近年発刊された最上義光に係るさまざまな書籍にも、最上義光の正室大崎夫人の墓所が
寒河江市の正覚寺であるように紹介されています。
封書を出された方のお話では、ご先祖さまが慶安四年に「光誉明月」という女性の三十三回忌の供養のために
建立したものであるのに、いつのまにか大崎夫人の供養墓として語られ、大変迷惑している。ぜひ相談に乗って
もらいたいというものでした。
大崎夫人に関しては様々な伝承がありますが、いまのところ確かな記録がありません。菩提寺も墓所もわかりません。
もしかすると京都にあるのかもしれません。
大崎夫人の菩提寺=正覚寺…いつの時代にこのような伝承が生まれたのでしょう!?

351:人間七七四年
16/11/26 00:03:56.94 XVutE/OC.net
小倉侯数具足の由来
 当年(天保五年、1834年)二月の火災で、両国橋向こうの小倉侯の別荘で具足のいくつかが焚亡した。
この具足というのは、往年の福島氏が改易されたときかの家の物が散逸していたのを、
小倉侯の収めていたものだという。
よってその具足はみな福島の家紋があったという。
 福島は豊太閤の初めから神祖御成業のときまで、
剛勇武功の人で皆知るところである。
その遺物がこのように亡んだのは、誠に痛感に堪える。

(甲子夜話三篇)

なぜ小笠原さんが正則のものを?

352:人間七七四年
16/11/26 03:07:48.21 lmCyCJQF.net
水野勝成さんや松平忠輝さんはどうしてこんなに長生きが出来たのだろうか?
あの一族の血を引いているのに謎だ

353:人間七七四年
16/11/26 12:05:14.08 +pJkeQp5.net
引いてないんじゃないか?家康もな

354:人間七七四年
16/11/26 14:24:06.47 pplEoFOh.net
部落民は総じて長寿です。

355:人間七七四年
16/11/28 08:45:22.81 TtoGbpWs.net
文禄3年(1594)、豊臣秀吉は山城国伏見の指月に城の建設を進め、日を追うごとに石垣や天守が
造られていった。
すると秀吉は、伊勢から駿河までの城主は、聚楽の豊臣秀次に遣わし、その他の東国北国西国の大名たちは、
皆伏見に移った。このため家造りは夥しいものであった。
(慶長年中卜斎記)
指月伏見城建設の時点で、秀次は東海道だけの存在になっていたのですね。

356:人間七七四年
16/11/28 21:25:08.51 TtoGbpWs.net
豊臣秀吉が伏見指月の城に天守や御殿を夥しく建設した理由は、当時朝鮮よりの遣いが来るため
異国への外聞故であった。
朝鮮より明軍の遊撃将軍(沈惟敬)が来るとの情報が聞こえると、秀吉は彼に馬揃えを見物させよと
仰せ出し、このため諸大名は多勢の準備が必要となり、これら人数を置く場所を請い、それらは
草津、石山、大津、坂本などに置かれた。
徳川家康の用意した人数は五千。これらは鞍馬、八瀬、木船、嵯峨、西ノ岳その他の場所に分散して
置き、それらから一備づつ押し出し伏見へ乗り入れる計画であった。
秀吉は、遊撃将軍がこの馬揃えを見物する場所は大仏山門と定められた。そして馬には鎧を掛け、
馬面、馬上には大小の金の熨斗を着け、騎馬の者達も全員甲冑姿になるようにと命じた。
そして遊撃も来日し、馬揃えは閏7月18日と決定。諸大名には近日までに待機場所へ行くようにと
命令があった。
そのような中、閏7月12日夜半、大地震が起こった。
この時、大仏は黄金に鍍金してあったが、揺れに寄って破損した。
伏見天守も上の二重が崩落した。
御殿の棟木は飛び、破風の作り物の狐格子は落ちて中まで丸見えとなった。
諸大名屋敷の御成門も損壊し、大手の二階門も揺れ崩れ、一庵法印という番衆も死んだ。
徳川家康の屋敷の2階建ての長屋も崩れ、加賀爪隼人も死んだ。
伏見中で家長屋が潰れ、死者は数知れないほどであったが、歴々で死んだのは一庵と加賀爪の
二人だけだった。
地震によって御殿、天守、諸大名の屋敷などは崩損し、この事に豊臣秀吉は以ての外に立腹した。
伏見に入っていた遊撃将軍も、夜中に伏見を退去したという。仔細の有るべきことだが
どういう理由かは知らない。
(慶長年中卜斎記)

357:人間七七四年
16/11/29 18:57:27.86 69pTnGMp.net
>>356
中国では政治が乱れると災害が起きると言われてるが、まさにw

358:人間七七四年
16/11/29 19:23:34.64 OIDdaizr.net
連歌その心自然に顕るる事
 古い物語であろうか、または人の作り話であろうか、それは分からないが、
信長、秀吉と、恐れながら神君が御参会の時、
四月だというのにまだほととぎすの鳴き声を聞かないとのお話が出たので、
信長は 鳴ずんば殺して仕まへ時鳥 とあり
秀吉は 鳴ずとも鳴せて聞ふ時鳥  とあり
      なかぬから鳴時聞ふ時鳥  と詠まれたのは神君であったという。
 これらからその御徳によって感化される程に温順であられたり、
また残忍であったり度量が広かったりすることが自然とわかり、本性を顕している。 
 紹巴もその席にいて、
    鳴かぬなら鳴ぬのもよし郭公
と吟じたという。
(耳袋)

歴代の発句
 夜話のときある人が話したことである。
人が仮託して出た者であるが、その人の情実がよくあてはまっている。
郭公を贈ってきた人がいた。しかし鳴かなかったので、
なかぬなら殺してしまえ時鳥 織田右府
鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤
なかぬなら鳴まで待よ郭公 大権現様
このあとに二首が添えてある。
これは憚る所あるうえに、もとより仮託のことであるので作家は記していない。
なかぬなら鳥屋へやれよほととぎす
なかぬなら貰て置けよほととぎす
(甲子夜話)

有名な三句に続きがあるとは知らなかった
甲子夜話の匿名の二句は、戦国三傑と対比して
当時の大名の拝金さを揶揄したものか、不甲斐なさを嘆いたものか…

359:人間七七四年
16/11/29 19:24:59.91 S9zniyzk.net
鳴かぬなら それでいいじゃん ほととぎす 織田信成
織田信成のセンスは里村紹巴並であったか

360:人間七七四年
16/11/29 19:48:34.95 vDRc1Ucg.net
本田正信正純親子の逸話を読んでて思ってたんだけど、最近何かにつけて”具体的ny?”って返答する人が増えたように思うんだよね。
リアルだと会社の人とか家族ですら言ってくるし2chですらそうスレする人達がいる。色々ハッキリさせるのはいいけど疲れ世の中になってきたよね。

361:人間七七四年
16/11/29 22:57:47.33 0pORNuAA.net
興味ある話だからじゃないか?どうでもいいのは右から左だし

362:人間七七四年
16/11/30 09:20:13.85 ctmdEvuO.net
>>361
世間話くらいの事にまで”具体的ny”
と確証を求めてくる人達が居るんだよね。
興味があるって云うより討論術か何かだと思ってるフシがある。会社の人も俺の簡単な推論程度にまで”具体的ny”って聞いてくるからシンドいよ。信用出来ないなら無視しろよと言いたい。
ネットの時代だから確認は、まだ簡単な方だが昔は一々”具体的ny”なんて聞いてくる奴がいたらさぞかし忌避されただろうね。

363:人間七七四年
16/11/30 09:46:10.75 Buw+pmGC.net
ホトトギスがいつのまにかカッコウに...。

364:人間七七四年
16/11/30 10:22:43.71 2lrcE/C4.net
>>362
自分で調べることを忘れた奴らなんだろう。どうでもいいことなら適当な情報与えておけって。

365:人間七七四年
16/11/30 10:40:18.46 unEa3OAl.net
嫌儲板で鏃が話題になってたけど
何か鏃のちょっといい悪い話ありませんか?
イギリスのボドキン
URLリンク(fknews-2ch.net)
日本の鏃
URLリンク(kattyan.dyndns.org)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)

366:人間七七四年
16/11/30 10:44:40.18 3XLWPfr6.net
鳴け聞こう我が領分のホトトギス 加藤清正
なんてのもあったな

367:人間七七四年
16/11/30 10:53:52.03 RfqGlZIR.net
>>365
信玄の鏃

368:人間七七四年
16/11/30 11:34:17.01 x3WwMIBf.net
>>362
逸話を紹介できても意味が分かってないから説明に困るんでしょw
お前が上司じゃなくて本当に良かったよ。相談しても頼りにならないみたいだしなw

369:人間七七四年
16/11/30 14:19:54.78 tdjKy2vi.net
>>368
正純乙

370:人間七七四年
16/11/30 14:48:46.68 dEO+eURb.net
>>365
日本の鏃の真ん中の画像、上から4番目〜7番目のような
返しのある鏃を腸繰(わたくり)型と呼ぶ。
抜くときにハラワタが引っかかってえぐれるから。

371:人間七七四年
16/11/30 22:18:33.80 unEa3OAl.net
>>370
なにそれ恐ろしい
形ってただの飾りではなくて意味があるのか

372:人間七七四年
16/11/30 22:41:32.80 RfqGlZIR.net
信玄はさらに鏃を弛くして抜くときに体内に残るようにしていたと言われてる

373:人間七七四年
16/11/30 23:06:42.86 JUi9u7yG.net
>>369
無能乙

374:人間七七四年
16/11/30 23:15:10.70 uiJMe/8Y.net
武田の緩めた鏃って、そんなもの使っちゃいけないと咎めた神君称揚の逸話だと思われていたのが、
武田の古戦場後から本当に鏃が体に残った遺体が発見されて、どうも武田はガチでああいう事やってたらしいって
今はなっているな

375:人間七七四年
16/11/30 23:32:49.95 2Pwp47rE.net
武田を称揚する話はないのか
信廉あたりの逸話で

376:人間七七四年
16/12/01 04:29:29.58 tN7pLp6l.net
信長は9月11日(元亀2年)、勢多の山岡玉林斎(景猶)の所に
止宿しなさった。
「明日、叡山を攻め崩すべし」との旨を言うので、佐久間右衛門
(信盛)並びに、夕庵入道(武井夕庵)が達て諫言に及んだ。
信長は曰く、「去年、汝らをもって懇意の言葉を尽くしたが、承諾
の無い以上は、力及ばず」と、理を尽くして言うため、
彼らの考えは及ばず、各々は未明に出発致した。
―『当代記』

377:人間七七四年
16/12/01 22:59:04.45 IyntWyyL.net
>>375
>武田を称揚する話はないのか
>信廉あたりの逸話で
これがホントの逍遙軒?

378:人間七七四年
16/12/02 02:41:54.64 eDwPX00e.net
この頃(慶長15年5月)、京都の町人で米屋の“りうせい”という者は、
大御所(徳川家康)のご命令によって、ノビスバン(メキシコ)に渡海し、
売買を思うがままにして帰国した。
猩々の皮を多く持って来たが、金銀は聞き及んでいたほどではなかった。
とはいえ、他の国や他の島よりは多かった。
しかし、「かさねての日本人の渡海は無用」との旨を、ノビスバンの者は、
かたく日本人へ示した。
―『当代記』

379:人間七七四年
16/12/02 19:13:10.64 vLLxwyfB.net
歌舞伎の「盛綱陣屋」という作品のあらすじ読んだら(歌舞伎なので登場人物の名前を含め、本来は鎌倉時代が舞台)
大坂の陣で真田信之の息子が真田大助を生け捕ったため、信之が大助を家康に見せると家康は大喜び。
そこへ後藤又兵衛が乗り込んできて「大助はまだ子供なのだから返せ!」と言ってきたため
信之は又兵衛をとりあえず家康のところに送る。
思案した信之は、このまま大助がこちらにいたのでは弟信繁の戦闘意欲がそがれる、いっそ切腹させようということに。
信之は信之・信繁の母親の山手殿を呼んできて、大助に切腹をすすめさせるが大助は泣いて切腹を嫌がる。
そこへ大坂城から信繁の妻が息子を思って兵に変装して駆けつけるが、その光景を見てあせる。
そうこうしているうちに信繁戦死の報告。家康は信繁の首を持ってきて信之に首実検をさせる。
心中悲嘆に暮れる信之だったが、首桶のなかの首はなんと偽首。
しかし次の瞬間、大助が「ととさまのところに行く!」と切腹。
実は後藤又兵衛も幸村の母親も、大助がちゃんと計略どおりに切腹するかの監視役だった。
信之も大助の心中を察し、家康に「まさしく弟・信繁の首です」と報告。家康もすっかり騙される。
信繁ってこんな計略を使う武将だと思われていたのか・・・

380:人間七七四年
16/12/02 19:21:35.57 vLLxwyfB.net
訂正
実は後藤又兵衛も幸村の母親も

実は後藤又兵衛も信繁の妻も

381:人間七七四年
16/12/03 01:54:55.08 6W60OM/7.net
同月13日(慶長19年9月)、囚人の原主水正(胤信)が駿府へ来着した。
天主教の宗門に傾倒し、その災いを恐れて去々年に逐電、東国に隠れて
いたのを、(徳川家康の)御下知によって捜索して搦め捕ったものである。
すなわち町司の彦坂九兵衛(光正)にお命じになり、主水正の額に火印を
当てて両手の指を切り、「この者を挙用する輩は曲事である」との旨の
胸札を掲げさせて、追却しなさった。
ところが、岡越前守貞綱が主水正を介抱したとの旨がお耳に入り、
御糾明になったところ、倅の平内が良友の好みにより、
領地に抱え置いたのだが、越前守は存じていないとの旨を陳謝したので、
同19日に平内は改易なされ、貞綱は無事であった。
また、駿府の耕雲寺に主水正が寄宿したのを訴え出た者がおり、住僧を
放逐なさった。
―『関難間記』

382:人間七七四年
16/12/04 07:02:14.27 sRqYOh7K.net
槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子
>>345の続き
毛利隆元率いる吉田勢と吉川元春率いる新庄勢は仕寄をつけ井楼を組み上げ間断なく城を攻め立てた。
城中はたまりかねて、平賀新四郎隆保・大林和泉守が切腹することで
諸卒の命に替わりたいと申し入れてきたので、それを許可した。
平賀はいよいよ自害するときになって、介錯の者に向かい、
「私が合図するまで打つな。もし合図よりも前に打ったならば、悪霊になって憑り殺してやるぞ。そのときになって私を恨むでない」
と介錯の者に言った。
隆保は刀を抜いて西へ向かい、八識田中に阿字の一刀を下し、
「生死又截、涅槃又截」と唱えて腹を十文字に掻き切ると、臓物をつかんで手繰り出し、何度も切り刻んで捨てたけれども、まったく弱る様子がない。
新四郎は槌山城主の菅田たちに向かって、
「腹を掻き破ったらもう死ぬしかない。どうすれば私は死なないでいられるだろう。
硯と料紙をくれ。最後に歌を詠もう」と言い、
すぐに硯と料紙が整えられた。
隆保は硯を引き寄せ筆を浸して、歌を一首詠んだそうだ。
筆の勢いや墨の乗り方は、平常のときとまったく変わらなかったという。
「昔の物語でならこのようなことを聞いたことがあるが、
今目の前でこのような勇士を目にするとは」と、人々は皆舌を巻いた。
その後、新四郎は「さあ、首を打て」と言ったので、介錯の者は首を打ち落とし、隆保は漸く果てた。
大林はこれを見届けた後、腹を一文字に掻き切り介錯を受け隆保に続いた。
槌山開城の後、尾和秀義ら大内義隆から派遣されていた者らは皆帰され、これを受け志和の米山城に籠る天野隆綱は元就に従い大内義長に属する事となった。

383:人間七七四年
16/12/05 02:37:06.96 7mzLMEnB.net
この頃(慶長13年9月)、駿府にて毎夜、人を切ること甚だしかった。
金が掛けられ、申し出るようにとの旨が下知されたけれども、未だに
その沙汰もなかった。
また、日々喧嘩があって、互いに死傷に及んだ。
―『当代記』

384:人間七七四年
16/12/06 16:38:17.05 wFpqOVTa.net
ある時、伊達稙宗は飯尾尾張という武士を、相馬家への使者として遣わした。
この飯尾というのは伊達家において武勇の名があり、燐郡に隠れ無き者であった。
しかし相馬に到着すると、当主の相馬盛胤は病に伏しており、このため飯尾は、盛胤の嫡子であり
稙宗の娘婿である相馬顕胤の御前に召された。
この時、顕胤は味噌を調える下屋にいたため、その場所にて飯尾と対面した。
相馬家の家臣たちがあえて飯尾をこの場所に通したのは、こう考えたためだった
『飯尾は伊達にて武勇の名を得たること、燐郡にまで隠れ無き名誉の者である。
であれば彼は、相馬の大将は未だ幼いが早くも弓箭の心懸けがあり、味噌等にまで御心を
付けておられる、と感心するであろう。合戦を心がけるには、味噌は第一の物だからであり、
丁度ここに居られたのは幸いである。』
そうして対面は無事終わり、飯尾は伊達に帰ると、稙宗にこう報告した
「殿は姫様をお捨てになられましたぞ!今度婿殿を見てまいりましたが、自身で味噌の奉行を
していました。あのような体では、相馬の大将としていかがかと思います。」
そう尽く悪口をして、顕胤を貶めたのである。
(茶話記異?改選集)

385:人間七七四年
16/12/06 16:42:39.41 bJFgmhKY.net
>>384
ワロタw

386:人間七七四年
16/12/06 22:13:59.13 LSKo+3bE.net
>>384
まあ味噌のところで面会させたら普通そうなるわなw

387:人間七七四年
16/12/07 00:52:02.81 GpgXSUb1.net
副業:味噌屋の大将とか弱そうだもんな

388:人間七七四年
16/12/07 02:08:34.37 YRvVvTmk.net
顕胤の体格を見て、自分が顕胤に及ばないのを悟ったとき、貶める他ないと決めたんだろうね

389:人間七七四年
16/12/07 04:17:46.73 al9iUwlI.net
政宗「お味噌は大事なんやぞ」

390:人間七七四年
16/12/07 17:04:18.71 T1fueiDr.net
家康「せやな」

391:人間七七四年
16/12/08 08:50:13.30 1Y7hC+6p.net
相馬義胤13歳の時、小高城において能を催した。これは伊達稙宗が居城である丸森より
小高を訪問したので、その歓迎の為である。
稙宗はこの趣向に殊の外喜び、そのあまり即座にこう提案した
「私には秘蔵の娘がある。義胤殿をその婿にしたい。」
父親の相馬盛胤はこれを承諾し、その年、永禄2年にこの姫を迎え取った。この時姫は15歳であったという。
ところで、伊達稙宗の長女は、相馬顕胤の妻であり、すなわち盛胤の母であった。
その妹が義胤と結婚するということは、盛胤にとってこの嫁は叔母である。
昔はそういった義別が無い世の中だったという。
この本文には永禄2年で義胤13歳とあるが、正確にはこの年では12歳である。
但しこの嫁取りは永禄3年だったのではないか。
(茶話記異説改選集)

392:人間七七四年
16/12/08 22:25:27.26 J91C5wri.net
江戸御城は、道灌のみに非ず。高虎縄張の事併道灌風流、桜楓の事
 ある人が語るには、
江戸の御城は、初めは太田道灌が興したというので今は何事も道灌に帰しているようだが、
道灌が築いたのは今の西の丸で、御本丸は藤堂高虎と諮られて御新築されたという。
よって『駿府政事録』には、"新城"とあるのだそうだ。
 また道灌も流石は風流人であって、
今の桜田という辺りには多く桜を、今の紅葉山という地には楓樹を植えて、
春秋の詠を専らとしていたという。
今増上寺の門前に流れている小川を桜川と呼ぶのも、その源泉は桜田から出ているので、
その年からこう言っているのだという。
 この事を林老(述斎)が聞くと
「桜楓のことは同意しない。桜田はもとから村の名で桜を植えたからではない。
御城外の桜田から今の桜田町まで行程はかなりある。
その年にどうして一年間で花木を植えることができようか。
また紅葉山は駿府に有った名を移されたものである。」
と話された。
(甲子夜話続編)
松浦静山の頃には、かなりの誤伝が広まっているのだと思われます

393:人間七七四年
16/12/09 17:31:50.90 GsXykw4v.net
塩冶興久の化け物退治
尼子経久の三男で塩冶氏に養子入りした塩冶宮内太輔興久は不孝・不義の人ではあったが、心栄えは大変勇敢で、
戦えば勝ち、攻めれば落ちないことはなかった。その勇猛さを示すエピソードにこの様な話がある。
月山富田城の甲の丸には桜の間、柳の間という部屋があり、そこは狩野小法眼による柳桜の絵で埋め尽くされていた。
鬼神もその絵に深く魅せられたようで、その部屋はいつしか魔物の出る部屋となった。
何百人もの人が、そこで化け物にたぶらかされ、あるいは気違いになりまたは行方知れずとなってしまい、次第にそこに近づく者はいなくなった。
興久はこの話を聞くと、
「なに、そんなことがあるものか。見る人間が怯えるからこそ、見えるはずのないものが見えたり視界を遮るような気がするのだろう。
一翳眼に在れば空華乱墜す(そうかもしれないと思ってしまえば、眼の中の翳りのように妄想が次から次へとわいてくる)と言うではないか。
吹毛剣について珊瑚枝上の月光を愛でるような心持ちであれば、化け物などどうして現れることがあろうか。
吹毛剣は怜悧な霊光を放って外道天魔といえども手出しができないのではなかったか。私がその変化の者をこらしめてやろう。きっと古狐か古狸が化けているのだろうよ」
と、たった一人でその部屋に向かった。
上座に胡坐をかいてあかあかと明かりを灯して待ち受けたが、宵のうちはとりたてておかしなことも起こらず、
ようやく午前三時くらい(丑三つ時)になって、風がそよそよと吹いた。風は気持ちの悪い冷たさで、しきりに胸騒ぎがするので興久が「これは不思議なことだ」と思っていると、
庭に散り積もった木の葉をハラハラと踏みしだく足音がした。垂木の上にドスンと上がった音がしたと思うと、すぐに妻戸がキリキリと押し開かれる。
「さあ、例の古狸めが、人をたぶらかしに来おったな。ほかの者はどうあれ、この興久は化かされないぞ」
と、外のほうをじっと睨みつけていると、歳は八十を越すかと思われる老婆が二人の童子を伴い姿を現した。
老婆は曲がりくねった茨が雪に埋まっているかのような頭髪を上のほうで結ってカッと乱し、
目は一つだけ鏡を額にかけたようにあって、太陽や月よりもなお明るく光っていた。
鼻は長く垂れ、歯は黄色く上下に長く生え違い、ことさらに両脇の牙は鋭く、剣樹のようであった。
唇は血の池のような赤であり、口は左右の耳まで裂けて、息をするたびにすさまじい煙が風にほとばしる。
両腕に猪のような毛がびっしりと生え、爪は鷹のように長く曲がっている。
破れた衣を着て、大きな竹の杖をつき、十一、二歳くらいの童子二人に手を引かれて、
興久に近寄ってくるのだ。
「ああ苦しい。老いて衰えることほどつらいものはない。これでも十六歳になるまでは、華のかんばせと評判で、
楊貴妃の眉よりも西大后の紅顔よりも美しかったというのに。朝には鏡に向かい眉を書いて容貌を磨き、暮には鳳のかんざしを取って
蝉翼(蝉の羽のように美しく曲げ整えた髪)に仕上げて優美な容色に整えたものじゃ。
いつのころからか老いが日々重なってゆき、容貌が衰え体がだるくなっていくばかりでなく、
孤独で貧しい身の上じゃ。肌を隠す衣もなく、朝晩食べるものにも事欠く有様で、
砂を噛んで水をあおるほかに、飢えを紛らわす方法もありはしない。ああ苦しい。めまいがする。胸も苦しいぞえ」と、
しわがれ声を震わせて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と老婆が呟く声が聞こえた。
さしものつわもの興久も、身の毛もよだつほど恐ろしく感じたが、少しも騒がずにいた。
この老婆は興久をキッと見て、「おやおや、こんなところに殿御がいらっしゃる」と、かしずいた。
「さてさて、お若い御大将、ようこそここにいらっしゃいました。ここにはこの老婆が折りにつけて参っておりますので、人は皆、
『老いさらばえた老女の顔の醜いことよ、聞き苦しい言葉つきよ』などと言って、私を怒らせたものです。
それだけでなく、このごろは一人としてこの座敷に近づきません。この老婆も、年老いて心細くなってまいりましたので、いっそう人恋しく、
昔話の一つも誰かに語って聞かせたいと思っておりました。よくここにいらっしゃいましたなぁ。昔の迦葉仏のときのことまでよく知っている老婆でございますよ。朝まで昔語りをして差し上げましょう」と
老女が言っても、興久は返事もせず、大きく開いた目でじっと老女を睨みつけていた。

394:人間七七四年
16/12/09 17:47:35.87 GsXykw4v.net
老女は「この殿御もこの老婆の面相が醜いと思っているのじゃろう。声をかけても返事すら返さぬとは。おまえたち、行ってあの方の御足を揉んで差し上げなさい」と、傍らにいた童子に命じた。
一人の童子が「かしこまりました」と老女のそばを離れ、興久の足元に座った。
興久はこの童子を斬ろうと思ったが、「待てよ、どんな化生の者といっても、
私の力なら、殴るだけでも眩暈がすることだろう」と思いとどまり、
拳を堅く握って童子の頭をしたたかに打った。
すると童子は老女の元に走り帰って、「ばばさま、あの方が殴ってきました」と泣きつく。
老女はもう一方の童子に「ならばおまえが行ってまいれ」と命じ、この童子も興久に近寄ってくる。
興久は少しも怯えていないところを見せてやろうと思ったのか、「童よ、ここに来い」と声をかけた。
ソロソロと寄ってくる童子を引き寄せ、膝の上に抱きかかえると、大きな石のように重い。
たまらず童子の頭を続けざまに二度打って、乱暴につかむと「えいやっ」と放り投げた。
老女はこれを見て「こんなにいたいけな子供たちに、なんと思いやりのないことをするのですか。お恨みいたしますぞえ」と怒ってつかみかかってくる。
「これはかの有名な三途の川の脱衣婆か、安達が原の黒塚に棲むという鬼が現れたのに違いない。そうでなければ山姥というものだろう」と、興久は魂が抜けそうなほど仰天した。
真っ黒な手を伸ばして頭をつかもうと飛び掛ってくるところを、それでも少しも声を上げずに、腰に挿していた初桜という刀を抜いて、
眉間と思しきところを、二度続けて斬りつける。
「アッー!」という声がしたと思うと、辺りが雷のように光って、老女と童子たちは虚空へと姿を消した。
「どんな妖狐や古狸の類であろうと、あれだけ思う存分斬りつけてやれば、
そう遠くには逃げられまい。早く夜が明けぬものか」と興久が待っていると、
東の空が白々と明るくなってきた。
早速若党たちを招集して、「昨夜、妖怪変化を斬ったぞ。跡をつけてみろ」と命じるが、
目印など何もないので、若党たちもどこを探していいかわからない。
興久が言うには、縁の下に入ったように思うとのことだったので、
縁の下にもぐってみると、大きな穴が見つかった。
そこでその穴を広げ、三間(5.4メートル)ほど掘り進むと、
底から高さ九尺(2.7m)くらいの五輪塔と、二つの三尺(90cm)程度の五輪塔が掘り出された。
その三尺の五輪の頭には血がついている。
これは、興久が拳で殴った際に、指の皮が破れて出た血が付いたものだろう。
また、九尺の五輪には頭に刀傷が二つあった。

395:人間七七四年
16/12/09 17:47:50.04 GsXykw4v.net
塩冶は言う。
「その昔、唐の国に王伯通という人があった。屋敷を一軒建てたが、そこに泊まった人は必ず死んだという。
伯通はしかたなく門戸を閉ざして誰も泊まらせないようにしていた。
嵆康という人がやってきて、どうしてもそこに泊まらせてくれというので屋敷の中に入れたところ、
嵆康は夜になってもずっと琴を掻き鳴らしていて、
真夜中(午後十一時ごろ)になると嵆康の前に八人の鬼が現れたそうな。
嵆康は最初こそ怯えて乾元亨利貞(法呪のようなもの)を唱えていたが、数度唱えた後で鬼に問いかけた。
『王伯通がこの屋敷を建て、人が泊まることがあると必ずその人は死んでしまうという。おまえたちが殺したのか』
すると鬼は、『まさか、私が人を殺すなんて、とんでもない。
我らは舜(中国神話に登場する賢帝)の時代に、楽をつかさどる官吏だった。
兄弟が八人いて、伶倫という者だ。
舜は、邪な佞臣の注進を受けて、我ら兄弟を無実の罪で殺してここに埋めたのだ。
王伯通が我らの塚の上に屋敷を建てたので、重くてかなわない。
だから、人が来て泊まってゆくのを見ると、その人にこのことを伝えようとしたのだが、
人は皆我らを見て肝を潰して死んでしまう。殺そうと思って殺したわけではないのだ。
先生にお願いしたいのは、伯通にこのことを伝えて我らの骸骨を掘り起こし、
よそに葬りなおしてほしい。そうすれば、半年後に伯通は本国の太守となるだろう。
先生には、広陵の一曲を教えて進ぜよう。訴えを聞いてくれたお礼だ』と言った。
嵆康は大変喜んで、持っていた琴を鬼に与えた。鬼が一度弾いただけで嵆康はすっかり覚えてしまったという。
さて、夜が深まり、心配になった伯通が屋敷に様子を見に行くと、
嵆康が掻き鳴らしている美しい琴の音を聞いて、どうしたことかと嵆康に尋ねた。
嵆康から先ほど起こったことを詳細に聞き出すと、伯通は翌日すぐに人夫を手配して地中を掘らせる。
果たして、ついに骸骨を見つけた。
別に棺を作らせて、清浄な場所に葬ったそうだ。
後晋の文帝が即位すると、伯通は鬼の予言の通りに太守となり、嵆康は中散大夫に昇進したとな。
私が思うに、この骸骨も伶倫と同じようにこの家に押し潰されて、苦しくなって姿を現したのだろう。
よそに移して手厚く葬れば、私も末は一国の守護ともなろうよ」
興久はそう決めて、通安寺の墓所に埋葬した。
その五輪塔の下に埋められていた者は、生前の宿業が深く四生六道に迷うだろうと、
如形の供養までしてやったという。
(陰徳記より)
長文スマソ

396:人間七七四年
16/12/09 18:36:01.08 GsXykw4v.net
追記
本堂平四郎、東雅夫著・怪談と名刀/1の富田城怪異の間、初桜 光忠の話として、同じ話が載っています。
そちらによると柳桜の絵の作者は狩野小(古?)法眼ではなく、雪舟ともただの貧僧とも
また、興久が退治する以前の妖怪の為した祟りが生々しく描かれています。

397:人間七七四年
16/12/09 19:00:50.99 4pniS/q8.net
>>393-396
そのまま日本昔話で放送してもおかしくないクォリティ


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