戦国ちょっと悪い話44 ..
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269:人間七七四年
16/11/01 17:53:18.23 FXCUFiSz.net
慶長5年8月10日、会津・上杉征伐の途中、江戸にあった徳川家康はこの日、非常に機嫌がよく、
午の刻(正午ころ)に「鶴を料理しよう」と、鍋を持ってきてそれを火にかけ鶴鍋を作った。
前には本多中務(忠勝)、某、全阿弥の3人が呼ばれ馳走され、特に中務は暖炉裏の家康の
すぐ近くに座っていた。
この時、どこから到着したのか、いかにも細かく書かれた書状が家康に渡された。
家康はこれを読んで、誰へともなく呟いた、「伏見城が、落城した。」
そして西の方を見て、はらはらと泣き始めた。
本多中務はこれを見て、御前を走り出て、次の間に逃げた。
全阿弥も逃げ、某も逃げた。
その後家康は、「中務はいるか?」と思って探した所、殿中からそのまま宿舎の方まで退出したと
いうことであった。
(慶長年中卜斎記)
家康が鶴鍋を前に泣き出したら何だか知らんが忠勝はじめみんな逃げた、というお話

270:人間七七四年
16/11/01 18:06:12.45 rD+ufxCs.net
一体どんなめんどくさい泣き方するんだろ

271:人間七七四年
16/11/01 20:00:44.57 Iubn3vBM.net
忠勝が走って逃げるほどヤバい状況になったのか

272:人間七七四年
16/11/01 22:42:42.41 80crETN7.net
感情が昂って脱糞だろうな

273:人間七七四年
16/11/01 23:21:48.40 CJYMPgVy.net
そらもう、とりい乱しちゃうんですよ

274:人間七七四年
16/11/01 23:28:30.91 SYhha0a6.net
「卜斎記」といえば、
会津攻めの前、伏見城の千畳敷で家康が笑ってた話を思い出す

275:人間七七四年
16/11/02 15:16:03.06 Ih9U6azj.net
>>269
なんで逃げるんだよw気を遣ってさがったにしても逃げるって表記が面白い

276:人間七七四年
16/11/02 15:27:11.53 XeQ0r+Kz.net
>>273
評価する

277:人間七七四年
16/11/02 20:54:16.38 /RmjyhkS.net
>>273
やりおるのう
お味噌進呈いたす

278:人間七七四年
16/11/05 01:14:15.22 ueBpyrnR.net
氏家内膳宅趾
 領邑平戸城の西北一里余、神埼という山の北、海に向かった所の人里を離れた地に"あぼ"という名がある。ここには"どうこく"という所がある。
思うに人名で〔今文字が詳しくなく、ただその唱に依るしかない〕、今はその廃宅の跡がある。
宅の辺りには石垣がなお存在する。その渓間は小竹が生い茂り、人が窺う隙がない。
 さて近頃聞いた話では、この地は氏家内膳正(行広)が関が原の戦に利なくなった後に
西国へ下ったときにこの所に潜伏し名を変えて住んでいたという。
しかし大坂陣起こったときにこの地を去ってしまい、その跡がなくってしまったそうだ。
きっと大坂に赴き与したのだろう。この後廃宅となったと。
 案ずるに、『武事紀戦略考』に、
「九月十五日の暁、長束大蔵大輔正家、関ヶ原を落ちて大嶋にいると聞いて、
道阿弥が手勢三百ばかりで大嶋に押し寄せ、大いに戦った。
長束は敗軍して逐電した。〔大嶋は長嶋かた二十余町南北。〕
十六日、山岡はまた桑名に押し寄せた。氏家内膳正行広は和を乞うて城を渡した。
〔桑名は長嶋から二十四、五町南〕
それから山岡は、また神戸に赴いた。」
との記述がある。同書によると氏家常陸介入道卜全〔濃州大垣城主〕は、美濃斎藤家三人衆の一人であるそうだ。後に信長に従って、度々の戦功があったとか。
(『石卵余史』巻十には、
「桑名の城主氏家内膳正兄弟は、彼方此方に忍び、
後に御侘びすると口では言っても、内心は御憎み深く、
内膳正は池田輝政に、志摩守行継は福島正則に御預けられたが、
後に慶長十九年大坂陣の時内膳正も籠城した。その時は萩野信濃守と号した。」
と書かれている。)

『武功雑記』には、
元亀三年、信玄、遠江へ出張の条に、
「信長公から権現様へ加勢として、一番手平手中書(汎秀?)、二番手佐久間右衛門尉(信盛)
三番手大垣の氏家常陸入道卜全。」
と記述してある。卜全は思うに行広の父であろう。
(甲子夜話)
わざわざ平戸くんだりまで潜伏する氏家さん

279:人間七七四年
16/11/08 06:43:10.14 haaJnWgE.net
月次の連歌会があった。
宗長のおられる席の末座から弟子である人が句を詠んだ。
決まりに触れたこともなく、書記が記録している様子をみて
『さては今の句はよく出来たのだな』と思い、
気をよくして宗長に対して手をつき、
「どう聞こえましたか」
と問うと
「中々よく聞こえた」
と言われた。
しばらくたった後又一句詠んだ。
その句も記録されたので、ちと思いあがってまた手をついて
「どう聞こえましたか」
と言うと宗長は
「聞こえた。そこからここまでよ〜く聞こえた」
と返された。
(醒睡笑)

280:人間七七四年
16/11/08 09:49:47.06 4jJkcgOV.net
つまり「凡人」判定だったと?

281:人間七七四年
16/11/08 20:32:26.56 ZmqVOuEJ.net
天正15年、伊東祐兵は豊臣秀吉より飫肥を拝領したが、島津家の将である上原長門守(尚近)は飫肥城から
退去せず、引き渡そうとする気色もなかった。
伊東家はその年の8月初めより川崎又右衛門尉を大将、川崎宮内左衛門尉を副えて郷原水城に陣を取り、
上原を説得したが、彼はこれに従おうとせず、あまつさえ8月10日には軍勢を出して、郷原において
苅田を行った。
伊東勢もこれに打って出て、飫肥城勢を広木田まで追い詰め、大勢を討ち取って引き上げた。しかし味方にも、
桜木藤七兵衛尉、海老原清左衛門尉の両名が討ち死にした。
この事は豊臣秀吉に報告され、秀吉は早速、土井九右衛門尉を上使として飫肥に差し下した。
土井九右衛門尉は豊臣家の朱印を持って、同年12月13日、飫肥に到着した。
彼は上使であったので一の城戸を騎乗のまま乗り通り、二の城戸まで乗り通ろうとした所で、
上原の門卒たちが「乗打無礼なり!」と腹を立て、九右衛門尉を始めとしてその一行のうち13人を
惨殺した。その時は伊東家からも、平原河内守、松浦甚助が案内者として同行していたが、平原は
殺され、松浦は生け捕りにされ、のちに解放された。
上原長門守は門卒たちの濫妨を聞いて驚愕した
「上使を殺した罪は逃れがたい!お前たちは私の首を斬ったのと同じであるぞ!」
そう悔やんだが及ばず、程なくこの事件は秀吉に聞こえた。
秀吉は激怒し、即座に上原長門守を召喚した。
上原は、とても逃れられないと思ったか、嫡子城之介を名代として大阪に上らせたが、上使を殺した罪により、
この嫡子が斬罪となった。
飫肥城は天正16年閏5月3日、伊東家に引き渡された。
(日向纂記)
島津家の上原尚近、よりによって秀吉の上使を無礼討ちにしたというお話。

282:人間七七四年
16/11/08 23:42:29.86 RvUCPlAS.net
息子を斬らせて助かるなんて…

283:人間七七四年
16/11/09 04:27:01.27 LHaGcvNP.net
???「子供なんていくらでも産めばいいのよ」

284:人間七七四年
16/11/09 04:55:48.51 oIThLz4f.net
何そのカテリーナ・スフォルツァ

285:人間七七四年
16/11/10 11:25:31.29 K23paop2.net
芸州寂静寺デイウス画像の事
 寛政己酉(1789年)、予は東勤のとき、安芸の怒田本郷駅に宿泊した。
この所に寂静という親鸞宗の寺がある。
予の医者がここに宿泊したときに、その住職が語った話である。
 寛永の肥前天草一揆騒乱のときにあたり、ある僧がどこからとなくこの所に来て説法講談した。
聴者の群集は日ごと多くなった。
ある時にその僧はついに耶蘇の法をすすめ、信じる者が多くなったので、
領主からかの僧を捕らえ、東武へ連れて行ったそうだ。
 かの僧が置いていったデヰウスの画像が今も本郷禅宗の寺にあるという。
この事を語った僧も見たそうだ。
その像は阿弥陀のようで威霊があったと。
奇聞である。
 天草に凶徒蜂起のとき、安芸にこのような事があったとは
世人に知らないことである。
(甲子夜話)
デウス像見たいなあ

286:人間七七四年
16/11/10 23:19:34.25 K23paop2.net
摂津国高槻の城主である和田という侍。
信長公の御前で出世し出世頭となった。

信長のきてはやぶるる京小袖     わたがさしでてみられざりけり
信長から貰ったため着過ぎて破れてしまった京小袖 
綿が出てきて(和田が出しゃばって)見られないものになってしまった
                                  
(醒睡笑)

287:人間七七四年
16/11/11 02:18:29.80 1jlJkqVM.net
今日は鮭の日なので、鮭様関連の話を一つ
※原文準拠
最上駿河父之遺跡を受て後
駿河守家親(最上家親)父の遺跡を受て後 日々に花車を好み 双六鞠俳諧に日を送り 殿宅に金銀を鏤むを 諸人諌めける
昔時源頼朝公政道正敷諸士に情深かりしが共 御子右衛門督頼家政道宜しからず
終に弟の実朝に殺れ玉ひ 実朝は頼家の子悪禅師公暁に討れ 頼朝父子三代治世纔四十余年にして亡びぬ
是頼朝平家を亡さんと多くの人の命を断し故 其積悪子孫に報ふて断絶せり
去れば義光も頼朝の如く政道正敷 万民に情深く 寺社を敬ひ其領を寄付し 古今に稀なる大将と云へ共
以謀略多くの領主を打亡 栄花身に余ると云へ共 其積悪子孫に報ふて 源五郎(最上家信=最上義俊)殿御代に至て没落せり
彼頼朝父子の古へに不異
家親御行跡宜しからざる由 三浦上総助御諌言申ければ 御腹立有て終に切腹被仰付けり
延沢能登守(遠江守延沢光昌の誤り)楯岡甲斐守(楯岡光直)御一門顔にして御異見無れば 最上家の家の可亡時節至来と見へたり
去れば聖人禍福将に至らんとし善必先知之 不善必先之を知と云り
孔子も国家将に興らんとし必禎祥有 国家将に亡んとし必妖□(けつ=草冠に辟)有と 云り
「信辮手記」等

288:人間七七四年
16/11/12 12:45:58.55 ase/33+1.net
さて、どんな悪い話になるのかw
URLリンク(mogamiyoshiaki.jp)
【お知らせ】歴史秘話ヒストリア「最上義光と義姫(仮)」
歴史秘話ヒストリア「最上義光と義姫(仮)」
NHK総合テレビジョン
放送予定日 平成28年11月18日(金)20:00〜20:43
※北海道→11/26(土)10:05〜10:48
※福島県→11/27(日)13:05〜13:48
※高知県→未定

「戦国一のワル?最上兄妹の素顔」
戦国一「邪悪」と言われた山形の武将・最上義光と妹・義姫。
しかし新たな史料からその素顔が明らかに。
大河ドラマ「真田丸」と同じく家族・故郷を大切に生きた武将の物語。
NHKオンライン「歴史秘話ヒストリア」より
2016/11/10 10:00 (C) 最上義光歴史館

289:人間七七四年
16/11/13 00:58:06.85 ixMh2+he.net
イスラム人種差別→撤回
オバマ批判→会ったら丁寧
大統領選までの言動が大人の対応に変わっとるトランプって
斎藤道三に会いに行ったときの織田信長みたいだよな

290:人間七七四年
16/11/13 23:27:31.06 2jXX2utE.net
支持者は納得してないだろw

291:人間七七四年
16/11/14 00:55:44.29 5M7DLXjN.net
?東寺観智院密教御朱印の事

 東寺の観智院に、真言密教の疏が百冊入っている箪笥が五百あった。
神祖の命があり
「密教なので門外不出にするべし。
ただし高野はその本なので、ここには送るべし。」
との御書付が今も有るという。
またこの経疏により永伝の料として別に五百石の御朱印を下されたという。
これは普門律師(円通)の語ったことである。
 どうして神祖の御事は何もかもこのように広大なのかと敬感される。
しかし律師が言うに
神祖の命もこのようであったが人情は釈徒も同じことで、
東寺はついに高野に送らず今に及んでいるとのことであった。
(甲子夜話)

東寺と高野山の仲がちょっと悪い話

292:人間七七四年
16/11/14 20:19:39.54 C207vzPJ.net
高麗の役の時、太閤秀吉は肥前名護屋に御座し。加藤清正は高麗へと派遣された。
この頃、肥後と薩摩の国境に佐布という城があった。清正はそこに、加藤与左衛門という者を
置いていたが、この時は与左衛門も清正に従い高麗へと赴いた。
その後に、薩摩の地より一揆が起こって、この佐布城を乗っ取った。
一揆の大将は梅北宮内左衛門(国兼)、東郷甚右衛門という者達であった(梅北一揆)
しかし佐布城には留守居として、井上弥一郎、酒井善左衛門という者が残されていた。
彼らは謀って一揆の大将を討ち取り、城を取り返した。これは天下無双の功名であった。
この一揆が起こったゆえに、秀吉の高麗行きも中止に成った。当時それほどの大事件だったのである。
井上、酒井には殊の外の褒美、感状が下された。
井上弥一郎は肥後にあって知行千石。肥後加藤家改易のあとは、青山大蔵の元で隠居分となり、
その子に三百石が与えられた。最近になって死に、今は孫の代になっているという。
実は太閤秀吉は井上、酒井の功を感じ入り、さらに高い知行を与えようとしたのだが、
これは石田三成が遮って止めたという事である。
(老人雑話)

293:人間七七四年
16/11/14 22:28:59.24 +JFwenuX.net
全方向に敵を作るスタイルの三成www

294:人間七七四年
16/11/15 10:02:08.52 BlZItxjU.net
うわあぁ

295:人間七七四年
16/11/15 11:02:07.77 VCJjAYaY.net
元々加藤を敵に回してるんだからその手下くらいなんでもないんだろ

296:人間七七四年
16/11/15 11:46:41.33 746nQs1x.net
この程度で天下の大事だったら九州で一揆起こし放題だな
三成はたいしたことねーよと言ってこれ以上の内乱をおさめたのさ

297:人間七七四年
16/11/15 11:52:10.79 VCJjAYaY.net
乾煎り中の秀吉名護屋在陣のときに九州で大規模な叛乱あったら大事だと思うが…

298:人間七七四年
16/11/15 14:30:49.92 zN7Iv9r2.net
戦国時代の武将って結構妖怪と遭遇するよな。
政宗座敷童子、家康肉人とか

299:人間七七四年
16/11/15 16:08:51.54 8GREXPLx.net
肥後の北側を清正が、南側を行長が統治してたって認識だったんだけど
薩摩に近い佐布は清正が統治してたの?

300:人間七七四年
16/11/15 16:37:19.62 746nQs1x.net
>>297
その一揆が契機となって大規模な物へと発展することはあっても二人で鎮圧できた一揆なんて大したことないよ
そんなんで褒美与えてたら急所を敵に知らせるようなものです

301:人間七七四年
16/11/15 23:04:18.80 02+9kijt.net
甲州伝目つぶし之法?活薬

 会談で、小幡勘兵衛景憲かた伝わる目つぶしの法として聞いた。
『蛍火 山蔭のたにし 青とかげ ムカデ 馬の目〔馬の目をほりとったもの〕
各等分にして卵の中皮?に入れる』
 これは大いに験がある。投げて胸や四肢に当たればそのところはたちまちしびれて、
手は揺らすことができず、胸は気が塞がって身を動かせない。
また鼻口に当ればすぐに絶倒するという。
聞いた話だが、これも甲州の伝で基本信玄から出たものだという。
信玄は毒矢を用いたことはこれと似ている。
またこれに遭った者のための活薬がある。
『塩 ひき茶』
この二物をといてその当った所に塗れば、すぐにその毒気が散って動揺が生じる。
また絶倒したら湯を加えて服させたら回復するという。
(甲子夜話)

信玄がなぜ塩を断たれたら困るのかが分かりますね〜

302:人間七七四年
16/11/16 08:38:58.73 GV3HsWUU.net
気持ち悪いものを投げて当たったら塩と茶を塗れとか
小学生かっ

303:人間七七四年
16/11/16 11:16:58.83 LWmC7QHM.net
        ::::::::::::::::∧口∧   そうやってなんでも
        ::::::::: ( ::;;;;;;;;:)      信玄の発明にしてりゃいいさ…
          _..  /⌒:::;;;;;ヽ
-― ―'ー'-''―-''/ / ::;;;;;;;;:| |―'''ー'-''―'`'
 ,,  '''' .  ''''' と./ゝ_;_;_ノヽつ   、、, ''"        
    ,,, ''  ,,,    ::;;;;;;;;;::: ,,  '''''  ,,,,  

304:人間七七四年
16/11/16 16:34:37.11 WRGo2PvK.net
いい話の方で軍記物の話が出てましたが、やっちゃった感について一例を。
1609年の薩摩の琉球攻略についての軍記物を「薩琉軍記」と総称して研究が進められていますが、
そのうち、目黒将史「架蔵『島津琉球合戦記』解題と翻刻」から。(PDFで閲覧できます)
某板某スレで火葬戦記と評されていましたけれども、これは酷いw
琉球は基本的に異国・異世界扱いで、三国志演義の南蛮討伐と世界観が同じようなものですね。
実情はともかく、日本でイメージされていた講談での中国世界そのまま。
島津勢の総数が10万5873、これがまた一々武将名と軍役を挙げてディテールに妙にこだわってる。
対する琉球は高さ34丈の城門など、4里四方の王都に3万騎の軍勢で守備し、もちろんその他にも
相当数の軍勢です。
戦の展開はもうどうでもいいようなもんだけど、戦後の論功行賞で、薩軍が討ち取った首級が2万9307、
損害が1843とか。
数のインフレも異世界だとあんま難しいこと考えないでいいのかなあ。
立教大学学術リポジトリ  目黒将史 架蔵『島津琉球合戦記』解題と翻刻
URLリンク(rikkyo.repo.nii.ac.jp)

305:人間七七四年
16/11/16 16:36:05.72 WRGo2PvK.net
実際の薩摩の琉球攻略の研究では、沖縄の研究者によって最近いろいろと本になったり、歴史雑誌に載せられたりとありましたが、
実のところ史料の扱いに疑義が呈されていたりしますんで難しいものですね。

306:人間七七四年
16/11/16 18:04:58.30 1rlij8XH.net
>>304
ちょうど今、沖縄に住んでるので興味深いです。
薩摩藩の琉球侵攻についての入門書的なものご存知でしたら、ご教授いただけませんか?

307:人間七七四年
16/11/16 19:20:28.25 cznpWbrV.net
いまの沖縄の人の研究話はそれこそフロイスと同じで話し半分で聞く程度でしかないんじゃ

308:人間七七四年
16/11/16 20:17:46.41 LDUIBqx2.net
>>306
とりあえずこれが一番いいと思う
琉球王国と戦国大名 島津侵入までの半世紀
URLリンク(www.yoshikawa-k.co.jp)

309:人間七七四年
16/11/16 20:19:47.78 Iqooltxr.net
>>306
まず読むならばこれでしょうか。
上里隆史『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』
著者の出世作で、島津の琉球侵攻が注目される嚆矢ともなりました。
ところが、戦時の当事者の書いた一次史料だけではなく、後になって政治的思惑や顕彰目的で書かれた文書まで
無批判で取り入れているんじゃないかとの批判が出てきました。
琉球王国〜その真実の歴史
URLリンク(blog.livedoor.jp)
それを検証したのがこちらのサイトですが、管理人はかなり基地外入った人(本人が自称してるから構わんでしょう)
ですけれども、その論考は確かな説得力があるので評価を得ています。
上記の本を読んでから、サイトに目を通して見ればいいと思います。
それに補足して、>>308も目を通しておけばいいんじゃないでしょうか

310:人間七七四年
16/11/16 23:35:16.70 7/SL5c8d.net
島津の琉球侵攻って
琉球王朝が元亀年間に奄美に侵攻した逆襲じゃないの?

311:人間七七四年
16/11/17 07:51:37.39 GDJQT7/A.net
>>310
そりゃ反応遅すぎだろ

312:人間七七四年
16/11/18 00:02:23.28 gKlDuncp.net
天吹(テンプク)という薩摩で伝承された縦笛があり、薩摩の武士の間で大いに愛され、吹かれていた。
名称の由来は、大祓いの祝詞「天の八重雲吹き放つことの如く」からきているとも言われている。
一番盛んだったのは、戦国の頃といわれ、戦国ちょっといい話・悪い話まとめ にも
島津の退き口と北原掃部 URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
天吹についての話が載っております。今回は細部が少し違うバージョンを紹介します。
関ヶ原の合戦に島津方として参加した武士に北原嘉門助をいう者がいた。
島津の退き口の際に、家に代々伝わる天吹を陣中に置いてきた事に気付き、
「このまま置いていっては先祖に申し訳がたたぬ」と彼は天吹を取りに戻りますが、
東軍の兵に捕らえられてしまいます。
「何故、戻ってきたのか?」と問われ「笛を取りに戻ってきた」と答えると
「薩摩にもお主のような軟弱な者がおるのか」などといわれ、首をはねられることと
なってしまいましたが、
「この笛を取りに戻ってこのようなことになったのだ、せめて最後に一曲吹かせて欲しい」と言い
天吹を吹くと、その音色と北原嘉門助の堂々とした態度に東軍の者たちは感嘆し、
首を刎ねる事もあるまいとの意見が出てきました。
このことを知った徳川家康の側近の山口直友は「このような者を死なせるには惜しい、薩摩に戻して
やってもいいのでは」と考え、家康に進言しその結果、北原嘉門助は薩摩に戻ることが出来、
彼の命を救った天吹は「助命器」と銘打たれて大切に保管されたという。
・・・これで話が終われば好かったのだが、薩摩に戻った北原嘉門助は
「自分は首を刎ねられるはずだったから」と切腹して果ててしまいました。
一方「助命器」の方は江戸末期までは大切に保管されていましたが、明治になり北原家に
嫁いで来た若奥さんが、ごみと間違え燃やしてしまうという悲しいことになっていました。
※鹿児島市の城山にある西郷隆盛像と忠犬ハチ公像(初代)を手がけた安藤照氏の母方の実家が
北原家になります。(忠犬ハチ公像(2代目)を手がけたのは息子の安藤士氏)
(「明治維新150周年まであと2年!薩摩アフタヌーンティーパーティ」というイベント内で
あった「薩摩の楽器「天吹」700年で知る島津の歴史シンポジウム」での話より)

313:人間七七四年
16/11/18 01:20:52.31 43f1UwnJ.net
島津の琉球侵攻と関係ないけど小説の琉球処分は面白かった
著者が琉球政府、沖縄県庁の経済や歴史編集役人を経て沖縄県立博物館長だったので
太政官政府より琉球寄りかもしれないが冒頭は寺田屋事件生麦事件に関係した
奈良原繁が琉球へ赴いたことも書かれており面白かった
もっとも幕末の奈良原繁のことは触れず官吏としてしか書かれているに過ぎないが

314:人間七七四年
16/11/18 09:14:27.63 JKeteUbK.net
>>312
なんというまさにちょっと悪い話
やっぱお宝というものはものものしい器に収めとかないと駄目ってことね

315:人間七七四年
16/11/18 17:02:34.45 865MJPbR.net
>>312
せっかく拾った命を捨てた過ちを燃やして浄化されたのだ

316:306
16/11/18 18:22:17.68 iAUdVKIa.net
皆様、情報提供いただきありがとうございました。
ご紹介いただいた書籍やウェブサイトに目を通していきたいと思います。

317:人間七七四年
16/11/18 19:46:27.75 7E1FHg/r.net
宇喜多殿というのは、元来備前の武士であった、当時は浦上という者が備前美作領国の主人であり、
宇喜多直家は浦上の家臣であった。しかしこの直家は悪性の人物で、国郡を持つ人と縁者などに成り、
後に殺して奪い取ることを度々した。浦上も殺して、遂には備前美作の主となった。
八郎殿(秀家)はこの宇喜多直家の子である。太閤秀吉と親密な関係に成ったのは、秀吉が備中高松の
城を攻めていた時、明智反逆の事が知らされたが、引き取りたいと思っても自由にならない状況であった。
この時、八郎殿が秀吉に一味して力を合わせた事で、秀吉は高松の城主に腹を斬らせ、その上で
巻き返して上京出来たのである。
この忠功により両者の関係は良く、秀吉は彼を聟に取った。しかし秀吉に娘はなかったので、
前田筑前守(利家)の息女を養子にして、八郎殿を聟に取った。
但しこの時分、八郎殿はまだ10歳ばかりであった。直家も当時まだ生きていたと言うが、瘡毒のため
人前に出ることも出来ず、八郎殿を国主分としていた。
そしてその下には、五万石、三万石といった大きな所領を有する家老たちがあり、彼らが談合して
高松の時も秀吉に味方する方針を決定したのだという。
八郎殿は太閤秀吉の聟と成り、また官位も上がり、宇喜多中納言殿と呼ばれた。
しかし治部少輔乱(関ヶ原の役)に至り、彼は治部方であったため、東照宮(家康)の勝利にて
この乱が終結すると、八丈島へと流された。そして今もまだ生きていると聞いている。
これは老人(江村専斎)が癸卯の年(1663)、九十九歳の時に語られた話である。
(老人雑話)
宇喜多秀家は1655年に亡くなっているので、その部分は正確ではないのですが、
当時の江戸でも「宇喜多中納言ってまだ生きてるらしいよ」「すげー」みたいな話題のネタに
なっていたのでしょうね。

318:人間七七四年
16/11/18 21:03:28.64 865MJPbR.net
>>317
どこのアーサー王だw

319:人間七七四年
16/11/18 21:06:53.08 Limq/1QQ.net
さっきまでやっていたヒストリアが「戦国一のワル」の回だった
このタイトルで松永や宇喜多じゃなく、最上義光回だったけど
目新しいネタはなかったな

320:人間七七四年
16/11/18 21:58:59.29 gql9sLLB.net
>>317
泳いで参った!の伝説もあったんだろうか

321:人間七七四年
16/11/18 23:33:46.68 Ad/x7wny.net
2ch発祥ネタじゃねえか

322:人間七七四年
16/11/19 00:10:42.32 QQzb0Sra.net
(慶長19年12月、大坂冬の陣の時、)14日卯辰刻より、また雨。晩から
風は激しく、寒さは甚だしかった。
藤堂和泉守(高虎)を敵も味方も憎んだのであろうか。色々な悪口をある時
は言い掛け、ある時は矢文を射ていた。件の矢文は他の陣に来たとしても、
藤堂の陣へとこれを送ったという。
(藤堂和泉守を敵味方惡之歟、色々の惡口を或時呼、或時矢文を射ける、
件矢文餘陣に来とも、藤堂陣に送之と云々)
―『当代記』

323:人間七七四年
16/11/19 04:38:09.49 EgHEZ3Hh.net
裏切りものだからかな?

324:人間七七四年
16/11/19 17:54:19.84 Qu1Fqqy3.net
>件の矢文は他の陣に来たとしても、藤堂の陣へとこれを送ったという。
ちょw

325:人間七七四年
16/11/19 18:22:16.97 yU1LQAy1.net
>>322
冬の陣の時で藤堂家の付近の陣だと伊達家と松平忠直かな

326:人間七七四年
16/11/20 00:16:12.28 u73Z9G9W.net
城地革変甲冑論

 林子(述斎)曰く、
城地はその時代により移り行くものなので、作り替えねばならぬ物であるという。
山城などは水地と違い地勢もかわらないが、その時の敵のある所で用不用がある。
例えば、照祖(家康)が三遠におわしました時は、
金谷駅の上にある諏訪原(牧野原とも言う)の城は真の要害であった。
これは甲州の押さえの為であった。
甲州が亡んだ後はこの城は用が無くなったので廃城となった。
世人はこのような訳も知らず、深い考えもなく、
「あの所の古城跡は天険の地なのに、なぜ廃したのか?」などと言い出すのは笑ってしまいそうだ。
 また慶長中、伏見の城を淀に移されたのは、その頃淀川の水道が今と違い、
城からの川の水位は低く、水車で城内へ水を汲み入れていた。
百余年を経て川床が高くなり、水車は景色ばかりとなって実用すること無くなり、
出水ごとに、淀城はいつも氾濫の患を被らないことはなかった。
これは河道の変化によるもので、城築の時の地勢によるものではない。
 古今の変化に通じなくて、城の利不利などを評する人が往々にしている。嘆くべきことだ。
その他に海を要害にした城だったが、今は海があせていつのまにか田となったものもある。
また、城門の前の間地も、後に間近くに家を建て列ねているものも多い。
これらは事に臨むときに身を滅ぼす元ととして成る程便利であろう、と林子は言われた。
西方への旅行の時、諸国の城地を目撃して意中に心得がたいことが多かったのだろう。
 そもそも城のみでなく、着具なども同じことである。
先祖の具足と貴び所蔵するのはいい。
それを自分も着るものだと思う輩がまた多い。
そもそも人に大小肥痩があるので、今に当たって自分が用いる乳縄(※胴の乳の辺りの寸尺)
で製作しなかったものは用に立たないものだ。
 私は若いときは痩せて、中年から肥えた。年少の時の乳縄は今とはかなり違う。
一人のものでさえこのようなのだ。
これらは分かりきっていることなのに心にも付かず、着具を作り変えることも知らないまま、
いたずらに月日を過ぎる武家は実に太平の余沢に豊かに過ごしているといえよう。
(甲子夜話)

こういう「当時と地形が全然違うだろ」って突っ込みが頭の中にあるから
あんまり古城めぐりには乗り気ではないんですよね

327:人間七七四年
16/11/20 09:56:03.54 sN07tgQU.net
郷里で再会した同窓生の嫁をみて、伴侶とした理由を聞くようなものですねw

328:人間七七四年
16/11/20 14:25:06.85 FttclQe/.net
>>326
クラウドファンディング「そんな貴殿にVR、当時の地形も再現致しますぞ」

329:人間七七四年
16/11/21 02:57:40.45 BF3y+tQK.net
この夏(慶長13年)、麦は豊年だった。ただし、関東の麦は凶年だった。
奥州南部に金があるということで、金掘りたちが、その山に佐渡国から下って来た。
初めは際限無く金が出たのだが、そのうちに出なくなった。
再び金堀りたちは松前に下った。松前の主(松前慶広)は、かの地は兵糧が乏しい
ため、それ以来「飢饉の兆しである」として、「(金掘りは)許容できない」としたという。
―『当代記』

330:人間七七四年
16/11/22 02:53:22.29 eiEjYzgS.net
この春(慶長13年)、小人島の者であるとして、京都にて
鼠戸を結び(見世物小屋)、代金を取って人に見せていた。
たとえば日本人であれば、5,6歳の童ほどの身長だった。
―『当代記』

331:人間七七四年
16/11/22 04:09:59.97 3KIFCoH1.net
近親相姦してたらおかしなのが生まれるよね
天皇家が最たるものだし

332:人間七七四年
16/11/23 08:51:29.00 RkWuuHXG.net
隆元と元春(1) 槌山攻めにて隆元激怒の事

天文20年(1551年)、陶隆房が大内義隆に謀反し大寧寺の変が勃発。安芸の国では陶の依頼を受けた毛利元就が義隆派の平賀隆保が籠る頭崎城を落とし、更に隆保が逃げ込んだ菅田氏の槌山城を息子の隆元と吉川元春率いる4000の軍に攻めさせた。
隆元は抜け駆け禁止令を出し、これを破る者は例え抜群の戦功を上げても厳罰に処すと固く命じた。
隆元麾下の吉田勢はこれを守り抜け駆けをする者は居なかったのだが、元春率いる新庄勢の若者達はこっそり抜け出すと敵城の切岸を登り矢戦を始めた。
敵も応じて矢を散々に射かけ、新庄勢は怪我人が続出して寄手はたちまち劣勢となる。
隆元は坂新五左衛門を元春の元へ遣わし、
「お前の兵が抜け駆け禁止令を破って戦を始めている。まったくどうしようもない。
残らず捕らえて首を刎ねよ」と殊の外に激怒した。
元春は新庄勢に「早く引き上げるように」と何度も下知したが、
新庄勢は敵と真っ向から取り結んでいるので、引き返しようがなかった。

333:人間七七四年
16/11/23 08:55:15.20 RkWuuHXG.net
この時、元春は陶から贈られた近江黒と言う馬に跨り矢戦を見物していたが、戦気に当てられたか、近江黒が逸るので二宮杢助(俊実)に近江黒の口を抑えさせていた。
元春は二宮杢助に「お前行って味方を引き上げさせて来い」と命じ、二宮は「かしこまりました」と、鑓を持った小者一人連れ駆け出して行くと、途中60ほどの兵と率いた味方の安国紀伊守とすれ違った。安国は
「これは二宮殿。我らも一競り合いしたく思って駆けつけましたが、
敵が猛勢で合戦を待ち望んで待ち受けておりますので、この少人数で不利な戦を仕掛け、
敵に利するよりはと、引き退いておりました。
二宮殿も小勢のようですな。早々にお引き取りください」と言った。
二宮はこれを聞いて、
「吉川の手の者は、敵が大勢であっても引き返すことはありません。
好機を見計らって一合戦してきます」
と言い捨てて味方のもとに駆けつけていった。
二宮は味方を引き上げさせることなど念頭にはなく、逆に
「皆よく狙って鑓の者の脇を射抜け。一合戦してやろう」と味方を勇気付けて、
後に続く勢を今か今かと待ち受けた。
すると藪の中から粟屋弥七郎がつっと走り出てきて、
「来たな杢助。私も先ほどから一競り合いしようと味方が続いてくるのを待っていたのだ。
よく来てくれた。嬉しいぞ。
さあ、勇気を出して心を合わせ、一合戦しよう」と言う。
二宮も「それがいい」と、真っ先に立って攻め上った。
そこへ抜け駆け禁止令を守っていた吉田勢から楢崎市允・波多野源兵衛尉・尾崎新五兵衛尉・赤川源左衛門・桂善左衛門・福原左京などがこっそりと駆けつけてきて、後に続いた。
忽ち乱戦となり、二宮・粟屋ら抜け駆け毛利勢は奮闘の末に傷付きながらも城方の菅田三郎左衛門を討死させる功を上げる。

なお、この矢戦では槌山城は落ちず、隆元の怒りは止まなかった。

334:人間七七四年
16/11/23 10:20:45.99 l4Jdq11w.net
お兄ちゃんの面子丸潰れ

335:人間七七四年
16/11/23 10:38:14.04 TQklu1C2.net
抜け駆けはギャンブルだからね〜成否が士気にかかわるのよ

336:人間七七四年
16/11/23 14:33:01.39 h9ZIC5Bw.net
受け流せればいいけど隆元のストレスが凄そうだ

337:人間七七四年
16/11/23 15:17:04.05 88DTlVBL.net
>>336
先にバラしておくと、この抜け駆け禁止令違反者の処分で意外なところから追い打ちが来る

338:人間七七四年
16/11/23 15:51:33.76 crbvyM3Z.net
てか、大内攻めじゃん
お兄ちゃんのストレスはそれだけでヤバイだろ

339:人間七七四年
16/11/23 15:56:49.00 4exxIwvo.net
ボスの鶴の一声でフィニッシュ

340:人間七七四年
16/11/23 19:41:46.65 88DTlVBL.net
>>338
ひょっとすると、隆元は無理攻めせずに降伏させて助命する気だったのかもね
入れ違いだけど平賀隆保はYSTK様の寵童仲間だし

341:人間七七四年
16/11/23 22:10:29.64 gNTnZHYo.net
またホモか…

342:人間七七四年
16/11/23 22:26:26.85 88DTlVBL.net
>>341
そりゃあもう、中国北九州界隈で義隆の元に人質でいた上に名前に隆の字貰ってる辺りの武将は大体…

343:人間七七四年
16/11/23 23:09:07.43 gNTnZHYo.net
大崎義隆 蘆名盛隆 「俺たちはセーフだな!」

344:人間七七四年
16/11/23 23:46:02.15 fRWdHM4A.net
そりゃそうだろとしか

345:人間七七四年
16/11/24 14:09:02.66 BJS/7tYa.net
隆元と元春(2) 抜け駆け禁止令違反者の処分の事
>>332-333の軍令違反者による合戦は毛利方に大勢の手負いを出したものの、二宮・粟屋らの奮戦により敵方も城主、菅田一族の者が討死するなど両軍とも進退極まり兵を収めた。
普段ならば隆元や元春が士卒の功を称し、負傷した者の元を訪れ涙ながらに傷を撫でてくれるのであるが、今回は固く定めた軍法を破ったが為、労いの使者すら送られてこなかった。
一方、元春は隆元の元へ宮庄次郎三郎元正を使者として遣わし、この度の軍令違反者についてこう述べさせた。
「今回、我が手の者どもが軍法を破り、一戦を遂げました。
これにより味方は九十六人も手負いが出て、
そのうちの綿貫兵庫助と申す者が討ち死にしました。
このくだらない合戦を仕掛け、味方に多数の負傷者を出したのは、
粟屋・二宮の責任が大きいので、即刻首を刎ねなければなりません。
しかし、一歩引いて愚案を巡らせるに今回は陶と一味して初の戦となります。陶にその証を立てる為にも一戦交えるのが良かったのではないでしょうか?
そのうえ、元就公のご出馬がなく、隆元公と元春の二人が出てきています。
若い隆元公に私のような者がお供して、大将を名乗って打って出ていますので、
一戦しないのもいかがかと思います。
ですから今回は、どうかお許し願えないでしょうか」と再三申し入れた。
しかし隆元は
「そのように聞くと、確かにそのとおりだと心を緩めたくもなる。
だが固く制定した軍法に背いたのだから、これからの諸卒への見せしめのためにも、許すことはできない」と返答した。
これもまた道理なので、元春もどうにもできず、その後は何も言わなかった。
また、隆元と元春は武永四郎兵衛尉を父元就の元へ遣わしこの日の戦を報告させた。
元就は武永と対面すると、「詳しく様子を報告してくれ」と言い、武永は粟屋・二宮の鑓働きの様子やそのほかの諸卒の働きを細々と語った。
元就はすっかり上機嫌になって「お前たちはその戦場には行かなかったのか」と尋ねると、
武永は「私も及ばずながらそこに駆けつけ、鑓の者の脇で弓を使って補佐していましたが、
軍法を破る行為でしたので、隆元様・元春様のご機嫌を損ねてしまいました」と答えた。
元就様は愉快そうに笑うと、「軍法を破ったことは不義の至りだが今回は陶に一味してから初めての出陣だ。
陶との同盟の証拠として一合戦しなければならないところだ。
その若者たちは、よくそこに気がついて一戦してくれた。
粟屋の怪我は深いのか。二宮はどうだ」などと詳しく尋ね聞き、
武永にも盃を与えて褒美を取らせた。
元春への返事にも「今回は陶に一味した証拠に、それらしい合戦をしなければならかなった。
そこに御手の衆が比類なき働きをしてくれたのは、
今に始まったことではないとはいえ神妙の至りである。
戦功の軽重をただし、勧賞を行ってやりなさい」と送った。
これで、昨日合戦をしでかした者たちも胸を撫で下ろしたということだ。
この時、総大将の隆元が何を思ったかは誰も知らない。

346:人間七七四年
16/11/24 14:14:06.21 8D69oZrn.net
自殺したくもなるね

347:人間七七四年
16/11/24 14:52:23.92 sw+eGJaZ.net
>>345
元春と元就の言い分が全く同じとか、お兄ちゃんの立つ瀬がねえw

348:人間七七四年
16/11/25 03:24:07.43 TdsZYUS0.net
(慶長13年12月)三河国足助山家代官・三宅辰介親子3人を生害なさった。
知行の年貢の使い込みがあったことにより、さる夏中から押し込めなさった
のだが、いまこのようなことになった。
嫡男は近年、大御所(徳川家康)の小姓をした近習であった。美男であり、
とりわけ心を選んで神妙な者であった。上下の輩とも、彼を惜しんだ。
―『当代記』

349:人間七七四年
16/11/25 08:13:50.14 MC95tTf0.net
寵童どもの争い

350:人間七七四年
16/11/25 20:57:09.54 r/GIlCri.net
山形市 最上義光歴史館
大崎夫人の五輪塔
URLリンク(mogamiyoshiaki.jp)
平成26年7月、神奈川県川崎市にお住まいの女性から一通の封書が届きました。
封書には巨大な五輪塔と地輪に刻まれた銘文の写真、そしてそれに係る様々な資料が同封されていました。
巨大な五輪塔の写真は山形県寒河江市の正覚寺にあるもので、最上義光の正室大崎夫人の供養墓という
伝承が広まっているものでした。
寒河江市史をはじめ、近年発刊された最上義光に係るさまざまな書籍にも、最上義光の正室大崎夫人の墓所が
寒河江市の正覚寺であるように紹介されています。
封書を出された方のお話では、ご先祖さまが慶安四年に「光誉明月」という女性の三十三回忌の供養のために
建立したものであるのに、いつのまにか大崎夫人の供養墓として語られ、大変迷惑している。ぜひ相談に乗って
もらいたいというものでした。
大崎夫人に関しては様々な伝承がありますが、いまのところ確かな記録がありません。菩提寺も墓所もわかりません。
もしかすると京都にあるのかもしれません。
大崎夫人の菩提寺=正覚寺…いつの時代にこのような伝承が生まれたのでしょう!?

351:人間七七四年
16/11/26 00:03:56.94 XVutE/OC.net
小倉侯数具足の由来
 当年(天保五年、1834年)二月の火災で、両国橋向こうの小倉侯の別荘で具足のいくつかが焚亡した。
この具足というのは、往年の福島氏が改易されたときかの家の物が散逸していたのを、
小倉侯の収めていたものだという。
よってその具足はみな福島の家紋があったという。
 福島は豊太閤の初めから神祖御成業のときまで、
剛勇武功の人で皆知るところである。
その遺物がこのように亡んだのは、誠に痛感に堪える。

(甲子夜話三篇)

なぜ小笠原さんが正則のものを?

352:人間七七四年
16/11/26 03:07:48.21 lmCyCJQF.net
水野勝成さんや松平忠輝さんはどうしてこんなに長生きが出来たのだろうか?
あの一族の血を引いているのに謎だ

353:人間七七四年
16/11/26 12:05:14.08 +pJkeQp5.net
引いてないんじゃないか?家康もな

354:人間七七四年
16/11/26 14:24:06.47 pplEoFOh.net
部落民は総じて長寿です。

355:人間七七四年
16/11/28 08:45:22.81 TtoGbpWs.net
文禄3年(1594)、豊臣秀吉は山城国伏見の指月に城の建設を進め、日を追うごとに石垣や天守が
造られていった。
すると秀吉は、伊勢から駿河までの城主は、聚楽の豊臣秀次に遣わし、その他の東国北国西国の大名たちは、
皆伏見に移った。このため家造りは夥しいものであった。
(慶長年中卜斎記)
指月伏見城建設の時点で、秀次は東海道だけの存在になっていたのですね。

356:人間七七四年
16/11/28 21:25:08.51 TtoGbpWs.net
豊臣秀吉が伏見指月の城に天守や御殿を夥しく建設した理由は、当時朝鮮よりの遣いが来るため
異国への外聞故であった。
朝鮮より明軍の遊撃将軍(沈惟敬)が来るとの情報が聞こえると、秀吉は彼に馬揃えを見物させよと
仰せ出し、このため諸大名は多勢の準備が必要となり、これら人数を置く場所を請い、それらは
草津、石山、大津、坂本などに置かれた。
徳川家康の用意した人数は五千。これらは鞍馬、八瀬、木船、嵯峨、西ノ岳その他の場所に分散して
置き、それらから一備づつ押し出し伏見へ乗り入れる計画であった。
秀吉は、遊撃将軍がこの馬揃えを見物する場所は大仏山門と定められた。そして馬には鎧を掛け、
馬面、馬上には大小の金の熨斗を着け、騎馬の者達も全員甲冑姿になるようにと命じた。
そして遊撃も来日し、馬揃えは閏7月18日と決定。諸大名には近日までに待機場所へ行くようにと
命令があった。
そのような中、閏7月12日夜半、大地震が起こった。
この時、大仏は黄金に鍍金してあったが、揺れに寄って破損した。
伏見天守も上の二重が崩落した。
御殿の棟木は飛び、破風の作り物の狐格子は落ちて中まで丸見えとなった。
諸大名屋敷の御成門も損壊し、大手の二階門も揺れ崩れ、一庵法印という番衆も死んだ。
徳川家康の屋敷の2階建ての長屋も崩れ、加賀爪隼人も死んだ。
伏見中で家長屋が潰れ、死者は数知れないほどであったが、歴々で死んだのは一庵と加賀爪の
二人だけだった。
地震によって御殿、天守、諸大名の屋敷などは崩損し、この事に豊臣秀吉は以ての外に立腹した。
伏見に入っていた遊撃将軍も、夜中に伏見を退去したという。仔細の有るべきことだが
どういう理由かは知らない。
(慶長年中卜斎記)

357:人間七七四年
16/11/29 18:57:27.86 69pTnGMp.net
>>356
中国では政治が乱れると災害が起きると言われてるが、まさにw

358:人間七七四年
16/11/29 19:23:34.64 OIDdaizr.net
連歌その心自然に顕るる事
 古い物語であろうか、または人の作り話であろうか、それは分からないが、
信長、秀吉と、恐れながら神君が御参会の時、
四月だというのにまだほととぎすの鳴き声を聞かないとのお話が出たので、
信長は 鳴ずんば殺して仕まへ時鳥 とあり
秀吉は 鳴ずとも鳴せて聞ふ時鳥  とあり
      なかぬから鳴時聞ふ時鳥  と詠まれたのは神君であったという。
 これらからその御徳によって感化される程に温順であられたり、
また残忍であったり度量が広かったりすることが自然とわかり、本性を顕している。 
 紹巴もその席にいて、
    鳴かぬなら鳴ぬのもよし郭公
と吟じたという。
(耳袋)

歴代の発句
 夜話のときある人が話したことである。
人が仮託して出た者であるが、その人の情実がよくあてはまっている。
郭公を贈ってきた人がいた。しかし鳴かなかったので、
なかぬなら殺してしまえ時鳥 織田右府
鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤
なかぬなら鳴まで待よ郭公 大権現様
このあとに二首が添えてある。
これは憚る所あるうえに、もとより仮託のことであるので作家は記していない。
なかぬなら鳥屋へやれよほととぎす
なかぬなら貰て置けよほととぎす
(甲子夜話)

有名な三句に続きがあるとは知らなかった
甲子夜話の匿名の二句は、戦国三傑と対比して
当時の大名の拝金さを揶揄したものか、不甲斐なさを嘆いたものか…

359:人間七七四年
16/11/29 19:24:59.91 S9zniyzk.net
鳴かぬなら それでいいじゃん ほととぎす 織田信成
織田信成のセンスは里村紹巴並であったか

360:人間七七四年
16/11/29 19:48:34.95 vDRc1Ucg.net
本田正信正純親子の逸話を読んでて思ってたんだけど、最近何かにつけて”具体的ny?”って返答する人が増えたように思うんだよね。
リアルだと会社の人とか家族ですら言ってくるし2chですらそうスレする人達がいる。色々ハッキリさせるのはいいけど疲れ世の中になってきたよね。

361:人間七七四年
16/11/29 22:57:47.33 0pORNuAA.net
興味ある話だからじゃないか?どうでもいいのは右から左だし

362:人間七七四年
16/11/30 09:20:13.85 ctmdEvuO.net
>>361
世間話くらいの事にまで”具体的ny”
と確証を求めてくる人達が居るんだよね。
興味があるって云うより討論術か何かだと思ってるフシがある。会社の人も俺の簡単な推論程度にまで”具体的ny”って聞いてくるからシンドいよ。信用出来ないなら無視しろよと言いたい。
ネットの時代だから確認は、まだ簡単な方だが昔は一々”具体的ny”なんて聞いてくる奴がいたらさぞかし忌避されただろうね。

363:人間七七四年
16/11/30 09:46:10.75 Buw+pmGC.net
ホトトギスがいつのまにかカッコウに...。

364:人間七七四年
16/11/30 10:22:43.71 2lrcE/C4.net
>>362
自分で調べることを忘れた奴らなんだろう。どうでもいいことなら適当な情報与えておけって。

365:人間七七四年
16/11/30 10:40:18.46 unEa3OAl.net
嫌儲板で鏃が話題になってたけど
何か鏃のちょっといい悪い話ありませんか?
イギリスのボドキン
URLリンク(fknews-2ch.net)
日本の鏃
URLリンク(kattyan.dyndns.org)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)

366:人間七七四年
16/11/30 10:44:40.18 3XLWPfr6.net
鳴け聞こう我が領分のホトトギス 加藤清正
なんてのもあったな

367:人間七七四年
16/11/30 10:53:52.03 RfqGlZIR.net
>>365
信玄の鏃

368:人間七七四年
16/11/30 11:34:17.01 x3WwMIBf.net
>>362
逸話を紹介できても意味が分かってないから説明に困るんでしょw
お前が上司じゃなくて本当に良かったよ。相談しても頼りにならないみたいだしなw

369:人間七七四年
16/11/30 14:19:54.78 tdjKy2vi.net
>>368
正純乙

370:人間七七四年
16/11/30 14:48:46.68 dEO+eURb.net
>>365
日本の鏃の真ん中の画像、上から4番目〜7番目のような
返しのある鏃を腸繰(わたくり)型と呼ぶ。
抜くときにハラワタが引っかかってえぐれるから。

371:人間七七四年
16/11/30 22:18:33.80 unEa3OAl.net
>>370
なにそれ恐ろしい
形ってただの飾りではなくて意味があるのか

372:人間七七四年
16/11/30 22:41:32.80 RfqGlZIR.net
信玄はさらに鏃を弛くして抜くときに体内に残るようにしていたと言われてる

373:人間七七四年
16/11/30 23:06:42.86 JUi9u7yG.net
>>369
無能乙

374:人間七七四年
16/11/30 23:15:10.70 uiJMe/8Y.net
武田の緩めた鏃って、そんなもの使っちゃいけないと咎めた神君称揚の逸話だと思われていたのが、
武田の古戦場後から本当に鏃が体に残った遺体が発見されて、どうも武田はガチでああいう事やってたらしいって
今はなっているな

375:人間七七四年
16/11/30 23:32:49.95 2Pwp47rE.net
武田を称揚する話はないのか
信廉あたりの逸話で

376:人間七七四年
16/12/01 04:29:29.58 tN7pLp6l.net
信長は9月11日(元亀2年)、勢多の山岡玉林斎(景猶)の所に
止宿しなさった。
「明日、叡山を攻め崩すべし」との旨を言うので、佐久間右衛門
(信盛)並びに、夕庵入道(武井夕庵)が達て諫言に及んだ。
信長は曰く、「去年、汝らをもって懇意の言葉を尽くしたが、承諾
の無い以上は、力及ばず」と、理を尽くして言うため、
彼らの考えは及ばず、各々は未明に出発致した。
―『当代記』

377:人間七七四年
16/12/01 22:59:04.45 IyntWyyL.net
>>375
>武田を称揚する話はないのか
>信廉あたりの逸話で
これがホントの逍遙軒?

378:人間七七四年
16/12/02 02:41:54.64 eDwPX00e.net
この頃(慶長15年5月)、京都の町人で米屋の“りうせい”という者は、
大御所(徳川家康)のご命令によって、ノビスバン(メキシコ)に渡海し、
売買を思うがままにして帰国した。
猩々の皮を多く持って来たが、金銀は聞き及んでいたほどではなかった。
とはいえ、他の国や他の島よりは多かった。
しかし、「かさねての日本人の渡海は無用」との旨を、ノビスバンの者は、
かたく日本人へ示した。
―『当代記』

379:人間七七四年
16/12/02 19:13:10.64 vLLxwyfB.net
歌舞伎の「盛綱陣屋」という作品のあらすじ読んだら(歌舞伎なので登場人物の名前を含め、本来は鎌倉時代が舞台)
大坂の陣で真田信之の息子が真田大助を生け捕ったため、信之が大助を家康に見せると家康は大喜び。
そこへ後藤又兵衛が乗り込んできて「大助はまだ子供なのだから返せ!」と言ってきたため
信之は又兵衛をとりあえず家康のところに送る。
思案した信之は、このまま大助がこちらにいたのでは弟信繁の戦闘意欲がそがれる、いっそ切腹させようということに。
信之は信之・信繁の母親の山手殿を呼んできて、大助に切腹をすすめさせるが大助は泣いて切腹を嫌がる。
そこへ大坂城から信繁の妻が息子を思って兵に変装して駆けつけるが、その光景を見てあせる。
そうこうしているうちに信繁戦死の報告。家康は信繁の首を持ってきて信之に首実検をさせる。
心中悲嘆に暮れる信之だったが、首桶のなかの首はなんと偽首。
しかし次の瞬間、大助が「ととさまのところに行く!」と切腹。
実は後藤又兵衛も幸村の母親も、大助がちゃんと計略どおりに切腹するかの監視役だった。
信之も大助の心中を察し、家康に「まさしく弟・信繁の首です」と報告。家康もすっかり騙される。
信繁ってこんな計略を使う武将だと思われていたのか・・・

380:人間七七四年
16/12/02 19:21:35.57 vLLxwyfB.net
訂正
実は後藤又兵衛も幸村の母親も

実は後藤又兵衛も信繁の妻も

381:人間七七四年
16/12/03 01:54:55.08 6W60OM/7.net
同月13日(慶長19年9月)、囚人の原主水正(胤信)が駿府へ来着した。
天主教の宗門に傾倒し、その災いを恐れて去々年に逐電、東国に隠れて
いたのを、(徳川家康の)御下知によって捜索して搦め捕ったものである。
すなわち町司の彦坂九兵衛(光正)にお命じになり、主水正の額に火印を
当てて両手の指を切り、「この者を挙用する輩は曲事である」との旨の
胸札を掲げさせて、追却しなさった。
ところが、岡越前守貞綱が主水正を介抱したとの旨がお耳に入り、
御糾明になったところ、倅の平内が良友の好みにより、
領地に抱え置いたのだが、越前守は存じていないとの旨を陳謝したので、
同19日に平内は改易なされ、貞綱は無事であった。
また、駿府の耕雲寺に主水正が寄宿したのを訴え出た者がおり、住僧を
放逐なさった。
―『関難間記』

382:人間七七四年
16/12/04 07:02:14.27 sRqYOh7K.net
槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子
>>345の続き
毛利隆元率いる吉田勢と吉川元春率いる新庄勢は仕寄をつけ井楼を組み上げ間断なく城を攻め立てた。
城中はたまりかねて、平賀新四郎隆保・大林和泉守が切腹することで
諸卒の命に替わりたいと申し入れてきたので、それを許可した。
平賀はいよいよ自害するときになって、介錯の者に向かい、
「私が合図するまで打つな。もし合図よりも前に打ったならば、悪霊になって憑り殺してやるぞ。そのときになって私を恨むでない」
と介錯の者に言った。
隆保は刀を抜いて西へ向かい、八識田中に阿字の一刀を下し、
「生死又截、涅槃又截」と唱えて腹を十文字に掻き切ると、臓物をつかんで手繰り出し、何度も切り刻んで捨てたけれども、まったく弱る様子がない。
新四郎は槌山城主の菅田たちに向かって、
「腹を掻き破ったらもう死ぬしかない。どうすれば私は死なないでいられるだろう。
硯と料紙をくれ。最後に歌を詠もう」と言い、
すぐに硯と料紙が整えられた。
隆保は硯を引き寄せ筆を浸して、歌を一首詠んだそうだ。
筆の勢いや墨の乗り方は、平常のときとまったく変わらなかったという。
「昔の物語でならこのようなことを聞いたことがあるが、
今目の前でこのような勇士を目にするとは」と、人々は皆舌を巻いた。
その後、新四郎は「さあ、首を打て」と言ったので、介錯の者は首を打ち落とし、隆保は漸く果てた。
大林はこれを見届けた後、腹を一文字に掻き切り介錯を受け隆保に続いた。
槌山開城の後、尾和秀義ら大内義隆から派遣されていた者らは皆帰され、これを受け志和の米山城に籠る天野隆綱は元就に従い大内義長に属する事となった。

383:人間七七四年
16/12/05 02:37:06.96 7mzLMEnB.net
この頃(慶長13年9月)、駿府にて毎夜、人を切ること甚だしかった。
金が掛けられ、申し出るようにとの旨が下知されたけれども、未だに
その沙汰もなかった。
また、日々喧嘩があって、互いに死傷に及んだ。
―『当代記』

384:人間七七四年
16/12/06 16:38:17.05 wFpqOVTa.net
ある時、伊達稙宗は飯尾尾張という武士を、相馬家への使者として遣わした。
この飯尾というのは伊達家において武勇の名があり、燐郡に隠れ無き者であった。
しかし相馬に到着すると、当主の相馬盛胤は病に伏しており、このため飯尾は、盛胤の嫡子であり
稙宗の娘婿である相馬顕胤の御前に召された。
この時、顕胤は味噌を調える下屋にいたため、その場所にて飯尾と対面した。
相馬家の家臣たちがあえて飯尾をこの場所に通したのは、こう考えたためだった
『飯尾は伊達にて武勇の名を得たること、燐郡にまで隠れ無き名誉の者である。
であれば彼は、相馬の大将は未だ幼いが早くも弓箭の心懸けがあり、味噌等にまで御心を
付けておられる、と感心するであろう。合戦を心がけるには、味噌は第一の物だからであり、
丁度ここに居られたのは幸いである。』
そうして対面は無事終わり、飯尾は伊達に帰ると、稙宗にこう報告した
「殿は姫様をお捨てになられましたぞ!今度婿殿を見てまいりましたが、自身で味噌の奉行を
していました。あのような体では、相馬の大将としていかがかと思います。」
そう尽く悪口をして、顕胤を貶めたのである。
(茶話記異?改選集)


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